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『Renaissance』文化論 ②Renaissanceは“ブラッククィア文化史”である

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1. はじめに

前回は、Beyoncéが『Renaissance』を作った背景を、本人の言葉からたどりました。

彼女が目指したのは、「判断されない安全な場所」。そして、そのアルバムにはハウスやディスコをはじめ、身体を動かすための音楽が並んでいます。

では、その音楽や表現は、どこから来たのでしょうか。

『Renaissance』をたどっていくと、シカゴのハウス、ニューヨークのボールルーム、ニューオーリンズのバウンスなど、異なる土地と時代で育ってきた文化につながります。そこにはBlack、Latino、queer、transの人々が築いてきたクラブやHouseの歴史がありました。

さらにアルバムのクレジットを見ると、その歴史は単なる「影響元」として置かれているだけではありません。現在活動する制作者もいれば、過去の音源や語りとして声を残している人もいます。

この記事では、『Renaissance』を一つの文化の教科書としてではなく、そうした複数の場所、人、音楽が交差する作品としてたどります。

なぜ私は、このアルバムを“ブラッククィア文化史”として読みたくなるのか。

まずは、『Renaissance』の大きな柱の一つであるハウスミュージックが育ったシカゴから見ていきます。


2. ハウスはどこから来たのか――ChicagoとWarehouse

ハウスミュージックは、1970年代末から80年代前半にかけて、アメリカ・シカゴのクラブ・コミュニティで形づくられていきました。

その歴史を語るとき、よく名前が挙がるのがFrankie Knucklesです。後に“Godfather of House”と呼ばれるようになったDJですが、もちろん、一人でハウスを作ったわけではありません。The Warehouseを運営したRobert Williams、Music BoxのRon Hardyをはじめ、複数のDJや制作者、クラブに集まった人々が、この音楽を育てていきました。

KnucklesがDJを務めたThe Warehouseは、1977年にシカゴの206 South Jefferson Streetで開業しました。Knuckles自身の回想によれば、初期の客層は「主にBlackで、主にgay」だったといいます。

では、そこはどんな場所だったのでしょうか。

2004年のインタビューで、KnucklesはWarehouseを次のように振り返っています。

“a place of release”

「解放の場」

さらに、“the poor man’s resort”――「貧しい人のリゾート」とも呼び、そこでは日常の現実から完全に離れることができたと語っています。

土曜の深夜に始まり、翌日の昼頃まで続く時間。人々はそこで音楽を聴き、踊り、普段の生活から離れていました。

こうした本人の証言を見ると、Warehouseが単にレコードを聴いて踊るだけの場所ではなかったことが分かります。

そして、そのクラブで鳴っていた音楽は、やがて“house music”と呼ばれるようになります。

Knuckles自身は1980年前後、シカゴの店で“WE PLAY HOUSE MUSIC.”という看板を目にし、自分がWarehouseでかけている音楽を指す言葉だと知った、と後に振り返っています。

ハウスは、一人のDJがある日突然発明した音楽ではありません。ディスコの流れを受け継ぎながら、DJ、制作者、クラブ、そしてそこで踊った人々のあいだで形を変え、名前を与えられていった音楽でした。


3. Ballroomには、houseより長い歴史がある

ここで、ハウスミュージックとは別の歴史をたどってきたballroomを見てみます。

New Yorkのballroomには、19世紀のdrag ballsまで遡る前史があります。現在につながるBlack/Latino LGBTQ+のHouse文化が形づくられていくのは、1960年代末から1970年代初頭のことです。

その歴史を語るうえで欠かせない人物の一人が、Crystal LaBeijaです。1967年、CrystalはMiss All-America Camp Beauty Pageantで、Blackの参加者が不当に扱われていることへの怒りをあらわにしました。その後、CrystalとLottie LaBeijaを中心にHouse of LaBeijaが生まれます。1972年には二人が「1st Annual House of LaBeija Ball」を開催し、Black/Latino LGBTQ+の参加者が自分たちのためのballを作っていく流れが広がっていきました。

Ballroomでは、参加者がさまざまなカテゴリーで競います。ランウェイ、ファッション、ダンスなど、競うものは一つではありません。そして、その活動の単位となったのがHouseです。

Houseにはmotherやfatherと呼ばれるリーダーがいて、メンバーを指導します。しかし、Houseが担ったのはballで勝つための指導だけではありませんでした。

後年のballroom communityを対象にした研究では、Houseが食事や住む場所、移動、学業や仕事まで支えた事例も記録されています。あるメンバーは、財布を失って帰れなくなったとき、House motherからこう言われたと振り返っています。

“You never have to worry about food.”

「食べ物の心配をする必要はありません」

Houseは競技チームであると同時に、生活の中でも互いを支える場所になっていました。

こうした関係は、しばしばchosen family――「選び合った家族」と呼ばれます。

もちろん、ballroomに参加したすべての人が実の家族から拒絶されていたわけではありません。それでも、自分で選んだ人たちと家族のような関係を築き、ともに競い、ときには生活まで支え合う仕組みが育っていたことは、ballroomを理解するうえで重要です。


4. Madonnaより前からあった――voguingは何を表現していたのか

Ballroomの中で育っていった表現の一つが、voguingです。

名前の由来については、Vogue誌のモデルのポーズと結びつける説や、Paris Dupreeを起源とする語りがよく知られています。ただし、誰か一人がある瞬間に発明した、と言い切れるほど単純な歴史ではありません。

Voguingはballroomの中で競われながら発展し、時代とともにOld Way、New Way、Vogue Femなど、異なるスタイルが形づくられてきました。

では、実際に踊っていた人は、voguingをどう捉えていたのでしょうか。

Madonnaが『Vogue』を発表する前年の1989年、The New Yorkerはballroomを取材しています。そこでvoguerのWillie Leakeは、こう説明しました。

“Body-language communication. You make a statement.”

「身体の言葉によるコミュニケーションです。自分の主張を示すんです」

Voguingは、ただモデルのポーズを真似するだけのダンスではありませんでした。Ballroomという競い合う場で、自分をどう見せるかを身体で表現し、相手へ自分の“statement”を返していく。そのことは、Leake自身の言葉からも見えてきます。

そして翌1990年、Madonnaの『Vogue』によって、この表現は世界規模のポップカルチャーへ広く知られることになります。

ただし、Madonnaがvoguingを生み出したわけではありません。『Vogue』のミュージックビデオやBlond Ambition Tourには、José XtravaganzaやLuis Camachoなど、実際のballroomの担い手も参加していました。

Madonnaによる紹介をどう評価するかについては、ballroom側にもさまざまな意見があります。それでも、『Vogue』より前からこの文化が存在し、当事者たちが自分たちの場で育てていたことは押さえておく必要があります。

ここまで見てきたhouse、ballroom、voguingは、それぞれ同じ場所、同じ時期に生まれた文化ではありません。

では、こうした異なる歴史は、Beyoncéの『Renaissance』の中で実際にどうつながっているのでしょうか。

その答えは、アルバムのクレジットを見ると、かなり具体的に見えてきます。



【ここからは有料です】

ここからは、『Renaissance』そのものを見ていきます。

アルバムのクレジットをたどると、過去の文化から「影響を受けた」という言葉だけでは見えない人々が現れます。

制作に参加した人もいれば、過去の音源として声を残した人、Beyoncéの家族の記憶につながる人もいます。

誰の声が、どの曲に、どんな形で入っているのでしょうか。

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『Renaissance』を起点に、Beyoncéの作品を文化史・社会史の視点から読み解くシリーズです。 本シリーズでは、アルバム『Re…

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