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BeyoncéのOn the Run Tourと歌舞伎に共通する“逸脱の美学”|ボニー&クライドから考える

なぜ人は“危険な恋”を物語化してしまうのか?


はじめに

初めてBeyoncéとJay-ZのOn the Runツアーのビジュアルを見たとき、私は少し怖かった。

覆面をした二人。
顔を隠したまま寄り添い、ステージに立つ姿は、恋人というより逃亡者のように見えた。

もちろん、美しかった。
圧倒的にスタイリッシュで、映画のワンシーンのようだった。

けれど同時に、なぜこんなにも危険が美しく演出されるのか、引っかかった。

On the Run Tourではボニー&クライドを思わせる「逃亡中の二人」というイメージが前面に出され、2018年のOn the Run IIでも、覆面を使ったビジュアルが登場する。

逃亡。覆面。銃。忠誠。
社会から逸脱した二人の世界。

しかし考えているうちに、私はふと思った。

――これ、日本の物語にも昔からあった描き方ではないか?

歌舞伎や浄瑠璃には、現実の事件や犯罪、社会からはみ出した人間たちを、美しい物語として描いてきた長い歴史がある。

盗賊。放火犯。心中した恋人たち。

本来なら悲惨で、危険で、現実では決して美談ではないはずの出来事が、舞台の上では「様式美」へ変わっていく。

なぜ人は、逸脱を美しく感じてしまうのだろうか。

この記事では、ボニー&クライド、歌舞伎の『曽根崎心中』『白浪五人男』『八百屋お七』、そしてOn the Run Tourを通して、その「逸脱の美学」について考えてみたい。


第1章:ボニー&クライド――映画が広めた“逃亡する恋人たち”

ボニー・パーカーとクライド・バロウは、1930年代アメリカに実在した犯罪者カップルである。

大恐慌時代、二人は強盗や逃亡を繰り返し、警察と銃撃戦を繰り広げながら全米を移動した。最終的には待ち伏せした警察に射殺され、短い人生を終える。

現実の彼らは決してロマンチックな存在ではない。

銀行だけでなく、小さな商店なども襲われ、多くの人が被害を受け、命を奪われた人もいた。実態は極めて暴力的な犯罪集団だった。

しかし1967年の映画『Bonnie and Clyde』(邦題『俺たちに明日はない』)は、彼らを若い恋人同士のアウトローとして、スタイリッシュに描いた。

映画には、大恐慌下の社会や銀行への反発を感じさせる場面もある。けれど、強く印象に残るのは、犯罪の史実そのものより、「二人だけの世界」「逃げ続ける関係」「破滅へ向かう恋」である。

そして、こうした“逃亡する恋人たち”のイメージは、現代のポップカルチャーにも繰り返し登場する。


第2章:『曽根崎心中』――“死によって完成する恋”

ここで日本の歌舞伎・浄瑠璃を見てみたい。

『曽根崎心中』は、1703年に近松門左衛門が発表した作品で、実際に起きた心中事件をもとにしている。

主人公は、醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初。

二人は愛し合っているが、徳兵衛は金銭トラブルと裏切りによって社会的信用を失い、追い詰められていく。

このままでは二人は結ばれない。

そこでお初と徳兵衛は、この世ではかなわなかった結びつきを死後に託し、心中を選ぶ。

現代感覚で言えば、かなり重い物語である。

『曽根崎心中』以後、実際の事件を扱った心中物が次々と作られた。心中が社会問題となる中、幕府は1722年から翌年にかけて、心中を扱う出版物や舞台などへの規制を強めていく。

ただし、『曽根崎心中』は犯罪者の物語ではない。
ここで美しく描かれているのは悪そのものではなく、純愛や社会に許されない恋、死によって永遠化される関係である。

しかし本質的には、ここにも「逸脱」がある。


第3章:『白浪五人男』――犯罪が“粋”へ変わる瞬間

一方、『白浪五人男』はもっと直接的に“犯罪の美学”を扱っている。

正式外題は『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)』。
河竹黙阿弥による江戸後期の歌舞伎作品で、物語の中心となるのは、五人の盗賊たちだ。

中でも特に有名なのが、弁天小僧菊之助である。

弁天小僧は、美しい武家娘に女装して呉服屋へ入り込み、巧みにゆすりを行う。そして正体を見破られた後、有名な名乗り台詞を口にする。

「知らざあ言って聞かせやしょう」

歌舞伎を知らない人でも、一度は耳にしたことがあるかもしれない。

ここで面白いのは、盗賊である彼らが、華やかな衣装や七五調の台詞、見得によって、粋で魅力的に見えるよう演出されていることだ。

舞台に上がれば、盗賊たちの悪事よりも、衣装や台詞、立ち姿の美しさが前に出る。私たちは現実の犯罪被害ではなく、舞台の上で格好よく描かれたアウトローを見ているのかもしれない。

