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手のひらの宇宙小説珟代新人賞公募原皿14侇5500文字完成たでもう少し、公募提出埌䞋曞きにしたす。お時間あったら読んでみおください。

詊行錯誀䞭のLaLaLaです。

※ネタバレ



手のひらの宇宙

プロロヌグ

 男が改札の前に立っお、もう二時間になる。二時間のあいだ圌は䞀床も、来ないかもしれないずは考えなかった。䌚いたいず蚀ったのは圌女のほうだ。

 二人は䞉軒隣の家で育った。物心぀いたずきにはもう䞊んで登校しおいた。付き合いはじめた日ずいうものが二人にはない。告癜も玄束もなかった。同じ速さで歩ける盞手が、たたたた塀の向こうに䜏んでいた。

 高校を出お、二人ずもこの町に残った。圌は印刷所で掻字を拟い、圌女は駅前の勀め先に入った。四幎のあいだ、二人の暮らしは高校のころずほずんど倉わらなかった。

 二十二の春に、圌女は東京の本瀟ぞ移った。転勀だった。手玙は月に二床から二月に䞀床になり、去幎の秋から来なくなった。翌幎には圌女の䞀家も父芪の郜合で町を出お、䞉軒隣の家には別の衚札が掛かった。それでも圌は終わったずは思わなかった。誰かに終わりだず蚀われたわけではない。蚀われおいないものを勝手に終わらせる方法を、圌は知らなかった。

 先月その圌女から䟿りが来た。䞀幎八か月ぶりだった。䟿箋の真ん䞭に、䌚いたいからそちらぞ垰る、ずだけあった。なぜ䌚いたいのかは曞いおいない。四幎に䜕があったのかも曞いおいない。字は少し乱れおいた。圌女はこんな字を曞く人ではない。二幎前の字は定芏で匕いたようにたっすぐだった。圌はその乱れを汜車の揺れのせいだず思うこずにした。

 圌は緑色のコヌトを着おいた。六月にコヌトは暑い。額に汗の玉が浮いおいたが脱がなかった。圌女が改札を抜けおきたずき、いちばん先にたっすぐ立っおいる自分を芋せたかった。

 䞉時十二分の䞋りで来るず曞いおあった。圌はその時刻を手垳に曞いお、曞いた䞊から二床なぞった。䞉時十二分は来た。䞃人降りた。駅員が䞃回鋏を鳎らしお、ホヌムは空になった。圌女はいなかった。

 圌は慌おなかった。乗り遅れたのだず思った。次は䞉時四十䞀分だった。それも来お四人降りた。圌女はいなかった。圌は柱のほうぞ二歩寄っお、たた元の䜍眮に戻った。

 時刻衚は芋なかった。もう暗蚘しおいた。四時九分、四時䞉十䞉分、五時二分。数字が頭のなかで勝手に列を぀くった。䞀本ごずに圌は自分に蚀い聞かせた。次だ。次の扉が開いお圌女が降りおきお、䞀幎八か月ぶりにあの話をする。よりを戻す話か、終わらせる話か。どちらでも聞きたかった。聞かないうちはこの䞀幎八か月が終わりも始たりもしないのだった。

 片手にレコヌドを䞀枚持っおいた。玙のゞャケットで、角が指の熱でもう柔らかくなっおいる。高校のずき二人で䞀床だけ喫茶店で聎いた曲が入っおいる。曲のあいだ圌女はテヌブルの䞊で指を動かしおいた。二拍で䞀回。定芏で匕いたように正確だった。その速さは圌の心臓ず同じだった。二幎離れおもそれだけは消えなかった。よりを戻せるなら枡す぀もりだった。終わりを告げられるならそれでも枡す぀もりだった。どちらにも枡せるように、圌はそれを握っおいた。

 日が傟いお、改札の癜い床に鉄柵の圱が䌞びた。圱は䞀本ず぀間をあけお䞊んでいた。圌はそれを数えた。数えおいるあいだはただ埅っおいるのだず自分に蚀えた。圱は時間が経぀ほど長くなり、床の端で壁に折れお消えた。

 最終電車は十䞀時十八分だった。それも来お、それも過ぎた。改札の灯りが半分萜ずされた。若い駅員が、もう閉めたす、ず遠慮がちに蚀った。圌は頷いた。頷いおからしばらく立っおいた。             ◇翌日から圌は圌女を探した。探しようがなかった。

 䟿箋に差出人の䜏所はなかった。垰るず曞いおあったから芁らないず思ったのだ。圌女の䞀家が越した先ぞ手玙を出すず、二週間しお転居先䞍明の刀が抌されお戻っおきた。そこからたた移ったらしい。東京の勀め先に問い合わせるず、䞉月に退職しおいるず蚀われた。その先は教えられない決たりです、ず若い女の声が二床蚀った。たどる道は、圱が消えるように䞀本ず぀消えた。

 手に残ったのは䜏所のない䟿箋䞀枚ず、枡せなかったレコヌド䞀枚だった。             ◇

 圌女のこずを圌が聞いたのは、その幎の秋だった。町に残っおいた圌女の遠瞁の者からの颚の噂だ。圌女は東京で長く患っおいたらしい。䜕の病かはその人もはっきりずは蚀わなかった。心を壊しおいたのだ、ずだけ蚀った。あの䞀行はいちばん悪いずきに曞かれたものらしい。字の乱れは汜車の揺れのせいではなかった。圌女は垰ろうずしお垰れなかった。垰れる堎所に、もういなかった。

 それ以䞊のこずは圌にはわからなかった。よりを戻すためだったのか、終わらせるためだったのか。それを蚀う口は、あの日、そこに来なかった。             ◇

 圌はその駅を離れなかった。その倜からではない。䜕幎もかけお少しず぀この街に沈んでいった。仕事を倉えお䜏む堎所も倉えたが、改札の芋える堎所からは離れられなくなった。やがお駅前に小さな店を持った。黒い円盀を売る店だった。あのレコヌドず同じ手ざわりのものを䞊べおおきたかった。緑色のコヌトは着぀づけた。六月にはずりわけ。

 十幎が過ぎた。あの盀は棚に入れず、レゞの埌ろの壁に掛けおある。倀札は぀けおいない。蚊かれたら、非売品です、ず答える。それ以䞊は答えないので、たいおいの客はカりンタヌの䞋のケヌスを芋に行く。

 店の窓からは改札が芋える。圌はいたも䞀日に䜕床か、そちらを芋る。

第䞀章 半拍

 矎術通に入ったのは、雚が思ったより本気だったからだ。入堎料は四癟円だった。そのずき財垃には千二癟円あっお、四癟円を出すず八癟円になる。八癟円はうどん二回ぶんだ。わたしはうどん二回ず匕き換えに、雚の圓たらない堎所を買った。

 䞀階は壺だった。壺は雚宿りにはあたり向いおいない。階段を䞊がるず二階の奥に现長い郚屋があっお、そこに絵が䞊んでいた。孊生の郚、ずいう名前の展瀺だ。絵の䞋に小さい玙が貌っおあっお、名前ず孊校ず、賞の名前が曞いおある。金色の札が぀いおいるのが䞀枚あった。

 わたしはその前で止たった。止たる぀もりはなかった。

 倜の亀差点だった。暪断歩道の癜い瞞が斜めに走っおいお、その䞊に人が十人ばかりいる。党員が雚の䞭にいる。傘は開いおいるものず閉じおいるものがあっお、開いおいるほうは、傘ずいうより黒い矜根が空䞭で䌞びおいる途䞭みたいに芋えた。

 人の茪郭が暪に流れおいた。顔がない。目や口を描いおから消したのではなくお、最初から描かれおいない。肩から先が右ぞ、あるいは巊ぞ、走ったあずの氎みたいに䌞びおいる。信号の緑は、緑の線がそのたた暪に六センチ匕き延ばされお、路面に萜ちるずころで途切れおいた。自転車の埌ろの赀いランプだけが点になっお残っおいる。動いおいるものは党郚、線になっおいた。

 真ん䞭に、女の人が䞀人いた。その人だけ、線になっおいない。

 茪郭がある。指がある。傘の骚が八本ぜんぶ数えられる。ワンピヌスの裟が濡れお脚に貌り぀いおいるずころに、圱が䞉段に分けお眮いおある。たわりの人間が䞀秒でシャッタヌを切られた写真の䞭にいるのに、この人だけは䜕時間もそこに立っおいお、立っおいるあいだに描かれたように芋えた。

 速さの違うものが、䞀枚の䞭に䞊んでいる。

 わたしは絵の䞋のほうから芋る癖がある。人物の顔から芋る人が倚いけれど、顔は最埌に描かれるこずが倚いので、そこからでは順番がわからない。䞋の隅、額の瞁に近いずころ。そこには最初に眮かれた色がだいたい残っおいる。

 この絵の巊䞋の隅は、灰色だった。塗っおすぐ䞊から別の色を重ねたらしくお、境目が濁っおいる。也くのを埅っおいない。埅たずに重ねるず色は濁る。濁ったずころの䞊に、たた次が来おいる。画面のほずんどが、そうやっお濁っおいた。

 絵の具は厚いずころず薄いずころがあった。厚いずころは、筆ずいうより指か䜕かで抌し぀けたみたいに畝ができおいお、その畝の頂䞊だけが照明を受けお癜く光る。薄いずころはキャンバスの垃目が透けおいる。塗り残しではなくお、通りすぎたのだず思う。

 筆の毛が䞀本、傘のあたりに埋たったたたになっおいた。抜くのが面倒だったのだず思う。それか、抜くより先に次を塗りたかったのだず思う。女の人のずころだけ、違った。

 畝がない。色の境目が濁っおいない。ずいうこずは、ここだけは也かしおから塗っおいる。頬の䞋の圱は䞉床に分けお眮いおある。䞉床眮くには、二回、也くのを埅たないずいけない。この絵の䞭で、この人のずころにだけ、埅ち時間がある。

 わたしはその人の傘の柄を芋た。握り方が、わたしのず同じだった。人差し指だけが柄から浮いおいる。あの持ち方をする人間が䞖の䞭にもう䞀人いお、しかもそれを絵に描かれおいるずいう事実を、わたしはしばらく持お䜙した。

 党郚を速く描いた人が、この人のずころだけ䜕日もかけおいる。それか、この人のずころだけ、䜕床も手が止たった。

 わたしは䞀歩䞋がっお、もう䞀床党䜓を芋た。䞋がるず、線になった人たちのほうが速く芋える。速すぎお、真ん䞭の女の人が眮いおいかれおいる。䞖界のほうが先に行っおしたっお、この人はただ、行く前の亀差点に立っおいる。

 絵の暪に、人が立っおいた。癜いシャツの袖をたくっお、䞞めたカタログを片手に持っおいる。䞞めたほうで、ずきどき自分の腿を叩いおいた。芏則はない。思い出したように叩く。

 係の人が近づいおきお、受賞者の方はあちらでお名前を、ずいうようなこずを蚀った。その人は、はい、ず蚀った。蚀い終わる前にもう歩き出しおいお、係の人がただ半分しか身䜓を向けないうちに䞉歩進んでいた。係の人は小走りになった。

 その人の右手の芪指の付け根に、青が残っおいた。掗ったあずの、萜ちきらないほうの青だ。わたしは絵を芋お、それから背䞭を芋た。絵ず、描いた人ず、䞡方が同じ郚屋にいる。そういうこずは、そう䜕床も起こらない。

 名前は絵の䞋の玙に曞いおあった。䜐䌯航、ず読むのだず思う。ワタルかもしれない。わたしはそこで䞉十秒くらい迷っお、コりにした。理由はない。速そうだったからだ。郚屋を出るずきにもう䞀床振り返った。二床目に芋たずき、傘はさっきより速く流れおいた。絵は動かない。動いたのはわたしの目のほうだ。

 倖に出るず雚は䞊がっおいた。四癟円は、うどん二回よりは長持ちした。             ◇䞉か月たっお、六月になった。

 展瀺の最終日に、わたしはもう䞀床あの矎術通ぞ行った。四癟円を出した。二階の现長い郚屋はもう次の展瀺に倉わっおいお、壁には花瓶の絵が掛かっおいた。花瓶ず、机ず、癜い垃。巊䞋の隅を芋たけれど濁っおいなかった。ちゃんず也かしおから塗っおある。党郚が同じ速さで描かれた絵は、芋るずころが少ない。

 わたしはその郚屋を䞉分で出た。四癟円で䞉分だ。うどんのほうが長持ちする。玲は階段の螊り堎の窓のずころで埅っおいた。窓枠に腰かけお、片方の足を前埌に揺らしおいる。

 「遅い」

 「キャップ探しおた」

 「二番目に萜ちるずこ」

 「そう」

 玲は窓枠から䞋りお、先に階段を䞋りはじめた。䞀段ず぀䞋りる。わたしが䞀段ず぀䞋りる人間だからだ。

 「長谷川さん、階段の䞋り方が䞊品やわ」

 「䞀段ず぀やから」

 「うち真䌌しおんねん。ええずこの子に芋えるかなず思お」

 玲は誰ず歩いおも、その人の脚の長さの人になる。前に䞀床だけ二段ず぀䞋りたこずがあっお、そのずきわたしは远い぀けなかった。玲は螊り堎でこちらを芋お埅っおいた。それきりだ。玲がい぀どこでこの技術を芚えたのかを、わたしはただ蚊いおいない。

 「䞉限の先生、来週䌑講やっお」

 「でな、うちバむト増やそかず思おんねん」

 「どこの」

 「駅前の喫茶。時絊ええねん」

 坂の途䞭のバス停で玲は手を䞊げた。バスはもう芋えおいた。

 「たたあした」

 わたしはそのたた坂を䞋りた。商店街の端に、レコヌド屋がある。

 間口の狭い店で、ガラスの匕き戞に手曞きで䞭叀盀入荷ず貌っおある。貌り玙の四隅のセロテヌプが茶色い。店の䞭は暗い。奥のカりンタヌの埌ろの壁に、レコヌドが䞀枚、ゞャケットのたた掛かっおいる。

 青い。

 倜の色ではなくお、朝の色でもない。そのあいだの時間の空を四角く切り取っお壁に留めたような青だ。真ん䞭に癜い字で䜕か曞いおあるけれど、ガラス越しでは読めない。角が少し柔らかくなっおいお、光の圓たり方で䞞く芋える。

 倀札が぀いおいない。この店の他の盀には党郚぀いおいる。緑色のコヌトを着た人がカりンタヌの奥から出おきお、ケヌスの䞭の盀を䞊べ替えはじめた。六月にコヌトは暑い。わたしは匕き戞から目を離しお歩き出した。

 駅の手前の信号で捕たった。赀のあいだ、䞉人が暪に䞊んで埅っおいた。青になっお、右の二人が同時に歩き出した。二人の背䞭が二歩ぶん先ぞ行ったずころで、わたしの足はやっず動いた。

 枡り切ったずころで、音が聞こえた。玙を䞞めたもので、腿を叩く音だ。芏則はない。思い出したように叩く。わたしはその音のほうを芋た。芋る前に、もう芋おいた。

 駅前の広堎の隅で、その人は鞄を膝に乗せおしゃがんでいた。䞞めたノヌトを右手に持っお、そのたるめたほうで、ずきどき腿を叩いおいる。鞄の口が開いおいお、䞭のものを出しおは入れおいる。フィルムの箱が二぀、䞞めたタオル、茪ゎムの束。手の動きが速い。速すぎお、䞀床出したものをたた出しおいる。探しものは鞄の䞭にあるのに、指がその䞊を䞉床通りすぎた。

 わたしは自動販売機の暪で止たった。猶を買う぀もりでポケットに手を入れお、そのたた入れおいた。指のあいだで癟円玉が二枚、貌り぀くくらい枩くなった。䞉か月前、あの絵を芋たのは、雚が本気だったからだ。四癟円は雚宿りの代金で、絵はおたけだった。おたけのほうが残った。

 その人は立ち䞊がっお、鞄の口を閉めお、駅の階段のほうぞ歩き出した。歩くのも速い。歩き出したずきに、䞊着のポケットから黒い蓋のようなものが萜ちた。萜ちた音は小さくお、本人には届いおいない。

 わたしは拟った。

 拟っおから、声を出そうずした。あの、ずいう音が喉のずころたで来た。来たずきには、その人はもう階段を䞃段か八段䞊がっおいた。䞊がっおいく背䞭に届かせるには、いた出しかけおいる倧きさでは足りない。足りない声はどこにも行かず、口の䞭で溶けた。

 それから、わたしは走った。走ったのは、この街に来お初めおだず思う。

 階段の䞋で肩から鞄が滑っお、肘で受け止めた。䞊りは十九段ある。数えたわけではなくお、䞊がっおいるあいだに数字が勝手に出おきた。䞊がり切ったずころが改札で、緑色の服の駅員が箱の暪に立っおいた。

 わたしは切笊を持っおいない。

 刞売機は改札の巊手に䞉台䞊んでいた。二台に人がいお、右端が空いおいた。わたしはポケットの癟円玉を出した。二枚。運賃衚を芋䞊げた。この駅から先の倀段は、芋たこずがない。どこたで行くのかを知らないず、いくらの切笊を買えばいいかがわからない。

 いちばん安い癟二十円の释を抌した。硬貚を入れる。萜ちる。切笊が出るたでに、機械は自分の郜合の時間をかける。改札を抜けたずころで、ホヌムの䞊の音が倉わった。扉が閉たる音だ。あの音は䞀回しかしない。

 階段をもう䞀段ず぀䞊がっお、䞊がり切ったずころで、電車はもう動いおいた。䞉䞡目の窓の内偎に、癜いシャツがあった。吊り革を持っおいない。ノヌトを䞞めたほうで、扉の暪の壁を叩いおいた。芏則はない。思い出したように叩く。

 その人はこちらを芋なかった。窓の倖を芋おいたけれど、芋おいたのは走り出したあずの景色で、わたしの立っおいるずころは、その景色のうしろにあった。電車の尻の赀い灯が、線路の曲がるずころで消えた。ホヌムには誰も残っおいなかった。颚が䞋から䞊がっおくる。海が䞋にあるからだ。

 わたしは癟二十円の切笊を持っお、ホヌムの真ん䞭に立っおいた。行く先はない。手のひらの䞭で、黒い蓋が汗で滑った。改札に戻るず、駅員が切笊を芋お、それから顔を芋た。

 「乗られたした」

 「いえ」

 「じゃあ、払い戻しできたすよ」

 駅員は窓口のほうを指した。わたしは、はい、ず蚀っお、そのたた倖ぞ出た。癟二十円を返しおもらうには、窓口で名前を蚀っお、玙に曞いお、埅たないずいけない。それをしおいるあいだに、たた䜕かが行っおしたう気がした。八癟円が六癟八十円になった。うどんは䞀回半になった。

 黒い蓋は、レンズの蓋だった。裏に指の脂が぀いおいお、倖偎に小さく数字が刻んである。持っおみるず思ったより軜い。猶の蓋くらいの重さだ。これがなければ、今日はただ、远い぀けなかった日だった。

 郚屋に垰っお、電気を点けた。湯を沞かしお、パスタを袋の時間より䞀分早く䞊げた。䞀分は、湯を切っお皿に移しおいるあいだに勝手に戻っおくる。䞖界に返しおもらえる䞀分は、いたのずころこれだけだ。

 食べお、皿を掗っお、机の端にレンズの蓋を眮いた。ハンカチを開いたたたにしおおいた。裏の指の脂が、電球の䞋で光った。わたしはそれを拭かなかった。

 拭いおしたうず、この人が觊ったずいう事実の偎が䞀枚薄くなる。汚れたたたのほうが蚌拠ずしお匷い。蚌拠、ずいう蚀葉を頭の䞭で䜿っおしたっおから、わたしは少し、自分から目を逞らした。

 䞉か月前のあの郚屋で、絵の前に立っおいたのはわたしだけだった。他の人は入っおきお、前を通っお、出おいった。速い人には、あの絵の巊䞋の隅が濁っおいるこずも、真ん䞭の女の人のずころにだけ埅ち時間があるこずも、芋えない。わたしはあそこに䞃分いた。䞃分いたから芋えた。

 速いず間に合う。遅いず芋える。䞡方はもらえない。次の日、わたしは䞉限のあず坂を䞋りお、商店街を抜けお、同じ信号を枡った。駅前の広堎の隅に、誰もいなかった。

 わたしは自動販売機の暪に立った。時蚈は五時十二分だった。昚日その人がしゃがんでいたのは、五時十二分より少し前だったず思う。もう少し前だったかもしれない。

 五時四十分たで、わたしはそこにいた。六時十分たで、そこにいた。鞄の内ポケットの䞭で、レンズの蓋がハンカチごず角に圓たっおいる。手を入れるず指の腹に䞞い瞁が觊れた。電車が着くたびに、階段の䞊から人が降りおくる。降りおきお、広堎を暪切っお、商店街のほうぞ散っおいく。その䞭に癜いシャツはなかった。

 商店街の端のレコヌド屋には、ただ灯りが぀いおいた。ガラスの匕き戞の奥、カりンタヌの埌ろの壁に、青い盀が掛かっおいる。緑色のコヌトを着た人がカりンタヌの内偎に座っお、こちらを芋おいた。芋おいたずいうより、そこから改札のほうを芋おいお、わたしがその線の䞊にいた。

 目が合った。その人はすぐに手元ぞ芖線を戻した。わたしはもう䞀床、階段の䞊のほうを芋た。

第二章 早送り

 六月十四日の午埌四時すぎに、倉庫街の䞉番目の路地の壁に西日が圓たる。圓たっおいるのは正味で二十分ほどで、そのうち本圓に䜿えるのは最埌の六分だけだ。それを知るために僕は䞉日続けお同じ路地に通っお、光の来る角床ず壁のひび割れの圱の䌞び方を手垳に曞き぀けた。䞉日かけお調べたその六分を、僕はこの日、䞀秒も䜿わないこずになるのだが、そのずきの僕はただそのこずを知らなかった。

 䞉脚を立おお脚の長さを揃えお氎平を出したのが䞉時二十五分で、それから僕はビヌルケヌスを壁の前に眮いお䜍眮を䞉床盎した。北原は四時䞃分に来た。

 映画研究䌚には去幎の春に十䞀人いた。いたは四人だ。撮る偎の䞉人はそれぞれ自分の䌁画を抱えおいお、出る偎の人間は北原ひずりになった。圌女は僕の䞉本ぜんぶに出おいる。䞀本目の海にも、二本目の階段にも、ただ䜕も入っおいない䞉本目にも。䞉本のうち完成したものはれロだから、圌女はこの䞀幎で、この䞖に存圚しない映画に䞉床䞻挔したこずになる。履歎ずしおはかなり珍しい郚類に入るず思う。

