
紡がれる、音⑧――和音が重なる場所へ/刑事ドラマ・エンタメ原作部門
第八話:二枚のカード
匂いのする方は、体が勝手に教えてくれた。
路地を走り抜ける足音が静かな住宅街に響く。
……頼む、間に合ってくれ!
大通りにたどり着き、息を弾ませながら辺りを見回した。
すぐにでも走り出しそうな足を少し引き、一度空を仰いで、息を整えた。
追い付いてきたイシダに、低く声を飛ばす。
「周辺確保。防カメ、付近車両の照会要請、あと、車」
「……はい」
俺は息をつき、路地の奥を見た。
急発進したらしいタイヤ痕が、はっきりと見える。
頭の中で地図が組み上がった。
機捜時代に叩き込まれた感覚が、勝手に足を走らせる。
交差点で黒いワンボックスのテールランプが一瞬光った。
方向を定めてまた走り出す。
・・・
――ガタン。
わたしは振動で目を開けた。
後ろ手に束ねられた手首に結束バンドが喰い込む。口元は覆われ、肩には固い床の感触。左の靴を履いてない……車の中?
充満するタバコの煙と匂い。背中越しに聞こえる、知らない男の声。
「……静かだな」
「気絶してんだろ」
「……ひっ……く」
叫びそうなのを必死で堪え呼吸を整えようとするが、うまく吸えない。
目を閉じて歯を食いしばる。
大切に想えば、すぐ目の前から消える。
必要以上に関わらない。それで良かった。
でも今、胸に響くのは、無骨で低い、優しい声。
「大丈夫だ、任せろ」
わたしは目を開け、お腹に力を入れた。
手首を強く捻る。鋭い痛みに、喉の奥で声が詰まった。
体が後ろに流れ、止まった……今だ!
全身をぶつけるようにドアに背中を押し当てる。
少しずれて出来た隙間に背中を無理やり押し込んで、思いっきり床を蹴る。
アスファルトに叩きつけられ、視界が白く弾けた。
すうっと、意識が遠のく。
「……おい!」
……声。
「……おい!しっかりしろ!おい!」
……来てくれたんだ。
言葉が出なくて、かわりに小さく首を振る。
体が小刻みに震えた。
・・・
……どのくらい走ったんだ。
足が止まる。弾む息を抑え、また走り出そうと顔を上げた時、道端に転がるヤヨイを見つけた。黒いワンボックスのテールランプが、右に曲がって消える。駆け付けて膝をつき体を支えた。
「……おい!大丈夫か!おい……おい」
ヤヨイが微かに目を開け、小さく頷く。
俺はほっと息をつき、思わず強く抱き締めた。
「よく逃げたな……無事で良かった」
「……あ」
無線でイシダに現在地を伝え、応援を頼む。
やがて救急車は走り去り、俺はじっと手のひらを見つめた。
奥歯を噛み、ギュッと手を握る。
顔を上げた。自分でも驚くほど、冷静になっていた。
頭の中が冷える。でも背筋は、熱い。
路肩に止まった覆面車の運転席から、イシダが転がるように出てきた。
「コンドウさん!大丈夫ですか!」
「ああ……行くぞ」
「……はい!」
覆面車の運転席に乗り込み、ハンドルを握った。
イシダがとなりで無線のマイクを取り、じっと俺を見据える。
「逃走車両は黒のハイエース。フルスモーク、ナンバーは跳ね。
板橋から、二五四、下り。発生は約十分前。後足の情報を願いたい」
前を見たまま言葉を飛ばし、ハンドルを切る。
しばらく走ると、無線が途切れた。
「……読まれてますね」
イシダが呟く。舌打ちが漏れた。
前を見たまま手をゆっくりと握り、ハンドルを叩いた。
署に戻り、俺とイシダはデスクの椅子を引く。
課長が短く言った。
「生きて戻った……上等だ」
その言葉を鼻で笑い飛ばし、資料の中のエナミの写真を睨む。
課長が俺に視線を向けた。
「組対と共有する。コンドウ、深追いはするな」
「……俺も組対に」
「それは無理だ」
言葉を途中で遮られ、思わず立ち上がり手を振り上げた。
イシダが後ろで、息を呑む。
係長が低く言った。
「壊れるな、まだ手はある」
その言葉が、衝動をかろうじて踏みとどまらせる。
喉が、震えた。
「……あーっ!クソがーっ!」
気付けば、俺は叫んでいた。
当直室のベッドに横になる。
となりのベッドでは、イシダが寝息を立てていた。
五時四十三分。
まだ夜は明けきってない。微かに耳鳴りがする。
俺は胸の奥に軋みを抱えたまま、目を閉じた。
翌日、煙が空気に白い線を描くのを眺めていた。
喫煙所の壁に背中を預けて座り込み、少し目を閉じる。
ポケットからスマホを取り出し、ラインを開いた。
“今夜、会えるか?”
