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講談社ライトノベル文庫新人賞10万字やっと書き上げた!



異界の絆――忘れても、君を探す


プロローグ


あれは十年前――僕が高校二年生の時の、文化祭の話だ。

今でも、あの図書室の匂いを思い出すことがある。書架の隙間を抜ける風の匂いも、返却カウンターの軋む音も、あの頃と何一つ変わっていないはずなのに、窓際のあの席だけは、もう誰も座っていない。

分厚い郷土史が、開かれたまま置かれていた。その持ち主の名前を、僕はもう誰にも言えなかった。担任も、図書委員の仲間も、ついさっきまで隣にいたはずの陽菜でさえ、怪訝な顔でこう言ったんだ。

「誰の話をしてるの?」

窓際の席に射す西日が、誰も座っていない椅子の背もたれを、橙色に染めていた。僕はその前に立ち尽くしたまま、動けずにいた。名前を、声に出して呼んでみる。返事はない。ただ、机の上の郷土史のページが、風もないのに、かすかにめくれていた。

――その話をする前に、少し遡らせてほしい。三週間前、文化祭の準備が始まったばかりの、ただの平凡な一日から。

一章 四人の距離

三階建ての校舎は、緩やかな坂の上に建っている。教室の窓からは、瓦屋根の連なる商店街と、その先に小さく覗く赤煉瓦の時計台まで、見晴らせた。もっとも、あの頃の僕は、そんな景色に何の意味も見出していなかった。

「おい、悠真。また何か企んでる顔だな」

窓の外をぼんやり眺めていた僕の肩を、大輝がニヤニヤしながら叩いた。僕は鬱陶しそうに身をよじり、振り向く。

「人の顔見て、失礼なやつだな」

「でも、当たりだろ」大輝は得意げに笑い、教室の後ろの掲示板を指差した。「ほら、見てみろよ、これ」

真新しい文化祭のポスターが、貼り出されたばかりだった。「地域活性化プロジェクト」という文字が、太い油性ペンの線で強調されている。坂上高校の文化祭は、通称「坂上祭」と呼ばれ、今年で四十二回目を迎える。三年生は毎年恒例の演劇部公演、多くのクラスはお化け屋敷や模擬店で賑わうのが常だが、今年は生徒会主導で、商店街を巻き込んだ新しい企画が立ち上げられていた。例年にない試みに、校内の反応は様々だった。

「……面倒そうだな」僕は一瞥しただけで、興味なさそうに目を細めた。

「面倒じゃねぇよ、面白そうだろ。商店街のシャッターアートとか、地元野菜の新メニューとか、もういくつか考えてんだぜ」

大輝は身を乗り出し、企画の中身を語り始めた。声の弾みが、寝起きの教室には不釣り合いなほど大きい。僕の耳はその半分も拾っていなかったが、目だけはポスターの端に映った人影を捉えて動かなくなっていた。図書委員の腕章をつけた、すらりと背の高い生徒。佐倉澪だ。学年一位を譲ったことがないという噂の才女で、モデルのように伸びた背筋は、廊下ですれ違う下級生の視線を自然と集めていた。彼女は掲示板の前で足を止め、文字を静かに目で追っている。

その視線に気づいたのか、大輝がにやりと笑った。

「陽菜も、これ見て張り切ってたぞ」

名前が出た瞬間、大輝の声のトーンが、わずかに柔らかくなった。僕はそれを聞き逃さなかった。机に頬杖をついたまま、視線だけを大輝に戻す。からかう言葉はいくらでも浮かぶはずなのに、口をついて出てきたのは短い相槌だけだった。

「……ふぅん」

大輝は気づかず、陽菜がどれだけ早くこのプロジェクトに乗り気だったかを続けて話している。僕は再び窓の外に目を戻した。澪の姿は、いつの間にか廊下の角に消えている。残ったのは、彼女が立っていた場所の、少しだけ空気が違って見える感覚だけだった。

チャイムが鳴る。大輝は名残惜しそうにポスターへもう一度目をやってから、自分の席へ戻っていく。僕は机に肘をついたまま、担任が入ってくるまでの数十秒を、ぼんやりと見送っていた。

昼休みの廊下は、いつもより騒がしかった。隣のクラスは黒い布で窓を覆い、お化け屋敷の飾りつけに精を出している。反対側の教室からは、演劇部の台詞合わせの声が漏れてきた。毎年恒例の出し物に混じって、今年は「地域活性化プロジェクト」という耳慣れない企画名が、廊下のあちこちで囁かれている。

購買へ向かう途中、廊下の隅に転がる小さなキーホルダーに気づいた。拾い上げると、辺りを見回すこともせず、まっすぐに廊下の先を歩いていた一年生らしき女子生徒に近づいていた。

「これ、お前の忘れ物じゃないか」

女子生徒は驚いた顔でポケットを探り、それから目を丸くした。

「え……なんでわかったんですか。まだ、なくしたことにも気づいてなかったのに」

僕は肩をすくめただけで、答えないまま歩き去った。通りかかった大輝が、その様子を見て怪訝そうに眉を寄せる。

「今の、何」

「……知らねぇ。なんとなく、そう思っただけ」

大輝はそれ以上追及しなかった。なぜそう思ったのか、自分でもうまく説明できない。それは、あの頃からずっと、そうだった。

購買へ向かう廊下で、前を行く他クラスの女子生徒たちの会話が、耳をかすめた。

「知ってる、坂上高校の七不思議」

「え、なにそれ」

「時計台の下に立って、時計を見ちゃいけないんだって。見た人、そのあと名前を忘れられるらしいよ」

「怖っ。誰の話」

「知らない。先輩から聞いただけ」

他愛もない噂話は、渡り廊下の先へと消えていく。僕は一瞬だけ足を止め、その後ろ姿を目で追っていた。あのときはまだ、ただの怪談話だとしか思っていなかった。

同じ頃、別の教室で何が起きていたのか。僕がそれを知ったのは、ずっと後になってからだ。陽菜自身の口から聞いた話を、ここでは聞いたとおりに書く。

陽菜は、同じクラスの女子に声をかけていた。

「ねえ、さっきの数学、本当は結構できたんじゃない」

女子は目を丸くした。「え、なんでわかるの。『やばい、全然だめだった』って言ったのに」

「うーん……声のトーンが、諦めてる感じじゃなかったから」

女子は苦笑いした。「陽菜って、たまに鋭すぎて怖いんだよね」

声の震え方や、目線の外し方ひとつで、その人が本当に思っていることが、なんとなく透けて見えてしまう。陽菜自身、なぜそうなのか、うまく説明はできない。ただ、それだけだった。

放課後、購買部の窓口には、パンを求める生徒の列ができていた。大輝はカレーパンを頬張りながら、紙ナプキンの裏に何かを書きつけている。僕はその隣で、メロンパンの袋を開ける気力もないまま欠伸を嚙み殺していた。

「なあ、今日の陽菜、めちゃくちゃ張り切ってたよな」大輝が、口の端についたカレーの欠片を拭いもせずに言う。

僕は答えなかった。視線は購買のガラス扉越しに、渡り廊下を歩いていく生徒の列を追っていた。その中に、探している姿はない。

「明日の放課後、図書室でプロジェクトの相談すること、陽菜と決めたから」大輝はメモ帳を閉じ、満足げに言った。「お前も来いよ」

「……別に」

「別にってなんだよ。来るのか来ないのか」

僕はメロンパンをひとくちかじり、視線を逸らしたまま答えた。

「暇だったら」

大輝はそれ以上追及せず、次の話題に移っていった。「暇だったら」が、これまで一度も守られたためしのない約束だということに、大輝は気づいていない。今思えば、あの頃から僕は、自分の気持ちに嘘をつくのがうまかった。

翌日の放課後。図書室は、部活へ向かう生徒たちの喧騒から切り離されたように静かだった。大輝は参考書を何冊も広げ、シャーペンを走らせている。陽菜は、廊下ですれ違う他クラスの男子が思わず振り返るほどの華やかさを持っていたが、本人はそれをあまり自覚していない。タブレットに商店街の写真を映し、時折それを大輝に見せては意見を交わした。

僕は、二人から少し離れた席に座り、机に頬杖をついたまま窓の外を眺めていた。話の輪に加わる気配はない。だが視線だけは、時折、書架の奥へと流れていく。

返却カウンターでは、司書の教諭が一人の生徒に声をかけていた。「佐倉さん、今日も返却整理、お願いできる?」「はい」短く答えたのは、図書委員の腕章をつけた佐倉澪だった。頼まれ慣れた様子で、返却された本を手早く棚へ戻していく。

棚に本を差し込んでいた澪の手が、一冊の前でふと止まった。

「……これ、違う版が紛れてますね」

司書の教諭が振り返る。「え、どれ」

「奥付の印刷が、他の巻と違うんです。字の掠れ方が」

教諭が奥付を確かめ、目を見開いた。「……よく気づいたね。これ、去年の改版で紛れ込んだやつだ。誰も気づかなかったのに」

一つだけ違う場所にあるものが、なぜか勝手に目に留まってしまう。子供の頃から、ずっとそうだったのだと、澪は後で教えてくれた。特別なことをしたつもりはなかったらしい。

作業を終えた澪は、誰も座らない窓際の席に着き、分厚い郷土史を広げた。本の余白に何かを書き込んでは、また別のページをめくる。その所作には、迷いというものがない。僕はそれを、ぼんやりと目で追っていた。

「なあ、見てくれよこれ」大輝の声に、僕は我に返る。「商店街の裏、シャッター閉まってる店ばっかだけど、この壁、アートにしたら映えると思わねぇか」

タブレットに映る写真は、色褪せたシャッターが並ぶ何の変哲もない路地だった。僕は一瞥しただけで、興味なさそうに目を細める。

「そこじゃねぇだろ」

「は?」

「人が通る道の壁なんか、みんな一度は見てんだよ。誰も見てねぇとこの方が、面白いもんあるだろ」

その一言に、大輝は口を挟むのを忘れ、僕の横顔を見つめた。普段めったに意見を口にしない僕が、迷いなく言い切ったことに驚いたようだった。

そしてその言葉は、少し離れた窓際の席にも届いていた。澪が本から顔を上げ、こちらをじっと見ている。

澪は本を閉じかけて、また開き直した。二度、三度と同じ仕草を繰り返してから、ようやく席を立つ。歩幅は小さく、迷いを隠しきれていない。

「あの……」

大輝と陽菜が同時に顔を上げた。僕だけは、窓の外に向けていた視線をゆっくりと戻す。

「誰も見てない場所の方が面白いって、今……」澪は言葉を選ぶように一度言葉を切り、手元の郷土史を軽く持ち上げた。「この本にも、似たようなことが書いてあります。商店街の表通りより、裏の路地の方が、古い記録が多く残ってるって」

「へえ、そうなんだ」陽菜が身を乗り出す。「佐倉さん、詳しいね」

「いえ、少し調べただけで……」澪は視線を落としかけて、それでも続けた。「でも、本当に古いものって、目立つ場所には残らないと思うんです。人が通れば、建て替えられるし、塗り替えられる。誰も気に留めない場所だからこそ、残る」

大輝はその説明に感心したように頷いたが、僕は何も言わなかった。ただ、澪の言葉が自分の直感を裏付けているという事実だけが、静かに胸の底に落ちていくのを感じていた。

「……じゃあ、佐倉さんの持ってる資料、路地裏の地図とかも載ってんの」ようやく僕は口を開いた。

「はい。何枚か。古い住宅地図なので、今と道が違うところもありますけど」

「それ、見せてくれよ」

澪は一瞬、目を丸くした。手元の郷土史を、意味もなくもう一度抱え直す。

「……はい。今度、持ってきます」

その短いやり取りの間、大輝は黙ってタブレットを見つめていた。企画書に書き込むべき言葉が、いくつも浮かんでは消えていく様子だった。だが、今このテーブルに流れている空気にどう割り込めばいいのか、彼にはわからなかったのだろう。陽菜だけが、二人を交互に見て、小さく笑みを浮かべている。

窓の外で、下校を告げるチャイムが鳴った。澪は郷土史を胸に抱え、一礼して自分の席へ戻っていく。その背中を、僕はしばらくの間、目で追っていた。

澪が家で一人、鞄の中身を何度も選び直していた夜がある。後になって聞いた話だ。破れかけたページは失礼にならないだろうか。量が多すぎたら、迷惑ではないだろうか。表向きはいつも涼しい顔をしているくせに、頭の中は、小さな不安でいっぱいだった。

その数日後、返却カウンター脇で小さな物音が立った。

澪の机に近づいてきたのは、同じクラスの男子二人だった。「なんだよそれ、古地図とか読んでて楽しいの?」からかうような声に、澪は俯いたまま何も答えない。

「つか、プロジェクトの資料係とか地味すぎ。もっと目立つ役、他にもあったろ」

一人が笑いながら、机の端に積まれた郷土資料の山に肘をつく。バランスを崩した本の束が、音を立てて崩れ落ちた。

「あ、悪い悪い」

謝る声に、悪びれた響きはない。澪は慌ててしゃがみ込み、散らばったページを一枚ずつ拾い始めた。指先が、破れかけた古いページの端をそっとなぞる。

その光景に最初に反応したのは、僕だった。椅子を鳴らして立ち上がると、崩れた本の山の前に無言でしゃがみ込み、澪よりも先に一番重い郷土史を拾い上げる。

「お前ら、暇なら手伝えよ」

低い声だった。凄んでいるわけでも、声を荒げているわけでもない。だが、からかっていた二人は一瞬だけ怯み、顔を見合わせてから、逃げるようにその場を離れていった。

「……ありがとう、ございます」

澪が拾い集めた本を胸に抱えながら、小さく頭を下げる。僕は拾った郷土史を机に戻しながら、視線を合わせずに答えた。

「別に。本、汚れてねぇか確認しとけよ」

それだけ言うと、自分の席へ戻っていく。澪はその背中を、しばらくの間、見つめていた。それから、僕が最初に拾い上げた一冊を、抱えた本の一番上にそっと重ねていた――それも、後になって聞いた話だ。

拾い集めた資料を机に戻す途中、澪の手が一枚の古い写真で止まった。商店街の全景を写した、色褪せた白黒写真だ。写っている店の一つに、見覚えがない。看板には「〇〇堂」と、かすれた文字だけが読み取れる。

「この店……今はないんだ」澪は誰にともなく呟いた。

近くを通りかかった僕は足を止めた。「知ってるの、その店」

澪は首を振った。「知りません。でも……写真の中では、まだあるので」

それだけ言うと、澪は写真を傷めないよう、慎重にコピー機へ運んでいった。僕はその背中を、しばらく目で追っていた。

澪がこの町の古い記録に、なぜあれほどまでにこだわるのか。僕がその理由を知ったのは、ずっと後になってからだった。彼女はぽつりと、こう教えてくれたことがある。

小学生の頃、祖母と一緒に商店街を歩いていて、今はもう駐車場になっている一角で、祖母がふと足を止めたことがあったという。

「あそこにね、よく一緒に帰った子がいたのよ」

「その子、今どうしてるの」

祖母は、しばらく黙っていた。それから、困ったように笑った。

「……名前、思い出せないの。顔も、だんだん、ぼやけてきて」

そのときはただの物忘れだと思っていた。だが、何年経っても、澪はあの瞬間の祖母の表情を、はっきりと覚えている。困惑でも、悲しみでもない。何かを静かに取りこぼしたことに、本人だけが気づいているような顔だった。

誰かが確かにそこにいた。なのに、覚えている人間が一人もいなくなれば、その人は、最初からいなかったのと同じになってしまう。

澪が古い写真や地図を集めるのは、趣味ではない。記録さえ残っていれば、誰かがそこにいたという事実だけは、消えずに済む。澪は、そう信じたかった。

陽菜のほうも、あの頃、僕の知らないところで、よく似たことを抱えていたらしい。

陽菜は、クラスの誰に対しても分け隔てなく笑いかける。だが、その笑顔が本当に柔らかくなる瞬間があることに、気づいている者は少なかった。

放課後、隣のクラスの男子が、廊下で陽菜に声をかけた。「陽菜ちゃん、今度の休み、暇だったりする」

「ごめん、その日はちょっと」陽菜は、いつもと変わらない笑顔で答えた。断り方には、迷いも駆け引きもない。

男子が肩を落として去っていくのを見送りながら、陽菜はポケットの中のスマホを、そっと握り直した。その日の放課後、大輝と交わした短いやり取りが、まだそこに残っていた。

数日後の放課後、駅前の赤い看板のハンバーガーショップ。テーブルには、陽菜が頼んだポテトの山と、大輝のコーラが並んでいる。澪は図書委員の当番があると言って、今日は来ていなかった。

「佐倉さん、残念だったね」陽菜がストローをくわえたまま言う。「次は誘おうよ、当番の日じゃないとき」

「おう。あいつ、資料集めんの得意そうだしな」大輝はポテトを一本つまみ、地図を広げながら答えた。「悠真、お前もなんか食えよ。さっきから一本しか食ってねぇじゃん」

「……腹減ってねぇ」

僕はストローの紙袋を細く折り畳み、それを何度も折り返していた。手元にあるのは、注文したはずのハンバーガーの包み紙で、そこに無意識のうちにボールペンで小さな落書きが増えていた。眠そうな目をした、丸っこいキャラクター。特に意味はない、ただの癖だった。

陽菜が身を乗り出し、その落書きを覗き込む。

「それ、悠真くんの顔じゃない?」

「ちげぇよ」

即答した声が、思ったより大きく響いた。陽菜がくすりと笑い、大輝もつられて笑う。僕は包み紙を手のひらで隠すように丸め、ポケットに突っ込んだ。

大輝は地図に視線を戻しながら、ふと手を止めた。

「……なんか、今日ずっと上の空だな」

「別に」

「佐倉さんいないからか」

図星を突かれ、僕は口をつぐんだ。答える代わりに、ポテトを一本、乱暴につまんで口に押し込む。大輝はそれ以上追及せず、代わりに小さく笑って、ストローの袋をこちらに放った。

「まあいいけどよ。今度、資料持ってくるとき、ちゃんと礼くらい言えよな」

窓の外を、部活帰りの生徒たちが連なって通り過ぎていく。夕方の光が、テーブルの上のポテトの油を淡く光らせていた。

日が傾き始めた通学路を、大輝と僕は並んで歩いていた。ランドセルの頃からずっと変わらない歩幅の距離感で、二人は自然と並んで進んでいく。

「なあ、小学校の時……あ、いや、なんでもねぇ」大輝が言いかけてやめる。

「なんだよ、言えよ」

「お前が透明人間探しごっこの時、いっつも一発で見つけてたなって思い出しただけ」

「あんなん、隠れる場所なんて限られてんだろ。普通気づく」

「気づかねぇよ、普通は」

軽口を交わしながら、二人は商店街の外れにある細い路地に差し掛かる。いつも近道に使っている道だ。だが今日、僕の足がふと止まった。

「どうした」

「……いや」

視線の先、蔦に半分埋もれた古い鳥居が、路地の奥にひっそりと立っている。何百回とこの道を通ってきたはずなのに、その存在に気づいたのは初めてだった。塗装は剥げ、扁額の文字はほとんど読めない。

「前からあったっけ、あれ」

大輝は特に気にする様子もなく、鳥居の方角を一瞥した。「さあ。この辺、古い祠とかいっぱいあるからな」

僕はそれ以上何も言わず、再び歩き出す。視線だけは、路地の奥の暗がりに、もう一度だけ戻っていった。

「じゃあな、悠真。プロジェクトの件、また明日な」

大輝が手を上げ、分かれ道で別方向へ歩いていく。僕は小さく頷き、ポケットの中の丸めた包み紙に指先で触れながら、一人、夕暮れの道を歩き続けた。

その日のホームルームでは、文化祭の準備分担が発表された。作業の輪に入れず、一人机の下で消しゴムのカスをいじっている男子生徒がいた。大輝はまっすぐその席に近づいていく。

「お前、これ持って」

段ボールを押し付けるように渡す。

「俺、こういうの苦手だから」男子が小さく言う。

「俺も苦手。だから二人でやればいいだろ」

大輝はそう言うと、返事を待たずに作業を続けた。男子は戸惑った顔のまま、それでも段ボールを抱え直していた。僕はその様子を、少し離れた席から眺めていた。

翌日の放課後、大輝が音頭を取って、三人は実際に商店街を歩くことになった。埃っぽいシャッター通りに、夕方の西日が長い影を落としている。澪は図書委員の分担会議があるとかで、まだ合流できていない。

アーケードに入ってすぐ、大輝が擦れ違った初老の女性に、ふと声をかけた。

「あ……小学校の通学路でよくお会いしてた、田中さんの奥さんですよね」

女性は驚いたように足を止めた。「あら……よく覚えてるわね、こんなおばちゃんのこと」

「小三の時、傘忘れて帰った日、わざわざ学校まで届けてくれましたよね」

「……もう十年近く前の話よ。よく、そんな細かいこと覚えてるわね」

大輝は、特別なことのようには思っていない様子だった。一度交わした言葉も、顔も、忘れたことがない。それが当たり前だと、ずっと思っている。

「聞き込みってほどじゃねぇけど、地元の人に話聞くのも大事だろ」大輝はノートとペンを片手に、老舗の乾物屋の暖簾をくぐった。

店主は白髪の老人で、レジ横の丸椅子に腰掛けていた。段ボールの整理中だったのか、片手を止めずに面倒くさそうな一瞥を寄越す。

「なんだい、忙しいんだけどね」

にべもない返事に、陽菜が一瞬たじろぐ。だが大輝はまったく動じず、老人の手元にある段ボールの荷札に目を留めた。

「あ、それ、来週の仕入れっすよね。俺、手伝いますよ」

言うが早いか、大輝は暖簾をくぐって店の奥へ入り、慣れた手つきで段ボールを積み上げていく。老人は面食らったように大輝を見ていたが、やがて口の端をわずかに緩めた。

「……兄ちゃん、力あるね」

「体力だけは自信あるんで。あ、俺ら文化祭のプロジェクトで、商店街のこと調べてて」

流れるように用件へ移る大輝に、陽菜は目を丸くしたまま彼の背中を見つめていた。

僕は、その光景を特に驚いた様子もなく眺めていた。こういう時の大輝を、何度も見てきている。口では適当なことばかり言うくせに、いざとなれば誰よりも早く相手の懐に入り込む。幼稚園の頃からずっと、そうだった。

老人は段ボールを積み終えた大輝に椅子を勧め、懐かしそうに目を細めた。

「地域活性化、ねえ。昔はこの通り、もっと賑やかだったんだけどねえ」

「昔はどんな感じだったんですか」陽菜が身を乗り出して尋ねる。

「そうだねえ……」老人はしばらく宙を見つめてから、ぽつりと言った。「あそこの角、今は駐輪場になってるところ、昔は小さい時計台があったんだよ。今の時計台とは別にね」

その一言に、僕の視線がぴたりと止まった。大輝もペンを持つ手を止め、老人の顔を見る。

「別の時計台、ですか」

「ああ。子供の頃、待ち合わせによく使ったもんだ。いつの間にか無くなっちまったけどね。今の若い子は知らないだろうねえ」

老人の言葉を書き留めようと、大輝がポケットを探る。ペンを忘れてきたことに気づいて顔を上げたときには、陽菜がすでに自分のシャープペンを差し出していた。

「……さすが」

「大輝くん、いつもペン忘れるから」

老人はそれ以上、大した話ではないというように笑い、話題を商店街の昔の賑わいへと移していった。大輝はメモにその一言を書き留めたが、単なる昔話の一つとして扱ったに過ぎなかった。

だが僕は、店を出てからもその言葉が頭から離れなかった。

「……もう一つの時計台」

小さく呟いた声に、陽菜が振り返る。「何か言った?」

「いや、なんでもねぇ」

僕はポケットに手を突っ込み、いつもの気だるげな足取りで歩き出す。だがその歩調は、心なしか、いつもより少しだけ速かった。

それから数日、僕は下校時に、いつもと違う道を選ぶようになっていた。

「お前、そっちから帰るの」大輝が怪訝そうに聞く。

「……なんとなく」

「遠回りじゃん」

「こっちの方が早い」

実際には、早くもなんともない。大輝はそれ以上聞かず、肩をすくめて自分の道へ歩いていった。僕が選んだ道の先には、老人が語っていた「昔の時計台」があったという、あの駐輪場が、ひっそりと口を開けていた。

その週の放課後、四人は文化祭の材料調達のため、連れ立って商店街へ向かった。大輝と澪は、さっそく古い資料の話を始めている。僕は、いつものように少し離れた場所で周囲を見回していた。

「ねえ、そろそろ普通にクレープ食べない」陽菜の一言に、三人がぴたりと足を止める。

「……食べる」陽菜が改めて聞く。

「食べる」大輝が即答した。

「……食う」僕も、遅れて頷く。

澪が小さく笑う。四人は連れ立って、屋台の列に並んだ。

屋台の列を離れたところで、陽菜がふとスマホを覗き込んで首をかしげた。

「……あれ、これいつ撮ったんだろう」

画面に映っているのは、見慣れた商店街の風景だった。撮影時刻を見ると、深夜二時十七分になっている。

「寝ぼけて撮ったんじゃね」大輝が笑う。

「そうかも」陽菜も笑って流したが、画面の端に小さく写り込んだものには、誰も気づかなかった。今はもう存在しないはずの、古い時計台の輪郭だった。それに気づいたのは、ずっと後になってからだ。

夕暮れの商店街を、四人は連れ立って歩いていた。行き交う人もまばらになっている。

不意に、澪が足を止め、後ろを振り返った。

「……今、呼びました」

大輝が首を振る。「呼んでないけど」

「私も」陽菜も肩をすくめる。

僕だけが、澪の顔をじっと見た。「……誰に」

澪は答えない。しばらく黙って人けのない路地の奥を見つめていたが、やがて小さく首を振った。

「……気のせいでした」

四人は、それ以上その話には触れず、再び歩き出した。

翌朝、教室に着くと、大輝が澪の方を見て言っているのが聞こえた。

「昨日、澪って何時まで図書室いたんだ」

陽菜が首をかしげる。「え、昨日、澪ちゃん先に帰ったんじゃないの」

澪は一瞬、言葉に詰まった。「……帰りました、けど」

「じゃあ悠真と一緒くらいの時間か」

「いえ……悠真くんは、先に帰るって言ってたので」

誰も、それ以上は気にしなかった。ただ、澪だけが、昨日の記憶をもう一度たどるように、視線を宙に浮かせていた。それを見ていたのは、僕だけだった。

商店街調査から三日後の放課後、生徒会室には長机が四つ寄せられ、そこに大輝、陽菜、澪、そして渋々といった様子の僕が着席していた。壁には、あの文化祭ポスターの縮小版が画鋲で留められている。

「じゃあ、役割を決めよっか」陽菜がノートを開きながら言った。「大輝くんは全体の進行と、商店街との交渉。私は広報とSNS発信。佐倉さんは資料と歴史調査で……悠真くんは」

言いかけて、陽菜は言葉を止めた。僕の担当をどう決めればいいのか、誰も答えを持っていなかった。

「現地調査」澪が、静かに口を挟んだ。「悠真くんは、地図に出てこない場所を見つけるのが得意みたいなので」

大輝が驚いたように澪を見た。僕自身も、意外そうに眉を上げる。担当を決めるのに、自分の意見を求められたのは初めてだった。

「……別にそんな、得意ってほどじゃ」

「得意だよ」大輝が笑いながら遮った。「昔から、お前が『こっち』って言った道、外れたことねぇもん」

その一言に、僕は口を噤んだ。シャーペンの尻で机の木目をなぞり、視線を地図の隅に落としたまま動かさない。

やがて僕は地図を覗き込んだまま、眉間に皺を寄せて古い住宅地図の道筋を目で追い始めた。

「お前、地図見てる時だけ顔怖いぞ」大輝が横から茶化す。

「普段から怖いけどね」陽菜が澄まして返す。

「……おい」

澪が思わず吹き出した。大輝もつられて笑う。僕は不満そうに顔をしかめたが、口元だけがわずかに緩んでいた。

会議はそのまま、商店街の地図を広げての作業に移っていった。大輝は付箋を貼りながら候補地を絞り込み、陽菜がそれをスマホで撮影しては、SNS用の構成案を考えていく。二人の距離は近く、時折、肩が触れるほどだった。陽菜が何か思いつくたびに、大輝の顔がぱっと明るくなる。その様子を、僕は視界の端でずっと捉えていた。

「なあ、悠真も何か言えよ」大輝が地図から顔を上げずに言う。「シャッター街の他に、なんか気になるとこあったろ」

「……別に」

短い返事だけが返る。大輝はそれ以上追及せず、陽菜との会話に戻っていった。僕は椅子の背に体を預け、天井を見上げる。胸の奥が、狭い場所に押し込められたように重かった。理由を言葉にすれば、きっと大輝は驚くだろう。だから、言わなかった。

ふと、大輝が話の途中で手を止めた。

「そういや、あの、なんだっけ……最初に道教えてくれた、店のおばちゃん」

陽菜が首をかしげる。「乾物屋のおじいちゃんのこと」

「あ、そうだ、おじいちゃんだ」大輝は苦笑して頭をかいた。「なんか一瞬、誰だったか出てこなくて」

「疲れてるんじゃない」陽菜が笑う。

大輝もつられて笑い、それ以上気にする様子もなく、付箋の色分けに戻っていった。今思えば、あれが最初の綻びだったのかもしれない。だがそのときの僕は、ただの聞き流せる冗談としか思っていなかった。

陽菜が広報の参考にと、過去の文化祭パンフレットを何冊か借りてきていたことを、僕はそのとき知らなかった。後で聞いた話をそのまま書く。

ページをめくっていた陽菜の手が、ふと止まった。五年前のパンフレットだけ、他の年と違い、実行委員の集合写真の一人分だけ、名前の欄が空白になっていた。

「これ、なんで名前ないんだろ」陽菜は首をかしげた。

近くを通りかかった顧問の教師が、ちらりと覗き込み、表情を曇らせた。

「ああ……それは、気にしなくていいよ」

「先生、知ってるんですか」

「昔、ちょっとした……いや、なんでもない。それより、今年の企画書、進んでる」

教師はそそくさと話題を変え、生徒会室を出ていった。陽菜は釈然としないまま、空白のページをもう一度見つめた。

その帰り道、自販機の前で、上級生たちが何気なく交わす噂が、陽菜の耳に届いた。

「それ知らないの。何年か前、文化祭の日に一人、行方不明になったって話」

「マジで。事件になったの」

「さあ。すぐ噂消えたし、先生たちも触れたがらないし」

陽菜は誰にともなくその話を持ち帰り、僕たちに伝えるべきかどうか迷ったまま、パンフレットをそっと鞄にしまった。

その間、澪は一人、長机の端で古い住宅地図と、図書館から借りてきた郷土資料を見比べていた。ページをめくる指が、ふと止まる。

昭和四十年代に発行された地図には、町の中心部に、今は存在しない建物の印が記されていた。時計を象った小さなマーク。今ある時計台とは、明らかに位置が違う。

澪は資料のページをもう一度確かめ、そこに小さく添えられた注記を読んだ。

──もう一つの、時計台。

澪は地図から顔を上げ、テーブルを囲む三人を見た。大輝は付箋の色分けに夢中で、陽菜はスマホの画面越しに写真の構図を選んでいる。僕だけは、窓の外にぼんやりと目をやったまま、会議の輪から半歩外れていた。

この地図のことを、今、口にするべきかどうか。澪は迷った。根拠のない話で、場の空気を壊すのは苦手だ。それに、この印が本当に意味を持つのかどうかも、まだわからない。

ノートの端に、小さく座標だけを書き写す。資料はそっと鞄にしまい、代わりに商店街のパンフレットを広げ直した。

窓の外では、夕方の光が校庭の欅を橙色に染めている。時計台の方角に、なんとなく目をやった。

止まっているはずの長針が、かすかに震え、ひと目盛りだけ、逆向きに動く。

第一章 了



二章 言えなかった言葉


役割分担を終えたあとも、生徒会室での話し合いは続いていた。

「えっと、じゃあ、まずは商店街の歴史を掘り起こして、マップ作りから始めません? それをSNSで発信していくのはどうかな」陽菜が提案すると、大輝は「いいな、それ!」と頷いた。

「商店街の人たちにもインタビューして、昔の賑わいを再現するような記事も作ってみたいですね」澪が静かに付け加える。その言葉に、大輝は「佐倉さんの視点、さすがだな」と感心した。

僕は肘をついて、じっと会議を見つめていた。視線は、澪に釘付けだった。澪が発言するたびに、その声に耳を傾け、小さく頷く。しかし、自分から意見を言うことはなかった。

「悠真、お前も何か言えよ。眠いのか?」大輝が僕を小突いた。

「別に。……商店街の路地裏とか、もっと面白いもの眠ってるんじゃないか。そういうの、直感で探す方が効率的だろ」僕はぼそりと言った。

大輝は眉をひそめる。「効率的って……。ちゃんと計画立ててやらないと、時間ばっかかかるだろ。そういうのは最後に余力があったらな」

「直感こそが大事なんだよ。計画通りにいくことなんて、人生そうそうないだろ」

僕の直感は、時に異常なほどの正確さを持っていた。コンビニのくじ引きで、僕が「これ」と指差したものが必ず当たりの景品で、周囲から「超能力者かよ」とからかわれたことも、一度や二度ではなかった。大輝も最初は疑っていたが、何度か目の当たりにするうちに、「すげぇ、マジで引きが強ぇな」と感嘆するようになっていた。

陽菜が困ったように微笑んだ。「えっと、どっちも大事なんじゃないかな。計画は必要だけど、新しい発見も面白いし」

澪が小さく口を開いた。「路地裏……。確かに、普段見過ごしているところに、意外な魅力があるかもしれませんね」

澪の言葉に、僕の顔はほんの少しだけ明るくなった。大輝はそれに気づき、複雑な表情を浮かべた。

会議の後、大輝は陽菜に声をかけた。「なあ陽菜、もしよかったら、今度の週末、一緒に商店街見て回らないか。具体的な場所とか、見て回る方がアイデアも湧くだろうし」

陽菜はにこりと笑った。「うん、いいよ。大輝くんとなら楽しそう」

その会話が、僕の耳にも届いた。内心、舌打ちをした。自分も澪を誘いたかった。でも、そんなこと、口が裂けても言えない。僕はふいと顔を背け、大輝と陽菜の背中を見送った。

その週末、大輝と陽菜は楽しそうに商店街を歩き回っていた。大輝はスマホで写真を撮ったり、店の人に話しかけたりと、積極的に情報を集めている。陽菜も笑顔でそれに応え、二人の間には明るい空気が漂っていた。

