
相続の意味が変わった日「得をした人」で終わりたくない
父が亡くなり、三ヶ月後に母も亡くなった。
相続の話し合いが始まった。
介護が一番大変だった五年間、姉の方から連絡が来ることはなかった。
介護ができないことに、負い目があるからだろう、そう思うようにしていた。
姉には姉の事情がある。それをもう責めるつもりはない。
私は「揉めずに終われれば、それでいい」と自分に言い聞かせていた。
三回目の話し合いまでは。
姉夫婦が帰った後、部屋は急に静かになった。
テーブルの湯呑みを片付けながら、私はさっきの話を思い出していた。
どうも話が噛み合わない。
言葉の端々にトゲがあって、腑に落ちない。
それに、あの言葉が頭から離れなかった。
その言葉の意味を繰り返し考えていた。
姉は、私が背負ってきた日々を、私とはまったく違う意味で見ているのではないか。
あの日々を、姉はほとんど見ていない。
急変の連絡をすれば、返信がくる。それくらい。
入院や泊まりで家を離れていた時期もあるが、私の中では、一日も途切れることなく両親のことを考え続けた五年間だった。
何度も急変を経験した。
病院からの連絡に対応し、次の判断を迫られる日々。
母が倒れれば母の心配をし、父が認知症で混乱すれば父に向き合う。
家事も仕事も止めることはできない。
目の前のことを一つずつ乗り越えながら過ごした五年間だった。
それなのに、年月にすると「たった五年」
一日一日が濃すぎて、私の人生の中で、どの五年よりも長い年月に感じた。
だから今でも、あれを「五年」と呼ぶことに、どこか違和感がある。
私は、一つひとつ説明しようとは思わなかった。
見ていなくても、姉は分かってくれている。
「大変だったね」「ありがとう」と、心の奥では思ってくれている。
そう信じようとしていた。
ところが、あの一言で、その思いは崩れた。
「いいよね。
じいちゃんのお金で、良いようにリフォームしちゃってさ」
介護ベッドがなくなり、広くなった部屋を見回して、姉はそう言ったのだ。
血の気がサーっと引いた。
咄嗟に姉の顔を見た。
何を言われたのか分からなかった。
私は、誰もいないその部屋を見回した。
リフォーム後、母が介助器具を倒して付けた傷が、フローリングに残っていた。
「怒らなきゃよかったな」
私は、その傷を指でなぞった。
父と母は確かにこの部屋で暮らしていた。
あのリフォームは、両親と暮らし続けるための選択だった。
…そう見えていたんだ。
姉がどんなつもりで言ったかは分からないが、私には、
「得したよね」
と聞こえてしまった。
それまでの姉の言葉や態度が、一つに繋がった気がした。
認知症の父を介護していた母が癌になり、急遽、二人を引き取ることになった。
両親の生活を守るために、私たちの家を介護仕様にリフォームした。
費用は折半した。
両親の判断能力が落ちてからは、必要な実費しか受けとっていない。最後まで家計を分けていた。
私は、自分が「得をした」と思ったことはない。
時間も仕事も自分のことを後回しにして、両親の生活と財産を守ってきた。
だからこそ、あの一言は私の心に深く刺さった。
口では「感謝はしているよ」と言う。
でもその後には、「でも…」「仕方ないじゃん」という言葉が続く。
それが“感謝”だと、私には受け取れなかった。
ああ、姉は私の背負ってきた年月を、そんなふうに見ていたのか。
少なくとも私は、その言葉をそう受け取った。
そのことに気付いた時、私の中で何かが変わった。
それまで私は、「等分でも仕方ない」と思っていた。
介護の苦労をお金に換えられるとは思っていなかったし、姉が理解してくれると、まだどこかで信じて、自分の気持ちを後回しにしていた。
このままで、本当にいいのだろうか。
考えれば考えるほど、私にとっての相続の意味が変わってきた。
相続の答えは、まだ出ていない。
でも、一つだけ決めたことがある。
私は、姉に伝えようと思う。
「私は、等分ではないと思っている」と。
それは、お金が欲しくなったからではない。
五年間の介護に値段を付けたいわけでもない。
ただ、「得をした人の五年間だった」という物語で解釈されたくない。
このまま等分を受け入れたら、私は「介護を引き受けた人」ではなく、「親のお金で得をした人」として五年間を終えることになる。
私にとって、それは違う。
迷いながらも、両親と向き合い続けた日々を、
私自身がなかったことにしたくない。
そして、その時間の意味を守れるのは、私しかいない。
あの日から私にとって相続は、ただの財産を分ける手続きではなくなった。
私が生きた五年間の意味は何だったのか。
私はそれをどう扱うべきなのか。
自分自身に問う問題になってしまった。
これを書くきっかけになった記事です。
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