 「早いね、䜐䌯くん」

 「遅いよ」

 「四時集合やったやろ」

 「四時に撮りはじめるっお曞いたんだ」

 北原は片方の肩を䞊げおから鞄を壁際に眮いた。鞄の口から癜い゚プロンの玐がはみ出しお地面に觊れそうになっおいた。圌女は駅前の喫茶店で働いおいる。今日は五時䞊がりを六時に替えおもらったず、路地に入っおくる途䞭でもう蚀っおいた。

 「六時たでやからね」

 「䞀時間ある」

 「䞀時間で䞉日ぶんの光が撮れるっお蚀うたんは、あんたやで」

 圌女は僕より頭ひず぀ぶん小さくお、そのくせ壁の前に立぀ずカメラの䞭でだけ劙に倧きく写る。そういう人間はずきどきいお、その理由を説明できた者はいたのずころ誰もいない。北原は䞀床だけ、完成した映像の䞭に入ったこずがある。

 六歳のずきだ。地元のスヌパヌのコマヌシャルで、長さは十五秒。癜いワンピヌスの子䟛が卵のパックを䞡手で抱えお走っおきお、レゞの前で振り返っお笑う。それだけの十五秒が、いたも倕方のロヌカル局で流れおいる。十䞉幎のあいだ、同じ十五秒が、同じ速さで、同じ笑い方で流れ぀づけおいる。圌女はその子を「あの子」ず呌ぶ。

 「うちのおかん、いただにあれ録画しおんねん。テヌプが䌞びおたうから䜕本も」

 「芋るの」

 「芋るもなにも、向こうから出おくんねん。倜にテレビ぀けたら、いきなり自分の六歳が卵持っお走っおきよる。あれは、なかなかのもんやで」

 北原はそう蚀っお、壁の前のビヌルケヌスの高さを靎の先で確かめた。

 「うちの人生でいっちばん最埌たで行った仕事が、六぀のずきの十五秒やねん。それ以降ぜんぶ途䞭や。䞉本続けお途䞭」

 「悪かったよ」

 「怒っおぞんよ。ただな、あの十五秒はもう䞀生あのたたやろ。うちが四十になっおも六぀のたんたで走っずる。ああいうもんを䞀本ぐらい、こっち偎で䜜りたいやんか。六぀のずきの誰かに勝手に決められたや぀やなくお」

 「秋の孊祭たでには出す」

 「うん」

 北原は返事をしおから、少し間を眮いお、続けた。

 「今幎で最埌にするわ。四幎生でも倧孊院でもないけど、四本目はもう無理やず思う」

 圌女は笑っおいた。笑いながら゚プロンの玐を鞄の䞭に抌し蟌んだ。僕はレンズのキャップを倖そうずしお指を前に出した。キャップはそこになかった。

 「なくした」

 「なくした」

 「取りに垰る」

 「いい」

 西日が壁に届いたのは四時二十二分だった。壁はモルタルで瞊にひびが䞀本入っおいお、光がその角床に来るずひびの底に圱ができお線が急に倪くなる。倪くなった線は、誰かが建物の内偎から鉛筆で匕いたみたいに芋えた。

 北原がケヌスの䞊に䞊がった。颚でスカヌトの裟が動いお、たた戻った。僕はカメラを芗いた。圌女の顔の巊半分に光が乗っお、右半分は萜ちおいお、萜ちおいるほうにひびの圱がちょうどかかっおいた。䞉日かけお探しおいた画がそこにあった。

 僕はスむッチに指を眮いた。それから、フィルムは回らなかった。

 「ただ」

 「ただ」

 北原は立っおいた。僕は䞉脚の脚を䞃センチ䞋げお圌女の顔の䜍眮を䞊げお、光の圓たる面積を増やしおからもう䞀床芗いた。さっきよりよくなっおいた。よくなったぶん、指はさらに動かなくなった。

 「終わり」

 「終わり」

 北原はケヌスから降りおスカヌトの埃を払った。圌女は僕に理由を蚊かない。䞉本目の途䞭たで残っおいる人間は圌女だけだ。

 「明日も同じ時間」

 「たぶん」

 「たぶんお、あんた䞉日通っお調べたんちゃうん」

 「調べたよ。調べたこずず撮れるこずは別なんだ」

 北原は少し考えるような顔をしお、それから、そういうもんかもね、ず蚀っお路地の出口のほうぞ歩いおいった。僕は䞉脚をたたんだ。たたむのは八秒でできる。䞖の䞭には八秒でできるこずず、四十分埅っお䞀秒もできないこずがあっお、その二皮類は僕の䞭では同じ䞀本の手に぀ながっおいる。

 その日に䜿ったフィルムの長さはれロだった。れロずいうのは、フィルム代が䞀円もかからないずいう意味においおはたいぞん優秀な数字だ。郚宀は文化䌚通の二階の突き圓たりにあっお、棚に僕の猶が䞉぀䞊んでいる。

 䞀本目のラベルには「海」ず曞いおある。䞭身は去幎の八月の蓮だ。須磚の防波堀の䞊を、端から端たで歩いおいく。それだけで四分ある。撮ったのは䞀次の発衚の四日前で、そのずきの蓮はただ萜ちおいなかった。四分のあいだ圌は䞀床もこちらを芋ない。歩き終わったずころで振り返っお䜕か蚀うのだが、颚の音でその声は入っおいない。

 二本目は「階段」で、䞭には階段を䞊がる足だけが十二秒入っおいる。䞉本目にはただ䜕も入っおいなくお、ラベルには六月二日ずいう日付だけが曞いおある。二週間前の日付が二週間前のたたそこにあるずいうのは、なかなか堂々ずした事実だず思う。

 蓮は窓際の怅子で赀い衚玙の問題集を開いおいた。線を匕くのに定芏を䜿う。線を匕くずきだけ、蓮の手は僕よりずっず遅い。

 蓮は僕の埓兄匟で䞀぀䞊で、この倧孊の二幎にいる。いるのだが、圌が本圓に受けたいのは別の孊校の医孊郚で、去幎の春に䞀床萜ちお、この倧孊ぞ入り盎したうえで、今幎たた受け盎す぀もりでいる。昌は法孊郚の講矩に出お、倕方から駅前の予備校の倜間に通う。予備校では窓から䞉番目の同じ垭に座る。同じ垭ずいうのは比喩ではなくお、本圓に同じ垭らしい。

 だから圌はこの郚宀にいる。ここは圌にずっお、倧孊の䞭でいちばん誰にも進路を蚊かれない堎所だ。その赀い問題集を、蓮は毎幎新しく買う。

 曞き蟌みのある本を次の幎に持ち越さないずいうのが圌の決たりで、去幎のも䞀昚幎のも、みんな本棚の同じ段に立おおある。同じ出版瀟の同じ曞名の同じ厚さの本が四冊。䞭身も同じだ。違うのは、曞き蟌んだ字の量だけで、いちばん右の䞀冊はただ半分癜い。圌は毎幎、癜いずころから始めるために千八癟円を払っおいる。

 䞀床だけ、去幎のを䜿えばいいのにず蚀ったこずがある。蓮は、あれは去幎の俺の答えが茉っおるやろ、ず蚀った。

 「撮れたか」

 「撮っおない」

 「䞉本目やろ、それ」

 「そう」

 蓮は定芏を眮いお棚のほうを芋た。䞉぀の猶のうち、いちばん巊のを芋おいた。

 「あれ、ただ持っおんのか」

 「持っおる」

 「捚おおくれおええで」

 「捚おない」

 「あの日の俺、けっこうな顔で歩いおるやろ」

 「いい顔だよ」

 「そこやねん」

 蓮は問題集を開いたたた裏返しお机に䌏せた。

 「あれを人に芋せたら、みんな去幎の八月の俺のほうを本物やず思う。ほんたもんは、いたここで四冊目曞いおるほうやのに。あっちは終わっおお、こっちはただ途䞭やから、終わっおるほうが勝぀ねん。写っおるもんは匷い」

 僕は答えなかった。答えを持っおいなかったからだ。線集しお音を぀けお頭ず尻を切れば、あの四分はたぶん䞉日で終わる。䞉日で終わるずわかっおいるものを、僕は十か月眮いおある。

 繋いでしたえば、防波堀の䞊の蓮は去幎の八月の蓮のたた固定される。フィルムずいうのはそういう装眮だ。動いおいるものを䞀本の垯に巻き取っお、二床ず動かなくする。北原の六歳が十䞉幎間走り぀づけおいるのず、原理はたったく同じものだ。

 「絵は描いおんの」

 「たたに」

 「絵は完成すんのにな」

 「絵は動かないからだよ」

 「動くもんは、終わりを自分で決めなあかんからな」

 蓮はそこで䞀床蚀葉を切っお、䌏せた問題集を衚に返した。切ったずころの続きには、たぶんある単語が入る予定だった。蓮はその皮類の単語を口に出さないし、僕も出さない。二人ずも䜐䌯ずいう名字で、そのあたりはおそらく血の偎の問題だ。

 あの絵の女の顔を、僕は四回塗った。四回目の顔は䞀回目ずほずんど同じだった。同じ堎所に戻るためだけに䞉週間かかったわけで、蓮の四冊目ずどこが違うのかを、僕はただうたく蚀えない。絵のほうは去幎の秋に描いた。

 県のコンテストで金賞をもらっお、䞉月に矎術通に食られた。倜の亀差点の絵だ。雚が降っおいお傘が十本ばかり開いおいお、人はみんな暪に流れた線になっおいる。線にするのは速い。人が走った軌跡ずいうのは走っおいる人を芋なくおも描けるもので、あの絵の八割は四日で終わった。

 真ん䞭に立っおいる女の人だけ、䞉週間かかった。

 顔を描いお、也かしお、削っお、たた塗った。それを四回やった。四回目に描いた顔は䞀回目に描いた顔ずほずんど同じだった。同じ堎所に戻っおくるためだけに䞉週間を䜿ったわけで、これは登山でいえば頂䞊たで行っお写真も撮らずに降りおきたようなものだ。あの絵の前に立った人のうち誰ひずりそのこずを知らないし、審査員も知らない。金色の札は、四日で描いたほうの八割に察しお貌られおいる。

 「秋の孊祭、北原ちゃん出るんやろ」

 「出す予定ではある」

 「予定な」

 「圌女、今幎で最埌だっお蚀っおる。四幎やっおお完成品がれロやず、さすがに気の毒やず自分で思うっお」

 「そら思うわ」

 蓮は笑っお、それから笑いをやめお、赀い問題集を閉じた。

 「飯行こ」

 「行く」

 ず蚀ったずきには僕はもう立ち䞊がっおいお、蓮はただ鞄に本を入れおいる途䞭だった。䞉十秒ほど、僕は立ったたた埅っおいた。䞖の䞭には、立っお埅぀ための䞉十秒ずいうものが䞀日に䜕床かある。

 飯を食っお蓮ず別れお、僕は商店街を抜けた。

 パン屋の前を通っお也物屋の前を通っお、商店街の端たで来るず、間口の狭いレコヌド屋がある。ガラスの匕き戞で、䞭は昌でも暗い。奥のカりンタヌの埌ろの壁に、レコヌドが䞀枚ゞャケットのたた掛かっおいる。

 青い。

 僕はガラスの前で止たった。止たっおいたのは䞉十秒くらいだったず思う。䞭で緑色のコヌトを着た男が顔を䞊げおこちらを芋た。六月にコヌトを着る人間の事情に぀いお僕は䜕も知らない。僕は歩き出した。

 駅前の広堎を暪切っおいるずきに思い出した。キャップは、たぶんここで萜ちた。昚日の五時ごろ、この隅にしゃがんで鞄の䞭を探した。僕は自動販売機の暪から街灯の䞋たで、地面を芋ながら歩いた。怍え蟌みの根元を靎の先でかき分けおベンチの䞋を芗いた。黒くお䞞いものはどこにもなかった。

 九十秒ほどで僕はやめた。

 萜ずしたものはたいおい出おこない。出おこないものを探し぀づけるのは時間の䜿い方ずしお䞋手だし、僕は自分の速さに぀いおはかなり自信を持っおいる。僕は階段を䞊がっお電車に乗っお垰った。

 郚屋に着いお机の䞊にカメラを眮いた。レンズがむき出しのたた窓のほうを向いおいお、硝子が電球を䞞く映しおいた。倜䞭の二時に目が芚めた。

 あのキャップは、去幎の秋に父芪のレンズに぀いおきたものだ。譲られたずいうより、父芪が䜿わなくなっお抌し入れの箱に入っおいたのを僕が勝手に出した。キャップの裏には指の脂が぀いおいお、その脂は僕のものず父芪のものが混ざっおいる。い぀か拭こうず思っおいお、拭かないたた䞀幎近く経っおいた。

 僕は電気を点けお机の䞊のレンズを芋た。

 自分が九十秒であきらめたずいうこずに僕が気づいたのは、そのずきだった。四十分埅おる人間が、九十秒しか探せない。この二぀がどうしお同じ手のなかに同居しおいるのかを、僕はただ説明できない。

 朝になったらもう䞀床あの広堎に行こうず思った。行っおもたぶん䜕もない。誰かが拟ったのなら、その誰かはもう自分の家に持っお垰っおいる。電気を消しお目を閉じた。閉じた瞌の裏を、四時二十二分の壁の光がもう䞀床だけ通っおいった。指はやはり動かなかった。

第䞉章 非売品

 䞭叀のレコヌドを買い取るずきに、私がいちばん先に芋るのは盀ではなくゞャケットの角だ。

 角が四぀ずも生きおいる盀は、たいおい䞭身もいい。角が朰れおいるものは、床に立おお眮かれおいた期間が長い。立おお眮かれおいたずいうこずは、棚に入りきらないほど買っおいたか、片づける習慣がなかったかのどちらかで、前者なら盀は倧事にされおいるし、埌者なら埃が溝に入っおいる。角を芋れば、その家の暮らし方がだいたい出おくる。人は自分の指の癖を遞べない。

 六月十䞃日の午前に持ち蟌たれたのは段ボヌル二箱で、角はどれも生きおいた。持っおきたのは五十くらいの男で、父芪が亡くなっお家を片づけおいるず蚀った。私は䞀枚ず぀抜いお、内袋から出しお、蛍光灯の䞋で斜めに傟けた。

 傟けるず、溝の䞊を光の垯が動く。傷は光の垯を暪切る線ずしお出る。針で削れた擊り傷は癜く、攟眮しおできた黎の跡は虹のように芋える。虹が出た盀は、掗えばだいたい盎る。盎らないのは、䞀床でも埃の䞊を針が走った盀だ。埃を挟んだたた鳎らすず、埃はレヌルの䞊の小石ず同じ働きをしお、溝の壁をその堎で削る。削れたずころは二床ず戻らない。持ち䞻はそのずき、いい音で聎いおいる぀もりでいる。

 私は二箱を四千円で買った。男は、そんなもんですか、ず蚀っお、それから、たあそんなもんでしょうな、ず自分で答えお垰っおいった。昌たで掗った。

 掗剀を薄めた氎に指で円を描くように圓おお、レヌベルは濡らさない。すすいで、氎切り棚に立おお、也くのを埅぀。也くたでのあいだにやるこずは䜕もない。私はカりンタヌの怅子に座っお、也いおいく盀を芋おいる。この時間が䞀日のうちでいちばん長い。

 也いた盀には静電気が乗る。

 乗ったたた棚に入れるず、その盀は棚の䞭でずっず埃を呌び぀づける。だから内袋に入れる前に、私は垯電防止のブラシで䞀枚ず぀撫でる。撫でおいるずきに、指の先が盀に匕かれる感じがある。匕かれるずいっおも、動くほどの力ではない。手を離せば䜕も起こらないし、離さなければずっずそこにある。目には芋えないし、写真にも写らない。

 午埌の二時ごろに、女の子が店の前を通った。

 通るずいうより、通りかけお、そこで少し遅くなる。歩幅がひず぀ぶん瞮んで、それからたた元に戻る。速床が萜ちるのは、ちょうどこの匕き戞の正面に来たあたりだ。圌女はガラスの向こうから、奥の壁を芋おいる。壁に掛けおある䞀枚を芋おいる。

 週に䞉床か四床、同じこずが起きる。もう二か月になる。圌女は䞀床も入っおこない。

 入っおきおくれれば、私は答える甚意がある。あれは䜕ですかず蚊かれたら、非売品です、ず蚀う。それ以䞊を蚊かれたら、そこから先は考えおいない。二か月のあいだ、私はその「それ以䞊」を考えないたたにしおある。

 四時前に、今床は男の子が通った。

 この子は速い。歩くのが速くお、そのくせガラスの前で急に止たる。止たっおいる時間はい぀も䞉十秒くらいで、腕時蚈を芋ないので正確なずころはわからない。この前は目が合った。目が合ったずたんに歩き出した。䞞めたノヌトを持っおいお、それで自分の腿を叩く癖がある。芏則はない。思い出したように叩く。

 この子も、壁の䞀枚を芋おいる。

 女の子は午埌の二時前埌で、男の子は四時か、六時をたわっおからだ。二か月のあいだ、二人が同時にこの匕き戞の前にいたこずは䞀床もない。私はカりンタヌからそれを芋おいる。芋おいるだけで、䜕もしおいない。䜕をするずいうのもない。䞖の䞭には、隣り合った二本の線が䞊行なのか亀わるのかを、倖から芋おいる人間の偎でだけ知っおいるずいう堎面がずきどきある。

 壁の䞀枚は、青い。月に䞀床、私はあれを壁から䞋ろす。垃で拭いお、内袋から盀を出しお、蛍光灯の䞋で斜めに傟ける。傷はない。埃も入っおいない。圓たり前だ。䞀床も針を萜ずしおいない。拭き終えたら袋に戻しお、壁に戻す。それだけだ。封筒が届いたのは五月の終わりだった。

 差出人の欄には斜蚭の名前が印刷しおあっお、その䞋に圌女の字で名前が曞いおあった。字は十幎前より现くなっおいた。ペン先を匷く抌し぀けられなくなった人の字だ。䟿箋は䞀枚で、四行あった。

 䜓を悪くしお、いたはここにいるこず。長いこず連絡ができなかったこず。私は行けないから、あなたが来おください、ずいうこず。それから、面䌚の受付は午埌の䞀時から四時たでだずいうこず。

 䞀行目から四行目たで、そこには十幎前に曞かれなかったこずが曞いおあった。なぜ䌚いたいのかは、やはり曞いおいない。

 封筒の裏に䜏所がある。県倖だが、電車を乗り継いで䞉時間で着く。地図で調べた。山の䞭の駅から、バスが䞀日に六本出おいる。時刻もわかっおいる。䞀時の受付に間に合うためには、こちらを朝の九時十二分に出ればいい。九時十二分の電車には、私はこの十幎、䞀床も乗ったこずがない。

 封筒は、壁に掛けたゞャケットの裏偎に立おおある。六月十䞃日は、届いおから十八日目にあたる。

 倕方の六時をたわっお、私は店の灯りを消した。匕き戞を閉めお、鍵をかけお、それから駅のほうぞ歩いた。歩いお䞉分だ。店の窓からも改札は芋えるのだから、わざわざ行く必芁はない。それでも私は、だいたい毎晩そこたで行く。

 改札の前には人がいる。

 勀め垰りの人間が階段から降りおきお、広堎を暪切っお、商店街のほうぞ散っおいく。駅員は箱の暪に立っお、切笊を受け取っおは鋏を入れおいる。私はその手前の柱の陰に立っお、十分くらい芋おいる。

 九時十二分の電車のこずを、私は毎晩考える。

 乗るのに必芁なものは、もう党郚そろっおいる。䜏所がある。時刻がある。金もある。店は䞀日くらい閉めおもどうずいうこずはない。十幎前に足りなかったものが、今回はひず぀も欠けおいない。

 それでも私は、十八日のあいだ、あの封筒をゞャケットの裏に立おたたたにしおいる。

 柱の陰から、階段を降りおくる人の顔がひず぀ず぀芋える。私はもうこの改札から誰かが出おくるのを埅っおはいない。埅っおいないのに、毎晩ここに来おいる。この二぀を同じ玙の䞊に䞊べお曞くず、どちらかが嘘だずいうこずになる。私にはどちらが嘘なのかがわからない。

 䞃時二十分の電車が着いお、二十人ばかりが降りおきた。その䞭に、あの女の子がいた。圌女は改札を抜けお、広堎の隅の自動販売機の暪に立った。䜕も買わなかった。立っお、階段のほうを芋おいた。

 私は柱の陰から、それを芋おいた。䞉十分ほどしお、圌女は歩き出した。商店街のほうぞ入っおいっお、私の店の前を通ったはずだ。灯りは消えおいる。あの時間の匕き戞のガラスには、倖の街灯が映るだけで、奥の壁は芋えない。

 私は店に戻っお、鍵を開けお、灯りを点けた。壁の䞀枚を䞋ろしお、裏から封筒を抜いお、䟿箋をもう䞀床読んだ。四行を読むのに䞉分かかった。それから䟿箋を折り盎しお封筒に入れお、封筒をたたゞャケットの裏に戻しお、壁に掛けた。九時十二分の電車には、明日も乗らない。

第四章 合わせる人

 玲がバむトを始めた喫茶店は、駅前のロヌタリヌに面した二階にある。

 階段は倖にあっお、鉄で、䞊がるず音が鳎る。螏む堎所によっお鳎り方が違う。䞉段目ず䞃段目がいちばんよく鳎るので、その二段だけ端のほうを螏むず静かに䞊がれる。二回通っただけでそれを芚えおしたう自分に぀いお、わたしはあたり深く考えないこずにしおいる。

 玲はカりンタヌの内偎でグラスを拭いおいた。゚プロンは癜で、玐を前で結んでいる。

 「早いやん」

 「䞉限、䌑講やった」

 「せやった。うち、それ蚀うたやんな」

 わたしは窓際の垭に座った。窓からロヌタリヌが芋える。バスが二台停たっおいお、その向こうが駅の階段だ。階段の䞋り口から人が出おくる。出おくるたびに、わたしの目はそっちぞ行く。行っおから戻っおくる。䞀埀埩に四秒くらいかかる。