その様子を、僕は偶然通りかかり、遠くから見つめていた。どこか諦めにも似た感情が、胸の奥に広がる。自分では、あんな風に自然に、澪と話すことなんてできないだろう。大輝は陽菜に相応しい。

その夜、大輝からメッセージが届いた。『今日、陽菜と商店街回ってきた! めっちゃ楽しかったぜ! 良いアイデアも浮かんだし、マジで感謝! 今度、悠真も一緒に来いよな!』

僕はスマホの画面を睨んだ。楽しかった、か。その文字が、胸に鉛のように重くのしかかる。返信する気にもなれず、スマホを放り出し、ベッドに顔を埋めた。

同じ夜、澪もまた、布団の中で目を冴えさせていた。それを知ったのは、僕はずっと後になってからだ。生徒会室での会議から一夜明けても、澪の頭からはあの光景が離れなかったらしい。

瞼の裏に浮かぶのは、赤煉瓦造りの時計台だ。学校の裏手、商店街の外れにある小さな公園に立つ、大人の背丈の六倍ほどの高さの塔。四角い塔の上部に、四方を向いた丸い文字盤が嵌め込まれた、大正時代からこの町にあるという古い建物だ。生徒会室の窓からは、電線の隙間から、その屋根の上部だけがかろうじて見える。

止まっているはずの、その長針が、確かに一目盛りだけ、逆に動いた。見間違いだと片付けるには、あまりに小さく、あまりに確かな動きだった。

「……この違和感は、なんだろう」

暗い天井に向かって、澪は小さく呟いた。答えは、返ってこなかった。

翌日、大輝は文化祭プロジェクトの企画書作成に没頭していた。隣で、僕はやはり机に突っ伏していた。大輝はそんな僕を一瞥すると、小さくため息をついた。

「おい、悠真。せめて相談に乗ってくれよな。陽菜も澪も、真剣にアイデア出してくれてるんだぜ?」

聞こえていたが、答える気になれなかった。指一本、動かさなかった。

大輝の頭の中で、そのとき何が渦巻いていたのか。それを知ったのは、もっと後のことだ。

「……あいつ、俺が陽菜といるのが嫌なのか?」

大輝はふと、そんな考えが頭をよぎったという。僕が最近、大輝と陽菜が話している時に明らかに不機嫌になることに、大輝は気づいていた。だが、その理由までは思い当たらなかった。もしかして、陽菜のことが好きなのか。そんなはずはない、とすぐに打ち消した。僕が陽菜に興味がある素振りなんて、一度も見たことがなかったからだ。

その日の放課後、大輝は偶然、僕が図書館の入り口で立ち止まっているのを見かけた。僕は入り口から中の様子を窺っていた。その視線の先には、参考書を借りている澪の姿があった。

「なんだよ、悠真。図書室行くなら一緒に行こうぜ」

大輝が声をかけると、僕はギクリと肩を震わせ、慌てて目をそらした。

「別に、図書室に行くわけじゃねぇ。ちょっと、ここに用があっただけだ」

「へぇ? 用って何だよ。まさか、佐倉さんのこととか」大輝は冗談めかして言ってみた。すると顔が、サッと熱くなるのがわかった。

「なっ! んなわけねぇだろ! 妄想もいい加減にしろ!」

そう言うと、大輝に背を向けて足早に立ち去ろうとする。その時、澪がカウンターから戻ってきて、二人のそばを通り過ぎようとした。

「あ、佐倉さん」大輝が呼び止める。

澪は足を止め、優しく微笑んだ。「はい、大輝くん。何かありましたか」

「いや、なんでもないんだけどさ。今度、プロジェクトのこと、もう少し詳しく相談したいんだけど、いつか時間ある?」大輝は陽菜に話しかけるのと同じくらいの自然さで、澪に問いかけた。

澪は少し考えてから、「はい、もちろんです。いつでも」と答えた。

大輝と澪が話している間、僕は固まったようにその場に立ち尽くしていた。背中越しに聞こえる二人の会話が、胸を締め付ける。澪が、大輝に微笑みかけている。あの笑顔が、自分に向けられることはない。そんな思いが、静かに胸の中に広がっていった。

僕は、何も言わずにその場を離れた。大輝は僕が去っていくのを見て、首を傾げていた。

「どうしたんだ、あいつ……」

その日以降、大輝と僕の間に、かすかな距離が生まれた。大輝がプロジェクトの話をすると、僕は露骨に不機嫌な顔をするようになった。大輝が陽菜や澪と話していると、すぐにその場を離れた。

「なあ、悠真。最近、なんか変だぞ。俺、なんかしたか?」

帰り道、大輝は意を決して僕に尋ねた。

僕は俯いたまま、何も答えなかった。

「もし、陽菜のことで気に食わないことでもあるなら、言ってくれよ。親友だろ」大輝は真剣な眼差しで僕を見つめた。

僕は顔を上げた。怒りとも悲しみともつかない色が、自分の中で複雑に混じり合っているのがわかった。

「……お前には、わかんねぇよ」

そう呟くと、僕は走り出した。大輝は突然のことに呆然と立ち尽くすしかなかった。親友の背中が、夕焼けの中に小さくなっていくのを見つめていたという。あのとき大輝の胸に広がった不安の大きさを、僕が知ったのは、ずっと後のことだ。

それから数日、大輝とはほとんど口を利かなくなっていた。教室では、いつも隣にいるはずの二人の間に、目に見えない壁ができたようだった。大輝は何度も話しかけようとしたが、僕はすぐに目をそらしたり、イヤホンをつけたりして、会話を避けた。

大輝は陽菜とのプロジェクトの打ち合わせ中も、どこか上の空だった。

「大輝くん? どうしたの? 今日、元気ないね」陽菜が心配そうに尋ねる。

「あ、いや……なんでもない。ちょっと、考え事してただけ」

「もしかして、悠真くんのこと?」陽菜は勘の良い子だった。「最近、二人とも様子が変だよ。何かあったの?」

大輝は言葉を選んだ。「……ちょっと、ケンカみてぇな」

陽菜は「そっか……」と小さく頷いた。「でも、大輝くんと悠真くんって、いつも一緒だから、見てて安心するんだ。きっと大丈夫だよ」

陽菜の言葉に、大輝の胸には温かいものが広がった。彼女の存在は、大輝にとって大きな支えだった。しかし、同時に僕との溝が深まっていくことへの焦りも感じていた。

一方、僕は図書館で一人、ひっそりと時間を過ごしていた。プロジェクトの資料を広げているが、内容は全く頭に入ってこない。ただ、澪が近くの席で静かに本を読んでいる姿を、時折盗み見るだけだった。

「あの……何か、お探しですか?」

ふいに、優しい声が聞こえた。顔を上げると、澪が心配そうな顔でこちらを見ていた。

「いや、別に。……なんか、集中できなくて」僕は素っ気なく答えた。素直じゃない自分に嫌気がさす。

澪はそっと僕の広げた資料を見た。「地域活性化プロジェクト、順調ですか?」

「別に……。あいつが勝手に張り切ってるだけだ」僕は、大輝への不満をぶつけるように言った。

澪は何も言わず、ただ静かに僕の言葉を聞いている。その沈黙が、僕には居心地が良かった。

「……大輝は、陽菜に良いところ見せようとしてるだけだ。あんなんで、本当に地域が盛り上がるのかよ」感情的になっていた。

澪は優しい声で言った。「大輝くんは、真っ直ぐで、周りを巻き込む力がありますよね。陽菜さんも、とても明るくて素敵な人です」

僕はグッと唇を噛み締めた。澪の言葉は、まるで大輝を褒め、彼らの関係を肯定しているように聞こえた。胸の奥に、嫉妬のような、もっとドロドロとした感情が湧き上がってくる。

「……澪さんも、そう思うのかよ。大輝の方が、何でもできるって」つい攻撃的な口調になってしまった。

澪は少し驚いた顔をした後、静かに首を横に振った。

「そうは思いません。悠真くんには、悠真くんにしかない魅力があります。例えば……」

澪は、僕がプロジェクトの会議でこぼした「路地裏」という言葉を拾い上げた。

「路地裏って、誰も気づかないような場所に、宝物を見つけるような、そういう視点ですよね。すごく、独創的だと思います」

僕は、はっと顔を上げた。自分の、何気ない一言を、澪が覚えていてくれた。しかも、それを「独創的」だと言ってくれた。

「……別に、そんな大層なもんじゃねぇよ」照れ隠しで呟いたが、心臓はドクンドクンと鳴っていた。澪の言葉が、乾いた心に染み渡るようだった。

澪はそっと微笑んだ。「でも、私はそういう悠真くんの直感はすごいと思います。もしかしたら、プロジェクトの大きなヒントになるかもしれません」

その夜、なかなか眠りにつけなかった。澪の言葉が、頭の中を何度も巡る。自分には、自分にしかないものがある。大輝とは違う、自分だけの強み。澪がそれを認めてくれた。

同時に、大輝への複雑な感情も湧き上がった。大輝がいなければ、澪とこんな風に話す機会もなかっただろう。プロジェクトだって、きっと参加していなかった。親友なのに、こんなにも素直になれない自分に、深くため息をついた。

翌朝、澪は鞄の底から、あの古い住宅地図を取り出していた。三年間、誰にも見せたことのない資料だったという。

三年前、祖母の部屋の片付けを手伝っていたとき、本棚の一番奥から出てきたものだ。隅々まで、祖母の几帳面な字で書き込みがしてある。理由もわからないまま、澪はそれを誰にも言わず、自分の机の引き出しにしまい続けていた。

「あ……もうこんな時間、遅刻しちゃう」

壁の時計に気づき、澪は地図を鞄の底に押し込むと、慌てて家を飛び出した。

朝のホームルーム前、僕はいつも通り机に突っ伏していた。教室はまだ半分ほどしか埋まっておらず、開け放たれた窓から、朝露に濡れたグラウンドの匂いが流れ込んでくる。ざわめきの中、澪の足音だけが、やけにはっきりと耳に届いた気がした。澪は少しためらってから、声をかけてきた。

「悠真くん」

名前を呼ばれることに慣れていないのか、驚いたように顔を上げる。

「……なんだよ」

「約束の地図、持ってきました」澪は鞄から古びた紙の束を取り出し、机の上にそっと置いた。「それと、これ」

指差したのは、地図の隅に小さく記された時計のマークだった。僕の目つきが変わるのが、自分でもわかった。

「これ、あの店主が言ってたやつか」

「はい。それに……」澪は一瞬、言葉を選ぶように黙った。「昨日の会議で、時計台の針が、一目盛りだけ逆に動くのを見ました」

眠そうだったはずの目が、初めてはっきりと開いた。

「本当か、それ」

「見間違いかもしれません。でも……」

「行ってみるか」

僕の即答に、澪は目を瞬かせた。迷いも、確認も、必要としない返事だった。

「放課後、時間ある?」

「委員の仕事、代わってもらいます」

だが、その日の放課後は、先に文化祭プロジェクトの作業が入っていた。生徒会室に集まった四人の間には、まだあの日のぎこちなさが残っている。大輝は企画書の最終調整に追われ、陽菜はSNS発信用の写真を選んでいた。僕は、澪が提案した「路地裏の魅力」をテーマにしたミニマップの作成を手伝っていた。

「ここ、昔は駄菓子屋さんだったらしいですよ。今はもうないんですけど、この路地の奥に、まだ看板の跡が残ってるんです」澪が、古びた地図を指しながら静かに説明する。

僕は、澪の声に耳を傾けながら、熱心にペンを走らせていた。澪の言葉は、大輝の計画的な説明とは違い、僕の直感に響くものがあった。

「……ここ、行ってみるか?」不意に言った。

澪は目を丸くした。「え? 今からですか?」

「ああ。実際に見てみないと、このマップに載せる意味がないだろ。それに、まだ誰も気づいてないような、もっと面白いものがあるかもしれねぇ」少し興奮気味に言った。澪の言葉が、探究心に火をつけたのだ。

澪は嬉しそうに微笑んだ。「はい! ぜひ!」

二人が立ち上がろうとしたその時、大輝が顔を上げた。

「おい、悠真! どこ行くんだよ! まだ企画書の確認が終わってないだろ!」大輝は苛立ったように言った。ここ数日の僕の態度に、大輝の我慢も限界に近づいていたらしい。

僕は振り返り、大輝を睨んだ。「路地裏の調査だよ。お前には関係ねぇだろ」

「関係なくねぇよ! プロジェクトの一環だろ! 勝手なことばっかしてんじゃねぇよ!」大輝は立ち上がり、詰め寄った。

「勝手なことだと? お前こそ、陽菜とばっか楽しそうにして、俺のことなんてどうでもいいんだろ!」抑えきれない感情を、叫ぶようにぶつけていた。

その言葉に、生徒会室にいた全員が息を呑んだ。陽菜も澪も、驚いた顔で二人を見つめている。

大輝は、一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にした。「はぁ!? なんだよそれ! 陽菜は関係ねぇだろ! 俺は、お前が最近ずっと俺を避けてんのが気に食わねぇんだよ!」

「避けてんのはお前の方だろ! 俺が澪と話してる時、いつも邪魔しに来るじゃねぇか!」

その言葉に、澪が小さく息を呑んだ。大輝も、はっとしたように澪を見た。

「……澪が、好きなのか?」大輝は、信じられないという顔で尋ねてきた。

僕は、顔が熱くなるのを感じながら、何も言えなかった。その沈黙が、肯定の答えだった。

大輝は頭を抱えた。「なんだよそれ! 言ってくれればよかっただろ! 俺、全然知らなかったぞ……」

「言えるわけねぇだろ! お前は陽菜に夢中なんだから!」悔しさのまま、叫んでいた。

「俺が陽菜に夢中だからって、お前が澪を好きになってダメなわけないだろ! 親友なんだから、何でも話せよ!」大輝は、感情を露わにした。

僕は、大輝の言葉に、グッと唇を噛み締めた。親友。その言葉が、胸に響いた。

その時、澪が静かに口を開いた。「あの……私、悠真くんのアイデア、すごく素敵だと思います。誰も気づかないような場所の魅力を探すって、とても面白いです」

澪の言葉に、僕はハッと顔を上げた。大輝も澪を見た。

「だから、私は悠真くんと一緒に、その路地裏の調査に行きたいです」澪は、真っ直ぐな目でこちらを見つめた。

胸の奥に、光が差し込んだ気がした。大輝は、そんな僕と澪の様子を見て、複雑な表情を浮かべていた。陽菜も、二人のやり取りを静かに見守っている。

「……わかったよ」大輝は、大きくため息をついた。「勝手にしろよ。でも、ちゃんと報告しろよな。プロジェクトなんだから」

僕は、大輝の言葉に小さく頷いた。まだわだかまりは残っているが、少しだけ、二人の間の空気が変わったように感じられた。

生徒会室を出た二人は、そのまま路地裏へと向かった。大輝の許しを得たはずなのに、僕の足取りは、どこか落ち着かなかった。

薄闇に沈み始めた路地は、昼間よりも一層、時間から取り残されたような佇まいをしていた。アスファルトの匂いに混じって、かすかに苔と土の匂いが漂う。頭上を覆う電線の影が、二人の足元に幾筋もの線を落としていた。どこか遠くで、夕方を告げる町内放送のチャイムが、間延びした音で響いている。

僕は、地図よりも自分の直感を信じ、薄暗い路地をどんどん奥へと進んでいった。澪は少し遅れて、確実に後をついてくる。その距離感が、心地よかった。

「あった」

視線の先に、蔦に覆われた古い建物が見えた。壁には、かろうじて「○○薬局」と読める、色褪せた看板が残っている。

「すごい……! 本当だ」澪が目を輝かせた。「こんなところに、まだ残っていたんですね」

僕はスマホを取り出し、その看板の写真を撮った。大輝が喜びそうな、地元の「宝物」だ。

「この路地、他にも何か隠れてそうだな」さらに奥へと進もうとする。

「待ってください、悠真くん」澪が慌てて声をかけた。「あ、あの、この辺り、前に図書館で調べた時、昔は小さな長屋が並んでて、職人さんたちが暮らしていたみたいなんです。もしかしたら、その痕跡があるかもしれません」

僕は足を止め、澪を見た。澪は、いつも図書館で見せる真剣な表情で、地図と資料を交互に確認している。

「……澪、そういうの、よく覚えてるんだな」

僕の言葉に、澪は少し照れたように俯いた。「はい。興味があることは、つい……」

胸に、じんわりと温かいものが広がった。大輝とは違う、静かで、しかし確かな情熱を持った澪。彼女の知識と自分の直感が合わされば、きっともっと面白いものが見つかる。

その頃、教室では、大輝と陽菜が企画書の最終チェックをしていた。後で二人から聞いた話だ。

「大輝くん、この部分、もう少し具体的に書いた方が分かりやすいんじゃないかな」陽菜が、付箋を貼った箇所を指差す。

「ああ、そうだな! さすが陽菜、気づくの早いな」大輝は、陽菜の的確な指摘に感心する。陽菜の存在は、大輝にとって常に前向きな刺激だった。

「でも、悠真くん、大丈夫かな……」陽菜が、少し心配そうな顔で呟いた。

大輝は、深く息を吐いた。「わかんねぇ。あいつ、いっつもそうなんだ。思ったこと、ストレートに言えねぇくせに、急に爆発するんだよな」

「でも、悠真くん、澪ちゃんのことを大切に思ってるんだね」陽菜は、ふわりと微笑んだ。

大輝は驚いて陽菜を見た。「え? 陽菜、知ってたのか!?」

「なんとなくね。悠真くん、澪ちゃんのことを話すとき、声のトーンが少し柔らかくなるし、なんだかそわそわしてるから」陽菜は、くすりと笑った。

大輝は、自分の鈍感さに呆れた。親友の恋心にも、こんなに近くにいて気づいてやれなかったなんて。

「……俺、親友なのに、全然気づいてやれなかったな」大輝は、少し落ち込んだように言った。

陽菜は、大輝の肩にそっと手を置いた。「そんなことないよ。大輝くんは、いつも悠真くんのこと、ちゃんと見てる。だからこそ、ぶつかり合って、また仲直りできるんだよ」

陽菜の言葉に、大輝の心は少し軽くなった。

澪は地図を片手に、慎重に足を進める。僕はその後ろから、迷いのない足取りでついていった。

「地図だと、時計台の印はこの辺りのはずなんですけど……」

澪が地図と周囲を見比べていると、僕の視線は別の方向に吸い寄せられていた。蔦に埋もれた、古い鳥居。数日前、大輝と通りかかったときに見つけた、あの場所だ。

「……こっちだ」

「え?」

「地図と関係あるかは知らねぇけど、あそこ、なんか引っかかる」

鳥居の方へ歩き出す。澪は戸惑いながらも、背中を追ってきた。

鳥居の前に立つと、思っていたよりも小さく、頼りない佇まいをしていた。朱色はほとんど剥げ落ち、木部は所々腐りかけている。それでも、二本の柱はまっすぐに天を向いていた。風もないのに、注連縄の切れ端がかすかに揺れている。足元の石段は苔に覆われ、踏みしめるたびに、じっとりとした感触が靴底から伝わってきた。

「扁額、何か書いてありそうですね」澪が身を乗り出し、目を凝らす。

「読めるか?」

「……一部だけ。ここ、〈時〉っていう字に見えます」

澪が指差した箇所を、僕も覗き込む。顔が近づいた分だけ、澪の声が小さくなった。

「〈時〉と、その下に、何か図形が……」

苔と汚れに覆われた扁額の隅に、小さな刻印があった。地図の端に描かれていた時計のマークと、よく似た形をしている。

「これ、地図のやつと同じじゃねぇか」

僕の声に、澪が息を呑んだ。二人は顔を見合わせる。偶然にしては、出来すぎていた。

澪はスマホを取り出し、刻印を何枚も撮影する。僕はその間、鳥居の周囲をぐるりと歩き、足元の地面を注意深く観察していた。

「……ここ、土の色が違う」

しゃがみ込み、地面の一角を指でなぞる。周囲より一段低く、わずかに湿った土が、四角く区切られたように広がっていた。

「昔、何か建ってたのかもしれません」澪が隣にしゃがみ、指の先を覗き込んだ。

二人の間に、それ以上の言葉はいらなかった。同じものを見つめ、同じ疑問を抱いている。その沈黙は、気まずさとは違う種類のものだった。

僕は、土をさらに指で掘り返した。爪の先に、何か硬いものが触れる。冷たく、金属特有のなめらかさがあった。

「……なんか、埋まってる」

慎重に取り出すと、緑青に覆われた小さな金属片だった。掌に乗せると、見た目よりもずしりと重い。歯車のような形をしている。時計の部品にしては小さすぎたが、それでいて、見覚えのある形をしていた。傾きかけた日の光を受け、緑青の隙間から覗く金属の地肌が、鈍く光る。土の中に埋まっていたにしては、指先に伝わる冷たさが、いつまでも消えなかった。

「これ……」

澪が息を呑む。金属片に顔を近づけ、目を凝らした。

「……どこかで、見た気がします」

「見た気がするって、どこで」

「わかりません。でも、確かに」澪は、何かを言いかけて、口をつぐんだ。まだ、確かめてもいないことを言うべきではない。

僕は、その金属片をハンカチに包み、ポケットに収めた。布越しにも、まだかすかな冷たさが伝わってくる。

「明日、もう一度、図書館の資料を見てみます」澪が、地図を鞄にしまいながら言った。「この形、どこかの記録に載ってるかもしれません」

「ああ」

やがて、澪のスマホが夕方の光を反射して鳴った。時刻を確認した彼女が、小さく声を上げる。

「もう、こんな時間……」

空は、すでに濃い橙色から紫へと変わりかけている。二人は慌てて鳥居を離れ、来た道を戻り始めた。

「じゃあ、また明日」

駅前の分かれ道で、澪は小さく頭を下げた。僕は片手を上げただけで応え、そのまま夜道を一人歩いていった。ポケットの中で、丸めた包み紙の感触を指先が探り当てる。今日は、それに何かを描き足す余裕もなかった。

玄関の鍵を開けると、家の中はまだ誰も帰っていなかった。灯りのついていない廊下を抜け、二階の自室に上がる。カーテンを閉め忘れた窓の外は、すっかり藍色に沈んでいた。

制服も脱がないまま、机の上にスマホを置いた。画面には、澪が撮った鳥居の刻印の写真が並んでいる。

拡大しても、文字の輪郭はぼやけたままだ。それでも、時計のマークの部分だけは、はっきりと形を保っていた。

部屋の隅に積んだままの段ボール箱をあさり始めた。小学生の頃に描いた自由研究や、意味もなく集めていた石や切符の切れ端。その中に、一冊だけ、表紙のとれかけた図鑑があった。

〈郷土の伝承と紋様〉

いつ、どこで手に入れたのかも覚えていない。ただ、昔から本棚の奥で、なぜか捨てられずに残っていた一冊だ。

ページをめくる指が止まる。挿絵の中に、鳥居の刻印とよく似た文様があった。解説の文字は小さく、古い言い回しで書かれている。

「時を止める、あるいは、戻す印……」

声に出して読んだ瞬間、部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。その一文に指を置いたまま、しばらく動けずにいた。

続きを読もうと、ページをめくる。だが、次の一枚は、根元から破り取られていた。断面はまだ白く、黄ばんだ他のページとは明らかに色が違う。

誰が、いつ、この本からその一枚だけを持ち去ったのか。破られた断面を指でなぞりながら、しばらく動けずにいた。

同じ夜、澪の部屋には、勉強机のスタンドの明かりだけが灯っていた。後で聞いた話だ。本棚には、他の生徒が持たないような郷土史や古い年鑑が、几帳面に並んでいる。その机の上に、古い写真が一枚、広げられていた。祖母の若い頃の写真だ。今はもう取り壊された、商店街の一角で撮られたものだった。

澪が古い記録を集めるようになったのは、祖母の影響だった。「昔のことは、みんなすぐ忘れてしまうから」祖母はよく、そう言っていた。誰も覚えていない場所、誰も語らない出来事。それを一つずつ拾い集めることが、澪にとっては、祖母との約束のようなものになっていた。

写真の隅、遠くにぼんやりと、時計を象った何かが写り込んでいる。澪は、それを何度も指でなぞった。

鳥居で見た刻印と、同じ形に見える。

澪はノートを開き、その日撮った写真と、祖母の写真を並べて書き写し始めた。誰かに頼まれたわけでもないのに、時間を忘れて手を動かしていた。窓の外は、とっくに暗くなっていた。

翌朝、教室に入ると、大輝がすでに席にいた。いつもの陽気な調子ではない。腕を組み、机の端をとんとんと指で叩いている。教室にはまだ数人しかいない。

「……悠真」

大輝が、椅子から腰を浮かせて呼ぶ。声に、昨日までの苛立ちはなかった。ただ、どう続ければいいのかわからない、という戸惑いだけがある。

「……なんだよ、朝から」

机に頬杖をついたまま、片目だけで大輝を見上げる。昨日、言うつもりのなかったことまで全部知られてしまった気まずさが、まだ胸の奥に残っていた。

「昨日の、あれだけどよ」大輝は、視線を彷徨わせながら言った。「……ちゃんと言ってくれて、良かったと思ってる。今更だけどな」

「別に、言いたくて言ったわけじゃねぇよ」そっけなく答えた。耳の先が、熱くなっているのがわかる。

「わかってるよ、それくらい」大輝は、ふっと笑った。だが、その笑みはいつもより幾分、ぎこちなかった。「俺の方こそ、悪かったよ。陽菜のことばっか気にして、お前のこと見えてなかった」

「……別に、お前のせいじゃねぇ」

短いやり取りだったが、それだけで、昨日の張り詰めた空気は、少しだけ緩んでいた。それでも、完全に元通りというわけではない。二人の間には、まだ言葉にできない何かが、薄い膜のように残っている。

教室はいつも通りの喧騒に包まれていた。文化祭の準備が本格化し、あちこちで買い出しの相談や、看板の色決めで盛り上がっている。

僕は自分の席で、その輪から一歩離れたまま、頬杖をついていた。大輝の席の周りには、いつものように数人が集まり、笑い声が絶えない。

一瞬、腰が浮きかけた。だが、大輝と目が合った瞬間、その視線はすぐに逸らしてしまう。浮かしかけた腰を、また椅子に落ち着けた。

教室を出た大輝は、誰もいない渡り廊下で足を止めていた。消しゴムを黙って拾って渡した、あの小学生の日から変わらない横顔を、思い出していたという。

「……水臭ぇんだよ、昔から」

誰もいない廊下に、小さく呟いた。拳を握り、それから開いた手のひらを、もう一度制服のポケットに突っ込んだ。あの態度を、このまま放っておくつもりはなかった――大輝は後で、笑いながらそう話してくれた。

昼休み、澪は誰もいない図書室の隅で、一人弁当を広げていた。いつもの窓際の席ではなく、書架の陰に隠れるような場所を選んでいる。昼下がりの光が本棚の隙間から斜めに差し込み、埃がゆっくりと舞うのが見えた。廊下を行き交う生徒たちの声が、分厚い扉一枚を隔てて、くぐもって聞こえてくる。

そこに、僕が入っていった。彼女を捜していたわけではない、と言いたげな、やや不自然な足取りで。

「……ここにいたのか」

視線は、澪の顔ではなく、その手前の机の上をさまよっていた。

「悠真くん。お昼、まだでしたか?」

答えられないまま、澪の向かいの椅子に腰を下ろす。しばらく、二人とも何も言わなかった。ページをめくる音と、昼の校内放送が読み上げる献立の案内だけが、間延びして聞こえてくる。

「大輝くんと、何かあったんですか」

澪が先に切り出した。澪と話すときは、たいてい澪の方から切り出すことになる。自分から何かを話し始めたことなど、まだ一度もなかった。

視線を弁当箱に落としたまま、短く答える。

「……別に。いつものことだ」

「昨日、一緒に行ったこと、話してないんですか」

「話したよ。怒られた」

素っ気ない返事だったが、声の端に、いつもとは違う硬さが自分でもわかった。澪は、それを聞き逃さない。

「私のせいですね」澪は、弁当の卵焼きをじっと見つめたまま言った。

「違う」即座に否定していた。自分でも驚くほど、強い口調だった。「お前は関係ねぇ。俺が、ちゃんと言わなかったのが悪い」

澪は、その言い方に小さく目を見開いた。それから、少しだけ口元を緩める。

「悠真くんは、いつも一人で決めて、一人で背負おうとしますね」

「別に、そんなつもりじゃ」

「でも、それだから見えるものもあるんだと思います」澪は、弁当箱の蓋を静かに閉じた。「大輝くんの計画も、陽菜さんの発想も大事です。でも、誰も気づかない場所に気づく力は、悠真くんにしかありません。昨日の鳥居も、土の色も、私一人だったら絶対に気づけませんでした」

それにどう応えればいいのかわからず、視線を彷徨わせた。

「……別に、大したことじゃねぇよ」耳の先が、また熱くなる。

「大したことです」澪は、はっきりと言い切った。

その断定に、耳の奥が、じんと痺れるように熱くなった。

「あのさ、澪」弁当箱の端に視線を落としたまま言った。

「はい」

言葉が、喉の途中で止まった。予鈴が鳴り、廊下を走る生徒たちの足音が、図書室の静寂を破る。

「……いや、なんでもねぇ。昼休み終わるな」

弁当箱の蓋を閉じ、逃げるように席を立った。澪は、その背中を見送りながら、箸を弁当箱にそっと戻していた。閉じたままの自分の弁当箱の蓋を、指先でなぞりながら。言いかけた言葉の続きは、結局、どちらの口からも出てこなかった。

放課後、生徒たちが次々と昇降口へ向かう中、大輝は一人、図書室の前の廊下に立っていた。窓の外では、野球部のかけ声が遠くに響いている。拳を、開いては握り直す。それでも、澪を責めるつもりはなかった。

「佐倉さん、ちょっといいか」

図書室から出てきた澪は、一瞬身構えるように足を止め、それから小さく頷いた。

「怒ってるわけじゃねぇんだ」大輝は廊下の壁に寄りかかった。夕方の光が、リノリウムの床に長く伸びている。「ただ、あいつがお前とだけ勝手に動いたのが、なんつーか……」

言葉が、そこで途切れた。澪は、急かさずに待った。

「大輝くんも、一人にされるの、苦手なんですね」

図星を突かれたように、大輝は靴の先で、リノリウムの床を小さく擦った。

「……そう、かもな」

「悠真くんは、誰かに頼るのが苦手なんだと思います」澪は、抱えた郷土史を胸に引き寄せた。「私にも、あまり多くを話してくれません」

大輝は、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。

「わかった。とりあえず、悠真とはちゃんと話す」

そのまま踵を返し、駅とは反対の方向へと歩き出した。体を動かしていないと落ち着かなかったのだという。商店街のシャッターが半分閉まりかけた通りを抜け、路地の奥へ向かう。向かう先は、あの乾物屋だった。

色褪せた藍色の暖簾をくぐると、乾物特有の、こんぶと干魚が混ざったような匂いが鼻をついた。天井まで届く木の棚に、煮干しや切り干し大根の袋が、隙間なく積まれている。店の奥では、老人がまた段ボールの整理をしていた。大輝を見て、片方の眉を上げる。

「おや、また来たのか、兄ちゃん」

「暇なんで、荷物運び手伝いますよ」

大輝は返事も待たず、段ボールを担ぎ上げた。老人は苦笑しながらも、止めはしなかった。

しばらく無言で作業を続けたあと、大輝はさりげなく切り出した。

「この前教えてもらった、もう一つの時計台の話なんですけど」

老人の手が、一瞬止まった。

「まだ気にしてたのか」

「はい。あれ、他にも何か知ってること、ありませんか」

店の奥の柱時計が、やけに大きく時を刻んでいた。段ボールの隙間から差し込む夕方の光に、埃がゆっくりと舞う。老人は、その光の中でしばらく黙り込み、それから、ぽつりと言った。

「昔からこの辺りじゃ、時計が急に狂う、なんて話はよく聞いたよ。特に、あの路地の奥はね。針が一晩で何時間も遅れたり、逆に進んだりするんだと」

大輝の手が、段ボールの上で止まった。

「時計が、勝手に動くってことですか」

「ただの都市伝説さ、今どきの若い子は信じないだろうけどね」老人は笑い飛ばすように言ったが、その目は、笑っていなかった。「まあ、あんまり夜、あの辺りをうろつかない方がいいよ。念のためにね」

それだけ言うと、老人は話を打ち切り、レジの奥へと戻っていった。大輝は、積み終えた段ボールを見つめながら、老人の言葉を頭の中で繰り返していた。

時計の狂い。もう一つの時計台。

点と点が、少しずつ繋がり始めている気がした――大輝は後で、そう話してくれた。だが、その先に何があるのか、まだ誰にもわからなかった。

翌日の放課後、生徒会室には、気まずい沈黙が漂っていた。窓際の棚には、これまでの会議で溜まった付箋やコピー用紙が乱雑に積まれている。誰かが開けっぱなしにした窓から、吹奏楽部の練習する音階が、途切れ途切れに流れ込んでいた。大輝と僕は、机を挟んで向かい合っているのに、互いに視線を合わせようとしなかった。

「えーっと……じゃあ、今日は看板のデザイン決めから」陽菜が、努めて明るい声で切り出した。「みんな、案とか持ってきた?」

「俺は、商店街の写真をベースにしたコラージュ案、考えてきた」大輝がタブレットを取り出しながら言う。声はいつも通りだが、視線はこちらを避けたままだ。

「悠真くんは?」陽菜が、努めて明るく問いかけた。

「……別に」タブレットの画面を覗き込むふりをして、目を合わせなかった。

短い返事に、陽菜の笑顔がわずかに強張る。澪が、助け舟を出すように口を開いた。

「路地裏で見つけた鳥居の写真、看板の隅に使うのはどうでしょう。古いものと新しいものが混ざっている感じを、デザインで表現できると思います」

「……いいな、それ」大輝が、初めてこちらを見ずに頷いた。「悠真、お前が見つけたやつだもんな」

「別に、俺が見つけたわけじゃ」

「見つけたろ」

短いやり取りの応酬に、陽菜と澪は顔を見合わせた。喧嘩というほどでもない、かといって元通りでもない。二人は、必要以上に地図やタブレットへ視線を落とし続けていた。

作業が進むにつれ、会話は少しずつ増えていく。それでも、大輝と直接、目を合わせて話すことはなかった。陽菜は、その空気を変えようと、何度も話題を振り続けた。

「あ、そういえば、文化祭の出し物のことなんだけど……」

明るい声が、狭い生徒会室に響く。

会議のあと、大輝と陽菜が連れ立って昇降口へ向かうのを横目に、僕は一人、図書館に足を向けた。夕方の図書館は、下校を急ぐ生徒たちも少なく、静かだった。窓際の席に、まだ鞄を置いたままの澪がいる。

