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【美術展2026#21】ソル・ルウィット オープン・ストラクチャー@東京都現代美術館

    mata

    会期:2025年12月25日(木)〜2026年4月2日(木)

    ソル・ルウィットは1960年代後半、目に見える作品そのものよりも、作品を支えるアイデアやそれが生み出されるプロセスを重視する試みによって、芸術のあり方を大きく転換しました。ルウィットの指示をもとに、ほかの人の手で壁に描かれるウォール・ドローイング、構造の連続的な変化を明らかにする立体作品など、その仕事は「芸術とは何でありうるか」という問いを投げかけています。本展では、ウォール・ドローイング、立体・平面作品、アーティスト・ブックといった代表作の数々を通して、既存の枠組みや仕組みに再考を促し、別の構造への可能性を開こうとしてきたルウィットの思考の軌跡をたどります。

    東京都現代美術館


    東京国立近代美術館に行く度に、壁に描かれたこの作品は目にしてきたが↓

    一堂に会したソル・ルウィット作品を個展として見るのは初めてだったので今回の東京都現代美術館での展覧会を楽しみにしていた。


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    フォントがかわいい


    奥を遮るように立ちはだかる壁。

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    ただのパーテーションかと思いきや、近寄ってみると無数の線が引かれている。

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    キャプションには指示文が書かれている。
    「非直線」の時点で純粋な「垂直線」ではなくなると思うのだが、「最大密度」や「均一」といった指示も曖昧で、現場監督や描画者が指示文を読み解いて判断する余白が残されている。


    《ウォール・ドローイング #46》の裏面にも作品が描かれている。

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    「約4インチ」を「ランダム」に描くということでこちらも意外と自由度は高い。

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    ただし作業は大変そうだ


    こちらの巨大な壁面には今展のキービジュアルに用いられている図形が描かれている。

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    指示文を読むと円の直径は200cmと定められている。
    つまり大前提としてこの作品《ウォール・ドローイング #283》は最低でも高さ2m&幅2m以上の壁面でなければ描くことはできない。

    まず、壁面の形状や大きさによって円の位置が決まる。
    次に赤線が指示文のポイントから壁の右上角へ向かう。
    そして黄線の起点が定まり、最後に黄線が引かれる。

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    なるほど

    これが幅2m50cmくらいの縦長の壁面に描かれる場合はこうなる↓

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    壁面の色の指示はないのでこんなパターンもありうるのだろうか?↓

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    色付きの壁面上に描かれるパターン

    線の太さや彩度の指示もないのでこんなパターンもありうるのだろうか?↓

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    彩度の低い極太線で描かれるパターン


    表に出ている指示文には線の具体的な太さや色の彩度などは数値として厳密には指定されていない。
    だが、通常は使用する道具の物理的な特性に委ねられるようだ。
    (標準的なクレヨンやペン先の太さ、テープの幅、等)

    そして実際は現場監督や描画者たちで「ルウィットの哲学」を読み解き、指示文の意図を判断するため、結果的に明らかにルウィットらしくないパターンは採用されないようだ。
    そのため現場監督や描画者が変わっても同じ指示文であれば「ルウィットの哲学」を大幅に逸脱することはないのだろうが、それでも時代や場所やタイミングによっては多少のブレが生じ、全く同じものにはならないはず。
    その思考のやり取りのプロセス、そこで生じる揺らぎや余白、それに対する寛容性などが作品に奥行きを持たせ、結果揺るぎないアートとして成立させているのだろう。


    この作品は私の思い描いてきたルウィットのイメージに一番近い。
    昔のUTでこんなデザインのTシャツがあったのでその印象が強いか。

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    《ウォール・ドローイング #312》
    黒い壁上の二部作のドローイング
    第一部 正方形、円、三角形が重なる(輪郭線)
    第二部 長方形、台形、平行四辺形が重なる(輪郭線)
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    白いクレヨンで描かれている

    こちらも単なる機械的なペイントではなく、描く場に応じて第三者がその都度指示文を解釈しながら手で描いているというアナログな余白部分があるからこそ、今でも強度を保ちながら作品として成立しているのだと思う。
    これがルウィットが描いたものだけしか作品として認められなかったり、シルクスクリーンなどでプリントするタイプの作品だったりしたら今まで美術史に残ってこなかったかもしれない。


    ルウィット作品は、例えるなら「音楽」。
    楽譜もそれ自体はただの紙とインクの指示文だが、指揮者や演奏者たちが「作曲者の哲学」を読み解き、楽譜の意図を判断して演奏する。
    時代や流行や場所や指揮者や演奏者によってアレンジが変わったりはするが、楽曲としての本質は変わらない。
    コンサート会場で生演奏を聴くとき、その揺らぎや余白があるからこそ私たちはより深く音楽に感動するのではないだろうか。
    一方、いつも同じ音を発するだけの録音されたCD音源を同じコンサート会場で聴いたとて、それはスピーカーが発する大きな音を聴いているだけで、(それなりの感動はあるかもしれないが)生演奏の臨場感や没入感には遠く及ばないだろう。


    平面作品だけでなく立体作品もある。

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    《ストラクチャー(正方形として1、2、3、4、5)》
    1978-80
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    個人的には平面作品の方が好きだ。
    平面作品は絶妙なバランスでコンセプチュアル的要素とアナログ的要素が絡み合っており、特にウォール・ドローイングは指示文こそ機械的だが、実際に壁に描かれると壁面のテクスチャーや描画者の手仕事の痕跡、空間の光などによって独特の美や没入感が生まれるように思う。

