
永遠の春 どこまでも続く坂道 (上)第一話・二話
街中に響き渡るミリオンセラー、メディアに露出しないミステリアスな美貌。 かつて日本中を励まし、そして2008年の冬に突然逝ってしまった。懸命に言葉を紡ぐ彼女の運命は変えられるのか。
孤高の女性アーティスト。ボーカリスト、作詞家として。一人の女性として。誰も知らなかったトップアーティストの彼女の「業」。
そして90年代の巨大な音楽業界と、そこにタイムリープして飛び込んだ不動産営業マン。彼の人生における未練とは。
大人のための「if」の物語。
あなたの人生の『もしも』にも問いかけてみてください。
【登場人物】
◆ 冴木 太郎(さえき たろう)
2026年を生きる五十二歳の不動産営業マン。ある出来事を機に、1995年の二十代の自分へと回帰する。実務で培った不動産と法務の知識を武器に、彼女の運命を変えようと奔走する。
◆ 浅井 清香(あさい さやか)
90年代の音楽シーンの頂点に立つユニット「BARD」のボーカル。本名、瀬町由紀子(せまちゆきこ)。その透明な歌声で国民的歌姫となるが、その裏では一切の妥協を許さず、静かに詞(ことば)を紡ぎ続けている。
◆ 黒田 則行(くろだ のりゆき)
音楽制作会社「ジーリング」を率いるプロデューサー。次々とミリオンヒットを仕掛ける天才的な嗅覚と、音楽を冷徹なビジネスとして見つめる目を持つ。不動産事業家の側面もある。
◆ 北尾(きたお)
BARDのメインディレクター。元証券マン。狂騒の音楽業界において、常に彼女の心と創作活動に静かに寄り添う温厚な理解者。
第一話:不完全な右耳と、あの日の残響
二〇二六年、三月。川崎にある小さな不動産会社の事務所には、ぬるい空気と微かな埃の匂いが淀んでいた。
デスクには飲みかけの缶コーヒーと、乱雑に積まれた物件資料や登記簿謄本の束。五十二歳の僕は無機質なパソコンのモニターから目を離し、凝り固まった首を小さく鳴らした。
体に沿うように仕立てたミッドナイトブルーのスーツ。シャツの袖口から微かに覗く腕時計、黒のレザーストラップを合わせた『レベルソ』。端正な白い文字盤と、アールデコ様式の直線的な装飾、ステンレスの輝き。それは、欲と思惑が積み重なる不動産業界にあって、僕にとっては誠実さと高潔さの象徴でもあった。
「タローさーん、あの地主、ホントだるいっすよ〜。もう嫌になっちゃいますよ」
外回りから帰ってきた後輩の安東が、小太りな体を揺らしヨレたネクタイを緩めながらドサリとパイプ椅子に腰掛け、愚痴をこぼす。
「あーあ、パーッと海でも行きたいっすね。サーフィンとかやってみたいなぁ」
「……やめておけ。お前じゃサメの餌だ」
手元の資料から目を離さずに冷たく言い放つと、安東は「厳しいっすね」と苦笑いした。
右側から投げかけられたその声は、薄い膜を通したように、わずかに遠く響いた。三ヶ月前に患った右耳の突発性難聴の後遺症だ。治療を続け七割程度までは回復したが、残りの三割が開放されることはなく、ステレオの世界が、僕の中だけで微妙にバランスを崩していた。
僕は苦笑交じりに相槌を打ちながら、窓の外に広がる薄ぼんやりとした青空に視線を移した。
不完全になった右耳は、世界から少しだけ日常の音を奪った。その静寂のせいか、僕の中では、かつて擦り切れるほど聴いた「ある声」の記憶が、最近やけに鮮明に響き続けている。
世間の記憶とは、どこまでも移ろいやすい。かつて、日本の音楽シーンの頂点に君臨し、神格化さえされた一人の女性アーティストがいた。「BARD 浅井清香」――。ミリオンセラーを連発し、誰もがその透明な声に励まされ、メディアに露出しないミステリアスな美貌に熱狂した。彼女が病魔との戦いの末、不慮の死を遂げてから長い年月が経った二〇二六年現在、その熱狂は確実に静かなものへと変わりつつあった。彼女の遺した楽曲は今も愛され続けているものの、世間一般にとっては「絶対的な神様」から、歴史に名を残す「偉大なアーティスト」の一人へと、その立ち位置を変えつつあった。
