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【SNSの女】第1章 盛られた世界

    朝、目が覚めて最初にしたことは、カーテンを開けることでも顔を洗うことでもなく、スマホのインカメで自分の顔を確認することだった。
    むくみ。前髪の割れ。昨日のマスカラの名残。乾いた唇。
     美咲は無言で画面を閉じた。
    港区のタワマン15階。住所だけ言えば、それなりに聞こえる。けれどこのマンションでは15階は「低層階」だった。内見のとき不動産会社の男が、「低層なので、同じ間取りでも少し抑えめなんです」と笑ったのを覚えている。抑えめ、と言いながら家賃は12万円した。手取り24万の事務職にとって、ぜんぜん抑えめじゃなかった。
    それでも契約したのは、港区の住所がほしかったからだ。
     プロフィール欄に書ける住所。タクシーで帰ってきたときに見上げる外観。宅配便の伝票に印字される地名。そういうものが、自分を少しだけ上等にしてくれる気がした。
    ベッドから降りて、床に散らばった服をまたいでキッチンへ行く。冷蔵庫には水、美容ドリンク、コンビニのサラダチキン半分、開封済みのヨーグルト。丁寧な朝とはほど遠い中身だ。
     それでも美咲はスマホを開き、インスタのストーリー作成画面を立ち上げる。保存しておいたスタバのカップの写真に、白い文字を重ねた。
    『おはよ☀️ 今日もがんばろ』
    投稿。
     数秒で既読がつく。かわいい、朝活えらい、今日もきれい。そんな意味のない反応が小さく並ぶ。
    その間、美咲の手にあるのは、1階のコンビニで買った100円コーヒーだった。紙カップですらない、蓋つきの安いホットコーヒー。湯気は立っているのに、画面の中の朝よりずっと生活くさい。
    美咲は窓際に立って外を見た。もっと上の階なら、東京はもう少し特別に見えたのかもしれない。15階から見える景色は、思っていたほどきらびやかじゃない。ただビルが並んでいて、道路が走っていて、朝の配送トラックが小さく動いているだけだ。
    それでも、ここに住んでいる自分を投稿の中で見ると、少しだけ安心する。
     ちゃんとしている。選ばれている。遅れていない。
     そう思える数秒のために、美咲は毎朝、起き抜けの現実より先に虚像を起動する。
    フォロワーは1万2000人。
     数字は、朝の顔よりずっと機嫌がいい。
    通勤電車の中で、美咲は家計簿アプリを開いて、3秒で閉じて、また開いた。見なければ減らないわけじゃないのに、見ると確実に気分が悪くなる。
    給与振込、24万3000円。
     家賃、12万円。
     カード引き落とし予定、7万8000円。
     バッグの分割、3万2000円。
     美容皮膚科、1万8000円。
     ネイル、まつげパーマ、ヘアカラー、化粧品。
    残りを頭の中で引き算して、美咲は何も考えないことにした。計算すると、食費はまた月2万円を切る。港区女子っぽい投稿の裏で、平日の昼はコンビニのおにぎり1個と味噌汁、夜はカップ麺かサラダチキン。そんな生活をしている人間の残高じゃない、と思う。けれどその残高を作ったのは、全部自分だ。
    会社では、そのことは1ミリも見えない。
    美咲は小さな商社の事務職で、いわゆる「無難にできる人」だった。電話も取る。請求書も処理する。会議室の予約も、経費精算の不備も、細かい確認も、だいたいそつなくこなす。
     愛想がいいわけじゃない。でも感じが悪いわけでもない。
     困っている顔を見せないから、周りも困っていると思わない。
    「美咲さん、これ先方に送る前に1回見てもらえます?」
    隣の席の後輩が差し出したメール文面を、美咲はざっと読む。添付漏れ、件名の表記ゆれ、語尾の硬さ。30秒で直せるところだけ指摘して返すと、後輩はほっとした顔をした。
    「ありがとうございます。美咲さんって、ほんと抜けないですよね」
    「抜けるよ、普通に」
    笑って返す。
     ほんとは、抜けないんじゃない。抜ける余裕を見せられないだけだ。
    昼休み、同期たちが次の連休の話をしていた。韓国、箱根、彼氏と温泉、友達の結婚式。美咲はコンビニの味噌汁の蓋をはがしながら、「いいね」「楽しそう」と相槌を打つ。
    「美咲ちゃんは? また港区のどっか行くの?」
