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月下美人 —断たれた時に咲く一夜花— | ⑳第三章(最終話)・東京ー渡す夜


    第三章


    Presto agitato/急速に


    「東京ー渡す夜」


    どんな結果だったとしても。その日過ごしたのは私たちだけの時間。そこに確実にあった。

    ー出発3日前

    彼にプレゼントを渡したい。 せっかく来てくれる。奇跡に近いこと。
    彼はコーヒーが好きだった。こだわりがあるくらい。コーヒーがいいかと考えたけれど、今はどんなものが好みか私は知らない。
    だから他のものを選ぶことにした。

    彼はお酒が飲める。だから好き嫌いを選ばない地元酒造のウィスキーにした。

    前は、家庭に持ち帰れない物は、なんて考えてた。
    でも今は、照らす先を変える。渡したい気持ちを渡す。
    その後は彼が決める。

    ー出発2日前

    台風がやってきた。 当日は飛ぶのだろうか。 この機会を逃せば会えない気がした。 運命に委ねてる感覚。祈るように画面のニュース情報を追い続ける。

    あっという間に通り過ぎた。 会えるまで、何があるのか本当にわからない。

    一言目はお互いなんだろう。

    緊張で見えてなかったけれど、その日の始まりに、また終わりも見えてしまった。やっと進み出した秒針は、この日止まってしまえ。とさえ思った。

    ー出発前日

    当日キャンセル、「ドタキャン」という言葉があるくらいだから、当たり前に起こる。
    朝からメッセージの通知が鳴るたびに「やっぱり、」という言葉が表示されるのではないかと不安になる。

    通常通りの仕事と、友人からのメッセージだけで終わりそうだった。

    夜に3通の表示。ふと見ると彼からだった。
    どうしたのだろう。ずっと途絶えていたのに。
    メッセージを開く、目に入る。

    20時に新宿になりそう。

    そうなんだ。
    緊張が解ける。朝早起きをして、メイクをしなくてもよさそうだ。
    ホテルでゆっくりしてから合流できそう。

    急遽、飛行機を変更しなければいけなくなって、成田着の便になった、と。

    お店の予約を取り直す。
    「どこにしようか?」と、彼からのメッセージ。

    その時に、ずっと入らなかった私の名前が入ってきた。
    「すずちゃんが選んでくれたお店にする?」
    付き合ってた時はスーだったから、少し遠く感じる。 それでも、会おうとなってから初めて名前が呼ばれたことに、このタイミングなのか。と思った。

    彼が選んでくれたお店は和食、そこにすることにした。

    「とりあえず、東京着いたら連絡するねー」
    「うん、待ってるー!」
    「はーい。」

    飛行機の変更理由は書かれていない。 仕事なのか家庭の事情なのかわからない。 そうだったな、彼の言わないことは聞かなかったな。

    それを聞くことすら痛みになったから。

    飛行機を取り直す?成田?今も同じだ。
    聞こうと思うと鈍く胸に痛みが走る。
    それでもドタキャンを選ばなかった彼。
    彼もきっと、明日という日を同じように捉えているのだろう。

    彼の声を少しだけ思い出せた気がする。

    ー6/12 12:00

    東京に着いた、天気はくもり。
    到着機内案内で温度は19度、とアナウンスが入る。
    あれ、思ったより気温低いな。先月は気温差を感じなかったのに。

    飛行機の通路を渡り、大きな天窓から整列している赤や青の
    ロゴマークの飛行機を横目にしながら、1階へ降り立つ。
    手荷物受け取り所を通り過ぎ、到着エリアからモノレール駅へ向かう。まだ記憶が新しい。迷わず歩ける。

    携帯をかざして改札内に入り、待機していたモノレールに乗った。
    急に、一人の時間を感じだす。

    乗り換えのため外に出る。
    ふとブレーキで焦げたゴムと、冷えたアスファルトが混ざった空気が鼻に入り込む。

    あ、やっぱり寒い。

    気まずさはあったけれど、あの日以来のメッセージを送信する。
    彼の飛行機は17:30着の便だと書いてたから、まだ間に合うかもしれない。

    「TOKYO着いたけど、気温確認してなかったー。薄着で来ちゃったw 19度だって。洸君も間に合えばwそんな感じでーす」

    「えー寒いのかー」 「まーどうにかなるさ」
    「思いのほか!肌寒いでっす」
    「すでに空港に来てしまいましたー」

    タイムラグ無しでメッセージが入ってくる。 会う前の緊張が少し和らぐ。
    いつもの2人のテンションに少しずつ近づく。 楽しい。すぐに返信がくる。だから、送ってもいいんだと思えた。

