
わが家のスパイダーマン|日常のB面#19
この夏、僕は長年勤めた会社を辞めた…。
会社はこれまでの僕を形づくり、今ある僕を育ててくれた存在だ、心から感謝している。
それでも僕は会社を辞めた。
辞めた理由は様々あるが、大きくは色々な部分で限界だったのだと思う。自分自身も会社自体も…。
また、どこかでこれまでとは違う、本当にやりたい事をずっと模索していたのかもしれない。
なにも行動には移さず、巣を張り、ただじっと獲物を待つクモのように。
でも、ようやく辞めることができた…。
奥さんの「身体壊すくらいにつらかったら仕事なんかいつでも辞めていいんだよ」という後押しと、理解ある言葉のおかげによって。
仕事を辞めて気づいた事がある。
家にいることが増え、家の中を改めてよく見てみると、壁や階段の隅に、いつからいたのか、いつから気づき出したのか、いつの間にやらよく見かける小さなクモが、そこにいた。
そのクモは1センチもないくらいに小さく、じっとして動かない、と思ったらピョンとスパイダーマンのように素早く跳ねて、瞬きのあいだには瞬間移動かのように次の場所へ移動している。
飛び跳ねる動きもコミカルで、なんだか愛嬌がありとてもカワイイ!
昼間に出るクモは縁起がよいだとか、益虫だとかと聞いたことがあるので、そのまま駆除せずに放置する事にした。
見た目はお世辞にもカワイイとは言えないが、コミカルに動く、その「カワイイ」要素がチャーミングに映った結果、種の生存を得たのなら、まさにカワイイは正義だ! これも自然の摂理なのか、と妙に納得した。
その可愛さから気になり、調べてみると「アダンソンハエトリ」という家によく出るハエトリクモの種類のようで、通常のクモと違い、巣を張らず、エサを求めて自ら動き、害虫を捕食する益虫との事だった。「カワイイ」だけじゃなくて働き者とは…なんていいヤツなんだ!少なくとも、仕事を辞めて無職(正しくは有給消化中だけど)の僕よりは働いている(?)
この時、アダンソンハエトリは無条件で僕の家に住む権利を獲得した。
その日以降、彼(彼女?)をアダンソンにちなんでアンダーソンと呼ぶ事にした。
意識すると朝の洗面所にいたり、夜にはトイレの壁にひっついている。その度に「おはよう」や「こんばんは」と心のなかで声をかけていた。
そんな挨拶が続くようになり、いつしか会話を一方的にするようになっていた。仕事を辞めた後の不安や転職活動についてなど、いろいろな事を…。
だって僕は無職で人と接する機会もめっきりと減り、時間だけは余りあるから。
アンダーソンを見かけると、なんだかうれしい気持ちが芽生えていた。僕の家は犬や猫などペットは飼っていなかったので、それに代わるペットに近い気持ちかもしれない。いや、違うか…。
ある日の日曜日、掃除機をかけていた奥さんが「あぁー!」と悲鳴を上げた。うなだれて僕のところに来ると「やっちゃった…」と、とても取り返しのつかない事をしてしまったように悲しそうに呟いた。
どうしたの?と尋ねると、「家に小さいクモがいるの知ってる?」
「うん、知ってるよ」と答えると、意外な答えが返ってきた。
「あのクモ、なんかカワイイから私、飼ってたんだけど、さっき掃除機かけてたら、いたのに気づかないで吸っちゃったの…まだ生きてるかな…」
アンダーソンを掃除機で吸い込んだ事も驚いたが、まさか奥さんも同じクモに愛着が湧き飼っていたとは驚きだ…。
僕もアンダーソンとの事を伝えると「あなたも飼っていたの?」と、奥さん。ほんとおかしな夫婦である。
生きているか気がかりな奥さんは掃除機のタンクをスーパーの袋に出し、しばらく放置し自力で脱出する事を祈った。
何日かすると、何事もなかったかのようにアンダーソンは壁にぴたっと張り付いていた。
またいつもの日常が戻ってきた。
有給消化中の間、僕は転職活動をした。
何十年ぶりかに履歴書、職務経歴書を作成し、スーツも新調した。不安はあったが新しい事へのチャレンジに前向きな気持ちも湧いていた。
運がいい事に新しい仕事は意外にもすぐに見つかった。条件も仕事内容も希望通りだった。
奥さんはたくさんのサポートをしてくれた。ほんとうに感謝している。仕事を辞める事ができたのも、やりたかった仕事が見つかったのも奥さんのおかげだ。
仕事を辞めて、もうひとつ気づいたのは、あれだけ重かった通勤用のリュックが嘘のように、とても軽くなったことだ。
以前の職場ではPCや書類、資料など常に持ち歩き、軽い筋トレができるのではないか、と思うくらいの重さを毎日背負っていたわけだが、今まで背中に感じていた重みが嘘のようになくなっていた。
新しい職場でもPCは持ち歩くが以前のような重さは全くない。とても清々しい気持ちだ。
まるで体が軽くなりアンダーソンのようにピョンピョンと飛び跳ねられそうな気分だ。
新しい職場は毎日新鮮でとてもやり甲斐があり、大変ながらも、今までとは違う楽しみも感じている。このまま仕事を覚え、頑張れば確実にやりたい事ができるだろう。
新しい職場に通い始めて、ひと月ほど経った頃、気がつけば、彼を見かけなくなっていた…。
なんだか友達との別れのような気持ちにもなったが、不思議と寂しい気持ちにはならなかった。
きっと彼も新しい職場を探しに行ったのだろう。
僕の新たなスタートを見届けた後で…。