    軽い調子で言われて、美咲は一瞬だけ笑顔を整えた。
    「どうだろ。まだ未定」
    未定、というより未払いが怖い。
     でもそんなことは言わない。
    オフィスの鏡に映る自分は、ちゃんとして見えた。ピンクベージュのネイル、淡い色のブラウス、崩れにくいベースメイク、派手すぎないブランドバッグ。見た目だけ整えておけば、中身まで整って見える。
     それがこの数年で身につけた処世術だった。
    午後の仕事を片づけながら、美咲は思う。
     私って、外から見るとたぶん何も困ってなさそうなんだろうな、と。
     住んでる場所も、それなり。服もそれなり。インスタも華やか。
     でも実際は、ずっと薄い氷の上に立っているみたいだ。割れそうな音はしているのに、まだ沈んでいないから、誰も気づかない。
    帰宅して玄関を開けた瞬間、美咲は小さく息を吐いた。
     外では「港区タワマン住みの女」でも、部屋に入ればただの1人暮らしの女だ。
    ワンルームではないし、極端に狭くもない。けれど整ってはいない。
     ソファには昨日脱いだワンピースがかかり、床には通販の段ボールが1つ、開けかけのまま置いてある。ダイニングテーブルの端にはクレジットカードの明細、化粧品の空箱、読みかけの雑誌。クローゼットの扉は少しだけ開いていて、中から一度しか着ていないワンピースの袖がのぞいていた。
    どれも、港区女子の部屋として映える角度ではない。
     でも現実はいつも、画角の外側に溜まっていく。
    美咲はバッグを置いて、冷蔵庫から水を出した。
     流し台の横には、洗うのを後回しにしているマグカップ。シンクの中にはフォークが1本。美容に気を使っている女のキッチンというより、疲れた会社員の台所だ。
    クローゼットを開ける。ハンガーに並ぶ服の半分以上は、「映える」ために買ったものだった。身体にぴったり沿うワンピース。オフショルダーのトップス。高かったけれど、写真の中では値段以上に見える服たち。
     バッグは2つ。どちらもローンが残っている。
     靴箱にはヒールが何足もあるのに、歩きやすい靴はほとんどない。
    美咲は鏡の前に立ち、自分の全身を見る。
     まだ会社仕様の顔だ。夜の自分になる前の、無難で、使いやすくて、誰にも引っかからない顔。
    スマホが震える。カード会社から引き落とし予定額の通知。
     見なかったことにして、すぐ画面を閉じる。
    こういうのは、あとでちゃんと向き合えばいい。
     来週。給料日後。ボーナスが入ったら。
     そうやって後回しにしたものが、部屋の中にも生活の中にも静かに沈殿している。
    それでも美咲は、完全に壊れているわけではない。会社には行けるし、家賃もまだ払えているし、見た目も保てている。
     だから余計に厄介だった。
     助けを呼ぶほどでもない状態が、いちばん長引く。
    金曜の夜が近づいている。
     この部屋の空気を一度切り替えれば、また別の自分になれる。
     そう思って、美咲はクローゼットのいちばん見栄えのいいワンピースへ手を伸ばした。
    金曜の夜には、準備がいる。
    ただ出かけるだけじゃない。
     「夜の港区にいても浮かない自分」に仕上げる準備だ。
    シャワーを浴びて、髪を巻く。前髪の隙間を埋める。ハイライトを頬骨と鼻筋に足す。まつげのカールを指先で整えて、昼より少しだけ赤みの強いリップを塗る。ワンピースは身体の線がきれいに出るもの。バッグはロゴが目立ちすぎないけれど、見る人が見れば分かるやつ。アクセサリーは華奢なゴールド。やりすぎると品がなく見えるし、引き算しすぎると地味になる。
     港区の夜は、その微妙な調整だけにはやたら厳しい。
    鏡の前で横を向き、顎を少し引く。
     大丈夫。ちゃんとそれっぽい。
    スマホを開いて、自撮りを撮る。正面、斜め、少し伏し目。10枚くらい撮って、その中から1枚だけ残す。肌のトーンを整え、フェイスラインをほんの少しだけ締める。やりすぎない。バレない程度に、でも実物より少しだけきれいに。
     それがいちばん難しい。
    ストーリーに上げるのは自撮りではなく、マンションのロビーで撮ったヒールの先とバッグの写真にした。キャプションはつけない。何も言わないほうが、見ている側が勝手に想像してくれる。
    エレベーターで1階に降りる。