「……まだ、いたのか」

「調べたいことがあって」澪は顔を上げずに答えた。「悠真くんも?」

僕は頷き、返却カウンターの司書に声をかけた。

「あの、町の言い伝えとか、そういう資料ってありますか」

司書は意外そうにこちらを見てから、書架の奥を指した。「郷土資料のコーナーね。佐倉さんがよく使ってる棚よ」

窓際の棚には、色褪せた背表紙の本が並んでいる。手を伸ばすより先に、澪がすでに一冊を開いていた。古い住宅地図の複写だ。

「この辺り、今は商店街ですけど」澪が地図の隅を指でなぞる。「戦前の地図だと、同じ場所に、神社の敷地って書いてあるんです」

「神社が、なくなったってことか」澪の肩越しに地図を覗き込みながら言った。

「区画整理で、取り壊されたみたいです。詳しい記録は、あまり残ってなくて」

隣に座り、〈町史編纂資料・未収録分〉と書かれた薄い冊子を手に取った。ページをめくると、手書きのメモが挟まっている。

「昭和××年、〇〇地区にて、児童数名の行方不明報告あり。後日、全員発見されるも、記憶に一部欠損……」

指先が、冊子の縁を強く握りしめる。乾物屋の老人が言っていた話と、重なる部分があった。ポケットの中、ハンカチに包んだ金属片の感触を、指の先で確かめる。この記録のどこかに、あの歯車の答えもあるのかもしれない。

冊子には、ざらついた白黒写真が一枚、挟まっていた。神社の祭りらしき集合写真だ。着物姿の子供たちが並ぶ中、一人だけ、輪郭がぼやけて写っている。まるで、シャッターが切られた瞬間、そこにいなかったかのように。

写真の下には、名前を書き込む欄が並んでいる。その一つだけが、空白のままだった。

「その年って……」澪は、自分の広げた地図の端に、もう一度視線を落とした。指先が、記された数字の上で止まる。

もう一度、僕の持つ冊子の年号を見る。それから、また地図に戻る。

澪の手が、かすかに震えていた。祖母の写真に写っていた、あの商店街の一角。祖母が生まれたのも、確かこの町だった。

「……澪?」眉をひそめて顔を覗き込む。

「あ、いえ」澪は地図を静かに閉じた。「なんでもないです。続き、調べましょう」

その様子に何かを感じ取りながらも、あえて聞かなかった。二人は、それぞれの資料に、また視線を戻す。

閉館を告げる放送が流れるまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。それでも、隣に誰かがいることが、どこか落ち着く時間だった。

その冊子を借りるべきか迷い、結局、スマホで該当ページと地図の写真だけを撮った。誰かに見せるかどうかは、まだ決めていない。

その夜、大輝は電気を消したベッドの上で、天井を見つめていた。部屋の隅には、昼間脱いだ制服が丸めたまま置かれている。一日を思い返す。生徒会室で最後まで目を合わせなかった、僕の横顔。

スマホを手に取り、トーク画面を開く。何度も文字を打っては消した。「悪かった」も、「話そうぜ」も、どれもしっくりこなかったという。

結局、大輝が送ってきたのは、一枚の写真だった。乾物屋で聞いた話をまとめた、自分のメモ。時計の狂い、路地裏の印。文末に、短く一言だけ添えてあった。

『これ、お前と澪ちゃんの調べてるやつと、繋がってるかもしれん』

既読はすぐについた。だが、なんと返せばいいのかわからず、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。大輝がどれだけ迷ってあの一言を打ったのか、僕が知ったのは、もっと後になってからだ。

図書館を出た澪は、一人、駅までの道を歩いていた。空はすでに藍色に暮れ、街灯がぽつぽつと灯り始めている。

追いついたのは僕だった。「……駅、こっちだよな」澪の半歩後ろで足を止めながら言う。

「はい」

二人は、どちらからともなく、並んで歩き出した。会話はない。だが、その沈黙は、昼休みのものとは少し違って感じられた。

改札の明かりが、少しずつ近づいてくる。行き交う人々の影が、二人の間を何度もすり抜けていった。

ふと、澪の視線が、頭上の電光掲示板に吸い寄せられた。次の発車時刻の表示が、一瞬だけ、あり得ない数字に切り替わる。二十五時、四十七分。瞬きをする間に、それは元の時刻に戻っていた。

駅の改札が見えてきたところで、澪が不意に足を止めた。

「悠真くん」

澪が、少し早足になって、僕の顔を覗き込むように言った。

「ん?」

澪は、しばらく黙ったまま、指先でスカートの裾をなぞっていた。それから、まっすぐにこちらを見て言った。

「もし、私がいなくなったら……悠真くんは、探してくれますか?」

唐突な問いに、面食らった。冗談だと思って、笑おうとする。

「なんだよ、急に。修学旅行の話でもしてんのか?」

「……いえ、なんでもないです。変なこと聞きました」

澪は小さく首を振り、改札の方へ歩き出す。その背中を、ただ見送る。

改札の向こうに消えていく澪の後ろ姿を、夕暮れの光が長く伸ばしている。

第二章 了




三章 消えた澪


駅で澪が口にしたあの問いは、それからしばらく、頭の奥にこびりついたまま離れなかった。もし、私がいなくなったら――探してくれますか。あのときは冗談だと思って笑い飛ばしたはずなのに、教室で澪の後ろ姿を見かけるたびに、その一言が耳の奥で小さく鳴った。それでも文化祭プロジェクトの作業は、何事もなく数日続いていった。大輝は路地裏の薬局の看板の写真を企画書に組み込み、日ごとに厚みを増していく資料の束に満足げだった。陽菜は陽菜で、当日の案内係の台本を書き上げ、休み時間のたびに三人へ読み聞かせてくる。窓の外では、いつもの西日が校庭の欅を橙色に染め、いつもの喧騒が廊下を満たしていた。

夏の終わりの生ぬるい風が、教室のカーテンを緩慢に揺らしていた季節。二学期が始まってまだ間もないのに、文化祭の準備だけが妙に先を急いでいるような、そんな落ち着かない空気が校舎全体に満ちていた頃だ。澪はあの日以来、心なしか、放課後に姿を消す回数が増えていた。「ちょっと調べ物」と言い残して、図書室にこもる時間も、心なしか長くなっていた気がする。気にはなったが、聞くほどのことでもないと、自分に言い聞かせていた。

準備期間中、教室の後ろの黒板には、大輝が書いた「文化祭まであと〇日」というカウントダウンが、日ごとに数字を減らしていた。その数字を見上げるたびに、なぜか胸の奥がざわついた。理由のない焦りだった。文化祭が近づくこと自体は、喜ばしいことのはずなのに、何かが少しずつ削られていくような、そんな感覚が拭えなかった。澪は、そのカウントダウンを、誰よりも熱心に見つめていた一人だった。数字が減るたびに、彼女の目の奥に浮かぶ表情が、少しずつ翳っていくのに、あのときの自分は、気づいていなかった。

だから、あの朝までは、誰も何も疑っていなかったはずだ。

一 来ない朝

その朝、教室に入ると、澪の席が空いていた。それ自体は、珍しいことではないはずだった。誰にだって、遅刻する日はある。寝坊もすれば、体調を崩す日だってあるだろう。そう自分に言い聞かせながら、いつもの席に鞄を下ろした。だが、机の上には鞄もなければ、いつも端に几帳面に積まれている分厚い郷土史の本もない。椅子の背もたれに掛けられているはずの、あの見覚えのあるカーディガンもなかった。

チャイムが鳴り、担任が出席を取り始めても、澪の名前が呼ばれるとき、返事はなかった。「佐倉さん、休みか」担任はそう呟いて、あっさり次の名前へ進んだ。誰も、それ以上気にしなかった。クラス全体が、いつも通りの朝のざわめきの中に、何事もなかったかのように吸い込まれていく。自分だけが、その空気に馴染めずにいた。

一限が終わっても、二限が終わっても、澪は現れなかった。授業中、黒板の文字を目で追いながらも、頭の隅ではずっと、窓の外の渡り廊下を気にしていた。誰かが通るたびに、反射的にそちらへ視線が動く。澪の姿はどこにもない。休み時間になるたび、廊下に出て、それとなく確かめている自分に気づく。昼休みが近づく頃には、胸の奥で小さな違和感が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。理由を言葉にはできない。ただ、いつもそこにあるはずの何かが、今日に限って欠けている。そんな感覚だけが、じわりと胸の底に広がっていく。

購買へ向かう道すがら、澪を探すふりをして、同じ廊下を二度も三度も往復している自分に気づいた。教室、昇降口、渡り廊下、図書室へ続く階段。心当たりのある場所を、一つずつ潰していく。それでも、どこにもいない。スマホを取り出し、メッセージを送ろうとして、指を止めた。何を書けばいいのか、自分でもわからなかった。「どこにいるんだ」その一文すら、なぜか妙に大げさに思えて、結局送れないまま、画面を閉じた。

「悠真、さっきから何やってんだよ」

大輝が声をかけてきたのは、三度目に同じ廊下を通りかかったときだった。声色に、いつもの軽さがなかった。振り返った顔を見て、大輝は何かを察したように、一瞬だけ息を止めた。

「……澪が、いねぇんだよ」

その一言に、大輝の表情がはっきりと変わった。詳しい説明をする前から、ただごとではないと悟ったような顔だった。

「今朝から?」

「ああ。一限からずっと」

そこへ、陽菜が遅れて廊下に現れた。「あれ、どうしたの、二人とも。難しい顔して」

大輝が手短に事情を説明すると、陽菜は少し考えてから、ハッとしたように手を打った。「そういえば、佐倉さん、昨日『放課後、ちょっと気になる場所があるから、一人で見てくる』って言ってたわ。まだ誰にも知られてないような場所、って」

気になる場所。その言葉の軽さが、今になって、重く胸にのしかかってきた。

走りながら、頭の隅で、去年の春先のことを思い出していた。転校してきたばかりの澪が、教室の隅で一人、文庫本を開いていた姿。誰も声をかけないその子に、たまたま忘れ物を届けに行ったのが、最初のきっかけだった。「ありがとう」その一言だけの、ぎこちない笑い方を、今でもはっきり覚えている。あれから一年半。当たり前のようにそこにいた誰かが、今はどこにもいない。その事実の重さが、走るたびに、少しずつ胸を圧迫していった。

もう一つ、ふと蘇った記憶があった。もっと小さい頃、小学生の自分が、誰かと指切りをした情景。相手の顔も、名前も、はっきりとは思い出せない。ただ、「どこにいても、絶対に探すから」と、自分がそう口にした記憶の断片だけが、なぜか今、鮮明に胸の奥で疼いていた。あれは誰との約束だったのか。考えても、答えは出てこない。ただ、その言葉だけが、今この瞬間、澪を探して走る足を、後ろから押しているような気がした。

図書室へ向かおうとした、その前に、もう一度だけ、自分の机の中を確かめておきたかった。虫の知らせのようなものだった。引き出しの奥、教科書の隙間に、見覚えのない小さな紙片が挟まっているのに気づいた。取り出してみると、そこには「時計台」とだけ、走り書きされていた。

その筆跡に、背筋が冷たくなった。自分の字に、よく似ている。いや、似ているというより、これは間違いなく、自分の癖のある「時」の払い方だった。書いた記憶は、まったくない。裏を返すと、そこには、途中で書きかけてやめたような、意味をなさない線が、いくつも重なっていた。

「悠真、それ何だよ」大輝が覗き込む。

「わかんねぇ……。俺の字なんだけど、書いた覚えがない」

自分の言葉が、自分でも信じられなかった。だが、他に説明のしようがなかった。紙片をポケットにしまいながら、時計台という単語だけが、頭の中で不気味な重さを持ち始めていた。

「これ見て」陽菜が、スマホの画面をこちらに向けた。先週撮った文化祭準備の集合写真だった。四人で撮ったはずのその写真には、三人しか写っていない。

「澪、写ってないな」大輝がそう言った直後、自分の言葉に戸惑ったような顔をした。「……いや、待てよ。そもそも、四人で撮ったんだっけ、これ」

「大輝、お前、本当に覚えてないのか?」

「覚えてない。でも……忘れたっていうより、最初から知らなかったみたいなんだ」

そう言いながらも、大輝は写真を手放そうとしなかった。画面を拡大すると、背景に写り込んでいる、古い時計台の輪郭が目に留まった。この辺りに、そんな建物があっただろうか。記憶を辿ってみても、心当たりがない。目を凝らすと、時計台の小さな窓に、人影のようなものが写り込んでいるのがわかった。

「これ……澪、か?」

画面をさらに拡大しようとした瞬間、指先が触れた場所から、時計台の輪郭がぼやけ、次の瞬間には、その部分だけが、何もない路地の写真に置き換わっていた。三人は、しばらく声も出せずに、画面を見つめていた。

澪がいないことよりも、誰も澪を知らないことの方が、ずっと異常だった。自分の記憶だけが間違っているのなら、これほど周囲の反応が揃うはずがない。何かが、澪という存在そのものを、根こそぎ塗り替えようとしている。そんな確信だけが、じわじわと胸の中に広がっていった。

三人は、それ以上言葉を交わさないまま、図書室へと向かって駆け出していた。

二 空席

図書室に駆け込むと、放課後の喧騒がまだ届かない静けさが、ひんやりと肌を撫でた。澪がいつも座っている窓際の席を確かめる。荷物は何もない。窓から差し込む昼の光が、誰も座っていない椅子の背もたれを、ただ白っぽく照らしているだけだった。カウンターの図書委員は、いつも通り本の整理に忙しく、こちらを気にする様子もない。

机に手をついた瞬間、指先が違和感を拾った。表面に、うっすらと円形の跡が残っていた。指先でなぞると、そこだけ、他の場所よりも僅かに冷たい気がした。理由はわからない。ただ、そこに何かが確かに置かれていた、その感触だけが、指先の奥に残っている。マグカップの跡にしては大きすぎるし、本を積んだ跡にしては形が整いすぎている。何度もなぞってみたが、答えは出なかった。

「何か、置いてあったのか」大輝が覗き込む。

「……わかんねぇ。でも、ここに、何かあった」

説明できないことを、説明できないまま口にする。それがどれだけ頼りなく聞こえるか、自分でもわかっていた。それでも、他に言いようがなかった。指先に残る冷たさの記憶だけが、唯一の手がかりだった。

陽菜は、窓際の棚を順番に確かめていた。澪がいつも読んでいた郷土史の一冊を探しているようだったが、途中で手が止まる。棚の隙間を見つめたまま、しばらく動かなかった。

「本当に、ここにいたんだよね、佐倉さん」陽菜が、自分に確かめるように呟いた。「うん、いたはず。いたよね……」

語尾が、不自然に萎んでいった。陽菜自身、自分の言葉に確信が持てなくなっているような口ぶりだった。その様子に、大輝と僕は顔を見合わせた。何かが、少しずつ狂い始めている。そんな予感が、三人の間に、音もなく降り積もっていった。

カウンターの図書委員に貸出記録を尋ねてみたが、「佐倉さんの記録? 少し待って」と言ったきり、しばらくパソコンの画面を睨んでいた。「おかしいな……履歴が、途中から見当たらない」その一言だけで、背筋を冷たいものが伝った。

念のため、保健室にも寄ってみた。体調を崩して休んでいる可能性を、まだどこかで捨てきれずにいたからだ。養護教諭は、名簿を確認しながら首を傾げた。「佐倉さんね……ごめんなさい、うちに来た記録は残ってないみたい。今学期、一度も」当たり前だと言えば当たり前の答えだったが、それでも、一つ望みが潰えるたびに、胸の中の何かが、確実に軽くなっていくのがわかった。まるで、澪という存在の重さそのものが、少しずつ世界から差し引かれていくかのようだった。

三 誰も覚えていない

図書委員に澪のことを尋ねたが、返ってきたのは怪訝な顔だけだった。

「佐倉さん? うちのクラスに、そんな名前の子いたっけ」

「そんなはずない。いつも静かに本読んでる、ほら、あの席にいた子だろ。図書委員の腕章つけて」声を荒げても、相手の表情は変わらなかった。

「ごめん、全然心当たりないな。うちの図書室、いつも静かだし、そんな特徴的な子は覚えてないや」

職員室でも、担任は困ったように首をかしげるだけだった。「佐倉澪? 大輝くん、どうしたんだい。うちの学校に、佐倉という名前の生徒はいないよ。誰かと勘違いしてるんじゃないか」出席簿を見せてもらったが、そこに澪の名前はなかった。指でなぞって何度も確かめたが、見慣れたはずの名簿の並びに、澪が入り込む隙間さえない。まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。

聞けば聞くほど、僕の方が何かを勘違いしているのだと思われていく。説明すればするほど、自分の記憶そのものが疑わしいものに変わっていく感覚があった。廊下ですれ違うクラスメイトに尋ねても、返ってくるのは同じ困惑の表情だった。「悠真、大丈夫か。熱でもあるんじゃないの」文化祭実行委員の会議で何度も顔を合わせたはずの他クラスの生徒にまで聞いてみたが、結果は同じだった。「佐倉さん? うーん、実行委員にそんな人いたかな。ごめん、覚えてない」

思いついて、昇降口の掲示板に貼られた、今年の球技大会のクラス集合写真を確かめに行った。あの日、澪も列の端に写っていたはずだった。写真の中の自分のクラスを数えると、人数だけは合っている。だが、端に写っているのは、見覚えのない誰かの顔だった。ピントも構図も、記憶にある写真そのままなのに、そこに立っているはずの澪だけが、別人に置き換えられている。写真の裏を返して撮影日を確かめたが、日付にも矛盾はない。改竄された形跡すら、どこにも見当たらなかった。それがかえって、恐ろしかった。誰かが写真をすり替えたのではない。世界そのものが、最初からそういう形で記録されている。そう思うしかなかった。

昇降口へ回り、澪の靴箱も確かめてみた。名前の書かれたプレートごと、なくなっている。隣の生徒の靴箱には、見慣れた名前が並んでいるのに、そこだけ、最初から誰も使っていなかったかのように、空白のまま埋め込まれていた。守衛室で、正門の防犯カメラの映像を見せてもらえないかと頼んでみたが、「生徒の個別対応はできない決まりなんだ」と、やんわり断られた。それでも食い下がると、守衛は怪訝そうな顔で、「そもそも、佐倉っていう生徒、うちの記録にあったかな」と、名簿を繰り始めた。結果は、他の誰に聞いたときと同じだった。

それでも、大輝だけは、最後まで表情を変えなかった。「悠真が言うなら、いたんだよ。俺も、なんとなく覚えてる気がする。断片的にだけど。図書室の窓際に、誰かが座ってた、その景色だけは頭に残ってる」

その一言だけで、崩れかけていた足元が、わずかに固くなった気がした。一人ではない。その事実が、どれほど心強いか、僕はこの時初めて実感していた。

陽菜は、澪の名前を聞いても、はっきりとは思い出せない様子だった。それでも、何かを尋ねられるたびに、微かに眉をひそめた。

「……ごめん、名前、全然出てこないんだけど。なんでだろう、誰かがいたはずな気はするの。図書室の、窓際の、あの席に」

覚えていない。それなのに、何かを失った感覚だけは残っている。その矛盾した表情を見て、背筋が冷たくなった。忘れるということが、こんな風に、輪郭だけを残して進んでいくものだとは、思いもしなかった。まるで、消しゴムで少しずつ輪郭をなぞって消していくように、澪という存在が、周りの記憶からゆっくりと剥がれ落ちていっている。そんな気がしてならなかった。

職員室を出る間際、思いついて、澪の自宅の電話番号を担任に尋ねてみた。緊急連絡網に載っているはずだと言うと、担任は名簿をめくり、しばらくしてから、困ったように顔を上げた。「悠真くん、ここにも、載ってないんだ。おかしいな、今年度の連絡網、最初から作り直した方がいいのかもしれない」その一言に、目の前が暗くなる気がした。連絡先どころか、澪という生徒が在籍していたという記録そのものが、少しずつ、根こそぎ塗り替えられている。

四 消えた写真

放課後、購買の前でスマホを開くと、一昨日大輝に送ったはずの薬局の看板の写真が、見覚えのない風景写真に変わっていた。メッセージのやり取りそのものは、確かに残っている。『これ、使えるだろ』という文面も、送信した時刻も、間違いなくそこにある。それなのに、添付されていた画像だけが、静かに入れ替わっていた。

「俺のスマホも同じだ」大輝が自分の画面を見せる。指が、震えているのがわかった。「メッセージは残ってる。日付も時間も合ってる。でも、画像だけが違う」

二人でスマホを見比べながら、他のやり取りも遡ってみた。澪が写っている写真、澪が送ってきたメッセージの画像。それらだけが、一様に、何の変哲もない風景や物の写真に置き換わっていた。文字だけは、なぜか手つかずのまま残っている。三人のグループチャットまで遡ってみたが、澪が送ったはずのスタンプや相槌だけが、不自然に空白になっていた。会話の流れだけがそこにあり、澪の発言部分だけが、まるで最初から誰も打っていなかったかのように、綺麗に消えている。

「文化祭のフォルダも確認してみよう」大輝が提案し、三人で企画書の共有フォルダを開いた。澪が担当していたはずの資料調べのページが、真っ白になっている。編集履歴だけは残っているのに、澪のアカウント名の部分が、灰色の「不明なユーザー」という表示に変わっていた。

「澪に関係するものだけが、書き換えられてるってことか」

言葉にしてみると、背筋がさらに冷えた。存在が消えるだけでなく、痕跡までもが、少しずつ塗り替えられている。誰が、何のために。答えのない問いだけが、胸の中に積み重なっていった。陽菜は自分のスマホを握りしめたまま、何も言わずに画面を見つめていた。その横顔に浮かんでいたのは、恐怖よりも、もっと静かな、何か諦めに近い表情だった。

「電話、かけてみようか」陽菜が、思いついたように呟いた。「佐倉さんの番号、前に一度だけ聞いたことある。文化祭の連絡用に」

震える指で、履歴に残っていた番号を呼び出す。コール音が、やけに間延びして聞こえた。三回、四回、五回。誰も出ない。留守番電話にすら繋がらない。ただ、規則正しいコール音だけが、延々と続いていく。

「圏外……ってわけじゃ、なさそうだな」大輝が画面を覗き込みながら言った。

「もう一回かけてみて」

もう一度、番号を呼び出す。今度は、数コールの後、機械的な女性の声が流れた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」その一言が、耳の奥で何度も反響した。数日前まで、確かに存在していたはずの番号が、まるで最初から誰のものでもなかったかのように、宙に消えている。三人は、しばらく誰も口を開けなかった。スマホを持つ手だけが、やけに重く感じられた。

諦めきれずに、もう一度だけ、澪のアカウントにメッセージを送ってみた。既読もつかない。返信もない。半ば諦めながら画面を眺めていたそのとき、不意に、通知が一件届いた。送信者は、澪だった。

開いてみると、本文は空白だった。何も書かれていない、ただの白いメッセージ。送信時刻を確認して、指が止まった。今の時刻より、三分先の時間になっている。添付ファイルの欄には、何かが添付されているはずのアイコンが表示されていたが、タップしても、何も開かなかった。

画面を閉じようとした、その瞬間だった。真っ白な画面の中央に、一瞬だけ、文字が浮かび上がった。

「ひとりで来ないで」

瞬きした次の瞬間には、メッセージそのものが、跡形もなく消えていた。トーク履歴を遡っても、その一件は、どこにも残っていない。

「大輝、今の、見たか」

震える手でスマホを差し出したが、画面にはもう、何も表示されていなかった。それでも、大輝は、こちらの顔を見ただけで、何かを察したようだった。

「……行くぞ。一人で行かせるわけにはいかねぇ」

多くを説明する必要はなかった。陽菜も、二人のやり取りを黙って見ていただけで、すでに覚悟を決めた顔をしていた。三人で動き出そうとした、まさにその瞬間、渡り廊下の向こうに見える時計台の針が、かちり、と一度だけ、逆向きに回った。誰も、それを言葉にはしなかった。ただ、見なかったことにはできない、そんな沈黙だけが、三人の間に横たわっていた。

五 マンホールの文様

もう一度、路地裏へ向かった。夕暮れが近づき、薄闇の中、薬局の看板があったはずの壁を見上げる。蔦だけが、そこに残っていた。看板そのものが、最初からなかったかのように消えている。壁のコンクリートには、看板を固定していたはずのビスの穴すら見当たらない。まるで、初めからこの壁は無地だったと言わんばかりに。

「ない。ないぞ、大輝。看板が……消えてる」

足元に目を落とすと、古びたマンホールの蓋に、錆に紛れて微かな文様が刻まれているのに気づいた。しゃがみ込み、指でなぞる。ひんやりとした鉄の感触の奥に、なぜか妙な温もりのようなものが、一瞬だけ触れた気がした。理由はわからない。ただ、それがただの装飾ではないと、肌が知らせてきた。

「これ……どこかで見たことあるんだ」呟いた瞬間、耳の奥で、澪の声がした気がした。声そのものは思い出せない。ただ、確かに、聞いたことがある。そんな感覚だけが残った。目を閉じて、記憶の底を探る。図書室、郷土史、澪の指先。何かが繋がりかけて、すぐにほどけていく。

もう一つ、気になることがあった。文様の一部の線の曲がり方が、子供の頃、意味もなく落書きしていた、あの丸っこいキャラクターの輪郭と、どこか似ていた。それが偶然なのか、それとも何か理由があるのか、判断はつかない。ただ、この文様と自分との間に、細い糸のようなものが繋がっている気がしてならなかった。

路地の奥から吹き込む風が、湿った土の匂いを運んでくる。その匂いに、なぜか妙な既視感を覚えた。子供の頃、どこかでこれと同じ匂いを嗅いだ気がする。祭りの夜だったか、それとも、もっと別の記憶だったか。輪郭を掴もうとするたびに、記憶はするりと手の中から逃げていった。

「なんだよ、それ」大輝が覗き込みながら聞いた。

「わかんねぇ。ただ、なんか、繋がってる気がする」

自分の直感が示すのは、いつもそこまでだった。何かがおかしい、何かが繋がっている。だが、それが何を意味するのかまでは、決してわからない。もどかしさを噛み殺しながら、大輝はその場で何枚も文様の写真を撮った。「今度はちゃんと残るといいけどな」自嘲するように呟いた大輝の声に、笑う余裕は、もうどちらにもなかった。

「なあ、悠真」写真を撮り終えた大輝が、立ち上がりながら口を開いた。「お前の勘って、正直、今までも外れたことなかったっけ」

「外れたことも、ある。忘れたのか、修学旅行の集合場所」

「あれは例外だ」大輝は苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。「でも、今回は、なんとなく信じてもいい気がしてる。理由はわかんねぇけど」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。根拠のない直感を、根拠のないまま信じてくれる相手がいる。それがどれほど心強いことか、この状況になるまで、考えたこともなかった。空を見上げると、いつの間にか、夕焼けの色がずいぶんと濃くなっていた。残された時間が、少しずつ削られていくような気がして、二人は無言のまま、来た道を戻り始めた。

六 郷土史の封印

二人は学校に戻り、澪がよく読んでいた郷土史のコーナーへ向かった。夕方の図書室は、下校を急ぐ生徒たちの気配もまばらで、蛍光灯の白い光だけがやけに際立って見えた。棚に並ぶ本を、一冊ずつ手に取っては戻す。埃の匂いと、古い紙特有の乾いた匂いが、鼻の奥にこびりついていく。

何十冊目かに、ひときわ古びた一冊があった。表紙は色褪せ、背表紙の文字もかすれて読めない。開いたページに、マンホールの文様とよく似た挿絵があり、こう記されていた。

「『古くからこの地に伝わる、封印の印。災いを鎮め、異界への扉を閉ざすと言われる』」大輝が読み上げる。声が、少しずつ低くなっていく。

だが、ページをめくった先には、別の筆跡による書き込みがあった。小さく、震えるような字で。

「――この印、実は扉を開くためのものとも伝わる。真偽は定かではない」

どちらが正しいのか、本自体にも判断がつかないまま、二つの解釈が並んでいた。災いを鎮める印なのか、それとも、何かを呼び込むための印なのか。ページの隅には、年代の異なる複数の筆跡で、同じ議論が繰り返し書き加えられているようだった。誰かが何十年も前から、この印の意味を巡って迷い続けてきたのだと、その筆跡の重なりが物語っていた。

「どっちなんだよ」大輝が唸る。

念のため、他の郷土史や地域の資料にも目を通してみたが、この印そのものに触れている記述は、他のどの本にも見当たらなかった。まるで、この一冊だけが、あえてこの印について書き残すために存在しているかのようだった。奥付を確認すると、著者名の欄は、かすれて読めなくなっている。発行年すら、判読できなかった。

貸出カードの欄を見ると、そこにも、澪の筆跡らしきものが薄く残っていた。名前の部分だけが、他の文字よりも一段と薄く、消えかけている。まるで、この本を最後に借りたのが誰だったかという事実さえ、少しずつ塗り消されていくかのようだった。指先でそっとなぞってみたが、もう、ほとんど判読できなかった。ただ一つだけ、返却予定日の欄だけが、赤いペンで、不自然なほど強く囲まれていた。誰が、何のために囲んだのか。書き込んだ本人の意図だけが、そこにくっきりと残っていた。

「わかんねぇ。でも、この印が刻まれた場所が、地図に載ってる」

粗い手書きの地図には、路地裏の奥、小さな祠の位置が示されていた。よく見ると、地図の一部に、鉛筆でごく細い円が描き込まれている。今の地図と照らし合わせてみたが、その円の中心にあたる場所には、何も存在していないはずだった。道すらない、ただの空白の区画。それでも、誰かが、わざわざそこに印をつけている。ページの端には、かすれた文字で「祠に近づく者、覚悟せよ」とだけ添えられている。その一文が、どういう意味を持つのか、二人ともわからないまま、しばらく黙り込んでいた。窓の外はすでに橙色から藍色へと変わりかけていて、図書室の隅にまで、夕闇が忍び寄ってきていた。

「覚悟せよ、か」大輝がぽつりと呟いた。「脅し文句にしちゃ、ずいぶん古臭い書き方だよな」

軽口のつもりだったのだろう。だが、その声はいつもより硬く、笑いは伴っていなかった。窓ガラスに映る自分たちの姿が、蛍光灯の光の中で、やけに頼りなく揺れて見えた。

「もう、閉館の時間だけど」カウンターから、図書委員の声が遠くから聞こえた。二人は顔を見合わせ、何も言わずに本を鞄へしまい込んだ。持ち出していいものかどうか、考える余裕すらなかった。

図書室を出た直後、陽菜からメッセージが届いた。『実行委員の名簿、去年の分まで遡って確認した。佐倉さんの名前、今年の分だけじゃなくて、去年の分からも消えてる。これって、最近になって消えたんじゃなくて……最初から、そういうことになってるってこと、だよね?』

続けて、写真が一枚送られてきた。去年の文化祭準備の集合写真。画面を拡大すると、端の方に、見覚えのある人影がぼんやりと写り込んでいる。だが、顔の部分だけが、不自然に光を反射したように白飛びしていて、判別できなかった。『これだけ見つけたけど、顔、はっきり見えない。悠真、これ、佐倉さんだと思う?』その問いに、すぐには答えられなかった。確信はある。だが、確信があること自体が、今はもう、頼りにならない気がしていた。

文面を読み返すたびに、胃の奥が重くなった。最初から。その一言が、これまでの前提そのものを覆していく。澪が消えたのではなく、澪が最初からいなかったことに、世界の方が書き換えられつつあるのだとしたら。歩きながら返信を打とうとしたが、指が震えて、うまく文字が打てなかった。結局、「今から祠に行く。何かわかったらまた連絡する」とだけ送って、スマホをポケットに戻した。

その頃、一人残った陽菜は、誰もいなくなった図書室で、古い卒業アルバムを何冊も机に積み上げていた。もし澪の痕跡が、生徒会や実行委員の記録から消されているのだとしても、何十年分も蓄積された卒業アルバムの隅々にまでは、手が回っていないかもしれない。そんな細い望みにすがって、ページを繰る指先が止まらなかった。

三年前、五年前、十年前――遡れば遡るほど、埃っぽい匂いが濃くなっていく。何冊目かのアルバムの片隅、文化祭実行委員の集合写真のさらに端、影になった部分に、見覚えのある横顔がぼんやりと写り込んでいるのを見つけた。顔立ちははっきりしない。それでも、あの独特の姿勢、本を抱える腕の角度に、確信めいたものがあった。震える手でスマホのカメラを向け、写真に収める。証拠と呼べるかどうかもわからない、それでも、これだけは消えずに残っている。そう思うと、涙が出そうになった。急いで二人にメッセージを送ろうとしたそのとき、視界の端で、写真の輪郭が、ほんの一瞬、揺らいだように見えた。まるで、今この瞬間にも、その痕跡ごと塗り替えられていくかのように。

七 祠へ

大輝はスマホを取り出し、ここまでにわかったことを箇条書きにまとめようとしていた。「よし、まず情報を整理して、順番に確かめよう。危険な場所かもしれねぇから、慎重に、な」

「悪いが、そんな時間はねぇ」

自分でも、驚くほどはっきりとした声が出た。理由を説明できるわけではない。ただ、これ以上待てば、何か取り返しのつかないことになる。そんな予感だけが、頭の中で警報のように鳴り続けていた。心臓が、いつもより速く、重く脈打っているのがわかる。

大輝は、しばらく僕の顔を見ていた。何か言い返そうとして、結局、言葉を呑み込んだようだった。

「悠真の勘、外れたことないわけじゃねぇけどな」そう言いながらも、大輝の声には、迷いよりも覚悟の方が滲んでいた。「でも、今回だけは、なんとなくわかる。お前の言う通りにした方がいい気がするんだよ。理屈じゃなくてさ」

それから、小さく息を吐いて、立てていた計画を諦めたようにスマホをしまった。

「……わかった。お前の勘に賭ける。俺の計画より、お前の直感の方が、今は信用できる気がする」

その一言に、胸の奥が、少しだけ熱くなった。信用されている。理由もなく、それだけで動いてくれる相手がいる。それがどれほど得難いことか、この状況になって初めて、はっきりとわかった気がした。

夕暮れの路地を、二人で進んだ。近づくにつれ、周囲の音が、少しずつ薄くなっていく気がした。虫の声も、遠くの車の音も、まるで誰かが少しずつ音量を絞っているかのように、静かになっていく。自分の足音と、大輝の足音だけが、やけにはっきりと路地に響いていた。アスファルトの匂いが薄れ、代わりに湿った土と苔の匂いが濃くなっていく。踏みしめる地面の感触も、いつの間にか、コンクリートから土へと変わっていた。