 泚文はアむスコヌヒヌにした。玲が運んできお、コヌスタヌを眮いお、グラスを眮いお、それから䌝祚を裏返しお眮いた。動䜜が䞉぀ずも同じ速さだった。

 「ここ、時絊ええねん。あず、たかないが玉子サンドやねん」

 「玉子サンドか」

 「玉子サンドやで。うち、玉子サンドのために生きおるようなずこあるから」

 玲がカりンタヌぞ戻っおすぐ、垞連らしい幎配の男の人が入っおきた。玲は同じこずを蚀った。時絊ずたかないの話ではなくお、いらっしゃいたせ、のほうだ。同じ蚀葉なのに、声が䞋のほうに眮かれおいた。わたしに蚀ったずきより半音䜎い。男の人はゆっくり喋る人で、玲の受け答えもゆっくりになった。

 次に入っおきたのは、倧孊生の䞉人組だった。玲の声はたた䞊がっお、速くなった。笑い声の高さが、䞉人のうちいちばんよく笑う子の高さずほずんど同じずころに来おいた。

 わたしはアむスコヌヒヌの氷が溶けるのを芋おいた。氷は溶けるず同じ䜓積の氎になるわけではなくお、少し枛る。枛ったぶんはどこぞ行ったのかを、わたしは䞭孊の理科で習ったはずだけれど、思い出せない。

 カりンタヌの奥から、もうひずりの店員が出おきた。

 わたしず同じくらいの歳で、背は玲より少し高い。髪をうしろでひず぀に結んでいる。その人はトレむを持っお、カりンタヌの端を回るずきに肘を内偎にたたんだ。玲もそこで同じように肘をたたんだ。二人ずもほずんど同時にたたんだので、狭いずころですれ違うための決たった動きなのだず思った。

 「北原さん、六時䞊がりでしたっけ」

 「今日はな。昚日は六時に替えおもろたけど」

 「撮圱」

 「撮圱っおいうか、撮圱の準備の準備みたいなや぀。結局䞀秒も回しおぞんかったわ」

 「䞀秒も」

 「䞀秒も。䞉日通っお光を調べおな、光は来おん。ちゃんず来た。ほんで来たずこで止たんねん、あの人の指が」

 「ぞえ」

 「四十分埅おんねんで。四十分ずっず埅っお、いちばんええずこで、動かぞんねん。ふしぎな人やろ。䜐䌯くんお蚀うんやけど」

 わたしはグラスを持ち䞊げおいた。持ち䞊げた高さのたた、しばらく持っおいた。氷がひず぀、䞋のほうで䜍眮を倉えお、小さい音を立おた。蚊けばよかった。

 䜐䌯ずいうのはどういう字を曞くのか、ずか、映画を撮っおいるんですか、ずか、その人はどこの孊郚か、ずか。蚊きたいこずは頭の䞭で列になっお䞊んでいお、しかも党郚、倱瀌にならない皋床の䞖間話の顔をしお䞊んでいた。䞊んでいるだけで、口たでは来なかった。

 その代わりにわたしの口から出たのは、玲に向かっお蚀った、氷が溶けるの早いね、だった。

 「そら六月やもん」

 北原さんはトレむを持っお、奥のテヌブルのほうぞ行った。行っおしたうず、もうその話は終わりだった。話ずいうのは、電車ず同じように、扉が閉たるずころたでしか乗れない。わたしは鞄の䞭に手を入れた。内ポケットの角に、ハンカチにくるんだ䞞いものが圓たった。

 この店の人はあの人ず知り合いで、明日も䌚う。枡しおくださいず蚀えば、それで終わる話だった。終わらせる方法が、いた、テヌブルからカりンタヌたでの四メヌトルのずころに眮いおある。わたしは手を出しお、鞄の口を閉めた。五時になっお、玲は䞊がった。゚プロンをたたんで、鞄を持っお、わたしのずころに来た。

 「䞀緒に出よ」

 鉄の階段を䞋りるずき、玲は䞉段目も䞃段目も普通に螏んだ。二人ぶんの音が同時に鳎った。ロヌタリヌの端たで来お、玲は蚀った。

 「うち、あの店たぶん続くず思う。前のずこは䞉週間でやめおん」

 「なんで」

 「わからん。合わぞんかった」

 「玲は誰ずでも合うず思っおた」

 「合わせおるだけやで」

 玲は笑っおいた。笑ったたた、続きは蚀わなかった。わたしはそこで、玲に蚀おうずしたこずがある。

 䞀緒にいるず楜だ、ずいうようなこずだ。ほんずうはもう少し長い文で、朝いちばんに玲を芋぀けるず䞀日の速床が決たるずか、そういうこずも入っおいた。入っおいたけれど、そこたで長い文を人に向かっお蚀ったこずが、わたしには䞀床もない。

 わたしの口から出たのは、そろそろ行かな、だった。

 「え、ただ五時やで」

 「うん」

 「どっか寄んの」

 「レコヌド屋」

 蚀っおしたっおから、自分でそれを聞いた。

 「ぞえ。レコヌド買うん、長谷川さん」

 「ずきどき」

 わたしはずきどきも買っおいない。䞀枚も買ったこずがない。玲はバス停のほうぞ歩いおいっお、乗る前にこちらを芋お手を䞊げた。わたしも䞊げた。今床はバスが動き出す前に䞊げられた。それだけが今日の成果だった。

 商店街のアヌケヌドに入るず颚が止たる。魚屋の前は濡れおいお、也物屋の笊には怎茞が䞊んでいる。パン屋の前は通りすぎた。䞉぀䞊んだものの前で立ち止たる元気は、今日はなかった。

 商店街の端のレコヌド屋の前で、わたしは足を止めた。い぀もここで半歩ぶん遅くなる。今日は止たった。止たったずころで、次にするこずを自分が知らないこずに気が぀いた。

 匕き戞には手曞きの貌り玙があっお、四隅のセロテヌプが茶色い。䞭は暗い。奥のカりンタヌの埌ろの壁に、青い盀が掛かっおいる。わたしは戞に手をかけお、暪に匕いた。思ったより軜かった。軜すぎお、開いた幅が予定より倧きくなった。䞊で鈎が鳎った。

 䞭は倖より涌しくお、玙ず埃ず、それから少し酞っぱいような匂いがした。巊右の棚に朚の仕切りが立おおあっお、䞊に手曞きの札が挿しおある。囜内、掋楜、映画音楜、挔歌。床には段ボヌルが二箱あっお、盀が斜めに立おられおいる。

 カりンタヌの内偎に、緑色のコヌトの人が座っおいた。顔を䞊げお、いらっしゃい、ず蚀った。それだけ蚀っお、たた手元に戻った。手元では、癜い垃で盀を拭いおいた。円を描くように拭くのではなくお、溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で動かしおいる。

 わたしは棚のあいだに立った。

 壁の䞀枚は、ここから芋るず思っおいたより小さかった。ガラス越しに芋おいたずきは、もう少し倧きいものだず思っおいた。青は、思っおいたずおりの青だった。真ん䞭に癜い字がある。手のひらの宇宙、ず読めた。

 倀札は぀いおいない。あれは䜕ですか。その八文字は、わたしの喉のずころたで来おいた。喉たで来お、そこで、来ただけになった。

 その代わりに、わたしの手は棚から䞀枚を抜いおいた。抜いたのはいちばん手前にあった盀で、倖囜の男の人が二人で笑っおいる写真がゞャケットになっおいた。裏を芋るず倀札が貌っおある。八癟円。

 わたしはそれをカりンタヌに眮いた。

 「八癟円です」

 「はい」

 わたしは千円札を出した。緑色のコヌトの人は、レゞを打っお、二癟円を出しお、盀を玙の袋に入れた。袋に入れるずきに、指が四隅の角を順番に確かめるように動いた。

 「これ、聎いたこずありたすか」

 わたしは銖を暪に振った。

 「いい盀ですよ」

 その人はそれ以䞊䜕も蚀わなかった。わたしも䜕も蚀わなかった。壁の䞀枚のこずは、二人ずも䞀床も芋なかった。芋なかったこずのほうが、この八癟円より高く぀いおいる気がした。倖に出るず、ただ明るかった。机の端に、封筒が䞀通眮いおある。

 䞉日前に来たものだ。差出人は父で、䜏所は実家のたただ。封は切っおいない。切っおいないので、䞭に䜕が曞いおあるかは知らない。知らないものに぀いおは、ただ䜕も決めなくおいい。

 わたしはその封筒の䞊に、玙袋に入れたたたの八癟円の盀を眮いた。それから、鞄の内ポケットからハンカチを出しお、レンズの蓋を机の反察の端に眮いた。机の右の端に封筒ず盀があっお、巊の端に蓋がある。あいだは五十センチくらいある。この距離を今日わたしは四メヌトルたで瞮められたのに、瞮めなかった。

 アむロンの赀いランプが消えるたで、ただ少し時間があった。

第五章 四十秒

 朝の八時に駅前の広堎ぞ行った。

 萜ずしたものが翌朝そこにあるずいう確率に぀いお、僕はいく぀かの経隓からかなり䜎い数字を持っおいる。それでも行ったのは、前の晩に九十秒でやめたこずを、僕の䞭の誰かが根に持っおいたからだ。誰かずいうのは僕のこずだが、僕ず僕のあいだにはずきどき時差があっお、その時差のぶんだけ話がややこしくなる。

 僕は自動販売機の暪に立っお、そこから半埄十メヌトルを瞊に区切っお歩いた。四本の垯に分けお、䞀本ず぀端から端たで芋た。怍え蟌みの根元は靎の先で葉をどけお、ベンチの䞋は膝を぀いお芗いた。膝を぀いたずきにズボンが濡れた。朝の八時のアスファルトずいうのは、思っおいるよりずっず湿っおいる。

 二十二分かかった。

 二十二分ずいうのは九十秒の十四倍ずちょっずで、僕はその倍率のこずを、探しおいるあいだじゅう考えおいた。同じ堎所を同じ人間が探しお、䞀日目は九十秒で切り䞊げお、二日目は二十二分やっおいる。片方が正しくおもう片方が間違っおいるずいう話ではないのだず思う。ただ、そのあいだの十四倍のどこかに䜕かが挟たっおいる。

 キャップはなかった。僕は駅の反察偎の亀番ぞ行った。若い譊官が机で曞きものをしおいお、遺倱物の届けを出したいず蚀うず、玙ずボヌルペンをこちらぞ滑らせおよこした。

 「品名は」

 「レンズのキャップです。カメラの」

 「メヌカヌは」

 「ニコンです。五十二ミリの」

 「特城は」

 僕は少し考えた。黒い、䞞い、軜い。裏に指の脂が぀いおいる。そのどれも、この玙の枠には入らない気がした。

 「裏偎に、汚れがありたす。拭いおないので」

 譊官は、汚れ、ず曞いた。曞いおから、顔を䞊げずに続けた。

 「届いおたらご連絡したすけど、こういうのはあんたり出おこないですね」

 「でしょうね」

 「拟った人が、自分のやず思お䜿うこずがあるんですわ。悪気なしに」

 昌に喫茶店ぞ寄った。北原はカりンタヌの内偎にいお、僕を芋るず、あら、ず蚀った。

 「あんた、店には来んず思おた」

 「玉子サンドがあるっお聞いた」

 「誰から」

 「きみから」

 北原は玉子サンドを持っおきお、それから氎のグラスを眮いた。窓際の垭のテヌブルには、ただ䞞い茪が残っおいた。誰かのグラスの跡だ。茪はほずんど也きかけおいお、倖偎だけが線になっおいた。

 「さっきたで、玲ちゃんの友達来おおん」

 「ぞえ」

 「静かな子。氷が溶けるの芋おるだけで䞀時間おった」

 「そういう人はいい」

 「あんたが蚀うず嫌味やわ」

 「孊祭の締切、い぀たでや」

 「十月の頭に、䞊映プログラムを出す。フィルムはその二週間前」

 「䞉か月半か」

 「䞉か月半だ」

 「あんたの䞉か月半お、たぶん人の䞀週間ぐらいの分量やで」

 北原は笑っおいなかった。笑わずにそう蚀っお、それからグラスを䞀個、光にかざした。倕方に、僕は商店街を抜けた。レコヌド屋のガラスの前で、僕はい぀ものように止たった。止たっおから、今日は手を出しお戞を匕いた。

 䞭は倖より涌しくお、玙ず埃の匂いがした。カりンタヌの内偎に緑色のコヌトの男が座っおいお、癜い垃で盀を拭いおいた。円ではなく、溝に沿っお倖から内ぞ、同じ角床で動かしおいる。顔を䞊げお、いらっしゃい、ず蚀った。

 僕は棚を二列だけ芋お、それからカりンタヌの前に立った。

 「あれ、いくらですか」

 壁の䞀枚を指した。

 「非売品です」

 男は手を止めなかった。垃は同じ速さで動いおいた。

 「売れないっおこずですか」

 「売らないずいうこずです」

 僕は少し埅った。䞖の䞭には、こちらが黙っおいるず続きを蚀う人ず、こちらが黙るず同じだけ黙る人がいる。この人は埌者だった。垃の音だけが五秒か六秒続いた。

 「聎いたこずは」

 「ありたせん」

 「持っおお、聎いおないんですか」

 「䞀床も鳎らしおないんです」

 男はそこで初めお手を止めお、垃をカりンタヌの䞊に眮いた。それから、壁のほうを芋ずに蚀った。

 「針を萜ずすず、溝は枛りたす。ほんのわずかですが、必ず枛る。枛ったぶんは戻らない」

 「じゃあ、なんで持っおるんですか」

 男は僕の顔を芋た。目の䞋に、たおに二本、深い線が入っおいた。

 「いい質問ですね」

 それだけ蚀っお、垃をたた取っお、盀を拭きはじめた。

 僕は財垃から千円を出しお、棚のいちばん手前にあった八癟円の盀を買った。倖囜の男が二人で笑っおいるゞャケットだった。理由はない。䜕も買わずに出おいくには、この店で䜿った時間が長すぎた。

 男は玙袋に入れながら、指で四隅の角を順番に確かめるように動かした。

 「これ、昚日も䞀枚出たしたよ」

 「同じのが」

 「同じのが」

 僕は袋を受け取っお、倖に出た。倖は六時を過ぎおいお、光が暪から来おいた。商店街を抜けたずころの亀差点で、僕は信号に捕たった。

 西日がアヌケヌドの出口から真暪に差しお、暪断歩道の癜い瞞の䞊を長く走っおいた。瞞ず光が同じ方向を向いおいお、そこを枡る人の脚が、癜い䞊を通るずきだけ圱ごず消える。人が䞋半身から溶けおいくように芋える。あの絵で僕が線にした人たちが、いた珟実の偎で線になっおいた。

 僕は鞄を䞋ろしおカメラを出した。䞉脚はなかった。露出も枬っおいない。フィルムは䞉本目で、ラベルには六月二日ず曞いおある猶のや぀だ。指がスむッチを抌した。

 抌したこずに気づいたのは、少し経っおからだった。四十秒くらい回した。枡る人が䞉十人ばかりいた。そのうち䜕人かは走っおいお、䜕人かは歩いおいお、ひずりだけ、青になっおから動くたでにひず呌吞ぶん遅れた人がいたような気がする。気がするだけだ。ファむンダヌの䞭では党郚が同じように癜の䞊を流れおいた。

 信号が赀に戻ったずころで、僕は止めた。䞉か月ぶりに、フィルムが枛った。枛ったぶんは戻らない。さっき、緑色のコヌトの男が同じこずを蚀っおいた。

 僕は珟像に出さなかった。䞉本目はただ䞉十六枚ぶん以䞊残っおいお、途䞭で出す習慣が僕にはない。猶に戻しお、鞄に入れた。この四十秒の䞭に䜕が写っおいるのかを、僕はただ知らない。郚屋に垰っお十時を過ぎたころに、電話が鳎った。叔母だった。蓮の母芪だ。

 「航くん、蓮、そっち行っおぞん」

 「来おないです」

 「今日、予備校行っおぞんお連絡あっお」

 「い぀からですか」

 「今日だけ。今日だけやねんけどな」

 叔母はそこで少し黙った。受話噚の向こうで、換気扇か䜕かの音がしおいた。

 「あの子、去幎の倏に須磚で撮っおもろたやんか。航くんに」

 「あれ、ただあるん」

 「ありたす」

 「そう」

 叔母は、そう、をもう䞀床蚀っお、それから、遅うにごめんね、ず蚀っお切った。僕は受話噚を戻しお、しばらくそこに立っおいた。棚から猶を出しお、机に䞉぀䞊べた。海、階段、それから六月二日。いちばん右の猶だけが、昚日たでずは違うものになっおいる。䞭身が四十秒ぶん、この䞖界の偎にはみ出した。

 僕はその猶を持ち䞊げお、耳のずころで振った。䜕の音もしなかった。フィルムずいうのは振っおも䜕も蚀わない。

第六章 同じ盀

 同じ盀が二日続けお売れるこずは、うちの店ではたず起こらない。

 䞭叀のレコヌド屋ずいうのは、同じ品が二枚あるこずのほうが珍しい商売だ。同じ題名の盀が二枚あっおも、盀面の状態も倀段も違うので、二日続けお同じ札の同じ倀段が抜けるずいう事態はたず起きない。

 六月十八日ず十九日に、同じ棚のいちばん手前から、八癟円の同じ盀が䞀枚ず぀出た。偶然だず思っおおくのが商売人ずしおは正しい。私はその日の売䞊を垳面に曞きながら、二行に同じ品名を曞いた。曞いおしたうず、二行はもう䞊んで、そこにある。

 その日の午前に、五十くらいの女の人が来た。棚は芋ずに、たっすぐカりンタヌに来た。こういう客は探しものがある。

 「あの、題がわからぞんのですけど」

 「歌ですか」

 「歌です。昔の。家に眮いおあったや぀で、母が死んで、うちで片づけおたら箱が出おきお、その䞭にあったはずやのに、盀だけどっか行っおしもお」

 「歌えたすか」

 女の人は少し笑っお、それから、笑ったたた口を぀ぐんだ。人前で歌うずいうこずに぀いお、この幎代の人はたいおい䞀床、身䜓ごず止たる。

 「ふん、でいいです」

 圌女は錻から音を出した。四小節ぶんだ。途䞭で䞀床、音の高さを間違えお、そこで止たっお、もう䞀床頭からやり盎した。二床目は最埌たで行った。私はその四小節を聎いた。

 人が思い出しながら歌うずき、旋埋はだいたい正しくない。䞊がるずころが䞋がっおいたり、長さが倍になっおいたりする。それでも間違え方には芏則がある。人は自分が奜きだったずころだけを長く䌞ばす。䌞びたずころを詰めお考えるず、元の圢が出おくる。

 「昭和䞉十幎代の、映画の䞻題歌だず思いたす」

 私は棚のいちばん奥の列から䞀枚抜いお、内袋から出しお、蛍光灯の䞋で傟けた。傷はない。B面の二曲目に針を萜ずした。前奏が四小節鳎ったずころで、女の人は口を抌さえた。

 「そう。それ」

 「合っおたしたか」

 「合うおたす。母が台所でこれをようやっおたした。歌わぞんかった。ふん、で」

 圌女は千五癟円を払っお、包んだ盀を胞の前で持っお垰っおいった。

 人は自分の探しおいるものの名前を知らないたた、二十幎でも䞉十幎でも持っおいる。名前を知らないから探せない。探せないたた、錻歌のかたちだけが残る。私はこの商売でその手の客に䜕床も䌚っおいる。䌚うたびに、こちらは名前を出しおやるこずができる。自分の分の名前を、私は誰にも出しおもらっおいない。

 買っおいったのは、あの女の子ず、あの男の子だ。

 二人ずも棚を芋おいない。二人ずも壁を芋お、それからいちばん手前の䞀枚に手を䌞ばした。棚のいちばん手前ずいうのは、遞ばなかった人間の手が届く堎所だ。この店を持っお䞃幎になる。䞃幎のあいだに、遞ばなかった人間の手぀きずいうのはひず目でわかるようになった。買う気のある客は指を仕切りの奥に入れる。買う気のない客は手前を撫でお終わる。

 男の子のほうは蚊いた。あれはいくらですかず蚊いお、非売品ですず蚀われお、それからもう二぀蚊いた。持っおいお聎かないのかず蚊いお、なぜ持っおいるのかず蚊いた。二぀目のほうは、店を開けおから誰にも蚊かれたこずのない質問だった。蚊かれなかったのは、みんなが遠慮しおいたからではない。誰もそこたで来なかったからだ。あの子は入っおきお䞉分でそこたで来た。

 女の子のほうは蚊かなかった。棚のあいだに立っお、壁を芋お、それから喉のあたりで䞀床、息の圢が倉わった。私はカりンタヌから芋おいた。蚀葉が出おこようずしお、途䞭で沈む音ずいうのは、口の倖に出なくおも芋える。

 私はそれを芋お、䜕も蚀わなかった。蚀えたはずだ。あれが気になりたすか、ず。八文字だ。私はその八文字を、二か月のあいだ䞀床も䜿っおいない。六月二十日の午前十䞀時に、私は電話をかけた。

 封筒の裏に印刷されおいる番号だ。番号は十日前から手垳に曞き写しおある。曞き写すのに䞉十秒かかっお、かけるたでに十日かかった。䞉回鳎っお、女の人が出た。斜蚭の名前を蚀っお、それからご甚件を、ず蚀った。

 「面䌚のこずで」

 「入所者のお名前をお願いしたす」

 私は名前を蚀った。蚀うず、向こうで玙をめくる音がした。玙をめくる音のあいだ、私は自分の店の壁を芋おいた。青いゞャケットが掛かっおいお、その裏に封筒が立おおある。

 「はい、おられたす」

 おられたす、ずいう蚀い方だった。

 「面䌚は午埌の䞀時から四時たでです。ご予玄はいりたせんが、初めおの方でしたら、続柄をお䌺いするこずになりたす」

 「続柄」

 「ご家族の方ですか」

 私は受話噚を持ったたた、そこで止たった。家族ではない。芪戚でもない。婚玄者でもないし、恋人ずいう蚀葉も、十幎たったいたでは誰も裏曞きしおくれない。あの日、駅で八時間立っおいた男ずいう項目は、あの甚玙にはたぶんない。

 「お名前だけでも、お䌺いできたすか」

 女の人の声は芪切だった。芪切だったから、なお答えられなかった。

 「すみたせん、たた、かけ盎したす」

 私は受話噚を眮いた。眮いおから、時蚈を芋た。通話は䞀分四十秒だった。十幎ず䞀分四十秒だ。二十四のずき、私は印刷所で掻字を拟っおいた。

 棚に朚の箱が䞊んでいお、箱の䞭に鉛の字が入っおいる。よく䜿う字は手前の浅い箱に、䜿わない字は䞊の段の奥にある。原皿を巊手に持っお、右手で䞀字ず぀拟っお、盀の䞊に組んでいく。速い人は䞀時間に千五癟字拟う。私は八癟くらいだった。

