
チロル会音楽部~ロック青春記 第11話*中学三年、ロック少年受難の時代
1970年春。僕らは三年生になった。
末原君と鮫島君が同じクラス。確か二十組か二十一組だった。三階建て校舎の最上階。その最も東側に近い位置に教室があった。
一方の僕は、二階の最西端に近い十組。一学年あたりの生徒数が千人近かった城西中。ワンフロアにおよそ十クラスがずらりと並び、端から端までがえらく遠く感じられた。
三年生ともなると、一気に受験色が強くなる。僕が所属していた十組の担任は、社会科担当の、骨太でやや肉付きの良い四十代前半の男性。良く通る太い声の持ち主で、毎朝、乾布摩擦をし、真剣より重い木刀を振っているという絵に描いたような薩摩隼人で、高校受験に向けて空気を引き締めるために、
― 一の太刀を信じて二の太刀は無し。肉を切らせて骨を断つ ―
という薩摩示現流の極意を繰り返し口にしていた。
クラスには、難関ラ・サールを受験する者から就職志望者までと、様々な生徒がいたが、中には休み時間中ずっと本を開いている生徒もいた。そういった受験体制の一年間は、僕にはかなり息苦しく感じられていた。
十組では、好きな音楽の話も存分にはできなかった。当時心酔していたレッド・ツェッペリンのファンがいなかったし、クラプトンやベックの話も通じなかった。五月にビートルズのラスト・アルバム『レット・イット・ビー』が発表され、クラスの話題も、ほとんどそちらに集まっていた。エッジの効いたスーパーヘビーな音楽こそが先鋭的で魅力的なのだと一途に思い込んでいた僕は、一人でツェッペリン啓蒙活動を試みたが、状況に変化は見られず、クラスから一人浮きがちになっていた。
末原君と鮫島君がいたクラスには、他にも音楽の趣味が合う子が何人かいて、昼休みや放課後など、よくそこまで遠征して雑談に興じたものだ。
修学旅行から戻った翌日、担任の先生から全日程を総括しての感想が伝えられたが、その中で、
「他のクラスの生徒とばかり交流していた者もあった。もう少し自分のクラスメイトとも打ち解けるようにしてもらいたいものだがねぇ」
と、いかにも残念そうに語った姿が、今でも忘れられない。それに該当する生徒など、どう考えても一名しかいなかった。先生の目には、その一名の行動が、よほどズレて見えたようだ。
卒業してから四、五年後に開かれた同窓会のときも、かつてのクラスメイトの一人から、
「皆の中に飛び込んでこんところがあった」
と言われた。
だが、一人で閉じこもっていたわけではない。飛び込む先が自分のクラスじゃなかっただけだった。
自分のクラスにも居心地の悪さを感じていたが、家庭の中は、それ以上だった。高校教師だった父には、息子の気持ちが理解できなかったようで、いつも不機嫌そうな顔をしていた。受験勉強そっちのけで、不良が好むような音楽をピアノでガンガン弾きまくる長男に苛立ちを隠そうともせず、僕は僕でそんな父を疎ましく感じていた。親子間に緊張が漂い、言葉を交わすこともためらわれた。
そんな僕にとって、末原くんや鮫島君との語らいは、心が開放され、自分が最も自分らしくしていられる時だった。
よく話題に上がったのが、若者向けの情報番組『ヤング720』だった。お目当ては、たまに紹介される海外のミュージシャンの姿や、毎朝一組が出演する、国内バンドのスタジオ・ライヴ。前年の69年、アメリカで開催された『ウッドストック音楽祭』の映画も、この番組でその一部が紹介され、大いに想像を掻き立てられた。
朝七時二十分からの放送だったため、登校前に、遅刻ぎりぎりの時間まで見てから玄関を飛び出し、汗だくで学校に着くという毎日だった。
ある土曜日の放課後、いつものように、そういった話がしたくて、彼らのいる教室に入って行った。タイミング良く、そこには、末原君の姿があったが、どうもいつもと様子が違う。二、三のクラスメイト相手に、末原君が苛立った顔で何かを話していた。
末原君や鮫島君にしても、僕と同じようなストレスを抱えていた。進路指導のための個別面談など最悪だった。特に、自分の部屋を練習場にしていた末原君など、担任の先生にもその情報が入っていたようで、「受験前にエレキギターにうつつを抜かしている困った生徒」として、不良扱いされていた。人一倍のプライドを持って、ギターに取り組んでいた末原君にとって、「バンドなど不良がやるものだ」というレッテル貼りは、耐え難いことだった。
途中で入って来た僕には、事の詳細までは解らなかったが、どうやらクラス担任から、耐え難いほどの侮辱の言葉を浴びせかけられたようだった。周りにいた数名が、耳を傾けしきりに肯いている。それでもどうにも気持ちが収まらない末原君。怒りに燃えた眼差しで宙を見据えたまま、突然立ち上がり、廊下に向かって歩き出した。ただならぬ様子に、危うさを感じた女生徒の一人が、声をあげて止めにかかったが、止めることはできなかった。
末原君は、着ていた上着を脱ぎ、その端を両手でつかんで振り回し、窓ガラスに思い切りぶち当てた。
破壊音とともに、ガラスが砕け散った。
階下から、バタバタと大きな足音が近づいてきた。異変を察知した生活指導の先生だった。
** **
生来穏やかで優しい性格の彼からは、なかなか想像し難いエピソードであるが、そこに生じていた軋轢がいかに大きかったかを物語っている。
その頃の日本は、ロックをビジネスとして支える土壌が成熟していなかった。しかも、中央から遠く離れた鹿児島で、学校教育という場にどっぷりと浸かった大人たちにとって、ロックで食べてゆくと言うこと自体が、絵空事でしかなかった。
そんな中で、僕らはよくこんな言葉を口にした。
「貧乏しても、好きなことを続けたいよね」
末原君が、しっかりとこちらを見据えて、そう言ったときの声と表情が、今でもありありと思い浮かぶ。
それと同時に、夢と野望と新緑の青さとが溶け合ったような甘酸っぱさが、今でも胸をくすぐる。