
飲み会で"仕事"をしていた私が、「生きていたい」に出会うまで
こんにちは、まいこです。
今日は、私がどうして対話を仕事にしているのか、その原点を書いてみようと思います。
実は私は、30年以上、自分のことがよく分かりませんでした。というより、自分の本音よりも「どうすれば認められるか」を考えて生きてきた人間でした。
飲み会は、私にとって"仕事"の感覚だった
学生の頃、仲のいい先輩が「今度みんなで飲もうよ」と誘ってくれたことがありました。
嬉しかったはずなんです。でも、その瞬間の私の頭の中はこうでした。
「これは、私が人と人をつなぐ役ってことだな」「場を盛り上げなきゃ」
……誰も頼んでいないんですよ。先輩はたぶん、「みんなで楽しく飲もうよ」、ただそれだけだったと思います。
でも、私にとっては、私を介してみんなが楽しむ場。私は楽しい雰囲気を提供する係。
なので、飲み会がはじまったらバーッと飲んで、楽しくその場を盛り上げて、時間になったらさっと帰る。飲み会は私にとって「楽しむ場」ではなく、「みんなを楽しませる」という役割を担った場でした。
今なら笑って話せますが、当時は本気でした。
なぜかというと、私の中にはずっと、こんな言葉があったからです。
「私なんて、いなくなっても誰も気づかない」
いつからそこにあるのか、もう分からないくらい、根っこにありました。
だから、ただそこにいるだけではダメで、何か役に立たなきゃ、何か差し出さなきゃ、といつも思っていました。何かを差し出すために私は呼ばれている、という感覚があったんです。
役に立たなきゃ意味がない。
そんな感覚、あなたにもありますか?
外へ、外へと答えを探していた
大学を出て、高校の英語教師になりました。
でも、教え方にも生徒への関わり方にも、ぜんぜん自信が持てませんでした。
教育実習の時に とても懐いてくれた女子生徒ふたりが、私が実際に勤めるようになってしばらくして、私をものすごく嫌うようになりました。私が教室に行くと、わざわざ思いっきりドアを閉めたり、机の上にバン!と大きな音を立てて教科書を置いたり。
思春期特有の「あいつ、なんかムカつく」に、心をえぐられるような思いをしていました。
生徒を真剣に指導した日には、「あれでよかったのかな」とくよくよ考えて、眠れない日が続きました。
もっと勉強したら、自信がもてるんじゃないか。
自信がもてたら、居場所が見つかるんじゃないか。
それだけを頼りに、アメリカへ渡りました。
大学院で教育心理学を学び、現地で働き、経験を積みました。
外へ、外へ。
積み上げれば積み上げるほど、居場所に近づいている気がしていました。
積み上げたものが、全部なくなった
12年間の海外生活を終えて日本に帰国後は、外資系企業に勤めました。
社長の右腕となるべく、秘書としてバリバリ働き始めた矢先に、妊娠が分かりました。
産休をとり仕事復帰することも考えたのですが、迷いながらも仕事を辞めました。会社は、ぜひ続けてほしいと優しい言葉をかけてくれました。両親にも夫にも、「もったいない」と辞めることを反対されました。でも、こんなに小さい娘を預けて働くことが、どうしてもできなかったんです。
すると、肩書が全部なくなりました。
決めたときはそんなに深く考えていなかったのですが、仕事を辞めて、がんばって積み上げてきた「外側の自信」が、音もなく崩れていく感覚がしました。
娘は可愛い。
でも、育児は思った以上に苦しかった。
幸せだけど苦しい。
そして、その大変な時がずっと続くということが、出産したばかりの私は全く想像していませんでした。
自分の時間はないし、思ったようには何ひとつ進まない。しかもみんなの反対を押し切って辞めた手前、「家事も育児もちゃんとやらなきゃ」と責任を感じていました。
娘が2歳になる頃には、私は夫や娘に感情的に怒鳴るようになっていました。洗面所にこもって泣いて、どうしようもない怒りを物にぶつけたことも。
「このままじゃいつか、娘を傷つけてしまう」
そんな自分が怖くなり、どうしようもない苦しさと向き合うことを決めました。
整えても、整えても
そこから私は、必死で自分を整え始めました。
最初に受けたのは、馬を通して心と体を整える講座でした。
馬はごまかしがききません。その日の自分が、そのまま映ります。馬を通した学びで生活も体も本当に変わって、今でも感謝しています。
ほどなくして、夫婦関係を改善する講座にも通いました。講座終了後はやり切った感満載でした。その時は確かに、良くなったんです。
でも、数ヶ月すると、また戻ってしまう。当時はなぜだか分かりませんでした。
今なら分かります。
