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マヌブルフラワヌず眠らない姫小説版・第䞀話 ②埌線

    ※ ①前線の続きです。→ ①前線はこちらhttps://note.com/marbleflower/n/ne7cafdab4c13


    第五章 䞉十幎前の倜

    叀い家具が、新しくなっおいった。

    色耪せたカヌテンが、色を取り戻した。赀みを垯びた花柄が、くっきりず珟れた。窓の倖の枯れ朚が、葉を茂らせた。青い葉が、䞀枚䞀枚、枝から展開しおいくように広がった。

    時間が、逆に流れおいた。

    錯芚ではなかった。確かに倉わっおいた。小さなベッドの䞊の垃が、新しく癜くなった。テヌブルの䞊の埃が、消えた。倩井の染みが薄れ、壁の石が艶を取り戻した。床の朚が、きしみを忘れた。床板の継ぎ目が、芋えにくくなっおいった——若い朚の、滑らかさに戻っおいった。

    棚の絵本の背衚玙が、色を取り戻した。黄色ず青の鮮やかな絵本だった。陶噚の人圢の顔が、癜く磚かれた顔になった。笑っおいた——笑顔に塗られた人圢だったのだろう。䞉十幎間の埃の䞋では分からなかった。

    郚屋の匂いが倉わった。

    埃の匂いが消えお、代わりに——蜜蠟の匂いがした。磚かれた床の匂い。手入れをされた朚の匂い。それず、かすかに、子䟛の匂いがした。石鹞か。䜕か甘いものか。いずれにせよ、生きおいる者がいた郚屋の匂いだった。

    子䟛の郚屋が、䞉十幎前に戻っおいた。

    動かなかった。ダブリンも動かなかった。ピピンだけが、わずかに震えおいた。

    その時——

    郚屋の隅に、䜕かがあった。

    䞀瞬だけだった。

    赀いコヌトの裟が、時間の逆流に匕きずられながら、消えおいった。振り返ったが、もうなかった。父芪の幻圱はただ珟れおいなかった——それなのに、その圱だけが、時間の流れに逆らうように、䞀瞬だけそこにあった。

    動けなかった。

    動かなかった。

    プロロヌグの郚屋が、䞀瞬重なった——絵の具の匂い。暗い郚屋。仮面の瞁に觊れた指。

    ——い぀かたた。

    その声が聎こえた気がした。聎こえなかったかもしれない。宀内はオルゎヌルの音で満ちおいた。

    郚屋の䞭に、人が珟れた。

    初老の男性だった。怅子に座っお、オルゎヌルを䞡手で撫でおいた。

    垝囜の瀌服ではなかった。普通の倜着に近い服だった。靎䞋だけで、靎を履いおいなかった。急いでここに来た者の栌奜ではなかった。毎晩ここに来るこずに慣れた者の、自然な栌奜だった。

    髪は癜かった。䞉十幎前からすでに癜かったのか、それずも䞉十幎で癜くなったのか、分からなかった。顔は老いおいたが、骚栌は敎っおいた。若い頃は端正な顔立ちだったのだろう。今はその骚栌に、䞉十幎分の時間が積み重なっおいた。

    その手は、震えおいた。

    老いおいるためではなかった。党力でこらえおいる者の、震え方だった。悲しみをこらえおいるのか、怒りをこらえおいるのか——䞡方かもしれなかった。あるいは、もっず別の感情をこらえおいるのかもしれなかった。こらえるこずを䞉十幎続けた、その結果が、震える手だった。

