
【小説】焦げた瞳 (上)
作者からのメッセージ
本作は、三島由紀夫の『金閣寺』の筆致を参考にしながら、台湾人である私が執筆した小説です。内容には私自身の実生活に基づいた部分もありますが、あまり自伝的になりすぎないように、一部のリアリティを持たせた要素を除いて、多くはフィクションとなっています。特に、閻魔あいに関する描写は創作の割合が最も高い部分です。
この小説の日本語には、母語が中国語であるため誤りが含まれているかもしれませんが、私はどうしても「ちゃんとした日本語小説」を書いてみたいという思いから筆を執りました。
完成作品として読んでいただいても構いませんし、まだ未完成の習作として読んでいただいても構いません。今後続きを書くかどうかは、まだ思案中です。
拙い部分もあるかと思いますが、どうかお楽しみいただければ幸いです。
焦げた瞳(上)
大学へ進学する前、僕の人生は倒錯と混乱の中にあった。
台北に生まれ、両親は医者。中学の終わり頃からうつ病を患い、高校生活の唯一の支えは、アニメ『地獄少女』の主人公・閻魔あいだった。
物語の中で、彼女は都市伝説のような存在で、強い憎しみを抱いた者が「地獄通信」を通じて彼女を呼び出し、憎む相手を地獄に落とす。だが、その代償として、自らも死後に地獄行きとなる運命を背負う。
僕は、誰かを地獄へ送ってしまうほどの憎しみを抱いたことはない。だからもし、閻魔あいが実在するとしても、きっと僕とは違う世界に住んでいるのだろう。彼女は憎悪と死に満ちた世界で生き、あらゆる別れを知り尽くしている。そんな彼女と比べれば、僕は凡庸で、つまらない妄想にすがる醜い塊だ。だからこそ、閻魔あいは「美しい」。
高校時代、僕はA4サイズに印刷した彼女の顔を部屋の壁に貼っていた。目覚めて最初にすることは彼女に「おはよう」と声をかけ、アニメ第一期のあのシーンを脳内で再生することだった。両親はそれを止めようとしたが、僕は譲らなかった。理由は単純だった――閻魔あい以外に、起き上がる理由がなかったから。
閻魔あいを形容できる言葉は「美」だけだ。炎の中を歩く彼女、蒼白の頬を伝う紅い涙、信じていた人に裏切られ、生き埋めにされ、死後に怨霊と化し、村を焼き尽くす彼女の姿。それを僕は毎日、脳内で繰り返した。
だが、僕は「美しい世界」だけに生き続けるわけにはいかなかった。醜い現実、自分のどうしようもない姿とも向き合わねばならなかった。だから、大学入試の面接の日、僕はあの掛け絵に対して、ひとつの儀式を行った。
それは初めてのことだった。彼女の姿は僕にとって神聖で、触れてはならない存在だった。けれどその朝、僕はその絵をビニールのカバーから取り出し、無表情の彼女の顔に、指で曖昧なバツ印を描いた。
──彼女と、別れなければならない。
朝早く、僕は近所の廟へ向かった。何の神を祀っているのかは知らない。ただ、そこには金紙を燃やすための炉があった。構造に慣れていなかった僕は、聖像であるはずの彼女の絵を乱暴に放り込み、焼却した。
炎に包まれ、皺くちゃに崩れていく閻魔あいの顔。三年間寄り添ってくれた彼女は、炎の中でも何ひとつ苦しんではいなかった。だが、その真紅の瞳が黒く焦げていくのを見た瞬間、僕は思わず手を伸ばしてしまった。
──あの瞳だけは……あの冷たく、全てを拒絶しているようで、それでいて静かに寄り添ってくれる眼差しが、僕の救いだった。
僕は、彼女を裏切ったのだろうか?
