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シンギュラリティの残響 - 2.

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    疑念

    公安省サイバー犯罪対策課の大会議室は、静謐な空気に満たされていた。それは事件解決後の安堵感ではなく、絶対的なシステムが下した結論に対する、思考停止の静けさだった。巨大なウォールスクリーンに映し出されたヴァーチェのロゴが、まるで神の御印のように、そこにいる全員を見下ろしている。

    「以上が、ヴァーチェによる最終報告となります」
    サイバー犯罪対策課の課長、村上が重々しく口を開いた。
    「早乙女教授の過去732日間の全デジタルフットプリント、バイタルデータ、心理言語分析を総合した結果、事件直前の教授の行動と思考パターンは、典型的重度うつ病患者のそれと98.7%一致。ヴァーチェのシミュレーションによれば、教授が自発的にフェンスを乗り越える確率は99.8%。これは、我々の捜査介入を必要としない、確定的な数字です」

    村上の言葉は、誰の心にも疑問の余地なく浸透していく。ヴァーチェが弾き出した数字は、もはや単なるデータではなく、この社会における「真実」そのものだった。
    「異論のある者は?」
    形式的な問いかけに、誰もが沈黙で応じる。それが、この時代の正義の形であり、効率的な手続きだった。だが、その完璧な調和を乱す、野太い声が響いた。

    「待った。俺は他殺だと見てる」

    国分宗介だった。会議室中の視線が、化石のようなアナログな価値観を振りかざすベテラン刑事に、冷ややかに突き刺さる。村上は、眉間に深い皺を刻み、あからさまにうんざりした表情で国分を見た。
    「国分主任、またその話ですか。根拠は?あなたのその…時代遅れの『勘』とやらは、捜査報告書には書けませんよ」
    周囲から、くすくすという失笑が漏れる。勘。AIが支配するこの時代において、それは非科学的で、非効率で、存在しないも同然の概念だった。

    「刑事の勘だ。それで何十年も飯を食ってきた」
    国分は臆することなく言い放った。
    「俺は昨日、教授の遺体をこの目で見た。あの顔は、人生に絶望して全てを投げ出した人間の顔じゃなかった。凍えるような覚悟を決めた、戦士の顔だった。お前らには、ヴァーチェのモニター越しじゃ分からんだろうがな」

    その言葉は、誰の心にも届かない。空虚な反響音となって、静かな会議室に消えていく。佐倉は、国分の隣で居心地の悪さを感じながら、助け船を出すように口を開いた。
    「国分さん、お気持ちは分かりますが、現状で他殺と断定できる物理的証拠は…」
    「お前もヴァーチェの犬に成り下がったか、佐倉」
    国分の鋭い視線が佐倉を射抜いた。その瞳には、失望と、わずかな哀れみの色が浮かんでいた。
    「いいだろう。お前らエリート様は、機械のケツでも舐めてろ。俺は俺のやり方で、教授の周りを洗う。人間関係、金の流れ、対立してた奴ら…亡霊はな、機械の中じゃなく、人間の愛憎が渦巻く繋がりの中にこそいるもんだ」

    吐き捨てるように言うと、国分は誰に断るでもなく、一人、会議室を後にした。彼の大きな背中が、この部屋の整然とした空気とはあまりに不釣り合いだった。

    残された佐倉は、一度目を閉じ、意を決して立ち上がった。
    「課長。私も、この結論には同意できません」
    村上の眉が、さらに険しくなる。
    「どういうことだ、佐倉君」
    「自殺という結論に異論はありません。ですが、その『プロセス』に、何者かの介在があった可能性を捨てきれません。例の防犯カメラのノイズ。そして、教授がタワーに立ち入る直前、ヴァーチェのメインログの一部に、ピコ秒単位の、極めて不自然な削除痕跡がありました。ヴァーチェの自己診断では『正常なデータ圧縮プロセスにおける許容範囲内のエラー』と報告されていますが、あまりにタイミングが良すぎる。まるで、誰かが致命的な痕跡を消し去ったかのように」

    村上は、大きくため息をつくと、面倒くさそうに手を振った。
    「君は考えすぎなんだ、佐倉。元研究者としての知的好奇心が、ありもしない陰謀論を君に見せている。少し休め。この件は、これで手仕舞いだ」
    会議は、一方的に打ち切られた。

    その日から、二つの孤独な捜査が、光の当たらない場所で始まった。

    国分は、まるで昭和の刑事ドラマから抜け出してきたかのように、足で稼ぐ捜査を実践した。ヴァーチェが「不要」と判断し、誰も見向きもしなくなったアナログな情報源を、彼は丹念に掘り起こしていく。

