
それを、私は『運がいい』と呼んでいる
序章 握りしめるのをやめた手の中に
私は、自分は運がいいと思っている。
努力だけでここまで来たとは思わない。 かといって、すべてが偶然だったとも思わない。
自分で選んだ道の途中で、どうにもならない出来事が何度か起きた。
そのたびに、不思議なくらい誰かが現れて、少しだけ私の進む方向を変えてくれた。
子どもの頃、一番安心できるはずだった家族は壊れた。
あの日知ったのは、自分の人生には、自分ではどうにもできないことがあるという事実だった。
だから私は、人生を完全には信じていない。
でも、完全に諦めてもいない。
その中間くらいの力加減で、自分の人生を握っている。
すると不思議なことに、そのたび誰かが、少しだけ糸を引いてくれた。
教師。 姉。 上司。 同僚。
誰も私の人生を代わりに歩いたわけではない。
ただ、切れそうな糸をそっと支え、進む方向を少しだけ示してくれた。
それを私は、「運がいい」と呼んでいる。
このエッセイは、握りしめるのをやめた手の中に残ったものだけを信じて書く、私の人生の記録だ。
第1章 12歳、人生の握力を失う
十二歳の冬の朝。
リビングへ行くと、父も母も、姉も兄も、いつもの場所にいた。
なのに誰も話さない。
静かだった。
カーテンから差し込む朝日だけがやけに眩しくて、その光景だけを今でもよく覚えている。
母に言われ、父の前へ焼きたてのトーストを運んだ。
いつもなら母がすることだった。
その朝を境に、家には重たい空気が流れ始めた。
理由は誰も教えてくれない。
ただ私は学校で泣いた。
「パパとママが変なの。家が怖い」
保健室の先生は何も聞き出そうとはしなかった。
ただ一言だけ。
「いつでもおいで」
そう言ってくれた。
それから数日後、母は私に尋ねた。
「パパとママ、どっちといたい?」
どっちも、という答えは用意されていなかった。
母を選び、父は家を出た。
その頃の私は、中学受験を一か月後に控えていた。
本命の前に受ける滑り止めの学校を、私は受けないと言った。
「本命に受かるから大丈夫。」
本当は違う。
母にこれ以上お金を使わせたくなかった。
でも、母に気を遣った私はそんなこと言えなかった。
幸い、本命には合格した。
学校では友人や先生に恵まれた。
けれど家へ帰れば、数か月前まで五人で囲んでいた食卓に、一人で座っていた。
当時の記憶は驚くほど少ない。
ただ、いつも眠かった。
世界が少し遠かった。
あの冬、私は初めて知った。
自分の人生には、自分ではどうにもできないことがある。
そうして気づかないうちに、人生を握る指先の力は少しだけ緩んでいた。
第2章 『なぜ』を問わず、ただ眺めてくれた人
中学生になった私は、とにかく朝が起きられなかった。
学校は嫌いじゃない。
起きれば普通に登校し、友達と笑い、授業も受ける。
ただ、朝だけがどうしても動けなかった。
今なら分かる。
家で張りつめ続けた心が、限界だったのだ。
担任は私が遅刻するたび、
「またか。ちゃんとおいでよ」
と笑うだけだった。
怒鳴ることも、責めることもない。
夏休み前の終業式の日。
私はまた休んだ。
昼前、担任から電話がかかってきた。
「終業式終わったよ。通知表取りにおいで。」
私はその言葉どおり、昼過ぎに学校へ行った。
通知表を受け取り、教室で友達と少し話して帰った。
それだけだった。
当時のことを、大学生になってから母に思い出話として聞いたことがある。
担任は家庭の事情を知ったうえで、遅刻癖についてこう言っていたらしい。
「責めず、見守っていきましょう。」
当時の母は家を守るために一生懸命で、私を支える余裕も時間もなかった。
だから担任は、学校だけは安心して戻れる場所として残そうとしてくれたのだと思う。
あの頃の私は、自分の人生がぐちゃぐちゃに絡まっていることだけは分かっていた。