すぐ、既読が付いた。
“来ると思った。どこだ”
さすが相棒。話が早い。
少し考え、短い返信を打つ。
“二十二時、西池袋公園”
“了解”
喫煙所を出て、そのまま階段を駆け下りる。
あと、三時間。
外に出て、繁華街の方へ歩き出す。
後ろの足音に振り向くと、イシダと目が合った。
ふうっと、息をつく。
店、劇場、コンビニ、歩道橋、交番、神社、商店街の入り口。
時折、電柱や街灯を見上げ、時折スマホで写真を撮る。
何も言わず、ゆっくりと歩いた。
イシダが、首を傾げる。
「何を、してるんですか?」
「探してる」
「何を」
「網の隙間と、残り香」
「……え?」
「切れるカードは切ってたんだ。何で起きた」
「それは」
「どこにいる……どこから見てる」
「……コンドウさん」
イシダが立ち止まり、喉を鳴らして目を見張った。
アパート前に着き、街灯を見上げる。
防犯カメラは付いていない。
地面に視線を落とす。
花束と、片方だけの靴が頭の中に浮かんだ。
視線は、走る。
・・・
僕は薄暗い地下室で、ハッキングした防犯カメラのライブ映像を眺めていた。画面の中の店で会った刑事をじっと見つめる。
刑事がふとカメラを見上げ、じろっと睨んだ。
僕は息を呑み、喉を鳴らす。
「相当だな……怖い怖い」
呟きが漏れ、思わず視線を反らした。
・・・
退勤時間になり、イシダの隙をついてひとりで公園に向かった。
五分ほど遅れて公園の入り口に立つ。サカイが立ち上がり、手を上げた。
「……呼び出しといて、遅刻か」
「すまん」
そのまま公園をゆっくりと歩き始める。サカイは俺の顔をじっと見て、
微かに、キレてんな……と呟き、小さく舌打ちした。
「……で、どうした」
俺は鼻で笑い、サカイを見据えた。
「しらじらしい。お前今、組対だろ」
「……それもそうか」
「竜岡を洗え」
「無理だ。証拠が薄い」
「何でだ、充分だろ」
「まだ、何も起きてない」
「は?」
「彼女は無事に戻ってきた」
思わず足を止め、サカイを睨む。
「……拉致、だぞ」
「立件出来なきゃ仕方がない」
「……何?」
サカイが俺を真っ直ぐ見返し、息をついた。
「分かってんだろ……足場がないと、動けない」
「……あ?」
カッと頭に血が上って、拳を振り上げた。
バチン、と音が響き、腕に衝撃が走る。
サカイがよろけた。
すぐさま、頬に重い衝撃がきた。
地面に転がる。唇が切れて血の味がした。
サカイが息を弾ませ、叫ぶ。
「感情に呑まれるな!」
「……守れなかったんだ!」
声が割れる。白い吐息が、静かな公園の空気に溶けた。
やがてサカイは俺に近づき、手を差し出す。
「……表じゃ無理だ。でも耳は貸す。情報があれば流す。
それが精一杯だ……分かってくれ」
「……すまん」
手を取ると立ち上がった。
俯いた顔から思いがけず涙がひとつ、落ちる。とっさに後ろを向いた。
空を仰ぎ、歯を食いしばる。
ため息が、背中の向こうで小さく聞こえた。
エナミは消えた。携帯は解約され、マンションも空。会社も引き払われた。
竜岡組は知らぬ存ぜぬで、組対もたいして動けない。
……何で、何も出来ないんだ……刑事なのに。
ヤヨイは一週間程で退院し、すぐにいこいに移った。