     高層階の住人らしい女と乗り合わせて、美咲は無意識に相手のバッグを見た。自分より新しい。たぶんもっと高い。香水の匂いも上品だ。
     ほんの一瞬で、自分が「低層階」であることを思い出す。
    外に出ると、夜の空気は昼より少し甘い。
     金曜の街には、「これから何かが起こる」と思っている人間の顔が多い。美咲もその1人のふりをして、タクシーを止めた。
    六本木までお願いします、と告げる。
     車窓に映る自分は、朝のむくんだ顔とは別人みたいだった。
     こういうとき、美咲は少し安心する。
     ちゃんと作れた、と思う。
     作れた自分は、少なくとも今夜のあいだは、現実の残高を忘れさせてくれる。
    タクシーの中でインスタを開く。
     『friday night🥂』
     それだけ打って投稿する。
     画面の中では、もう夜が始まっていた。
    ラウンジはいつも同じ匂いがした。
     香水、酒、照明の熱、男たちの自信、女たちの作り笑い。
     高いソファと暗めの照明は人をきれいに見せるけれど、会話まで上等にはしてくれない。
    「美咲ちゃん、今日めっちゃいいじゃん」
    席についた瞬間、顔なじみの男がそう言った。30代後半。何かの会社をやっているらしいが、美咲はその会社の名前をうろ覚えだった。港区には「経営者」が多すぎて、1人ひとりの輪郭なんてすぐにぼやける。
    「ありがとうございます」
    笑う。角度も声のトーンも知っている。
     うれしそうすぎず、でもつまらなさそうでもなく。
     男の気分をよくするには、その中間くらいがちょうどいい。
    グラスが置かれ、シャンパンが注がれ、誰かが乾杯を言い、誰かが時計を見せ、誰かが最近開いた店の話をする。
     ドバイ。投資。会員制。鮨。紹介制。
     単語だけ並べれば華やかだ。
     でも会話の中身は、前にも何度か聞いた気がした。
    隣の席の女の子が、シャンパンのラベルがちゃんと写る角度で写真を撮っている。美咲もつられて、自分のグラス越しにテーブルを1枚だけ撮る。ストーリーに流せば、たぶん反応はいい。実際、投稿してすぐにいいねと絵文字リアクションがついた。
    画面の中の自分は、楽しそうだ。
     金曜の夜、港区のラウンジ、泡、笑顔。
     誰かが憧れるには充分な材料がそろっている。
    でも、美咲はもうだいぶ前から、この空気に酔えなくなっていた。
    奢られること。ちやほやされること。高い店の名前を知っていること。
     昔はそれだけで、自分が少し選ばれた側へ寄れた気がした。
     今はただ、うまく立ち回るための作業に近い。
    この世界では、価値がある女でい続けなければならない。
     かわいくて、軽やかで、空気が読めて、写真映えして、男の話を気持ちよく聞ける女。
     少し疲れた顔をしただけで値打ちが落ちるような、そんな場所だ。
    美咲は笑いながら、自分の中に薄い倦怠が広がっていくのを感じていた。
     もう楽しくない。
     でも、じゃあやめたら何が残るのかも分からない。
    その迷いを誰にも見せないまま、美咲はまたグラスを持ち上げた。
    2軒目に行こう、という流れになったのは、夜もだいぶ深くなってからだった。
    「このあと、紹介制のバー行かない?」
    「美咲ちゃんも来るよね?」
    酔いの回った男たちの声は、最初より少し大きく、少し雑になっていた。
     美咲はグラスをテーブルに置いて、笑顔の形だけ保ったまま言う。
    「すみません、明日朝早いので、私は帰ります」
    「え、もう帰るの?」
    初対面に近い男が、あからさまに不満そうな顔をした。高そうな時計をして、ジャケットの袖口だけやたらきれいな男だった。名刺にはコンサルだか投資だか書いてあった気がする。
    「もうちょっと付き合ってよ。俺、次いい店知ってるから」
    「本当に今日は」
    「えー、ノリ悪くない?」
    笑っているのに、目が笑っていない。
     美咲はその瞬間、もうだめだと思った。
     この空気の中で無事に帰るには、自分で抜けるしかない。
    立ち上がろうとした腕を、その男が軽くつかんだ。強い力じゃない。けれど、酒の入った手の熱と、「少しくらい付き合えよ」という無言の圧が気持ち悪かった。