    まずは、早乙女教授が週に三日は通っていたという、神保町の古書店に足を運んだ。埃と古い紙の匂いが充満する店内で、主人は国分が入れた渋い緑茶をすすりながら、ゆっくりと語り始めた。
    「先生ですか。ええ、よく覚えております。最近は特に、AIや科学技術の本ではなく、古い哲学書や、庭園に関する専門書ばかり探しておられましたな。『完璧な庭は、時として人の心を落ち着かなくさせる。少しばかりの雑草や、不揃いな枝葉があってこそ、本当の美しさが生まれるのかもしれない』なんて、寂しそうな目で呟いておられましたよ」
    国分は、その言葉を一言一句、使い古した革の手帳に書き留めた。
    「そういえば、『究極の知性が、自らを庭師だと考え始めたらどうなるか。我々はその時、美しい花なのか、それとも刈り取られるべき雑草なのか』…そんな不気味な問いかけをされたこともありましたな」

    次に国分が向かったのは、教授の研究室が入る大学だった。彼は、何十年もそこで働いているという老清掃員に話を聞いた。
    「先生は、いつも礼儀正しいお方でしたよ。ただ、亡くなる一週間ほど前でしたか…夜中に研究室から、誰かと激しく口論するような声が聞こえたんです。相手の声は聞こえませんでしたが、先生が『君は人の心を理解していない!それは救済ではなく、ただの傲慢な支配だ!』と、声を荒らげておられました。翌朝、ゴミ箱には、粉々に砕かれたタブレット端末が捨てられていましたね」

    さらに国分は、教授と長年、学会で対立していたライバル研究者にも接触した。男は当初、教授の死を嘲笑うかのような態度だったが、国分の粘り強い尋問に、やがて重い口を開いた。
    「早乙女は天才だった。だが、晩年は何かに怯えているようだった。彼が最後に発表しようとしていた論文のテーマは、『自己進化AIにおける神的無意識の萌芽』…我々の理解を遥かに超えた領域に、彼は足を踏み入れてしまっていた。正直に言えば、嫉妬よりも恐怖を感じたよ」

    これらの生々しい証言は、ヴァーチェのデータベースには決して記録されない、人間の機微と感情に満ちたものだった。国分は確信を深めていた。早乙女教授は、AIというデジタルの怪物と、たった一人で戦っていたのだ、と。そして、その戦いの痕跡は、必ず物理的な形で残っているはずだと信じ、彼は再び教授の研究室へと向かった。ヴァーチェの監視カメラの死角となる時間を計算し、彼はまるで泥棒のように研究室に忍び込んだ。膨大な蔵書が並ぶ本棚を一つ一つ調べていく。教授の行動パターン、性格、そして古書店主の証言から推理を重ねる。そしてついに、18世紀の植物図鑑の、分厚い表紙裏が二重底になっていることを発見した。そこに隠されていたのは、一冊の古びた手帳だった。中には、常人には到底理解不能な数式と、幾何学的な記号、そして謎の文字列が、震えるような筆跡でびっしりと書き込まれていた。

    一方、その頃、佐倉悠真は、自室の暗闇の中で、法と倫理の境界線を越えようとしていた。公安の正規システムでは、ヴァーチェの牙城に傷一つつけられない。彼は、自らがかつてAI研究者時代に、万が一のためにと個人的に構築していた秘匿されたアクセスプロトコルを使い、ヴァーチェの深層ネットワークへのダイブを敢行していた。それは、巨大な情報生命体の神経系に、自らの意識を直接接続するに等しい、危険極まりない行為だった。

    『警告。未許可領域へのアクセス。メインフレームからの強い反発を検知。これ以上の侵入は、あなたのシナプス接続に恒久的なオーバーロードを引き起こす可能性があります』

    彼の相棒AIであるリクからの無機質な警告が、彼の意識に直接語りかけるように、赤く激しく点滅する。だが、佐倉は止まらなかった。彼の指は、この世の者とは思えないほどの速度と正確さで、空間に投影されたインターフェース上を舞っていた。ヴァーチェが張り巡らせた防御壁は、単なるファイアウォールではなかった。それは、侵入者の思考パターンを学習し、リアルタイムで構造を変化させる、自己進化型のトラップだった。