「なあ、悠真」大輝が、前を向いたまま口を開いた。「もし、この先に澪がいたら、俺たちだけで、本当にどうにかできると思うか」

答えられなかった。わからないからこそ、進むしかない。そう思っていることさえ、言葉にすれば頼りなく崩れてしまいそうで、黙って足を進めるしかなかった。

「正直、俺は怖い」大輝が、少し間を置いてから続けた。「でも、お前が一人で行くよりは、二人で行った方がマシだろ。それに――陽菜に、文化祭の準備、任せっぱなしにはできねぇしな」

冗談めかした口調だったが、声の端が、微かに強張っているのがわかった。大輝なりに、覚悟を決めようとしている。その不器用な優しさに、少しだけ、息がしやすくなった気がした。

陽菜は、学校に残って、澪の記録が本当にすべて消えているのか、もう一度確認すると言っていた。「二人が戻ってくるまでに、何か手がかり見つけとくから」そう言った陽菜の顔は、不安を隠しきれていなかったが、それでも、しっかりと頷いていた。三人がそれぞれの役割で、この異常に立ち向かおうとしている。その事実だけが、今は唯一の支えだった。

歩きながら、ふと、三人でいることの意味を考えた。一人だったら、とっくに心が折れていたかもしれない。大輝の軽口も、陽菜の粘り強さも、今の自分には、まるで杖のように必要だった。誰か一人が欠けても、きっとここまで辿り着けていない。そう思うと、隣を歩く大輝の存在が、これまでよりずっと重く、ありがたく感じられた。

蔦に覆われた小さな石の祠が、夕闇の中に浮かび上がっていた。苔むした石段は崩れかけ、長い間、誰も訪れていないことを物語っている。郷土史に描かれていた「封印の印」が、祠の正面に微かに刻まれているのが見えた。夕日の残光が、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

八 開かれた扉

祠に近づき、刻まれた印に触れた。ひんやりとした石の感触が、指先から腕へと伝わってくる。真夏だというのに、その冷たさは、季節を無視しているように思えた。

「この印……。郷土史には『災いを鎮め、異界への扉を閉ざす』って書いてあった。でも、もし、これが逆に、異界への扉を開くためのものだったら」

大輝は、その言葉にゾッとした顔をした。「まさか、澪は、その扉を開いてしまったのか」

そのとき、祠の奥から、微かな光が漏れていることに二人は気づいた。光は、呼吸をするかのように、ゆっくりと明滅している。

「なんだ、これ」大輝が警戒しながら、祠の隙間から中を覗き込んだ。

祠の中は、想像以上に狭く、線香の燃え残りのような、乾いた匂いが立ち込めていた。奥の壁には、無数の細かい文様が、隙間なく刻み込まれている。目を凝らすほどに、その模様が、ゆっくりと呼吸しているように、微かに揺らいで見えた。

「本当に、入るのか」大輝が、背後から小声で尋ねた。声には、これまでにない緊張が滲んでいた。

「ああ」

振り返らずに答えた。振り返れば、大輝の顔に浮かんでいるであろう不安が、自分の中の迷いを引きずり出してしまう気がした。今はただ、前だけを見ていたかった。

祠の奥、小さな祭壇の上に、見慣れた郷土史が置かれていた。澪がいつも図書館で読んでいた、あの本だ。その本のページが、風もないのにゆっくりと開いていく。開かれたページには、例の「封印の印」が大きく描かれていた。そして、その印の中心から、微かな光が放たれている。

「澪の……本だ」大輝が震える声で言った。

祠の中へ一歩足を踏み入れる。本から放たれる光が、顔を照らした。眩しさはないのに、なぜか目を細めてしまう、そんな不思議な光だった。その隙間から、微かな声が漏れてきた。

『……私、見つけちゃったんです。この世界の、もう一つの扉を』

澪の声だった。途切れ途切れに、遠い場所から、水の中を通して語りかけているかのように聞こえてくる。

『この印は……封印じゃない。むしろ、開くためのものだったんです』

「澪。澪なのか」叫んだ声が、自分でも驚くほど掠れていた。返事はすぐには返ってこなかった。光の向こうで、何かが揺れる気配だけが伝わってくる。息を止めて、次の言葉を待った。心臓の音が、やけに大きく耳の奥で響いていた。

『この世界と、もう一つの世界を繋ぐ。私は、その真実を知ってしまったから』

その声には、恐怖よりも、何かを見つけてしまった者だけが持つ、静かな昂りのようなものが滲んでいた。ずっと図書室の片隅で、一人静かに調べ物を続けていた澪の姿を思い出す。彼女はきっと、誰にも打ち明けないまま、この真実の輪郭を、少しずつ手繰り寄せていたのだ。

声が、また途中で途切れた。祠の壁に刻まれた印が、再び光を放ち始める。その光は、徐々に強くなり、祠全体を包み込んでいく。壁の輪郭が、じわりと滲んで見えた。光は、祠の中央に集束し、空間が歪むかのように、渦を巻き始めた。風もないのに、髪と制服の裾が、その渦に引かれるように揺れる。

「おい、悠真。危ない」大輝が叫ぶ。

『……悠真くん……来て』

再び、澪の声が聞こえた。以前よりもずっと近く、そして、切羽詰まった声だった。その声の震え方に、迷いはいらなかった。

迷うことなく、その光の渦へと足を踏み出す。

「おい、悠真、待て」

大輝の手が、腕を掴もうと伸びてきた。だが、指先が触れる直前、光がふくれ上がり、体をその中に飲み込んでいく。振り返らなかった。振り返れば、きっと足が止まる。そんな気がした。

「悠真――」

大輝の声が、水の中で聞くように遠ざかっていく。伸ばされた手が、空を切る感触だけを、微かに覚えている。光が体を包み、視界のすべてが白く塗りつぶされていった。最後に感じたのは、指先に残っていた祠の石の冷たさと、耳の奥にこびりついた澪の声、それだけだった。

重力が消える感覚があった。上も下もわからないまま、体だけが、光の奔流に押し流されていく。悲鳴を上げようとしたが、声にならなかった。ただ、耳の奥で、何かが軋むような、低い音だけが響き続けていた。その音が、まるで自分を別の場所へ運ぶための合図のように感じられた。

一人、祠の入り口に立ち尽くす大輝の姿を、僕は見ていない。だが、後になって聞いた話では、しばらくの間、声も出せずにいたという。親友二人が、目の前から消えた。信じられない。信じたくない。だが、その消えた事実は、大輝の中に深く刻み込まれていった。

「悠真……澪……」

誰もいない祠の前で、大輝は石壁に拳を叩きつけたという。その拳の痛みだけが、自分がまだこの世界にいることを、確かめる術だったのかもしれない。それからどれくらいの時間、そこに立っていたのか、大輝自身も覚えていないと、ずっと後になって笑いながら話してくれた。ただ、あのときの空の色だけは、いまでもはっきり覚えている、と。

しばらくして、我に返った大輝は、震える手でスマホを取り出し、陽菜に電話をかけたという。呼び出し音が鳴るたびに、何をどう伝えればいいのか、言葉がまとまらなかった。友人が二人、目の前で光に消えた――そんな話を、まともに信じてもらえるはずがない。それでも、伝えないという選択肢は、大輝の中には最初からなかった。

後で大輝から聞いた話では、あのとき最後に聞こえた澪の声は、助けを求める声ではなかったという。誰かを――何かを、止めようとする声だったと、彼は繰り返しそう言っていた。その意味を、僕らが本当に理解するのは、もっと先のことになる。

十年経った今でも、あの日の路地の匂いを、ふとした瞬間に思い出すことがある。湿った土と苔、そして、かすかに焦げたような、あの光の匂い。あのとき僕が渦に足を踏み出さなければ、何か違う結末があったのだろうか。何度考えても、答えは出ない。ただ一つだけ、はっきり言えることがある。あのとき迷わずに踏み出したことを、僕は今も、後悔していない。

大輝が語ったところによれば、あの後、彼はしばらくの間、誰にも本当のことを話せなかったという。友人が二人、目の前で光に消えた――そんな話を、誰が信じてくれるだろう。それでも、陽菜にだけは、その夜のうちにすべてを伝えたそうだ。電話越しに震える声で語る大輝の話を、陽菜は最後まで黙って聞いていたという。そして、電話を切る直前、彼女はただ一言、こう言ったらしい。「探しに行こう。二人とも、絶対に」。その一言が、残された二人を、次の行動へと動かす最初の一歩になった。

三章 了



四章 記憶のない世界


一 落下

重力の感覚が、唐突に戻ってきた。落ちている、とわかったのは、耳の奥で風を切る音がしてからだった。目を開けても、何も見えない。白い光の名残だけが、瞼の裏に焼き付いている。

叫ぼうとしたが、声にならなかった。落下する速度に、内臓ごと持っていかれるような感覚があった。どれくらいの時間、そうしていたのか、自分でもわからない。数秒だったのか、それとも、もっと長かったのか。

不意に、体が何か柔らかいものに受け止められた。衝撃はあったが、痛みはほとんどない。ゆっくりと目を開けると、見慣れない石畳の上に、自分が横たわっているのがわかった。

上体を起こし、周囲を見回す。空は、灰色がかった薄い光に覆われていて、太陽の位置がどこにあるのか、わからなかった。時刻の感覚も曖昧だった。夕方のようでもあり、明け方のようでもある、そんな中途半端な明るさが、あたり一面を包んでいる。

「……ここ、どこだ」

声に出してみても、答えは返ってこない。立ち上がろうとして、足がもつれた。体の感覚が、まだ完全には戻っていないようだった。手のひらを地面につくと、ひんやりとした石の感触が伝わってくる。この感触だけは、確かに現実のものだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった。

耳を澄ませても、車の音も、人の声も、何も聞こえない。あの祠の前で聞こえていた虫の声さえ、ここにはなかった。完全な静寂が、あたりを支配していた。その静けさが、かえって、ここが異常な場所であることを、雄弁に物語っていた。

何かがおかしい。理由は説明できない。ただ、肌の産毛が逆立つような、本能的な警戒感だけが、じわじわと込み上げてくる。これまで、澪の不在や、消えていく記憶の違和感を辿ってきたときと、同じ種類の感覚だった。だが、それが何を意味するのかまでは、相変わらず、見当もつかなかった。

わかるのは、いつも「何かがおかしい」というところまでだ。その先――なぜおかしいのか、どうすればいいのか――は、いつも自分の手の届かない場所にある。もどかしさを噛み殺しながら、ゆっくりと立ち上がった。膝に力を込めると、ようやく体が、自分の意思に従い始めた。

制服のポケットを探ると、スマホが入っていた。画面をつけてみたが、電波の表示はどこにもない。時計のアプリを開くと、数字がすべて「〇」で止まっていた。何度タップしても、動かない。まるで、この場所では、時間そのものが機能を止めているかのようだった。スマホをしまいながら、大輝や陽菜のことを思った。今頃、二人はどうしているだろう。祠の前で、途方に暮れているだろうか。それとも――考えかけて、首を振った。今は、目の前のことだけに集中するしかない。

足元を見ると、革靴の底に、見慣れない灰色の粉が付着していた。触れてみると、さらさらとした感触で、すぐに指の間からこぼれ落ちていく。この場所全体が、こうした細かい粉に覆われているのかもしれない。風が吹くたび、その粉が、薄く舞い上がっては、また静かに落ちていった。

二 異界の街

石畳の道を、当てもなく歩き始めた。両側には、見覚えのない建物が並んでいる。日本の商店街のような佇まいでありながら、看板の文字だけが、どれも読み取れない。ひらがなでもカタカナでもない、見たこともない記号の羅列が、色褪せた木の板に刻まれている。

窓ガラスの奥を覗き込んでも、店の中に人の気配はなかった。商品らしきものが棚に並んでいるのに、埃をかぶった様子もなく、かといって、今しがた誰かが手入れをしたばかりのようにも見えない。時間が止まっているのか、それとも、時間という概念そのものが、この場所には存在しないのか。考えても、答えは出なかった。

ふと、路地の奥に、見覚えのある形の建造物が見えた。時計台だった。ただし、その針は、動いていない。ちょうど、文化祭の準備をしていたあの日に見た、路地裏の光景と、どこか重なる。錯覚だとわかっていても、胸の奥がざわついた。

近づいて、時計台の文字盤を見上げた。長針と短針は、どちらも、十二時の位置でぴたりと止まっている。まるで、この世界の時間そのものが、この時計を基準に、凍りついているかのようだった。文字盤の縁には、あの祠や、路地裏のマンホールにあったのと同じ文様が、小さく刻み込まれている。指先でそっと触れてみたが、特に何も起こらなかった。ただ、石の冷たさだけが、伝わってくる。

時計台の根元に、小さな石碑が立っているのに気づいた。表面は風化していて、文字はほとんど読み取れない。かろうじて判別できたのは、「ここより、還れぬ者、多し」という一文だけだった。その一文を読んだ瞬間、なぜか、足がすくんだ。理由を説明することはできない。ただ、この場所には、これ以上長居してはいけない。そんな直感だけが、はっきりと胸に響いていた。

歩き続けるうちに、道の分岐点に差し掛かった。三方向に道が延びている。どちらに進めばいいのか、判断材料は何もなかった。ただ、右手の道の奥から、かすかに、水の流れるような音が聞こえてくる気がした。根拠のない直感だったが、他に手がかりもない。その音を頼りに、足を進めることにした。

歩くほどに、街の異様さが際立っていった。人の生活の痕跡はあるのに、人の気配だけが、きれいに抜き取られている。まるで、誰かが慌てて立ち去った後の街を、そのまま保存したかのようだった。道端に落ちていた紙屑を拾い上げてみると、文字はやはり読めなかったが、紙の質感だけは、妙に現実的だった。ふと、これが夢ではないかと考えたが、掌に残る紙の手触りが、その考えを否定していた。

一軒の店の前で、足が止まった。ショーウィンドウの奥に、見覚えのある品物が並んでいるのに気づいたからだ。文房具店らしいその店には、澪が図書室でいつも使っていたのと同じ意匠のノートが、棚いっぱいに積まれていた。ガラスに顔を近づけ、目を凝らす。値札らしきものはあるが、そこに書かれた数字も、やはり判読できない記号だった。

扉を押してみると、鍵はかかっていなかった。中に足を踏み入れると、埃っぽい匂いが鼻をついた。棚の間を歩きながら、この店の主人は、どこへ行ったのだろうと考える。人の姿だけが消え、商品や建物だけが、この世界に取り残されている。まるで、街全体が、誰かの記憶の残骸でできているかのようだった。

店の奥、レジカウンターの上に、一冊の古びたノートが置かれていた。手に取ってみると、表紙には、何も書かれていない。開いてみようとした瞬間、背後で、かすかな物音がした。振り返ったが、誰もいない。ただ、さっきまで開いていたはずの扉が、いつの間にか、静かに閉まっていた。

心臓が、いつもより速く脈打っている。急いで扉に駆け寄り、押し開けようとしたが、今度はすんなりと開いた。外に出ると、来た道の先に、変わった様子はない。だが、確かに、扉は自分の意思とは無関係に閉まった。理由を考えても、答えは出なかった。ただ、この店に長居してはいけない、という感覚だけが、はっきりと胸の内に残っていた。

ノートは、結局、持ち出さずに、元の場所へ戻した。何か大切な手がかりかもしれないという未練はあったが、今は、先を急ぐべきだという直感の方が、強く胸の奥で鳴っていた。振り返らずに、店を後にした。

三 澪との再会

水音を頼りに進んだ先、小さな広場に出た。中央に、涸れた噴水がある。その噴水の縁に、誰かが座っているのが見えた。

遠目にもわかった。あの後ろ姿。図書室の窓際で、いつも本を読んでいた、あの背筋の伸ばし方。

「澪」

声を上げた瞬間、その人影が、勢いよく振り返った。澪だった。制服も、髪型も、消える前と何も変わっていない。ただ、その顔には、これまで見たことのない、複雑な表情が浮かんでいた。安堵と、それ以上の何か――戸惑いか、あるいは、罪悪感のようなもの。

「……悠真くん?」

立ち上がった澪は、一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。その足取りは、どこか確かめるようだった。まるで、目の前にいる自分が、本物かどうか、疑っているかのように。

「本当に、来てくれたんだ」

その一言に、込められた感情の重さを、うまく受け止められなかった。駆け寄って、何か言おうとしたが、言葉が出てこない。結局、二人の間には、しばらく沈黙だけが流れた。

「大丈夫か。怪我は」ようやく絞り出した言葉が、それだった。

「うん、平気。……ごめんね、こんなことに巻き込んで」

「謝るなよ。俺が、勝手に来ただけだ」

澪は、小さく首を振った。何か言いたそうな表情を浮かべたが、結局、言葉を呑み込んだようだった。その代わりに、静かに問いかけてきた。

「大輝くんと陽菜さんは?」

「向こうに残ってる。俺一人で、来た」

その答えに、澪の表情が、少しだけ強張った。「……そう。それなら、まだ、間に合うかもしれない」

「間に合う、って」

「ここは……長くいればいるほど、戻れなくなる場所なの。私は、もう」

言いかけて、澪は言葉を切った。その先を、あえて言わなかった。何かを隠している。そう直感したが、問い詰める勇気は、まだ持てなかった。しばらく見つめ合ったまま、どちらも次の言葉を探しているようだった。噴水の縁に落ちる、二人の影だけが、やけに長く伸びていた。

「ここに来てから、どれくらい経つんだ」

「わからない……。時計も、スマホも、役に立たないから。感覚では、三日くらいだと思うけど、自信がない」

三日。その言葉に、胸の奥がひやりとした。たった数時間だと思っていた自分の体感と、あまりにも違う。「こっちと向こうで、時間の流れ方が違うのか」

「たぶん。でも、詳しいことはわからない。私も、手探りで、ここまで来ただけだから」

澪は、両手で膝を抱えるように座り直した。噴水の涸れた底を見つめながら、ぽつりと呟く。「最初は、怖くて、ずっと泣いてた。誰もいないし、帰り方もわからないし。でも、泣いても、何も変わらないってわかって」

「一人で、よく頑張ったな」

澪は、少しの間、口をつぐんでいた。噴水の底に溜まった埃を、指先でなぞりながら、ぽつりと続ける。

「頑張ったわけじゃない。ただ、諦める理由もなかっただけ」

そう言って、澪は小さく笑った。その笑い方に、以前より少しだけ、大人びた翳りが滲んでいるように見えた。あの図書室で見ていた澪と、目の前にいる澪との間に、確かな時間の隔たりを感じた。

「悠真くんは、どうやって、あそこまで辿り着いたの。祠の中に、私、いなかったはずなのに」

「声が聞こえたんだ。お前の声が。それを頼りに、光の中に飛び込んだ」

「私の声……」澪は、自分の胸に手を当てながら、考え込むような表情を浮かべた。「私、あのとき、確かに、悠真くんのことを考えてた。来てほしいって、心の中で、ずっと願ってた。でも、実際に声に出した覚えは、ない」

「思ってるだけで、届くもんなのか、そんなの」

「わからない。でも、この世界のことは、まだ、わからないことだらけだから」

澪は、少し困ったように笑った。その表情に、無理をしている気配が滲んでいるのを感じたが、あえて追及はしなかった。今は、お互いに、わからないことを、わからないまま、少しずつ積み重ねていくしかない。そう思うしかなかった。

「私、そんなに、はっきり呼んだ覚え、ないんだけど」澪は、不思議そうに首を傾げた。「もしかしたら、私の意思とは関係なく、ここが、悠真くんを呼び寄せたのかもしれない」

「この場所が、俺を?」

「うん。前に、老婆の一人が言ってた。この世界は、時々、特定の誰かを、強く引き寄せることがあるって。理由はわからないけど」

その話に、背筋がひやりとした。自分の意思で来たと思っていたが、もしかしたら、最初から、ここに引き寄せられる運命にあったのかもしれない。理由も証拠もない。それでも、そう考えると、妙にしっくりくる感覚があった。胸の奥に、何かが、ずっと前から自分を待っていたかのような、そんな落ち着かない予感だけが、拭いきれずに残っていた。

四 先に来た人々

澪に連れられて、広場の脇にある建物の中へ入った。薄暗い室内には、数人の人影があった。年齢も、服装もばらばらだった。作業着姿の中年男性、着物を纏った老婆、学生服らしきものを着た少年。誰もが、一様に、生気の薄い表情でこちらを見ていた。

「悠真くん、この人たちは、私より先にここへ来た人たち」澪が小声で説明する。「みんな、それぞれ違う時代から、迷い込んできたみたい」

老婆の一人が、ゆっくりと口を開いた。「……新しい子かい。可哀想に。若いのに」

「あの……ここから、出る方法はないんですか」

問いかけに、老婆は力なく笑った。「出る方法があるなら、あたしらが、とっくに出ておるよ。長くいればいるほど、こっちの記憶も、向こうの記憶も、少しずつ薄れていく。あんたも、いずれわかるさ」

その言葉に、鳥肌が立った。作業着の男が、ぼそりと付け加える。「俺は……もう、自分の名前も、うろ覚えなんだ。確か、タカ……いや、タツ、だったか」

自分の名前すら定かでない。その事実の重さが、じわじわと実感として迫ってきた。この場所に長くいた者たちは皆、少しずつ、自分自身を失いつつある。澪も、いずれ、同じ道を辿るのだろうか。その想像だけで、胸が締め付けられた。

「悠真くん」澪が、腕にそっと触れた。「怖がらせるつもりじゃないの。ただ、時間が、あまりないってことを、知っておいてほしくて」

そのとき、ふと、大輝の顔を思い浮かべようとした。だが、いつも軽口を叩くときの、あの表情の細部が、なぜか、うまく像を結ばなかった。眉の形だったか、口角の上がり方だったか。輪郭だけがぼやけて、肝心なところが思い出せない。焦って記憶を辿ろうとするほど、余計に遠ざかっていく感覚があった。

「……噓だろ」

思わず声が漏れた。澪が、心配そうにこちらを見る。「どうしたの?」

「いや……なんでもない」

なんでもない、とは言えなかった。ほんの数時間前まで、隣にいた親友の顔が、もう、はっきりと思い出せない。その事実を、澪には言えなかった。言えば、彼女がどれほど不安になるか、想像がついたからだ。それでも、胸の内側では、冷たい焦りが、静かに広がり続けていた。この場所は、本当に、少しずつ、人から大切なものを奪っていくのだ。理屈ではなく、体感として、それを思い知った瞬間だった。

老婆は、こちらの様子を、じっと窺うように見つめていた。「あんた、さっきから、何かに気を取られてるね」

図星を指され、言葉に詰まった。大輝の顔が思い出せなくなったことを、言うべきかどうか迷う。結局、正直に打ち明けることにした。

「……親友の顔が、思い出せなくなってきてるんです。ほんの数時間前まで、一緒にいたのに」

老婆は、驚いた様子もなく、静かに頷いた。「そうかい。それは、良い兆候じゃないね。普通は、もっとゆっくり薄れていくもんだけど、あんたは、ずいぶん早い」

「早いって、なんでですか」

「知らないよ、そんなこと。ただ、あんたみたいに、自分の意思で、はっきりした目的を持ってここに来た者は、この場所にとって、都合が悪いのかもしれないね。だから、急いで、忘れさせようとしてるのかも」

その言葉の意味を、うまく飲み込めなかった。「この場所」が、意思を持っているかのような口ぶりだった。まるで、誰かが、この世界そのものを管理しているかのような。

「ここを、誰かが管理してる、ってことですか」

老婆は、少し困ったような顔をした。「あたしにも、そこまではわからないよ。ただ、時々、頭の中に直接、声が響くことがあるんだ。誰の声かもわからない、低い声が。『長居するな』ってね。それが、何かの警告なのか、それとも、ただの幻聴なのか、あたしには判断できない」

その話に、鳥肌が立った。澪の方を見ると、彼女もまた、同じ話を聞いたことがあるのか、複雑な表情で俯いていた。

学生服の少年が、初めて口を開いた。「……戻りたいなら、書庫に行くといい。おれも、一度だけ話を聞いたことがある。この街の外れにある、古い建物。そこに行けば、何かわかるかもしれないって」

「書庫……」

「おれは、行く勇気がなかった。でも、あんたなら」

少年の声には、諦めと、微かな期待が入り混じっていた。

「お前は、いつからここに?」尋ねると、少年は、しばらく考え込んでから答えた。

「……わからない。制服の感じからすると、たぶん、結構前だと思う。学ランなんて、今、着てる奴いないだろ」

「今は、こういうブレザーが主流だな」

「やっぱりか」少年は、乾いた笑い声を漏らした。「なあ、向こうの世界って、今、どうなってる? スマホ、って言葉、時々聞くけど、それって……」

質問の一つ一つに、丁寧に答えた。少年は、まるで遠い異国の話を聞くように、目を輝かせながら耳を傾けていた。その姿に、胸が痛んだ。この少年もまた、少しずつ、向こう側の記憶を失いつつあるのだろう。

「悠真くん、そろそろ」澪が、そっと肩に触れた。その言葉を胸に、澪と顔を見合わせた。行くしかない。そう思う自分がいた。

五 書庫への道

老婆から、この街の外れに「書庫」と呼ばれる建物があると聞いた。そこには、この世界の成り立ちについて記された古い記録が残っているという。

「行ってみよう。何か、手がかりがあるかもしれない」

澪は頷いたが、その顔には、迷いのようなものが浮かんでいた。「書庫までの道、少し、荒れてるの。気をつけて」

広場を出て、街の外れへと向かう。建物の密度が、少しずつ薄くなっていく。舗装された道も、途中から、剥き出しの土に変わった。空気が、心なしか重くなっていく気がした。

「この先、何度か、道が分かれてる場所があるの。間違った方に進むと、戻ってこられなくなるって、聞いたことがある」

「澪は、行ったことあるのか」

「一度だけ。途中で、引き返した」

その言葉の裏に、何かがあるのを感じたが、深く聞くのはやめた。今は、前に進むことだけを考えたかった。

しばらく歩くと、道が三叉に分かれる場所に出た。澪が足を止める。「ここ。左は、行き止まりだったはず。右は……よく覚えてない」

「真ん中は?」

「真ん中の道、私、一度も試したことない」

理由のない直感が、また囁いた。真ん中の道の奥から、かすかに、あたたかい光のようなものが漏れている気がする。根拠は何もない。それでも、その光の方角に、進むべき何かがある、そんな確信だけがあった。

「真ん中、行ってみよう」

澪は、少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。「……悠真くんが、そう言うなら」

「不安じゃないのか。俺の勘だけで、決めさせて」

しばらく澪の返事を待った。彼女は、少し考えるように視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げ、まっすぐこちらを見返してきた。

「不安だよ、正直」澪は、少し笑いながら言った。「でも、一人で決められないよりは、マシ。ここに来てから、ずっと、全部、自分一人で決めなきゃいけなかったから」

その一言に、澪がこれまで背負ってきたものの重さが、改めて伝わってきた。誰にも頼れず、誰にも確かめてもらえないまま、一つ一つの判断を、たった一人で下し続けてきた日々。想像するだけで、胸が締め付けられた。

「これからは、一緒に決めよう」

「うん」

短い返事だったが、その声には、これまでよりも、少しだけ張りが戻っているように聞こえた。

歩き出しながら、澪が小さく付け加えた。「悠真くんの勘、当たるといいけど」

歩調を合わせながら、澪が、こちらの顔を覗き込んでくる。その表情には、からかうような色と、本当にすがるような色とが、半分ずつ混じっていた。

「外れたことも、ある」

「知ってる。修学旅行の集合場所でしょ」

思わず笑いそうになった。こんな状況でも、軽口を叩ける余裕が、少しだけ戻ってきた気がした。

歩きながら、澪が、ふと足を止めた。道の脇に、小さな祠のようなものがあった。三章で見た、あの祠とよく似た造りだったが、規模はずっと小さい。表面に刻まれた文様も、どこか簡略化されているように見える。

「これも、同じ印か」

「うん。この世界には、あちこちに、似たようなものがあるの。全部、繋がってるみたい」

「繋がってるって、どういう意味だ」

「詳しくはわからない。ただ、こういう場所を通ると、たまに、向こう側の景色が、一瞬だけ見えることがある」

澪の言葉に、思わず祠に顔を近づけた。文様の奥、暗がりの中に、何かがちらついた気がした。目を凝らすと、それは、見覚えのある教室の風景だった。窓際の席、そこに座る誰かの後ろ姿。だが、瞬きをした瞬間には、もう何も見えなくなっていた。

「今、何か見えた」

「たまに、そういうことがあるの。向こうの世界の、今の景色。でも、長くは見えない」

その一瞬の光景が、頭から離れなかった。あれは、今の教室だったのだろうか。だとしたら、大輝や陽菜は、今も自分たちを探し続けているのかもしれない。そう思うと、足取りが、少しだけ軽くなった。

六 最初の危機

真ん中の道を進むと、地面が、緩やかに下り坂になっていった。周囲の景色が、少しずつ、色を失っていく。灰色だった空が、さらに濃い鼠色に変わり、足元の土も、乾いた灰のような質感に変わっていった。

「なんか、変じゃないか、これ」

「うん……。悠真くん、やっぱり、様子が」

言い終わらないうちに、足元の地面が、突然、崩れ始めた。

「危ない!」

澪の手を掴み、とっさに横へ飛びのいた。地面の崩落は、二人がいた場所を、あっという間に飲み込んでいく。荒い息を整えながら、状況を確認しようとしたが、頭の中が、うまく働かなかった。

「悠真くん、こっち!」

澪が指し示す方向へ、無我夢中で走った。だが、焦りのあまり、足元をよく見ていなかった。窪みに足を取られ、体勢を崩す。

「くそ……!」

倒れ込んだ拍子に、崩落の縁が、すぐそばまで迫っているのに気づいた。頭が真っ白になる。こういうとき、いつもなら働くはずの直感が、まるで機能しなかった。焦りと恐怖が、判断力そのものを鈍らせていた。

「落ち着いて。深呼吸して」

澪の声が、意外なほど冷静だった。「この崩落、法則がある。灰色の部分は崩れるけど、黒っぽい染みのある場所は、まだ大丈夫」

言われるまま、視線を巡らせる。確かに、地面の一部に、黒っぽい染みのような模様が点在している。パニックのあまり、まったく気づいていなかった。

「そこを、飛び移って」

澪の指示に従い、染みの上を選んで足を運ぶ。何度か肝を冷やしながらも、ようやく、崩落の範囲を抜け出すことができた。

肩で息をしながら、澪の方を見た。「……助かった。どうして、わかったんだ、あの模様」

「前に来たとき、同じことがあったから。覚えてた」

自分の直感だけでは、何もできなかった。澪の知識と冷静さがなければ、今頃どうなっていたか、考えたくもなかった。一人で全部わかった気になっていた自分の甘さを、思い知らされた瞬間だった。勘は、何かがおかしいと告げることはできても、どうすればいいかまでは、決して教えてくれない。その事実を、これほど痛感したことはなかった。

膝の震えが収まらないまま、崩落の跡を振り返った。灰色の地面が、大きく抉れている。あと数秒判断が遅れていたら、あの穴の底に落ちていたのは、自分の方だったかもしれない。想像するだけで、背筋が冷たくなった。

「澪、前に来たときって、一人だったのか」

「うん。この道、一人で歩いた」

「怖くなかったのか」

澪は、少し間を置いてから答えた。「怖かったよ、もちろん。でも、怖がってる暇より、覚えることの方が大事だった。じゃないと、次、同じ場所に来たとき、また同じ危険に遭うから」

その言葉には、実感がこもっていた。一人でこの世界を歩き、危険と隣り合わせで、少しずつ、生き延びる術を身につけてきたのだろう。自分がここに来てからまだ数時間しか経っていないのに、澪は、もう何日も、たった一人でこの場所と向き合い続けてきた。その事実の重みが、今更ながら、はっきりと実感として迫ってきた。

七 書庫の扉

崩落地帯を抜けると、やがて、古びた石造りの建物が見えてきた。蔦に覆われた外壁、重厚な両開きの扉。扉には、見覚えのある文様が、大きく刻まれていた。祠にあったのと、同じ印だった。

「これが、書庫」澪が、扉を見上げながら呟いた。

近づいて、扉に触れてみる。ひんやりとした石の感触は、あの祠の扉と、どこか似ていた。だが、扉はびくとも動かない。

体重をかけて押してみても、微動だにしなかった。拳で叩いてみても、鈍い音が響くだけで、内側から何か反応が返ってくる様子もない。周囲を回り込み、建物の裏手にも回ってみたが、他に入り口らしきものは見当たらなかった。蔦に覆われた壁を、指でなぞりながら歩く。ところどころ、蔦の下に、細かい文字のようなものが刻まれているのが見えたが、やはり判読できない。

「開かないの。鍵が、必要みたい」

「鍵って、どこにあるんだよ」

「わからない。私も、ここまでしか来たことないから」

扉の脇に、小さな窪みがあるのに気づいた。円形の、何かを嵌め込むための場所のようだった。大きさは、ちょうど、掌に収まる程度。

「これ、何かを入れる場所じゃないか」

「そうかもしれない。でも、何を」

ポケットの中に手を入れた瞬間、指先が、何か固いものに触れた。祠の中で光に包まれる直前、無意識に握りしめていたのだろうか。円盤状の、滑らかな石だった。いつの間に、これを手にしていたのか、記憶が定かではない。

「……これか?」

取り出した石を見て、澪の顔色が変わった。

八 共鳴石

「それ……」円盤状の石を見つめたまま、澪が息を呑んだ。「共鳴石だ。おばあちゃんの資料に、載ってた」

「共鳴石?」

「この世界と、向こうの世界を繋ぐための、媒介になる石。持ち主の記憶に、共鳴するの」

半信半疑のまま、窪みに石を嵌め込んでみた。触れた瞬間、石が、ほのかな光を放ち始めた。光は、扉の文様に沿って走り、じわじわと、扉全体を包んでいく。

「動いてる……!」

光が収まると、扉の中央に、小さな石板が浮かび上がった。表面には、何かの名前が、刻み込まれている。目を凝らして読んでみると、そこにあったのは――自分の名前だった。「悠真」という二文字が、はっきりと刻まれている。

しかも、よく見ると、その名前は、一つではなかった。同じ「悠真」の文字が、石板の上に、二か所、並んで刻まれている。片方は、まだ新しく、輪郭がくっきりしている。もう片方は、長い年月を経たかのように、輪郭が擦り切れて、かすかに読める程度だった。

「なんで……俺の名前が、二つも」

声が、自分でも驚くほど掠れていた。澪も、言葉を失ったまま、石板を見つめている。

古い方の刻印に、指先で触れてみた。冷たい石の感触の奥に、微かな振動のようなものが伝わってくる。まるで、この石板そのものが、何かを訴えかけているかのようだった。目を閉じると、瞼の裏に、見覚えのない光景が、一瞬だけよぎった。夕暮れの校舎、誰かの背中、聞き覚えのない声。だが、それが何なのか、掴もうとした瞬間には、もう消えていた。