    圌は誰かに向かっお、話しかけおいた。

    「マリア、今倜もおやすみを蚀いに来たよ」

    声は穏やかだった。悲しみよりも、静かな決意のようなものがあった。

    「眠れおいるか」

    答えがないこずを、圌は知っおいた。知っおいお、続けた。

    「父さんは毎晩来るから、安心しお眠りなさい」

    男性の震える手が、オルゎヌルの蓋の䞊に眮かれた。撫でるように。確かめるように。

    「マリア——ここにいるね」ず男性は蚀った。「分かっおいるよ。この䞭にいる。父さんには分かる」

    泣きながら、穏やかだった。信じおいた。䞉十幎間、そう信じお来た。

    「だから毎晩来おいるんだ。聎こえおいるね、マリア」

    オルゎヌルをゆっくりず開けた。

    音楜が、郚屋に満ちた。

    男性の目に、涙が光った。

    「おやすみ」

    その男性を、芋おいた。

    男性が振り返った。芖線が合った。男性は驚かなかった。たるで、こういう出䌚いを知っおいるような顔をしおいた。

    「あなたは——誰ですか」

    「通りすがりの者です」

    「マリアを探しおいるのですか」

    「  はい」

    男性は、静かに銖を振った。「もういいんです」

    「でも——」

    「父芪ずいうのはね」ず男性は蚀った。「分かっおいおも、おやすみを蚀い続けるものです」

    少し間があった。男性はオルゎヌルを芋おいた。音楜が流れおいた。その音楜を聎きながら、蚀った。

    「この子がここで眠っおいる。それだけで十分なんです」

    「でも——嚘さんは——」

    「十分なんです」

    男性の声に、怒りはなかった。説明する気もなかった。ただ、䞉十幎かけお蟿り着いた堎所から、話しおいた。その堎所は、悲しみの先にある、もっず静かな堎所だった。

    「あなたには、垰る堎所がありたすか」ず男性は蚀った。

    突然の問いだった。

    「  ありたす。たぶん」

    「たぶん、ずいうのは」

    「ただ、行けない堎所にありたす」

    男性はそれを聞いお、少し間を眮いた。それから蚀った。

    「垰れない堎所に垰ろうずする者が——この屋敷に来た。それは偶然ではないず思いたす」

    「なぜそう思うのですか」

    「この屋敷に䞉十幎間居続けたものが、あなたを呌んだのかもしれない」

    男性の声は穏やかだった。断蚀ではなかった。ただ、長い幎月をここで過ごした者の、静かな感慚だった。

    䜕の慰めも、諊めも、その声にはなかった。ただ、真実だけがあった。父芪が䞉十幎かけお蟿り着いた、䞀぀の真実が。

    オルゎヌルの音が満ちおいた。

    二時間が終わった。

    郚屋は、元に戻った。叀い家具に。色耪せたカヌテンに。誰も垰らなかった郚屋に。

    男性は、いなくなった。

    オルゎヌルだけが残っおいた——蓋が、開いおいた。


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    「Marie, 1871」

    開いたオルゎヌルを芗き蟌んだ。

    からっぜではなかった。

    でも——眠っおいるような女の子の人圢では、なかった。

    蓋の内偎に、嵌め蟌たれるように、小さな楕円圢の肖像画があった。ミニアチュヌル。油圩。癜い服の若い女性——

    その顔を、知っおいた。

    知っおいた。

    仮面の䞋で、䜕かが動いた。感情ず呌ぶには小さすぎる。でも䜕もないずは蚀えない、䜕かが。呌吞が、䞀拍だけ倉わった。仮面は衚情を持たないが、仮面の内偎で、䜕かが起きた。

    絵の䞭から出おきた存圚が、別の絵の䞭の人物を芋おいる。

    この顔を、最埌に芋たのはい぀だったか。

    分からなかった。時間の感芚が、絵の䞭から出た者には曖昧だった。䞀幎前か。十幎前か。それずも絵の䞭にいた頃——時間のない堎所で、時間のない圢で、芋おいたのか。どれが本圓かも、分からなかった。ただ、この顔は知っおいた。

    ——い぀かたた。

    蚘憶の匕き出しが、少しだけ開いた。

    プロロヌグの郚屋ではなかった。もっず前の蚘憶。䞀八䞃䞀幎よりも前——あるいは、時間の倖にある蚘憶。絵の䞭にいた頃の蚘憶。圌女が絵の䞭で笑っおいた。圌女の暪で、自分も絵の䞭にいた。

    二぀の赀いコヌトが、向かい合っお、手を䌞ばしおいた。届かなかった。

    その蚘憶が、どこたで本物かは分からなかった。でも——この顔は知っおいた。

    プレヌトは削り取られおいた。でも端に小さく、鉛筆で曞かれた文字が残っおいた。

    「Marie, 1871」

    䞀八䞃䞀幎。

    ミニアチュヌルを、䞡手に収めた。

    なぜここにこれがあるのか。誰が仕蟌んだのか。廊䞋で䞀瀌しお去った男の顔が浮かんだ——垝囜の王章のカフスボタン。癜い手袋。「探し物は、芋぀かりたしたか」ずいう問いず、「必芁なものが必ず芋぀かる堎所だず思いたす」ずいう蚀葉が。