ここには、映画の中で魅力的に描かれたボニー&クライドと、重なるところがある。

現実では危険な存在であっても、物語の中では、反骨や自由を思わせる人物として見えてくる。


第4章:八百屋お七――“情念”が犯罪の印象を変えるとき

そして、もう一つ興味深いのが「八百屋お七」である。

同時代の記録から確認できるのは、「駒込のお七」と呼ばれる女性が放火し、処罰されたことまでである。恋人に会うために火をつけたという有名な筋は、井原西鶴『好色五人女』をはじめとする後世の作品によって広まった。

しかし後世の浄瑠璃や歌舞伎では、その物語は大きく脚色されていく。

特に有名な「櫓のお七」では、お七自身が放火するのではない。恋人を救うため、火事でもないのに火の見櫓へ登り、半鐘を打ち鳴らすという物語になっている。その姿は、恐ろしい犯罪者というより、恋に取り憑かれた悲劇のヒロインとして演出される。

若さや一途な恋、破滅を受け入れる覚悟。
そうした感情が見えてしまうからこそ、人々は彼女を単なる放火犯としてではなく、物語の主人公として語り継いだのだろう。

私にはここで、罪の重さよりも、お七の情念や自己犠牲が前に出ることで、危険な行為が美しい悲劇へ変えられているように見える。


第5章:On the Run Tour――現代の“逸脱の演出”

そして現代に現れたのが、2014年のOn the Run Tourだった。

BeyoncéとJay-Zは、このツアーで、Bonnie & Clydeを思わせる犯罪者カップルのイメージを大胆に打ち出している。

覆面。逃亡者演出。犯罪映画風の映像。銃を思わせるビジュアル。
夫婦=共犯者の構図。

特に印象的だったのが、2014年のOn the Run Tour公式ポスターに使われた黒いスキーマスク姿だった。

顔を覆った二人が抱き合うそのビジュアルは、まるで現代のボニー&クライドのようだった。

On the Run II Tourでも、Beyoncéはメッシュ状のフェイスカバーや、顔の半分を覆うジュエリー風のマスクを着用していた。ラグジュアリー・ブランドの衣装と組み合わされたその姿は、2014年の黒いスキーマスクと比べると、私にはファッション性をより強く押し出した覆面表現に見える。

ただし、これが2014年の犯罪者イメージを発展させたものなのか、独立した衣装表現なのかは、本人やデザイナーから明言されていない。

もう一つ興味深いのは、彼らの楽曲が、実際には反社会的な内容ばかりではないことだ。

むしろ、愛や忠誠、女性の強さ、成功、夫婦関係などが中心にある。

On the Run Tourでは、そんな愛や忠誠と、危険なアウトローのイメージが同じ舞台に並んでいる。

ここには、ここまで見てきた歌舞伎の物語と、どこか重なるところがある。


結論:なぜ“逸脱”は美しく見えるのか

現実の犯罪や破滅は、本来決して美しいものではない。

ボニー&クライドの被害者たち。
放火の恐ろしさ。
盗賊による被害。
心中という悲劇。

そこには現実の苦しみがある。

それでも人は、それらを物語にしてしまう。

なぜなら、逸脱した人間たちは社会や常識から外れ、ときに感情のまま破滅へ向かって突き進むからだ。

本当は、美しいと感じてはいけないのかもしれない。
けれど、人は昔からそこに惹かれてしまう。

「自由」「情熱」「運命」「二人だけの世界」を見てしまう。

歌舞伎は、そうした逸脱を様式美へ変えてきた。

そしてOn the Run Tourもまた、社会からはみ出した二人という演出上の人物像を魅力的に見せる、現代の舞台だったのかもしれない。

逃げる二人は、本当に逃げているのではない。

私たちが見たい「物語」を、走り続けているだけなのかもしれない。


🎭歌舞伎とビヨンセを、もっと比べてみる💃🪩

今回は「逸脱の美学」という視点から、On the Run Tourと歌舞伎を比べてみました。

別の角度から「なぜ歌舞伎とビヨンセは似て見えるのか?」を追いかけているのが、全5回の「歌舞伎とビヨンセ」シリーズです。

第1回では、宙乗りや花道、ケレンと現代のコンサート演出を並べながら、その共通点を考えています。

▼『歌舞伎とビヨンセ①』ビヨンセのコンサートは現代の歌舞伎なのか?


 


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月凪(つきなぎ) ありがとうございます!