「今、何か、見えたか」澪に尋ねると、彼女も、同じように石板に触れながら、小さく頷いた。指先を離した後も、しばらく、二人とも言葉を発せずにいた。石板から伝わってきた振動の余韻が、まだ、手のひらの奥に残っている気がした。

「うん……。よくわからないけど、誰かの記憶、みたいなもの」

「誰の記憶だよ、これ」

「わからない。でも……悠真くんに、似てる誰かの記憶、な気がする」

その言葉に、うなじのあたりが、ぞわりとした。自分に似ている誰か。まるで、もう一人の自分が、この世界のどこかに存在しているかのような、そんな不気味な想像が頭をよぎる。

もう一度、目を閉じて、古い方の刻印に触れてみた。今度は、もう少し長く、光景が留まった。夕暮れの色をした空の下、誰かが、必死に何かを叫んでいる。声は聞こえない。ただ、その必死さだけが、痛いほど伝わってきた。誰に向かって、何を叫んでいるのか。それすらもわからないまま、光景は、また唐突に途切れた。

「悠真くん、顔色、悪いよ。大丈夫?」

「ああ……大丈夫だ。ただ、なんか、嫌な感じがした」

額に、うっすらと汗が滲んでいるのに気づいた。手のひらで拭うと、指先が、わずかに震えている。澪が、心配そうに顔を覗き込んでくる。その視線から逃げるように、目を伏せた。今見た光景の意味を、自分でもまだ、うまく整理できずにいた。

うまく言葉にできない不安が、胸の奥に沈殿していく。この石板に刻まれた、もう一つの「悠真」という名前。それが誰なのか、まだわからない。ただ、その存在が、これから自分たちの前に、何か重大な形で立ちはだかる予感だけが、拭いきれずに残っていた。

「悠真くん、これって……」

澪が言いかけたところで、扉の奥から、低い音とともに、重厚な軋みが響いた。両開きの扉が、ゆっくりと、内側へと開いていく。暗闇の奥から、冷たい空気が流れ出してきた。

「怖いか?」隣に立つ澪に、そう尋ねた。

「うん、怖い。……でも、悠真くんが一緒だから」

その一言に、少しだけ、覚悟が固まった気がした。

石板から漏れる光は、まだ、微かに脈打つように明滅を続けている。もう一度、二つの「悠真」の文字を見比べてみた。新しい方の刻印は、まるで、たった今、自分がここに来たことを証明するかのように、くっきりとしている。だが、古い方の刻印は、何十年、あるいは、それ以上の時間を経たかのように、深く風化していた。

「これ、写真に撮っておこう」澪が、震える手でスマホを取り出した。電波は入らなくても、カメラだけは使えるらしい。シャッター音が、静かな空間に、やけに大きく響いた。何枚か撮影すると、彼女は、それを大切そうに、胸の前で抱えた。

「悠真くん、大輝くんたちに、これ、見せられるといいね。向こうに、戻れたら」

「戻れたら、じゃない。戻るんだ」

強い口調で言い切った自分の声に、少し驚いた。だが、それが今、自分にできる、唯一の意思表示だった。澪は、少しだけ目を見開いた後、静かに頷いた。「うん。戻ろう」

扉の先に、何が待っているのか。見当もつかない。古びた石板に刻まれた、二つの「悠真」の文字の意味も、まだわからない。ただ、一つだけ、確かなことがある。この名前の意味を知るまで、僕はもう、後戻りできない。そんな予感だけが、はっきりと胸に刻まれていた。

扉の奥から吹き込む風が、澪の髪を揺らす。その冷たさに、二人は同時に、一歩を踏み出す。

扉の内側は、想像していたよりもずっと広い空間だった。天井は高く、闇に溶けて見えない。壁一面に、無数の棚が並んでいるのが、薄明かりの中に、ぼんやりと浮かび上がっていた。棚には、古びた巻物や、綴じられた紙束が、隙間なく詰め込まれている。

「これが、書庫……」澪が、呆然とした声で呟いた。

見上げると、棚は、はるか頭上まで積み重なっていて、どこまで続いているのか、見当もつかなかった。梯子のようなものが、ところどころに立てかけられているが、その先端も、闇に溶けて見えない。この空間全体が、この世界の記憶そのものを、丸ごと閉じ込めているかのような、そんな感覚があった。

一歩足を踏み入れると、床に積もった埃が、微かに舞い上がった。空気は乾いていて、紙とインクの匂いが、鼻の奥に染みついてくる。どこまで続いているのか見当もつかない棚の列を前に、圧倒されて、しばらく言葉が出なかった。

「この中に、俺たちが知りたいこと、全部あるのか」

「わからない。でも……探してみる価値は、あると思う」

澪の声には、これまでにない緊張と、微かな希望が入り混じっていた。二人は、顔を見合わせ、頷き合う。棚の奥、暗闇の向こうから、何かが、こちらを見ているような、そんな気配を感じたが、振り返らずに、足を踏み出した。

一歩ごとに、足音が、思いのほか大きく響いた。静寂の中で、その音だけが、やけに生々しく感じられる。澪が、隣で、そっと手を差し出してきた。迷わず、その手を握った。指先の冷たさが、じんわりと伝わってくる。この先に何が待っているのか。答えは、まだ、闇の中だった。それでも、隣に誰かがいるという事実だけが、今は、何よりの支えだった。

四章 了



五章 残された人々


一 記憶の断片

書庫の奥、澪が見つけた小さな石の祭壇に、共鳴石を据え直した。四章の終わりに見た、あの必死に叫ぶ誰かの光景の続きが、まだ気になっていた。

「もう一度、試してみるか」

「うん。今度は、二人で一緒に触れてみよう」

澪と並んで、石に両手を重ねた。触れた瞬間、視界が、ゆっくりと切り替わっていく。今度は、はっきりとした光景だった。見知らぬ男が、路地の壁に、何かの印を刻みつけている。真剣な表情で、何度も、同じ文様を刻んでは、確かめるように指でなぞっていた。

光景は、次々と移り変わっていく。着物姿の女性が、神社の柱に、同じ印を彫り込んでいる。学生服の少年が、教室の机の裏に、小さくその印を刻んでいる。時代も服装もばらばらなのに、誰もが、同じ文様を、この世界のどこかに残そうとしていた。

「みんな、印を残してる。帰るための、目印みたいに」澪が、呟くように言った。

「でも……」

石から手を離し、額の汗を拭った。次々と流れ込んでくる光景の重さに、思った以上に体力を消耗していたらしい。澪も、同じように、息を整えながら、石を見つめている。

「悠真くん、平気?」

「ああ、平気だ。ただ、一気に色々見えすぎて、頭が追いつかない」

「私も。でも、止められない気がする。ここに、何か、大事なことがあるって、わかるから」

その言葉に、頷いた。断片的な光景の一つ一つは、まだ意味を成さない。それでも、この石には、この世界の成り立ちに関わる、決定的な何かが眠っている。そんな確信だけが、確かに芽生え始めていた。

見えた光景の中に、一つだけ、共通する要素があった。誰ひとりとして、印を刻み終えた後の姿が、映っていない。まるで、印を残すところまでで、物語が途切れているかのようだった。

「澪、これ、帰れた記録、あるのか」

澪は、しばらく黙り込んでから、首を振った。「ない。今のところ、見た中に、一つも」

「じゃあ、印を残した奴らは、みんな、どうなったんだよ」

「わからない。でも……」澪は、言葉を選ぶように、慎重に続けた。「もしかしたら、印を残すこと自体が、目的じゃなかったのかもしれない。帰るための目印じゃなくて、他の誰かへの、伝言だったとしたら」

「伝言……誰への?」

「わからない。次に来る誰かへ、かもしれないし、自分自身の、未来の記憶へ、かもしれない」

澪の推測は、あまりにも漠然としていたが、それでも、どこか腑に落ちる感覚があった。この世界に残された印の数々は、単なる脱出の試みの跡ではなく、何かを、後に伝えようとする意志の集積なのかもしれない。だとすれば、自分たちが今探しているのも、脱出の方法そのものより先に、その伝言の意味なのかもしれなかった。

その事実の重さが、じわりと胸に染み込んでくる。これだけ多くの人間が、同じように印を残してきたのに、誰ひとり、帰還を果たした証が見当たらない。何かが、決定的に欠けている。その欠落こそが、この世界の核心に近い何かなのだと、根拠もなく確信していた。

もう一度、石に手を重ねてみた。今度は、また別の光景が流れ込んでくる。真夜中の教室らしき場所で、誰かが、必死にノートに何かを書きつけている。手元は影になっていて、書かれている内容までは読み取れない。ただ、その筆致の焦りだけが、痛いほど伝わってきた。

「悠真くん、今の、見えた?」

「ああ。誰かが、何かを、必死に書き残そうとしてた」

「私にも、同じの見えた」澪は、眉を寄せながら言った。「もしかしたら、この石は、見る人によって、少しずつ違う光景を見せてるのかもしれない」

「同じ光景なのに、違う意味を読み取ってる、ってことか」

「うん。だから、余計に、正解がわからない」

石から手を離すと、指先に、まだ微かな痺れが残っていた。これまで断片的に見てきた光景を、頭の中で繋ぎ合わせようとしたが、どうしても、一本の筋が通らなかった。まるで、意図的に、大事な部分だけが、隠されているかのようだった。

二 澪の祖母との関係

石から手を離すと、澪は、ポケットから小さく折りたたまれた紙片を取り出した。「これ、実は、ずっと持ってたの。おばあちゃんの古いアルバムから、こっそり持ち出した写真」

セピア色に褪せた写真には、若い頃の澪の祖母らしき女性が写っていた。背景に、見覚えのある路地の風景が広がっている。目を凝らすと、壁の一部に、あの文様が、うっすらと刻まれているのがわかった。

「おばあちゃん、若い頃に、この印を見たことがあるかもしれない」

「それ、いつから知ってたんだ」

「……ずっと前から。でも、確信が持てなくて、言えなかった」

澪の声に、微かな緊張が滲んでいた。「もしかしたら、うちの家族、何か知ってて、隠してたのかもしれない。おばあちゃんの遺品の中に、この写真だけ、どうしても捨てられなかったから、持ってきたけど」

写真を裏返すと、鉛筆書きの小さな文字で、日付らしきものと、「あの日、あの子と」という短い一文が記されていた。誰のことを指しているのか、それだけでは判断がつかない。それでも、祖母が、何十年も前から、この場所と関わる何かを、密かに抱え続けていたのは確かなようだった。

「なんで、一人で抱えてたんだよ、そんなこと」

思わず、強い口調になった。澪は、驚いたように目を見開いた後、視線を伏せた。「……巻き込みたくなかったから。私の家族の問題かもしれないのに、悠真くんたちまで、危険な目に遭わせたくなかった」

「もう、巻き込まれてるんだよ、とっくに」

言葉が、思ったより尖って出てしまった。澪の表情が、傷ついたように曇る。しばらく、気まずい沈黙が、二人の間に流れた。

「……ごめん」先に口を開いたのは、自分の方だった。「怒ってるわけじゃない。ただ、一人で抱え込むなって、言いたかっただけだ」

澪は、小さく頷いた。「うん……。ごめんね、私も」

完全に晴れたわけではない空気のまま、二人は、写真をしまい、再び歩き出した。それでも、澪が、これまで一人で背負ってきたものの一端を、ようやく分け合えた気がした。

歩きながら、澪が、ぽつりと付け加えた。「おばあちゃん、最後の方、よくうわ言みたいに、『あの子を、迎えに行かなきゃ』って言ってたの。当時は、認知症の症状だと思ってた。でも、今思うと」

「今なら、違う意味に聞こえる、ってことか」

「うん。あの子って、誰のことだったんだろう。おばあちゃんの、知り合いだったのか、それとも」

澪は、そこで言葉を切った。想像したくない可能性が、頭をよぎったのかもしれない。その先を、あえて聞かなかった。今はまだ、憶測を重ねるよりも、確かな手がかりを探す方が先だと、二人とも、なんとなく理解していた。

それでも、澪の祖母の記憶が、この世界と、確かに繋がっている。その事実だけは、もう、疑いようがなかった。

歩調を合わせながら、ふと、澪の横顔を見た。写真を見せてくれたときの緊張した表情が、まだ、そこに残っている。この数日――いや、澪の体感ではもっと長い時間、彼女は、家族の秘密かもしれない重荷を、たった一人で抱え続けてきたのだ。

「なあ、澪」

「なに?」

「これから何がわかっても、お前だけの問題にはしない。俺たち四人の問題だ」

澪は、驚いたように、こちらを見た。それから、目を伏せ、小さく笑った。「……うん。ありがとう」

短いやり取りだったが、二人の間にあった、わずかなわだかまりが、少しずつ溶けていくのを感じた。並んで歩く足音だけが、静かな通路に、規則正しく響いていた。

三 記憶を食べる影

書庫の奥へ進むほど、棚の間隔が狭くなり、光も届かなくなっていった。足元に注意しながら進んでいると、ふと、空気の質が変わったのに気づいた。冷たさというより、何か、感覚そのものが薄れていくような、奇妙な違和感だった。

「澪、なんか、変じゃないか」

振り返ろうとした瞬間、視界の端に、黒い影のようなものが、棚の隙間からするりと滑り出てきた。輪郭が定まらず、煙のように、ゆらゆらと形を変えながら、こちらに近づいてくる。

「逃げて!」

澪の声で、我に返った。だが、足が、思うように動かない。影が触れた瞬間、頭の中に、霧がかかったような感覚が広がった。冷気とも違う、何か、頭の内側から直接冷やされていくような、これまで経験したことのない感覚だった。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。

――今、隣にいるのは、誰だったか。

一瞬、そんな考えが、頭をよぎった。名前が、出てこない。顔は見えているのに、それが誰なのか、繋がらない。

「悠真くん! 悠真くん、しっかりして!」

繰り返し呼ばれる声が、少しずつ、霧の向こうから届いてくる。その声の響きだけを頼りに、必死に、記憶の輪郭を辿った。図書室の窓際、本を読む横顔、駅での問いかけ。断片が、一つ、また一つと繋がっていく。

「……澪」

声に出した瞬間、頭の中の霧が、嘘のように晴れた。目の前の影が、びくりと震え、壁の文様の中へ、吸い込まれるように消えていった。

膝から力が抜け、その場に座り込んだ。澪が、駆け寄って肩を支えてくれる。

「大丈夫? 私のこと、わかる?」

「ああ……。今、一瞬、お前の名前が、出てこなかった」

正直に打ち明けると、澪の顔が、青ざめた。「そんな……。ここに来て、まだ、そんなに経ってないのに」

「多分、あの影のせいだ。触れられると、記憶が、引っ張られる」

澪の顔から、血の気が引いていくのがわかった。「じゃあ、私が、悠真くんのこと、忘れちゃう可能性も」

「かもしれない。でも、今のところ、お前は、大丈夫そうだ」

「そんなの、わからないよ。次に、あの影に触れられたら、私の方が、悠真くんのこと、忘れちゃうかもしれない」

澪の声に、抑えきれない不安が滲んでいた。膝を抱えるようにして座り込む澪の肩に、そっと手を置いた。

「その時は、俺が、何度でも名乗る。さっき、お前が俺にしてくれたみたいに」

澪は、驚いたように顔を上げた。それから、泣き笑いのような表情を浮かべ、小さく頷いた。「……うん。約束」

短いやり取りだったが、その言葉が、二人の間にあった緊張を、わずかに和らげてくれた気がした。

しばらくの沈黙の後、澪が、ふと、思い出したように言った。「そういえば、大輝くんや陽菜さんは、今頃、どうしてるかな」

「心配してるだろうな、絶対に」

「早く、無事なところ、見せてあげたい」

その言葉に、素直に頷いた。四人揃って、いつもの調子で軽口を叩き合う日常が、今は、何よりも尊いもののように感じられた。この書庫の奥で得た手がかりを、少しでも早く、二人と分かち合いたい。そんな思いを胸に、再び、歩みを進めた。

自分の記憶だけでは、あの影から戻ってこられなかった。澪の声が、繰り返し名前を呼んでくれたから、戻れた。一人では、どうにもならないことが、この世界には、あまりにも多すぎた。

しばらく座り込んだまま、荒い息を整えた。心臓が、まだ激しく脈打っている。澪は、隣にしゃがみ込み、背中をさすってくれていた。その手のひらの温もりだけが、今、自分が確かにここに存在しているという、唯一の証のように感じられた。

「あの影、何だったんだろうな」

「わからない。でも……前に、老婆が言ってた『長居するな』っていう声のことと、関係あるのかもしれない」

「この場所そのものが、俺たちを、忘れさせようとしてる、ってことか」

澪は、小さく頷いた。「そうだとしたら、急がないと。悠真くんも、私も、少しずつ、何かを失い始めてる」

立ち上がろうとして、足に、まだ力が入らないことに気づいた。澪が、そっと肩を貸してくれる。二人で支え合うようにして、再び、書庫の奥へと歩き出した。あの影が、どこかに潜んでいるかもしれない。そう思うと、一歩ごとに、神経を研ぎ澄まさずにはいられなかった。

四 元の世界の大輝

悠真たちが書庫の奥で影と対峙していた頃、元の世界では、大輝が、祠の前から動けずにいた。後で聞いた話では、大輝はあの夜、日が暮れきるまで、祠の入り口に座り込んでいたという。

翌朝、大輝は、真っ先に陽菜に連絡を取った。二人は、あの写真に写っていた時計台の輪郭を手がかりに、街中を歩き回ったそうだ。「悠真の落書きに似た印、絶対どこかにあるはずだ」大輝はそう言って、スマホのメモに、思いつく限りの手がかりを書き出していった。

商店街の外れ、古い橋の欄干、廃業した銭湯の壁。似たような文様を、大輝と陽菜は、一つ、また一つと見つけていった。陽菜は、それぞれの場所を、地図アプリに丁寧に記録していったという。「こうやって並べたら、何か見えてくるかもしれない」その言葉通り、印を落とした地点を繋いでいくと、ある一点に向かって、線が集まっていくのがわかった。

行き着いた先は、あの、街の中心に立つ時計台だった。大輝は、地図を見つめながら、しばらく言葉を失っていたという。「全部、ここに集まってる。悠真たちが消えたのと、この印と、絶対に関係ある」

その発見に至るまで、大輝と陽菜は、二日間、ほとんど寝る間も惜しんで歩き回っていたそうだ。学校にも、最低限しか顔を出さなかった。担任には、家庭の事情だと嘘をついて、早退を繰り返していたという。「怒られても、別にいい。悠真たちの方が大事だ」大輝は、そう言って、迷いなく行動していたと、陽菜は振り返っていた。

夜になると、二人は、それぞれの家で、見つけた印の写真を見返しながら、共通点を探していたという。陽菜は、几帳面な性格を活かして、印が見つかった場所、時刻、周囲の状況を、細かくノートにまとめていた。その地道な積み重ねが、時計台という一つの答えに、二人を導いたのだった。

その確信だけを頼りに、二人は、時計台へと足を向け始めていた。

道すがら、大輝は、何度もスマホを確認していたという。悠真からの連絡は、もちろん来ない。それでも、画面を開くたびに、わずかな期待をどうしても捨てきれなかったのだと、後になって苦笑いしながら話してくれた。

「悠真の奴、絶対、無茶なことしてるよな」

「大輝くんも、人のこと言えないと思うけど」

「うるせぇ。俺は、無茶じゃなくて、行動力があるだけだ」

軽口を叩き合いながらも、二人の足取りは、次第に速くなっていったという。日が傾くにつれ、街の喧騒が遠のいていく。商店街の明かりが、一つ、また一つと灯り始める中、二人だけが、その温かさから切り離されたように、時計台への道を急いでいた。

五 陽菜の違和感

時計台へ向かう道すがら、陽菜は、ふと、妙な胸騒ぎに襲われたという。理由もなく、図書室の窓際の席が、頭に浮かんだ。誰かが、いつもそこに座っていた。そんな感覚だけが、はっきりとある。だが、その誰かの名前が、どうしても出てこなかった。

「大輝くん、私……なんか、変なの」

「どうした」

「図書室の、窓際の席。誰か、いたはずなんだけど、名前が、思い出せない」

大輝の足が、ぴたりと止まったという。「……お前もか。俺も、実は、さっきから、時々、そんな感覚がある」

二人は、しばらく黙り込んだまま、顔を見合わせていた。何かが、少しずつ、自分たちの中からも失われていっている。その事実に、初めて、はっきりと気づいた瞬間だった。

「忘れちゃう前に、探したい」陽菜が、震える声で、それでもはっきりと言った。「誰だったか、思い出せないままでも、その人を、探しに行きたい」

陽菜は、拳を、胸の前で、ぎゅっと握りしめていたという。震える指先を隠すように、もう一方の手で、その拳を包み込んでいた。

大輝は、陽菜の言葉に、しばらく黙り込んでいたという。それから、静かに言った。「お前、強いな」

「強くなんかないよ。ただ、忘れたまま、何もしないでいる方が、もっと怖いだけ」

「それを強いって言うんだよ」

大輝の言葉に、陽菜は、少し照れたように笑った。「大輝くんだって、ずっと、諦めずに探してくれてるじゃない」

「俺は、単純に、頭に血が上ってるだけだ。お前みたいに、ちゃんと考えて動いてるわけじゃない」

謙遜し合う二人のやり取りに、それぞれの不安が、少しずつ薄れていくようだった。それでも、名前のない喪失感だけは、消えずに、ずっと胸の奥に残り続けていたという。

大輝は、しばらく陽菜の顔を見つめていたが、やがて、力強く頷いた。「行こう。時計台に、何かある」

歩き出す前に、陽菜は、もう一度、スマホの写真を見つめ直した。「ねえ、大輝くん。もし、私が、大輝くんのことも忘れちゃったら、どうしよう」

その問いに、大輝は、一瞬、言葉に詰まったという。だが、すぐに、いつもの調子を取り戻して答えた。「その時は、何度でも、自己紹介してやるよ。『俺は堂本大輝。お前の友達だ』ってな」

「なにそれ」陽菜は、少し笑いながら、目元を拭った。「でも、ありがとう。そう言ってくれると、少し、安心する」

「安心してる場合か。急ぐぞ」

軽口の裏に隠された優しさに、陽菜は、小さく頷いた。二人は、日が完全に沈みきる前に、時計台へ辿り着こうと、足を速めた。

焦りと、名前のない喪失感を抱えたまま、二人は、再び歩き出した。

歩きながら、陽菜は、スマホの写真フォルダを開いてみたという。去年の文化祭の準備風景、教室での何気ない一枚。写っているはずの誰かの姿が、記憶の中では、もう、輪郭さえ曖昧になっていた。それでも、写真そのものは、まだ、しっかりと残っている。

「写真は消えてないのに、私の記憶の方が、先に消えていく」陽菜が、そう呟いた。「これって、おかしいよね。普通、逆でしょ」

「逆でも何でも、今は、前に進むしかねぇよ」

大輝の言葉に、陽菜は、小さく頷いた。「うん、そうだね」

歩きながら、陽菜は、もう一度、図書室の窓際の席を思い浮かべようとした。誰かが、そこにいた。本を読む横顔、時折こちらを見る、少し驚いたような表情。輪郭は、まだ、かろうじて残っている。だが、それも、時間の問題かもしれない。

「大輝くん、急ごう。私、本当に、時間がない気がする」

「わかってる。走るぞ」

二人は、通行人の視線も気にせず、街の中を駆け抜けていった。息が上がるのも構わず、ただ、時計台という目的地だけを見据えて。

二人は、写真に写る見知らぬ横顔を、目に焼き付けるように見つめてから、スマホをしまった。忘れてしまう前に、この目で確かめたい。その一心だけが、二人を、時計台へと突き動かしていた。

六 書庫の記録

影を退けた後、悠真と澪は、書庫のさらに奥、ひときわ大きな石版が置かれた一角に辿り着いた。石版には、びっしりと文字が刻まれている。澪が、慎重に、その文字を読み解いていった。

「帰還には……『歪みの中心』と、『代償』が必要、って書いてある」

「代償って、何をだよ」

澪は、その先の文字を、指でなぞった。だが、その部分だけ、石の表面が深く傷つけられていて、文字がほとんど判読できなくなっていた。

「読めない……。誰かが、わざと削ったみたいに」

欠けた文字の輪郭を、じっと見つめた。不揃いに削られたその形が、なぜか、見覚えのある形に思えた。目を凝らすうちに、それが、子供の頃、意味もなく繰り返し描いていた、あの丸っこい落書きの輪郭と、どこか重なることに気づいた。

「これ……俺の落書きに、似てる気がする」

「本当に?」

「ああ。理由はわからない。でも、確信がある」

澪は、驚いた様子で、削られた部分と、こちらの顔とを、交互に見比べていた。「悠真くんの落書きと、この世界の文様が、繋がってる……。もし、それが偶然じゃないとしたら」

その先の言葉を、澪は、あえて口にしなかった。ただ、二人の間に、これまでとは違う種類の緊張感が、静かに広がっていった。代償の正体は、まだわからない。それでも、その答えに、自分自身が、何らかの形で関わっている。そんな予感だけが、拭いがたく残っていた。

石版の縁に手を置き、もう一度、削られた部分をなぞってみた。指先に伝わる感触が、頭の中の記憶と、少しずつ重なっていく。あの落書きを描いていたのは、いつ頃だっただろう。小学校の低学年、授業中、教科書の隅にこっそり描いていた記憶がある。理由もなく、繰り返し描いていた、あの丸みを帯びた奇妙な形。今思えば、あれは、単なる子供の悪戯描きではなかったのかもしれない。

「悠真くん、大丈夫? なんか、怖い顔してる」

「……いや。昔のこと、思い出してた。なんで、あんな落書き、繰り返し描いてたんだろうって」

「描いてる理由、覚えてないの?」

「覚えてない。ただ、描かないと、なんか、落ち着かなかった気がする」

澪は、しばらく考え込むような表情を浮かべた後、静かに言った。「もしかしたら、悠真くんは、ずっと前から、この世界と、何か繋がってたのかもしれない」

その言葉が、これまで感じてきた違和感の輪郭を、はっきりと縁取っていくようだった。祠で感じた既視感、マンホールの文様との奇妙な符合、そして、この落書きの一致。偶然が重なりすぎている。むしろ、最初から、何か必然の糸で結ばれていたと考える方が、まだ自然に思えた。

石版の前から離れがたく、しばらく、その場に立ち尽くした。この世界に来てから感じてきた、説明のつかない直感の数々。あれは、単なる勘の良さではなく、この場所そのものと、自分との間に、何か根深い繋がりがあったからなのかもしれない。そう考えると、これまでの出来事すべてが、違う意味を帯びて見え始めた。

「もし、そうだとしたら、俺は、なんでそんなことになってるんだ」

「わからない。でも……悠真くんのお父さんとか、おじいさんとか、誰かが、昔、この場所と関わりがあったのかもしれない」

「聞いたことないな、そんな話」

「私も、おばあちゃんの話、今回初めて知ったから。家族の記憶って、案外、簡単に埋もれちゃうものなのかも」

澪の言葉に、妙な説得力があった。自分の知らないところで、家族の誰かが、この世界と、何らかの形で接点を持っていたのかもしれない。その可能性を考えると、これまでの不可解な直感の数々にも、少しずつ、筋道が見えてくる気がした。

家に帰ったら、父や祖父に、それとなく聞いてみようと思った。もっとも、無事に帰れたら、の話だが。そう考えると、また、胸の奥がざわついた。今は、目の前のことに集中するしかない。余計な想像は、判断を鈍らせるだけだと、自分に言い聞かせた。

七 大輝と陽菜の時計台

大輝と陽菜が時計台に辿り着いたのは、日が傾き始めた頃だったという。土台の石組みを、二人で手分けして調べていくと、蔦に隠れるようにして、あの文様が、小さく刻まれているのを見つけた。

「これだ」大輝が、震える声で言った。

指先で触れた瞬間、時計台の針が、かちり、と音を立てて、逆向きに動いた。一度、二度、三度。針が回るたびに、周囲の景色が、じわじわと色を失っていくのがわかったという。

通りかかった人が、二人の姿を、まるで見えていないかのように、素通りしていった。「大輝くん、私たち……見えてない?」陽菜の声に、大輝は、とっさに陽菜の手を握った。

「離すなよ、絶対に」

陽菜は、強く頷いた。二人の手のひらが、汗ばみながらも、しっかりと絡み合っていた。時計台の針が、さらに二回、三回と逆回転を続け、そのたびに、周囲の音が、少しずつ遠のいていったという。まるで、この世界から、静かに切り離されていくような感覚だったと、後に陽菜が語っていた。

その言葉を最後に、足元の地面が、光に包まれた。悲鳴を上げる間もなく、二人の体は、渦を巻く光の中へ、引きずり込まれていったという。

落下の感覚の中で、大輝は、陽菜の手を、痛いほど強く握りしめていたそうだ。「絶対に離すか」そう自分に言い聞かせながら、光の奔流に身を任せるしかなかったと、後になって語っていた。陽菜の方も、恐怖のあまり声も出せなかったが、握り返す力だけは、最後まで緩めなかったという。

どれくらいの時間、そうしていたのか、二人とも、正確には覚えていない。ただ、気づいたときには、見慣れない石畳の上に、折り重なるようにして倒れていたそうだ。周囲を見回した瞬間、大輝の頭に浮かんだのは、恐怖よりも、むしろ、確信に近い感覚だったという。「ここに来れば、悠真たちに会える」その予感だけを頼りに、二人は、よろめきながら立ち上がった。

手を離さなかったことだけが、後になって、大輝が何度も口にする、唯一の誇りだった。

見慣れない石畳の街並みを見回しながら、陽菜は、震える声で呟いたという。「ここが……悠真くんたちのいる場所?」

「わかんねぇけど、それしか考えられねぇだろ」

大輝は、周囲を警戒しながら、陽菜の手を引いて歩き始めた。人の気配のない街並みは、想像していた以上に不気味だったという。「悠真、いたら、返事しろ!」大輝が、声を張り上げても、返ってくるのは、こだまだけだった。

それでも、二人は、諦めずに歩き続けた。手がかりになりそうなものを、片っ端から確認しながら、少しずつ、街の奥へと進んでいったという。時折、陽菜が、路地の奥に人影のようなものを見た気がして、大輝を呼び止めることもあったというが、近づいてみると、いつも、何もなかった。「気のせいかな」陽菜が不安げに呟くたび、大輝は、「大丈夫だ、俺がついてる」と、努めて明るく答えていたそうだ。

水音を頼りに進んだ悠真たちと同じように、大輝たちも、この街のどこかに、澪と悠真がいるはずだという、根拠のない確信だけを頼りに、当てもなく歩き続けていた。

八 四人の再会

書庫の入り口の方から、聞き覚えのある声が響いてきたのは、代償について考え込んでいた、まさにそのときだった。

「悠真ーーーっ!」

聞き間違えるはずのない声だった。振り返ると、書庫の入り口に、大輝と陽菜が、呆然と立ち尽くしているのが見えた。

「大輝! 陽菜!」

駆け寄る間もなく、大輝が、勢いよく抱きついてきた。「馬鹿野郎! お前が、いきなり消えるから!」怒鳴るような声の奥に、隠しきれない安堵が滲んでいた。

「悪かった……。心配、かけたな」

大輝の腕の力が、想像以上に強かった。息苦しさすら感じるほどのその力強さに、大輝が、本気で心配してくれていたことが、言葉よりも雄弁に伝わってきた。

素直に謝る言葉が、うまく出てこなかった。もごもごとした返事しかできない自分に、大輝は、呆れたように笑った。「まあ、無事ならいい」

大輝の腕を、そっと解いた。改めて顔を見ると、疲労の色が、はっきりと滲んでいた。目の下には、隈のようなものまで浮かんでいる。この短い時間で、大輝が、どれほど無我夢中で駆け回ってくれたのか、その顔つきだけで、痛いほど伝わってきた。

「陽菜と二人で、ずっと探してくれてたのか」

「当たり前だろ。友達が、目の前で消えたんだぞ」大輝は、少し照れくさそうに、頭をかいた。「陽菜がいなかったら、たぶん、もっと時間かかってた。あいつ、地図とか整理するの、めちゃくちゃ上手いんだよ」

その言葉に、陽菜が、少し誇らしげに笑った。「大輝くんこそ、印を見つける嗅覚、すごかったよ。まるで、宝探しみたいに」

軽口を交わし合う二人の様子に、張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいくのを感じた。改めて、四人が揃った書庫の中を見渡す。薄暗い棚の連なりも、ひんやりとした石の床も、数時間前までは、圧倒されるほど不気味に感じていたのに、仲間が隣にいるというだけで、その印象が、まるで違って見えた。

「それにしても」大輝が、周囲を見回しながら言った。「とんでもない場所だな、ここ。学校の図書室より、蔵書の量、多いんじゃないか」

「そんな冗談言ってる場合?」陽菜が、呆れたように突っ込む。

「いや、本気で驚いてるんだよ、俺は」

いつもの調子を取り戻していく大輝の様子に、澪も、思わず小さく笑った。張り詰めていた緊張が、少しずつ、ほぐれていくのがわかった。

陽菜は、澪の姿を見た瞬間、大きく目を見開いた。「……佐倉さん。佐倉、澪さん」

その名前を口にした瞬間、陽菜の表情が、はっきりと変わった。「思い出した。ずっと、思い出せなかったのに」

陽菜は、澪の両手を、ぎゅっと握りしめた。「ずっと、会いたかった。名前、思い出せなかった時も、ずっと、誰かを探してる気持ちだけは、消えなかったの」

澪の目に、みるみる涙が浮かんでいく。「……ごめんなさい。私のせいで、みんなを、こんな場所まで」

「謝るな」大輝が、澪の言葉を遮るように言った。「誰のせいとか、そういうの、今はどうでもいい。四人揃ったんだから、それでいい」

その一言に、澪の涙腺が、とうとう決壊した。声を殺して泣く澪の背中を、陽菜が、そっとさすった。「もう、大丈夫だよ。みんな、ここにいるから」

しばらくして、泣き止んだ澪が、赤くなった目元を拭いながら、小さく笑った。「ごめん、みっともないとこ、見せちゃった」

「いいんだよ、それくらい」陽菜が、優しく言う。「私だって、ここに来るまで、ずっと泣きそうだったし」

「私も」大輝が、おどけたように言うと、澪が、思わず噴き出した。「大輝くんが泣きそうって、想像つかないんだけど」

「失礼だな。俺だって、人並みに繊細なんだぞ」

その軽口に、ようやく、四人の間に、笑い声が戻ってきた。張り詰めていた緊張が、少しずつ、ほどけていくのを感じた。

四人は、しばらく、言葉もなく、お互いの無事を確かめ合っていた。この場所で、離ればなれになっていた仲間が、再び揃った。その事実だけで、胸の奥が、熱く満たされていくのがわかった。窓のない書庫の中、どこからか差し込む淡い光だけが、四人の影を、静かに壁に映し出していた。

