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🍒大人になったと感じる時 事続(ことのつづき)


     私が中学生だった頃、立春前後には「立春式」があった。中学2年生(数え年15歳)を対象とする、学校行事である。
     かつての伝統的通過儀礼、「元服の儀」。平均寿命の短い侍社会では、成人年齢は15歳だった。その「元服の儀」が、どうやら「立春式」となって残ったらしい。教育委員会、自治会の代表や、PTA会長を初めとする役員が列席する中、将来への決意表明と感謝の気持ちを伝えること、これが中学2年生に課せられたミッションだったのだ。
     次期生徒会長が決まっていたため、私は生徒代表として、文言の決まっていた「誓いの言葉」を読み上げた。
     上べだけの言葉の朗読だったから、私はちゃんと役目を果たせたと思う。(何と言っても、未だに大人には成りきれていない私なのだが。)

    「立派な社会の一員になれるよう、これからの6年間、大人になる自覚を深める努力をします。今の自分を見つめ直し、親や周りの人に感謝の気持ちで接していきます。」

    みたいなことを言ったんだと思う。
    (どの口が‥‥?)
     タイムスリップ出来るものならあの場に戻り、中坊の私の唇の端っこあたりを「ギュッ」とひねってやりたい。そんな衝動にかられる。
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     2026年2月4日水曜日。立春の日に私は一大決心をし、事を起こすことに決めた。(そんな大層な話ではないのだが。)取り壊され、整地された生家を確認することにしたのだ。
     その場所は、懐かしい思い出の場所であると同時に、父母と私にとっての忌まわしい記憶の染み付いた場所でもある。
     整地後も行けずにいたが、noteのフォロワーさんのアドバイスもあり、行く決心がついたのだ。
     「大人になったと感じた時」の投稿後、コメントを頂いた。同様の体験をし、その後両親が他界。悔いが残っていると言う。フォロワーさんへの感謝の気持ちを込めて、私はアドバイスに従うことに決めた。三年ぶりの帰郷。やるなら立春。元服の日しかない。
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    整地された生家跡

     何も無かった。庭くらい残っているのかと思ったが、それも無くなっていた。それと同時に、私の心の中のシコリや父への蟠り(わだかまり)も消えていった‥‥。と書きたいところだが、現実はそうではなかった。何も変わりはしなかった。心の中で、気持ちの化学反応など起こりはしなかったのだ。それが悲しい現実だ。
     何も無くなってバラスの敷かれた地面を、ただボヤーッと見つめ続ける。おそらく、私は二度とこの場所に戻ってくることはない。
     時間たけが、過ぎて行く。
     余りにも綺麗さっぱりなくなってしまったためか、逆に空想のスイッチが入る。
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     伽藍堂(がらんどう)のこの空き地で、小学校に上がる前の出来事を(忌まわしい出来事の前を)、私はいくつか思い出していた。

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    高い竹馬

    《高い竹馬》
     そう、高い竹馬を作ってもらった。幼稚園で竹馬を覚え、私は家でも遊んでいた。走るように乗る様子が面白かったのか、父は難易度を高めようと、少しずつステップ部分を高く作り変えていく。徐々に高さは増して、ステップ部分が最後は1mの高さを超え、当時の私の背丈に近づく。当然、竹馬全体の高さも増す。
     庭先には、コンクリートの立方体の塊があった。1辺1mほどだったか。一面だけはコンクリート面がなく、出入り可能な網戸が取り付けられていた。鶏をそこで飼っていたのだ。
     コンクリート小屋の上から、私はこの巨大な竹馬に乗り、そして遊ぶ。失敗せずに庭が1周できれば良いのだが、落下する場合は結構スリリングだった。スキーのストックのように、ギリギリまで体重を2本の竹に分散させ、ソフトランディングさせないと足を捻挫しかねない。まあそのスリルこそが、楽しみだった。私は、上手に、そして器用に竹馬に乗って遊んだと思う。

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    鮎の簗漁


    《簗(やな)》
     これも竹関連の記憶だ。父が2mくらいの細めの竹をたくさん採ってきて、庭先で畳ほどの簗を作った。京都の風物詩で「鮎の簗漁」があるが、仕組みはあれと同じである。
    「もうじき台風が来て、大雨が降るみたいやから、ヤナ仕掛けに行くで。」
     有無など言わせない。父は川の本流から枝分かれした農業用支流へと、私を連れて行った。
     私もこういう事がまんざら嫌いではなく、何を獲るつもりなのだろうと、ワクワクしながらヤナ仕掛けのセッティングに立ち合った。
     今見る農業用水よりも少し広い、水路様(よう)の小川だった。幅を考えて父は仕掛けを作っていたようで、何なく斜めにヤナはセットされた。昼間にセットしたので、ヤナとはどんな仕掛けなのかよく分かる。
    「父ちゃん、何が獲れるん?」
    「川ガニや。ザックザック獲れるでー。」
     モクズガニが正式名称である。