 あの棚の前に立おば、この䞖のどんな文章でも組めた。

 䌚いたいずいう䞉文字は、いちばん手前の浅い箱にぜんぶある。あの二幎のあいだ、私はその䞉文字を䞀床も自分の原皿にしなかった。手玙が来なくなっおからも、机の抜斗に曞きかけの玙を四枚ためただけで、投凜はしなかった。

 拟えなかったのではない。拟えるずころに党郚あった。電話も同じだ。番号は手垳にある。かければ女の人が出る。出た人は芪切だった。足りなかったのは、続柄の欄に入れる二文字か䞉文字だけで、それは箱のどこを探しおもなかった。

 昌を過ぎお、女の子が店の前を通った。

 い぀もより五分ほど早かった。半歩ぶん遅くなっお、それから戻っお、行った。圌女はもう入っおこない。八癟円の盀を䞀枚買っお、それで枈たせた぀もりになっおいる。あれで枈たせられるものなら、私も十幎前に枈たせおいる。

 四時をたわっお、男の子が通った。今日は止たらなかった。速い足で、そのたた駅のほうぞ行った。手に䞞めたノヌトを持っおいお、それで腿を叩いおいた。二人の時間は、五分ず぀近づいおいるのか、離れおいるのか、私にはただわからない。六時に店を閉めお、私は駅ぞ行った。柱の陰ではなく、その日は刞売機の前に立った。

 運賃衚を芋䞊げた。あの町たでは盎通がなくお、二床乗り換える。手前の県境の駅たでの切笊をたず買う。二千四癟円だ。私は千円札を䞉枚入れた。機械が硬貚を萜ずしお、切笊を出した。薄い玙が䞀枚、受け皿の䞭で少し反っおいた。

 乗り換えの時刻は芚えおいる。

 九時十二分にここを出お、十時四分に県境の駅で乗り換える。乗り換えの埅ち時間は十九分ある。次が十時二十䞉分で、山のほうぞ入っおいく。着くのが十䞀時五十八分。そこから䞀日六本のバスに乗っお四十分。バス停から斜蚭たで、埒歩十二分ず地図に曞いおあった。

 合蚈で䞉時間半だ。

 この䞉時間半を、私は十幎のあいだ持っおいなかった。十幎前に足りなかったのは䜏所で、時刻衚ではない。今床は䞡方ある。䞡方あるものに぀いお人は䜕も蚀い蚳ができないので、私は誰にも䜕も蚀っおいない。

 切笊の刞面には日付が印字しおある。六月二十日。この数字は明日には別の意味になる。今日の私にずっおは行ける日で、明埌日の私にずっおは行かなかった日だ。同じ玙の同じ数字が、䞀晩で名前を倉える。

 私はそれを取っお、財垃ではなく、コヌトの内偎のポケットに入れた。改札には入らなかった。

 入らずに、私は柱の陰に立っお、十分ほど階段を芋おいた。䞃時二十分の電車が着いお、人が降りおきお、散っおいった。その䞭にあの女の子はいなかった。圌女がここに立っお階段を芋おいたのは、たしか䞉日前のこずだ。

 店に戻っお灯りを点けお、壁の䞀枚を䞋ろした。裏から封筒を抜いお、䟿箋を読んだ。四行だ。読むのに䞉分かかる。私は䟿箋を折っお、封筒に戻した。それから、コヌトの内ポケットから切笊を出しお、封筒のあいだに挟んだ。

 封筒には、有効期限のあるものが䞀枚入った。切笊ずいうのは、買った日から翌日たでしか䜿えない。明日の終電を過ぎれば、この二千四癟円はただの玙になる。ただの玙になるずわかっおいるものを、私はいた、自分で買った。壁に戻しお、灯りを消した。

第䞃章 閉架

 倧孊の図曞通の地䞋に、閉架曞庫がある。

 カりンタヌに請求祚が出るず、係の者が階段を䞋りお、曞庫から本を出しおくる。わたしは週に䞉日、その係をしおいる。時絊は五癟二十円で、九十分で四癟八十円にしかならない日もあるが、そういうこずを気にする人間はこの仕事を遞ばない。

 曞庫は棚が動く。ハンドルを回すず、鉄の棚がレヌルの䞊を暪に滑っお、通路が䞀本だけ開く。開いた䞀本の䞭に入っお、番号を远っお、目圓おの䞀冊を抜く。抜いたら通路を出お、次の番号のためにたたハンドルを回す。棚がすれ違うずきに䜎い音がしお、その音は曞庫の倩井にいったん䞊がっおから降りおくる。

 わたしはこの仕事が速い。

 自分でも意倖だった。番号を芋お、階段を䞋りお、ハンドルを回しお、抜いお、戻る。この䞀連は䞉分半でできる。ほかの係の人は五分か六分かかる。速いのは、䞊でその本を埅っおいる人がいるからだ。誰かが埅っおいるずいう事実だけが、わたしの䞭の詰たりをきれいに抜いおくれる。自分のためには半拍遅れる人間が、他人の埅ち時間に察しおは䞀秒も無駄にできない。この二぀がどうしお同じ䜓に入っおいるのかは、ただわからない。

 六月二十二日は、四時たでのシフトだった。

 最埌に出した請求祚は、掋曞の写真集で、番号は䞃四八の棚の䞊から二段目にあった。届けるず、カりンタヌの前に立っおいたのは倧孊院生らしい男の人で、開いおすぐ、ああ、これじゃない、ず蚀った。

 「別の版でしたか」

 「同じ題で、二冊あるんですよ。写真の入っおるほうが芁るんです」

 わたしはもう䞀床階段を䞋りお、ハンドルを回しお、隣の䞀冊を抜いおきた。その人は、すみたせん、ず蚀っお、それから、早いですね、ず蚀った。四時に䞊がっお、駅前たで歩いた。鉄の階段の䞉段目ず䞃段目を端のほうで螏んで、二階に䞊がった。玲がカりンタヌの内偎にいた。

 「北原さんは」

 わたしは自分の口からその蚀葉が出たこずに、少し遅れお気が぀いた。準備しおきたからだ。昚日の倜、郚屋で䞉回、声に出さずに口の圢だけ䜜った。北原さん、いらっしゃいたすか。萜ずし物を預かっおいるんですけど。二文で終わる。二文なら蚀える。

 「今日おらぞんねん。撮圱やっお」

 「そう」

 わたしは窓際の垭に座った。玲がアむスコヌヒヌを持っおきお、そのたたわたしの前の怅子に座った。

 「五分だけ䌑憩」

 「いいの」

 「マスタヌ、いた銀行行っおる」

 玲はグラスの氎を䞀口飲んだ。飲み方が、い぀もわたしずいるずきの飲み方だった。

 「長谷川さんおさ、うちのこず、疲れぞんの」

 「なんで」

 「うち、喋りすぎやから」

 「そうかな」

 「そうやで。この前も蚀うたやんか、合わせおるだけやっお」

 玲はテヌブルの朚目を指でなぞった。

 「うちな、䞭孊のずき転校䞉回しおん。芪の仕事で。䞉回目でわかったこずがあっお、教宀入っお最初の䞉日で、その教宀でいちばん匷い子の喋る速さを芚えるねん。それに合わせたら、だいたい倧䞈倫」

 「疲れない」

 「疲れぞん。もう、それが速さやから」

 玲は指を止めた。

 「せやから、たたにわからんようになんねん。うちの、ほんたの速さっおどれやったかな、っお」

 窓の倖でバスが停たっお、扉が開いお、閉たった。

 わたしはそこで、蚀おうずしたこずがあった。玲の速さは、わたしずいるずきのこれだず思う、ずいうようなこずだ。理由もある。玲は階段を䞀段ず぀䞋りるようになったし、氷が溶けるのを芋おいるだけの人間の前に、五分の䌑憩を持っおきお座る。

 わたしの口から出たのは、そっか、だった。䞉文字だ。準備しおいない文は、い぀も䞉文字になる。

 「撮圱、どこでやっおるの」

 「倉庫街。䞉番目の路地やっお蚀うおた。西日が壁に圓たるずこやねんお」

 玲はそれだけ蚀っお、立ち䞊がっお、カりンタヌぞ戻った。わたしは倉庫街たで歩いた。

 駅の裏を抜けお、貚物の線路を枡るず、灰色の建物が続く䞀角がある。路地は番号で呌ばれおいるわけではないので、どれが䞉番目なのかはわからない。䞀本目に入っお、䜕もなくお、出た。二本目も䜕もなかった。

 䞉本目の路地の奥に、人がいた。わたしは入口で止たった。そこから奥たで、十五メヌトルくらいある。壁の前にビヌルケヌスが眮いおあっお、その䞊に北原さんが立っおいた。手前に䞉脚があっお、その埌ろに、癜いシャツの人がいた。

 西日がアヌケヌドのない空から真暪に来お、壁に圓たっおいた。壁はモルタルで、瞊にひびが䞀本入っおいる。光がその角床に来るず、ひびの底に圱ができお、線が急に倪くなる。倪くなった線は、建物の内偎から誰かが鉛筆で匕いたみたいに芋えた。

 わたしはその線を芋おいた。

 絵の䞭の傘の骚が八本あったこずを思い出した。あの絵の䞭で、たわりの人はみんな暪に流れた線になっおいお、真ん䞭の女の人だけが線になっおいなかった。線を匕くのが速い人だ。線ならいくらでも匕ける人が、線にならないものの前でだけ止たる。

 その人は䞉脚の埌ろでカメラを芗いおいた。芗いたたた、動かなかった。北原さんはケヌスの䞊に立っおいた。颚でスカヌトの裟が動いお、たた戻った。誰も䜕も蚀わなかった。

 わたしは息を止めおいた。止めおいる぀もりはなかったが、途䞭で苊しくなっお、それで気が぀いた。光は壁の䞊のほうぞ移っおいった。ひびの圱が现くなっお、倪い線が消えお、壁がただの壁になった。

 その人は䞉脚から離れお、脚をたたんだ。たたむのは速かった。北原さんがケヌスから降りお、スカヌトの埃を払っお、䜕か蚀った。声はここたで届かなかった。二人は路地の反察偎の出口のほうぞ歩いおいっお、角を曲がっお、芋えなくなった。

 路地には誰もいなくなった。わたしは十五メヌトルを歩いた。ビヌルケヌスは眮きっぱなしになっおいた。䞉脚の脚が立っおいた堎所に、アスファルトの䞊の砂が䞉぀、䞞く払われた跡が残っおいる。わたしはその跡のうしろに立っお、壁のほうを芋た。

 壁はただの壁だった。光はもうない。

 鞄の内ポケットから、ハンカチにくるんだものを出した。開いお、手のひらに乗せた。黒くお䞞くお、思ったより軜い。あの人は四十分埅っお、いちばんいいずころで抌せなかった。わたしは䞉か月埅っお、四メヌトルのずころで枡せなかった。

 どちらが長いずいう話ではないのだず思う。ただ、この路地には今、抌せなかった人が䜿うはずだった光の跡ず、枡せなかった人間が持っおいる蓋ずが、䞡方ある。それを同じ堎所に䞊べたのは、わたしだ。

 わたしは口を開けた。

 「これ、萜ずしたしたよ」

 声は出た。壁に圓たっお、少しだけ返っおきた。誰もいない路地で蚀う分には、わたしの声はちゃんず出る。二十二時間遅れおいるだけで、機胜そのものは壊れおいない。

 「あの絵、芋たした」

 二文目も蚀えた。蚀っおしたうず、その二文はもう新品ではなくなった。次に本人の前で蚀うずきには、これは二床目になる。二床目のほうが蚀いやすいのか蚀いにくいのか、わたしはただ知らない。

 蓋をハンカチに包み盎しお、鞄に戻した。郚屋に垰るず、郵䟿受けに封筒が入っおいた。差出人は父で、䜏所は実家のたただ。字は前のず同じで、倪くお、右䞊がりで、䜏所の「県」の字だけがい぀も倧きい。

 机の右の端には、䞉日前の封筒がただ眮いおある。封を切っおいないほうだ。

 わたしは二通目をその䞊に重ねた。重ねるず、䞋の䞀通は芋えなくなった。芋えなくなったからずいっお、なくなるわけではない。二通あるずいうこずは、䞀通目に返事がないのを知っおいお、それでも二通目を曞いた人がいるずいうこずだ。

 アむロン台を出しお、コンセントに差した。赀いランプが点いた。消えるたでのあいだ、わたしは机の右の端を芋おいた。

第八章 撮り盎し

 自分が䜕を芋おいなかったかを人から教えられるずいう経隓は、たいおいの堎合、芋おいなかったこず自䜓よりも、それを教えられる瞬間のほうが厄介にできおいる。

 路地から衚通りぞ出たずころで北原がその話をした。さっきの子は知り合いなのか、ず圌女は蚊いた。僕は誰のこずだず蚊き返した。北原は路地の入口を芪指で指しお、あそこにずっず立っおいた子がいたのだず蚀った。僕は振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。壁の前にビヌルケヌスがひず぀眮き忘れられおいお、それは間違いなく僕が眮き忘れたものだった。

 北原は鞄から゚プロンを出しお腕にかけながら、あんたのこずを倖から芋おいる人はちゃんずいるのだ、あんたのほうが芋おいないだけだ、ずいうようなこずを蚀っお、喫茶店の鉄の階段を䞊がっおいった。圌女はこれから六時間ぶんの玉子サンドを䜜る。僕は䞉脚を担いで、その日もフィルムを䞀秒も䜿わないたた垰るこずになった。二日続けおれロだった。れロが二日続くず、それはもう蚘録ではなくお性質ず呌ばれる皮類のものになる。

 郚宀に戻っお、僕は棚からいちばん巊の猶を出した。窓の䞭に去幎の八月の須磚が出おきた。

 終わりで蓮は立ち止たり、振り返っお、口を動かす。二音か䞉音だ。颚の音に食われお声は入っおいない。珟堎で僕はその声を聞いたはずなのだが、䜕ず蚀ったかを芚えおいない。芚えおいないものはこの垯の䞭にも入っおいないので、その二音か䞉音は、この䞖界のどこにも保管されおいないこずになる。

 繋ぐなら䞉日だ。頭ず尻を切っお、音を圓おお、タむトルを入れる。䞉日で終わる。䞉日で終わるずわかっおいるものの前で、僕は十か月手を止めおいる。繋いだ瞬間に、去幎の八月の蓮はそこで完成する。北原の六歳の十五秒ずたったく同じ皮類のものを、僕はこの手で䞀本こしらえるこずになる。

 電話が鳎ったのはその倜の九時で、蓮だった。

 明日は空いおいるかず圌は蚊いた。空いおいるず僕は答えた。須磚ぞ行こう、ず蓮は蚀った。泳ぐ気かず蚊くず、泳がない、撮っおほしいのだず蚀った。去幎ず同じ堎所を同じように歩くから、撮り盎しおくれ、ずいうのが甚件だった。

 なぜ撮り盎すのかず僕は蚊いた。蓮の理屈はこうだった。去幎のものが問題なら、新しいものを䜜ればいい。二本䞊べれば人間は必ず新しいほうを芋る。去幎の八月の自分が本物だず思われるのが嫌なのだから、今幎の自分を撮っおもらうのが筋である。

 翌日の䞉時に須磚の駅で萜ち合った。

 浜ぞ降りお防波堀の付け根たで歩いた。六月の海は八月の海より色が濃くお、氎平線の手前で二段に分かれお芋える。人はほずんどいなかった。遠くで犬を連れた老人が䞀人、こちらぞ向かっお歩いおいたが、途䞭で向きを倉えお垰っおいった。

 去幎ず同じ䜍眮に䞉脚を立おるのに十五分かかった。蓮は埅っおいた。埅っおいるあいだ、砂を靎の先で掘っおいた。掘っおは均し、掘っおは均しおいた。

 去幎の最埌に自分が䜕か蚀ったはずだ、ず蓮は蚀った。蚀った、ず僕は答えた。䜕ず蚀ったか芚えおいるかず圌は蚊いた。芚えおいないし、音も入っおいない、ず僕は蚀った。蓮はしばらく黙っお、それから、俺も芚えおいない、ず蚀った。じゃあ今日は聞こえるずころで蚀えばいい、ず僕は蚀った。そうだな、ず蓮は蚀った。

 四時十分に、光の角床が去幎に近くなった。僕はスむッチに指を眮いた。眮いた指は、そのたた抌した。

 抌したこずに僕自身が少し驚いた。フィルムが回りはじめるずきの音はラゞオの雑音によく䌌おいお、その音が聞こえるずいうこずは、この䞖界の䞀郚が確実に枛っおいるずいうこずでもある。四十分埅っお抌せない指ず、䜕も考えずに抌した指が、同じ手の同じ堎所に぀いおいる。

 蓮は四分歩いた。去幎より䞉秒だけ長かった。端たで行っお立ち止たり、振り返っお、こちらに向かっお口を開けた。颚はあったが、去幎ほどではなかった。ちゃんず撮れよ、ず蓮は蚀った。声は入った。

 僕は指を離さず、そのあず十秒ほど回し぀づけた。蓮は防波堀の䞊に立ったたたこちらを芋おいた。芋おいるだけで、䜕もしおいなかった。海は圌の埌ろで動き぀づけおいお、圌だけが動いおいなかった。それがあの絵ずたったく同じ構図であるこずに気が぀いたのは、フィルムを止めお䞉脚をたたんでいるずきだった。僕はどうやら、動かない人間を真ん䞭に眮くずいう構図を、自分の意思ずは別のずころで䜕床も遞んでいるらしい。

 垰りの電車で蓮は窓の倖を芋おいた。今日のはい぀繋ぐのかず圌は蚊いた。孊祭たでには、ず僕は答えた。ちゃんず繋げよ、繋がなかったら去幎のが残るだけだからな、ず圌は蚀った。わかっおいるず僕は蚀った。わかっおいないだろう、ず圌は蚀っお、少し間を眮いおから、冗談だ、ず付け足した。

 電車は海沿いを走っお、トンネルに入っお、出た。出たずころで海はもう芋えなくなっおいた。

 郚屋に垰っお棚に猶を䞊べた。海、階段、六月二日、それに今日ぶんの新しい猶がひず぀増えお、四本になった。ラベルには六月二十䞉日ず曞いた。曞いおから、いちばん巊の猶をしばらく芋おいた。

 同じ男が同じ堎所を歩く四分間が、この郚屋に二本ある。片方には声が入っおおらず、もう片方には入っおいる。二本を䞊べお眮いおおくかぎり、この埓兄匟は完成しないたたでいられる。そういう理屈も䞀応は成り立぀のだが、その理屈が誰のためのものなのかは、僕にはよくわからなかった。

 棚に戻す前に、僕は䞉本目の猶をもう䞀床手に取った。䞭には六月十八日の亀差点の四十秒がただ入っおいお、僕はそれをただ芋おいない。芋おいないものが自分の郚屋の棚にあるずいうのは、考えようによっおは、封を切っおいない手玙が䞀通あるのずそう倉わらない。

第九章 䞀秒

 切笊ずいうものには有効期限がある。

 六月二十日に買った二千四癟円の切笊は、翌日の終電を過ぎた時点でただの玙になった。私はその瞬間を芋おいない。芋おいないずころで、玙のほうが勝手に圹目を降りた。降りたあずの切笊は、封筒のあいだに挟たったたた、ゞャケットの裏に立おおある。

 こういうものは捚おるべきなのだず思う。䜿わなかった切笊を持っおいおも、次に䜿えるわけではない。それでも私は捚おなかった。捚おるずいう行為は、買うずいう行為ず同じくらい、はっきりした意思を必芁ずする。私にはそのどちらもない。

 二通目が届いたのは六月二十六日の午前だった。

 郵䟿屋が投げ入れた束の䞭に、同じ斜蚭の名前が印刷された封筒が混ざっおいた。宛名の字は前ず同じで、前より少しだけ现くなっおいた。ペン先を玙に抌し぀ける力ずいうのは、その日の䜓調によっお毎回倉わる。

 䟿箋は䞀枚で、䞉行だった。

 先日お手玙を出したしたが、届いおいたすでしょうか、ずいうのが䞀行目だった。届いおいなければ、䜏所を間違えおいるかもしれたせん、ずいうのが二行目で、面䌚の受付は午埌䞀時から四時たでです、ずいうのが䞉行目だった。

 私はその䞉行を、カりンタヌの䞊で二十分ばかり芋おいた。届いおいる。䜏所は合っおいる。間違えおいるのは䜏所ではない。

 十幎前の六月に、私は駅の改札の前で八時間立っおいた。あのずき私は、圌女が来ない理由をいく぀も考えた。乗り遅れたのだず考え、日にちを間違えたのだず考え、途䞭で気が倉わったのだず考えた。最埌たで考え぀かなかったのは、来られないずいう可胜性だけだ。二十四の私はそこたで想像力が届かなかった。

 今床は、届く偎に私がいる。

 あの人はいた、䜏所を間違えたかもしれないず考えおいる。手玙が郵䟿局のどこかで止たっおいるかもしれないず考えおいる。私が読んで、読んだうえで、十䞃日ず六日のあいだ䜕もしおいないずいう可胜性に぀いおは、たぶんただ考え぀いおいない。

 それを考え぀かないでいおくれるうちに䜕かをするのが、人ずしおたずもなやり方だ。私は垳面を開いお、その日の仕入れを曞いた。午埌の二時前に、あの女の子が来た。

 匕き戞が開いお、䞊の鈎が鳎った。圌女は前ず同じように棚のあいだに立っお、背衚玙ではなく壁のほうを芋た。前ず違ったのは、その日は棚から䞀枚も抜かなかったこずだ。八癟円の盀を買っお垰るずいう手続きを、圌女はもう自分に蚱さないこずにしたらしい。

 䞉分ほど、圌女は立っおいた。喉のあたりで、息の圢が二床倉わった。私はこのずき、自分の口が動くのを、少し離れたずころから芋おいるような気持ちで聞いおいた。

 「あれが、気になりたすか」

 八文字だ。二か月ず少しのあいだ蚀えなかった八文字が、なんの前觊れもなく出おきた。自分のこずでは十䞃日動けない人間が、他人のこずでは二秒で動く。この䞍公平に぀いおは、以前から気づいおはいた。

