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🍒大人になったと感じる時

     スマートフォンを触っていたら、「大人になったと感じる時」のランキングに行き着いた。

    1位 コーヒーをおいしいと感じたとき
    2位 お酒が飲めるようになったとき
    3位 お年玉をあげる側になったとき
    4位 自分でお金を稼ぐようになったとき
    5位 クレジットカードを持ったとき

    なのだそうだ。選挙権で言えば18歳(公職選挙法、民法や児童福祉法も同年齢)。飲酒では20歳(二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律〈未成年者飲酒禁止法〉)。法的には18歳か20歳が区切りのようだが、実感としては、みんなどうやら別だと感じている。

    「あなたは、いつ大人になったと感じましたか?」

     9年前、連続ドラマのHPを覗いていたら、同様の問いかけが、ドラマの脚本家からなされていた。「回転寿司屋ではない老舗の寿司屋に入って、ワサビの効いた握り寿司を初めて食べた時」というような、具体的な例を挙げつつ、その脚本家の行き着いた「大人になった時」は、意外なものだった。そして意外なものだったが、私の納得できる「大人になった時」だった。

    「親を許せたと感じた時」

     これが、答えだった。
           🔹
     小学校に入学する数ヶ月前のことである。私は緑の自転車の荷台に座っていた。急勾配で長い坂を母は、サドルを握って押している。私を降ろせば少しは楽になるだろうに、急な坂道に挑むかのように押している。
     それに先立つこと更に数ヶ月前、父母は言い争い、父は母に暴力を振るった。二階からトントントン、いやドンドンドンと降りてきた父親の手には、ある物が握られていた。(私は、ある物の名前を出したくはありません。)そして、母の向こう脛を打撃した。
     目の前で起きた出来事が、私には現実の事だとは到底思えなかった。砕かれたのは、母の脛だけではなかった。私の父親への思いもまた砕かれた。
     何とか生活できるようになった時、母は私を緑の自転車の荷台に座らせ、実家に戻った。兄は残され、私は母に選ばれた。
     私は、これからどうなるのだろう。不安ではあったが、これで良いと子どもながらに思っていた。これは当然のことだと気づいていた。
     その後どうなったのか。
     母の両親は、すでに他界していた。兄嫁とはすこぶる仲が良かった母は、ただ話を聞いて欲しかったのだと今は思う。
     しかし、両親のいない実家に居場所などあるはずもない。まもなくタクシーに乗せられて、入学前の私だけ父や兄のいる家に戻された。降りたのはお墓の前の寂しい場所だったが、しかも夜だったが、誰にも気づかれずに帰ることができた。

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    夜の道

     何日か経つと父は母を迎えに行き、母は家に戻ることになる。その後、父が母に暴力を振るうことは無かった。生活は元に戻り、私も普通に小学校に通う。中学にも進学する。
     小学校では児童会長、中学校では生徒会長を私は務めた。父は鼻が高かったのか、中学校ではPTA役員をしたりして、意気揚々としていた。
     中学3年の時、母が発病し手術をする。経過は良好で、仕事にも復帰した。大学1回生の時、再び母は病に倒れる。以前と同じ種類の病気の再発ではあったが、父はそのことを詳しく告げぬまま、再手術をする。癌だった。
     執刀医から家族に説明があり、手遅れだと告げられた。46歳。余命半年だと言われたけれど、ありがたいことにその後三年間生きることができた。
     私が大学四回生の秋、母は家を後にして入院することになった。これが最期と分かっていたのだろう。いろいろあったこの家を、ゆっくり母は見渡していた。そして、父の運転する車に乗る。
     9月末に入院し、12月初めに母は亡くなる。私は、卒業論文を残して、単位を全て取り終えていたため、病院で寝泊まりしながら大学に通った。
     ある晩、真っ暗な中でヒソヒソ話の声に目が覚める。父母が会話をしていた。私は、寝た振りをしたままその会話に耳を澄ます。
     最初は母の病名のことだった。母は父に、自分の病気が癌であることを認めさせようとした。だが、父は頑として認めなかった。まだ希望があると、言い続けた。母は、自分の体のことだから、何もかも分かっていたのだ。死後、押入れの隅から、病気関係の本が山ほど出てきた。たがその時は父がどうしても認めず、母は諦めたようだった。
     続く話は、私のことだった。兄は就職後に結婚もし、子どもが生まれていた。次男の私は、就職は内定していたが、母にしてみれば気がかりだったのだろう。あれこれと依頼していた。
     私は、その会話を聞きながら、無性に怒りが湧いてきた。怒りなど出す場面ではないとは思ったが、それでもやはり怒りとしか言えない感情だった。
     私は、小学校に入学する前の両親のことを思い起こしていた。
    「ふざけるな!」
     私は、あれから、父が許せないでいた。ずっと、許せずに生きてきた。それが、何だ?母親の命が儚くなって、夫婦で次男の行く末? 何だ、それは!
     母も母だ。あんなことがあったのに、その後普通に暮らしてきた。70年万博には、父母と私の三人で大阪千里の会場にも行った。何だ、それは!私は、寝た振りをしながら、怒りながら泣いていた。
     会話があって何日かして、母はこの世を去った。
           🔹

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    70'万国博覧会

     亡くなった翌年の四月、私は就職して家を離れ、一人暮らしを始めた。やがて私は結婚し、息子と娘、二人の子ができる。大人になったのだ。大人にはなったのだが、大人にはなれなかったのだ。父親が、許せていなかった。
     私は、一切実家には寄り付かなくなっていた。
     父からは電話がかかってくるし、孫の顔を見に来ることも多々あった。しかし、自分から電話をかけないし、盆や正月でさえ帰らない。帰りたくなかった。
    「なぜ、あんなことをした?」
     私は、いつかその問いかけをしてしまうのではないか?そんな不安がいつもあった。一度、聞いてみたい願望が今もある。が、聞かなくて済ませたいという節度もある。私は、一体いつ父親が許せるのだろうと思う。いつ大人になれるのだろうと思う。
     父親は、長生きだった。再婚もせず、60になった、70になった、80になった、そして90になった。
    今年の6月で95歳である。
     昨年の夏、兄から連絡があった。前々から別棟に住居ができていて、今度古い家を取り壊すのだと言う。
     ああ、そうなのかと思った。あの家は、無くなるんだ。父親が、駆け降りてきたあの階段は、取り払われるんだ。何もかも消えて無くなるんだ‥‥。
     取り壊されて、整地作業が完了したと連絡を受けた。だが、今も未確認のままである。
     近々、行ってみようかと思っている。行って、何もかも無くなった跡を見たら、父親に、あの問いかけをせずに済みそうな気がする。父親が、許せそうな気がする。そして、私は、やっと大人の仲間入りができるのだ。

     
     
    気がつけば、子どもの書く文章を収集する人生になっていました。職業柄とも言えますが、誰もがしていることではないので、やはり謎です。ただ一つ言えるのは、自分の体験し得なかった事やこれから起こる可能性の低い出来事を、子ども達が代わりに体験してくれている、そんな認識です。感謝です。

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