    新宿駅に着いた。
    改札を上がったところで彼の返信を読む。
    今日は週末なのかなと思うほど、周りには雑多な人。まだ陽は明るく、人々の顔まではっきりと映し出している。初夏に合う水色のワンピースやグレーのスーツが忙しく動く。

    私もその背景の1人だ。
    だから思わず彼の返信に吹き出して笑っても、何も気にしない。 目的地へ向かう、無数の足音で消えていくから。

    この感じが私の好きな彼。
    調子に乗ってまたメッセージを送る。 ちゃんと返事がくる。

    ー15:00

    新宿から乗り換えて、ホテルへ。
    チェックインを済ませる。

    部屋は、タッチ式のカードキーではなくて旅館のように鍵で開けた。カーテンが閉じてて光がない。急いでスイッチを探して電気をつけたけれど、照明が重い。
    (値段のわりに、古いやんけ)と一人でツッコんだ。

    シャワーを浴びてメイクをする。 髪型も念入りに。揃えたばかりの髪にヘアオイルをつけて、ストレートになるようにドライヤーで工夫する。

    少しの差なのに時間をかける。 メイクもこんなにたくさんの種類を使い分けたことないくらい、細かく区分して仕上げていく。

    ー18:00

    本当はもっと早く新宿に戻ろうと思っていたが、結局彼からの成田に着いた、というメッセージが来た同じタイミングでしか、ホテルを出られなかった。

    お花屋さんへ寄る。
    ウィスキーに添えるように。

    今夜、私は8年間言えなかった言葉を渡しに行く。
    それはもう、彼に決めてもらう言葉。 考えたらプロポーズだ。だからこそ、お花。 迷ったけれど、覚悟を自分で裏切らないようにするために、ここへきた。

    茎が放つ青い匂いや花弁から漂う甘い香りが、近づくとわかる。様々な種類の色が、それぞれに主張して凛と立っている。色彩に心が躍る。

    店内をぱっと見て、存在感のあるワインカラーのような、黒に近い紫の「ホットチョコレート」という「カラー」が目に留まる。

    「ご用途はお決まりですか?」

    男性に、一輪で。と答える。

    悩んだ末に、月下美人の代わりに白い小さなバラを選ぶ。
    「シェドゥーブル」と書かれていた。

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続ける・7歳ー

    母の日。
    お小遣いでカーネーションを買う。
    「後で」と
    トイレの洗面台に入れられる。
    「後で」
    そのまま
    「後で」
    腐ってった。



    ー19:25 新宿

    行きたかったお店があったが、道に迷って辿り着けない。 そこで彼からメッセージが入る。
    「着くの20時くらいだ。東口に着いたら電話するねー。」

    返信を送る。 「行きたかった所にも辿り着けず、今自分がどこにいるかも分からず。電源が何故か50%という事を報告しておきます。」

    「ええ?まぁ、その辺におってくれたら、おれが行くよ。その時に場所送ってくれたら。」

    また彼が迎えに来てくれる。

    私の甘えが出る。
    「新宿でウォーリーを探せ!が始まるね。ワクワクw」
    「むずいなーww」 とリアクションがくる。

    ああ、やっぱり。

    そんなの無理、なんて流さない。ちゃんと同じゲームを、一緒に楽しんでくれる。

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続けるー

    車が家に着く直前、
    「降りる準備をしていろ。」
    出るのにもたもたすると
    父は鬼になる。
    私がおどけてる間は笑う。

    ー20:00

    「着いたけど、おれもまいご。。」と彼。
    「wもう? 改札出た?」
    「eastビルとeastビルの間にいるよ。」と返す。

    もちろん、それで見つけられるなんて思っていない。
    冗談だった。 緊張する。
    それを笑いに変えてふざける。
    いつもしてきたことだから。

    すぐ既読になる。

    突然、赤い大きなボタンが鳴る。

    これを押せば、
    8年ぶりに彼の声に繋がる。

    ドキドキしながら、
    全てが面白くなってしまって
    笑いながらボタンを押す。

    耳元で聞くのが少し怖い。
    先に、私が話す。

    「今eastビルから降りてきて目の前にまたeastビルがあって、振り返ったらもう一つeastビルって目の前に書かれてる!合計3つ、目の前に入り口がある!」
    と、少し早口になる。

