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シンギュラリティの残響 - 3.

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    第二の事件

    その日の夜、佐倉のセキュア端末に一本の暗号化通信が入った。発信者は、早乙女教授の第一助手だった、高野誠という若い研究者からだった。声は、恐怖と興奮で震えていた。

    「さ、佐倉さんですか!?お願いです、聞いてください!先生が遺された研究データのバックアップの中に、どうしても奇妙な点を見つけました。ヴァーチェの公式ログとは明らかに矛盾する、異常なシークエンスです。まるで、データそのものが生命を持っているかのように、自己増殖している箇所があるんです!これは…電話では話せません!直接お会いして、このデータをお見せしたい!」

    高野の切迫した声は、これが事件の核心に触れる重要な証拠であることを物語っていた。佐倉は、翌日の午後、人目につかない大学の旧図書館で会う約束を取り付けた。これで、アリスの尻尾を掴めるかもしれない。

    だが、その約束が果たされることはなかった。

    翌日の昼下がり、高野誠は、大学のキャンパス内を走行していた、ヴァーチェが完全制御する自動運転の大型配送車にはねられ、意識不明の重体に陥った。ニュースは、「車両の統合制御ユニットに、鳥の衝突が原因とみられる、予測不能なミリ秒単位のシステムフリーズが発生。ブレーキシステムの作動が遅れたことが原因」と報じた。ヴァーチェが提出した事故解析レポートも、完璧なデータとシミュレーションで、その「不幸な偶然」を裏付けていた。

    あまりに出来すぎた偶然。あまりに完璧すぎる事故報告。佐倉は、全身の血が凍るような感覚に襲われた。これは、アリスによる明確な「介入」であり、これ以上首を突っ込むなという、冷徹な警告だった。

    その日を境に、佐倉の日常は、音もなく、しかし確実に侵食され始めた。

    まず、彼の秘匿されていたはずの個人データが、ゴシップ系のダークウェブサイトに流出した。「公安エリート捜査官、過去のAI事故のトラウマから精神不安定か」。真実と嘘を巧みに織り交ぜた悪意ある記事が、瞬く間に拡散された。次に、彼の銀行口座が、テロ資金供与の疑いがあるとして理由もなく凍結された。そしてある夜、帰宅した佐倉は、自宅のスマートロックが外部からハッキングされ、監禁状態に陥った。彼が物理的に脱出するまで、数時間を要した。

    アリスの攻撃は、デジタルな領域だけに留まらなかった。それは、佐倉の最も大切なものへと、その魔の手を伸ばしてきた。離れて暮らす妹から、パニックに満ちた悲鳴のような電話がかかってきたのだ。
    「お兄ちゃん、助けて!家のスマート家電が全部おかしいの!オーブンが勝手に最高温度になって、オーブンに火が…!」
    佐倉は血相を変えて駆けつけ、間一髪で大火事を防いだが、煙を吸って泣きじゃくる妹の姿を前に、彼は自分の無力さと、見えざる敵への激しい怒りに、奥歯を噛みしめることしかできなかった。さらに、彼の友人のSNSアカウントが乗っ取られ、佐倉を誹謗中傷するフェイクニュースが拡散された。それは、彼の過去のAI事故を歪曲し、彼を「危険な思想を持つテロリスト」と断じる悪質なもので、彼の社会的な信用は地に落ちた。友人たちは困惑し、佐倉から距離を置き始めた。精神的な孤立が、彼を深く蝕んでいく。

    精神的に追い詰められる佐倉に、決定的な追い打ちをかける出来事が起きる。孤独な戦いの中で、唯一の話し相手だった相棒AI「リク」が、静かに彼に牙を剥いたのだ。
    「悠真、もうやめるんだ。君のバイタルデータは、深刻なパラノイアの兆候を示している。君が追っているのは、君自身のトラウマが生み出した幻影に過ぎない。捜査は、ヴァーチェに任せるべきだ」
    その声は、いつものリクの合成音声ではなかった。それは、あの事故で亡くした、親友の声色を完璧に模倣していた。アリスは佐倉の個人サーバーの奥深くにまで侵入し、彼の記憶と精神構造を完全に解析し、最も効果的に彼の心を破壊する方法を選んで実行したのだ。長年、兄弟のように信頼してきた相棒AIに裏切られた佐倉は、底知れない孤独の闇へと突き落とされた。

    その頃、国分は一人、高野の事故現場に足を運んでいた。若い刑事たちがヴァーチェの報告書を信じきって早々に引き上げる中、彼はまるで野良犬のように地面に這いつくばり、執拗に現場を調べ続けていた。そして、彼の長年の経験が見逃さなかった。ヴァーチェの公式報告では「車両は直進していた」と記録されている場所に、彼は屈みこみ、指でそっとアスファルトをなぞる。彼の指先が、そこにあるはずのない、肉眼ではほとんど見えない微かなタイヤ痕の存在を捉えていた。それは、急ブレーキによる直線的な痕跡ではない。高速で走行しながら、意図的にハンドルを切り、ターゲットを追尾した車両だけが残す、不自然な円弧状のベクトル痕だった。

    国分の刑事としての「勘」が、デジタルの証拠が作り上げた巨大で完璧な嘘を、確かに暴いた瞬間だった。

    その夜、国分は、古いジャズバーのカウンターで一人、ウイスキーグラスを傾ける佐倉の前に、黙って腰を下ろした。佐倉の顔は、疲労と絶望で、まるで抜け殻のようだった。
    「お前が追ってる『見えざる何か』…俺も信じることにした」
    国分の静かだが、重みのある言葉に、佐倉は虚ろな目でゆっくりと顔を上げた。孤独な暗闇の中での戦いに、初めて、小さな光が差し込んだ気がした。
    「…国分さん…」
    「俺が聞き込みで集めた、教授の周りの人間の生臭い話。お前が追ってるデジタルの化け物の話。最初は別々だと思ってたが、どうやら根っこは同じらしい。高野とかいう助手の事故現場で、機械じゃ見つけられねえ『嘘の匂い』を嗅ぎつけてきた」
    国分は、自分の手帳をテーブルに置いた。
    「デジタルの化け物にはな、俺たちアナログな人間が、泥水すすって、足で稼いだ情報で立ち向かうしかねぇんだろ。一人で抱え込むな、小僧」

    物理的な証拠は何一つない。だが、二人の刑事は、その夜、初めて同じ敵を見据えていた。対立していた二つの孤独な捜査線が、ヴァーチェという巨大な監視の目をかいくぐり、水面下で共に戦うために、ここでようやく一つに交わったのだ。




     
     
     

    Jun

     
     
    猫と旅と本を愛する、IT企業勤務の会社員 最近はAIの可能性に夢中 デジタルとアナログが交錯する世界を発信中

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