    「離してください」
    「そんな怒んなくてもよくない?」
    謝っているようで、謝っていない声。
     周りは見て見ぬふりをする。こういうとき、誰も本気で助けてはくれない。女の子たちも、ちらっと見て、すぐに別の話題へ目を逃がした。
     この世界は、華やかなくせに、案外薄情だ。
    美咲は腕を引き、バッグを掴んだ。
    「失礼します」
    エレベーターに乗り込んで扉が閉まるまで、背中に視線を感じた。
     心臓がうるさい。鏡に映る自分は、さっきまでの「friday night」の女なのに、今はただ帰りたいだけの顔をしていた。
    外へ出ると、夜風が思ったより冷たかった。
     六本木のネオンは変わらずきれいで、道路脇にはタクシーが並び、笑いながら歩く人たちが次々通り過ぎる。たった今まで自分もその一部だったはずなのに、外へ出た瞬間、急にガラス越しの世界みたいに遠く見えた。
    盛られた世界は、外側から触ると意外なくらい薄い。
     薄いくせに、そこにしがみつくにはお金も気力も要る。
     美咲は早足になりながら、今さらそんなことを考えていた。
    後ろを一度だけ振り返った、その瞬間だった。
    右足のヒールが、ぐらりと傾いた。
     次の一歩で完全にバランスを崩し、美咲は前につんのめる。バッグの中身が少し飛び出し、スマホがアスファルトに当たって鈍い音を立てた。
    「っ……」
    痛い、より先に、最悪、と思った。
     立ち上がろうとして気づく。右のヒールが根元から折れている。細いピンヒールが変な角度でぶら下がっていて、もう履き物として機能していなかった。
    六本木の路上。
     ブランドのワンピース。きれいに巻いた髪。崩れかけのメイク。
     その足元だけが、あまりにも情けない。
    美咲はしゃがみこんだまま、しばらく動けなかった。
     数十分前までシャンパンの写真を上げていた自分が、今は壊れたヒールを持って座り込んでいる。
     インスタには絶対載せられない姿だった。
    「大丈夫ですか」
    声をかけられて顔を上げると、そこにいた男は、この街の文脈からきれいに浮いていた。
    黒いリュック。ネイビーのパーカ。グレーのパンツ。スニーカー。
     ユニクロ、という言葉がそのまま人の形を取ったみたいな服装だった。
     ラウンジの入口に立っていたら、たぶん誰にも相手にされないタイプ。
    「……大丈夫、です」
    反射で言ったけれど、全然大丈夫じゃない。
     男は折れたヒールを見て、少し困ったように眉を寄せた。
    「ヒール、折れてますよね」
    「まあ……はい」
    「近くにコンビニあります」
    だから何だろう、と思うより先に、男は周囲を見回した。
    「ちょっと待っててもらえますか。サンダル、あるかもしれないんで」
    「え、いや、そんな」
    言い終わる前に、その男はもうコンビニの方へ走っていた。
    数分後、息を切らして戻ってきた彼の手には、透明なビニール袋があった。中に入っていたのは、青いビーチサンダル。
     絶望的に映えない。
     六本木で履くものじゃない。
     今夜の美咲のコーディネートとは、世界観が180度違う。
    でも、そのときの美咲に必要だったのは、まさにそれだった。
    「サイズ、合うか分からないですけど」
    男が袋からサンダルを取り出す。
     美咲は折れたパンプスを脱ぎ、ストッキング越しにビーチサンダルへ足を入れた。少し大きい。でも歩ける。ちゃんと立てる。
    その瞬間、泣きたくなるくらい安心した。
    「ありがとうございます……」
    「よかった」
    男は本当にそれだけを言った。
     送るとも、連絡先を教えてとも、何も言わない。役に立った自分を見せつける感じもない。
     ただ、困っている人に必要なものを持ってきただけ、みたいな顔をしている。
    「いくらでしたか」
    「大丈夫です」
    「いや、払います」
    「ほんとにいいですよ」
    「よくないです」
    少しだけ困ったように視線を泳がせてから、彼はレシートを見た。
    「……576円です」
    576円。
     その数字だけが、なぜか妙にくっきり耳に残った。
     ラウンジで開いていたシャンパンの、ひと口にもならない金額。