    すると
    「久しぶりに聞いた、その笑い声」
    と、にこやかに彼が言う。

    あ、彼の声が聞こえた。

    そう、少し柔らかい。声の束を集めたら、太いわけでも細いわけでもないちょうど中間。温度で言ったら太陽に干したお布団にうずくまるあの心地よさ。

    ずっと覚えていたのは、私だけじゃなかった。

    8年ぶりの。最初で最高のプレゼントだ。

    コーヒーショップ eastビル2F
    メッセージで階段とエスカレーターとコーヒーショップの画像。
    それに各店舗が掲載されたYou are hereの地図を彼に送る。

    今回こそは、絶対先に見つけたかった。
    だから少し隠れるようにして
    お店の前で階段とエスカレーター、両方にちらちらと目を走らせながら彼を探していた。
    焙煎されたコーヒー豆とミルクの匂いに包まれながら。

    彼はどんな格好でくるんだろう?
    どっちが先に見つけるんだろう?
    見つけたらそっと近づいて驚かせよう。

    なんて目も頭も忙しく動かしていた。

    6分後。
    ふと後ろを見ると
    よーっという感じで右手を挙げながら、
    音もなくふわーっと近づいてきた。

    振り返ってすぐに目が合う。先に見つかっていた。
    あれ。何か違う。一瞬でわかったけど一瞬分からなかった。

    全身黒色だった。
    帽子もTシャツもズボンも、大きな旅行カバンも。かけていた伊達メガネも黒縁で。彼は目がいいから、度が入ってないってすぐわかった。すごく似合っていた。メガネだから、一瞬戸惑ったのだ。

    記憶の中の彼は元々カジュアル服だったけれど、黒一色のイメージではなかっただけ。

    かくいう私も上は白のTシャツ、下も白に近いベージュ。ワンカラーコーディネート。 落ち着いた色味なのはお互いともだ。黒と白なんて本当は逆だけどと思いつつ、これはこれで2人のトーンは合ってるな、なんて思いながら歩き出す。

    気恥ずかしさを誤魔化すように、お店に向かう途中で、もうプレゼントを渡した。
    「俺、何も持ってきてないよ。」
    「全然いいよ。」(渡したかっただけだから)

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続ける・5歳ー

    母が言う
    「でぶだから食べるな」と。
    保育園の先生に、「抱っこしてあげる」と言われた。
    いいよ。
    だって、私重たいもん。

    ー20:15ビルに到着

    お店の看板を『白目』などとふざけて読んで、
    和食のお店の雰囲気を一気に変える彼。
    台無しじゃんって言って、2人で笑いながらお店が入っているビルに着いた。

    エレベーターに乗り込む。ああ、ここで2人は緊張する。誰か他のお客さんに乗ってきて欲しい。そのまま、2人きり。
    ありがたいことに考える暇もなくお店に着いた。

    扉が開く、薄暗い。段差が一段高くなっていて、その間に細く足元のライトが点いている。靴を脱ぐスタイルだとすぐ理解できる。
    それぞれの靴を下駄箱に入れる。ほぼ満席なようで、彼の近くは空いてない。離れたところに入れて、木箱の鍵を抜いて持っておく。

    カウンター席に案内される。横並びの椅子がくっついていて、同時に引くようになっていた。 これってトイレに気軽に行けないのでは?なんて考えてた。

    携帯を使って注文する。
    コースではなく、アラカルトにした。

    サラダ、前菜三種盛り、軽めのものから。
    飲み物は2人ともビール。彼がオーダーしてくれた。

    とにかく2人共明るい。

    「初めて会ったのはどこだっけ?」
    「東京駅の近くだよ。」
    「あーあのエレベーターの中か。」

    「どうやって付き合い始めたっけ?」
    「あの時のオンラインMTGだよ。」

    彼の口から「九份」というワードも出てくる。
    お互いに、付き合っていた時は一度も話題にならなかったのに。

    単音が複音になっていく。

    仕事のこと子供のこと世の中のこと、たくさん会話をする。

    何年位会ってないっけ。久しぶりな気がしない。全然変わってないね。
    綺麗だ。卑怯。 とも言う。

    太ったよ。本当に?セーフ? なんて軽めに返す。
    (メイクも髪も頑張った甲斐があった)