その時、背後から誰かに肩を引かれた。早朝から来ていた中年の男だった。彼は台湾語で怒鳴りつけ、僕を咎めた。その言葉は理解できなかったが、儀式が邪魔されたことだけははっきりと分かった。僕は頭を下げて、その場を逃げ出した。
それ以来、焦げたような、炎に包まれたような、あの瞳の残像が、色彩も意味も奪われたまま、僕の日常に焼き付いて離れなくなった。
なんとか面接を通過し、僕は輔仁大学の宗教学科に進学した。しかし、閻魔あいのことを忘れることはできなかった。
その執着は、学生支援センター
――いわば学内のカウンセリングルームで行われた初回面談において、如実に表れた。
オンラインで提出する問診票に「自殺願望:高」と記入した瞬間から、学生支援室の担当者からISP会議(教員による支援体制の会議)を開くかどうかを尋ねられ、学科の担任からも過剰とも言えるほどの気遣いを受けるようになった。
宗教学科には「大家族」のような雰囲気があり、そのおかげで僕も自分の心の衛生について少しだけ気を配るようになった。そして、カウンセリングを予約するに至った。
初回のカウンセリング、通称「初回面談」は、これまで六年にわたるカウンセリング経験を持つ僕にとって、病歴の簡潔な報告に過ぎなかった。
小さなカウンセリングルームの隣は、いつも賑やかな事務所だった。職員たちは陽気で、まるでこの世に死も苦しみも存在しないかのように笑っていた。その笑い声は、僕の耳に虫のように入り込み、太陽のようにギラついた音が脳を食い荒らすようだった。
そんな事務所を抜け、部屋に入ると、清楚な雰囲気の先輩らしき女性がいた。言葉遣いにはどこか背伸びしたような雰囲気があったが、誠実で、僕という人間に向き合ってくれていることが伝わってきた。彼女は、機械的に業務をこなすカウンセラーでも、あらかじめ答えを用意した「問題処理者」でもなかった。彼女は僕を「問題」ではなく、「人」として見ていた。
彼女との会話の途中で、僕はつい言葉の制御を失い、価値観に関する話を口にしてしまった。
「さっき言った通り、中学時代の過剰なストレスがうつの原因になったのは、担任の支配欲が強すぎたせいです。それに加えて、価値観の問題もありました。高校では、あらゆる価値の反転という現実に直面する必要があったのです。」
普段なら、初対面のカウンセラーに対して、こんな複雑な話をすることはない。だがあのときは、なぜか言ってしまった。陽光で虫に刺されて脳がやられたのか、慣れないBGMのせいか。言葉選びは慎重だったが、話題は思いもよらない方向へ転がっていった。
「その『あらゆる価値の反転』について、もう少し詳しく話してもらえますか?」
また来た。「もう少し詳しく話してもらえますか」は、カウンセラーの情報を引き出す常套句だ。無神経で苛立たしい誘い水。
「たとえば、中学時代には『ご飯は残さず食べるべき』『異性と関わってはいけない』『宿題を見せてはいけない』など、細かなルールが繰り返し教え込まれました。僕はそれを忠実に守ってきたけれど、そのせいで人間関係はボロボロになり、友達がどういうものなのかも、友情の意味も、まったく理解できなかった。」
彼女は僕の不器用な言葉を一語も漏らすまいと、視線をこちらに向けたまま、ペンの動きを速めた。
「でも、全部間違っていたんです。ご飯は少し残した方が楽だし、異性と接しないと他者との距離感がわからないし、宿題を見せれば信頼が生まれる。教師が言うことを逆に考えれば、それが本当の答えなんじゃないか。だから『あらゆる価値観の反転』と呼んでるんです。当時の僕はようやく気づいたんです。教師は嘘を教える者で、親の育てるのは人を大人にさせない者で、ルールは守るためにあるんじゃなく、破らせるためにあるんだと。……ひねくれてましたね、ふふ。」
だからこそ、地獄にいる少女が天使に見えた。復讐の執行者ではなく、この世界にも僕にも無関心な存在だからこそ、彼女だけが僕を清らかな視線で見てくれる。
「そのルール、今では単なる『規範の効果』として理解していますか?」
彼女はペンを止め、僕の目をじっと見つめた。その柔らかな眼差しが、逆に僕の嫌悪感を引き起こした。僕がかつて信じていたものが、そんな軽々しい言葉で一蹴される――あまりにも「安い」。それはまるで、信仰の崩壊が茶番のように片付けられる瞬間だった。彼女は僕の「正常さ」を査定しているのか? それとも、犯罪の予兆として心配しているのか?