そして担任は、それを無理にほどこうとはしなかった。
ただ静かに、心の糸が切れないように見守ってくれていた。
大人になって初めて知った。
優しさは、何かをしてくれることだけではない。
何も奪わず、何も急かさず、そこにいてくれることもまた、優しさだったのだ。
第3章 自分の「好き」を走り続ける人
高校の担任は、日本史が大好きな人だった。
授業は受験より、自分の好きな時代の話に夢中になる。
生徒は呆れ、笑い、それでも耳を傾けた。
私はそんな先生が好きだった。
「好き」を何十年も抱えたまま仕事にしている大人を、初めて見たからだ。
ある日、先生は当たり前のように言った。
「細糸さんは史学科に行くんでしょ。」
進学実績でも就職でもない。
ただ、私が歴史を好きだと知っていたから出た言葉だった。
その一言で、自分の「好き」は誰かから見てもちゃんと見えているものなのだと知った。
大人になった今でも、私は歴史が好きだ。
先生の言葉が好きにしてくれたわけではない。
でも、自分の好きに輪郭を与えてくれた。
人生には、答えを教えてくれる人だけではなく、自分でも気づいていなかった輪郭を教えてくれる人もいる。
そのことを、私は高校で知った。
幕間 21歳、糸をひとつ手放す
高3の二月。
長引いていた大学受験の終盤、母は突然こう言った。
「会社を辞めて、来月から居酒屋を始めることになったの」
志望校に落ち続けていた私は祝う余裕もなかった。
オープン日にかかってきた浮かれた母の電話を切って、誰もいない静かな家で、自室の壁紙を何度も何度も爪で引っかいた。
言葉はひとつも形になることなく、ただうめき声にしかならなかった。
その後、とりあえず受かった大学に通いがてら週末は店を手伝うこともした。
だが経営を知らない素人が繁華街で始めた店は、3年ももたず立ち行かなくなった。
大学院進学も考えて借りていた奨学金から、私は百万円近くを母へ渡した。
その頃、母と姉の関係も少しずつ壊れていった。
私は家族内の不穏な空気など何も気づかないふりをして、三人で温泉へ行こうと提案した。
少しでも昔の家族に戻れる気がしたからだ。
けれど旅行のあと少しして、家族は壊れた。
ある日、姉が私に言ったのだ。
「私は家を出るけど、ついてくる?」
十二歳の冬と同じ問いに、今度は迷わなかった。
私は姉と家を出た。
家族という最も近い共同体ですら、自分の努力だけでは守れない。
そう理解した私は、一本の柔らかく、あたたかかったはずの太い糸を手放した。
その糸は、もう21歳になった私の手をちくちくと刺すだけだった。
第4章 雑に振られた仕事と、自走する癖
大学時代から働いていた洋菓子店では、販売だけでなく製造も、店長代理の仕事も任されるようになっていた。
頼まれれば断らない。
空いた穴があれば埋める。
そうしているうちに、社員が不在でも店は回るようになっていた。
今思えば、それは得意というより癖だった。
家庭の中で身についた反応だったのだと思う。
店長の育休中も社員は一人も補充されず、私はアルバイトのまま店長代理として店を回した。
それでも立場は変わらなかった。
便利な人にはなれても、ただそれだけ。
店長の復帰が決まった頃、私は町内会の掲示板から新しい縁を掴み、店を辞めた。
穴を埋めることはできても、それだけでは自分の人生は前へ進まない。
そのことを、私は少しずつ知り始めていた。
第5章 呆れながら面倒を見てくれた人
転機は町内会の掲示板で見つけた、区の若年者就労支援事業だった。
事業参加前に面接を担当したUさんは、最後に履歴書を見ながら言った。
「なんであなたみたいな子がフリーターやってるのよ。」
呆れたような口調だった。
でも、その言葉には期待が混じっていた。
期待に応えて研修は順調に進み、無事に区内の企業に採用された。
その企業での試用期間中にも、Uさんは定期的に面談をしてくれた。
