
永遠の春 どこまでも続く坂道 (下) エピローグ
エピローグ 永遠の春 どこまでも続く坂道 【完結】
四月の青空は、どこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。遠くに望む丹沢の山々は瑞々しい新緑に萌え、のどかな住宅地を包む空気は、まるで春という季節の、穏やかな呼吸のように柔らかい。
公園のベンチに腰を下ろすと、足元では小さな子犬が、春の陽光をその毛並みに受けて楽しそうに跳ねている。僕はその無邪気な姿を眺めながら、不意に吹いた風に目を細めた。
満開を過ぎた桜が、スローモーションのように空を舞う。 はらりと、ひとひらの花弁が膝に落ちた、その時だった。
「……タローくん!」
春の風に乗って背後から届いたのは、世界中の誰もが知るあの歌声よりも少しだけ高く、弾むような、飾らない女性の声だった。
振り返ると、すぐ傍の家から、一人の女性が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。白地にライトブルーの花柄があしらわれた、柔らかなワンピース。白いシュシュで無造作に低くまとめられた髪が、彼女の足取りに合わせてうなじの辺りで柔らかく揺れている。
そこにあるのは、日だまりのような、只々屈託のない笑顔だった。
「ごめんなさい、待った?」
少しだけ息を弾ませて隣に立った彼女の手には、編み込みの小さなバスケットが握られている。
「ううん。ちょうど風が気持ちよくて、ぼーっとしてたところ」
「よかった。はい、これ。お腹、空いたでしょう?」
彼女は、ほのかに頬を赤らめて隣に座ると、バスケットから丁寧に包まれたサンドイッチを取り出した。少し不揃いな形が、彼女の懸命さと、ただの日常を慈しむ心の形に見えた。
「……ありがとう。美味しそう」
僕たちは他愛もない話を始めた。今日咲いた花のこと、子犬の悪戯のこと、そして、これから二人で歩んでいく静かな明日のこと。
かつて僕を締め付けたあの苦しい想いも、彼女を縛り付けた孤独な鎧も、今のこの穏やかな時間の中では、すべて淡く霞んでいた。
足元では子犬が、僕たちを見上げながら、幸せを噛みしめるように力強く尻尾を振っている。
不意に、ひときわ大きな風が吹き抜けた。空を埋め尽くすほどの桜吹雪が、僕たちの周りを取り囲む。
「ねえ、タローくん」
「……なに、由紀子さん」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、僕の肩にそっと頭を預けた。その温もり、その匂い、その柔らかな髪の感触。三十年という歳月をかけて、僕が、そして彼女が、ようやく辿り着いた約束の場所。
舞い散る花びらは、二人の輪郭を優しく、きらきらと塗り潰していく。悲しみも、後悔も、届かなかった言葉も、すべてを飲み込んで。
僕たちは、光の粒となった桜の中に溶け込んでいった。静かな、あまりに静かな、もう一つの未来へと。
【あとがき】
作者 冴木太郎
「もしもあの時、青春の幻影ともう一度出逢い、過去を改変することができたなら――」
私たちはしばしば、不可逆な現実に対して「あり得たかもしれない別の世界線」を空想する。本作『永遠の春 どこまでも続く坂道』は、そんな人間の根源的で、いささか感傷的なエゴイズムから出発している。
主人公のタローにとって、「BARD」のボーカル・浅井清香は、十七歳の時にその歌声に触れて以来、三十五年もの間、人生の傍らにある道標だった。
もっとも、彼はずっと狂信的な熱量で彼女を追いかけ続けていたわけではない。
大人になり、泥臭い実務に忙殺されるうちに、または様々な経験や人生を歩む中で、かつての熱狂は冷却され、彼女の音楽はいつしか「過去の美しい記憶」へと退行していた。だが、心の奥底にはずっと彼女の存在があり、それが突発性難聴という理不尽な喪失と孤独に直面した時、彼は再び、無意識のうちに彼女の歌声に救済を求めたのである。
かつて夢中になったものから一度は距離を置きながらも、人生の何かのきっかけで、再びその変わらない光にすがりついてしまう。読者の皆様にもきっと、そんな経験があるのではないだろうか。自らの青春を彩り、いつしか遠ざかりながらも、何かのきっかけで、再び心の支えとなってくれる特権的な存在が。それはある種の、初恋や若き日の恋愛の記憶にも似ているかもしれない。
五十代になったタローは、そうした痛みを抱えた実務家として過去へ跳躍する。そして、「彼女を孤独から救い出し、一人の生身の女性として穏やかな幸福を手にしてほしい」と願う。
実を言えば、執筆当初の私自身も、タローと共に彼女の悲劇的な運命を改変し、鮮やかに救済するストーリー(普通のハッピーエンド)を本気で構想していた。
しかし、物語を書き進め、表現者としての彼女のひたむきさと、気高い孤独を追いかけていく中で、用意していた安直な救済ストーリーは完全に機能不全に陥った。
多くの人の心を揺さぶるあの奇跡のような言葉たちは、決して平坦な幸せや、満たされた精神からは生まれない。それは、心の奥底にぽっかりと空いた欠落感や、寂しさ、孤独の中で育まれていくものなのだと、私はこの物語を通じて教えられた気がする。
「彼女を物理的に救済し、普通の幸せを与えること」は、不可避のトレードオフとして「表現者としての彼女の魂を殺すこと」と同義だったのではないか、と。
彼女は誰に強いられたわけでもなく、表現者として己のすべてを、言葉を音楽で伝えるということに捧げ、命を燃やし尽くす人生を自ら選び取った。その気高い意識レベルと覚悟の前に、タローの抱えていた「救いたい」という感情は、いかにも凡人の浅はかなヒューマニズムに過ぎなかったと思い知らされる。
それでもなお、願わずにはいられない。重圧からも、大衆からの消費からも解放され、少し不揃いながらサンドイッチを作り、ただ春の陽光の下で無邪気に笑う一人の女性であってほしいと。
現実の時間は無情に過ぎ去り、街の景色は上書きされ続けていく。
それでも、美しい自然の風景や、誰かがこの世界に遺してくれた言葉たちは、これからも決して色褪せることなく、私たちの記憶の中で生き続けるだろう。その人の心の原風景として。
最後までタローの長い旅路に付き合ってくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。
皆様の心に少しでも残るものがあったなら、これ以上の幸せはありません。もしよろしければ、この物語を読み終えた感想など、一言でもメッセージ、コメントなどいただけると、作者として望外の喜びです。
第一話、二話はこちらから
※本作はフィクションです。実在の人物、団体、事件等には一切関係ありません。物語の性質上、モデルとなった地名や施設が登場しますが、実在の場所等へのご迷惑となる行為はお控えください。
作者より 90年代の音楽、アーティスト、ZARD坂井泉水氏に敬意を表します。