僕は、彼女の曲を「狂信的」に聴いていた一人だ。ただ、日々の実務に追われる僕にとっては、もはや積極的に彼女の音楽を聴き返すこともない、どこか別世界の出来事になっていた。
「そういえば」
安東が、冷蔵庫から冷えたペットボトルのお茶を取り出しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「タローさんって、大学の時、音楽業界に入るコネがあったんすよね?なんで蹴って、この不動産業界に就職したんすか?」
カチリ、と。
心の奥底で、何十年も厳重に鍵をかけていた箱の留め金が外れる音がした。
「……なんで、だろうな」
不意の問いに、僕は少しだけ視線を下へ向け、手首の腕時計のケースを指でスライドさせた。
カチャリと冷たい金属音を立てて、白い文字盤が裏返る。代わりに現れたのは、もう一つの時間を冷徹に刻み続ける、漆黒の文字盤だった。
「音楽業界は先が見えない気がしたし、なんとなくこっちの方が安定して稼げそうだったから。……そんな適当な理由だよ」
「へえ、意外っすね。もっと夢とか、熱い理由があるのかと」
大した興味も無さそうにつぶやくと、彼はそそくさと自分のデスクに戻り、溜まっている事務仕事を始めた。
僕は無意識に、反転させた黒い文字盤を指の腹でなぞっていた。
底に沈めていたはずの記憶が、静かに鎌首をもたげる。
そう、大学三年生の時、軽音サークルの先輩から「株式会社ジーリングへのコネがある」と誘われた時、僕はそれを一蹴した。
自問自答した結果、音楽は所詮趣味と判断したし、地に足の着いた不動産という仕事で稼ごうと思ったからだ。もちろん、自分の好きなアーティストが所属しているという理由だけで夢をみるつもりは微塵も無かった。
もっとも、今ではその選択肢は正しかったと思っている。
僕があの会社を蹴って、全く別の泥沼へと歩みを進めた後も、時代は「浅井清香」を消費し続けた。
やがて二〇〇〇年代に入っても、テレビの中で微笑む「観音様」のような彼女を見て、涙を流して喜んでいる無邪気なファンたち。そして、出し惜しみのようなPVの切れ端や、チープな特典商法で彼らから搾取し続ける関係者たち。どちらもおめでたい連中だ、と僕は完全に冷めきっていたのだ。
あいつらは何も分かっちゃいない。
高校生だった僕が、隣町まで自転車を漕ぎ、薄暗いビデオ屋の隅で血眼になって彼女の過去、モデル時代のグラビアビデオを探し回った理由。それは、決して若さゆえの性欲などという安い言葉で片付けられるものじゃない。あの粗い画質の中に映る、彼女の生々しい素顔が見たかったのだ。野心とコンプレックスを抱え、必死にもがいていた本名「瀬町由紀子」という一人の女性の、本当の呼吸に触れたかった。
もちろん、彼女の生み出す音楽が好きだった。その美しい詞の数々も、それこそ擦り切れるほどに聴き込んできた。
だが、僕の魂の根底にあるのは、観音様への信仰ではない。大衆が消費する上っ面の奥で、自分の夢のためにもがき続けた『浅井清香』の素顔と、その陰で生き抜いた本名『瀬町由紀子』という生身の女性。その両方の存在そのものをこの手で本当に確かめたいという、誰にも癒せない強烈な渇望、未練だった。
だからこそ、作られた幻影に踊らされるだけのファンでいることにも、彼女を神格化して売り捌くシステムの一部になることにも、虫唾が走ったのだ。
すべては過去の話だ。
しかし――。
歴史に“たられば”は無いと頭では分かっていても、胸の奥には、何十年経っても決して消えない鈍い痛みが居座り続けている。
かつて、自分の足で現実を生き抜くために、あえて彼女の音楽や虚像から距離を置いた。すべてを心の奥底へ沈め、割り切ったつもりでいたのだ。だが、そんなことでこの痛みが誤魔化せるはずもなかった。