    言葉で行動で全てストレートな人。
    相変わらずだな。

    それでも彼の手には大きな結婚指輪。
    付き合ってた頃は必ず外してくれていた。

    どっちが卑怯だろう。

    ほんの数年前に立ち上げた新しい事業。
    彼はそのホームページを見ていたという。
    すごく良く出来てると思った、と教えてくれた。

    私が一つ一つ目に見える形にした物を彼が拾い上げて、綺麗な貝殻を見るように見てくれる。
    だから私はまた海で泳げてた。忘れかけていた感覚が蘇ってくる。

    話しかけていたのは私。でも、ずっとあなたの呼ぶ声が私には聞こえていた。

    またお酒を頼んでとせがむ。
    彼が明るく笑いながら言う。
    「いつもあなたが飲むけど、俺が最後は介抱していたからね。」
    「うん。わかってるよ。」

    全部覚えてるよ。思い出していたよ。何度もね。

    ただ行間を読むように彼の会話の隙間に、家庭の音が漏れ聞こえてくる。
    彼は意識的に言葉を避けている。
    だからこそ、怖くてやっぱり言えない。

    でも、言わないと。自分の言葉をここに置いていかないと、また同じ8年を過ごすことになる。

    短い言葉。
    ー選んで欲しいー
    ー私じゃダメ?ー

    この言葉を言えば終わりが来る。きっと。
    簡単な言葉でも私には重い。

    彼が優しく何度か促してくれる。
    「何かあった?」
    「何かあったら会ってくれるの?」
    「うん、もちろん。」
    「何かあったら誰でも会うの? 」
    「ううん。特別だったから。」

    そうなんだ。
    会うことは、悩まなかった。と彼が言う。
    この瞬間は、まだ受け取れていなかった。また、耳が閉じていた。

    会話の間にどんどん料理が運ばれてくる。
    飲んで、酔えば勇気が湧くかもしれない。
    理性が飛べば。

    ビールを頼む。
    けれども一緒に流し込んでしまったかのように大事な言葉は出てこない。

    食事が減っていかない。

    彼に食べてとすすめるも、
    彼も食べてるよ。と言いながら、食事は一向にすすまない。

    もっと話したい本音がたくさんある。
    6杯ビールを飲んでも酔えない。言えないまま。

    お店が閉店時間になった。

    勇気をかき集めている間に、
    周りを見ると私たちだけになっていた。

    お会計をする。
    「次行く?」と彼が聞いてくれた。

    私、まだ何も伝えてない。
    何故、会いにきたのか。どんな思いでいたのか。何一つ。
    「うん。」と答える。
    どこに行こうか?もう遅い時間だね。

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続けるー

    夜になると、母と父が喧嘩する。
    扉を閉めても
    頭を隠しても
    すべてを通り越して聞こえてくる。
    大声が私に向かってくる。
    静かに息をころす。

    ー23:00

    「どっかでウィスキーを飲もう。」 と誘う。
    「いいね、持ち込めるところあるかな?」

    もしお店が見つからなかったら?解散。

    「私のお部屋で、どうかな?コンビニで氷買って。」
    少し強引に、早口で畳み込む感じで私が言って、
    そのまま決定事項のように移動する。

    ホテルの部屋に行くことには、あまり触れないようにする。
    私たちは、明るく話をして盛り上がる。

    話に夢中になって
    不慣れな新宿で、 路線案内を何度も見逃しそうになる。

    また2人で顔を見合わせて笑う。

    私はすべてを彼任せにしていた。

    「これだね。」と改札口に辿り着く。

    エスカレーターに乗る。
    私が先
    彼が後。

    ホームに着くと、一方向に急激に流れる風が入り込んできた。

    電車だ。

    私が冗談でいう。
    「もう洸君が電車を間違えたら私たちは詰みだ」
    彼が「またー。」うちらのお決まりだよね、という感じで笑う。

    そう、私はわがままを言う。
    それを彼は笑って受け止めてくれる。

    どんなに私が寄りかかっても、彼には重くないんだ。感情に体重があったとしても。

    煌々と光る車内、昔の距離になっていた。
    横に並んで揺られながら。
    それだけで、さっきの軽口の延長みたいに、本音が出る。

    人にお願いできない。それがブレーキとアクセルを同時に踏んでる状態を何年も続けてきた。自分が人にNOと言えないから、全部飲み込んで動いた方が早いって思って。
    彼は「そういうところあるよね。」と受け取ってくれた。