ある日、私は誰にも言ったことのない悩みを打ち明けた。
「姉が怖いんです。」
理由を聞かれ、こう答えた。
「こんなダメな私を、どうして面倒見てくれるのか分からないんです。メリットもなにもないのに。」
Uさんは驚いた顔をして、本当に分からないのかと私に聞いた。
それに対して頷けば、呆れ混じりの笑顔で言った。
「私は分かるわよ。でも教えない。」
そして続けた。
「いつか、自分でお姉さんに聞きなさい。」
私は結局、その意味を理解できなかった。
当時の私は、自分が誰かに大切にされる理由を本当に知らなかったのだ。
あの会話から十年以上。
知りたくなかったかもしれないことを、聞ける自分になること。
それが、私の長い宿題となっている。
第6章 信じて任せてくれた人
就職した介護用品レンタル会社で出会った部長は、よく笑う人だった。
失敗しても頭ごなしには怒らない。
仕事は任せる。
困ったときだけ前へ出る。
そんな上司だった。
私はその期待に応えたかった。
営業事務として入社したはずが、営業同行も、利用者対応も、契約も、役所対応も覚えた。
気づけば会社の穴を埋める人になっていた。
でも今回は苦ではなかった。
介護業界での仕事が、誰かの暮らしの質の向上につながっていることが見えたからだ。
やがて部長は昇進し、自分が担当していたエリアを任せたいと営業事務である私に言った。
私は迷わず引き受けた。
その人を信頼していたからだ。
今振り返ると、私はまだ自分のためには働いていなかった。
信頼する人の期待に応えること。
誰かの役に立つこと。
それが私の燃料だった。
けれど、その燃料にも終わりは来る。
会社で学ぶことを学び終え、尊敬する部長も会社の中で昇進の天井へ達したと感じた頃。
私は次の場所へ進むことを決めた。
第7章 得意と限界を教えてくれた人たち
二十代後半で次に転職したのは、大手小売企業のグループ会社だった。
一次面接を担当したTさんは、笑い声が大きく、話すテンポの速い女性だった。
面接の終盤、私は素直に言った。
「面接がTさんで本当によかったです。お話しできて楽しかったです」
彼女は笑った。
「あ、ほんと?よかったー。私、社内で“おしゃべり声デカおばさん”やってるのよ」
そして履歴書を閉じながら、さらりと言った。
「あなたの性格は、ここじゃないわ。
二次面接は別の会社の部署が来るから、そっちで頑張ってね」
後から思えば、あれは適性を見たうえでの振り分けだった。
実際に入社した会社は現場出身者が多く、賑やかで、私には居心地がよかった。
そこで最初に仕事を教えてくれたSさんは、Excelの達人だった。
マウスをほとんど使わず、画面が突然切り替わるたび、当時パソコン初心者だった私は叫んだ。
「待って待って! 今なにしました!?」
Sさんはそのたび、静かにショートカットキーや関数を教えてくれた。
私は初めて、「事務仕事が速い人」を見た。
その後、施設管理部門で案件管理や会議資料を作るようになった私は、気づけばまた仕事の穴を埋めていた。
数字の苦手な現場担当者に代わり、前年比との差異や予算未達の理由まで資料に書く。
分析くらい自分でやれ、と思いながら。
そんな私に残業中に声をかけたのが、隣の部署で働いていたNさんだった。
「そこまで管理できるなら、あのおじさんたちには勿体ない。うち来なよ」
私は彼女の部署へ異動し、その下で六年働くことになった。
Nさんは、ゼロから仕組みを作る人だった。
非効率を嫌い、複雑な業務を整理し、誰でも使える管理表を作る。
私はその仕組みを、安定して走らせる側になった。
Nさんが作る。
私が使い方を周囲へ伝える。
運用しながら不具合を直し、必要なら仕様を調整する。
その繰り返しのなかで、私はようやく自分の得意を知った。
私は、ゼロから一を生み出す人間ではない。
一から十へ広げる。
あるいは、十を十のまま安定して走らせる。