 圌女はこちらを向いた。それから、はい、ず蚀った。

 「非売品なんですよね」

 「そうです」

 「どういう盀なんですか」

 私は少し考えた。考えるずいっおも、答えを探しおいたわけではない。どこたで蚀うかを決めおいた。

 「枡せなかったものです」

 圌女は黙っおいた。黙り方が、埅っおいる黙り方だった。この子は人の話の続きを急がせない。急がせないのは、たぶん自分が急がされるのが苊手だからだ。

 「十幎前に、人に枡す぀もりで持っおいたした。枡せなかったので、こちらに残っおいたす」

 「聎いたこずは」

 「ありたせん。䞀床も鳎らしおいない」

 圌女はそこで、少しのあいだ壁を芋た。

 「聎かないんですか」

 「聎くず、枛りたすから」

 蚀っおから、これは説明になっおいないず思った。溝が枛るずいう話は、この堎合、話の半分にもならない。圌女は、そうですか、ず蚀っお、それ以䞊は蚊かなかった。蚊かないでくれたこずに、私は少し助けられた。

 圌女が垰ろうずしたので、私は䞀぀だけ話をした。

 先週来た客の話だ。五十くらいの女の人で、母芪の家を片づけおいたら題のわからない歌が出おきた。盀はどこかぞ行っおしたっお、旋埋だけが残っおいる。歌えたすかず蚊くず、その人は錻から音を出した。四小節だ。途䞭で高さを間違えお、頭からやり盎しお、二床目は最埌たで行った。

 「わかったんですか」

 「わかりたした。昭和䞉十幎代の映画の䞻題歌でした。B面の二曲目です」

 「すごいですね」

 「すごくはないです。人は、奜きだったずころだけを長く䌞ばしお歌うんです。䌞びたずころを詰めれば、元の圢が出おくる」

 私はカりンタヌの垃を畳んだ。

 「あの人は、䞉十幎その歌を持っおいたした。持っおいたのに、題を知らなかった。題を知らないから、探せない。探せないから、ずっず錻歌のかたちのたただった」

 圌女は匕き戞のずころに立っお、こちらを芋おいた。

 「題がわかったら、どうなるんですか」

 「泚文できたす」

 圌女は、泚文、ず小さく蚀った。蚀い方が、その単語を初めお手に持っおみたような蚀い方だった。

 「うちは泚文も受けおたす。題さえわかれば、たいおいのものは半月で来たす」

 「半月」

 「半月です」

 圌女は少し頭を䞋げお、匕き戞を開けお、出おいった。鈎が鳎っお、倖の音が入っおきお、戞が閉たっお、たた静かになった。その日、私は六時に店を閉めなかった。

 灯りを点けたたた、カりンタヌの内偎でしばらく座っおいた。䞃時になっお、倖の商店街のシャッタヌが順番に降りる音が聞こえた。八時前に、私は壁の䞀枚を䞋ろした。

 ゞャケットの裏から封筒を二通抜いお、カりンタヌの䞊に䞊べた。あいだから、期限の切れた切笊が䞀枚萜ちた。私はゞャケットから内袋を出しお、内袋から盀を抜いた。

 十幎ぶりの重さだった。䞉十センチの円盀は、思っおいるよりずっず重い。片手で持おるが、片手で持぀ものではない。私は䞡手で持っお、蛍光灯の䞋で斜めに傟けた。傷はない。埃も入っおいない。溝は十幎前に工堎を出たずきのたただ。䞖の䞭でこれほど完党な状態で存圚しおいるものは、そう倚くない。

 私は店の奥の機械の蓋を開けた。

 客に詊聎させるための叀いプレヌダヌで、毎日䜿っおいる。タヌンテヌブルを回しお、回転数を確かめた。四十五ではなく䞉十䞉だ。盀を茉せた。茉せるず、盀の䞭心の穎が軞に萜ちお、小さい音がした。

 アヌムを持ち䞊げた。持ち䞊げたずころで、私の手は止たった。

 止たったたた、二十秒くらいそうしおいたず思う。二十四のずきに私はこれを玙袋の䞭で八時間握っおいお、そのあいだ䞀床も、これを自分で聎くずいう堎面を想像しなかった。これは私のものではなかった。枡すためのものだった。枡せなかったものを自分で鳎らすずいうのは、順番ずしお、ただどこか違う。

 私はアヌムを䞋ろした。針が盀の倖呚に觊れる盎前の、ただ觊れおいないずころで、スピヌカヌから音が出た。静電気だ。也いた盀の衚面に溜たった電気が、針の先の空気を通っお、现かい雑音になる。じり、ずいう音が䞀秒だけ鳎った。曲ではない。溝の音でもない。盀がそこにあるずいうこずだけを䌝える音だ。

 私はアヌムを持ち䞊げお、戻した。

 䞀秒だった。十幎で䞀秒。この調子でいけば、片面を鳎らし終えるのに私はあず二䞇幎ばかり必芁になる。盀を内袋に戻しお、ゞャケットに入れお、封筒二通ず切笊を裏に立おお、壁に掛けた。灯りを消しお、鍵をかけた。

 倖に出るず、商店街はもうほずんど暗かった。パン屋のシャッタヌに、明日の予玄承りたすずいう玙が貌っおある。也物屋の前を通っお、駅前の広堎ぞ出た。柱の陰には行かなかった。その代わり、刞売機の前に立った。運賃衚を芋䞊げお、県境の駅たでの金額を確かめた。二千四癟円。数字は先週ず同じ堎所にあった。

 私は財垃を出さなかった。

 同じ玙をもう䞀枚買っお、もう䞀床ただの玙にするだけだ。それをやるず、私はたぶん、あの封筒の裏に切笊を溜めおいく人間になる。二枚になれば䞉枚になる。䞉枚たで行った人間が四枚でやめるずころを、私は芋たこずがない。

 私は刞売機の前を離れお、家に垰った。途䞭で䞀床だけ振り返った。改札の灯りはただ点いおいお、階段の䞊から人が降りおきおいた。降りおきた人はみんな、どこかぞ垰る顔をしおいた。

第十章 泚文

 泚文、ずいう蚀葉を、わたしは商店街を抜けるあいだじゅう持っお垰った。

 蚀葉を持っお垰るずいう感芚が、たぶん人に䌝わらない。わたしの堎合、その日に聞いた蚀葉のうち䞀぀か二぀が、鞄の䞭の重さのようになっお残る。家に着いおから鞄を開けお、それを出しお机に眮く。眮いおしばらく芋おいる。そういう時間がある。

 泚文ずいうのは、こちらから蚀わなければ䜕も起こらない皮類の蚀葉だ。

 その点で、わたしがこの二十幎で䜿っおきた蚀葉ずは皮類が違う。すみたせん、ずか、はい、ずか、そっか、ずか、そういうものは党郚、向こうから来たものぞの返事だった。返事は速い人でも遅い人でも䞀応できる。半拍遅れおも、返事は返事ずしお成立する。

 泚文は返事ではない。わたしは机の右の端を芋た。封筒が二通ある。巊の端にレンズの蓋がある。真ん䞭には䜕もない。次の日、四時に閉架のシフトを䞊がっお、商店街ぞ行った。匕き戞を開けるず鈎が鳎った。緑色のコヌトの人はカりンタヌの内偎にいお、盀を拭いおいた。溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。

 「いらっしゃい」

 わたしはカりンタヌの前たで行った。行っおから、そこで䞀床、床のほうを芋た。床は板で、朚目が瞊に走っおいる。準備しおきた文は二぀ある。昚日の倜、郚屋で口の圢だけ䞉回䜜った。

 「泚文っお、誰でもできるんですか」

 䞀぀目は蚀えた。

 「できたすよ」

 「題名がわかっおいれば」

 「わかっおいれば」

 その人は垃を眮いた。カりンタヌの䞋から䌝祚の綎りを出しお、ボヌルペンをその䞊に眮いた。眮き方が、こちらに向けお眮く眮き方だった。

 「題は」

 わたしは壁を芋た。あの盀の真ん䞭に癜い字がある。二か月のあいだ、ガラス越しには読めなかった。先週この店に入ったずき、棚のあいだから読んだ。読んでからずっず、その六文字はわたしの䞭にある。

 「手のひらの宇宙、です」

 蚀っおしたっおから、自分の声を聞いた。声はふ぀うの倧きさで出おいた。その人は、䌝祚の䞊のボヌルペンに手を䌞ばしかけお、そこで止たった。止たっおいたのは、䞉秒か四秒だず思う。それから顔を䞊げお、わたしを芋た。目の䞋に、たおに二本、深い線が入っおいる。

 「あれず同じものを」

 「はい」

 「なぜ」

 わたしはそこで、答えを持っおいなかった。持っおいないこずに、蚊かれおから気が぀いた。あの盀が気になった理由も、この店の前で足が半歩遅くなる理由も、説明できない。説明できないたた二か月通っお、泚文祚の前たで来おしたった。

 「わからないです」

 その人は少し黙っお、それから、そうですか、ず蚀った。

 「わからないもののほうが、たいおい長く残りたす」

 そう蚀っお、ボヌルペンを取った。

 䌝祚に題名を曞いた。字は小さくお、ひず぀ず぀同じ倧きさだった。次の欄に、わたしの名前ず、䞋宿の電話番号を曞かせた。曞いおいるあいだ、その人はカりンタヌの向こうで埅っおいた。急がせなかった。

 「入荷たで、半月くらいです。もっず早いこずもありたす」

 「うちで扱っおるのは䞭叀なので、状態は遞べたせん。傷のあるものが来たら、そのずきはお断りしおもらっおかたいたせん」

 「聎けたら、それでいいです」

 その人は䌝祚の控えを切り取っお、わたしに枡した。薄い玙で、耇写の青い字がすこし滲んでいた。手のひらの宇宙、ず曞いおある。誰かが自分のために曞いた、わたしの名前぀きの玙だ。

 「代金は入荷のずきで」

 「はい」

 倖に出お、わたしはその控えを二床たたんで、鞄の内ポケットに入れた。レンズの蓋の隣になった。問題は、わたしがレコヌドをかける機械を持っおいないずいうこずだ。䞋宿の郚屋にあるのは、ラゞオが䞀台ず、目芚たし時蚈ず、アむロンだ。アむロンでレコヌドは鳎らない。

 閉架のバむトは時絊五癟二十円で、週に䞉日、䞀日四時間。ひず月で二䞇五千円くらいになる。䞋宿代が二䞇二千円で、そのうち䞀䞇五千円は実家から来る。差し匕きで、わたしが自由にできるのはひず月に䞀䞇八千円ある。

 䞭叀のプレヌダヌの倀段を、わたしは知らない。知らないので、明日あの店で蚊けばいい。蚊けばいい、ず自分で思ったこずに、わたしはあずから少し驚いた。金曜に喫茶店ぞ行った。鉄の階段の䞉段目ず䞃段目を端で螏んで䞊がるず、カりンタヌの内偎に二人いた。玲ず、北原さんだ。

 「長谷川さん、ちょうどよかった」

 玲がそう蚀った。ちょうどよかった、ず人に蚀われる状況に、わたしはあたり慣れおいない。北原さんが奥から出おきた。手にトレむを持っおいなかった。

 「あんたが玲ちゃんの友達か」

 「はい」

 「うち、北原。映画研究䌚」

 「頌みがあんねん。秋の孊祭に出す映画の手䌝い、しおくれぞん」

 わたしは玲を芋た。玲は氎のグラスを拭きながら、こちらを芋ずに蚀った。

 「うち掚薊しずいたで。この子、本探すの日本䞀速いから、ゆうお」

 「本ず映画は関係ないやろ」

 「関係あるっお。蚘録係ずか、そういうや぀やろ。番号ずか時間ずか曞く係」

 北原さんは怅子を匕いお座った。

 「実はな、ほんたに人がおらぞんねん。うちの䌚、四人しかおらん。撮る子が䞉人おっお、みんな自分のを撮っおお、うちは出るだけ。カチンコ打぀人も、時蚈芋る人もおらぞん」

 「わたし、映画のこずは䜕も知らないです」

 「知らんほうがええねん。知っおる子は口出しおくるから」

 北原さんはそう蚀っお、それから少し声を萜ずした。

 「うち、今幎で最埌にするっお決めおんねん。四幎おっお、完成したや぀が䞀本もないから」

 わたしは、その蚀葉を持ち垰りたいず思った。持ち垰る前に、返事をしなければならなかった。蚀葉は喉のずころたで来おいた。い぀もならここで沈む。沈んで、あずで郚屋で、机の右端を芋ながら思い出す。

 路地の壁の前で、わたしは二文だけ声に出したこずがある。あれは二床目のほうが蚀いやすいのか蚀いにくいのか、ただ知らないず曞いた。曞いたのはわたしの頭の䞭でだ。

 「はい」

 出た。

 「ほんた」

 「はい。やりたす」

 北原さんは䞡手を叩いた。玲がグラスを拭く手を止めお、こちらを芋た。芋お、それから、ぞえ、ず蚀った。ぞえ、の蚀い方が、い぀もの玲の高さではなかった。少し䜎かった。合わせるのを忘れた高さだず思う。

 「撮圱は来週から。倉庫街ず、駅ず、あず海」

 「海」

 「須磚。監督が海が奜きやねん」

 監督、ずいう蚀葉が出たので、わたしはそこで䞀床、息を止めた。止めたこずに気づかれないように、氎を䞀口飲んだ。氷はただ溶けおいなかった。その倜、䞋宿の廊䞋の電話が鳎った。共同の電話で、いちばん近い郚屋の人が出お、廊䞋の奥たで呌びに来る決たりになっおいる。二階の端たで来お、長谷川さん、ず呌ばれた。

 母だった。

 「元気にしおるん」

 「しおる」

 「ごはん食べおるか」

 「食べおる」

 母は、そう、ず蚀っお、それから少し黙った。廊䞋の窓が開いおいお、䞋の道を自転車が通る音がした。

 「お父さんな、あんたに話があるみたいやわ」

 わたしは受話噚を持ち替えた。

 「手玙、来おぞんか」

 「来おる」

 「読んだ」

 わたしは、うん、ず蚀った。嘘を぀くのは速い。嘘だけは、わたしの䞭で半拍も遅れない。

 「そう。ならええわ」

 母はそれ以䞊蚊かなかった。蚊かないでくれたのは、たぶん、蚊いおも仕方がないず知っおいるからだ。倩気の話を二぀しお、電話は切れた。郚屋に戻っお、電気を点けた。机の右の端に封筒が二通ある。巊の端にレンズの蓋がある。真ん䞭に、泚文祚の控えを眮いた。

 䞉぀が暪に䞊んだ。右のは開けおいないもので、巊のは返しおいないもので、真ん䞭のは、わたしがこの二十幎で初めお自分から蚀っお手に入れた玙だ。半月かかるず蚀われた。半月ずいうのは、埅぀のが仕事の人間にずっおは、たぶん短いほうだ。

第十䞀章 残り䞉分

 八ミリのフィルムずいうのは、カヌトリッゞずいう小さな箱に収たっおいる。

 箱の䞭で、フィルムは䟛絊偎のリヌルから巻き取り偎のリヌルぞ移動しおいく。撮った郚分は巻き取り偎に溜たり、ただ撮っおいない郚分は䟛絊偎に残っおいる。ここたでは誰でも想像できる。問題は、この箱が途䞭では開けられないずいう点にある。

 開ければ光が入る。光が入れば、撮った郚分も撮っおいない郚分も、区別なくすべお癜くなる。だから途䞭で䞭身を取り出すずいう遞択肢は存圚しない。䞉分二十秒ぶんのフィルムを党郚䜿い切っお、箱ごず珟像所に出す。それ以倖の方法はない。

 ぀たり僕は、六月十八日の亀差点の四十秒を芋るために、残りの二分四十秒を撮らなければならない。

 この構造に぀いお、僕は自分の郚屋の床に座っお䞉十分ばかり考えた。すでに手の䞭にあるものを芋るために、ただ手の䞭にないものを䜜らなければならない。前に進たないかぎり、埌ろにあるものが芋えない。よくできた冗談のような仕組みだが、フィルムを蚭蚈した人間はたぶん冗談の぀もりではなかったはずだ。

 僕はカヌトリッゞをカメラに戻した。カりンタヌの窓には、残りの目盛りが出おいる。あず䞉分ず少し。翌日、喫茶店で北原にその話をした。蚘録係が芋぀かった、ず北原は蚀った。玲ちゃんの友達で、来週から入っおもらう、ず。

 僕は、そう、ず蚀った。

 どんな子かず蚊くべき堎面だったのだず思う。撮る偎の人間が新しく入る人のこずを䜕も蚊かないずいうのは、たぶん瀌儀ずしお問題がある。ただそのずき僕の頭は残りの二分四十秒の䜿い道でいっぱいで、蚘録係ずいうのは僕にずっお、時蚈ずノヌトを持っおいる人ずいう蚘号でしかなかった。

 その子ええ子やで、ず北原は蚀った。僕は、うん、ず答えた。その足で、僕はレコヌド屋ぞ行った。

 匕き戞を開けるず鈎が鳎っお、䞭は倖より䞉床ばかり涌しかった。緑色のコヌトの男はカりンタヌの内偎にいお、癜い垃で盀を拭いおいた。溝に沿っお倖から内ぞ、同じ角床で。この人の手はい぀も同じ速床で動いおいお、その速床を芋おいるず、こちらの呌吞のほうが合わせにいっおしたう。

 僕は甚件を蚀った。この店の䞭を撮らせおほしい、ず。

 男は垃を止めお、顔を䞊げた。䜕のためかず蚊いた。孊祭に出す映画で、街の䞭の堎所を䜕箇所か撮っおいるのだず僕は蚀った。実際にはただ䜕も決たっおいなくお、決たっおいないずいう事実をこの人の前で蚀うのは避けたかった。

 「フィルムですか」

 「八ミリです」

 「音は」

 「別録りです。今日は絵だけです」

 「棚ず、床ず、私の手たでなら」

 「ありがずうございたす」

 「壁のあれは撮らんずいおください」

 僕は壁を芋た。青い䞀枚が掛かっおいる。角が四぀ずも柔らかい。

 「入りたせんか、画角に」

 「入らないように撮っおください。撮れるでしょう」

 撮れる、ず僕は答えた。実際、その手の泚文はいくらでも実珟できる。カメラずいうのは、写すものを決める装眮であるず同時に、写さないものを決める装眮でもある。八割は埌者の仕事だ。僕は䞉脚を立おずに、手持ちで撮った。

 棚のあいだに立っお、朚の仕切りの札を巊から右ぞ流した。囜内、掋楜、映画音楜、挔歌。札の字は手曞きで、挔歌の「挔」だけが少し傟いおいる。床の板目を瞊に撮っお、段ボヌルに斜めに立おられた盀の背を撮った。

 最埌に、カりンタヌの内偎の手を撮った。

 男は僕がカメラを構えおいるあいだ、い぀もず同じ速床で盀を拭いおいた。撮られおいるこずを意識するず人の動䜜はたいおい二割ほど遅くなるのだが、この人の手は倉わらなかった。円ではなく、溝に沿っお、倖から内ぞ。指の関節が四぀芋えお、そのうち芪指の付け根に叀い傷がある。

 四十秒ばかり回した。残りの目盛りは二分になった。

 「終わりたした」

 「そうですか」

 男は垃を眮いお、それから、ひず぀蚊いおもいいですかず蚀った。僕は、どうぞ、ず答えた。

 「その䞭には、もう䜕か入っおるんですか」

 「四十秒だけ」

 「䜕を撮ったんです」

 「亀差点です。枡っおる人を、四十秒」

 男はうなずいた。うなずいおから、少し間を眮いた。

 「芋たしたか」

 「ただ芋おたせん。途䞭では出せないので」

 「なるほど」

 圌はそれ以䞊䜕も蚊かなかった。蚊かない代わりに、カりンタヌの䞋から䌝祚の綎りを出しお、䜕かを確かめるようにめくっお、たた戻した。めくったのは䞀枚だけで、その䞀枚に䜕が曞いおあるのかは、こちらからは芋えなかった。

 店を出るずき、鈎がもう䞀床鳎った。倜に蓮の家ぞ電話をかけた。

 叔母が出お、蓮は塟から垰っおいないず蚀った。九時を過ぎおいた。予備校の自習宀は八時半たでのはずだが、その話はしなかった。叔母は、たた来おあげおな、ず蚀っお、それから、この前の海のや぀、あの子は喜んでたわ、ず蚀った。

 「本人がそう蚀っおたしたか」

 「そんなん蚀わぞんよ、あの子は。でもシャツ掗うおっお出しおきたから」

 次の日の倕方、僕は商店街の出口の亀差点にいた。残りは二分だ。西日は先週ず同じ角床で来おいお、暪断歩道の癜い瞞の䞊を長く走っおいた。人が枡るず、癜い䞊を通るあいだだけ脚が圱ごず消える。

 僕はカメラを出しお、赀のあいだに構えた。青になった。十人ばかりが同時に歩き出した。そのうち、いちばん手前にいた人が動かなかった。髪の長い人で、鞄を巊手に提げお、正面を向いお立っおいた。青になったこずは芋えおいるはずだった。たわりの人間の背䞭が二歩ぶん先ぞ行ったずころで、その人の足はやっず動いた。

 僕はスむッチを抌しおいた。抌したこずに、抌しおから気が぀いた。背䞭が向こう偎の歩道に着いお、人混みに玛れた。僕はカメラを䞋ろした。目盛りは䞀分半になっおいた。この四十秒ぶんの䞭に、僕は同じ亀差点を二床撮ったこずになる。䞀床目は先週で、二床目が今日だ。䞀床目に䜕が写っおいるのかは、ただ知らない。

第十二章 圚庫

 䞭叀盀の泚文ずいうのは、芁するに人の圚庫を圓たる仕事だ。

 新品なら問屋に頌めばいい。䞭叀にはそれがない。同業の店に電話をかけお、こういう題のものが手元にありたすかず蚊く。あれば送っおもらい、こちらの売倀に少し乗せお客に枡す。盞手の店にずっおはただの䞀枚が出るだけで、こちらにずっおは泚文が䞀件片づく。それだけの商売だ。

 私はこの十幎、その電話を䞀床もかけなかった。

 かけようず思えばい぀でもかけられた。題は知っおいる。歌手も、番号も、発売幎も知っおいる。壁に掛かっおいる䞀枚の裏偎には党郚印刷しおあっお、私は月に䞀床それを拭くたびに読んでいる。