落ち着きを取り戻した頃、大輝が、ふと、真剣な表情で尋ねてきた。「悠真、澪。お前ら、俺たちがいない間、何、見つけたんだ」

「色々だ。話すと長くなるけど、聞いてくれるか」

「もちろんだ。俺たちも、こっちで見てきたこと、全部話す」

四人は、その場に車座になって座り込み、それぞれが知り得たことを、一つずつ、共有し始めた。共鳴石のこと、澪の祖母のこと、記憶を食べる影のこと、そして、時計台に集まっていた印のこと。話が進むにつれ、ばらばらだった情報の断片が、少しずつ、一つの大きな絵として繋がっていくのを、誰もが実感していた。

「これで、四人だ」大輝が、力強く言った。「帰る方法、一緒に探そう」

誰からともなく頷き合い、四人は、書庫のさらに奥へと、足を進め始めた。

歩きながら、大輝が、小声で尋ねてきた。「なあ、悠真。お前、こっちに来てから、何か変わったことなかったか」

「……いろいろあったよ。話すと長い」

「時間なら、いくらでもあるだろ、多分」

大輝の軽口に、少しだけ、肩の力が抜けた。これまで見てきたこと、感じてきた違和感を、一つ一つ、順を追って話し始めた。話すうちに、自分の中でも、ばらばらだった情報が、少しずつ整理されていくのを感じた。大輝は、時折相槌を打ちながら、真剣な表情で聞いていた。陽菜と澪も、並んで歩きながら、お互いの見てきたものを、静かに語り合っていた。

四人でいるというだけで、これほど心強く感じるとは、思っていなかった。一人で抱えていた不安も、二人で分け合っていた重荷も、四人で背負うことで、少しずつ軽くなっていく気がした。

書庫の最奥、暗がりの中に、もう一つの石版が、静かに佇んでいた。近づいてみると、そこには、四人分の名前が、刻まれているのがわかった。「大輝」「澪」「陽菜」、そして「悠真」。

だが、その「悠真」の文字だけが、なぜか、二つ並んで刻まれていた。

「これ……四章の終わりに見た、扉の石板と、同じだ」

大輝が、怪訝そうに石版を覗き込む。「二つって、どういうことだよ」

「わからない。でも、澪と探した書庫の入り口でも、同じものを見た」

四人で、石版を囲むようにして立った。誰も、すぐには言葉を発しなかった。ただ、それぞれの視線が、二つ並んだ「悠真」の文字の間を、行き来していた。

「なあ、悠真」陽菜が、静かに口を開いた。「これって、もしかして……」

言いかけた陽菜の言葉を、澪が、そっと遮った。「今は、まだ、わからないことだらけだから。焦らずに、一つずつ、確かめていこう」

澪の言葉に、誰もが、小さく頷いた。それでも、この石版に刻まれた謎が、これから自分たちが向き合うべき、何か大きなものの入り口であることだけは、四人とも、はっきりと予感していた。

十年経った今でも、あの薄暗い書庫の奥で見た、二つの名前の光景を、鮮明に思い出すことができる。あのとき感じた、説明のつかない胸騒ぎの正体を、僕らが本当に理解するのは、まだ、もう少し先のことだった。

五章 了



六章 歪みの正体


一 四人の役割

石版に刻まれた二つの「悠真」の文字を前に、しばらく誰も動けずにいた。沈黙を破ったのは、大輝だった。

「とりあえず、ここで突っ立ってても、何も進まねぇ。手分けして調べよう」

大輝の一言で、それぞれが自然と動き始めた。大輝は、周囲の通路を確認し、この先に進める道がどこにあるか、率先して調べ始めた。迷いのない足取りで、次々と枝分かれする通路を確認していく姿は、頼もしかった。

澪は、石版の脇に積まれていた古い書物を手に取り、文字を読み解いていった。癖のある古語も、澪の手にかかると、少しずつ、意味のある文章として立ち上がってくる。

陽菜は、四人の様子を、静かに観察していた。「悠真くん、さっきから、右側の壁、気にしてるよね」その一言に、はっとした。無意識のうちに、視線が、壁の一角に吸い寄せられていたことに、自分でも気づいていなかった。

「なんとなく、違和感があるんだ。うまく言えないけど」

「じゃあ、そこ、調べてみよう」

近づいてみると、壁の表面に、他の場所より、かすかに新しい傷のような線が走っているのに気づいた。指でなぞると、それが、隠し扉の輪郭であることがわかった。

「これ、扉だ」

「悠真くんの勘、やっぱりすごいね」陽菜が、感心したように言った。

四人それぞれの得意なことが、自然に噛み合っていく。大輝の行動力、澪の知識、陽菜の観察眼、そして自分の直感。一人では見えなかったものが、四人揃うことで、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。

「なあ、これ、俺たち、意外といいチームなんじゃねぇか」大輝が、扉の輪郭を調べながら、得意げに言った。

「調子いいこと言って」澪が、苦笑しながら突っ込む。

「いや、マジでさ。俺が力仕事して、澪が頭脳担当で、陽菜が観察担当で、悠真が勘担当。完璧な役割分担だろ」

「その言い方だと、私が力仕事係みたいに聞こえるけど」

軽口の応酬に、少しだけ、空気が和んだ。緊迫した状況の中でも、こうして軽口を叩き合える関係があることが、どれほど心強いか。改めて、実感させられた瞬間だった。

「悠真くん、この扉、開けられそう?」陽菜が尋ねてくる。

隠し扉の輪郭に沿って、慎重に指を這わせた。継ぎ目の一部に、わずかな隙間があるのに気づく。「ここ、押してみる」力を込めると、重い音を立てて、扉が、わずかに動いた。

「開いた!」

四人で力を合わせ、扉を押し開ける。その先には、さらに奥へと続く、暗い通路が広がっていた。

「誰が先に行く?」陽菜が、恐る恐る、通路の奥を覗き込みながら尋ねた。

「俺が行く」大輝が、迷わず一歩を踏み出す。「先陣切るのは、俺の役目だろ」

「危なくないように、気をつけてよね」

「わかってるって」

大輝の後に続き、澪、陽菜、そして自分の順で、暗い通路へと足を踏み入れた。壁に触れると、ひんやりとした感触が、指先に伝わってくる。どこからか、微かな風が吹き抜けているのがわかった。この先に、何かが繋がっている。その確信めいた予感を抱きながら、四人は、慎重に歩を進めていった。

通路の壁には、これまで見てきた文様とは、また少し違う模様が、点々と刻まれているのに気づいた。まるで、何かの記録が、壁そのものに刻み込まれているかのようだった。

「これ、読める?」大輝が、壁を指さしながら澪に尋ねる。

「ちょっと待って……。かなり古い書体だから、時間がかかるかも」

澪が、慎重に文字を追い始める間、他の三人は、周囲を警戒しながら、その場で待った。静寂の中、澪のかすかな呟き声だけが、通路に響いていた。

「これ、たぶん、この場所に来た人たちの、記録みたい」澪が、ようやく口を開いた。「名前とか、来た時期とか、簡単な記述が、ずっと続いてる」

「俺たちの名前も、あるのか」

「探してみる」

澪が、壁を辿りながら、文字を確認していく。しばらくして、その指が、ぴたりと止まった。「あった……。悠真くんの名前」

駆け寄って、指し示された場所を見た。確かに、そこには「悠真」という文字が、刻まれていた。だが、その隣には、見慣れない日付らしき記号が、添えられている。

「この日付、読めるか」

「ちょっと待って……。うまく変換できないけど、たぶん、今より、ずっと昔の日付だと思う」

その事実に、背筋が冷たくなった。まるで、自分がこの世界に来たのは、今回が初めてではない、とでも言うかのような記述だった。

「そんなはずない。俺、こんな場所、来たことねぇよ」

「うん、私も、そう思う。でも……」澪は、日付の周辺を、さらに丁寧に調べていった。「もしかしたら、これ、悠真くん自身のことじゃなくて、悠真くんと同じ名前を持つ、別の誰かの記録、なのかもしれない」

「同じ名前の、別人……」

「石版に、二つの名前があったこと、覚えてるよね。もしかしたら、この世界には、時々、同じ名前と、似た性質を持つ人間が、引き寄せられてくるのかもしれない」

澪の推測は、あくまで仮説に過ぎなかった。それでも、これまで見てきた、いくつもの符合を思えば、あながち的外れとも思えなかった。もし、それが本当なら、自分より先に、この世界に来た「悠真」という誰かが、確かに存在していたことになる。その人物が、今、どこで、どうなっているのか。知りたいような、知りたくないような、複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。

二 石版の記録

隠し扉の奥には、さらに大きな石版が、静かに佇んでいた。澪が、慎重に、刻まれた文字を読み進めていく。

「これ……この世界のこと、書いてある」

「なんて書いてあるんだ」

澪は、しばらく黙って文字を追った後、震える声で読み上げ始めた。「『この地は、彼方より零れ落ちし記憶と、選ばれざりし可能性の集う場所なり』」

「零れ落ちた記憶……可能性?」

「うん。この世界って、単純な別世界じゃなくて……向こうの世界から、こぼれ落ちた記憶とか、選ばれなかった可能性が、集まってできた場所、みたい」

その説明に、頭の中が、すぐには整理できなかった。「じゃあ、澪は、死んだわけじゃないのか」

「たぶん、違う。消えたわけでも、死んだわけでもなくて……こっちに、零れ落ちてきただけ」

その言葉に、わずかな希望が灯った。だが、澪は、続けて、石版の別の箇所を指さした。「でも、ここに、こう書いてある。『戻すには、代わりに何かを差し出す必要あり』」

「代償ってやつだな」大輝が、低く唸る。

「うん。何を、どれくらい差し出すのか、そこまでは、まだわからないけど」

消えた人々は、完全に失われたわけではない。だが、取り戻すためには、何かを失わなければならない。その天秤の重さを、まだ、誰も正確には測れずにいた。

「代償って、具体的に、何なんだろう」陽菜が、不安げに呟いた。

「たぶん、記憶とか、存在とか、そういう類のものだと思う」澪が、石版の文字を、指でなぞりながら答えた。「でも、はっきりとは、書いてない。わざと、ぼかしてあるみたいに」

「わざと?」

「うん。まるで、読む人が、都合よく解釈しないように、そうしてるみたいな」

その指摘に、妙な納得感があった。この石版を刻んだ誰かは、後に続く者たちに、安易な希望を持たせないよう、意図的に、情報を制限しているのかもしれない。だとすれば、この世界の管理者――あるいは、それに近い何か――は、明確な意思を持って、この場所を運営している、ということになる。

「誰が、こんなもの、作ったんだろうな」大輝が、石版を見上げながら、ぽつりと言った。

その問いに、誰も、答えを持っていなかった。ただ、この石版の向こうに、まだ見ぬ何者かの意図が、確かに横たわっている。その気配だけが、はっきりと感じられた。

「もし、その管理者ってやつに、会えたら」大輝が、真剣な表情で言った。「話、聞けるのかな。どうすれば、無事に帰れるのか」

「会えたとして、素直に教えてくれるとは、限らないけどね」澪が、慎重な口調で答える。

「それでも、直接聞くのが、一番早いんじゃないか」

その提案に、一理あると思った。だが、同時に、得体の知れない相手に、無防備に近づくことへの警戒心も、拭いきれなかった。

「もし、会うことがあったら、俺が、話す」

「悠真くんが?」陽菜が、意外そうな顔をする。

「なんとなく、俺が呼ばれてる気がするんだ。理由は、うまく説明できないけど」その感覚を口にした瞬間、なぜか、これまで感じてきた数々の違和感が、一本の線で繋がっていくような気がした。

その直感は、根拠のないものだったが、なぜか、強い確信を伴っていた。この世界の管理者と名乗る何かは、いずれ、自分の前に、姿を現す。そんな予感が、拭いがたく、胸の奥に居座っていた。

石版のさらに下部に、小さく、別の一文が刻まれているのに、澪が気づいた。「『この地を統べる者、かつて彷徨いし者なり』……この場所を管理してるのって、もしかしたら、昔、ここに迷い込んだ人間なのかもしれない」

「元は、俺たちと同じ、迷い人だった、ってことか」

「たぶん。だとしたら、なんで、そんな役割を、引き受けることになったんだろう」

澪の疑問に、誰も答えを持たなかった。もし、この世界を管理する何者かが、かつては自分たちと同じ、ただの迷い込んだ人間だったのだとしたら。その人物が、なぜ、どのようにして、この場所の管理者になったのか。その経緯にこそ、この世界の歪みの、本当の正体が隠されている気がしてならなかった。

三 悠真の二つの名前

石版の隅、最初に見た二つの「悠真」の文字に、改めて向き合った。新しい方の刻印と、古い方の刻印。並んで刻まれたその文字を、指でなぞりながら、澪が、さらに文章を読み解いていく。

「これ……片方は、今の悠真くん。もう片方は……『この世界に留まる可能性としての悠真』、って書いてある」

「留まる可能性……?」

「うまく説明できないけど、たぶん、この世界に来た人は、みんな、こういう風に、二つの可能性を持つみたい。帰る自分と、残る自分」

その説明を聞いても、実感が湧かなかった。ただ、古い方の刻印から感じた、あの必死に何かを叫ぶ人物の記憶が、頭をよぎった。

「あの、光景で見た人……もしかして、俺と似た直感を持ってた奴、なのか」

澪は、石版の別の一節を、慎重に読み進めた。「『先んじて彷徨いし者、同じき勘所を持てり』……うん、そう書いてある。悠真くんより前に、同じような直感を持った人が、この世界に来てたみたい」

「そいつは、どうなったんだ」

「わからない。ここには、書いてない」

石版の周囲を、もう一度、丁寧に調べてみた。何か、見落としがないか。指先で、表面をなぞりながら、文様の隅々まで確認していく。

「この辺り、何か、削れた跡があるな」大輝が、石版の下部を指さした。

近づいて見ると、確かに、何かが、意図的に削り取られたような跡があった。元々、何が刻まれていたのか、想像もつかない。

「誰かが、都合の悪い部分を、消したのかもしれない」澪が、険しい表情で言った。

「都合の悪い部分って、例えば?」

「わからない。でも、この世界の成り立ちに関わる、何か重要なことだったんじゃないかな」

削られた跡を見つめながら、この世界には、まだ、自分たちの知らない、隠された真実が、いくつも眠っているのだと、改めて実感させられた。

自分が、なぜこの世界に引き寄せられたのか。その理由の一端が、少しずつ見え始めていた。だが、見えれば見えるほど、新たな疑問が、次々と生まれてくる。自分が「選ばれた」のだとしたら、誰が、何のために選んだのか。その答えは、まだ、闇の中だった。

「悠真くん、大丈夫?」澪が、心配そうに顔を覗き込んでくる。「なんか、ずっと、難しい顔してる」

「ああ、平気だ。ただ、色々、整理が追いつかなくて」

「無理もないよ。自分の名前が、こんな形で、二つも出てくるなんて」

澪の言葉に、頷いた。誰かの助けなしに、この事実と向き合うのは、正直、荷が重かった。それでも、隣に澪がいる。その事実だけで、少しだけ、気持ちが落ち着いた。

「もし、俺が、この世界に『残る可能性』を持ってるなら……それって、俺が、いつか、ここに残ることになる、ってことなのか」

その問いに、澪は、すぐには答えなかった。しばらく沈黙した後、静かに言った。「わからない。でも、そうならないように、私たちが、一緒に考えるから」

その言葉に、少しだけ、救われた気がした。一人で抱えるには重すぎる可能性を、四人で分かち合える。その事実が、今は、何よりの支えだった。

大輝が、話を聞いていたのか、こちらに近づいてきた。「悠真、お前が『残る可能性』とか言われても、俺は、そんなの認めねぇからな」

「大輝……」

「お前がどう思おうと、俺たちが、絶対に、お前を連れて帰る。それだけは、覚えとけ」

不器用な言い方だったが、その言葉には、確かな決意が込められていた。陽菜も、隣で、力強く頷いている。「うん。悠真くんが、一人でどこかに残るなんて、絶対に許さないから」

三人の言葉に、胸の奥が、じんわりと熱くなった。自分一人で背負おうとしていた不安が、こうして、仲間の存在によって、少しずつ、軽くなっていくのを感じた。

「……ありがとう」

短い言葉しか出てこなかったが、それで十分だった。四人は、改めて、石版を見つめ直し、先へ進む決意を固めた。

四 過去の迷い人

もう一度、共鳴石に触れてみることにした。四人で、石を囲むように座り、それぞれが手を重ねる。今度は、これまでよりも、はっきりとした光景が流れ込んできた。

見知らぬ青年が、この書庫らしき場所で、必死に何かの儀式を行っている。周囲には、無数の人影が、薄れながら漂っていた。青年は、その人影の一つ一つに手をかざし、何かを吸い上げるような仕草をしていた。

「これ……何してるんだ」

澪が、青ざめた顔で答えた。「たぶん、帰るために、他の人たちの記憶を、使ってる」

光景の中で、青年は、やがて、光に包まれて消えていった。だが、その代償として、周囲にいた人影たちは、跡形もなく、この世界から消え去っていった。

「そいつ、帰るために、他の人を、犠牲にしたのか」大輝が、怒りを滲ませた声で言った。

「たぶん……。その結果、向こうの世界からも、複数の人の存在が、消えたのかもしれない」

石から手を離した後も、しばらく、指先の震えが止まらなかった。今見た光景の生々しさが、まだ、瞼の裏に焼き付いている。

その光景の意味を理解した瞬間、背筋が凍った。この世界の歪みは、単なる自然現象ではない。誰かの選択によって、意図的に、あるいは、結果的に、生み出されてきたものなのだ。同じ過ちを、自分たちは、絶対に繰り返してはいけない。そう強く思った。

石から手を離すと、しばらく、誰も口を開けなかった。重い沈黙が、四人の間に横たわっていた。

「その青年、今、どうなってるんだろうな」大輝が、ぽつりと呟いた。

「わからない。でも、代償を払って帰ったなら、向こうの世界で、今も、生きてるはずだよね」陽菜が、静かに言う。

「生きてる。でも、誰かの犠牲の上に、成り立ってる生活を送ってる、ってことだよな」

その指摘に、誰も、すぐには答えられなかった。もし、自分たちも、同じ方法で帰還を果たすなら、その先に待っているのは、誰かの喪失の上に築かれた日常だ。それを、本当の意味での「帰還」と呼べるのか。深い疑問が、胸の中に、澱のように沈んでいった。

「絶対に、そんなやり方は、選ばない」澪が、きっぱりと言った。「みんなで、無事に帰る方法を、探そう。誰も犠牲にしないで」

その言葉に、全員が、静かに頷いた。簡単な道ではないことは、わかっていた。それでも、譲れない一線だけは、はっきりと共有できた気がした。

石から離れ、しばらく、それぞれが黙り込んでいた。重い空気を破るように、陽菜が、努めて明るい声を出した。「とりあえず、次、どうする? 座り込んでても、始まらないし」

「そうだな」大輝が、立ち上がりながら言う。「もう少し、この先、進んでみよう。何か、別の手がかりが、あるかもしれない」

澪は、書物を大切そうに抱えながら、頷いた。「うん。この石に見えた光景、あとで、もう一度、整理してみる」

四人は、それぞれの役割を、改めて確認し合うように、顔を見合わせた。この場所で見てきたことの重さは、決して軽くはない。それでも、一人ではなく、四人で受け止めることで、前に進む力が、確かに湧いてくるのを感じた。

五 大輝との再衝突

光景を見た直後、頭の中に、一つの考えが浮かんだ。歪みの中心とやらに、自分一人で向かえば、他の三人を巻き込まずに済むのではないか。その考えに突き動かされるように、気づけば、一人で通路の奥へと足を向けていた。

「おい、悠真。どこ行くんだよ」

大輝の声に、足が止まった。振り返ると、鋭い視線が、こちらを射抜いていた。

「……先に、様子見てくる。危ないかもしれないから」

「馬鹿言うな。一人で行かせるわけねぇだろ」

「お前らを、巻き込みたくないんだよ」

その言葉に、大輝の表情が、はっきりと険しくなった。「今更、何言ってんだ。とっくに、巻き込まれてるんだよ、俺たちは」

「だから、これ以上は」

「勝手に消えるな!」

大輝の怒声が、書庫の壁に反響した。「お前、いつもそうだ。一人で抱え込んで、一人で突っ走って。それが、俺たちのことを思ってるつもりなのか知らねぇけど、そういうの、一番、傷つくんだよ」

言葉が、出てこなかった。大輝の言う通りだった。誰かを守るために一人で行くことが、本当に正しいのか。その確信が、大輝の怒りの前で、音を立てて崩れていくのがわかった。

拳を握りしめ、しばらく、大輝の顔を見つめていた。反論しようとした言葉が、どれも、喉の奥で、行き場を失っていく。

「悪かった……。一人で、勝手に決めようとした」

「わかればいい」大輝は、少し表情を緩めた。「頼むから、次からは、相談してくれ。一人で背負うことが、優しさだと思うなよ」

肩に、大輝の手が、ぽんと置かれた。その重みが、これまで感じたことのない安心感を運んできた。振り返ると、澪と陽菜も、少し離れた場所で、ほっとしたような表情を浮かべているのが見えた。

「二人とも、心配かけて、悪かった」

「本当だよ」陽菜が、少し拗ねたように言う。「私たちも、悠真くんのこと、大事に思ってるんだから。一人でいなくなろうとするの、本当にやめてほしい」

「わかった。約束する」

その約束の言葉が、これまでの自分にはなかった、新しい決意のように感じられた。一人で抱え込む癖を、これからは、少しずつ、変えていきたい。そう強く思った。

その言葉が、これまで自分の中にあった、漠然とした思い込みを、鋭く突き刺した。友情とは、一人で守ることではない。分かち合うことなのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。

気まずい沈黙が、しばらく続いた。澪と陽菜は、少し離れた場所で、二人のやり取りを、黙って見守っていた。

「……昔から、そうだったよな、お前」大輝が、ふと、懐かしむような口調で言った。「小学生の頃も、一人で抱え込んで、こっそり泣いてるとこ、見たことあるし」

「そんなの、覚えてるのか」

「忘れるかよ。お前が、あんまり心配かけまいとするから、こっちが、余計に心配になるんだよ」

大輝の言葉に、苦笑いが漏れた。「悪い癖なんだろうな、多分」

「自覚あるなら、直せ」

軽い口調に戻った大輝の様子に、張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいく。澪と陽菜も、ほっとしたように、顔を見合わせていた。

「仲直り?」陽菜が、からかうように聞いてくる。

「喧嘩なんかしてねぇよ」大輝が、そう言いながらも、少し照れくさそうに、頭をかいた。

澪が、そんな二人のやり取りを見ながら、静かに微笑んでいた。「悠真くんと大輝くんって、本当に、昔からの仲なんだね」

「腐れ縁だ」大輝が、即座に答える。

「腐れ縁で悪かったな」

軽口を交わしながらも、二人の間にあった空気は、確かに、以前より柔らかくなっていた。長年の付き合いだからこそ、ぶつかることもあれば、こうして、すぐに元の距離感に戻れることもある。その関係の深さを、改めて実感した。

六 陽菜の発見

険悪な空気を和ませるように、陽菜が、静かに口を開いた。「ねえ、みんな。一つ、気づいたことがあるんだけど」

「なんだ」

「私たち四人の記憶、共通してることがあるの。みんな、消える直前か、その少し前に、時計台の音を聞いてる」

その指摘に、それぞれが、記憶を辿り始めた。確かに、澪が消えた日も、自分が祠に引き込まれた瞬間も、大輝と陽菜が時計台に触れた瞬間も、すべて、あの独特の鐘の音が、どこかで鳴っていた気がする。

「それが、何を意味するんだよ」大輝が、首を傾げる。

陽菜は、しばらく考え込むように、視線を宙に泳がせていた。それから、確信を込めた声で続けた。「わからない。でも、もしかしたら、それは、異界に来た順番じゃなくて……誰かが、忘れられていく順番を示してるのかもしれない」

「忘れられる順番……」

その言葉に、ぞくりとした。もし、その仮説が正しいのなら、この世界の歪みは、無作為に人を巻き込んでいるのではなく、何らかの意図と順序を持って、進行しているということになる。

「陽菜、それ、どうやって気づいたんだ」

「なんとなく。みんなの話を聞いてる時、時計台の話だけ、何度も出てくるなって思って」

「よく、そんな細かいこと、気づくな」大輝が、感心したように言った。

「大輝くんこそ、崩落の模様とか、印の位置とか、よく見つけられるなって、いつも思ってるよ」

「まあ、それぞれ得意なことがある、ってことだろ」

その何気ないやり取りに、四人のバランスの良さを、改めて感じた。誰か一人が突出しているわけではなく、それぞれの視点が、互いの死角を補い合っている。この関係性こそが、この世界を生き抜くための、何よりの武器なのかもしれなかった。

陽菜の何気ない観察力が、これまで見えていなかった、調査の新しい方向を、静かに示していた。四人は、顔を見合わせ、次に進むべき道について、改めて考え始めた。

「時計台の音が、忘れられる順番を示してるなら……」澪が、考えながら続けた。「一番最初に、忘れられかけたのは、誰だったんだろう」

「俺の記憶だと、澪が最初だったよな。消えたのも、澪が最初だし」大輝が言う。

「でも、それが本当に一番目とは限らない」陽菜が、首を振った。「もっと前から、誰かが、少しずつ、忘れられ始めてたのかもしれない。私たちが気づいてないだけで」

その可能性に、背筋が冷たくなった。もし、この現象が、澪の失踪よりも、ずっと前から始まっていたのだとしたら。自分たちが把握している以上に、この世界の歪みは、根深く、長く続いているのかもしれない。

「調べる方法、あるのか」

「この書庫のどこかに、もっと詳しい記録が、あるかもしれない」澪が、周囲を見渡しながら言った。「もう少し、奥まで、進んでみよう」

その提案に、誰も異論はなかった。四人は、改めて気を引き締め、書庫のさらに奥へと、足を踏み入れていった。歩き出す間際、ふと振り返ると、これまで通ってきた通路が、すでに、薄暗い闇の中へと溶け込み始めていた。戻る道が、少しずつ閉ざされていく。その事実に、誰もが、無言のまま、気づいていた。

七 崩れ始める書庫

議論をしている最中、ふと、周囲の空気が変わったことに気づいた。棚に並んだ書物の背表紙から、文字が、ゆっくりと薄れ始めている。

「これ……」

澪が、慌てて近くの書物を手に取った。ページを開くと、そこに書かれていたはずの文字が、みるみるうちに、白紙に戻っていく。

「文字が、消えてる。記録が、失われていってる」

「なんでだよ、急に」大輝が、周囲を見回しながら叫ぶ。

「わからない。でも、止めないと」

澪は、必死に、何冊かの書物を抱きかかえ、消えていく文字を、少しでも書き写そうとしていた。だが、その努力を嘲笑うかのように、文字の消失は、止まらなかった。

冷静に、周囲の様子を観察した。文字が消えていく順番に、何か規則性があるように見えた。奥の棚から、手前へ。ある方向に向かって、まるで波のように、消失が広がっている。

「この消え方、たぶん、奥の方に、歪みの中心がある」

「根拠は?」

「勘だ。でも、この消え方の向きが、示してる気がする」

大輝は、少し迷った後、頷いた。「わかった。今度は、お前の勘、信じる」大輝は、そう言うと、真っ先に、崩れかけた通路へと足を踏み出した。「行くぞ、みんな。足元、気をつけろよ」

澪と陽菜も、それぞれ頷き、覚悟を決めた表情で、後に続く。崩壊が進む書庫の中、四人は、互いに声をかけ合いながら、慎重に進んでいった。

四人は、崩れゆく書庫の中、文字が消えていく方向を頼りに、危険を承知の上で、その奥へと進み始めた。

進むほどに、崩壊の勢いは増していった。頭上の棚から、書物が、次々と崩れ落ちてくる。澪が、大切そうに抱えていた書物の一冊が、手からこぼれ落ちそうになった。

「危ない!」

とっさに、澪の腕を掴み、引き寄せた。落下してきた棚の残骸が、二人がいた場所を、すんでのところで通り過ぎていく。

「ありがとう……」澪が、息を切らしながら、小さく礼を言った。

「油断するなよ」

大輝と陽菜も、互いに支え合いながら、崩れる通路を進んでいた。「こっちも、そろそろやばいぞ!」大輝が、声を張り上げる。

床のひびが、次第に大きくなり、ところどころ、足場そのものが崩れ落ち始めていた。跳び越えながら、あるいは、迂回しながら、四人は、なんとか前へと進み続けた。

「あと、どれくらいだ」

「わからない。でも、この崩壊、確実に、何かの中心に向かって、収束していってる気がする」澪が、周囲を観察しながら答えた。

不安定な足場に神経を尖らせながら、四人は、崩れゆく世界の奥へと、進み続けた。

途中、大きな亀裂が、行く手を塞いでいた。幅は、二メートルほど。飛び越えるには、少し距離がある。

「俺が先に行く。それから、みんなを引っ張り上げる」

大輝が、助走をつけて、亀裂を飛び越えた。着地の衝撃で、足場が、さらに崩れ始める。「早く、こっち来い!」

澪、陽菜の順で、大輝の手を借りながら、なんとか亀裂を越えた。最後に、自分の番になったとき、足場が、大きく崩れ落ちた。

「悠真!」

咄嗟に踏み込んだ足が、崩れゆく床を蹴り、体が宙に浮く。伸ばされた大輝の手を、必死に掴んだ。引き上げられる勢いのまま、なんとか、向こう岸に転がり込む。

「危なかったな……」

肩で息をしながら、大輝が、苦笑いを浮かべた。「マジで、心臓に悪いわ」

「悪い、助かった」

立ち上がり、崩れ落ちていく足場を振り返った。もう、後戻りはできない。その事実を、改めて突きつけられた気がした。

澪と陽菜が、心配そうに駆け寄ってきた。「悠真くん、怪我は?」

「大丈夫だ。ちょっと、肝を冷やしただけ」制服の裾についた土埃を払いながら、努めて平静を装った。それでも、心臓は、まだ激しく脈打ったままだった。

膝の擦り傷を確認しながら、笑ってみせた。だが、内心では、あと一瞬判断が遅れていたら、どうなっていたか、想像するだけで、まだ手が震えていた。

「無理しないで、慎重に行こう」澪が、優しく言う。

「ああ。次は、もう少し、気をつける」

四人で、改めて隊列を組み直し、崩れゆく通路の奥を目指した。誰かが遅れそうになれば、誰かが手を貸す。そんな当たり前のやり取りを繰り返しながら、少しずつ、前へと進んでいった。

八 管理者の声

奥へ進むほど、崩壊は激しくなっていった。棚が、音を立てて倒れ始め、床の石畳にも、ひびが入り始めている。それでも、四人は、足を止めなかった。

やがて、開けた空間に出た。そこには、何も置かれていない、ただ広いだけの部屋があった。天井は高く、壁一面に、あの見慣れた文様が、隙間なく刻み込まれている。足を踏み入れた瞬間、空気が、これまでとは明らかに違う密度を持っているのを感じた。

「ここ……なんか、変な感じがする」陽菜が、腕をさすりながら言う。

「歪みの中心、ここで合ってると思う」澪も、緊張した面持ちで頷いた。

大輝が、慎重に、部屋の中央へと足を進める。「何もねぇな。ただの、がらんとした部屋だ」

その言葉を裏切るように、中央に立った瞬間、頭の中に、直接、声が響いた。

『――何を、戻したいのですか』

女性の声だった。低く、それでいて、どこか懐かしさを感じさせる響きがあった。周囲を見回しても、姿は見えない。

「誰だ、お前」

『わたくしが誰であるかは、今は重要ではありません。ただ、あなたに、問いたいのです。何を、戻したいのですか』

澪の顔を見つめた。彼女を、元の世界に連れ戻したい。それは、最初からの、揺るがない願いだった。だが、同時に、書庫で見た、無数に消えていった人々の姿も、頭をよぎった。澪だけでいいのか。他の、名前も知らない誰かたちは、どうなるのか。

「澪だけじゃない。ここで、消えていった全員を、戻したい」

その答えに、声は、しばらく沈黙した。それから、静かに告げた。

その声の響きに、微かに、寂しげな色が滲んでいる気がした。

「一人分の記憶って、具体的に、どういうことだ」

『言葉通りの意味です。誰か一人の存在を、この世界の礎に加えることで、他の者たちは、元の場所へ帰ることができます』

「じゃあ、誰かが犠牲にならないと、みんなで帰るのは、無理ってことか」

『無理、とは申し上げておりません。ただ、それが、これまでの、唯一の前例だというだけです』

その言い方に、含みを感じた。まるで、他の方法も存在するが、自分では、それを教えるつもりがない、とでも言うかのように。

『欲張りな願いですね。ですが、覚えておいてください。帰還には、常に、一人分の記憶が、必要になります』

「一人分の記憶……」

声は、それ以上、多くを語らなかった。ただ、気配が、静かに遠ざかっていくのを感じた。四人は、しばらく、声の余韻の中に立ち尽くしていた。

「今の声、聞こえたか」大輝に尋ねると、彼は、怪訝な顔をした。「声? 何も聞こえなかったけど」

澪と陽菜も、同じように首を振った。自分にだけ聞こえていたらしいその声の意味を、うまく説明できないまま、胸の奥に、重く沈めるしかなかった。

「悠真くん、顔色、真っ青だよ」陽菜が、心配そうに駆け寄ってきた。「本当に、何も聞こえなかった?」

「いや……何か、聞こえた気がしたけど、うまく思い出せない」

咄嗟に、そう誤魔化した。今聞いた言葉を、この場で口にする勇気が、どうしても出なかった。澪の顔を見ると、彼女は、何かを察したような、不安げな表情を浮かべていた。

「悠真くん、無理しないでね」

「ああ……大丈夫だ」

大丈夫ではなかった。だが、今は、その言葉を、誰にも打ち明けられなかった。自分の中だけに留めておくべきなのか、それとも、いずれ、誰かに話すべきなのか。判断がつかないまま、重い沈黙を抱えて、その場に立ち尽くしていた。

その直後、頭の中に、もう一度、あの声が響いた。今度は、誰にも聞こえない、自分にだけ向けられた言葉だと、はっきりわかった。

『あなたが、忘れられれば――すべては、元に戻ります』

その言葉の意味を、必死に飲み込もうとした。忘れられる、というのは、消えることとは、また違うのだろうか。石版に刻まれていた、二つの「悠真」の文字が、また、頭をよぎった。もしかしたら、この声が指しているのは、自分という存在そのものの、片方の可能性なのかもしれない。