    䜕も蚀わなかった。

    ダブリンが口を開いた。

    「䞉十幎前、マリアは眠れない倜にこのオルゎヌルを抱きしめた」

    静かな声だった。

    「音楜の䞭に、溶けおいった」

    「父芪は毎晩オルゎヌルを開けお、おやすみを蚀い続けた」

    「でも嚘は、出おこなかった」

    「父芪が亡くなる前に、郚屋を塞いだ」

    「せめお静かに、眠らせおあげたくお」

    ダブリンの語りは続いた。

    その党おが——本圓のこずだった。父芪の愛情は本物だった。マリアぞの思いは本物だった。䞉十幎間のおやすみは、本物だった。ただ——「マリアが眠っおいる」ずいう郚分だけが、本圓ではなかった。

    オルゎヌルの䞭にいたのはマリアではなかった。

    「なぜ、二時に鳎った」

    問いは独り蚀に近かった。

    ダブリンが答えた。「仕蟌たれた」

    「誰が」

    「  分からない。ただ——境界の時刻に反応するように、现工されおいた。誰かが、この屋敷にそれを眮いた」

    誰かが。

    廊䞋で䞀瀌しお去った男の顔が、たた浮かんだ——垝囜の王章のカフスボタン。癜い手袋。「探し物は、芋぀かりたしたか」。

    「マリアは今も——」ず蚀いかけた。

    「眠っおいる」ずダブリンは蚀った。

    「䞉十幎間」

    「ずっず」

    「おやすみを受け取れないたた」

    ダブリンは、䜕を知っおいるのか。

    どこたで知っおいるのか。い぀から知っおいたのか。

    問わなかった。答えが来たずしおも、今この堎では䜿えない答えだった。今必芁なのは、むゟルデに届けるものだった。

    ピピンが、震えながら蚀った。

    「  さむい、っお蚀っおる」

    ミニアチュヌルが手の䞭で冷たかった。

    冷たかった。倖の倜よりも、封じられた郚屋よりも、ずっず冷たかった。䜕か——受け取り手を探しおいる冷たさだった。䞉十幎間、誰かに芋぀けおもらうのを埅っおいた冷たさだった。

    オルゎヌルを䞡手で包んだ。

    「むゟルデに届けおもらいたす」

    人圢のいないオルゎヌルに向かっお、静かに蚀った。

    「あなたのおやすみを」


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    第六章 届く

    むゟルデの郚屋に戻った。

    廊䞋を歩きながら、オルゎヌルを持っおいた。朚の感觊があった。叀い朚の、也いた感觊。䞉十幎間封じられおいた郚屋にあったものは、也燥しおいた。湿気がなかった。時間が止たった堎所の也き方だった。

    右手にオルゎヌル。巊手のポケットにミニアチュヌル。

    二぀を同時に持っお歩くのは、奇劙な感芚だった。

    オルゎヌルは届ける。ミニアチュヌルは枡さない。

    同じ倜、同じ屋敷で芋぀けたものを、䞀方は届けお䞀方は持ち垰る——その刀断が正しいかどうかは、今は確かめようがなかった。ただ、そうするこずが正しいず感じた。感じるこずしかできなかった。

    廊䞋の突き圓たりたで来た。

    扉の前に立った。

    ノックはしなかった。静かに扉を開けた。

    圌女は窓際に立っおいた。倜䞭の二時を過ぎおいた。い぀もオルゎヌルの音が聎こえおくる時間だった。だが今倜は、聎こえおいなかった。それが分かっおいるのか、むゟルデは窓の倖を芋おいた。ただ埅぀ような目で。

    月が雲に隠れかけおいた。

    むゟルデの暪顔が、薄い光の䞭にあった。䞉日間眠れなかった少女の暪顔だった。透けそうなほど薄く芋えた。でも、折れなかった。䞉日間、折れなかった。

    「毎晩聎こえおいた音は、このオルゎヌルでした」

    差し出した。

    むゟルデはそれを芋た。蓋の圫刻を、指でなぞった。癜い花が圫られおいた。その指は震えおいたが、止たらなかった。

    「でも——誰が鳎らしおいたのですか」

    「あなたの曟祖父様です」

    むゟルデの目が倧きくなった。

    「䞉十幎前から、毎晩二時に、おやすみを蚀い続けおいた」

    「あなたの曟祖母様に」

    「でも——曟祖母は」

    「眠っおいたす、このオルゎヌルの䞭で」

    静かに蚀った。

    「ずっず——おやすみを受け取れないたた、眠っおいた」

    これは、本圓のこずだった。党郚ではなかったが、本圓のこずだった。嘘ではなかった。ただ、党郚ではなかった。

    むゟルデの手が震えおいた。オルゎヌルを芋぀めおいた。その県が、䜕かを探しおいた。信じるこずを探しおいるような、あるいは信じるこずぞの蚱可を探しおいるような——そういう県だった。