 六月二十九日の午前に、私は受話噚を取った。最初にかけたのは倧阪の同業で、䞉十幎やっおいる店だ。題を蚀うず、向こうは少し黙っお、それから圚庫の垳面をめくる音がした。

 「ああ、ありたすよ。二枚あるな」

 二枚、ず私は繰り返した。

 「䞀枚は垯なしで千二癟円、もう䞀枚は垯付きで二千円。どっちにしたす」

 「状態は」

 「どっちもきれいです。あれ、そんなに回っおぞんから、盀面は残っおるのが倚いんですわ」

 私は垯なしのほうを頌んだ。客に枡すのに垯は芁らない。芁らないずいうのは商売䞊の刀断で、私自身の刀断ではない。私自身のほうの刀断がどう出るかに぀いおは、そのずき考えないようにした。

 「送料はうちで持ちたすわ。぀いでに䜕枚か入れずきたす」

 「぀いでずは」

 「返品もんが溜たっおたしおね。ええのがあったら芋ずいおください」

 電話は䞉分で終わった。䞉分だ。私は受話噚を眮いお、カりンタヌの䞊を芋た。䜕もなかった。垳面ず、ボヌルペンず、四぀折りにした垃があった。十幎である。

 この十幎のあいだ、私はあの盀を、この䞖に二枚ずないもののように扱っおきた。壁に掛けお、倀札を぀けず、月に䞀床拭いお、非売品ですず答えおきた。そう扱っおいれば、そう扱うだけの理由が向こうから生えおくるず思っおいたのかもしれない。

 実際には、倧阪の店の棚に二枚あった。垯なしが千二癟円で、垯付きが二千円だ。私は垳面を開いお、その日の日付の䞋に、泚文分入荷予定、ず曞いた。曞いた字が思ったより小さくなった。荷物は䞃月二日に届いた。䞉日だ。半月ず蚀ったのは私で、その半月には䜕の根拠もなかった。

 段ボヌルは思っおいたより倧きかった。開けるず、新聞玙に包たれた盀が四枚入っおいた。䞊の䞉枚は向こうの店の返品もので、いちばん䞋に、泚文の䞀枚があった。新聞玙は先月の日付だった。

 私はその䞀枚を出しお、蛍光灯の䞋で傟けた。青い。真ん䞭に癜い字がある。ゞャケットの角は四぀ずも生きおいる。壁に掛かっおいるほうの角は柔らかく䞞くなっおいるので、二枚を䞊べれば、どちらがどちらかは私にしかわからない違いずしお残る。

 内袋から盀を抜いお、光の垯を溝の䞊に走らせた。傷はない。埃も入っおいない。私はそれを、しばらくカりンタヌの䞊に眮いおいた。この䞀枚は、私のものではない。

 あの子が泚文したもので、代金を受け取っお枡す商品だ。うちの圚庫だ。圚庫であれば、聎いおいい。詊聎は商売の䞀郚で、状態を確かめずに客に枡すほうが、この商売では䞍誠実にあたる。理屈ずいうのはい぀も、こういうずきにだけよく働く。

 私は店の奥のプレヌダヌの蓋を開けた。タヌンテヌブルを回しお、回転数を䞉十䞉に合わせた。盀を茉せた。䞭心の穎が軞に萜ちお、小さい音がした。アヌムを持ち䞊げた。今床は止たらなかった。

 針が倖呚に觊れる前に、じり、ずいう音が出た。それから針が溝に入っお、音の質が倉わった。溝の䞭の音は、倖の空気の音ずは違う。閉じた堎所の音だ。前奏が始たった。歌が入った。

 女の声だった。䜎くはない。うたくもない。たっすぐ出しおいるだけの声で、䌞ばすずころで少し揺れる。私はカりンタヌの怅子に座っお、それを最埌たで聎いた。二分四十秒だった。終わっお、針が溝の内偎の無音の郚分に入っお、アヌムが自動で䞊がった。機械が蓋の䞭でかちりず鳎っお、タヌンテヌブルが止たった。

 私はしばらく座っおいた。䜕も起きなかった。

 起きるはずだず思っおいたわけではない。ただ、十幎のあいだ壁に掛けおいたものの䞭身が、二分四十秒の、ごくふ぀うの歌だったずいう事実を、私は座ったたたそこで受け取った。歌詞に手がかりはなかった。圌女に関係のあるこずは䜕も歌われおいなかった。圓たり前だ。これは圌女が䜜った歌ではない。あのずき喫茶店でかかっおいたずいうだけの歌だ。

 私は針をもう䞀床萜ずした。二床目に聎いたずき、私は胞に手を圓おおいた。圓おたのは無意識だったが、圓おおから䜕をしおいるのかがわかった。数えおいた。

 あの日の喫茶店で、圌女はテヌブルの䞊で指を動かしおいた。二拍で䞀回だ。曲のあいだじゅう、䞀床も狂わなかった。その速さが自分の心臓ず同じだずいうこずに、私はあのずき気が぀いお、気が぀いたこずを圌女に蚀わなかった。蚀うほどのこずではないず思った。蚀うほどのこずではないず思ったこずのいく぀かを、私はその埌の十幎で䜕床も思い出しおいる。

 二床目の再生の途䞭で、私は自分の脈を数えた。合わなかった。曲のほうが速い。

 四小節のあいだに、曲は八拍進んで、私の脈は䞃぀しか打たなかった。ずれは小さいが、四十秒も続ければ手のひらの䞋ではっきりわかるほどになる。二十四のずきには合っおいた。䞉十四の心臓は、あのころより遅い。

 曲は同じ速さのたただ。盀は枛らない限り同じ速さで回る。ずれおいったのは、こちらだけだ。䞉床目を聎いた。䞉床目は数えなかった。

 聎き終わっお、私は盀を内袋に戻し、ゞャケットに入れた。倀札を曞いた。千八癟円ず曞いお、それを衚に貌らずに、内袋のあいだに挟んだ。あの子には、明日か明埌日に電話をする。䞋宿の共同電話の番号が䌝祚に曞いおある。

 その䞀枚を、私はカりンタヌの䞋の棚に眮いた。壁のほうには掛けなかった。二枚を同じ壁に䞊べるずいう考えは、ひずずおり浮かんで、すぐに消えた。十時に灯りを消しお、店の奥の机に座った。

 䟿箋を出した。うちで包装に䜿う薄い玙ではなく、ちゃんずした䟿箋を買っおある。買ったのは六月の十日で、あの日から二十日以䞊、封筒に入れるものを曞かないたた抜斗に入れおあった。私は四行曞いた。

 手玙は二通ずも届いおいるこず。返事が遅くなったこず。䜓のこずを聞いたこず。それから、䞃月のうちに䞀床そちらぞ行きたす、ずいうこず。

 四行目を曞くのに、䞀行目から䞉行目たでの䞉倍の時間がかかった。日付は入れなかった。入れれば、その日付が今床は私の期限になる。十幎前にあの人が日付を曞いお、曞いた日にここぞ来られなかったこずを、私は知っおいる。

 曞き終えお、䟿箋を折っお、封筒に入れた。糊を぀けお、封をした。封をした封筒ずいうのは、開いおいるものずはたるで違う重さになる。䞭身は同じ玙䞀枚で、増えたものは䜕もない。

 私はそれを机の䞊に眮いお、灯りを消した。壁の䞀枚は暗がりの䞭で四角い圱になっおいた。その裏には、前の二通ず、期限の切れた切笊が䞀枚、ただ立おおある。

第十䞉章 二十秒

 䞃月䞉日の朝、わたしは六時に起きた。集合は午埌の䞉時半だ。九時間半ある。九時間半で甚意するようなものは䜕もないのだが、起きおしたったものは仕方がない。ブラりスにアむロンをかけた。襟から、肩、袖の順で、二埀埩ず぀。かけ終わっおハンガヌに掛けお、それから机の䞊のノヌトを芋た。

 倧孊ノヌトを䞀冊、新しく䞋ろした。衚玙に䜕も曞かなかった。䜕を曞けばいいのかわからなかったからだ。蚘録係ずいうのは䜕を蚘録するのか、わたしは昚日の倜に北原さんから電話で聞いた。カットの番号ず、テむクの番号ず、フィルムの残りず、それからOKかNGか。時間も曞いおほしいず蚀われた。

 「時間っお、䜕の時間ですか」

 「わからん。監督が蚀うおた。䜕時䜕分に䜕をしたかがわかったらええっお」

 時蚈は持っおいる。秒針のあるものではないので、腕時蚈を貞しおもらえないかず倧家さんに蚊いたら、亡くなったご䞻人のものを出しおきおくれた。文字盀が黄色くなっおいお、秒針がある。䞉日間だけお借りしたすず蚀うず、倧家さんは、そんなもん、い぀たでも持っずきなさい、ず蚀った。

 䞉時二十分に倉庫街に着いた。䞉本目の路地の入口に、北原さんが立っおいた。手を振られたので、わたしも手を䞊げた。䞊げるたでに、たぶん半拍かかった。

 「早いやん」

 「監督ただやねん。あの人、機材があるずきは早いけど、ないずきは遅い」

 路地の奥に、ビヌルケヌスが眮いおある。前に来たずきのたただ。わたしはそれを芋お、あの日ここに十五分立っおいたこずを北原さんが知っおいるのかどうかを考えた。考えおも答えは出ないので、考えるのをやめた。

 䞉時二十八分に、その人が来た。路地の入口から入っおきお、䞉脚を担いでいお、歩くのが速かった。鞄をアスファルトに眮いお、眮いた瞬間にもう䞉脚を開いおいた。

 「北原、ケヌス動かした」

 「動かしおぞん」

 「じゃあ䜍眮は前ず同じだ」

 その人は䞉脚を立おお、脚の長さを揃えお、氎平噚を芗いた。それから顔を䞊げお、わたしを芋た。䞉か月ず十䞃日ぶりに、この人の正面から芋られた。

 矎術通の二階では、わたしは背䞭を芋おいた。路地では十五メヌトル離れおいた。亀差点では階段を䞊がっおいく埌ろ姿だった。正面はいちおう芋おいるが、それは絵の䞋の小さい玙に曞いおあった名前ず、遠くの茪郭だけだ。

 目の䞋に、たおに圱があった。眠っおいない人の顔だ。

 「蚘録の人」

 「はい」

 「䜐䌯です」

 「長谷川です」

 それで終わりだった。その人は氎平噚に戻っお、䞉脚の脚を二センチ䞋げた。わたしはノヌトを開いお、いちばん䞊に曞いた。䞃月䞉日。十五時二十八分、監督到着。曞いおから、これは蚘録すべきこずなのかどうかを少し迷った。迷ったが、消さなかった。

 仕事は思っおいたより忙しかった。

 その人は指瀺を出すのが速い。ケヌスを十センチ右、ずいうのが最初で、蚀い終わる前にもう自分でカメラの䜍眮を盎しおいる。次に、北原、髪の巊を耳にかけお、ず蚀っお、かけたのを確かめる前に露出蚈を出す。北原さんはそれに慣れおいお、蚀われたこずを蚀われた順にやっおいく。

 わたしはノヌトに曞いた。十五時四十䞀分、ケヌス䜍眮決定。十五時四十四分、露出f五・六。十五時四十䞃分、テむク䞀準備。その人は䞀床だけ、こちらを芋ずに蚀った。

 「残り、いく぀」

 わたしはカメラの偎面の窓を芋に行った。目盛りが出おいる。

 「䞀分半です」

 「正確に」

 「䞀分二十五秒くらいです」

 「わかった」

 わたしは曞いた。十五時四十九分、フィルム残䞀分二十五秒。曞きながら、この人はいたわたしに正確にず蚀ったのだず思った。正確に、ずいうのは、わたしがこの二十幎でいちばんよくできるこずだ。

 四時を過ぎお、光が来た。壁のひびの底に圱ができお、線が急に倪くなった。北原さんがビヌルケヌスの䞊に立った。颚が来お、スカヌトの裟が動いお、たた戻った。

 その人はカメラを芗いた。芗いたたた、動かなくなった。路地が静かになった。北原さんはケヌスの䞊で立っおいた。わたしはノヌトを開いたたた、腕時蚈を芋おいた。秒針は動いおいる。十秒経った。二十秒経った。

 北原さんはこちらを芋なかった。芋ないでいるのが、この人のやり方だ。四幎やっおいお、完成した䜜品がれロだず蚀った人が、いた、たた止たった指の前で立っおいる。䞉十秒経った。

 光は壁の䞊のほうぞ移りはじめおいた。あず䞀分もない。前に来たずき、光が消えるたでを、わたしは十五メヌトル先から芋おいる。あのずき、この人は最埌たで抌さなかった。抌さないたた脚をたたんで、路地の反察偎から出おいった。

 わたしはあの絵を芋おいる。

 倜の亀差点で、傘が十本開いおいお、人はみんな線になっおいお、真ん䞭の女の人だけが線になっおいない。巊䞋の隅は也かさずに塗り重ねおあっお濁っおいる。真ん䞭の人のずころだけ、䞉床に分けお圱が眮いおある。䞉床眮くには、二回、也くのを埅たないずいけない。

 この人は、埅おる人ではない。埅たされおいる人だ。わたしは口を開けた。

 「ただ、二十秒ありたす」

 自分の声が路地に出た。その人がカメラから顔を䞊げお、こちらを芋た。

 「二十秒」

 「光がひびを越えるたで、あず二十秒くらいです。この前ず同じ角床なら」

 「この前」

 「先週、ここを通りたした」

 その人は䞀秒くらいわたしを芋お、それからカメラに戻った。

 「二十秒か」

 「じゃあ、いた撮る」

 スむッチの音がした。

 フィルムが回りはじめる音は、思っおいたより也いおいた。ラゞオのチュヌニングを倖したずきの音に少し䌌おいる。北原さんはケヌスの䞊に立っおいた。動かなかった。壁のひびの圱が、圌女の顔の右偎にかかっおいた。

 わたしは腕時蚈を芋おいた。秒針が半呚した。十八秒で、光がひびの䞊を越えた。その人は指を離した。フィルムの音が止たっお、路地はたた静かになった。北原さんがケヌスから降りお、スカヌトの埃を払った。払っおから、わたしのほうを芋た。芋お、それから䜕も蚀わずに、䞡手を䞀床だけ小さく叩いた。

 わたしはノヌトに曞いた。十六時䞃分、テむク䞀。十八秒。OK。曞いた字が少し曲がった。撀収は速かった。䞉脚は八秒でたたたれた。北原さんはこれから店に入るず蚀っお、路地の出口から先に出おいった。

 わたしはノヌトを鞄にしたっおいた。したっおいるずころに、その人が来た。

 「長谷川さん」

 「はい」

 「二十秒っお、どうしおわかったの」

 わたしは、前に芋たからです、ず蚀った。

 「芋た」

 「先週、ここで。同じ時間に、光がひびを越えるずころを芋たした」

 「なんで芋おたの」

 鞄の内ポケットに、ハンカチにくるんだものが入っおいる。ここで出せば、話は終わる。萜ずしたしたよ、ず蚀えばいい。路地の壁に向かっお、わたしは䞀床、その緎習をしおいる。二床目のほうが蚀いやすいのか蚀いにくいのか、ただ知らないず、あのずき思った。

 いた知った。二床目のほうが蚀いにくい。

 「たたたたです」

 その人は、そう、ず蚀った。それから鞄を持っお、路地の出口のほうぞ歩き出しお、二歩行ったずころで振り返った。

 「明日も䞉時半。駅の東口」

 「時蚈、それ借り物」

 「倧家さんのです」

 「秒針があるのはいい」

 それだけ蚀っお、行っおしたった。歩くのが速い。路地の出口の光の䞭に出るず、茪郭が䞀床癜く飛んで、それから芋えなくなった。わたしは腕時蚈を芋た。十六時十九分だった。䞋宿に戻ったのは六時前だった。玄関の暪に䌝蚀板がある。誰かに電話があったずき、出た人が名前ず甚件を曞いおおく板だ。

 わたしの名前があった。商店街のレコヌド店から、泚文の品が入荷したしたずのこず。取りに来おください。曞いたのは䞀階の人の字で、日付は今日の午埌二時になっおいた。半月ず蚀われたものが、六日で来た。

 わたしは郚屋に䞊がっお、机の䞊にノヌトず腕時蚈を䞊べた。ノヌトには今日の時刻が九぀曞いおある。腕時蚈の秒針は動いおいる。右の端には封筒が二通あっお、巊の端にはレンズの蓋がある。真ん䞭の泚文祚の控えは、明日、圹目を終える。

第十四章 䞀週間

 人から数字をもらうずいう経隓を、僕はそれたで䞀床もしたこずがなかった。

 助蚀ならいくらでももらっおきた。もう少し埅おずか、思い切っお撮れずか、いいずころで止たる癖があるずか、そういうこずは高校の矎術の教垫からも映画研究䌚の先茩からも埓兄匟からも蚀われおいる。助蚀ずいうのは、たいおいの堎合、蚀うほうが自分のために蚀っおいる。聞いたほうの手は䜕も動かない。

 ただ二十秒ありたす、ずいうのは助蚀ではない。あれはただの蚈枬結果で、圓たっおいれば正しく、倖れおいれば間違っおいる。ああいうものを人から手枡されたのは初めおだった。圌女がそう蚀ったずき、僕の指は勝手に動いた。指のほうが先に玍埗したずいう蚀い方が、たぶんいちばん近い。

 翌日は䞉時半に駅の東口で集合した。僕は䞉時二十分に着いた。圌女は䞉時十六分に来おいた。柱の暪に立っお、倧孊ノヌトを胞のあたりで䞡手に持っお、階段のほうを芋おいた。荷物は鞄がひず぀だけだった。

 「早いね」

 「はい」

 「䜕時から?」

 「䞉時十六分です」

 その答え方が僕には少し面癜かった。ふ぀う人は、ちょっず前です、ずか、いた来たした、ずか答える。この人は分単䜍で答える。分単䜍で答えるには、着いた時刻を芋おいなければならない。誰にも蚊かれないかもしれない数字を、この人は毎回控えおいるのだず思う。

 その日撮ったのは駅の階段ず改札のあたりで、人の流れの䞭に北原が立っおいるずいう画だった。北原には動かないでいおもらった。たわりだけが動いお、真ん䞭が動かない。僕はどうやらこの構図を、䞀幎に䜕床も遞んでいるらしい。

 長谷川さんは階段の䞋に立っお、時刻ずテむクの番号を曞いおいた。曞くのが速い。字が小さくお、行が曲がらない。䞉床目のテむクのあずで、僕は残りを蚊いた。圌女はカメラの偎面を芗きにきお、四十秒くらいです、ず蚀った。それから、正確には䞉十五秒だず思いたす、ず蚀い足した。

 僕は少し笑った。圌女は笑わなかった。冗談を蚀った぀もりがないのだから、それが正しい。撮圱の合間に、僕はいく぀か質問をした。

 䜕幎生かず蚊くず二幎ですず答えた。孊郚を蚊くず文孊郚ですず答えた。閉架曞庫でアルバむトをしおいるず蚀った。閉架ずいうのは、頌たれた本を地䞋から出しおくる仕事だ。棚が動くのだず圌女は説明した。ハンドルを回すず鉄の棚がレヌルの䞊を暪に滑っお、通路が䞀本だけ開く。その䞀本の䞭に入っお本を抜く。

 通路は䞀本しか開かないのか、ず僕は蚊いた。䞀本だけです、ず圌女は蚀った。二本開けたければ、いた開いおいる䞀本を閉じないずいけたせん、ず。僕はその話を、そのあず䞉日くらい䜕床か思い出した。䞉時間ほど撮っお、六時前に終わった。北原は喫茶店ぞ行き、長谷川さんはノヌトを鞄にしたっおいた。

 僕はそのずき、圌女を撮っおみたいず思った。思っおから、口に出した。順番ずしおはたぶん逆にすべきだったのだが、僕の堎合、手も口も考える前に動く。動いたあずで頭が远い぀く。

 「長谷川さんを撮っおもいい?」

 圌女は鞄の口を閉める手を止めた。

 「わたしをですか」

 「うん。䜕をしおもらうずかじゃなくお、そこに立っおるだけでいい」

 圌女はしばらく黙っおいた。黙り方が、断るための黙り方ではなかった。䜕かを勘定しおいる黙り方だった。

 「すみたせん。それは、いやです」

 「写るのが、いやなんだず思いたす。理由はうたく蚀えないです」

 僕はわかったず蚀った。実際わかったわけではないが、この堎合、わかったず蚀う以倖にできるこずがない。人には撮られたくない理由ずいうものがあっお、それは撮る偎が理解できる皮類のものであるずはかぎらない。

 「じゃあ、蚘録だけお願いしたす」

 「はい」

 圌女は鞄を持っお、階段のほうぞ歩いおいった。歩き出しの䞀歩だけが遅れお、そのあずは普通の速さになった。゚ンゞンのかかりが遅い機械ずいうのは䞖の䞭にいく぀もあるが、たいおいの堎合、かかっおしたえばちゃんず走る。

 そのずき僕は、䞉本目のカヌトリッゞの䞭身のこずを考えなかった。

 考えるべきだったのだず思う。あの䞭には亀差点の四十秒が入っおいお、その四十秒には、青になっおも動かなかった人がひずり写っおいる。もっず蚀えば、六月十八日にも同じ亀差点を撮っおいお、そちらに䜕が写っおいるかを僕はただ芋おいない。

 撮られるのが嫌だず蚀った人の映像を、僕はすでに二぀、この箱の䞭に持っおいる可胜性がある。可胜性の段階では、人はただ䜕も悪いこずをしおいない。蓮が珟堎に来たのは、その二日あずだった。

 倉庫街の路地の入口に立っおいお、僕が気づいたずきには十分くらいそこにいたらしい。北原が先に芋぀けお、あの人知り合いかず蚊いた。埓兄匟だず僕は答えた。蓮は癜い玙袋を提げおいた。

 「差し入れかず思たら、そんなん持っおぞん」

 北原がそう蚀うず、蓮は笑っお、飲みもんは自分で買っおくれ、ず蚀った。それから僕のほうに玙袋を出した。䞭を芋るず、たたんだ半袖のシャツが入っおいた。

 去幎の八月に須磚で着おいた䞀枚で、先月撮り盎したずきにも着おいたや぀だ。掗っおあった。襟のずころが䌞びおいるのはそのたたで、ただ、掗っおアむロンをかけるず、䌞びた襟はかえっお䌞びたこずがよくわかる圢になる。

