
第2章:『なぜ』を問わず、ただ眺めてくれた人|中学時代、初めて受け取った静かな受容の話
中学に入った私は、とにかくずっと眠かった。
大人になったいま振り返ると、メンタルが削られていたのだと思う。
仕事に疲れて不安定になっていた母がいる、気が休まらない家。
相談する相手もおらず、通学では満員電車に揺られる日々。
だんだんと朝起きられず、ホームルームや早い時間帯の授業に間に合わない日が増えていった。
妙なところで真面目で、そして少し狡猾だった私は、いつも自分で学校へ遅刻連絡をしていた。
ときには母にバレないよう、連絡を入れたあと自分のローファーを隠し、母が出勤するまで布団に頭まで潜って隠れていることもあった。
けして学校が嫌いなわけではない。
起きれば普通に登校するし、授業も受けた。
成績は下のほうだったが、苦手教科でたまに補講になる程度。
職員室にも気軽に遊びに行き、友人たちとも仲良く昼食を食べていた。
当時の担任は私が遅刻するたび、仕方ないなぁという呆れ半分の笑顔で迎えてくれた。
いつも軽く、
「細糸、またか。ちゃんとおいでよー」
と言うだけで、強い指導は一切なかった。
夏前の終業式の日。
やはり登校せずにいると、昼前に担任から連絡があった。
「もう終業式終わったよ。通知表取りにおいで」
その電話を受け、私は昼過ぎにのこのこ登校した。
職員室で担任から通知表を受け取り、ひとことふたこと交わしてから、特に用もなく教室へ向かう。
居残っていた友人たちは私を見て驚き、「担任が通知表取りに来いって」と言った私に「素直か」と笑い、そのまましばらくみんなで喋ってから下校した。
それからも世界は相変わらずぼんやりしていたが、学年が上がるにつれて朝から出席できる日が増えていった。
苦手な数学で一悶着はあったものの退学することもなく、そのまま高校へ進んだ。
ここからは、大学生になってから母が教えてくれた話になる。
当時、私は生活指導を受けなかったが、実は担任と母のあいだでは面談があったそうだ。
担任からは、母が思っていた以上に私が遅刻していたことが共有され、母から担任へは家庭の事情も伝えられていた。
そのうえで担任は、しばらくの方針を母と共有したという。
「責めず、見守っていきましょう」
事前に遅刻の連絡をしていることも多く、寄り道をするわけでも、繁華街で非行に走るわけでもない。
ただ家にいるだけなら、危険に巻き込まれる可能性も高くない。
落ち着くのを待つ、という担任の判断を受け、母も私に強く言わなかったそうだ。
言えなかった、のかもしれないけれど。
仕事で夜遅く帰り、朝は娘が先に出掛けていき挨拶も交わせていなかった。
偽装工作があったとはいえ、何度も布団にいる私を見落としていた。
夕飯や洗濯などの家事に祖父母の手を借りていた。
そんな状況になるほど、母は一人で一家の生活をどうにか回さなければならなかった。
私の遅刻と向き合う時間や心の余裕なんて、きっとなかっただろう。
私も、当時の母の余裕のなさと一生懸命な雰囲気は感じていた。
だから派手な非行に走る勇気も気力もなく、ただ、なんとなく生きるのが苦しかった。
逃げ場のない重さが、あの頃の眠気の正体だったのだと今は思う。
言語化ができなかった当時、家の中でぐちゃぐちゃになっていた私の人生の糸。
細くこんがらがったそれが無理に千切れないよう、そっと握り続けて、糸の端はここだと分かるように保ってくれていた担任の先生。
声をかけ続けることだけが優しさではない。
自分の背景を否定も介入もせず、ただそのまま眺めていてくれる人がいた。
そんな人がいたから、私は自分を見失わずにいられた。
大人になってから知った、優しさのひとつの形だった。
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