    電車が目的地に着く。
    改札を出ると
    あたりは静かで、暗い。

    ぐるっと見回すと、左手奥に白い光を放つ看板が見えた。
    あそこにコンビニがあるね。

    その道すがらも話は続いていた。 彼が大きな声で話す。
    「夜だよ。声が大きいよ」
    「そう、俺耳が悪いから声が大きいんだよ。」

    大きい声は苦手。でも彼の声は楽しそうな笑い声。
    だから私も一緒になって笑って、近所迷惑だよって嫌味なく言える。

    静かな夜、目の前のコンビニだけが眩しい。
    そこに吸い込まれていく私たちの笑い声。

    炭酸水と氷と使い捨てのコップ、それにサラミのスナックと麻辣ピーナッツを買って外に出る。これくらい私が、とも思うけれども、ここでも彼がすべてを出す。

    まるでお姫様扱い。昔と変わらない。

    どのくらい買ったらいいかわからないね。と話しながら後にする。

    ー23:50

    ホテルの部屋に上がっていくエレベーターの中で彼が言う。
    さっきのエスカレーターで、ハグしたくなった、と。

    何も話してもいないのに。驚くほどに私の記憶と、あなたから聞こえてくる声が重なっていく。

    買ってきたものを、小さな丸いテーブルにのせる。彼は1人がけのソファーに、私は向かいの椅子に。手を伸ばせば届く距離で。

    ウィスキーを開ける時に彼が聞いてきた。
    もらった時にチラチラ見えてたんだけど、お花?どうしてお花なの?と聞かれても、私はまたここで口を閉ざす。

    「プレゼントだよ」と答えになっていないことを答える。

    コップに氷を入れて彼がウィスキーと炭酸水を注いでくれた。琥珀色が、透明な氷の間をすり抜けていく。

    もう、いい加減。

    腹を括ってウィスキーを飲む。

    「あのね、言わないといけないと思ってる。なんで会いにきたか。でも泣いちゃうかもしれない。」

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続ける・結婚生活ー

    泣くと火に油を注ぐ。
    今日だけは家にいてほしいと頼む。
    夫は趣味に出かける。
    一人で泣く。
    夫がそれを見つける。
    外にも行けないのか、と怒鳴り散らす。


    (困らせるよね?泣いたら。)

    彼は言う。
    「泣いていいよ。」

    もうその一言で、涙が溢れてくる。

    「消そうと思ってたんだ。できると思ってた。でも出来なかったごめんね。」

    彼が手を伸ばして、膝の上に私を乗せて抱っこしてくれた。 重たいかなとか全然気にならなかった。

    彼の方が大きかったから。

    彼がキスをしてくれる。何も言わない。

    彼の匂い。ずっと匂いがない人だと思っていた。今する彼の匂いは石鹸ではなくて、シャンプーでもない。お花の香りのよう。少し甘く、でも鼻の奥に残るような濃さではない。ふわっと入ってくる。とてもいい匂い。

    あ、香水つけてるんだ。

    彼に聞いたら香水なんてつけないよ。つけたことなんて人生でほとんどない。若い頃買ったくらいかな。と教えてくれた。

    すずちゃん、すず、と彼が呼ぶ。
    すずちゃんなの?と聞く。
    スー。と、彼が言い直す。
    あー、やっぱり覚えてたんだね。言わなかったんだ。

    「どうしてLINEブロックしなかったの?」
    「そこまでは、できなかった。して欲しかった?」
    「うん、諦めがついた」
    何かあればと思って、ブロックできなかったんだと彼が言う。
    「それが今日だったね。」
    冗談めいて返す。