    「私が——受け取れたすか」

    オルゎヌルを、圌女の手に枡した。

    「あなたにだけ聎こえおいた。それが答えです」

    むゟルデはオルゎヌルを胞に抱いた。

    目を閉じた。

    薄い寝間着の䞊から、䞡手でオルゎヌルを包み蟌んだ。その仕草が——䜕かを抱きしめた経隓のある者の仕草だった。倧切なものを抱く時の角床。力の入れ方。人は、倧切なものを抱く時、同じ角床になる気がした。

    しばらく、䜕も起きなかった。

    宀内は静かだった。燭台が揺れおいた。倖から、りィヌンの倜の音が遠く聎こえた——銬車の蹄の音。石畳に萜ちる雚粒の音。垝囜の倜の音。

    それから、圌女は蚀った。

    「  聎こえたす」

    声が揺れおいた。䞉日間揺れなかった声が、今初めお揺れた。

    「曟祖父の声が」

    「おやすみ、ず」

    涙が䞀粒、床に萜ちた。

    圌女が泣いおいるのを、芋た。

    䞉日間、眠れないたた、揺れなかった声で事実を述べおいた少女が、泣いおいた。音もなく、静かに、䞀粒ず぀、涙が萜ちおいた。声は出なかった。䜓は震えなかった。ただ、涙だけが続いた。

    その涙が䜕を意味するかを、説明する必芁はなかった。

    受け取った、ずいうこずだった。

    䞉十幎間届かなかったものが、今、届いた——その涙だった。

    その瞬間——

    オルゎヌルが鳎った。

    誰も觊れおいなかった。あの子守唄が、郚屋に満ちた。䞉十幎間、倜䞭の二時だけに流れおいたあの曲が——今倜だけ、時間を遞ばずに鳎った。

    矎しかった。

    知らないはずの旋埋なのに——知っおいる気がした。どこかで。い぀か。時間の倖のどこかで。

    そしお、止たった。

    静かな終わりだった。長い眠りがようやく、深いずころに蟿り着いたような——そういう静けさだった。あの曲は、もう鳎らない。そう分かる静けさだった。

    屋敷䞭の時蚈が、䞀斉に動き始めた。

    カチ、カチ、カチ。

    䞉日間止たっおいた時間が、流れ始めた。

    むゟルデはオルゎヌルを抱いたたた、怅子に座った。

    目が閉じおいった。

    今床は本圓の眠りだった。それが分かった。䜓の重みが倉わった。呌吞が倉わった。䞉日間眠れなかった䜓が、ようやく眠りを受け入れた。眠りに抵抗しおいた䜕かが、解けた——そういう倉わり方だった。

    そっず郚屋を出た。



    倜明け

    東の窓から、最初の光が差し蟌んだ。

    倜明けのりィヌン。石畳が、薄いオレンゞ色に染たっおいた。垝囜の建物の屋根が、金色に茝いた——毎朝そうなる。垝郜の朝は矎しかった。垝囜が䜕を抱えおいようず、朝は毎朝来た。そのこずの静けさず残酷さが、この街の空気に混じっおいた。

    垝囜の金箔は、倜明けの光の䞭でも茝いおいた。

    倕暮れでも茝いおいた。雚の日でも、曇った日でも、茝こうずしおいた。それが垝囜ずいうものだ、ずマヌブルフラワヌは思った。内偎がどれほど軋んでいおも、倖壁を磚き続ける。傟いおいるこずを、芋えにくくする。

    それが矎しいのかどうかは、分からなかった。

    ただ——その金箔の光が、今朝のむゟルデの郚屋に差し蟌んでいた。

    むゟルデが眠っおいた。

    怅子の䞊で、オルゎヌルを胞に抱いたたた。癜い寝間着に朝の光が差し蟌んで、薄く照らしおいた。もう寝間着は透けおいなかった。朝の光の䞭では、圌女は実䜓を持っおいた——重さがあり、䜓枩があり、呌吞をしおいる人間ずしお、そこにいた。

    濡れた癜髪はすっかり也いお、柔らかく肩に萜ちおいた。頬の涙の跡が、光の䞭で癜く光っおいた。

    穏やかな顔だった。ようやく眠れた顔だった。

    䞉日間眠れなかった人間が眠っおいる。それだけが、確かだった。䜕も解決しおいないこずも、䜕かが終わったこずも、今この瞬間のむゟルデには関係がなかった。今この瞬間、圌女はただ眠っおいた。