俺の焦りを置き去りにして、何でもないような顔で時計の針は進む。
非番の日、早い時間に暖簾を割った。
「いらっしゃい」
カワハラが焼き台から顔を上げ、笑顔を向けた。
ミチコが笑顔で生ビールを差し出す。
ヤヨイがキッチンから顔を出して、微笑んだ。
軽く手を振り、グラスを傾ける。
お通しの皿を手に、ヤヨイが笑顔を向けた。
「コンドウさん」
「どうだ、少しは慣れたか」
「はい、楽しいです」
少しずつ、ヤヨイに笑顔が戻る。
ミチコの家に同居してるし、カワハラもいる。
周辺は厳重に警戒するよう、指示は出した。
ヤヨイがキッチンに戻り、ミチコが笑顔を向ける。
「……良かったわよ。元気になってきて」
「ミッちゃん、世話をかけるな」
「いいのよ、私も楽しいし……でも」
「ん?」
「あの子……夜中よくうなされて泣いてるわ」
「そうか……」
テーブルで客と笑い合うヤヨイの横顔を見つめた。
……この笑顔を守るためだったら、何でもやってやる。
しばらくして、署に俺宛ての花束が届いた。
メッセ―ジカードを、裏返す。
〈さて、お手並み拝見〉
……上等だ、クソガキ。
俺はカードをギュッと握り、床に叩き付けた。
息をつき、花束を抱えるイシダに視線を移す。
「……どこの花屋だ」
「駅前の、フラワーショップ・アイです」
「分かった」
「え、ちょっと、コンドウさん」
無視して階段を駆け下りる。慌てた足音がついてきた。
花屋に着き、店主に手帳を見せる。
「この花束は」
「現金です。店頭で」
「防カメ、見せてもらっても?」
「はい」
画面の中で、黒のパーカーのフードを目深にかぶり、マスクをした男がチラッとこっちを見た。右手に、金の指輪。細い目が冷たく光る。
……クソが。なめやがって。
店を出て周囲の防カメの位置を確認する。
足早に歩き出すと、イシダが顔を覗き込んだ。
「……照会、切りますよね」
「出す。後でな」
「報告書、どう書くんですか」
「先に切ったことにする」
「それ……マズイですよ」
「お前は関係ない」
信号待ちで止まるとスマホを取り出し、ラインを開く。
“動いたか”
“焦るな”
“表は、遅い”
イシダが俺の手元を見つめ、息をついた。
署に戻り、何でもないような顔でパソコンを開く。
イシダがこっそりと係長に顔を寄せた。
「コンドウさん、大丈夫でしょうか?」
「……俺から上に伝える」
「はい」
「暴走はさせん。安心しろ」
「お願いします」
夕方課長に呼ばれ、デスクの前に立った。
「心配されてるぞ」
「……ああ」
「冷静になれ。やりすぎるな」
「……はい」
頭を下げデスクに戻る。イシダが、チラッと俺を見た。
「……すみません」
「いいんだ……すまん」
深く息をつく。
……ああ、面倒臭え。
署内に噂が流れる。
「私情だ」「過干渉だ」「やり過ぎだ」
ヒソヒソと囁かれる言葉。俺は何も言わず、粛々と書類を積み上げる。
街をイルミネーションが彩る季節が来ても、エナミの所在は不明だ。
……次のカードは、どう切る?
街の灯りは、何も答えなかった。
つづく
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