
紡がれる、音②――和音が重なる場所へ/刑事ドラマ・エンタメ原作部門
第二話:雨の音
――あれから四日過ぎた。
空は低く雲が垂れ込め、青空に焦がれていた。
カワハラは任意の事情聴取に、素直に従っていた。
俺は、しつこく三係に進捗を聞いている。
証拠も揃い、逮捕状が請求されるのは時間の問題だった。
……刑事を脱いで、あそこに座っていたはずなのに。
俺は機捜車の助手席でじっと前を見つめ、ぼうっと昔を思い出す。
四年前捜一にいた時、恋人が男に襲われた。
「最近、誰かに見られてる気がするの」
「そんなの、気のせいだろ」
「……怖いの」
「忙しいんだ」
その時帳場をふたつ抱えていた俺は、
彼女の言葉を聞き流し、気にも留めなかった。
その三日後、通報で臨場した現場は、彼女の自宅だった。
震える彼女を抱き締め、俺は叫んだ。
……あの時、声を聞いていれば。
「そばに、いてあげて下さい」
「捜査が先だ。必ず、捕まえる」
縋る彼女の妹を振り切り、感情に呑まれて暴走した。
上司やサカイの声も無視し、俺はひとりで突っ走った。
一か月後、被疑者を逮捕した。
報告に出向き、愕然とした。
病院のベッドの上で彼女は……壊れていた。
俺を見ず、焦点の合わない目で天井を見つめ、ただ、静かに涙を流した。
妹も何も言わず、ただ、寂しそうに微笑んだ。
……壊したのは、俺だ。
あまりにも辛くて、手を離した。
後悔は傷となり、目に映る景色は色を失くし、涙も枯れた。
そんなのはもう御免だ。それなのに……俺はまた守れなかった。
「おい、コンドウ」
「……え」
運転席のサカイの声に、俺は、はっと顔を上げた。軽く首を振り息をつく。機捜車の微かな振動を感じた。
「お前、どっか行ってたな」
「……ああ、すまん」
サカイはチラッと俺を見て、すぐに視線を前に戻した。
いつもの街並みが後ろに流れていく。
「気を付けろよ、コンドウ」
「何がだ」
「……あの時みたいに、なんなよ」
「え?」
「ちゃんと、話せ」
「……分かってる」
「ならいい……俺は相棒だからな」
「……ああ」
フロントガラスに、ポツンと雨が落ちてきた。
すぐに激しさを増し、黙り込んだ車内に、雨の音が静かに溜まっていく。
まるで……俺の代わりに泣いてくれているようだった。
あれからも、俺はいこいに通っている。
暖簾を見上げ、引き戸を開けた。
「いらっしゃい、コンドウさん」
「……ああ」
カワハラが焼き台の前から笑顔を向ける。いつもと同じような声と、空気。
サユリの笑顔が消え、目を反らされる。
その視線に心がすうっと切られ、血が流れた。
一瞬、目を閉じる。
「相変わらず忙しそうだな」
「まあな」
笑いかけるカワハラに、かろうじて相槌を打つ。
いつもの席に座ると、すぐに生ビールが置かれ、ミチコが顔を覗き込んだ。
「変わらず、来るのね」
「来ちゃ悪いか」
「ううん、そうじゃなくて……強い人だな、と思って」
「……強くねえ」
「正しいことって、痛いから」
「……え」
「……ありがとう」
それだけ言うと、ミチコはキッチンに戻った。
カワハラが焼き台から視線を上げずに、ひっそりと微笑む。
俺は一瞬目を見張り、ふっと息をつくと、グラスを掲げた。
いつも通り会計を済ませ、カワハラに手を振って引き戸を出る。
「コンドウさん……少しいいですか」
背中越しにサユリの声がした。足を止め振り返る。
「……ああ」
「どうして、言ったんですか」
真っ直ぐな目だ。責めている感じじゃない。
ただ、疑問と戸惑いが滲んでいた。
「言わなきゃ、分からなかったのに」
「いや、分かる。入金記録がある。供述もある。時間の問題だ」
「でも……コンドウさんが言わなければ、もう少し」
「すまん。俺は……刑事だ」
サユリの瞳にみるみる涙が溜まり、流れる。
「分かってます。でも……でも、怖いんです。また……全部、壊れるのが」
「今止めなきゃ、もっと傷は深くなる……分かってくれ」
「……でも」
俺は奥歯を噛みしめ、俯いた。
声を、絞り出す。
「……すまん」
「え?」
「気づけなくて……止められなかった」
「……そんな」
「守れなかった」
「……コンドウさん」
サユリは、肩を震わせひとしきり泣いた。
静かな路地裏に、しゃくり上げる声が響く。
やがて顔を上げ、涙を拭って微かに笑った。
「これで、終わるなら……」
「え?」
「いいんだって、思うようにします」
「……サユリ」
その笑顔が胸の奥に強烈な痛みを与え、思わず目を閉じる。
静かに深呼吸し、俺はサユリに笑い返した。
次の日スマホが震えた。三係からだ。
「……どうした」
『コンドウ、カワハラに逮捕状が出る』
「……え」
スマホを耳に当てたまま、息を呑む。
『お前、立ち会うか?』
「……ああ、頼む」
『明日だ。二十三時』
「分かった」
通話を切り、助手席のシートに体を預けて深く息をついた。
サカイは何かを察したように笑い、チラッと俺を見る。
「……最後までやるのか」
「……ああ」
俺はサカイを見ると、軽く頷く。
「最初に歯車を回したのは、俺だ」
「……え」
「ちゃんと見届ける」
「分かった……付き合うよ」
「……すまん」
後ろに流れていく景色が、何だか知らない街並に見えて、目を閉じる。