    「私のこと怒ったり恨んだりしなかったの?」
    「うん。でも写真はすべて消したよ。 」
    「そうなんだ。良かった。」
    「消さない方が良かった? 」
    「うん、2人の写真は欲しかった。私も消すのにだいぶ時間がかかったよ」

    そんな夜ですら
    言葉が喉に引っかかった。

    また、渡せない。

    ー6/13

    彼の方が仕事が早く、起きる時間が早かった。 このままでは帰れない。今日も会えないかなと思った。

    「今日はどうする?会える?」
    「遅くなるけどいい?お店もしまってるかも」
    「うん、大丈夫。」
    「じゃ、帰ってくるね」

    「うん。」

    それでも本当に来るのかはわからなかった。 時間が遅くなって終電に間に合わない可能性だってある。

    私も仕事に出かける。

    お腹は空く。お昼に梅おにぎりとエビのバジル炒めの小さなデリを買った。でもいざ食べようとしても口に入らない。
    何回も吐いてしまう。言えなかった後悔が襲ってくる。

    今夜こそ、本当に戻ってきてくれたら向き合わないと。
    これで完全に終わるかもしれない。 わかってる。

    頭痛がする。早く回復したくて、残っていたお昼をかきこもうとする。でも、ダメだった。 仕事は早めに切り上げた。
    ホテルでゆっくりお風呂に浸かる。湯気の中に、いつもとは違うシャンプーの匂い。やけに強く鼻につく。

    薄暗い部屋で、しばらく眠った。

    彼からのメッセージが入る。「そろそろ帰るー」

    この言葉が私にとってどれだけ嬉しくて刺さるのか、彼は知らずに使っているのだろう。

    気持ちは渡した。でも、まだ私の気持ちを前には置いてない。
    今日がその日になる。

    ー20:30

    思っていたより早めに帰ってきた。
    彼の顔を見たらお腹が空いてきた。

    彼が提案してくれる。お散歩しようかと。
    彼も何か話し足りないのかな。

    2人でお出かけをする。ホテルの周りを散策した。冷たい空気にあたる。

    怪しい光が全然ないね。と彼が言う。
    どんなお店を探しているのかと私が笑う。

    しばらく歩く。

    飲み屋街が見つからない。

    豚骨の獣っぽさと油のこってりとした匂いに気づく。
    ラーメン屋さんを見つけた。
    お、この辺が怪しいと言う。
    確かに、そこを曲がると居酒屋のチェーン店も出てきた。

    彼がそっと手を繋いでくれた。
    恋人繋ぎではなくて。手のひらと手のひらが重なる握手のまま。

    迷子の子みたいだな私。と思った。

    でもそれすらにも彼のブレーキ痕が見える。
    何も言わず、そのままにして歩いた。

    居酒屋に入る。
    お店は私が決めた。

    彼はもう食べてきたと言う。

    餃子のチェーン店。
    私はビール。彼はハイボール。

    乾杯。

    私が食べたいものだけを頼む。
    彼を目の前にしたら、安心して食べられた。

    何事もなかったように。

    またざっくばらんに近況を話す。
    文脈とか脈絡とか何も気にしない。

    話の流れで
    「私は地味に生きていきたい。目立たず」 と答える。
    彼が、「それ前から同じこと言ってる。」 と笑ってくる。

    私自身は覚えていない。そんなに前から生き方が同じなんだ私って。

    2人でシェアして食べる。 最後にもう一杯ずつ頼む。
    すぐにラストオーダーになった。

    彼が手を差し出して、繋いで帰った。
    帰りも同じ繋ぎ方のまま。

    部屋に戻ってきた。
    彼がまた優しく包み込む。心が安心する。

    彼が手を頬に当ててくれる。
    俺の手、気持ちいいでしょ? 8年前、そう言われた。

    あの頃は、他の誰かにも言ってるのかなって、嫉妬していた。

    同じ仕草をしながら、彼が言う。
    「俺、これ前にもしたことあるよね?」

    私との思い出だったんだ。
    8年越しに、嫉妬が解けていく。

    聞きたいことが考える間もなく聞けた。
    「もう今日で最後?」
    「わからない」
    そっか。
    分かっていたはず。でも、体が重くなる。
    シャワーも浴びずに、ベッドに2人で潜り込む。