たしかに、僕は彼女のことを「完全に」忘れたことなど、これまで一度もなかったのだから。
もし、あの時。ジーリングへの誘いを断らず、あの会社へ飛び込んでいたら。
一人のスタッフとして彼女のすぐ側にいたのなら……あの日、たった一人で悲劇へと向かう彼女を、ほんの少しでも引き留めることができたのだろうか。
その意味のない後悔が、最近になってやけに生々しく輪郭を持ち始めたのは、間違いなくこの不完全な右耳のせいだ。突発性難聴…最初は完全に音が遠ざかり、激しい耳鳴りが轟く世界に放り出された。あの夜を経験した時、とてつもない孤独と、生きることへの恐怖が襲ってきた。
音のない暗闇の底で、僕は心細く、あの透明な声を求めていた。もう一度、あの声に、彼女に救われたかった。世界から取り残されたような僕の傍らに寄り添い、ともに伴走してほしいと――情けないほどに願ってしまったのだ。
二〇〇八年、彼女は逝ってしまった。
療養先での、不慮の事故だった。
取り返しのつかない喪失感。いくら悔やんだところで、過去をやり直せるような都合のいい扉など、この現実のどこにも存在しない。
――少なくとも、この直後の「あの瞬間」までは、僕はそう思っていた。
第二話 時の媒介人と、不可逆の契約
夜十一時前。安東が帰り、静まり返った事務所で、僕は一人、複雑な権利関係が絡む面倒な案件の資料と睨み合っていた。
外は冷たい春の雨。ふと、入り口のドアベルが低く鳴った。
こんな時間に飛び込みの客か?警戒しながら顔を上げると、すりガラスのドアの向こうに人影が立っていた。
「夜分に恐れ入ります。少々、特殊な『物件』の仲介でお伺いしました」
入ってきたのは、仕立ての良いグレーのスーツを着た初老の男だった。外は土砂降りだというのに、彼の肩や革靴には、雨滴一つ付いていない。
「……うちは飛び込みはお断りしている。それに、その手のきな臭い物件を扱うつもりはない。帰ってくれ」
僕が冷たく言い放つと、男は薄く笑い、勝手に客用のパイプ椅子を引き寄せて、ゆっくりと腰を下ろした。
「ええ、冴木さん、ご立派な実務家としての矜持は存じ上げております。ですが、今回の物件は『空間』ではなく『時間』です。……一九九五年、港区六本木。ジーリングのスタジオ前。あなたは、そこのパスポートを強くお望みのはずだ」
男の言葉に、僕は息を呑んだ。
全身の毛穴が一気に開くような感覚。心臓の鼓動が、不完全な右耳の奥で嫌な音を立てる。
「……なんだって?時間…何を言ってるんだ。そして、どうして、あんたが僕の望みを知っている?」
「どうしてか、などということは、どうでもいいんですよ、冴木さん」
男は表情一つ変えずに、鞄から古びた一枚の契約書と、一九九五年の日付が入った偽造の運転免許証を取り出し、デスクの上に滑らせた。
「我々の業界では、顧客の『強烈な需要(ニーズ)』だけがすべてです。あなたの中で、過去への未練というエントロピーが極限まで高まった。その結果、この座標への『抜け道(ワームホール)』が開いた。私はただ、その仲介(媒介)に来たに過ぎません」
僕は黙って、デスクに置かれた免許証を手に取った。写真には、二十一歳の頃の僕の顔が精巧に印刷されている。公安委員会の印章も、透かしの入り方も完璧だ。どこでこんなものを…。
「……手が込んでいるな。どこの詐欺師か知らないが、警察を呼ぶ前にさっさと消えろ」
僕が受話器に手を伸ばすと、男は深くため息をついた。
「警察を呼ぶのは構いませんが、惜しいですね。あなたは不動産の実務家として、数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずだ。目の前に『絶対に手に入れたい優良物件』がある。瑕疵(リスク)はあるかもしれない。しかし、指をくわえて見逃せば、一生後悔する。……リスクを取ってでもリターンを取りに行くのが、プロフェッショナルではないのですか?」