そういう人間だった。
同時に、自分の限界も知った。
Nさんは怒りを燃料に働く人だった。
理不尽な依頼が来るたびに怒り、暴言を吐きながら、それでも誰より速く仕事を進める。
私は彼女の仕事の速さも、理解力も、構造を作る力も尊敬していた。
社内の評価システムで「尊敬する人」を問われ、私はNさんの名前を書いた。
そして、こう添えた。
『憧れはするが、ああは働けない』
誰かに憧れることと、その人になることは違う。
三十代になって私はようやく、自分の得意と、自分にはできないことの輪郭を知り始めていた。
それでも働き方そのものは変わらなかった。
店舗から依頼を受け、業者を手配し、見積を取り、社内承認を通し、発注する。作業が終われば報告書と請求書を確認し、支払いまで進める。
途中で止まれば、自分で関係者へ連絡する。
最初から最後まで、自分で走らせる。
洋菓子店でも。
介護用品レンタル会社でも。
そして、この会社でも。
業界が変わっても、私はいつも散らかったものを整理し、止まりそうな仕事を拾い、最後まで回していた。
そのことに気づいたのは、一通のスカウトメールをきっかけに、自分のキャリアを振り返り始めてからだった。
第8章 初めて、自分の未来を選ぶ
大手小売企業へ転職して、七年が経っていた。
仕事は回せた。
社内のどこに何があり、誰に頼めば話が早いのかも分かっていた。
困ったときに個人チャットで「おねがい」と送れば、内緒で仕事を進めてくれる人たちもいた。
もちろん自分も、他部署からそういう扱いの人だった。
私はまた、“全部を回せる人”になっていた。
けれど違和感があった。
人数が多い会社のなかで、仕事があまりにも属人的だった。
部署ごとに管理方法が違う。
ファイルの保存場所も、名前の付け方も、確認手順も違う。
だからあらゆる人がいつも何かを探し、時間を消耗していた。
私は自分の周囲だけでも整えようとした。
マニュアルを作る。
管理表を作る。
文言や手順を統一する。
仕事は確かに回りやすくなった。
けれどそれは結局、“頑張って回す人”に依存する構造を延命しているだけだった。
会社に大きな不満があったわけではない。
年収も福利厚生も悪くない。
人間関係にも困っていない。
ただ、自分がどこへ向かっているのか分からなかった。
ある面談で、上司に聞かれた。
「四十歳になったとき、どうなっていたい?」
「生きてるか分からないです」
私は、わりと本気でそう答えた。
そんな頃、一通のスカウトメールが届いた。
相手はコンサルティング会社のSaaS部門。
どちらも私には縁のない世界だった。
だからこそ、少し興味を持った。
軽い気持ちで参加したオンライン面談で、私は初めて「話が通じる」と感じた。
契約書があちこちに散らばっていること。
必要な情報を探すだけで時間が消えること。
確認方法が担当者によって違うこと。
人手が足りないのに、事務員は増えないこと。
私が七年間感じていた疲労を、画面の向こうの人は最初から知っていた。
しかも、それは私の会社だけの問題ではなかった。
多くの企業が同じことで困っていたのだ。
その問題を解決するためのシステムを、彼らは作っていた。
話を聞きながら、私は少し泣きそうになった。
私だけが苦しかったわけではなかったのだ、と。
「このシステムで救われる事務職が、どれほど多いか。少しでも早く、いろんな会社に導入されると素敵ですね」
思ったことを、そのまま口にした。
「まあ私は、現職は、間に合わなかったのですが」
画面の向こうで、事業部長が笑った。
そのシステムにはAIが使われていた。
契約書から必要な情報を読み取る。
けれど精度はまだ完全ではなく、最後は人が確認する必要があるという。
必要な項目を探す。
差異を見る。
不自然な箇所を拾う。
情報を整理し、確認する。
それは、私がずっとやってきたことだった。