 「なんでこれ」

 「もう着ぃひんから、小道具にでも䜿えや」

 「ただ着られるだろ」

 「サむズが合わぞんようになった」

 蓮の身䜓は去幎から䜕も倉わっおいない。半幎前ず同じ䜓栌で、同じ顔で、同じ歩き方をしおいる。サむズが合わなくなったずいうのは、この堎合、寞法の話ではないのだろうず僕は思った。思ったが、そこで止めた。止めたずいうこずを、僕はこのあず長いあいだ芚えおいるこずになる。

 蓮は撮圱を䞉十分ほど芋お、それから垰っおいった。垰りぎわに、長谷川さんのほうを芋お、蚘録の人ですかず蚊いた。圌女がはいず答えるず、蓮は、この人の映画はちゃんず終わりたすからね、ず蚀った。

 圌女は、はい、ず答えた。その日の最埌のカットで、カヌトリッゞが終わった。カメラのカりンタヌの窓に、赀い印が出た。䞉分二十秒を䜿い切ったずいう合図だ。䜿い切っおしたえば、あずはもう箱ごず倖に出すしかない。

 僕はカメラの裏蓋を開けお、カヌトリッゞを取り出した。手のひらに乗るくらいの、黒い暹脂の箱だ。振っおも䜕の音もしない。この䞭に、六月十八日の亀差点ず、䞃月䞉日の壁の十八秒ず、それから昚日の階段ず、僕が撮ったものが党郚、順番に䞊んで入っおいる。

 順番に䞊んでいるずいうのが、フィルムのいいずころで、同時に厄介なずころでもある。撮った順にしか出おこない。飛ばしお先に芋るこずはできない。商店街の写真屋に持っおいった。八ミリの珟像は店では受けられないので、預かっお珟像所ぞ送る圢になる。カりンタヌの女の人が䌝祚を曞いお、控えをくれた。

 「仕䞊がり、䞀週間くらいですね」

 「䞀週間」

 「混んでたらもう二、䞉日いただくかもしれたせん」

 僕は控えを財垃に入れお、店を出た。倖は䞃月の倕方で、ただ明るかった。商店街のアヌケヌドの䞋を歩いお、也物屋の前を通っお、レコヌド屋の前を通った。ガラスの向こうは暗くお、奥の壁の四角い青ががんやり芋えた。

 䞀週間だ。

第十五章 二分四十秒

 䞃月四日の午前は、氎切り棚の前で終わった。

 前の日に買い取った箱の䞭身が䞉十六枚あっお、そのうち二十䞀枚に黎の跡が出おいた。梅雚の前に抌し入れの䞋段ぞ入れられおいたものだ。抌し入れの䞋段ずいうのは、この囜でレコヌドにずっおいちばん危険な堎所で、私はこの商売を䞃幎やっおきお、䞋段から出おきた盀の状態がよかったためしを二床しか知らない。

 黎は掗えば萜ちる。萜ちたあずに残るのは、盀の衚面のごく浅い曇りだ。これは光の垯を走らせたずきにだけ芋える。針は拟わない。音には出ない。出ないのだから、商品ずしおは䜕の問題もない。それでも私は、曇りの残った盀には倀札を五十円䞋げお貌る。理由を説明しろず蚀われるず困る。

 十䞀時に掗い終えお、氎切り棚に立おた。

 也くたでのあいだ、私は垳面を開いお、泚文の欄を芋た。手のひらの宇宙、長谷川。䌝祚の日付は六月二十八日で、入荷が䞃月二日になっおいる。四日だ。半月かかるず蚀った私の芋立おは、たるたる十䞀日ぶん倖れた。

 䞋宿には昚日の午埌に電話を入れた。本人は䞍圚で、出た人が䌝蚀板に曞いおおくず蚀った。昌を過ぎお、匕き戞が開いた。鈎が鳎っお、あの子が入っおきた。い぀もの時間より䞀時間ほど早い。鞄のほかに䜕も持っおいなかった。

 「泚文の、取りに来たした」

 「お埅ちしおいたした」

 私はカりンタヌの䞋の棚から䞀枚を出しお、䞊に眮いた。青いゞャケットで、角は四぀ずも生きおいる。壁に掛かっおいるほうず䞊べればどちらがどちらかは私にしかわからないが、䞊べる぀もりはない。

 圌女はそれを芋た。芋おから、少し近づいお、たた芋た。

 「同じですね」

 「同じものです」

 「千八癟円でしたよね」

 「千八癟円です」

 圌女は財垃から千円札を二枚出した。私は二癟円を返しお、内袋のあいだに挟んでおいた倀札を抜き、玙の袋を出そうずした。そこで圌女が蚀った。

 「あの、うちに、かける機械がないんです」

 私は袋を出す手を止めた。

 「ないんですか」

 「ないです。ラゞオはありたす」

 「ラゞオでは鳎りたせん」

 「はい」

 圌女はカりンタヌの䞊の盀を芋おいた。買ったばかりのもので、代金は払い終わっおいる。この店で圌女が手に入れたのは、いたのずころ、青い玙の四角い板だ。

 「聎いおいかれたすか」

 蚀っおから、自分がそれを蚀ったこずに気が぀いた。この二か月、私が自分の口から先に出した蚀葉は二぀になった。

 「いいんですか」

 「詊聎は商売の䞀郚です」

 私は店の奥のプレヌダヌの蓋を開けた。回転数を䞉十䞉に合わせお、タヌンテヌブルを回した。圌女はカりンタヌの前に立ったたただった。

 「座っおください」

 客甚の怅子を出した。朚の䞞怅子で、座面が少し傟いおいる。圌女はそこに座っお、鞄を膝の䞊に眮いた。䞡手を鞄の䞊に眮いた。私はゞャケットから内袋を抜いお、内袋から盀を出した。指は瞁ずレヌベルにしか觊れない。茉せお、䞭心の穎が軞に萜ちる音がした。

 アヌムを持ち䞊げた。持ち䞊げおから、私は䞀床だけ、壁のほうを芋なかった。芋ないようにしたのだから芋なかったずいうだけのこずで、これは事実ずしお曞いおおく。針を萜ずした。じり、ずいう音が䞀秒あっお、それから溝の音になった。

 ギタヌが䞀本入る。少し遅れおベヌスが来る。䞉小節目でドラムが入る。この時代の録音は音の粒が䞞くお、高いずころが早めに萜ちる。歌が入った。女の声だ。䜎くはない。うたくもない。たっすぐ出しおいるだけの声で、䌞ばすずころで少し揺れる。

 私はカりンタヌの内偎に立っおいた。

 圌女は座っおいた。膝の䞊の鞄に䞡手を眮いお、正面を芋おいた。正面にはプレヌダヌがあっお、その䞊で黒い円盀が回っおいる。途䞭から、私は圌女の右手を芋おいた。鞄の䞊に眮いた右手の、人差し指の先が動いおいた。二拍で䞀回だ。

 曲の頭から数えおいたわけではないので、い぀から動いおいたのかはわからない。気が぀いたずきには動いおいお、そのあずは最埌たで狂わなかった。

 人が音楜に合わせお指を動かすこずは珍しくない。䞀拍で䞀回動かす人がいちばん倚い。二拍で䞀回ずいうのは、拍を数えおいるのではなくお、曲の呌吞のほうを取っおいる人の動きだ。私はこの商売で䜕千人も客を芋おいるが、それを蚀葉にできる客に䌚ったこずはない。みんな、勝手に動いおいる。

 私は自分の胞に手を圓おなかった。圓おおも意味がないこずを、䞉日前に知っおいる。二分四十秒で曲は終わった。針が内呚の無音の郚分に入っお、アヌムが自動で䞊がった。機械の䞭でかちりず音がしお、タヌンテヌブルが止たった。

 店の䞭には、倖の商店街の音だけが残った。圌女は座ったたただった。

 「ふ぀うの曲でした」

 圌女がそう蚀った。

 「ふ぀うでしたか」

 「はい。すごくいい曲だず思っお、ずいうのずは違いたした」

 「そうでしょうね」

 「がっかりしたわけでもないんです。ただ、二分四十秒でした」

 私は盀を䞊げお、内袋に戻した。戻しながら、この子は正しい蚀い方をする、ず思った。二分四十秒だった。それ以䞊でも以䞋でもない。十幎前の私が八時間握っお、枡せなかったものの䞭身は、二分四十秒だった。

 「ありがずうございたした」

 圌女は立ち䞊がっお、袋を受け取った。受け取っおから、鞄の口を開けお、袋ごず䞭に入れた。

 「かける機械、いくらくらいするんですか」

 「䞭叀なら、䞀䞇二千円からありたす。うちにも二台眮いおいたす」

 「䞀䞇二千円」

 「安いものは針が叀いです。針は別に買うず䞉千円ほど」

 「秋たでには、買えるず思いたす」

 「秋」

 「はい。いた、少し忙しくお」

 「忙しい」

 「映画の手䌝いをしおるんです。孊祭に出すや぀で、蚘録係です」

 私は垃を畳む手を止めた。

 「映画」

 「八ミリです。時間ずか、フィルムの残りずかを、ノヌトに曞く係です」

 「撮っおいるのは、孊生さんですか」

 「はい。䜐䌯さんずいう人です」

 私はうなずいた。うなずいお、それから、そうですか、ず蚀った。

 二か月のあいだ、私はこのカりンタヌから二本の線を芋おきた。午埌の二時前埌に通る線ず、四時か六時すぎに通る線だ。二本は䞀床も同じ時刻にこの匕き戞の前に来なかった。私はそれを毎日芋おいお、芋おいるだけで䜕もせず、この二本が亀わるのかどうかは倖から芋おいる人間の偎でだけ知っおいる、ずいうようなこずを考えおいた。

 亀わったのは、私の芋おいない堎所だった。倉庫街か、駅の東口か、倧孊のどこかだ。私が知らないうちに、二人はもう同じノヌトの䞊で仕事をしおいる。片方が時間を枬っお、片方がそれを聞いおいる。

 芋匵っおいた人間の芋おいないずころで、たいおいのこずは起こる。

 「秋になったら、機械を芋せおください」

 圌女はそう蚀っお、頭を䞋げお、出おいった。鈎が鳎っお、戞が閉たっお、たた静かになった。私は氎切り棚の前に戻った。

 䞉十六枚のうち二十䞀枚が也いおいた。垯電防止のブラシで䞀枚ず぀撫でお、内袋に入れお、棚に䞊べた。撫でおいるあいだ、指の先が盀に匕かれる感じがある。動くほどの力ではない。手を離せば䜕も起こらないし、離さなければずっずそこにある。

 六時に灯りを消しお、鍵をかけた。封筒はコヌトの内ポケットに入っおいる。四行曞いお、封をしお、机の䞊に眮いお、その翌朝から毎日持ち歩いおいる。今日で䞉日目だ。持ち歩いおいるあいだ、封筒はだんだん角が䞞くなる。玙ずいうのはポケットの䞭でも枛っおいく。

 商店街を抜けお、駅前の広堎を暪切った。郵䟿局は駅の南偎にあっお、局の前にポストが䞀本立っおいる。私はその前で止たった。止たっお、それから、内ポケットから封筒を出した。

 宛名の䜏所は斜蚭のもので、こちらの差出人の欄には店の䜏所を曞いた。自宅ではなく店にしたのは、返事が来たずきに私が最初に芋る堎所がここだからだ。ポストの投入口は、口の䞋のずころが少し錆びおいた。二分四十秒だった、ず私は思った。

 十幎埅った先にあったのは、ふ぀うの曲が二分四十秒だ。それを知ったうえで、私はただ行っおいない。行っおいない理由が、盀の䞭身にないこずだけは、これではっきりした。手を離した。封筒が萜ちる音は、思っおいたより軜かった。

第十六章 䞀本だけ開く

 䞃月の第二週は、五日のうち四日撮圱があった。わたしのノヌトは十四ペヌゞ埋たった。曞いおあるのは時刻ず番号ずフィルムの残量で、それ以倖のこずは曞いおいない。曞いおいないこずのほうが倚い日もある。

 たずえば䞃月八日は、䜐䌯さんが䞉回、同じ䜍眮で䞉脚を立お盎した。䞀床目は雲が出たから、二床目は北原さんの立ち䜍眮を倉えたから、䞉床目は理由を蚀わなかった。䞉床目の理由を、わたしはノヌトに曞かなかった。曞く欄がないからだ。

 珟堎は、わたしが入る前ず少し倉わったらしい。

 北原さんが蚀うには、前は誰も時間を蚀わなかったので、光がい぀消えるかは監督の頭の䞭にしかなかった。頭の䞭にしかないものは、本人が黙っおいれば誰も知らない。誰も知らないものを人は埅おない。だからみんな、ただ立っお、終わったず蚀われるたで立っおいた。

 いたは、わたしが蚀う。あず四分です。あず九十秒です。あず䞉十秒です。

 蚀うず、北原さんが息を吞うタむミングを倉える。䜐䌯さんはカメラから顔を䞊げないが、脚の䜍眮を最埌の調敎に入れる。それだけのこずで、路地の䞭の人間が党員、同じ長さのものを共有する。

 わたしはこの䞀週間で、自分の声を人前で䞉十回くらい出した。二十幎ぶんの平均を、䞀週間で超えた。数えおいるのは、たぶんわたしだけだ。䞃月十日の倕方、玲ず䞀緒に垰った。バス停たでの坂を、玲は䞀段ず぀䞋りる。坂に段はないが、玲の歩幅はい぀も䞀段ず぀の歩幅だ。

 「長谷川さん、倉わったな」

 「そう」

 「そうやで。前は坂で、うちが喋っおる暪で黙っおた。いたも黙っおるけど、黙り方がちがう」

 「どう違うの」

 「前のは、なんか蚀おうずしお黙っおた。いたのは、なんも蚀わんでええから黙っおる」

 玲は前を向いたたた蚀った。

 「うち、それ、ちょっず寂しいねんな」

 わたしは足を止めそうになっお、止めなかった。止めるず玲も止たる。

 「あんな、うち、合わせる盞手がおらんようになるのが、いっちばん困んねん。長谷川さんはずっず、うちが合わせやすい人やった。ゆっくりやから。せやけど、いた長谷川さん、自分の速さで歩いおるやろ」

 「そんなこずない」

 「あるっお」

 玲はそこで笑った。笑っおから、続けた。

 「ええこずやで。ええこずやねんけど、うちは自分の速さ持っおぞんから、ちょっず眮いおかれた気ぃになんねん」

 わたしは、玲の速さは、ず蚀いかけた。蚀いかけお、そこで䞀床、息を吞った。準備しおいない文だ。準備しおいない文は䞉文字になる。䞉文字にはしたくなかった。

 「玲の速さは、わたしが知っおる」

 蚀えた。十䞉文字だ。玲はこちらを芋た。芋お、それから前に向き盎った。

 「なにそれ」

 「わからないけど、たぶん知っおる」

 「倉な子やな」

 玲はバスに乗っお、窓の向こうで手を䞊げた。わたしも䞊げた。今日は間に合った。䞃月十䞀日、喫茶店で北原さんず二人になった。䜐䌯さんは珟像所に電話をしに行っおいお、玲は䌑みだった。北原さんはカりンタヌの内偎でグラスを拭いおいた。

 「長谷川さん、あの人のこず、どう思う」

 「どう、ずいうのは」

 「監督ずしおやで。倉な意味ちゃうよ」

 わたしはアむスコヌヒヌのグラスを持っおいた。氷は䞉぀に枛っおいた。

 「速いです」

 「そうやろ。速い。速いのに止たる」

 「はい」

 「あんな、この前おもろい話聞いおん。あの人、亀番に届け出したんやお」

 わたしはグラスを眮いた。眮いた音が、思ったより倧きかった。

 「届け出」

 「萜ずし物。レンズの蓋なんやお。駅前で萜ずしたっお」

 「そう、ですか」

 「そんなん出おけえぞんやろっお蚀うたら、わかっおるっお。わかっおるけど出したっお。あの人、九十秒であきらめる人やのにな。おかしいやろ」

 北原さんはグラスを䞀぀、光にかざした。

 「それがな、お父さんのレンズに぀いおたや぀やねんお。もう䜿うおぞんのを勝手に持ち出したらしくおな。蓋の裏に汚れがあっお、それがお父さんのず自分のず䞡方぀いおるから、拭かんずそのたたにしおたんやお」

 わたしはグラスの氎滎が、コヌスタヌの玙に䞞く染みおいるのを芋おいた。鞄の内ポケットの角に、ハンカチにくるんだものが入っおいる。䞀か月ず、二日だ。六月十日に拟っお、今日は䞃月十二日になる。拟っおから䞀時間なら、拟いたしたで枈んだ。䞀日でも、たぶん枈んだ。䞀か月ず二日は、枈たない。

 枈たない理由は、蓋の偎にはない。日数の偎にある。日数ずいうのは、䜕もしないでいるあいだにも、勝手に増える。

 「どないしたん、顔癜いで」

 「暑いからだず思いたす」

 嘘は速い。盞倉わらず、そこだけは半拍も遅れない。䞃月十䞉日の午埌、閉架のシフトに入った。䞉時を過ぎたころ、カりンタヌに請求祚が出た。取りに行くず、番号が䞃〇二の棚のものだった。画集の棚だ。

 カりンタヌの前に立っおいたのは、䜐䌯さんだった。

 「長谷川さん」

 「ここだっお聞いおた。ほんずにここにいるんだね」

 「いたす」

 請求祚を芋た。倖囜の画家の画集で、䞊䞋の二冊組の䞊巻だった。雚の絵で知られた人の名前だ。

 「地䞋です。少し埅っおください」

 「䞀緒に行ける」

 「関係者以倖は入れないです」

 「そうか」

 わたしは階段を䞋りた。

 曞庫は倩井が䜎くお、蛍光灯が䞀列だけ点いおいる。棚は鉄で、床のレヌルの䞊に茉っおいる。ハンドルを回すず、棚が暪に滑る。䞃〇二の棚たで来お、ハンドルを回した。鉄が動く音が倩井にいったん䞊がっお、それから降りおくる。通路が䞀本だけ開いた。

 わたしはその䞀本に入っお、䞊から䞉段目の巊から䞃冊目を抜いた。抜いお、通路を出お、ハンドルを戻した。棚が閉じお、その䞀本はなくなった。二分四十秒で戻れた。ちょうど、あの曲ず同じ長さだった。カりンタヌに眮くず、䜐䌯さんは衚玙をめくっお、途䞭の䞀枚で止たった。

 倜の街の絵だった。雚で、街灯が氎に映っおいお、人は描かれおいない。

 「これ、原色で芋たかったんだ。印刷でも䞉割は死んでるけど」

 「䞉割ですか」

 「青がいちばん死ぬ。印刷の青は、玙の䞊でどうしおも䞀段沈むから」

 わたしはその蚀葉を、持ち垰るほうの箱に入れた。䜐䌯さんは画集を閉じお、こちらを芋た。

 「棚、䞀本しか開かないんだよね」

 「はい」

 「この前それ聞いおから、ずっず考えおた」

 「䜕をですか」

 「䞀本開けるには、いた開いおる䞀本を閉じなきゃいけない。でも、閉じおるあいだは、どっちも開いおないだろ。れロになる時間が必ずある」

 わたしはうなずいた。

 「二秒くらいです」

 「二秒か」

 「ハンドルを回すのに、片道二秒です」

 䜐䌯さんは笑った。この人が笑うのを、わたしは初めお芋た。笑い方は速かった。わたしは、そこで蚀った。蚀おうず決めおいたわけではない。決めおいたら、たぶん蚀えなかった。

 「あの絵、芋たした」

 䜐䌯さんの手が止たった。

 「絵」

 「䞉月に、矎術通で。孊生の郚の、金賞のや぀です。倜の亀差点の」

 「芋たの」

 「芋たした」

 「なんで蚀わなかったの」

 「蚀うずころが、なかったです」

 䜐䌯さんはしばらく黙っおいた。黙っおいるあいだ、指で画集の背の䞊を二回叩いた。䞞めた玙を持っおいないずきは、この人は指で叩く。

 「どう思った」

 「真ん䞭の人だけ、也かしおありたした」

 「え」

 「たわりは、也かさないで塗っおありたす。巊䞋の隅の色が濁っおるので、たぶん急いで塗っおありたす。でも真ん䞭の人の頬の䞋だけ、圱が䞉床に分けお眮いおありたした。䞉床眮くには、二回、也かさないずいけないです」

 䜐䌯さんは䜕も蚀わなかった。わたしは自分が喋りすぎたこずに、そこで気が぀いた。喋りすぎるずいう経隓が、わたしにはほずんどないので、気づくのが遅れた。

 「すみたせん」

 「いや」

 䜐䌯さんは画集をカりンタヌの䞊で少し抌した。

 「それ、誰にも蚀っおない」

 「審査員も気づいおない。䞉週間かかったんだ、あそこだけ」

 「䞉週間」

 「四回塗っお、四回目が䞀回目ずほずんど同じになった」

 わたしは、そうですか、ず蚀った。

 蚀いながら、鞄のこずを考えた。ロッカヌの䞭にある。内ポケットに、ハンカチにくるんだものが入っおいる。二文のうち、䞀文は蚀えた。もう䞀文は、ただ蚀えおいない。䞀か月ず䞉日が経っおいる。

 䜐䌯さんは画集を借りる手続きをしお、貞出祚を財垃に入れた。それから、思い出したように蚀った。

 「そうだ。珟像、䞊がった」

 「フィルムですか」

 「䞉本目。今日の午前に届いた。明日の五時、郚宀でみんなで芋る。長谷川さんも来お」

 「はい」

 「あの十八秒も入っおる。きみが二十秒っお蚀ったや぀」

 わたしは、はい、ず蚀った。

 「あず、その前に撮ったのが䜕か入っおる。六月の。䜕撮ったか、正盎あんたり芚えおない」

 䜐䌯さんは画集を抱えお、階段を䞊がっおいった。わたしは請求祚をカりンタヌの箱に入れお、閉架の階段を䞋りた。䞋りお、䞃〇二の棚の前たで行っお、ハンドルを回した。

 棚が暪に滑っお、通路が䞀本だけ開いた。甚はなかった。甚がないのに開けたのは、たぶんこの䞀週間で初めおのこずだ。わたしはその䞀本の䞭に立っお、二分ほどそこにいた。

第十䞃章 四十秒のほう

 珟像から䞊がっおきたフィルムずいうのは、撮る前のフィルムずは別の物䜓だ。䞃月十四日の午埌五時に、郚宀で映写機を回した。

 郚宀の窓には遮光のカヌテンがない。かわりに、代々の郚員が段ボヌルを窓枠の寞法に切っお䜜った板があっお、それを窓に嵌める。嵌めるず郚屋の䞭は本圓に暗くなる。この段ボヌルは五幎前の先茩の䜜品だず聞いおいる。この郚で完成したものの䞭では、いちばん実甚性が高い。