    一方、立体作品になると(言わんとすることはもちろんわかるのだが)造形的要素が強すぎるように感じた。
    立体作品は一度作られると強固な「物」として場に居座ってしまい、物理的な量感や影などがノイズのように作品の本質を遮っているようにも思える。
    展示が終われば消されてしまうウォール・ドローイングの儚さに比べて、立体作品は「物」としての工業製品的な存在感が強すぎるのだ。

    先ほどの例えを引用すれば、立体作品は録音されたCD音源を聞いているような感覚。
    どこで聞いても同じ音、どこに置いても同じ物。
    生きた思考のプロセスにこそルウィット作品の本質があると思うのだが、形作られた立体作品はパッケージ化されてしまった結果としての思考を見せられているだけのようにも感じる。


    この作品も実に工業製品的存在感を放っていて、何ならただの椅子のようにも見える。

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    とか思って隣に貼ってあるキャプションを見るのだが、やはりどうも作品と指示文が噛み合わない。

    念の為係員に聞いてみる。
    「あの〜、…つかぬことをお伺いしますが、これって作品ではないのでしょうか?」
    「あ、それ椅子です」

    椅子かよ!


    すぐ脇にこれみよがしにこんな看板立てて作品感出してやがるくせに椅子かよ!

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    作品感出してやがる看板

    くそう、東現美め、確信犯的にそれっぽいのを置きやがって。


    そんならこれだって椅子かよ(そんなわけはない)

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    《シリアル・プロジェクト #1(ABCD)》
    1983

    我が家では娘がマインクラフトにどハマりしているが、私にはシムシティのようにも見える。

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    もちろんしばらく観察すれば自ずとルールは見えてくる。
    だが、ルールを発見した喜びはあるものの、それは答え合わせ的な事務的作業をこなしただけで、そこに美的な感動があるわけではない。
    やはりウォール・ドローイングが孕んでいた揺らぎや余白が極端に少なく、録音されたCD音源を聞かされているだけの感覚が否めなかった。


    後半には色鮮やかな作品も現れる。

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    《ウォール・ドローイング #770》
    カラー・インク・ウォッシュを塗り重ねた非対称のピラミッド

    1980年代以降、視覚的な要素が大きく変化して今までなかった形や色が際立つようになるが、私には「流行りのアレンジを加えた安っぽいポピュラー音楽」のように見えてしまった。
    出来上がった表面的な華やかさのみが目立ってしまい、指示文とそれに対する思考のプロセスが見えずらい。
    結果、「無伴奏チェロ組曲」のような初期の鉛筆の線のみのシンプルでストイックな強さが消されて、「読み解いて演奏する」という知的な思考のやり取りのプロセスが、安っぽい流行りの音の濁流に飲み込まれてしまった…そんな感覚。


    一方、ところどころにかけられている版画作品は「作曲者本人が即興で奏でる小粋なメロディ」のようにも感じられ、そのライブ感や軽い雰囲気が心地よかった。

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    一枚欲しい
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    サインが入っているのもよい


    最後の部屋には文献や写真などの貴重な資料が並ぶ。
    参考資料としてルウィットが写した膨大な写真群の中には日常の中での美や発見などが綴られており、その中には浮世絵を写したものなどもあったりして非常に興味深いのだが、この部屋では写真撮影できないのが残念。

    資料の中で興味を持った部分を書き写す。

    コンセプチュアル・アートは数学や哲学、その他の学問分野とほとんど関係がない。アーティストの多くが用いる数学は、単純な算術や数の体系でしかない。作品の哲学は作品そのものに宿り、特定の哲学体系を図解するものでない。
    作品を見ることによってアーティストのコンセプトが理解されるかどうかは大した問題ではない。作品がアーティストの手を離れた時点で、見る者がそれをどう知覚するかはアーティストの手の届くところではない。同じものを見たとしても理解の仕方は人によって異なる。

    「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」(1967)より

    ルウィット本人がそう言っているのなら、私の勝手な解釈もまた一つの答えなのだろう。


    こんなのもあった。

    近頃、ミニマルアートについて書かれることが増えてきたが、そう自認する者をまだ見つけれられていない。プライマリー・ストラクチャー、リダクティヴ・アート、…(中略)
    ミニ(ミニマル)・アートがいちばんいいのは、ミニ・スカートや脚の長い娘たちを連想させるからだ。ごく小さな作品のことなのかもしれない。これはいいアイデアだ。「ミニ・アート」の展覧会はマッチ箱に詰めて全国を巡回できるだろう。ミニ・アーティストとは身長5フィート以下の小柄な人物のことなのかもしれない。そうすると小学校で傑作が見つかるだろう(プライマリー・スクールのプライマリー・ストラクチャーというわけだ)。

    「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」(1967)より

    今ならセクハラ、ルッキズム、オヤジギャグと炎上必至のトリプルコンボ。


    今までは、コンセプチュアル・アートの祖とか言ってお高く気取っていた印象のソル・ルウィットだったが、この場末の飲み屋で酔っ払ってるおっさんのようなしょ〜もない文章を読んで、なんだかちょっと親しみを感じてしまった。



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