    私が付き合っていた人の話を聞いてきた。
    「別れたよ。」
    「そうなんだ、知らなかった。」
    「仲良くやっているのかと思っていた。」
    「仲良くやっていたよ。喧嘩もしなかったし。」
    「平和になりたいから平和にしていたんだよね。」


    「俺も見ないようにしてきた。」

    同じだった。
    悲しい息遣いが聞こえる。

    私たちはお互いに理性で管理できると思っていた。
    でも、気持ちが理性より長生きすることを証明してしまった。

    「俺がメッセージしてもねー。」
    「うん。」

    あの時、私は自分の気持ちをまだ形にしていなかった。もらっても、受け取れなかっただろう。ただ、頷くしかなかった。

    彼が「すずの匂い、昔と変わらない。」という。
    「うそ、やだ。なんか恥ずかしい。」と返す。

    匂いも、そのまま彼の中に残っていたんだ。
    離れていた時間がお互いどうだったのか、会いにきてよかった。

    終わりの鐘が聞こえてくる。
    やっと言えた。

    「選んで欲しい。私じゃダメ?」

    ーー左手/後ろで、重く、静かに流れ続けるー

    カタカタカタカタ
    今日も祖父母の言葉で私の成長映画が回る。
    記憶もない位小さい時からの私の話し。
    祖父が話す。同じ話を何度も。
    祖母が笑う。場所も毎回同じ。
    祖父母の目を通してたくさんの出来事が語られる。
    「カツオ(節)が踊ってるよ。」祖父は冗談をたくさん言って笑わせる。
    「たくさん食べて。大きくなるよ。」祖母は食べると喜ぶ。
    「やっぱり気づいた」祖父は部屋の違いに気づく私を楽しむ。
    「すずからもらったものだから。」祖母が何度も使うたびに感謝する。
    私はそうやって食べて、立っていられた。

    ー6/14

    彼のキスで目が覚める。何時かなんてわからない。でも朝なのはわかった。 彼の飛行機が早い。

    彼の顔を両手で包み込む。
    まっすぐ目を見る。
    「洸くん、好きだよ」
    彼は何も答えない。

    ベッドで2人できつく抱き合う。背骨が折れるくらいに。
    離れずそのままつぶやく。
    「洸くん、バイバイ」

    彼はそれにも答えず準備を始める。

    彼が準備を終えた頃、
    ベッドの横に立ち上がる。
    彼が抱き寄せる。私はそっと、顎を彼の肩に乗せる。
    私は本音を伝える言葉を知らなすぎる。代わりにこの両手が伝えてよ。

    「いってきます」と彼。
    「いってらっしゃい」と送り出す。

    彼がそのまま顔だけ離して、優しく微笑みながら話しかける。

    「またくるね。」

    ー左手/後ろで、重く、静かに流れ続けるー

    そっか、私はずっと、笑って欲しかったんだ。


    「また会えるの?」と聞くと、
    「うん、またくるよ」と返ってきた。

    「良かった。」

    彼の旅行カバン。
    サイドのチャック、上側が少し開いていた。
    私はメガネもつけずに彼の後ろをついていく。
    「カバン空いてるよ」と教えると
    彼が「お花が」と教えてくれた。

    迷ってたのに。
    ここまで丁寧に扱ってくれるなんて。
    彼の一面がまた見えて嬉しくなる。

    ウィスキーも持って帰ってくれていた。

    見送りながら腕を伸ばして、最後まで手を握り返した。
    胸に飛び込んでしまいたい。
    そのままドアは音もなくゆっくりと閉まった。

    渡した。
    全てを。


    いってらっしゃい



    ー「咲いたよ」と祖父母が嬉しそうに、現像した写真を見せてくれた。
    まだ小さい私は何も知らなかったけれど、今でも私の記憶に大輪の花を咲かせているよ。ありがとう。大切に育てられた真っ白い一夜花、月下美人。ー






    ベートーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」


    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門

     
     
    見えてる感情を小説、そして曲に。 連載小説『月下美人』 全20話。三部作第一作。 (窪塚さん編・洸編 構想) 経営者として10年以上。 書いて、初めて音から違うストーリーが流れてきた。 #創作大賞2026 #恋愛小説部門 #実話 応募作品。

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