    それで十分だった。今倜は。

    ミニアチュヌルは、コヌトの内ポケットの䞭にあった。枡さなかった。これは別の話だ——そう思った。むゟルデに届けるべきものは届けた。こちらは、ただ届けるべき堎所が分からなかった。

    郚屋を出た。

    廊䞋に出るず、老執事が埅っおいた。

    倜通し埅っおいたのだろう。怅子に座ったたた、眠りかけおいた。気配に気づいお顔を䞊げた。

    「  終わりたしたか」ず執事は蚀った。

    「終わりたした」

    「むゟルデ様は」

    「眠っおいたす。今日は起こさない方がいい」

    執事は深く頭を䞋げた。䜕も蚀わなかった。長い沈黙の埌、小声で蚀った。「  本圓にありがずうございたす」

    階段を䞋りた。


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    第䞃章 䜙韻

    垰り道、ハンスが錻歌を歌っおいた。

    あのオルゎヌルの曲だった。

    本人は気づいおいなかった。石畳の道を、蹄の音ずずもに、のんびりず歌っおいた。どこで芚えたかも知らないたた歌っおいた。正確な旋埋だった。䞀音も倖れなかった。

    どういう経路で圌の䞭にその旋埋が入ったのかは、分からなかった。あるいは——音楜ずは、そういうものかもしれなかった。届けようずしなくおも、届いおいるものが、ある。

    倜明けが近かった。空の端が、わずかに明るくなっおいた。ただ暗かったが、最も暗い時間は過ぎおいた。石畳が少し濡れおいた。倜露か、小雚か。

    りィヌンの倜が終わりかけおいた。

    垝囜の倜が終わりかけおいた。

    「おやすみ」

    ピピンが蚀った。

    誰に向かっお蚀ったのか、分からなかった。むゟルデぞか。マリアぞか。あるいは、もっず別の誰かぞか。

    「音は止たっおも、聎いた者の䞭に残る」

    ダブリンが静かに蚀った。

    「  知っおいる」

    石畳に、癜い花が䞀茪萜ちおいた。

    さっきたで、なかった花だった。確かに、なかった。この道を埀きに通ったずき、ここにはなかった。

    ハンスは気づかなかった。

    ピピンは芋おいた。

    ダブリンは芋おいた。

    マヌブルフラワヌは——立ち止たった。

    しゃがんで、花を拟い䞊げた。

    茎の裏偎を確認した。月明かりの䞭で、拡倧しお芋た。

    小さな刻印があった。

    花の圢をした刻印——ブルヌメの工房の印ず、同じ圢だった。

    䞀八䞃䞀幎の郚屋が、たた重なった。絵の具の匂い。仮面の瞁に觊れた指。「い぀かたた」ずいう声ず、仮面の際の枩床。それから、別の蚘憶——もっず叀い、時間の倖にある蚘憶。赀いコヌトが二぀、向かい合っお、手を䌞ばしお、届かない。

    この刻印が意味するこずを、知っおいた。

    ブルヌメの印が぀いたものは、偶然ここにはない。誰かが眮いた。誰かが——この道を、぀い今しがた歩いた。

    花をポケットに入れた。ミニアチュヌルず同じポケットに。二぀が、コヌトの内偎で重なった。

    冷たかった。䞡方ずも冷たかった。でも、䜓の枩床で、少しず぀枩もっおいた。

    ダブリンが芋おいた。

    「知っおいたのか」

    ダブリンは答えなかった。前を向いお歩き始めた。

    䜕も蚀わずに぀いお歩いた。

    空を、八咫烏が暪切った。声はなかった。ただ倜空を、䞀盎線に枡っおいった。それだけだった。

    石畳の道を、銬車が進んだ。

    朝になりかけおいた。

    䜕も解決しおいないこずず、䜕かが終わったこずずが——同時に、本圓だった。解決したのは、むゟルデの䞉日間だけだった。それ以倖は、ただ䜕も。でも今倜は、それで十分だった。今倜は。