     でも今の自分を立たせている値段。
    「今じゃなくていいので」
    彼はレシートを折って袋に入れながら言った。
     「たぶんタクシー乗ったほうがいいです」と続ける声は、驚くほど平坦で親切だった。押しつけがましさがない。港区の男たちの「助けてやった感」とは別の種類のやさしさだった。
    「……お名前、聞いてもいいですか」
    「あ、健太です」
    「私は美咲です」
    そのあと一瞬、変な間が落ちた。
     こういう流れなら、普通はインスタを交換する。少なくとも美咲の知っている世界ではそうだ。相手の生活も、店も、友達も、趣味も、何なら人間性っぽいものまで、全部インスタにまとまっている。
     でも、美咲は自分のインスタを今この人に見せたくなかった。
    シャンパン。ホテル。ブランドバッグ。加工した自撮り。
     たった今、六本木の路上でヒールを折ってしゃがみこんでいた自分とは、あまりにもつながらない。
    気づけば、美咲はこう言っていた。
    「……X、やってますか」
    口にした瞬間、自分で少し驚いた。
     なんでインスタじゃないんだろう。
     でも、たぶん今の自分に近いのはそっちだった。
    健太も少し意外そうにしたが、「一応」と言ってスマホを取り出した。ケースのないシンプルな端末。表示されたアカウントは、飾り気のないアイコンに短いID。プロフィールには技術系の話と、ラーメンと、夕焼けの写真を上げます、みたいな1文だけ。
    美咲は、少しだけ笑いそうになった。
     自分の世界からいちばん遠い種類のアカウントだ。
    「フォローしていいですか」
    「はい。あ、でもほんとに何もないですよ」
    「いいです」
    読み込んだあと、プロフィールの端に『墨田区』と書かれているのが見えた。港区と墨田区。距離にしたらそこまで遠くないのに、気配は全然違う。
    「576円、今度返します」
    「律儀ですね」
    「そういうとこだけは」
    「だけ、なんですか」
    そこで初めて、健太が少し笑った。
     派手じゃないけれど、ちゃんと人の顔になる笑い方だった。
    タクシーが止まり、健太は軽く手を上げた。美咲もつられて手を振る。
     車に乗り込んでドアが閉まったあと、美咲はスマホを開いた。
    インスタの通知は相変わらず増えていた。
     『楽しそう』『今日も可愛い』『どこのお店ですか?』
     画面の中では、まだグラスが光っている。
    美咲はその画面を閉じ、代わりにXを開いた。
     さっきフォローしたばかりの健太のアカウントには、技術メモみたいな投稿と、近所のラーメン屋の感想と、夕焼けの写真が並んでいた。どれも映えなかった。どれも盛っていなかった。
    なのに、妙に目が離せない。
    足元を見る。青いビーチサンダル。
     バッグの中には折れたヒール。
     そして、576円という数字。
    今夜のことをインスタに上げることはたぶんない。
     六本木の路上でヒールが折れ、ユニクロみたいな男にコンビニのサンダルを買ってもらった、なんて。そんなの、今までの自分の物語に入る余地がなかった。
    でも、美咲は思う。
     もしかしたら、こういう夜のほうが、よっぽどほんとうなのかもしれない、と。
    タクシーの窓に映る自分は、ラウンジで笑っていた女とも、朝スタバの写真を上げた女とも少し違って見えた。
     ただ少し疲れていて、少し情けなくて、でもたしかに助けられた顔だった。
    その顔のまま、美咲はもう1度だけXを見た。
     健太の最新のポストは、数時間前のものだった。
    『夕焼け、きれいだった』
    それだけの短い文章が、なぜだか気になった。
     576円のサンダルと同じくらい、飾り気がなくて、意味があるのかないのか分からないのに、妙に残る。
    美咲はスマホを握ったまま、窓の外の夜景を見た。
     盛られた世界は、まだ自分のすぐ近くにある。
     けれどその外側にも、別の景色があるのかもしれない。
    そのことを、今夜はじめて少しだけ信じた。

    続き
    第2章 スペースの住人たち

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