外側は変わっていたけれど、受け取る私の根っこの部分は変わっていなかったんです。
どんな出来事も「ほら、やっぱり私はダメなんだ」と受け取ってしまう。心の奥には、ずっと同じ言葉がありました。
「私なんて、この世にいなくてもかまわないんだ」
凪のような人
純子さんに出会ったのは、4年前です。当時の私は個人事業主として迷走していて、最初はビジネスの相談をするつもりでした。
でも純子さんは、やり方を教える人ではありませんでした。
当時の私は、SNSを開けば「結果を出さなきゃ価値がない」という声に囲まれて、周りのみんなが先へ進んでいくように見えて、心は焦りでいっぱいでした。
今こうして書いてみると、学歴や職歴を重ねて居場所を感じようとしていた20代の私と、ビジネスで結果を出して、自分は意味がある存在なんだと証明しようとしていた30代の自分と、同じようなことをしていたんですよね。
SNSの波に溺れそうになっている私にとって、純子さんは、凪のように、ただそこにいてくれる人でした。
動かない人がひとりいるだけで、「あ、私のペースで大丈夫なんだ」と息ができる。会うとほっとする存在でした。
「台風の目」と呼ばれる台風の中心は、風が弱く、晴れ間さえ見えるほどとても穏やかだと聞いたことがあります。私の中で、純子さんとの月に一度のセッションはそんなイメージでした。
ごうごうとすごい勢いで風が渦巻く中で、純子さんとの時間だけは、静かでした。
そして純子さんは、答えの代わりに、問いを置いていく人でした。
「なんでそう思うんですか?」「それって、本当かな?」
不思議なことに、答えのないその問いは、会っていない間に育ち始めるんです。洗濯物を干しているとき。スーパーで買い物をしているとき。娘を迎えに行く車の中。ふと、「あれ……なんで私は、そんなに頑張らなきゃって思ってるんだろう」。
対話は、その場で答えをもらう時間ではありませんでした。問いを持ち帰って、自分の中で育てる時間だったんです。
「生きていていいって、思いたい」
そんな時間を、らせん階段をゆっくり降りるみたいに、3年ほど重ねた頃でした。
ある日のセッションで、ふと、言葉が出ました。
「……生きていていいって、思いたい」
自分で言ったのに、自分がいちばん驚きました。
その瞬間、涙が止まらなくなりました。
悲しかったからじゃありません。苦しかったからでもありません。
ああ、やっと会えた——そう思ったんです。
30年以上、ずっとずっと、会えなかった私に。
そのとき、初めて気づきました。
「私なんて、いなくなっても誰も気づかない」と思っていたんじゃなかった。本当は、その反対だったんです。
「誰かに、いていいよって言ってほしかった」
「私は、生きていたい」
あの言葉は、諦めじゃありませんでした。私の中でいちばん大きな願いが、裏返しになっていただけでした。それに気づいた日も、私は号泣しました。
変わったのは、私の言葉だった
私はずっと、純子さんが私を変えてくれたと思っていました。でも、少し違うんです。
純子さんは、答えを渡しませんでした。
問いだけを置いて、待っていてくれました。
だから私は、自分の言葉で、自分の本音に会うことができたんです。
対話って、答えを教えてもらう時間じゃなくて、自分でも知らなかった自分に会いにいく時間なんだと思います。
終わりはないけれど
心をほどくことに、卒業式はないみたいです。
私はいまも定期的に純子さんと話しますし、最近もまた新しい気づきに出会って泣きました。
ひとつほどけると、奥からまたひとつ出てくる。
根っこは、思っていたより深くて広い。
でも、それでいいんだと思えるようになりました。
「私なんていらない」から、「私はここにいていい」へ。
そして今は、「私がここにいることに、意味がある」というところに立っています。
30年かかりました。でも、30年かかったからこそ、分かることがあります。
誰かが「私なんて、いてもいなくても同じだから」とぽつりと言ったとき、私はその言葉を、急いで打ち消そうとは思いません。その言葉の奥に、正反対の願いが隠れているかもしれないことを、知っているからです。
その願いに、その人自身がたどりつく日まで、隣で凪のように待っていたい。
それが、私が対話をしている理由です。
🌿
もし今、「何が苦しいのか、自分でもよく分からない」という気持ちがあるなら、一度、話してみませんか。
答えを渡す場所ではありません。あなたの中にある言葉に、一緒に会いにいく時間です。
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