見出し画像

【連載小説】プロローグ「死刑前夜」 告白 ~Maréchal de France~

 石畳を踏む靴音だけが、地下牢に静かに響いていた。

 壁に掛けられた松明は弱々しく揺れ、湿った石壁へ長い影を這わせる。鼻を突く黴の臭い。天井から滴る水音。鉄格子の奥から漏れる呻き声が、重苦しい沈黙をわずかに揺らしていた。

 通路はどこまでも暗い。左右に並ぶ牢獄には、死を待つ者たちが押し込められていた。だが、そこに生者の気配はほとんどない。闇の奥で時折かすかに身じろぐ影だけが、辛うじて命の残滓を思わせた。

 先を歩く看守は一言も発しない。腰に提げた鍵束だけが、歩みに合わせて鈍く鳴る。

 ――カチャリ。――カチャリ。

 地下牢そのものが、その音に合わせて呼吸をしているようだった。やがて通路は行き止まりに突き当たる。

 そこだけ空気が違った。他の牢よりも分厚い鉄格子、黒ずんだ扉、何重にも掛けられた錠。

 看守は無言で鍵を差し込み、ゆっくりと回した。重い金属音のあと、扉が低く軋みながら開く。

 牢内は暗かった。差し込む松明の灯は、奥まで届かない。

 目を凝らすと、闇の中に一人の男が壁にもたれ、片膝を立てて座っていた。乱れた長い髪。身にまとうのは粗末な囚人服。その姿だけ見れば、どこにでもいる罪人だった。

 男は足音に気付くと、ゆっくりと顔を上げた。本当に静かに、口元だけが歪む。それは死を目前にした男の笑みではない。幾度も死線を越えてきた戦場の男の、不敵な笑みだった。

 そして――暗闇の奥で、その双眸だけが獣のように鋭く光った。

「……久しいな、ニコラ」

 牢へ足を踏み入れた男は答えない。

 看守はニコラへ一度だけ視線を送り、無言で頷く。ニコラもまた、小さく頷き返した。看守は静かに一礼すると、重い鉄扉を閉めた。再び鍵が掛けられる。

 地下牢は、二人だけの世界になった。

 長い沈黙。互いに歳を重ねた。ニコラの記憶にある男と、目の前の死刑囚。その間には、十年近い歳月だけでは説明できない隔たりがあった。

 やがて、ニコラが低く口を開いた。

「……本当は、お前の顔など見たくはなかった」

 ジルは肩を揺らして笑う。

「奇遇だな。それは私も同じだ」

 その不敵な笑みだけは、かつて戦場で見たものと変わらない。

「ならば、なぜ来た」

 ニコラは一瞬だけ目を伏せた。

「お前の最期を見届けるためだ」

「情けか」

「違う」

 ニコラは首を横に振った。

「義務だ」

 再び沈黙が落ちる。湿った空気だけが二人の間を流れていく。

 ニコラは静かに続けた。

「……同じジェハンヌ・ド・アルクを知る人間として」

 その名が牢獄に落ちた瞬間、獣のようだったジルの瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 ニコラはそれを見逃さなかった。時を経てもなお、その名だけは、この男の心を揺らすのだ。

 男は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。

「……そうか」

 再び目を開き、ゆっくりと壁から身体を起こす。

 かつて王を戴冠へ導き、フランス元帥の称号を授かった男――ジル・ド・レ。そして今、ニコラの目の前にいるのは、明日の処刑を待つ一人の囚人だった。それでも、その瞳から光は消えていない。

 ニコラは、ずっと胸の内にあった問いを口にした。

「……一つだけ、聞かせろ」

 ジルが視線を向ける。

「あれほどジェハンヌを敬愛していたお前が、なぜ――ここまで堕ちた」

 ジルはしばらく何も言わなかった。

 やがて、その口元に微かな笑みが浮かぶ。

「堕ちた……か」

 その言葉を、噛みしめるように呟く。

「その通りだ」

 ニコラは黙ってジルを見つめた。

「……長い話になるぞ」

 ニコラは答えず、肩に掛けていた革袋を下ろした。

 中から葡萄酒の瓶と二つの杯を取り出す。栓を抜き、片方へ酒を注ぐと、ジルの前へ差し出した。

 ジルが目を細める。

「用意がいいな」

「そのつもりで来た」

 ニコラは自分の杯にも葡萄酒を注ぎ、その場に腰を下ろした。

「朝まででも付き合う」

 ジルは差し出された杯をしばらく見つめていたが、やがて手に取った。

「……そうか」

 ほんの少しだけジルの口元が緩んだ。

「ならば――」

 葡萄酒を一息に飲み干す。
 
 空になった杯を石床に打ちつけた。乾いた音が牢内に響く。

「――聞かせてやろう。私の話を」

 プロローグ 了

次の話はこちらから
↓ ↓ ↓


本編小説「ジャンヌ・ダルクの残心」
第一話はこちらから
↓ ↓ ↓


いいなと思ったら応援しよう!