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    モクズガニ

     父は、自信満々に答えた。ぽつぽつと雨が降り出し、風も強まってきた。
     台風直撃ではなかったものの、父の予想通り大雨が降る。川の水かさも増しているに違いない。
     真夜中、私は父に揺り動かされ、強制的に起こされた。
    「見に行くでー。」
     安眠妨害甚だしいのだが、それでも川ガニのザックザックが目に浮かび、真っ暗な中、カッパを着て父の運転する軽トラに飛び乗った。
     ヤナに到着する。水量は予想を大きく上回っていた。轟々(ごうごう)と水路を流れている。
     ヤナは、無惨にも半分以上が破損。一部捲れ上がって残っていた。ザックザックどころか、一匹も川ガニの姿を見る事ができなかった。
    「とうちゃん、カニは?」
    「あかんかったなあ。また、今度やなあ。」
     がっかりした様子もなく、父はそう言った。けれど私の知る限り、「また、今度」は二度と訪れることはなかった。

    《ギター》
     私は、「奥の間」と呼ばれていた暗い部屋の押し入れで、古いクラッシックギターを見つけた。縁側に引っ張り出して来て、ポロンポロンと弾いてみる。
     休みの日だから、父もいた。何も言わずに近くに来てギター弦の調律を初め、それが終わると徐(おもむろ)に弾き始めた。
     フォークギターのように、ピックを使ってストロークで弾くのではない。かと言って、アルペジオで分散させて弾くのでもない。一音一音弾くのだが、その一音は常に揺れる。ビブラートが効いているのだ。
     フレットを押さえる方の手首をドアノブのように回し、手全体を使って弦をフレットに擦りつけている。それは何とも物哀しいメロディーだった。
    「とうちゃん、なんの歌なん?」
    「これはなー、バタやんや。田端義夫。『かえり船』いう歌や。」
     父は、右手をギターネックから離し、パーにして振り上げた。
    「オーッス!」
     バタやんは、どうやらこうするらしい。
     父のギターを聴いたのは、これが最初で最後である。

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    田端義夫

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     その後父を拒絶しながらも、この時の記憶が強烈だったのか、やがて私もギターを弾くようになった。その頃流行っていたエレクトーン(電子オルガン)を習ったり、もっと先にはドラムも叩くようになったが、この時のバタやんの影響が無かったと否定はできない。
     1年生担任として、音楽授業に抵抗なく取り組めたのは実に幸いだった。音楽会には、ピアノ、電子オルガン、ドラム、それぞれ1回ずつ正式伴奏者として出演できた。
     高い竹馬に乗れたことが、大きな自信になってか、一輪車にも乗れるようになった。学校に勤め出した後も、一輪車のある学校では子ども達と楽しい時間が過ごせた。
     狩猟本能が強いのか渓流釣りをしたり、同僚と共に小型釣り船をチャーターし、船からの釣りを楽しんだりするようにもなった。これは、獲れなかった川ガニへのリベンジなのかもしれない。
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     何も無くなったバラスばかりの地面を見ながら、ふと考えてしまう。何もかも、これじゃ父がらみじゃないか?拒絶して来たんじゃなかったのか?
     何もなくなった生家の敷地を最後に見渡し、帰り支度をして振り向く。壊された母屋の家屋とは別に、後から建てられた鉄筋コンクリートの農機具倉庫兼車庫が今もある。母屋と接する形で建てたので、台所のタイル壁が少しだけ張り付くように残っていた。淡い水色。そうだ、この色は記憶にある。
     母は、この前に立って、食事の準備をしてくれたんだ。ふと、母は私の父のことをどう考えていたんだろうと思った。
     父の暴力は、私の知る限りあの時が最後だった。三人で行った、70年大阪万博。最後の入院時前、この農機具倉庫兼車庫内で父の車に乗る前、家を目に焼き付けるように母は見渡していた。そして、亡くなる前の病室での夫婦の会話。母の穏やかな性格。色んなことが一度にフラッシュバックする。そして、結論が出た。母は、間違いなく父を許していた!それも、かなり早い段階で許していた!
     母親が許していたのに、私一人が許せないでいたのだ。そんなふうに思い始めると、何だか馬鹿馬鹿しくなって、もうどうでも良くなってきた。
     三年ぶりに、父親の顔でも見て帰るとするか。200mほど離れた所に、兄夫婦と共に父親は住んでいる。私は200mほどの道のりをゆっくりと歩いて行くことにした。大人になるための、道のりである。ゆっくりがいい。

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    母が立った台所の名残り:水色のタイル壁
     
     
    気がつけば、子どもの書く文章を収集する人生になっていました。職業柄とも言えますが、誰もがしていることではないので、やはり謎です。ただ一つ言えるのは、自分の体験し得なかった事やこれから起こる可能性の低い出来事を、子ども達が代わりに体験してくれている、そんな認識です。感謝です。

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