「……はい。今は理解しています。当時はまだ中学生で、規範そのものの意味を見抜けなかっただけです。」
僕は自分の口が滑ったことを悔やんだ。そもそも、価値観の話なんて持ち出さなければ、こんな釈明の必要もなかったのに。
「それで……」彼女はふいにペンを置き、真剣な表情で尋ねた。「そのとき、とてもつらかったんじゃないですか?」
僕は動揺した。こうした真正面からの同情が、なによりも怖い。言葉の間合いが狂う。
「つらい?……ただの反抗期だったと思います。」空気が変わったのを感じた。まるで台本も照明もない舞台に、ひとり立たされたような感覚だった。
「中学生で、自分の価値観が完全に裏切られるなんて、それは本当に大変なことだったはずです。あなたは、よく耐えましたよ。」
感情の蓋が開きかける。理性の壁に、感情が指をねじ込んでくる――まるでハリネズミの殻に穴を開けて、中をぐちゃぐちゃにかき回すように。
「ありがとうございます。偏った考えに耳を傾けてくれて……感謝しています。」
そう言ったとき、彼女の眼差しがわずかに遠ざかった気がした。僕は気に留めなかった。頭の中には、閻魔あいの姿が浮かんでいた。
もし、あの悲しみに満ちた閻魔あいに「あなたは、よく耐えたね」と声をかけたら、何が起きただろう。僕は少しでも、あの蒼白で幻惑的な世界に触れることができただろうか。焼け落ちた村の前、雪のような白と血のような紅に染まった彼女の顔を思い出そうとする。だが、美しいその顔を思い浮かべた瞬間、焦げついた瞳、土のにおい、粗野な台湾語の怒号が押し寄せ、すべてが汚されてしまう。
そのあとの質問はどれも形式的なものだった。感情を介さず、理性的に処理できる。僕の感情は、台湾の廟で燃やされた金紙の焦げた灰の中に沈められていた。
そして、彼女の一言が、僕を現実へと引き戻した。
「いまでも……死にたいと思うことはありますか?週にどれくらいですか?」
この時代の心理学は、なぜここまで何でも数値化しようとするのだろう。死にたいと思う回数すら数えるなんて。彼らの定量化への信仰は、僕の閻魔あいへの信仰と同じくらい盲目的だ。
「問診票にも書いたとおり、四六時中、死のことを考えています。」
カウンセリング前に記入するチェックシートでは、うつや自殺願望の程度が4段階で問われる。僕は常に最も重い項目を選ぶ。なぜなら、そこだけは嘘をつきたくなかったからだ。
「でも、『死にたい』と口にした時点で、人はもう『死んでいる』ようなものなんです。社会の人々は、『死にたい』と公言する者を本能的に恐れている。誰も、そんな人と本気で向き合おうとはしない。」
そのとき、隣の事務所から馬鹿げたような大笑いが聞こえてきた。僕は眉をひそめ、言葉を続けた。
「だから僕は、死の衝動を思考の中に封じ込めている。頭の中では何度も死んだけれど、行動には移していない。僕がうつで、憎しみでいっぱいで、死にたくなるのは……他人にとっての幸福が、僕には地獄に見えるからなんです。」
――僕は言わなかった。反対に、他人が悲しんでいる場面では、逆に生きたいと思うこともある、と。
僕が生き延びているのは、閻魔あいのあの台詞のおかげだ――「いっぺん、死んでみる?」
以前、それを両親に打ち明けたとき、彼らはこう言った。「そんなに大げさに考えなくていい。今こうしてちゃんと生きてるじゃないか」と。
その言葉を聞いたとき、僕は告白という行為そのものが滑稽に思えてきた。生きてる人間が「死にたい」なんて言うことほど馬鹿げたことはない。――まるで、僕自身の存在そのもののように。
「行動に移そうと思ったことは?」と、彼女が低く静かな声で問いかけた瞬間、事務所の笑い声がすっと消えた。まるで空気が読めたかのように。あまりに完璧なタイミングだった。
他人の空気は、いつも整っている。僕の空気だけが、いつも滑稽だ。
「……ありますよ。」
僕は淡々と答えた。彼女が真剣だったから、部屋の空気もそれに呼応して引き締まった。もしかしたら、彼女は外の笑い声さえも制御できるのかもしれない。僕の「死にたい」という告白が、あの笑い声に紛れていたら、きっと僕は壊れていただろう。
「実行しないまま、『死にたい』と繰り返すのは『仮病』です。もし本当に死にたいなら、誰にも言わず、普段どおり振る舞って、ある日黙って死ぬ。それが本物の『覚悟』なんでしょう。」
僕は弱い人間だ。それを隠す気はなかった。「死にたい」「つらい」と繰り返すことが、他人を困らせることくらい理解していた。場の空気を壊すことも。
けれど、ここはカウンセリング室だ。少しくらいは、誠実でいたかった。彼らは僕の心の健康を気にかけてくれる。僕が最も苦しいときに救ってはくれないが、予約した時間には必ずやってきて、健康かどうかを尋ねてくれる。
その日、話す気がなくても。死にたい衝動が消えていても。カウンセリングは決められた時間にやってくる。死にたいときに言葉をくれる場所ではなく、他人を安心させるために存在する装置なのだ。
死にたいという衝動は、いつだって予告なしに訪れる。でも、カウンセリングには予約が必要だ。毎週同じ時間に「死にたくなる予定」なんて、立てられるわけがない。だからこれは、綺麗に整えられた演劇だ。
それでも人々は真顔で言う -「カウンセリングには効果がある」と。
……なら、信じてみようか。人が「本当」だということは、けっして嘘だ。でも、美しさだけは嘘をつかない。閻魔あいの美しさだけは、決して、僕を裏切らない。