しかも今度は、現状を頑張って回すためではない。
仕組みを整えることそのものが、仕事だった。
面談が終わったあと、私は初めて自分のことを考えた。
私は何が得意なのか。
これから、どう働きたいのか。
振り返れば私はいつも、散らかったものを整理していた。
穴を見つければ埋めた。
止まりそうなものがあれば拾った。
ただ回すことが得意なのだと思っていた。
でも、少し違った。
私は、混沌を把握し、整え、仕組みにしていく過程が好きなのだ。
そして、知らないことを知るのも好きだった。
自分より仕事のできる人たちのなかで、また新しいものを吸収していきたい。
四十代になっても働き続けられるよう、新しい技術にも触れてみたい。
言葉にしてみて、初めて自分の未来が少しだけ見えた。
今、私の経験を求める声がある。
そして私が求める環境も、そこにある。
飛び込まない理由はなかった。
そうして三十代後半の私は、未経験の業界へ進むことを選んだ。
誰かに頼まれたからではない。
空いた穴を埋めるためでもない。
初めて、自分の未来のために。
終章 何者にもなれないが、“私”にはなれる
二十代で転職活動をしたとき、不採用の理由を教えてもらったことがある。
「流されて生きてきたようで、主体性が感じられない」
気まずそうに伝える転職エージェントに、私は苦笑いした。
その通りだと思った。
当時の私は、自分がどんな人間なのかも、将来どう生きたいのかも分かっていなかった。
けれど三十代後半になり、転職を機に人生を振り返ってみると、その評価は半分だけ正しかったのだと思う。
確かに私は、人生設計をしてこなかった。
大きな目標を掲げ、そこへ一直線に進む人間でもない。
けれど、目の前に現れた縁のなかで、何を掴み、何を手放すかは、その都度自分で選んできた。
洋菓子店を辞めた。
町内会の掲示板で見つけた就職支援へ申し込んだ。
たまたま開いた求人冊子から、介護用品レンタル会社を選んだ。
大手小売企業へ転職した。
そして三十代後半で、未経験の業界へ飛び込んだ。
どれも、最初から望んでいた未来ではない。
けれど誰かに決められたわけでもなかった。
私は長いあいだ、自分には何もないと思っていた。
自分が誰かに大切にされる理由も分からなかった。
自分の得意なことも、どう生きたいのかも知らなかった。
けれど、握りしめるのをやめた手の中には、思っていたより多くのものが残っていた。
中学の担任から受け取った、静かな受容。
高校の担任が見せた、「好き」を持ち続ける背中。
姉が差し出してくれた居場所。
Uさんが残した、自分で答えを見つけるという宿題。
部長から学んだ、信じて任せること。
Nさんの隣で知った、自分の得意と限界。
そして、三十代後半の私に声をかけてくれた人。
一番太く、あたたかいものだと信じていた糸を手放した手の中に、残った糸は一本ではなかった。
私は有名人にはなれない。
誰もが知るような、特別な何者かになることもないと思う。
けれど、この人生を振り返って分かったことがある。
私は何者にもなれなかったが、ちゃんと“私”にはなっていた。
頼まれると断れない。
空いた穴を見ると埋めたくなる。
散らかったものを整理する。
止まりそうなものを最後まで走らせる。
好きなものは、何十年経っても好きなままだ。
そんな自分の輪郭は、ずっと前からあった。
ただ私自身が、それを見つけられていなかっただけだった。
握りしめるのをやめた手の中に残った糸を寄せてみる。
そこには確かに、私という形がある。
それでも私はこれからも、自分で糸を選び、自分という輪郭を編み直していくのだろう。
その途中で、また誰かが少しだけ糸を引いてくれたなら。
それを私は、「運がいい」と呼んでいる。
本作は、連載エッセイ『それを私は、「運がいい」と呼んでいる』を、創作大賞応募用に再構成したものです。
より詳しいエピソードを綴った本編はこちらから。