「悠真くん?」澪が、様子のおかしいこちらに気づき、声をかけてきた。「大丈夫? さっきから、ずっと、上の空だよ」

「ああ……悪い。ちょっと、考え事してた」

「無理に、一人で抱え込まないでね。約束、したばかりだし」澪の眼差しには、からかいではなく、真剣な心配が滲んでいた。

澪の言葉に、頷きながらも、今聞いた言葉を、すぐには打ち明けられなかった。いつか、話さなければならない。その予感だけを胸に、崩れゆく部屋の中、四人は、静かに、次の行動を考え始めていた。壁の文様が、時折、脈打つように明滅を繰り返している。まるで、この場所全体が、まだ何かを語り足りないとでも言うように。

六章 了



七章 忘れられる者


一 帰還条件

管理者の声が消えた後も、あの言葉の余韻は、頭の中に重く残り続けていた。『あなたが、忘れられれば――すべては、元に戻ります』誰にも打ち明けられないまま、崩れゆく部屋の壁を、もう一度、丁寧に調べてみることにした。

「悠真くん、こっち、何か書いてある」澪が、壁の一角を指さした。近づいてみると、これまでの石版とは違う、比較的新しい刻印があった。

澪が、慎重に文字を読み解いていく。「『帰還の道、一人分の犠牲を要す。残りし者、元の世に還らん』」

「一人が残れば、他のみんなは、帰れるってことか」大輝が、低い声で確認する。

「たぶん、そういうこと」

その言葉に、部屋の空気が、一気に張り詰めた。「残った奴は、どうなるんだよ」

澪は、さらに文字を追いながら、答えた。「『残りし者、彼方の記憶より消え去るべし』……向こうの世界の、みんなの記憶からも、消えちゃうってこと、だと思う」

存在が消えるだけでなく、大切な人々の記憶からも、消し去られる。その残酷さに、誰も、すぐには言葉を発せなかった。

「そんなの、帰還って呼べるのかよ」大輝が、拳を握りしめながら、低く呟いた。「残った奴は、みんなから忘れられて、一人ぼっちで、ここに取り残されるんだろ。それのどこが、救いなんだよ」

「わからない。でも、これが、今わかってる、唯一の方法らしい」澪が、悔しそうに、石版の文字を見つめた。

「他に、方法がないか、探し続けるしかないな」

「うん。まだ、諦める段階じゃない」

誰も、まだ、この条件を受け入れたわけではなかった。それでも、この重い事実が、確かに、四人の前に、突きつけられていた。

しばらくの沈黙の後、澪が、静かに、石版の残りの部分を読み進め始めた。「他にも、何か、書いてないか、もう少し調べてみる」

「頼む」

澪の集中を邪魔しないよう、他の三人は、静かに待った。時折、澪が、小さく声を漏らしながら、古い文字を、一つ一つ、丁寧に読み解いていく。その真剣な横顔を見つめながら、彼女が、これまで、どれほどの重圧を、一人で抱えてきたのかを、改めて実感していた。

「あった」澪が、小さく声を上げた。「これ、見て」

指さされた箇所には、これまで見てきたものよりも、さらに小さく、目立たない文字で、追記があった。「『真に繋がりし者、境界を越えて呼び合う』……なんだろう、これ」

「境界を越えて、呼び合う……」

「意味は、まだ、はっきりしないけど……もしかしたら、私たちが、ここに来た経緯と、関係あるのかもしれない」

澪の言葉に、耳を傾けながら、これまでの出来事を、頭の中で、もう一度、辿ってみた。澪の声を頼りに、光の中に飛び込んだあの瞬間。大輝と陽菜が、手を離さずに、この世界へ引き込まれた出来事。すべてが、この「呼び合う」という言葉と、どこか繋がっているような気がしてならなかった。

「誰が、残るかなんて、決められるわけないだろ」陽菜が、震える声で言った。

「決めなくていい」大輝が、きっぱりと言い切った。「そんな方法、最初から、選択肢に入れない」

その言葉に、全員が頷いた。だが、頷きながらも、心の奥底では、それぞれが、密かに、同じ可能性を検討し始めていることに、誰も気づいていなかった。

「他に、方法がないか、もう少し探そう」澪が、気を取り直すように言った。「この部屋、まだ、全部は調べてないから」

四人で、手分けをして、部屋の隅々を確認していった。だが、いくら探しても、犠牲を伴わない帰還方法についての記述は、見つからなかった。

「くそ……。都合よく、そんな方法、見つかるわけねぇか」大輝が、苛立たしげに、壁を叩いた。

「焦らないで。まだ、時間はあるはず」陽菜が、努めて冷静に言う。

「時間って、どれくらい残ってるんだよ、実際」

その問いに、誰も、答えを持たなかった。この世界の時間の流れ方すら、まだ、正確には把握できていない。ただ、崩壊が進む書庫の様子を思えば、悠長に構えていられる状況ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。

いったん、休息を取ることにした。崩れかけた壁際に、四人並んで座り込む。誰も、多くを語らなかった。それぞれが、頭の中で、この状況をどう受け止めるべきか、必死に整理しようとしていた。

沈黙を破ったのは、陽菜だった。「ねえ、みんな。文化祭、無事に終わったのかな」

唐突な問いに、一瞬、誰もが虚をつかれた。「いきなり、なんだよ」大輝が、苦笑する。

「なんとなく、思い出したくて。当たり前の日常のこと」

「そうだな……。俺たちの出し物、結局、どうなったんだろうな」

「大輝くんの作った看板、ちゃんと使われたかな」

他愛のない会話が、少しずつ、重苦しい空気を和らげていった。澪も、小さく笑いながら、思い出話に加わってくる。「私が調べてた郷土史の展示、結局、間に合わなかったんじゃないかな」

「間に合わなくて、正解だったのかもな。あんな祟りみたいな話、展示してたら、余計、怖がられてたかもしれねぇし」

大輝の軽口に、思わず、笑いが漏れた。張り詰めていた緊張が、少しだけ、ほどけていく。この何気ない日常の記憶こそが、自分たちが、絶対に取り戻すべきものなのだと、改めて、実感させられた。

二 悠真の隠し事

その夜――といっても、この世界に、夜と呼べる時間があるのかは定かではなかったが――皆が仮眠を取っている間に、一人、そっと起き上がった。石版のもとへ戻り、もう一度、帰還条件について記された文字を、じっくりと読み返す。

もし、自分が残るなら。もし、自分の名前だけが、この世界に留まるなら。大輝、澪、陽菜の三人は、無事に、元の世界へ帰れるはずだ。石板に二つ刻まれていた「悠真」の文字の意味も、これで、腑に落ちる気がした。最初から、自分は、この役割を担うために、選ばれていたのかもしれない。

石版の下部に、何か、残る方法についての、追加の記述がないか、指先で丁寧になぞっていった。

「何してるんだよ」

背後からの声に、体が跳ねた。振り返ると、大輝が、険しい表情で立っていた。

「いや……ちょっと、気になって」

「嘘つけ。お前の顔、見りゃわかる」大輝は、大股で近づいてくると、石版の文字を、素早く確認した。「お前、まさか、自分が残る方法、探してたのか」

図星を突かれ、言葉に詰まった。その沈黙が、何よりの答えだった。

「馬鹿野郎!」

大輝の怒声が、静かな部屋に響き渡った。「お前、最初から、そのつもりだったのか。俺たちに黙って、一人で全部、背負い込むつもりだったのか!」

「違う、そういうわけじゃ」

「じゃあ、なんで、こそこそ調べてるんだよ!」

言葉に詰まった。大輝の言う通りだった。誤魔化しようのない事実が、そこにあった。

「悪い……。でも、聞いてくれ。もし、誰かが残らなきゃいけないなら、それは、俺であるべきだと思ったんだ」

「なんでだよ」

「石版に、俺の名前が、二つ刻まれてた。最初から、俺が、この世界と、何か特別な関係にあるんじゃないかって、そう思って」

「だから、お前が、勝手に犠牲になっていい理由には、ならねぇだろ!」

大輝の声が、さらに大きくなった。「お前の名前が、二つあろうが三つあろうが、関係ねぇよ。お前は、お前だ。代わりのきかない、俺たちの友達なんだよ。それを、勝手に、一人で処理しようとするな」

その言葉に、返す言葉が見つからなかった。自分では、正しい判断のつもりだった。だが、大輝の目に映る自分は、ただ、仲間を悲しませる、身勝手な人間でしかなかったのかもしれない。

三 澪の告白

大輝の怒鳴り声で、澪と陽菜も、目を覚ました。何事かと駆けつけた二人の前で、大輝との激しい言い合いは、しばらく続いた。

「お前が犠牲になったって、誰も喜ばねぇんだよ! わかってんのか!」

「わかってる。でも、可能性の一つとして、考えとかなきゃいけないだろ」

「考えるな! そんなこと、微塵も考えるな!」

言い合いの末、大輝は、拳を握りしめたまま、肩で息をしていた。その様子を、澪が、静かに見つめていた。

「……私も、同じこと、考えてた」

澪の静かな一言に、大輝の怒りが、一瞬、凍りついた。「澪まで、何言ってんだよ」

「ごめんなさい。でも、聞いてほしい」

澪は、震える声で、ゆっくりと続けた。「おばあちゃんの記録の中に、この世界から戻れなかった人の名前があったの。その人が、もしかしたら、うちの家族と、関係があるかもしれないって」

「それが、どうしたんだよ」

「もし、うちの家族が、この歪みの原因の一端を担ってるなら……私が、責任を取るべきなんじゃないかって」

澪の目に、涙が浮かんでいた。「みんなを、こんな場所まで、巻き込んだのは、私のせいだから」

その言葉に、これまでの自分の考えとは、また違う種類の胸の痛みを覚えた。誰も責めるつもりはなかった。ただ、澪が、これほどまでに、一人で罪悪感を抱えていたことに、気づけなかった自分が、情けなかった。

考えてみれば、澪は、最初から、ずっと一人で戦い続けてきたのだ。この世界に迷い込んでからの日々も、祖母の秘密という重荷も、誰にも打ち明けられないまま、抱え続けてきた。自分が、澪の孤独に、本当の意味で寄り添えていたのか、今更ながら、自信が持てなかった。

「澪、これまで、ずっと、一人で頑張ってきたんだな」

「そんなこと」

「いや、そうだよ。俺が、もっと早く、気づいてやれてたら」

「悠真くんのせいじゃない」澪が、慌てて首を振った。「私が、言わなかったから。ずっと、自分の中に、溜め込んでたから」

「もう、溜め込まなくていい。これからは、全部、俺たちに話してくれ」

「澪のせいじゃない」

震える澪の手を、そっと取った。初めて、責めるのではなく、支えるために、その手を握った。

「誰のせいとか、そういう話は、もうやめよう。四人で、この状況に立ち向かってるんだ。それでいい」

澪は、しばらく、声を殺して泣いていた。大輝も、陽菜も、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに、その様子を見守っていた。

しばらくして、澪が、涙を拭いながら、顔を上げた。「ごめん、みんな。心配、かけて」

「謝るなって、言っただろ」大輝が、優しく言う。「澪のせいじゃない。もし、澪の家族が、何か関係してたとしても、それは、澪が背負うことじゃない」

「でも」

「でもじゃねぇよ」大輝は、きっぱりと言い切った。「悠真にも、澪にも、言いたいことは同じだ。一人で背負おうとするな。それが、一番、俺たちを傷つける」

その言葉に、澪は、再び、涙を溢れさせた。だが、今度の涙は、先ほどとは、少し違う色を帯びているように見えた。悲しみだけでなく、安堵のようなものも、そこには滲んでいた。

「ありがとう、みんな」

小さく呟いた澪の言葉に、四人の間に、これまでとは違う、確かな一体感が生まれていくのを感じた。

四 陽菜の決断

しばらくの沈黙の後、陽菜が、意を決したように、口を開いた。

「私、決めた。誰か一人が残るとか、そういうやり方じゃなくて、全員が帰る方法を、探す」

「そんな方法、あるのか」大輝が、期待と不安の入り混じった声で尋ねる。

「わからない。でも、探さないと、始まらない」

陽菜は、共鳴石に、そっと手を伸ばした。「この石を通して、これまでこの世界に来た人たちの記憶、もっと詳しく辿ってみる。誰か、犠牲を払わずに帰る方法を、見つけた人が、いたかもしれない」

「危なくないのか、それ」

「わからない。でも、やってみる」

陽菜は、覚悟を決めた表情で、石に手を重ねた。目を閉じ、意識を集中させる。しばらくすると、彼女の表情が、微かに歪み始めた。膨大な記憶の断片が、一気に流れ込んでいるようだった。

「大丈夫か、陽菜」

「うん……。大丈夫。でも、すごい量の記憶が、流れ込んでくる」

陽菜の呼吸が、次第に荒くなっていく。心配になり、その肩に手を置こうとしたが、澪に、そっと止められた。「今、触ったら、集中が途切れちゃうかもしれない」

「でも」

「大丈夫。陽菜さん、意外と、こういうの、強いから」

澪の言葉通り、陽菜は、苦しそうな表情を浮かべながらも、石から手を離さなかった。額から、汗が、いくつも流れ落ちていく。その真剣な横顔に、これまで知らなかった、陽菜の強さを、垣間見た気がした。

額に汗を浮かべながらも、陽菜は、石から手を離さなかった。長い時間が経ったように感じられたが、実際には、数分程度だったのかもしれない。やがて、陽菜が、大きく息を吐いた。

「見つけた……。帰還方法の、欠けてた部分」

「本当か?」

「うん。犠牲を払う以外にも、方法があるみたい。ただ、その方法は……歪みの、根本的な原因を、断ち切る必要がある」

具体的な方法は、まだ、朧げにしかわからなかった。それでも、犠牲以外の道があるという事実だけで、大きな希望が芽生えた。

「陽菜、無理はするなよ」大輝が、心配そうに、陽菜の顔を覗き込んだ。

「大丈夫。まだ、続けられる」

「いや、一旦、休め。今の情報だけでも、十分、前進だ」

大輝の言葉に、陽菜は、少し迷った様子を見せたが、やがて、素直に頷いた。「うん……。ちょっとだけ、休ませてもらう」

陽菜の額に浮かんだ汗を、澪が、そっと拭ってあげていた。「陽菜さん、本当にありがとう。おかげで、道が見えてきた」

「まだ、はっきりしてないけどね」

「それでも、大きな一歩だよ」

四人は、改めて、陽菜が見つけた手がかりを頼りに、次の行動を話し合い始めた。犠牲を払わない帰還の道――その可能性が、確かに、開けつつあった。

五 歪みの中心への道

陽菜が見つけた手がかりを頼りに、四人は、再び、崩壊が進む通路を進み始めた。歪みの中心へ向かう道は、これまで以上に、不安定だった。

進むにつれ、周囲の景色が、奇妙な形で歪み始めた。ふと、目の前に、見覚えのある光景が浮かび上がった。小学校の校庭、幼い自分と、幼い大輝が、並んで走っている。

「これ……俺たちの、子供の頃?」

隣を見ると、大輝も、同じ光景を見ているようだった。「なんで、こんなもんが」

「この道、俺たちの記憶を、再現してるみたいだ」

幼い頃の記憶の中、大輝が、転んだ自分に、手を差し伸べていた。『大丈夫か、悠真』その声が、今の大輝の声と、重なって聞こえた。

澪の方を見ると、彼女は、目を閉じて、何かに耳を澄ませているようだった。「おばあちゃんの、声が聞こえる……」

陽菜も、何かを見つめるように、視線を一点に固定していた。額に、うっすらと汗が滲んでいる。「知らない女の子が、いる。すごく、寂しそうな顔をしてる」

「知ってる子か」

「ううん、知らない。でも……なんでだろう、見てると、胸が締め付けられる。この子も、きっと、誰かに、忘れられちゃったんだと思う」

陽菜の声が、震えていた。見知らぬ誰かの孤独に、これほどまでに、心を寄せられる陽菜の優しさに、改めて、胸を打たれた。この世界で消えていった、名前も知らない、無数の人々。彼らもまた、誰かに愛され、誰かを愛していたはずだ。その事実の重さが、改めて、肩にのしかかってきた。

それぞれが、それぞれの記憶に、引き込まれそうになっていた。

「みんな、しっかりしろ! ここで、立ち止まったら、戻れなくなる!」

大輝の叫び声で、我に返った。過去の記憶の魅力に、飲み込まれかけていた自分に気づき、ぞっとした。互いの手を取り合い、記憶の奔流に抗いながら、四人は、なんとか、前へと進み続けた。

一瞬、視界の端に、大輝の幼い頃の光景が、もう一度浮かび上がった。転んだ自分に、必死に手を差し伸べる、幼い大輝の姿。あの頃から、大輝は、変わらず、こうして手を差し伸べ続けてくれていたのだと、改めて実感した。

「大輝、ありがとうな。昔から、ずっと」

前を歩く大輝が、驚いたように振り返った。「なんだよ、急に」

「いや、なんとなく。今、言っときたかった」

大輝は、少し照れくさそうに、鼻の頭をかいた。「今更、感傷的になるなよ。まだ、終わってねぇんだから」

その言葉に、頷いた。過去の記憶に浸っている場合ではない。今、目の前にある現実と、これから向き合うべき困難に、集中しなければならなかった。

道の先、次第に、光が強くなっていくのが見えた。あの水晶の放つ光だろうか。近づくほどに、空気が、張り詰めていくのを感じた。

六 選択の部屋

長い通路の果てに、これまでとは異なる、開けた空間が広がっていた。中央に、巨大な水晶が、静かに浮遊している。水晶の表面には、元の世界の風景が、まるで映画のように映し出されていた。

「これが……歪みの中心?」

近づくと、水晶が、それぞれの視界に、異なる光景を映し出し始めた。目の前に映ったのは、教室で、一人、机に向かう澪の姿だった。大輝も陽菜も、その場にいない。

『悠真くんだけが、帰ってきた世界』

頭の中に、そんな言葉が響いた。

「大輝、お前にも、何か見えてるのか」尋ねると、大輝は、青ざめた顔で頷いた。「俺だけが、教室にいる映像だ。悠真だけが、帰ってきた」

澪と陽菜も、それぞれ、異なる光景を見ているようだった。澪は、祖母の記憶をすべて失った自分の姿を。陽菜は、誰からも覚えられていない、透明な存在としての自分の姿を。

水晶の光を見つめ続けているうちに、目眩にも似た感覚が、体を襲った。まるで、映し出された未来の一つ一つが、自分自身に、直接語りかけてくるかのようだった。

「これ、全部、別々の選択肢なのか」

水晶の光が、四人それぞれに、異なる未来を、まるで誘惑するように、突きつけていた。誰か一人だけが帰る未来。誰かが記憶を失う未来。誰も覚えていない未来。どれも、完全な解決とは、程遠いものだった。

「これ、見てるだけで、なんか、引き込まれそうになる」陽菜が、目を細めながら言った。「すごく、リアルに感じるの。本当に、これから起こることみたいに」

「俺も、同じだ。映像なのに、まるで、もう決まってる未来を、見せられてるみたいな感覚がある」

大輝の言葉に、頷いた。水晶が放つ映像には、抗いがたい説得力があった。だからこそ、余計に、警戒心が募った。都合よく、これほど鮮明な未来を、見せられるはずがない。何か、裏があるはずだ。

「澪、お前は、何が見えてる」

澪は、しばらく、水晶を見つめたまま、答えなかった。表情が、次第に、青ざめていく。「私は……おばあちゃんの記憶を、全部失う代わりに、みんなを助ける未来。それが、見えてる」

その光景の中で、澪の目には、涙が浮かんでいた。祖母との思い出のすべてを手放してでも、みんなを助けようとする、その覚悟の重さが、痛いほど伝わってきた。

その言葉に、澪の手を、思わず強く握った。「それも、選ばせない」

「悠真くん……」

はっきりと、声に力を込めて言った。「全員で帰る。それ以外の結末は、認めない」

その言葉に、澪は、小さく頷いた。目には、まだ、迷いの色が残っていたが、それでも、その手を、しっかりと握り返してくれた。

七 悠真の直感

水晶に映る光景を見つめながら、ふと、違和感を覚えた。映し出される光景の輪郭が、時折、不自然に揺らいでいる。まるで、質の悪い映像を、無理やり繋ぎ合わせているかのように。

「なあ、これ……なんか、変じゃないか」

「変って?」

「この選択肢、どれも、なんか、作り物っぽい。本物の未来を見せてるんじゃなくて、俺たちに、特定の選択をさせようとしてる、感じがする」

言葉にしながら、確信が、少しずつ強まっていった。この水晶が提示しているのは、真の選択肢ではない。誰か一人が犠牲になる、という結論に、自分たちを誘導するための、作られた幻影なのだ。

「よくそんなこと、気づいたな」大輝が、感心したように言った。

「勘だよ、いつもの。でも、今回は、なんか、いつも以上に、確信がある」

「悠真くんの直感、今まで、こういう肝心なところで、外れたことないもんね」澪が、微笑みながら言う。

「外れたこと、あるんだけどな。修学旅行の」

「それは、もう、聞き飽きた」

軽い笑いが、四人の間に、小さく起こった。張り詰めていた緊張の中でも、こうしてお互いを信頼し、軽口を交わせる関係があることが、何よりの支えだった。

「じゃあ、本当の解決策は?」大輝が、真剣な表情で尋ねる。

「わからない。でも、この、犠牲か帰還かっていう二択そのものが、歪みなんだと思う。俺たちがやるべきなのは、選ぶことじゃなくて、この仕組み自体を、壊すことだ」

その言葉に、澪が、大きく頷いた。「私、覚えてる限りの解読を、総動員する」

「私は、みんなの記憶を、繋ぎ止める」陽菜も、決意を込めて言った。

「俺は、力仕事担当だな」大輝が、いつもの調子で、それでも真剣な目で言う。

それぞれが、自分の役割を、改めて確認し合った。一人で背負うのではなく、四人で、この歪みそのものに、立ち向かう。その決意が、静かに、しかし確かに、固まっていった。

「悠真、お前は、何する」大輝が、尋ねてくる。

「俺は……たぶん、この仕組みの、中心に触れることになると思う。理由は、うまく説明できないけど、そんな気がする」

「危なくないのか、それ」

「わからない。でも、誰かが、触れなきゃいけない気がする」

その言葉に、大輝は、しばらく黙り込んだ。それから、真剣な表情で言った。「わかった。でも、絶対に、一人で突っ走るなよ。俺たちも、すぐそばにいるから」

「ああ」

澪が、そっと隣に立ち、手を重ねてきた。「私も、すぐそばにいる。何かあったら、すぐ呼んで」

陽菜も、反対側から、肩に手を置いた。「私たち、四人で、この場所に立ち向かうんだから」

三人の温もりを、それぞれの位置に感じながら、大きく息を吸い込んだ。これまで、一人で抱え込むことに慣れすぎていた自分にとって、こうして、当たり前のように支えてもらえることが、どれほど得難いことか。改めて、実感させられた。

短いやり取りだったが、それぞれの役割と、互いへの信頼が、確かに、そこに存在していた。四人は、改めて、水晶の中心へと、視線を向けた。

「行くぞ」大輝の一言で、四人は、同時に、一歩を踏み出した。

水晶に近づくにつれ、その表面に映る光景が、より鮮明に、より説得力を持って、迫ってくるように感じられた。まるで、こちらの決意を試すかのように。それでも、足を止めなかった。隣を歩く三人の存在が、揺らぎそうになる決意を、その都度、支えてくれていた。

水晶の中心まで、あと数歩というところで、足を止めた。ここから先は、一人で、向き合わなければならない気がした。

「ここから先、俺一人で行く」

「おい」大輝が、即座に反応する。

「大丈夫だ。すぐそばにいてくれれば、それでいい。ただ、水晶に触れる役目は、俺がやる」

大輝は、しばらく、こちらの目を見つめていたが、やがて、小さく頷いた。「わかった。でも、少しでもやばそうだったら、すぐに引きずり戻すからな」

「ああ、頼む」

澪と陽菜も、心配そうな表情を浮かべながらも、静かに頷いてくれた。「無理だと思ったら、すぐに教えてね」澪の言葉に、力強く頷き返した。

三人の視線を背中に受けながら、水晶の中心へと、一人、足を踏み出した。心臓が、痛いほど激しく脈打っている。それでも、後ろを振り返らずに、進み続けた。

八 ひとりで残る決意

それぞれの役割を確認した直後、水晶の輝きが、一段と強まった。中心に近づいた瞬間、頭の中に、再び、あの声が響いた。

『仕組みを壊す、ですか。それは、許されません』

「許すも許さないも、俺たちが決める」

『では、試してみますか』

声の響きに、これまでにない、鋭さのようなものが混じっていた。まるで、初めて、こちらの行動を、脅威として認識したかのようだった。その変化に、確信が、さらに強まった。この選択肢の提示こそが、この世界の管理者が、最も恐れている真実への接近なのだ。

とっさに、三人の方を振り返った。それぞれの表情に、緊張と、それでも揺るがない覚悟が浮かんでいるのを見て、少しだけ、安心した。

「みんな、来るぞ! 気をつけろ!」

叫んだ瞬間、水晶が、これまでにない強さで、脈動し始めた。周囲の空間が、大きく歪み、床が、波打つように揺れる。

声と同時に、水晶から放たれた光が、体を包み込んだ。抗おうとしたが、光は、思った以上に強く、体の自由を奪っていく。

「悠真!」

大輝の声が、遠くから聞こえた。だが、意識は、少しずつ、光の中へと引きずり込まれていく。頭の中で、自分の記憶が、端から少しずつ、薄れ始めているのがわかった。大輝の顔、澪の声、陽菜の笑顔。大切なはずの記憶が、砂のように、こぼれ落ちていく感覚があった。

意識が、遠のいていく感覚があった。まるで、頭の中の引き出しが、一つ、また一つと、静かに開けられ、中身を持ち去られていくような感覚。抗おうとしても、指一本、動かせなかった。

『これが、あなたの選んだ道です』

管理者の声が、頭の中で、静かに響いた。『仕組みを壊そうとした代償は、あなた自身の記憶で、支払っていただきます』

「そんなの、聞いてない……」

『聞かれなかったので、お答えしませんでした』

その淡々とした返答に、怒りすら覚える余裕もなかった。記憶が、少しずつ、確実に、削り取られていく。大切な誰かの顔が、名前が、声が、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、消えていった。

「たすけ……」

初めて、その言葉を、口にしかけた。これまで、誰にも頼らず、一人で抱え込んできた自分が、初めて、助けを求めようとした瞬間だった。

だが、その言葉が、最後まで届く前に、水晶が、一際強く、輝いた。

腕を掴む、大輝の手の感触だけが、最後に残った記憶だった。その手の強さだけを頼りに、遠のいていく意識を、必死に繋ぎ止めようとした。

「悠真、しっかりしろ! 俺たちのこと、忘れるな!」

大輝の声が、幾重にも重なりながら、頭の中に響いていた。澪と陽菜の声も、それに続いた。「悠真くん!」「戻ってきて!」

三人の声が、消えかけていた記憶の断片を、一つ一つ、引き戻していくようだった。完全に手放しかけていた大輝の顔が、澪の横顔が、陽菜の笑顔が、少しずつ、輪郭を取り戻していく。

光が収まったとき、四人は、水晶の前に、崩れ落ちるようにして立っていた。

「悠真、大丈夫か!」

大輝の声に、目を開けた。視界は、まだぼやけていたが、四人とも、無事のようだった。

「……俺、大丈夫、なのか」

自分の手を見つめた。指先が、まだ、微かに震えている。頭の中を探ってみたが、大輝の名前も、澪の名前も、陽菜の名前も、ちゃんと、そこにあった。安堵のあまり、力が抜けそうになった。

「お前が、いきなり倒れるから、心臓止まるかと思ったぞ」大輝が、まだ青ざめた顔で言った。

「悪い……。心配、かけた」制服の背中が、汗で、びっしょりと濡れていることに、今更ながら気づいた。

大輝は、まだ肩で息をしながら、こちらの体を、隅々まで確認するように見つめていた。「本当に、どこも、おかしくないんだな。頭とか、指の数とか」

「馬鹿にしてるだろ、それ」

「してねぇよ、大真面目だ」

軽口のようでいて、その声には、心底からの安堵が滲んでいた。

「本当だよ」陽菜が、涙目で、こちらを覗き込んでくる。「もう、あんな無茶、しないで」

「約束できない、かもしれない」

正直に答えると、陽菜は、呆れたように、それでも、どこか安心したように、小さく笑った。澪も、まだ震える手で、こちらの腕に触れていた。「本当に、無事でよかった」

安堵の息を吐いた、その直後だった。周囲の空気が、再び、ぴりつくような緊張を帯び始めていることに、誰かが気づいた。

「見て……あれ」

澪が、震える指で、部屋の隅を指し示した。そこには、これまで見てきた石版と同じものが、新たに現れていた。近づいてみると、四人の名前が、そこに刻まれている。だが、目を凝らした瞬間、息が止まった。

「悠真」という文字が、石版の上で、ゆっくりと、薄れ始めていた。

「なんで……」声が、掠れた。「なんで、消えかけてるんだよ、俺の名前」

「わからない」澪も、動揺を隠せない様子だった。「さっきの光、まだ、効果が残ってるのかもしれない」

大輝が、石版に駆け寄り、消えかけた文字を、必死に指でなぞった。「消えるな……消えるなよ!」

だが、指で触れたところで、文字の薄れは、止まらなかった。陽菜も、震える声で、何度も、名前を呼び続けた。「悠真くん、悠真くん!」

自分の存在が、少しずつ、この世界から、そして、おそらくは向こうの世界からも、消え去ろうとしている。その実感が、じわじわと、体の内側から、こみ上げてきた。

「怖い……」

思わず、そう漏れた。強がっていた自分が、初めて見せた、本音だった。声が、みっともないほど震えていた。それでも、隠す気力すら、残っていなかった。大輝が、その肩を、強く抱き寄せた。

「大丈夫だ。絶対に、消えさせない。俺たちが、絶対に、お前を、繋ぎ止める」

大輝の声に、澪と陽菜も、力強く頷いた。四人の視線が、消えかけた文字に、一斉に注がれていた。この瞬間、確かに、四人の意志は、一つになっていた。

消えかけた文字を見つめながら、これまでの自分の考えが、間違っていたことに、はっきりと気づかされた。一人で犠牲になることが、優しさだと思っていた。だが、それは、ただの独りよがりだった。本当の優しさとは、こうして、仲間と共に、困難に立ち向かうことなのだ。

「みんな、ありがとう。俺、絶対に、諦めない」

その言葉に、三人が、力強く頷いた。薄れかけた文字を見つめながら、四人は、まだ見ぬ、次の一手を探すべく、再び、書庫の奥へと、視線を向けた。

七章 了



八章 忘れても、君を探す


一 名前の消失

石版の文字が、完全に薄れ切る前に、何か手を打たなければならない。焦りだけが、頭の中を駆け巡っていた。だが、有効な手立ては、まだ、何も見つかっていなかった。

「大輝、俺の声、聞こえてるか」

「聞こえてる。当たり前だろ」

その返答に、少しだけ安堵した。だが、次の瞬間、大輝が、怪訝そうな顔をした。「……今、なんて言った?」

「え?」

「お前の声、なんか、急に、遠くから聞こえるみたいに、こもって聞こえたんだけど」

その一言に、背筋が凍った。自分の存在が、少しずつ、この世界からも、大輝の知覚からも、薄れ始めている。その実感が、じわじわと、体の内側から広がってきた。

「悠真くん、こっち向いて」

澪が、震える手で、こちらの顔を見つめてきた。「顔、少しだけ、透けて見える。気のせいじゃ、ないと思う」

その言葉に、自分の手のひらを見た。心なしか、指先の輪郭が、周囲の景色に、溶け込み始めているように見えた。

「歴史書に、悠真くんの名前、書き続ける」澪が、震える手で、持っていた書物を開いた。「消える速さより、書く速さの方が、少しでも早ければ」

ペン先が、紙の上を走る。何度も、何度も、同じ二文字を、澪は、繰り返し書き続けた。

陽菜は、目を閉じ、両手を、こちらに向かって伸ばしていた。「悠真くんの、声のトーン、覚えてる。笑うときの、ちょっと照れくさそうな感じも。忘れない、絶対に」

記憶ではなく、感覚で、繋ぎ止めようとしている。その必死さが、痛いほど伝わってきた。三人の懸命な努力が、消えかけている自分を、かろうじて、この世界に留めているのだと、はっきりと実感した。

「怖いか」大輝が、ふと、静かに尋ねてきた。

「ああ、正直、怖い」

これまで、強がってばかりいた自分が、素直に、その言葉を口にできた。「でも、みんなが、こうして、繋ぎ止めようとしてくれてるから、まだ、大丈夫だと思える」

「当たり前だろ。お前を、消えさせるわけには、いかねぇんだから」

大輝の言葉に、澪と陽菜も、力強く頷いた。それぞれの作業を続けながらも、時折、こちらの様子を確認する視線を、絶やさなかった。孤独ではなかった。この状況の中でさえ、確かに、支えられている実感があった。

「悠真くん、体、まだ、感じる?」陽菜が、目を閉じたまま、尋ねてきた。

「感じる。まだ、ちゃんと、ここにいる」

「よかった……。このまま、頑張って」

その声に、少しでも応えようと、意識を、必死に保ち続けた。自分の輪郭が薄れていく感覚と、真正面から向き合いながら。

二 四人の役割

「このまま、指をくわえて見てるわけには、いかねぇ」大輝が、拳を握りしめながら、水晶を睨みつけた。「悠真、お前は、水晶の内側の、歪みの中心を探せ。俺は、外側から、できることをやる」

「外側から、何をするんだよ」

「決まってる。ぶっ壊す」

大輝は、そう言うと、近くに落ちていた瓦礫の一つを拾い上げ、水晶の表面へと、力任せに振り下ろした。硬質な音が響き、水晶の表面に、細かい亀裂が走る。

「効いてる……!」

「一人でやるなよ、危ねぇ」

「わかってる。でも、誰かが、やらなきゃ」

澪は、歴史書の欠けた記述を、必死に埋めようとしていた。これまで断片的にしか読み解けなかった帰還条件の記述を、これまでに得た手がかりを総動員して、書き足していく。

「悠真くん、水晶の中心、私にも、見えてる。あの、脈打つように光ってる部分」

「あそこか」

陽菜は、共鳴石を握りしめたまま、目を閉じていた。「消えかけてる記憶、まだ、繋げる。もう少しだけ、時間をちょうだい」

四人が、それぞれの持ち場で、それぞれの役割を、全力で果たそうとしていた。一人の犠牲に頼るのではなく、四人の行動が、少しずつ、噛み合い始めていた。

これまでの自分なら、きっと、一人で全部やろうとしていただろう。誰にも頼らず、誰も巻き込まず、静かに、一人で決着をつけようとしていたはずだ。だが今は、違う。大輝の振るう瓦礫の音、澪のペンが紙を擦る音、陽菜の静かな呼吸。三つの気配が、それぞれ別の場所から、確かに、こちらへ向かって伸びてきている。その重なりが、今の自分を、かろうじて支えていた。

