京都言葉物語:第3話 「深泥池」――深い泥の池?
京都の地名には、漢字を見れば見るほど、分からなくなるものがあります。
今回、沙月先生が黒板に書いたのは――深泥池
「皆さん、これを読んでみてください」
深い、泥、池。ならば「ふかどろいけ」でしょうか。
沙月先生は黒板の前に立った。
白いチョークを持つと、ゆっくり四つの文字を書く。
深泥池
「さあ、これは何と読みますか?」
私は少し考えた。
「ふか……どろ……いけ?」
沙月先生が笑った。
「京都では、そう読みません」
チョークが黒板を滑る。
みどろがいけ
「そして、みぞろがいけとも読みます」
私は首をかしげた。
「どうして『深』が『み』で、『泥』が『どろ』なんです?」
沙月先生は答える。
「そこが地名の面白いところです。古い記録を見ると、この池は『泥濘池』『美度呂池』『御菩薩池』など、さまざまな文字で記されています」
実際、平安時代の記録には、829年にこの池で水鳥を狩ったことが記されています。また、1018年の『小右記』には「美度呂池」と見えるとされています。

「つまり、現在の『深泥池』という漢字だけを見て、その読み方を考えてはいけないのです」
沙月先生はそう言って、黒板の端に書いた。
文字 → 読み
ではなく、
昔の呼び名 → 音 → 後の漢字
という場合がある。
なるほど。
すると沙月先生は、黒板いっぱいに池の絵を描いた。
「しかし、この池には、名前以上に驚くべき秘密があります」
京都盆地の北にある深泥池。
周囲はおよそ1.5キロ、面積は約9ヘクタール。
けれども、その小さな池の中には、西日本の平地では珍しい浮島があります。さらに、最終氷期から生き残ったと考えられる植物など、非常に貴重な生物が今も生息しています。

「浮島って、本当に浮いているんですか?」
「ええ」
沙月先生は少し得意そうに答えた。
「池の中央には、植物の遺体などが長い年月をかけて積み重なった浮島があります。その下には水の層があり、実際に浮いていることが確認されています」

そして沙月先生は、さらに小さな文字を書いた。
約1万年前
「この池では、本格的な湛水が始まったのが約1万年前と考えられています。そして、ここには氷河期以来の貴重な生物が残っているのです」

私は、もう一度「深泥池」を見た。
最初は、ただの難読地名だった。
しかし、その四文字の奥には、
古い日本語。
平安時代の記録。
水鳥を狩った人々。
そして、遠い氷河期から続く自然。
そんな長い時間が重なっていた。
沙月先生は最後に、黒板へ大きく書いた。
深泥池
その下に、
みどろがいけ
さらに小さく、
みぞろがいけ
と添えた。
「地名というのは不思議でしょう?」
「漢字を読んでいるようで、本当は、その土地が積み重ねてきた時間を読んでいるのです」
私は深泥池という名前を、もう「読みにくい漢字」とは思えなかった。
それは――
一万年以上の時間が沈んでいる、小さな池の名前だった。
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