
2話め:「患者家族」の言葉すらしらずに
患者家族:
患者の治療やケアに関わる家族をさす。
患者の治療選択や日常生活に影響を及ぼす一方で、自らの生活も変化してさまざまな問題に直面するため、「第二の患者」ともいわれる。
わたしの通っていた園には、経験豊富な園長先生と20代の若くて親しみやすい先生がいた。バブルの空気はまだ確かに残っていて、おゆうぎ会ではディスコナンバーに合わせてうさぎのしっぽをつけたお尻をふりふりするようなダンスを踊っていた。
新卒採用3日目で登園しなくなり、カケオチ同然(それは誰かが言っていた噂を聞き齧った子どもたちの間であっという間に広まった)で結婚退職してしまった先生もいた。
そんな時代、がんは非常にむずかしい病気だった。
アナウンサーの逸見政孝さんが自身の病について「異例の記者会見」を行ったのは1993年だ。
今はほんとうに色々な治療法が見つかっているけれど、この場でさえわたしはこのたった二つの文字を書きたくない。
やまいだれに悪い細胞が潜んでいるように見える「癌」という漢字が、使われず忘れ去られてしまう世の中になってほしい。
母の血液に異変が見つかったのは、わたしが5歳か6歳の頃。その時の両親は今のわたしより若く、父はその病気の情報を得るために国会図書館まで赴いたという。
検査入院や抗がん剤の治療で入院する間、両方の祖父母がわたしの面倒を見た。
父方の祖父母は、電車で40分ほどの距離に住んでいて、「帰宅したら手を洗う」、「寝る前に歯を磨き、トイレに行く」といった基本的な生活習慣は、父方の祖母がトレーニングをしてくれた。
父は仕事をしながら病院に赴き、素人が聞いても分からない治療方針に耳を傾け、よろしくお願いしますと医師に頭を下げる日々が続いた。
母のいない寂しさは何をもってしても埋めることはできず、わたしは周囲の大人を慮ることもできない年齢だった。
父が帰宅するまで夕食は食べないと言い張って、途方に暮れさせたこともあったし、母が退院しないなら風呂には入らないと言って困らせたこともあった。
この時の両親の精神的、体力的なつらさは想像しても想像しきれない。
逃げられたら、とどれほど強く思ったことだろう。
朝目覚めて、まったく別の現実を生きられたら、と夢を見たことだろう。
後年、父はその重荷に疲れて逃げ込む場所を探したことがあったけれど、それは致し方のないことだった。
幼児をかかえた当時の両親はわたしの養育をおろそかにしなかった。
その重さを感じたのは、20代のある瞬間だった。
何度目かの大きな出来事の時、唐突に父がか弱く見えて、これから自分が支えなければならないのだと理解した。
もし究極の選択をする時がきても、それを下すのは父ではなくわたしになったのだと気づいた瞬間、とてつもなくこわくて泣き出したくて、放棄したくなった。
しかし、当時の両親は放棄しなかった。
その事実が、わたしを患者家族として足止めする。
一方で、患者家族という役割を拒否することはいつだってできただろうと思う。
実際、大部屋の病室にはいろいろな人がいて、家族がいたし、「患者家族」のあり方は十人十色だ。