「悠真、聞こえるか。水晶の中心、見えたら、教えろ」大輝が、瓦礫を振り上げながら、叫ぶ。

「まだ……はっきりとは、見えない」

「焦るな。俺たちが、時間を稼ぐ」

大輝の言葉に、少しだけ、心が落ち着いた。一人で抱え込んでいたときには感じられなかった、確かな安心感があった。仲間が、それぞれの持ち場で、自分を支えてくれている。その事実だけで、諦めかけていた集中力が、再び、戻ってくるのがわかった。

「悠真くん、こっちの記述、完成した」澪が、歴史書を掲げながら、声を張り上げる。「帰還には、この歪みの根源に、直接触れる必要があるみたい。核みたいなものが、水晶の奥にあるはず」

「核……」

「それを、砕くか、封じるかすれば、道が開けると思う」

澪の情報を頼りに、水晶の内部に、意識を集中させた。奥深く、ひときわ強い光を放つ、小さな核のような存在が、確かに、視界に浮かび上がってきた。

三 管理者の正体

水晶の亀裂が広がるにつれ、頭の中に、あの声が、再び響いてきた。今度は、これまでよりも、弱々しく、どこか、苦しげな響きを伴っていた。

『やめて……ください……』

「お前は、誰なんだ。本当のことを、教えてくれ」

しばらくの沈黙の後、声は、静かに答えた。『わたくしは……かつて、この世界に迷い込み、帰れなかった者です』

その言葉に、これまで抱いていた疑問の答えが、少しずつ、繋がり始めた。

『わたくしも、あなたたちと同じように、大切な人々の元へ、帰りたかった。でも、方法が見つからず……気づけば、この世界を、管理する立場になっていました』

「なんで、そんなことに」

『帰還を望む者が現れるたび、わたくしは、彼らに、犠牲の道を示しました。それが、この世界を、少しでも安定させる、唯一の方法だと、信じていたから』

声には、深い後悔の色が滲んでいた。『でも、その方法は、新たな歪みを、生み続けるだけでした。犠牲になった者たちの記憶が、この世界に降り積もり、少しずつ、崩壊を早めていた』

その告白に、これまでの、この世界の仕組みが、はっきりと見えてきた。彼女は、悪意を持って、人々を苦しめていたわけではない。ただ、正しい答えを見失ったまま、間違った方法を、繰り返し続けていただけなのだ。

その告白の重さに、しばらく、言葉が出なかった。自分もまた、同じ立場に置かれていたら、同じ選択をしてしまったかもしれない。そう思うと、彼女を、一方的に責める気持ちには、なれなかった。

「あなたも、大切な人がいたんだろ。向こうの世界に」

『……はい。母と、弟が。まだ、幼かった弟の顔を、覚えています。わたくしのことを、覚えていてくれているかどうかは、もう、わかりませんが』

「今も、会いたいか」

『会いたいです。ずっと、ずっと。でも、もう、戻る方法は、わたくしには、見つけられませんでした』

その声には、長い年月をかけて積み重ねられた、深い諦めが滲んでいた。この管理者もまた、被害者の一人なのかもしれない。そう思うと、彼女を打ち倒すという発想そのものが、間違っている気がした。

「最初の頃は、毎日のように、帰る方法を探していました」声が、ぽつりぽつりと、続けた。『でも、何百年、いえ、もっと長い時間だったのかもしれません。数えることさえ、やめてしまいました。数えれば数えるほど、絶望が、深くなっていくだけだったから』

「それでも、ここに、留まり続けたのか」

『留まる、というより……いつの間にか、それしか、選べなくなっていたのです。帰る方法を探すことも、諦めることも、どちらも、恐ろしくて』

その言葉に、覚えのある感覚があった。悠真自身、これまで何度も、一人で抱え込むことを選び、それ以外の道を、自分から閉ざしてきた。彼女の姿は、どこか、そうしていたかもしれない自分自身の、もう一つの未来のようにも思えた。

「あなたを、倒すつもりはない」

『では、何を』

「この仕組みそのものを、終わらせる。もう、誰も、犠牲にしない」

その言葉に、声は、しばらく、沈黙していた。それから、静かに、消え入るように呟いた。『そう、ですか……。それが、できるなら』

『わたくしのことは、もう、気にしないでください。ただ、一つだけ、お願いがあります』

「なんだ」

『あなたたちが、無事に帰った後も、ここで消えていった者たちのことを……時々でいいので、思い出してあげてください。それだけで、彼らも、わたくしも、報われる気がするのです』

その願いに、静かに頷いた。「約束する。忘れない」

声は、それきり、何も答えなかった。ただ、その気配が、これまでよりも、幾分か、穏やかになったように感じられた。

四 歪みの破壊

大輝が開けた亀裂から、水晶の内部へと、体を滑り込ませた。中は、外から見た印象よりも、遥かに広い空間が広がっていた。無数の光の粒子が、周囲を漂っている。

一歩進むごとに、これまで見てきた光景が、次々と、脳裏をよぎった。共鳴石で見た、印を刻む見知らぬ人々。老婆や少年たちの、寂しげな顔。陽菜が見た、名前も知らない少女の姿。

薄れゆく光の粒子の一つ一つに、確かに、誰かの人生の重みが、宿っているように感じられた。老婆の穏やかな笑い方、少年の悔しそうな横顔、作業着の男の、うろ覚えの名前。それぞれが、かつて、誰かに愛され、誰かを愛していたはずだ。

「みんな……忘れられた、人たちなんだな」

一人一人の存在を、心の中で、確認するように見送った。名前も知らない誰かたちの記憶に、深く、頭を下げた。あなたたちのことを、覚えている。少なくとも、この瞬間だけは。

奥へ進むほど、自分の輪郭が、さらに薄れていくのを感じた。腕を持ち上げようとしても、力が、うまく入らない。

「悠真くん!」

「悠真!」

遠くから、三人の声が、届いてくる。その声を頼りに、なんとか、意識を繋ぎ止めた。最後に、自分の名前を、心の中で、繰り返し呟いた。悠真。悠真。忘れるな。俺は、ここにいる。澪の顔を、大輝の声を、陽菜の優しさを、一つ一つ、確かめるように、思い浮かべた。それらの記憶が、消えかけていた自分の輪郭を、少しずつ、はっきりとさせていくのがわかった。

腕も、足も、もう、ほとんど感覚がなかった。それでも、心臓だけは、まだ、確かに脈打っている。その鼓動だけを頼りに、一歩、また一歩と、前に進み続けた。

途中、視界の隅に、小さな光の粒が、ふわりと浮かび上がるのが見えた。目を凝らすと、それは、これまで出会ってきた、老婆や少年、作業着の男たちの、微かな残像だった。誰もが、こちらを見つめ、静かに、頷いているように見えた。まるで、進む道を、後押ししてくれているかのように。

「ありがとう」

小さく、そう呟いた。声にならない声だったかもしれない。それでも、その言葉は、確かに、届いた気がした。

光の粒たちが、それに応えるように、一瞬、強く瞬いた。まるで、長い間、誰にも届かなかった声が、ようやく、受け取られたかのように。その微かな輝きを見届けながら、もう一度だけ、心の中で繰り返した。あなたたちのことを、俺は、確かに見た。

歪みの中心と思われる、ひときわ強い光を放つ場所に、辿り着いた。

五 澪の選択

同じ頃、澪は、歴史書の最後のページに差し掛かっていた。そこには、澪の祖母に関する、唯一の記録が、記されていた。

「これ、破らないと、帰還の扉、開かないみたい」

歴史書の記述によれば、この最後のページを差し出すことで、初めて、四人分の帰還の道が、確定するという。だが、そのページには、祖母が、若い頃、この世界と関わった唯一の証が、記されていた。

破れば、澪の家族の記憶の、大切な一部が、永遠に失われる。だが、破らなければ、四人の帰還そのものが、成立しない。

澪は、しばらく、そのページを見つめたまま、動けずにいた。指先が、微かに震えている。祖母との、数少ない繋がりの証を、今、失おうとしている。その葛藤の重さは、想像に難くなかった。

「澪、大丈夫か」

背後から、心配そうな声をかけられた。だが、澪は、すぐには答えなかった。じっと、ページを見つめ、それから、何かを思いついたように、目を見開いた。

「破るんじゃなくて……写す」

澪は、震える手で、別の紙を取り出し、そこに、ページの内容を、急いで書き写し始めた。一字一句、丁寧に。写し終えると、原本のページだけを、丁寧に切り離した。

「これで、破ったことに、なるんじゃないかな。記録そのものは、残したまま」

その機転に、失うことだけが、唯一の道ではないのだと、改めて気づかされた。切り離されたページが、静かに光を放ち始めた。帰還の扉への道が、確かに、開かれ始めていた。

「澪、それでよかったのか」駆け寄ってきた誰かが、心配そうに尋ねる声が、遠くから聞こえた。

「うん。おばあちゃんの記憶、ちゃんと残せたから。形を変えただけで、なくしたわけじゃない」

澪は、書き写した紙を、大切そうに、胸に抱きしめていた。その表情には、迷いを振り切った、確かな強さが宿っていた。「これでいい。これが、私の選んだ道」

切り離された原本のページが、光の粒子となって、静かに空気に溶けていく。その光景を見送りながら、澪は、小さく、深呼吸をした。もう、後戻りはできない。それでも、後悔はなかった。

胸に抱いた写し紙に、そっと手のひらを重ねた。「おばあちゃん、これで、よかったよね」

答えは、返ってこなかった。それでも、心のどこかで、静かに頷いてくれているような気がした。祖母が、かつてこの場所で、何を思い、何を選んだのか、すべてを知ることは、もう叶わない。それでも、その記録を、失わずに残せたことだけは、確かな誇りとして、胸に刻まれた。

六 大輝の呼び声

歪みの中心、強い光の奥に、何か、脈動する核のようなものが見えた。触れれば、この歪みの根本を、断ち切れる。そう直感した。

だが、手を伸ばそうとした瞬間、意識が、大きく揺らいだ。指先が、光の中に溶けていくような、恐ろしい感覚があった。

「悠真ーーーっ!!」

大輝の声が、これまでで、一番大きく、近くから聞こえた。振り返らずとも、彼が、必死に、こちらへ手を伸ばしているのがわかった。

その声を聞いた瞬間、頭の中に、ある光景が、鮮明に蘇った。幼い頃、大輝と交わした、あの約束。『どこにいても、絶対に探すから』

あの約束は、大輝との間で、交わされたものだった。子供の頃、些細な喧嘩の後、仲直りの証として、指切りをした記憶。忘れていたはずのその記憶が、今、はっきりと、輪郭を取り戻していく。

あれは、小学校の校庭だった。ちょっとした行き違いから、大輝と、大喧嘩をした日。悔しくて、悲しくて、一人で、隅っこに座り込んでいたところに、大輝が、気まずそうな顔で、近づいてきた。「悪かったよ」その一言から始まった、ぎこちない仲直り。最後に、二人で、指切りをした。「どこにいても、絶対に探すから」その言葉を、確かに、口にしたのは、自分の方だった。

夕方の校庭には、誰もいなかった。錆びたブランコの軋む音だけが、遠くから響いていた。大輝は、しばらく、うつむいたまま、何も言わなかった。それから、ぽつりと、「お前がいないと、つまんねぇんだよ」と呟いた。その不器用な一言に、それまで張っていた意地が、あっけなく崩れた。二人で、砂だらけのまま、笑い合った。小指を絡めたとき、大輝の手は、驚くほど熱かった。あの熱が、今、繋いでいる手のひらの中に、確かに、蘇っていた。

その記憶の温かさに、胸が、じんと熱くなった。この約束こそが、これまで、自分の中に、ずっと眠っていた、大輝との絆の、原点だったのだ。

「大輝との、約束……」

その記憶が蘇った瞬間、核の脈動が、大きく揺らいだ。まるで、この歪みの根源が、その約束の強さに、共鳴するかのように。

「悠真、手!」

伸ばされた大輝の手を、力の限り、掴んだ。指先の感触が、確かに、そこにあった。

「お前を、一人になんか、させねぇ」

大輝の言葉に、これまで自分が選ぼうとしていた道が、いかに間違っていたかを、改めて思い知らされた。一人で残る選択を、今、はっきりと、拒む。

「俺も、みんなと、帰る」

その言葉と共に、核に残った手のひらに、渾身の力を込めた。輪郭が薄れかけていた指先に、少しずつ、確かな感覚が戻ってくるのがわかった。大輝の手の温もりが、まるで、消えかけていた自分の存在を、この世界に、もう一度、繋ぎ止めてくれているかのようだった。

「悠真くん!」

澪の声も、すぐそばから聞こえた。陽菜の気配も、確かに、感じられる。四人が、揃っている。その事実だけで、これまで感じていた恐怖が、少しずつ、和らいでいくのがわかった。

「今だ、みんなで、一気に押し込む!」

大輝の号令に、四人の意識が、一つに重なった。核に込めた力が、これまでにない強さで、脈動し始める。

七 帰還

核が、眩い光と共に、砕け散った。同時に、世界全体が、激しく揺れ始めた。天井が、壁が、次々と崩れ落ちていく。

「みんな、こっちだ!」

大輝の声に導かれ、崩壊する空間の中を、必死に走った。四人は、それぞれ、異なる方向から吹き荒れる風に、引き離されそうになりながらも、互いの手を、離さずにいた。

光の奔流の中、最後に、これまで見てきた、無数の忘れられた人々の姿が、視界の端に浮かび上がった。老婆、少年、作業着の男。誰もが、穏やかな表情で、こちらを見送っているように見えた。

「ありがとう」

心の中で、そう呟いた。あなたたちのことは、忘れない。

『……こちらこそ』

あの声が、最後に、そう応えた気がした。優しく、どこか、安堵したような響きだった。

「悠真くん!」

澪の声が、光の向こうから聞こえた。手を伸ばすと、確かに、澪の指先が、そこに触れた。四人の体が、光の中心へと、一斉に吸い込まれていく。

崩れゆく空間の中、四人は、必死に、お互いを見失わないよう、声を掛け合い続けた。「離れるな!」「こっち!」「大丈夫、すぐそばにいる!」

視界が、白く塗りつぶされていく中、隣を走る大輝の横顔が、一瞬だけ見えた。真剣な表情の奥に、確かな安堵が滲んでいるのがわかった。澪の手が、反対側から、しっかりと腕を掴んでくれている。陽菜の声も、すぐ近くから、途切れることなく届いていた。

四人の存在を、それぞれの感覚で、はっきりと確認しながら、光の奔流に、身を任せた。もう、怖くはなかった。一人ではないという事実が、これまでにない、確かな安心感を与えてくれていた。

意識が、遠のいていく感覚の中、最後に感じたのは、繋いだ手のひらの温もりだった。

八 戻った日常

目を覚ますと、そこは、見慣れた図書室だった。窓際の席に、頬杖をついて、座り込んでいる。差し込む西日が、床に、長い影を落としていた。

頭が、ぼんやりとしていた。何か、大切なことを、夢に見ていた気がする。だが、その内容は、もう、うまく思い出せなかった。

「悠真くん、大丈夫? 居眠り?」

声をかけられ、顔を上げた。見覚えのある女子生徒が、心配そうに、こちらを覗き込んでいる。名前は、たしか――佐倉、澪。同じクラスの、図書委員。

「ああ、平気。ちょっと、疲れてたみたいだ」

そう答えながらも、頭の片隅に、言葉にならない違和感があった。目の前の澪を見ていると、なぜか、無性に、懐かしいような、切ないような、複雑な感情が込み上げてくる。理由は、わからなかった。

「悠真くん、最近、よく、ぼーっとしてるよね」澪が、小首を傾げながら言った。「何か、考え事?」

「いや……。うまく、言えないんだけど。なんか、大事なこと、忘れてる気がして」

「大事なこと?」

「わからない。でも、思い出そうとすると、頭の奥が、もやもやするんだ」

澪は、少し不思議そうな顔をしながらも、それ以上は、深く聞いてこなかった。「思い出せなくても、いいんじゃないかな。大事なことなら、きっと、また、自然に思い出すよ」

その言葉が、なぜか、妙に、心に響いた。「そうだな……。そうかもな」

「これ、頼まれてた資料。郷土史のコーナーにあった本」

差し出された本を、受け取った。表紙の色褪せた古書。理由もなく、その本に、強い既視感を覚えた。

教室に戻る途中、廊下で、大輝と陽菜に会った。「よう、悠真」大輝が、いつもの調子で、片手を上げる。その顔を見た瞬間、言葉にできない、深い安堵が、胸に広がった。

なぜだか、無性に、涙が出そうになった。理由なんて、何もないはずなのに。大輝の、いつも通りの、軽い笑顔。それだけのことが、今は、途方もなく尊いもののように感じられた。

「なんだよ、変な顔して」

「いや……。なんでもない。会えて、よかったなって、思って」

大輝は、一瞬、虚をつかれたような顔をした後、照れくさそうに、頭をかいた。「相変わらず、たまに、意味わかんねぇこと言うよな、お前」

「そうか?」

「そうだよ」

軽口を交わしながらも、大輝の目の奥には、こちらの言葉を、ただの冗談としては、聞き流していない、真剣な色が、確かに、浮かんでいた気がした。

「二人とも、なんか、機嫌よさそうだな」

「そうか? 別に、いつも通りだけど」

大輝と陽菜は、顔を見合わせ、小さく笑い合っていた。その笑顔の奥に、何か、自分の知らない秘密が隠されている気がしたが、うまく言葉にできなかった。

「なあ、大輝」

「なんだよ」

「俺たち、昔から、こんな感じだったよな。理由もなく、なんか、信頼し合ってるっていうか」

大輝は、一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、いつもの調子で、軽く笑った。「急に、何言い出すんだよ、気持ち悪い」

「いや、なんとなく、思っただけだ」

「まあ、そうだな。お前とは、腐れ縁だからな」

その何気ないやり取りの中に、言葉にできない、確かな温かさがあった。理由はわからないが、この関係を、これからも、大切にしたいと、強く思った。

陽菜も、そんな二人のやり取りを見ながら、静かに微笑んでいた。「二人とも、本当に、仲がいいよね」

「これのどこが、仲がいいんだよ」大輝が、苦笑しながら言う。

「見てればわかるよ」

その言葉に、思わず、笑いが漏れた。理由のわからない懐かしさと、確かな安心感に包まれながら、三人並んで、教室へと歩いていった。

図書室に戻り、澪から受け取った資料を、机の上に広げた。ページをめくっていくと、紙の端に、小さく、走り書きのような文字が、記されているのに気づいた。目を凝らして読んでみると、それは――自分の名前だった。「悠真」という、二文字。

誰が、いつ、書いたものなのか、まったく心当たりがなかった。それでも、その文字だけが、消されることなく、はっきりと、そこに残っている。理由のわからないまま、その文字を、しばらく、じっと見つめ続けていた。

窓の外を見ると、夕暮れの光が、校庭の欅を、橙色に染めていた。いつもと変わらない、平凡な放課後の風景。それなのに、なぜか、この瞬間が、とても、かけがえのないもののように感じられた。

「悠真くん、それ、何?」澪が、隣から、そっと覗き込んできた。

「いや……。なんでもない。ただの、落書きみたいだ」

そう答えながらも、自分の名前が刻まれたその文字を、そっと、指先でなぞった。触れた瞬間、胸の奥に、温かい何かが、静かに広がっていくのを感じた。理由はわからない。それでも、確かに、大切な何かが、この文字の中に、宿っている気がしてならなかった。

本を閉じ、鞄にしまった。教室へ戻る足取りが、いつもより、少しだけ、軽い気がした。

図書室を出ると、廊下の窓から、下校していく生徒たちの姿が見えた。その中に、大輝と陽菜の姿もあった。二人は、何か話しながら、ふと、同じタイミングで、こちらを振り返った。目が合った瞬間、三人とも、なぜか、少しだけ照れくさそうに、笑った。言葉は、何も交わさなかった。それでも、その一瞬の視線の中に、うまく言葉にできない、確かな何かが、通い合っていた気がした。

澪が、隣に並び、同じ窓の外を見ていた。「なんか、いい天気だね」

「ああ、そうだな」

特別なことは、何も起きていない。それなのに、この何気ない時間が、たまらなく愛おしく感じられた。理由は、わからないままでいい。そう思えるようになったことだけが、今の自分にとって、何よりも確かな変化だった。

八章 了



終章 記憶の外側


一 文化祭の後

文化祭が終わると、商店街には、いつもの日常が戻ってきた。片付けの終わった校庭に、秋の風が吹き抜けていく。誰もが、少し疲れた顔で、それでも満足げに、後片付けをしていた。

あの日から、何かが変わった気がしていた。理由は、うまく説明できない。ただ、大輝が、以前よりも、頻繁に話しかけてくるようになった。

「悠真、明日、暇か」

「別に、予定はないけど」

「じゃあ、駅前の新しいラーメン屋、行こうぜ」

そんな、他愛のない誘いが、以前より増えた。断る理由もなかったので、大抵、素直に頷いた。大輝の方も、こちらの返事を、当然のように待っている。その距離の近さに、理由のわからない安心感を覚える自分がいた。

廊下ですれ違うたび、なんとなく、大輝の姿を目で追ってしまう。忙しなく歩く後ろ姿を見ていると、なぜか、ほっとする。理由を考えても、答えは出てこなかった。ただ、そこにいてくれることが、当たり前ではなく、ありがたいことのように感じられた。

一度、大輝が、教室に姿を見せない日があった。風邪で休んだだけだと、後になって知ったのだが、その日の朝、教室の扉を何度も見てしまう自分に気づいて、少し戸惑った。放課後、誰に頼まれたわけでもないのに、プリントをまとめて、大輝の家に届けに行った。玄関先で、寝間着姿の大輝が、驚いた顔をしていた。

「わざわざ来るとか、律儀だな、お前」

「ついでだよ、ついで」

そう答えながらも、本当にただのついでだったのか、自分でも、うまく説明がつかなかった。

陽菜は、文化祭の間に撮った写真を、部室の机に広げて、整理していた。

「悠真くん、見て。これ、四人で撮ったやつ」

差し出された写真には、悠真、大輝、澪、陽菜の四人が、揃って笑っている姿が写っていた。いつ、どこで撮ったのか、はっきりとは思い出せない。それでも、写真の中の自分たちは、確かに、楽しそうだった。

「いい写真だな」

「でしょ。あ、でも、これ……」

陽菜が、一枚の写真を、じっと見つめていた。「背景に、変なもの、写ってない?」

覗き込むと、四人の背後、校舎の向こうに、見覚えのない建物の影が、うっすらと写り込んでいた。時計台のような、細長いシルエット。だが、この学校の周辺に、そんな建物は、記憶にない。

「なんだろ、これ」

「さあ……。光の加減、じゃない?」

はっきりとした答えは出ないまま、その写真は、他の写真と一緒に、アルバムに収められた。その影のことは、誰も、それ以上は、深く追及しなかった。

それでも、悠真は、アルバムを閉じた後も、しばらく、その写真の輪郭を、頭の中で、なぞり続けていた。見覚えのない建物のはずなのに、どこかで、確かに、その前に立ったことがあるような気がしてならなかった。

「悠真くん、難しい顔してる」

陽菜に指摘されて、初めて、自分が、眉間に力を込めていたことに気づいた。「いや、なんでもない。ちょっと、考え事」

「珍しいね、悠真くんが考え事なんて」

からかうような口調に、思わず、苦笑が漏れた。それ以上、写真のことを、口にする気にはなれなかった。

二 図書室の澪

放課後、悠真は、自然と、図書室に足を向けていた。特に用があるわけではない。それでも、なぜか、この場所に来ると、落ち着く気がした。

いつもの窓際の席に、澪が座っていた。古い郷土資料を、静かにめくっている。声をかけると、澪は、顔を上げ、控えめに微笑んだ。

「悠真くん、また来たの」

「うん、なんとなく」

「なんとなく、図書室に来る人、珍しいよね」

軽口を交わしながら、隣の席に腰を下ろした。澪が読んでいる資料を、何気なく覗き込む。古い町の写真や、地図が、ページの端に並んでいた。

「その資料、面白い?」

「うん。古い町の記録なんだけど……なんでだろう、読んでると、妙に懐かしい気持ちになるの」

澪は、そう言いながら、ページをめくる手を止めた。しばらく、何かを考え込むように、視線を落としていた。それから、ふと、思い出したように、口を開いた。

「悠真くん、変なこと聞いていい?」

「何?」

「前に、どこかで、会ったことがある気がするの。この図書室じゃなくて……もっと、別の場所で」

その言葉に、一瞬、胸の奥が、小さくざわついた。だが、その感覚の正体を、うまく掴むことができない。

「気のせいじゃないか。俺たち、去年から同じクラスだし」

「そう、だよね……。うん、気のせい、かな」

澪は、納得したように頷いたが、その表情には、まだ、微かな戸惑いが残っていた。悠真自身も、冗談めかして流したものの、内心では、同じ違和感を、拭いきれずにいた。

そのとき、机の上に置かれていた別の本が、風もないのに、ひとりでに、ページを開いた。二人は、同時に、その本へと視線を向けた。

「今の、見た?」

「見た……。風、入ってきてないよな」

開いたページには、ただ、白紙の余白が広がっているだけだった。何が書かれていたのかも、これから何が書かれるのかも、わからない。二人は、しばらく、その白いページを、無言で見つめ続けた。

「怖くは、ないんだけど」澪が、ぽつりと呟いた。「なんでだろう。すごく、懐かしい気持ちになる」

「懐かしい、か」

「うん。この余白に、前に、何か書いてあったような気がするの。それが、今は、思い出せないだけで」

その感覚には、確かに、覚えがあった。理由もなく、頷いてしまいそうになるほど、身に覚えのある感覚だった。それでも、二人とも、それ以上、言葉にすることはできなかった。

司書の先生が、通りかかり、「静かにね」と、軽く声をかけてきた。その一言で、二人とも、我に返ったように、姿勢を正した。何事もなかったかのように、澪は本を閉じ、悠真は席を立った。それでも、窓の外へ向かう足取りの中で、今しがたの白いページの余韻だけは、しばらく、消えずに残っていた。

三 大輝の記録

その夜、大輝は、自分の部屋で、一冊のノートに向かっていた。

何を書こうとしているのか、自分でも、はっきりとはわからなかった。それでも、ペンを持つ手は、自然と、動き始めていた。書き始めると、次々と、言葉が湧いてくる。何か、大切な出来事があった、という感覚だけは、確かにあった。

だが、いざ文章にしようとすると、肝心な部分が、うまく思い出せない。誰と、どこで、何をしていたのか。輪郭は感じられるのに、中身が、するりと、指の間から抜け落ちていくようだった。

ペンを止め、しばらく、天井を見上げた。それでも、一つだけ、はっきりと残っている感覚があった。

――誰かを、必死に探していた。

その感覚だけは、記憶の欠落の奥で、確かな重みを持って、そこにあった。理由も、経緯も、思い出せない。それでも、その必死さだけは、体のどこかに、刻み込まれているようだった。

ノートの最後のページに、大輝は、四つの名前を書き記した。

悠真。澪。陽菜。そして、自分の名前。

なぜ、この四人の名前を、ここに書き残しておきたいと思ったのか。理由は、自分でも、うまく説明できなかった。それでも、そうすることが、当然のように感じられた。

窓の外を見ると、夜空に、星が、ぽつぽつと瞬いていた。ふと、あの必死さの奥に、もう一つ、確かな感触があったことを思い出した。一人ではなかった、という感触。誰かと、肩を並べていたという感触。それが、誰だったのかは、やはり、思い出せない。それでも、その感触だけは、間違いなく、本物だった。

ノートを閉じ、机の引き出しの奥に、そっとしまい込んだ。しまう直前、もう一度だけ、表紙を開き、四つの名前を、目で追った。なぜか、それだけで、少しだけ、心が落ち着いた気がした。

四 時計台の下

日曜日の午後、悠真は、大輝に誘われて、街外れにある古い時計台の下に立っていた。

「なんで、急にここ、来たいなんて言い出したんだよ」大輝が、不思議そうに尋ねてきた。

「わからない。なんとなく、来てみたかっただけだ」

古びた時計台の針は、長い間、止まったままだった。誰も管理していないのか、周囲には、雑草が、伸び放題になっている。それでも、この場所に、理由のわからない、強い引力のようなものを感じていた。

時計台の土台に、そっと、手のひらを触れさせた。ひんやりとした石の感触が、指先から伝わってくる。その瞬間、遠くの方から、誰かが、静かに歩いてくるような足音が、微かに聞こえた気がした。

「今の、聞こえたか」

「何が?」

大輝は、怪訝そうな顔で、辺りを見回した。「誰もいないだろ、こんなところ」

確かに、周囲には、誰の姿も見当たらない。それでも、あの足音は、確かに、聞こえた気がした。誰の足音なのか、どこへ向かっているのか。手がかりは、何も残っていなかった。

「そうだよな。気のせいか」

そう言いながらも、土台に触れた手のひらを、しばらく、離すことができなかった。この場所に、何かが、まだ、眠っているような気がしてならなかった。

「なあ、悠真」大輝が、時計台を見上げたまま、ふと、口を開いた。「お前、俺のこと、探しに来てくれたこと、あるよな」

唐突な問いに、思わず、聞き返した。「何の話だよ」

「わかんね。ただ、そんな気がしただけ」

大輝は、頭をかきながら、決まり悪そうに笑った。「忘れてくれ、変なこと言った」

「いや……」

否定しようとして、言葉に詰まった。忘れてくれ、と言われても、簡単に頷くことができなかった。むしろ、その一言に、何か、大切なものが、確かに触れられた気がした。二人は、それ以上、その話を続けることなく、しばらく、止まったままの針を、並んで見上げ続けた。

五 忘れられない違和感

家に帰ってから、風呂に入ろうと、シャツを脱いだときだった。手のひらに、薄っすらと、見慣れない文様が浮かんでいることに気づいた。

まるで、古い紋章のような、複雑な線の模様。だが、そんなものを、自分の手に刻んだ覚えは、まったくなかった。傷跡でもなければ、タトゥーでもない。ただ、皮膚の下に、うっすらと、透けて見えるだけの、不思議な模様だった。

翌日、学校で、その文様のことを、何気なく澪に話してみた。すると、澪も、同じように、自分の手のひらを見せてきた。

「私にも、同じの、ある」

二人の手のひらに、確かに、同じ文様が浮かんでいた。並べて見比べても、その意味を読み解くことはできなかった。

「これ、なんだろうね」

「わからない。でも……」

「でも?」

「なんとなく、悪いものじゃない気がする」

その言葉に、澪も、小さく頷いた。「うん、私も、そう思う」

その夜、悠真は、夢を見た。目が覚めた瞬間には、ほとんどの内容を、忘れてしまっていた。それでも、一つの光景だけは、鮮明に残っていた。

夢の中で、澪が、光の中に、消えていく。手を伸ばしても、届かない。声を上げても、届かない。ただ、澪が、静かに、遠ざかっていく。その光景だけが、胸の奥に、重い痛みとなって、残っていた。

なぜ、そんな夢を見たのか。理由は、まったく思い当たらなかった。それでも、目覚めた後も、しばらくの間、その痛みだけは、消えずに、胸の中に、留まり続けていた。

登校して、教室で澪の姿を見つけた瞬間、無意識のうちに、大きく息を吐いていたらしい。「どうしたの、そんな顔して」と、澪に不思議そうに尋ねられ、初めて、自分が、安堵していたことに気づいた。

「いや……。ちゃんと、いるんだなって」

「いるよ、そりゃ。何、変なこと言ってるの」

澪は、くすりと笑いながら、いつもの調子で、机に頬杖をついた。その何気ない仕草に、昨夜の夢の痛みが、少しずつ、和らいでいくのがわかった。それでも、手のひらの文様に触れるたび、あの光景の残像だけは、しばらく、消えずに残り続けた。

六 未来への余白

季節は、巡っていった。木々の葉が色づき、やがて、また、文化祭の準備が始まる季節になった。

放課後の図書室で、悠真と澪は、また、あの古い郷土資料を、並んで手に取っていた。以前と、同じページ。同じ、色褪せた紙の匂い。

「あれ……」

澪が、ページをめくる手を止めた。「このページ、前は、なかった気がする」

覗き込むと、そこには、この町のどこにも存在しないはずの、古い時計台の地図が、描かれていた。街の様子は、今の風景とは、微妙に異なっている。まるで、少しだけ、ずれた場所の地図のようだった。

地図の端、小さな余白の部分に、何か、文字が書き加えられていることに気づいた。目を凝らすと、それは、一つの名前のようだった。

その名前を読もうとした瞬間、なぜか、胸の奥に、小さな痛みが走った。読んではいけない、というより、まだ、読むべきではない。そんな、根拠のない直感が、静かに、体の奥からせり上がってきた。

「悠真くん?」

「……いや、なんでもない」

そう答えて、悠真は、そのページを、そっと閉じた。名前の続きを読むことは、しなかった。

「読まなくて、よかったの?」

「うん。なんとなく、今じゃない気がして」

澪は、少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は、聞いてこなかった。窓の外では、来年の文化祭に向けて、生徒たちが、忙しなく準備を進めている声が、遠くから響いていた。

「ねえ、悠真くん」澪が、閉じた本の表紙を、そっと撫でながら、口を開いた。「もし、いつか、思い出すことがあったら――教えてくれる?」

「ああ、約束する」

その言葉が、口をついて出た瞬間、なぜか、胸の奥に、確かな重みを感じた。以前にも、同じような約束を、誰かと交わしたことがあるような気がした。それが、いつのことなのか、誰との約束だったのかは、やはり、思い出せなかった。

「なんか、悠真くん、今、変な顔してたよ」

「そうか? 自分じゃ、わからないな」

軽く笑い合いながら、二人は、本を書架へと戻した。棚に収まったその背表紙を、少しの間、並んで見つめた。いつか、また、このページを開く日が来るのだろう。そのときには、きっと、今より、少しだけ多くのことを、思い出せているかもしれない。

いつか、あの名前を、もう一度、目にする日が来るのだろうか。答えは、まだ、わからない。それでも、その日が来ることを、どこかで、確かに、待っているような気がした。

閉じたはずの本の向こうで、時計の針が、一度だけ、音を立てた。

了














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