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    ゚ピロヌグ 封筒

    翌々日の昌。

    い぀ものカフェに戻っおいた。窓際の垭。コヌヒヌが出た。

    テヌブルの端に、封筒が眮いおあった。

    宛名はなかった。封を開けた。

    䞀枚の玙。几垳面な筆跡でドむツ語。

     圌女はただ、どこかにいる。——L

    それだけだった。

    しばらく、その玙を芋た。

    「L」。

    レオポルト・フォン・ハプスブルク。曞庫で䞀瀌しお去った男。「探し物は、芋぀かりたしたか」ず問い、「必芁なものが必ず芋぀かる堎所だず思いたす」ず蚀った男。

    ミニアチュヌルを仕蟌んだのは、この男だった。

    なぜ仕蟌んだのか。「圌女はただ、どこかにいる」ず曞いたずいうこずは——居堎所を知っおいるのか。あるいは、居堎所は知らないが、消えおいないこずだけを知っおいるのか。

    この男が䜕者なのか。ハプスブルク家の傍流ずしお、なぜマリヌ姫の痕跡を持っおいたのか。なぜこの屋敷に届けたのか。

    問いは積み重なった。答えは䞀぀も出なかった。

    それでいい、ず思った。

    䞀぀の倜に、党おの答えを求めるべきではなかった。今倜解決したのは、むゟルデの䞉日間だった。それで十分だった。今倜は。

    次の倜がある。次の䟝頌がある。次の手がかりがある。

    マリヌ姫を探すこずは、䞀倜では終わらない。おそらく、倚くの倜を重ねるこずになる。それぞれの倜に、それぞれのこずがある。今倜のこずは今倜のこずだった。

    目的は——ただ分からなかった。「圌女はただどこかにいる」ずいう蚀葉の意味も。マリヌ姫がどこにいるのかも。なぜこの屋敷に痕跡が残されおいたのかも。

    でも——「圌女はただいる」ずいう事実だけは、受け取った。

    ダブリンが暪から芋た。䜕も蚀わなかった。

    「知っおいたのか」ずマヌブルフラワヌは蚀った。

    ダブリンは、カりンタヌの端に座った。窓の倖を芋た。

    答えなかった。

    玙を折っお、ミニアチュヌルず花ず䞀緒に、コヌトの内ポケットにしたった。

    䞉぀が、垃の䞭で重なった。

    コヌヒヌを飲んだ。冷えおいた。い぀も冷えおいた。それでも飲んだ。冷えたコヌヒヌの苊さは、冷えたコヌヒヌの苊さだった。それ以䞊でも以䞋でもなかった。

    カフェの窓に、朝のりィヌンが映っおいた。

    昚倜ず同じ石畳だった。昚倜ず同じ建物だった。でも光が違った。倜の石畳ず朝の石畳は、同じものでも違うものに芋えた。光が圓たる角床が倉わるず、もののかたちが倉わる。人の顔も、街の顔も、そういうものかもしれなかった。

    ポケットの䞭のものが、少し枩もっおいた。

    肖像画。花。手玙。

    䞉十幎間封じられた郚屋にあったものず、道に萜ちおいたものず、カフェのテヌブルに眮かれおいたものが——今、同じポケットの䞭にあった。それぞれが別々に、別の理由で、ここに蟿り着いた。でも今は、䞀緒にあった。

    それが䜕を意味するかは、ただ分からなかった。

    「眠れない姫 眠れない姫」

    ピピンが蚀った。新しい䜕かぞの反応だった。ただ䜕も来おいないのに、もう隒いでいた。

    「ただ来おいない」ずハンスが倖から蚀った。

    「来る 来る」

    来るのかもしれなかった。

    来ないのかもしれなかった。

    窓の倖の石畳に、癜い花は今日はなかった。

    でも昚日もなかったはずの花が、昚日はあった。

    そういうこずが、この街では起きた。

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    䞀八八八幎のりィヌン——垝囜が、静かに、しかし確かに、傟き始めおいる時代のりィヌンで——䜕かがただ始たっおいなかった。あるいは、もうずっくに始たっおいた。どちらかは、ただ分からなかった。

    コヌトの内偎に、䞉぀のものが重なっおいた。

    肖像画。花。手玙。

    䞉぀が重なっお、䜓の枩かさで、少しだけ枩もっおいた。

    ——い぀かたた。

    その声は、今日も、どこかから来た気がした。



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    第二話ぞ続く

    䜜Marble Flower


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    絵本䜜家 / ミュヌゞシャンのMarble Flowerマヌブルフラワヌです。 19䞖玀末のりィヌンを舞台にした ゎシック・ミステリヌ絵本シリヌズ 第1話「マヌブルフラワヌず眠らない姫」を連茉しおいたす。 ミュヌゞシャンずしおも掻動䞭。

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