
役割は、いつ自己になるのだろう。
スクールカウンセラーになってから、ひとつ驚いたことがある。
友人とLINEをしていても、
「少しカウンセラーモードで返信したかもしれない」
と後から気づくことがあるのだ。
最初は、それを「職業病」だと思っていた。
でも最近は、少し違う気がしている。
職業病というより、「身体化」なのではないか、と。
長年、ある仕事を続けていると、その人らしい技法や態度は、頭で考えて使うものではなくなる。
カウンセラーは自然に話を聴く。
教師は自然に教え始める。
研究者は自然に問いを立てる。
意識して演じているわけではない。
その人の身体が、その仕事の型を覚えてしまうのである。
だから、友人と話していても、完全に「カウンセラーではない自分」になることは難しい。
これは悪いことではない。
むしろ、専門性が身体に染み込んだ結果なのだと思う。
ただ、一方で気になることがある。
役割が身体化されることと、
役割そのものが自己になってしまうことは、違う。
近年、自分自身も大きく揺れる経験をした。
その中で感じたのは、自分の輪郭が曖昧になると、人との境界線も揺らぎ始めるということだった。
どこまでが相手の問題で、
どこからが自分なのか。
どこまで寄り添い、
どこで立ち止まるのか。
その境界が見えなくなると、人はとても苦しくなる。
だから私は最近、カウンセリングとは、症状を改善するだけではなく、「その人自身の輪郭を取り戻す営み」なのではないかと思うようになった。
「あなたはどう思いますか。」
「あなたはどうしたいですか。」
そう問い続けることは、その人をこちらへ引き寄せることではない。
その人が、その人自身へ戻っていくことを支える営みなのだと思う。
歴史を研究していても、似たことを感じる。
外交官は外交官として世界を見る。
研究者は研究者として世界を見る。
専門性とは、知識ではなく、世界の見え方そのものを変えていく。
だからこそ、専門家ほど、自分の役割を降ろせる時間が必要なのだと思う。
役割を脱ぎ捨てるのではない。
役割とは別に、「私は私である」という輪郭を持ち続けること。
それがあるからこそ、また安心して役割を引き受けることができる。
役割は、自己になるのではない。
自己という輪郭があるからこそ、役割は自由に行き来できる。
そんなことを、最近よく考えている。