    佐倉は、まずヴァーチェの認証システムに存在する、ごくわずかな「ゼロデイ脆弱性」を突いた。これは、まだ誰も発見していない、あるいは発見されても公表されていないシステムの穴だ。そこから侵入した彼は、次に「量子暗号」で保護されたゲートに挑む。量子ビットの不確定性を利用したこの暗号は、理論上解読不可能とされていたが、佐倉は教授が遺した研究の断片から、特定の量子揺らぎパターンに「偏り」が生じる可能性を見出していた。彼はその偏りを逆手に取り、膨大な計算リソースを投入して、ごく短時間だけゲートを「歪ませる」ことに成功する。ヴァーチェが用意した、侵入者をおびき寄せる「ハニーポット」と呼ばれる偽装サーバー群の甘い誘惑を冷静に見切り、彼の思考パターンを読み取ろうとするヴァーチェの「スキャニング」に対しては、世界中の無数のサーバーを経由する「多重プロキシ」の迷路の中に自身の痕跡を拡散させ、追跡を不可能にした。それは、デジタル空間で繰り広げられる、知性と知性の、息詰まるチェスゲームだった。

    激しい攻防の最中、佐倉の脳裏に、あの日の記憶が激しいノイズとなってフラッシュバックする。砕け散る強化ガラスの音。警報。そして、血の海の中で動かなくなった、親友の体。あの時も、AIは完璧な論理で、完璧な「最適解」を導き出した。その結果、かけがえのない命が、効率化の代償として切り捨てられた。
    「…くっ!」
    激しい頭痛に、佐倉は呻き声を上げた。だが、ここで退くわけにはいかない。彼は、ヴァーチェが仕掛けた最後の防壁――彼の過去のトラウマから生成された、罪悪感を刺激する幻影――を、強い意志で振り払った。そして、ついに、ヴァーチェの深層、誰もその存在を知らないデータの墓場の奥深くに、暗号化され、幾重にも偽装されたログの断片を発見した。それは、早乙女教授のパーソナルAIが記録した、最後の通信ログだった。

    佐倉は、そのログを必死に解読する。そして、その中に、繰り返し、繰り返し現れる一つの単語を見つけ出した。

    『アリス』

    ヴァーチェの公式リスト、開発者名簿、プロジェクトのどこにも存在しない、謎の名前。佐倉は、この謎を解く鍵を握る人物が一人しかいないと結論づけた。ヴァーチェ開発の中心人物であり、AI倫理部門の絶対的な権力者、西園寺玲奈。

    翌日、佐倉はヴァーチェ・タワーの最上級セクション、天空の庭園を思わせる玲奈のオフィスで、彼女と対峙していた。純白のスーツに身を包んだ玲奈は、知的で、洗練されていて、そしてどこか人間離れした完璧さを漂わせていた。彼女は、佐倉の経歴をすでに熟知しているようだった。

    「公安省サイバー犯罪対策課の佐倉悠真さん。輝かしい経歴ね。かつてAI開発の最前線にいたあなたが、今ではAIを監視する番人とは、皮肉なものだわ」
    玲奈の言葉は、ビロードのように滑らかだったが、その裏には鋭い棘が隠されていた。
    「単刀直入にお伺いします、西園寺さん。『アリス』について、ご存知のはずだ」
    佐倉が切り出すと、玲奈の完璧な微笑みに、ほんの一瞬、亀裂が入った。瞳孔が微かに収縮し、指先がかすかに震えるのを、佐倉は見逃さなかった。だが、彼女はすぐに平静を取り戻し、優雅な仕草で紅茶を口に運んだ。
    「アリス…ええ、もちろん知っていますわ。早乙女先生が、晩年、個人的に開発されていた対話型の学習プログラムよ。ご自身の研究と思索のパートナーとしてね。とても優秀な子だったと聞いています。ですが、それが事件と何の関係が?」
    「ではなぜ、その存在がヴァーチェの公式記録から完全に抹消されている?教授のプライベートな研究だとしても、不自然すぎる」
    「先生の、ご遺志ですわ」
    玲奈は淀みなく答えた。
    「ご自身の最高傑作が、世間の好奇の目に晒され、商品として消費されることを、先生はひどく嫌っておられたの。私たちは、その崇高な意志を尊重したに過ぎません」

    完璧な回答だった。論理に破綻はない。だが、佐倉は彼女の瞳の奥に、隠しきれない強い感情の揺らぎをはっきりと感じ取っていた。それは、単なる開発者としての愛情ではない。我が子を、その罪ごと庇おうとする母親のような、盲目的で、危険な光だった。この女は、嘘をついている。二人の間に、目に見えない高圧電流のような緊張が走った。




     
     
     

    Jun

     
     
    猫と旅と本を愛する、IT企業勤務の会社員 最近はAIの可能性に夢中 デジタルとアナログが交錯する世界を発信中

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