第03話 境界に名前がつく前
彼、セバスチャン・ハートリーは
三ヶ月前まで"執事"だった。
肩書きを失った時間には、まだ慣れていない。
次に何をしようかと考えたとき、ふと一人の友人の顔が頭をよぎる。
日本でバーを営むクララ。昔からメールのやり取りはあったものの、ここ数年は会う機会はなく、それでも関係が途切れなかった数少ない友人の一人だ。
『日本に行こう』
思い立った瞬間には、すでにメールを送信していた。
残務整理を終え、来日したのは三日前。
到着当日、クララのバーで再会した時のことを軽く頬の筋肉を緩めて思い返す。
『ちょっと紹介したい Ma petite がいるの』
ニヤリと笑うクララの声は、まるで合図のように響いた。
そして今日、再びクララの店へ向かう。
どうやら、クララのMa petite はハウスキーパーを探しているらしい。
せっかく自分が来るなら、紹介するのもいい——クララはそう思ったに違いない。
好奇心はあるが、それ以上の期待は抱かず、淡々と自分に言い聞かせる。
『会っても、あくまで顔合わせの範囲だ』と。
開店前のバー。カウンターに立つクララの後ろ、一番隅の椅子に座る女性の姿が、視界に入る。
自然と足が止まる。
呼吸が、ほんの一瞬だけ変わったのを自覚した。
——理由を、考える前に。
理由を探すより先に、身体が反応していた。
これが——
まだ、雇用主ですらない彼女との出会いだった。
そして同時に、
“役割を持たない自分”が、
初めて誰かと向き合った瞬間でもあった。
あの言葉を聞くまでは、そう信じていた。
にもかかわらず、境界を曖昧にする言葉だけは、
あまりにも早く差し出される。
その関係に、名前を与えられるとは、思っていなかった。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは、創作の為に有意義に使わせていただきます