深く息をつき目を開けると、いつもの景色に戻っていた。
提灯の灯りが揺れる。しばらく見つめ、暖簾を割った。
いつもの音と美味そうな煙の匂いが、俺を出迎える。
「いらっしゃい」
「……おう」
焼き台の前から、いつもの声と、笑顔。
奥のテーブルから響く、客とミチコの笑う声。
生ビールを持って近づく、サユリの笑顔。
「コンドウさん、いらっしゃい」
「ああ、ありがとう」
俺は振り返り、ぼうっと、明日失われる愛しい景色を眺めた。
しばらく黙って、グラスを傾ける。
ぽろっと、言葉が漏れた。
「なあ」
「ん?」
「……これで良かったのか」
「……え?」
カワハラは焼き台から顔を上げ、俺を見て笑うと、視線を戻す。
「……迷惑かけたな」
「俺に、出来ること無いか」
「……早く、終わらせてくれ」
「え?」
「もう、サユリやお前を……見てられない」
「……カワハラ」
カワハラは手を止めると、俺を真っ直ぐ見据え、微笑む。
「お前……デカ、だろ」
「……ああ」
俺は、ふっ、と息をつき、グラスを傾けた。
「カワハラユウスケさん。窃盗幇助の容疑で逮捕状が出ました」
翌日の閉店後、カウンターの前で同期が、目の前に逮捕状を広げた。
一瞬だけカワハラの目が揺れる。
その奥で、ミチコとサユリが黙って見つめていた。
俺は同期の後ろで少し俯き、息をつく。
「……コンドウさん、お願いがあるんだ」
「何だ」
顔を上げカワハラを見た。カワハラは微かに笑い、言葉を重ねる。
「娘を、気にかけてやってくれないか」
「……ああ」
「それと」
「……ん?」
視線が合った。
「アンタが、逮捕してくれよ」
「……え」
その言葉に、息が止まる。
言葉を継げないでいると、カワハラが真っ直ぐ俺を見て、深く頭を下げた。
「アンタの手で終わらせてくれ……頼む」
「……カワハラ」
サユリが息を呑んで口を押える。その目に涙が溢れた。
俺は一歩前に出て、同期の顔を見る。
「……いいか?」
「ああ、そうしてくれ」
同期は腰のホルダーから手錠を取り、差し出した。
それを受け取ると、カワハラの顔を上げさせる。
腕を取り、壁の時計に目を向けた。
「二十三時十八分……通常逮捕」
カチリ。
小さな金属音が空気に響いて、溶けた。
「ありがとう、コンドウさん」
「……ああ」
カワハラを見つめ、微笑む。カワハラも、ニッコリと笑った。
同期に腕を引かれ、カワハラが引き戸に向かう。
ガラガラと大きな音が響いた。サユリが駆け寄り、叫ぶ。
「お父さん……!」
「……ごめんな、サユリ」
カワハラは、視線を上げずにそう呟き、前を見据えて笑った。
引き戸が開き、いつの間にか降り出した雨の音が、静かな店内に沈む。
パトカーの赤色灯が、冷たい雨が降る街の景色をかき混ぜ、去っていった。
しばらくしてまた引き戸が開き、サカイが顔を出す。
「コンドウ……帰るぞ」
「……ああ」
サユリが俺の顔を真っ直ぐ見つめ、頭を下げた。
「ご迷惑を、おかけしました」
「止めてくれ。仕事をしただけだ」
そう言って頭を上げさせると、またな、と軽く手を上げ、
サカイと一緒に店を出る。
胸の奥は滲み、何も見えなかった。
機捜車の運転席で、サカイがポツリ、と話し出す。
「……ちゃんと、見届けたな」
「ああ」
「俺が心配すること、無かったか」
「……いや」
「ん?」
サカイの顔をチラッと見て、視線を車窓に戻した。
「お前が相棒で、良かったよ」
「強いな、お前」
「……逃げなかっただけだ」
「それでいい」
サカイは小さく頷き、微笑む。
雨音が強くなり、黙り込んだ車内に、低く流れた。
分駐所に戻り書類を整え、喫煙所でタバコに火を点ける。
煙が空気に溶けて、目の前が白く霞んだ。
俺は銜えタバコのままじっと手のひらを見つめ、
指先に残る微かな金属の感触を打ち消すように、ぎゅっと握った。
背中越しにサカイの声がして、顔を上げる。
「お前……大丈夫か」
「……ああ」
振り向かないまま答え、ふうっと煙を吐き出した。
タバコを灰皿に放り込む。小さくため息が聞こえ、サカイが扉を開けた。
「早く、帰れよ」
「……ああ」
「じゃ……お疲れ」
扉が閉まり、俺はもう一本タバコに火を点けた。
ゆっくりと吸い込み、吐き出す。俯いた顔から涙がひとつだけ、落ちた。
雨は、いつの間にか止んでいた。濡れた路面が街灯を映している。
歩き出して少しすると、スマホが震えた。画面には見慣れた店の番号。
通話ボタンを押し、耳に当てた。
『……コンドウさん』
「……サユリ」
『ありがとうございました』
「……ああ」
少しの沈黙。やがて、霞みがかった声が小さく聞こえた。
『お父さん……笑ってた』
「ああ」
『私も……前向きます』
プツッという微かな音がして、通話が切れた。
ポケットにスマホを押し込み、空を見上げる。
雲の切れ間から、月がはっきりと見えた。
小さいけれど、思いのほか明るい。流れる雲に姿が隠れてはまた現れる。
弱い光でもいい。消えなければそれでいい。
俺はもう一度深く息を吸い、歩き出した。
歯車はまわる。軋んだ音が、頭の中に響く。
だが今夜は、その音が少しだけ優しかった。
つづく
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