男の挑発に、僕の手がピタリと止まる。
「くくく、こちらは、向こうでの初期費用にお使いください。……当然、当時の紙幣で揃えてあります」
男は淀みない動作で、ずっしりとした重みのある茶封筒を書類の横に置いた。
「過去の事象に干渉すれば、現在のあなたが持っている何か――例えば、その残された右耳の聴力や、築き上げたキャリア、あるいは『あなたという存在そのもの』が、対価として消滅するかもしれない。」
僕の喉が微かに鳴る。
「……待て。瑕疵(リスク)は分かった。だが、出口戦略(エグジット)はどうなっている? これは片道切符か? それとも、僕の任意のタイミングで現代(ここ)へ帰ってこられるのか」
「さすが、不動産のプロフェッショナルだ。抜かりがない」
男は満足げに目を細め、静かに首を振った。
「結論から言えば、これは片道切符です。あなたの意志で『そろそろ帰ろう』とボタンを押せるような都合のよい機能は付いていません。帰還の条件はただ一つ――あなた自身の『過去への未練』が完全に清算されること。それだけです」
「未練が、清算される……? 彼女の命を救えばいいのか」
僕が問い詰めると、男はくくくと喉を鳴らして笑った。
「おめでたい。我々は神でも救世主でもないんですよ、冴木さん。時間(システム)が測るのは、世界の寿命ではなく、あなた自身の魂の『乾き』の行方だけです。あなたが本当に求めたものが清算されるか、あるいは、致命的なエラーを起こしてタイムラインから弾き出された時、この契約は自動的に終了し、あなたは強制的にこの二〇二六年の現在へと引き戻されます。もちろん、無事に元の姿のまま戻れる保証もどこにもありませんが。……いずれにせよ、未練が完全に清算された時、対価の執行手続きに入ります」
頭のどこかで、あの悲劇が高速で再生されていた。ミリオンセラーの果てに彼女を襲った、残酷な病魔の数々。そして二〇〇八年の冬、闘病の末に彼女を奪い去った、あの冷たいコンクリート。
もし、あの時代へ戻れるのなら。僕の知る知識と、実務家としてのすべての手札を使って彼女の未来を変えられたら。あの病の芽さえも摘み取ることができたなら――
「時間は、観測者にとって常に不可逆です。一度サインをすれば、途中で投げ出すことはできません。……さあ、どうしますか? このままここで、他人の土地の権利を右から左へ動かすだけの、退屈な余生を過ごしますか?それとも、自分の人生の最大の『たられば』を清算しに行きますか?」
男は、黒光りする万年筆を僕の前に置いた。時計の針が、深夜零時を告げようとしている。
男の言葉が、不完全な右耳の奥で、呪いのように反響した。
冷静になれ、と頭の中で激しく警鐘が鳴る。
こんなものは、タチの悪い詐欺か戯言ではないのか。
だが。
瑕疵(リスク)の大きさなど、もはやどうでもよかった。圧倒的なリターンを前にして足がすくむようでは、どのみちこの先の退屈な余生など生きてはいけない。
気がつけば、僕は重みのある黒光りした万年筆を手に取っていた。
これまで何百回、何千回と、ヒリヒリする契約もしてきた。だが、これほど狂気を孕み、指先が熱く震える取引は初めてだった。
僕は薄く笑う男の目の前で、これまでに築き上げてきたすべての理性を切り捨てるように、その署名欄へと深く、自らの名前を刻み込んだ。
※本作はフィクションです。実在の人物、団体、事件等には一切関係ありません。物語の性質上、モデルとなった地名や施設が登場しますが、実在の場所等へのご迷惑となる行為はお控えください。
【作者より】上下全巻完結
次回・第三話は あの伝説のレコーディングスタジオで、タローと浅井清香の「本当の出会い」が幕を開けます。どうぞお楽しみに──
90年代の音楽、アーティスト、ZARD坂井泉水氏に敬意を表します。