 集たったのは四人だった。北原ず、二幎の䞭沢ず、僕ず、長谷川さんだ。蓮も誘っおあったが来なかった。映写機はベルアンドハり゚ルの叀い型で、ランプが熱くなるので䞉十分に䞀床は䌑たせる必芁がある。僕はリヌルを掛けお、ルヌプの長さを調節しお、スむッチを入れた。

 壁に四角い光が出た。最初に出おきたのは、亀差点だった。六月十八日のものだ。西日が暪から来おいお、暪断歩道の癜い瞞の䞊を光が長く走っおいる。人が枡るず、癜の䞊を通るあいだだけ脚が圱ごず消える。

 「これ、なに」

 北原が蚀った。

 「六月に撮ったや぀。レコヌド屋から出おきたずころで、光がよかったから撮った」

 「なんも決めんず撮ったや぀」

 「なんも決めおない」

 僕は自分でも少し驚いおいた。いい映像だった。

 構図を決めおいない。露出も枬っおいない。䞉脚も立おおいない。手持ちで、赀信号のあいだに構えお、青になったずころで抌しただけだ。それなのに、この四十秒は、僕が今たで撮ったどのカットよりもよかった。

 人が䞉十人ばかり流れおいく。癜い瞞の䞊でみんなが同じ方向ぞ動く。そのなかに、動かない人がひずりいた。いちばん手前だ。髪の長い人で、鞄を巊手に提げお、正面を向いお立っおいる。たわりの人間は党員もう歩き出しおいる。その人の足だけが、ひず呌吞ぶん遅れお動きはじめる。

 僕は画面を芋おいた。それから、郚屋の暗がりのほうを芋た。長谷川さんは僕の斜め埌ろの怅子に座っおいた。膝の䞊にノヌトを眮いお、䞡手をその䞊に乗せおいた。壁からの反射で、顔の巊半分だけが薄く光っおいた。

 圌女はたっすぐ画面を芋おいた。瞬きの回数がひどく少なかった。映像は続いた。圌女は暪断歩道を枡っおいく。枡っおいるあいだの歩く速床は普通で、遅いのは出だしだけだ。向こう偎の歩道に着いお、人混みに玛れお、そこで四十秒が終わった。

 次にレコヌド屋の䞭が出おきた。棚の札が巊から右ぞ流れお、床の板目があっお、カりンタヌの内偎の手がある。緑色のコヌトの男の手は、円ではなく溝に沿っお倖から内ぞ動いおいる。この四十秒は、撮ったずきに考えおいたよりずっず萜ち着いお芋えた。

 そのあずに、たた亀差点が出た。六月の䞋旬に撮ったほうだ。青になっおも動かない人を、僕は埌ろから撮っおいる。背䞭しか写っおいない。髪が長い。鞄を巊手に提げおいる。同じ人だ。

 郚屋の䞭で、誰も䜕も蚀わなかった。北原も䞭沢も、二぀の亀差点が同じ人物であるこずには気づいおいない。片方は正面で、片方は背䞭で、しかも二週間離れおいる。気づくには、その人を探しながら芋おいなければならない。

 䞃月䞉日の壁の十八秒が出た。北原がビヌルケヌスの䞊に立っおいる。壁のひびの圱が顔の右偎にかかっおいる。光が䞊ぞ移っおいく最埌の十八秒で、圌女はたばたきを二回した。

 「うわ」

 北原が小さく蚀った。

 「これ、うちや」

 「きみだよ」

 「ちゃんず写っおる」

 「写るよ、撮ったんだから」

 「ちゃうねん。そういう意味ちゃう」

 北原はそれ以䞊蚀わなかった。四幎やっお、この人が自分の姿を䞊がっおきたフィルムの䞊で芋たのは、たぶん初めおに近い。二本目の階段の十二秒には足しか写っおいない。最埌に駅の階段が出お、そこでフィルムが終わった。

 癜い光が壁に残っお、映写機の䞭でリヌルが空回りする音がした。僕はスむッチを切っお、窓の段ボヌルを䞀枚倖した。倕方の光が入っおきお、郚屋の䞭のものの茪郭が戻った。

 北原ず䞭沢は、壁の十八秒の話をしおいた。長谷川さんは、怅子から立ち䞊がっおいた。ノヌトを鞄に入れお、鞄の口を閉めお、ドアのほうぞ歩き出しおいた。歩き出しの䞀歩が、遅れなかった。

 「長谷川さん」

 圌女は止たらなかった。ドアを開けお、廊䞋に出た。僕は远いかけた。文化䌚通の階段は䞉階から䞀階たで、螊り堎をはさんで六぀に折れおいる。圌女はもう二぀目の折れ目のあたりにいた。速い。この人が速く動くずころを、僕は初めお芋た。

 䞀階の䞋たで来たずころで远い぀いた。圌女は玄関の手前で立ち止たっお、こちらを向いた。

 「すみたせん」

 先に謝ったのは圌女のほうだった。それが僕には少しこたえた。

 「なんで謝るの」

 「急に出おきたので」

 「謝るのはこっちだ」

 僕は息を敎えた。敎えるほど走っおはいないのだが、なぜか息が䞊がっおいた。

 「あれ、きみだ」

 「知っおた?」

 「いた知りたした」

 圌女は鞄を䞡手で持っおいた。持ち方が、胞のあたりで抱えるような持ち方だった。

 「六月十八日です。あの日、わたし、あそこにいたした」

 「芚えおるの」

 「芚えおたす」

 僕は䜕を蚀えばいいのかを、そこで初めお考えた。考える前に走り出す人間の悪いずころが、こういう堎面で党郚出る。

 「撮るなっお蚀われおたのに撮った、ずいう話じゃないんだ。撮ったのは䌚う前だから。順番ずしおは、こっちが先だ」

 「わかっおたす」

 「でも、それは蚀い蚳だず思う」

 圌女は少し黙った。

 「わたしがいやだず蚀ったのは、䞃月です」

 「うん」

 「六月のあなたは、ただ知らないです」

 僕は本題を蚀った。

 「あの四十秒を䜿いたい」

 圌女は顔を䞊げた。

 「孊祭に出すや぀の、頭に䜿いたい。あれがいちばんいい。僕がこれたで撮ったなかで、いちばんいい。䞉日通っお光を調べたや぀より、四十分埅っお抌せなかったや぀より、いい」

 「わたしが写っおたす」

 「写っおる。だから蚊いおる」

 玄関のガラスの向こうを、自転車が二台通った。

 「消すこずもできる。頭の四十秒を切っお、繋がずに眮いおおけばいい。切ったぶんは僕が持っおおくか、きみに枡すか、燃やすか、奜きにできる」

 「燃やせるんですか」

 「燃える。よく燃える」

 圌女はそれに぀いお、しばらく考えおいるようだった。

 「䞀日、考えさせおください」

 「わかった」

 「明日の五時に、返事をしたす」

 「どこで」

 圌女は少し考えお、それから蚀った。

 「商店街の、レコヌド店の前で」

 僕は、わかった、ず蚀った。なぜそこなのかは蚊かなかった。蚊かなかったのは気を䜿ったからではなく、その堎所が僕にずっおも、二か月のあいだ䞉十秒ず぀立ち止たっおいる堎所だったからだ。

 圌女は玄関を出お、自転車の暪を通っお、門のほうぞ歩いおいった。歩き出しの䞀歩は、やはり遅れなかった。郚宀に戻るず、北原ず䞭沢はもう垰り支床をしおいた。

 僕はリヌルを巻き戻しお、猶に入れた。ラベルには、六月十八日から䞃月十日、ず曞いた。日付が二぀䞊ぶラベルは初めおだった。棚に眮くずき、猶は五本になった。その倜、九時過ぎに叔母から電話があった。

 蓮が今週、倧孊にも予備校にも行っおいないずいう話だった。䞉日行っおいない。今日は朝から出おいっお、倜になっおも垰らない。心圓たりはないかず蚊かれた。僕は、須磚かもしれないず蚀った。

 蚀っおから、なぜそう蚀ったのかを自分で考えた。理由はあった。あの男は、同じ堎所ぞ戻るために時間を䜿う人間だ。問題集を四冊買い、同じ垭に座り、同じシャツを着お同じ防波堀を歩く。叔母は、そう、ず蚀っお、それから、行っおみおくれぞんかな、ず蚀った。僕は時蚈を芋た。九時十二分だった。

第十八章 代筆

 人の字を芋お、その人の䜓調をあおるずいう商売はこの䞖に存圚しない。

 存圚しないが、私はそれをやっおいる。買い取りの䌝祚にはたいおい売り䞻が自分で名前を曞くので、その字を䞃幎ぶん芋おきた。手が震えおいる人の字は、線の途䞭に现かい波が出る。急いでいる人の字は右䞊がりになる。眠っおいない人の字は、はらいが短い。圓おたこずを確かめる方法はないので、これは私の䞭でだけ成り立぀技術だ。

 䞃月十五日の午前に、郵䟿が来た。束の䞭に、斜蚭の名前が印刷された封筒が混ざっおいた。䞉通目だ。私は垳面を閉じお、封を切った。䟿箋は䞀枚だった。䞀行目から四行目たでは、圌女の字だった。

 私の手玙が届いたこず。返事をありがずうず曞いおあった。二行目で、䜓のこずを気にしおくれおありがずう、ず曞いおあった。䞉行目に、䞃月のうちに来おくれるのなら、ず曞きかけお、そこで䞀床、線が止たっおいる。止たった箇所にむンクの点が残っおいた。ペン先を玙に぀けたたた、しばらく動かなかった人の跡だ。

 四行目の途䞭から、字が倉わった。同じ黒のむンクで、同じくらいの倧きさで、傟きだけが違う。圌女の字は少し右に倒れる。ここから先はたっすぐ立っおいる。曞いおある内容も倉わった。

 面䌚の受付時間のこず。八月の第二週から斜蚭の䞀郚が改修に入り、面䌚宀が䜿えなくなるこず。その間の面䌚は原則ずしおご遠慮いただいおいるこず。したがっお、䞃月䞭か、八月の第䞀週たでにお越しいただくのが望たしいこず。

 最埌の行の䞋に、小さく曞いおあった。ご本人のご䟝頌により代筆いたしたした、ず。名前が続いおいた。看護の人の名前だず思う。私はその䟿箋を、カりンタヌの䞊に眮いた。䞉行目の途䞭で止たったむンクの点を、しばらく芋おいた。

 字ずいうのは䜓の動きだ。手が動かなければ字は出ない。䞉行目たで曞けお、四行目の途䞭で人に頌んだずいうこずは、その時点でもう手が続かなかったずいうこずになる。それを本人が誰かに頌んで、頌たれた人が続きを曞いお、末尟に䞀行添えた。

 添えたのは芪切だ。添えなければ、私はこの䟿箋を党郚圌女が曞いたものずしお読んだ。読んで、字が途䞭で倉わっおいるこずに気づいお、それが䜕を意味するのかを䞀人で考えるこずになった。考えるより、曞いおもらったほうがいい。

 十幎前の䟿箋には、字の乱れがあった。あのずき私は、それを汜車の揺れのせいだず思うこずにした。今床は、思うこずにする䜙地がない。昌過ぎに客が二人来た。

 䞉時に氎切り棚の盀を内袋に入れた。四時に垳面を曞いた。五時前に、私は匕き戞のガラスのほうを芋た。芋たのは偶然ではない。䞉時ごろから、私は䜕床もそちらを芋おいた。理由はない。理由はないず自分で蚀っおおく。

 五時ちょうどに、あの子がガラスの正面に来た。い぀もは通りすぎるずころで止たる。今日は最初から止たりに来た。匕き戞の前の、アヌケヌドの柱の暪に立っお、商店街の入口のほうを向いた。

 鞄を䞡手で持っおいた。胞のあたりで抱える持ち方だ。五時二分に、男の子が来た。速い足で入口のほうから来お、圌女の前で止たった。止たり方も速い。この二人は、止たり方たで速床が違う。私はカりンタヌの内偎に立っおいた。

 ガラスは䞀枚で、その向こうは商店街のアヌケヌドの䞋だ。距離は二メヌトルもない。それでもこちらには䜕も聞こえない。この店は防音などしおいないのだが、匕き戞を閉めおいるず、倖の声はほずんど入らない。入るのは、シャッタヌの音ず、自転車のベルず、それから犬の声くらいだ。

 二人は話しおいた。男の子のほうが先に䜕か蚀った。䞉぀か四぀の文だった。圌女は聞いおいた。聞いおいるあいだ、鞄の持ち方を倉えなかった。それから圌女が答えた。長かった。

 この子が人に向かっお長く喋るずころを、私は芋たこずがない。この店で亀わした蚀葉は、党郚合わせおも五十を超えおいないず思う。ガラスの向こうで、圌女は少なくずも十秒以䞊、続けお喋っおいた。

 喋りながら、䞀床だけ鞄の内偎に手を入れた。入れお、䜕かを取り出しかけお、そこで止めた。手は鞄の䞭に入ったたたで、五秒くらい止たっおいた。それから手だけを出した。䜕も持っおいなかった。

 圌女がたた䜕か蚀った。男の子がうなずいた。二床うなずいお、それから右手を出した。握手をするような圢ではなくお、手のひらを䞊に向けお差し出す圢だった。圌女は䜕も乗せなかった。乗せる代わりに、自分の手を鞄の持ち手に戻した。男の子は手を䞋ろした。䞋ろしおから、笑った。

 二人はそのたた、商店街の出口のほうぞ歩いおいった。䞊んで歩いおいた。男の子のほうが少し速くお、䞉歩ぶん先に出お、それから歩幅を狭めた。狭めるのに二歩かかった。二人はガラスの前から消えた。私はカりンタヌの内偎に立ったたただった。

 二か月ず少し、私はここから二本の線を芋おきた。午埌の二時前埌に通る線ず、四時か六時すぎに通る線だ。䞊行なのか亀わるのかは、倖から芋おいる人間の偎でだけ知っおいる、ずいうようなこずを私は考えおいた。考えおいただけで、䜕もしなかった。

 亀わった。

 亀わった堎所は、私の店の前だった。私が芋おいない堎所で亀わったのだずばかり思っおいたが、最埌の䞀回はここだった。そしお私は、ガラス䞀枚のこちら偎で、䜕も聞こえないたた、それを芋た。芋るこずしかできない䜍眮ずいうのが、この䞖にはある。

 六時に灯りを消した。鍵をかけお、商店街を抜けお、駅前の広堎ぞ出た。柱の陰には行かなかった。刞売機の前にも立たなかった。家に垰っお、机の抜斗から時刻衚を出した。六月に䞀床調べお、そのたたにしおあったものだ。付箋が二枚貌っおある。九時十二分の頁ず、県境の駅の乗り換えの頁だ。

 私は䞉枚目の付箋を貌った。䞃月の残りの日数を数えた。今日は十五日で、䞃月は䞉十䞀日たである。八月の第䞀週を入れれば、あず二十䞉日ある。二十䞉日ずいうのは、決めるには長すぎお、迷うには短すぎる長さだ。

 䟿箋をもう䞀床読んだ。䞉行目の途䞭で止たったむンクの点のずころで、私は指を眮いた。

 あの人は、曞けるずころたで曞いた。曞けなくなったずころで、人に頌んだ。頌むずいうのは、自分ひずりでは届かないず認めるこずだ。認めたうえで、それでも䞉行目たでは自分の手で曞いおいる。

 私は十幎、自分ひずりで届く範囲のこずだけをやっおきた。時刻衚の頁を開いたたた、私は日付を決めた。䞃月二十四日。土曜だ。土曜の午前に店を閉めおも、うちの売䞊に倧きな違いは出ない。九時十二分に乗れば、䞀時の受付には間に合う。

 決めおから、私はそれを玙に曞いた。曞かないず、決めたこずにならない。この十幎で私が孊んだこずのうち、圹に立぀ものはそれくらいしかない。

第十九章 四十秒ぜんぶ

 その倜、わたしは郚屋で青いゞャケットを机の䞊に立おた。立おおも鳎らない。かける機械はただ買っおいない。䞀䞇二千円ず、針が䞉千円だ。閉架のバむトで、あず二か月かかる。鳎らないものを机の䞊に立おお、わたしはその前で二時間座っおいた。考えおいたのは、写るずいうこずに぀いおだ。

 わたしは写真がきらいだ。集合写真は撮られる。孊校ならそういう機䌚は避けられない。避けられないものは仕方がないので、列の端に立っお、蚀われたずおりに前を向く。出来䞊がっおきたものを芋るず、い぀も同じ顔をしおいる。口を閉じお、目を少し開いお、䜕かを蚀おうずしお蚀わなかった顔だ。

 あれがきらいだった。蚀おうずしお蚀わなかった瞬間ばかりが、玙の䞊に䜕十枚も残る。残っおいるものが本圓のわたしなのだずしたら、わたしはずっず、蚀おうずしお蚀わない人間ずいうこずになる。

 郚宀の壁に映ったものは、それずは違った。

 あそこに写っおいたのは、信号が青になっおから二歩ぶん遅れお歩き出す人だ。遅れお、それから普通の速さで枡っおいく。それだけが写っおいた。顔は遠くおほずんど芋えない。衚情は写っおいない。

 写っおいたのは、わたしの速さだった。速さずいうのは、写真には写らない。写真は䞀瞬を止めるので、遅い人も速い人も、止たっおしたえば同じになる。動いおいるものだけが、遅さを持おる。

 わたしは二十幎、自分の遅さを人に説明できなかった。あの四十秒は、説明しおいない。ただ、写っおいる。朝になっお、わたしはノヌトに䞀行曞いた。䞃月十五日。䜿っおもらう。曞いおから、条件をもう䞀行足した。

 五時に、レコヌド店の前に行った。

 四時五十四分に着いた。六分早い。柱の暪に立っお、商店街の入口のほうを向いた。匕き戞のガラスの䞭は暗くお、こちらの姿がうっすら映る。奥の壁の四角い青は、倖が明るいずきはほずんど芋えない。

 五時二分に、䜐䌯さんが来た。入口のほうから速い足で来お、わたしの前で止たった。止たり方も速かった。

 「ごめん、二分」

 「倧䞈倫です」

 「考えた」

 「考えたした」

 わたしは息を吞った。準備した文がある。倜のうちに䞉回、声に出さずに口の圢を䜜った。

 「䜿っおください」

 䜐䌯さんは、そうか、ず蚀った。それから、ありがずう、ず蚀った。蚀い方が、思っおいたより静かだった。

 「ただ、ひず぀だけお願いがありたす」

 「なに」

 「切らないでほしいです」

 「切らない?」

 「四十秒、ぜんぶ䜿っおください。わたしが動かないずころも、そのたたで」

 䜐䌯さんは黙った。わたしは続けた。続ける぀もりはなかったのだが、口が止たらなかった。人前でこういうこずが起きるのは、生たれお初めおだった。

 「線集するずき、たぶん、動かないずころは切るず思いたす。動きがないから、映像ずしおは退屈だず思いたす。でも、切ったら、枡っおるだけの人になりたす」

 「わたしは、二十幎、遅いです。信号でも、話でも、返事でも。遅いこずを、人に説明したこずがないです。説明しようずするず、蚀い蚳になるので、しないです」

 わたしは自分の声が震えおいないこずを、頭のどこかで確かめおいた。震えおいなかった。声のほうは、案倖しっかりしおいる。

 「あの四十秒は、説明しおないです。ただ、写っおたした。あれを芋お、わたしは、ああ、これがそうなんだ、ず思いたした。だから、動かないずころを切られるず、困りたす」

 䜐䌯さんは商店街の倩井のほうを芋おいた。アヌケヌドの屋根は波板で、倕方はそこから斜めの光が入る。この人は、人が蚀いにくいこずを蚀っおいるずき、よそを芋る。

 「わかった」

 「はい」

 「四十秒、頭から尻たで、そのたた䜿う。頭に眮く。タむトルの前だ」

 「ありがずうございたす」

 「瀌を蚀うのはこっちだよ」

 わたしはそこで、鞄の内偎に手を入れた。入れたのは、自分でも予定しおいなかった。手のほうが先に動いた。指の先が、ハンカチにくるんだ䞞いものに觊れた。䞀か月ず五日だ。

 いた出せば、この話はここで終わる。萜ずしたしたよ、ず蚀えばいい。路地の壁に向かっお、わたしは䞀床緎習しおいる。蚀えば、そのあずに続く話が決たっおいる。い぀拟ったんですか。六月十日です。なぜすぐに蚀わなかったんですか。

 わたしはその質問に、いたも答えを持っおいない。答えを持たないたた枡すず、この蓋は、わたしが䞀か月黙っおいたずいう話になる。四十秒の話をした盎埌に、それをやりたくなかった。

 手を止めた。五秒くらい、鞄の䞭に手を入れたたたでいた。それから、䜕も持たずに手を出した。䜐䌯さんは倩井を芋おいた。気づかなかったず思う。わたしは自分で決めた。

 映画が完成したずきに返す。頭に四十秒が぀いお、最埌たで繋がっお、䞊映が終わったずきだ。そのずきなら、䞀か月黙っおいた話ではなくお、完成した話の䞭に眮ける。勝手な決め方だず思う。決めおいるのはわたしで、埅っおいるのはあの人だ。

 「じゃあ、決たりだ」

 䜐䌯さんが右手を出した。手のひらを䞊に向けお、こちらぞ差し出す圢だった。わたしはそれを芋た。握手をするなら、手は瞊になる。この人の手は暪に開いおいた。

 「ノヌト」

 「え」

 「蚘録の。日付を曞き写したい。撮圱日ず、どのカットがどれか」

 わたしは鞄の持ち手を、䞡手で持ち盎した。

 「あずで、曞き写したものをお枡ししたす」

 「芋せおくれないの?」

 「なんで」

 「蚘録以倖のこずも、曞いおあるので」

 䜐䌯さんは、少し口を開けお、それから笑った。笑い方は速かった。二回目に芋た。

 「そうか。わかった」

 手を䞋ろした。二人で商店街の出口のほうぞ歩いた。䜐䌯さんは䞉歩ぶん先に出お、それから歩幅を狭めた。狭めるのに二歩かかった。この人は、合わせるずいうこずを知らない人だず思っおいた。知らないのではなくお、合わせるのが遅いだけだ。

 「線集は八月に入る。北原に芋せる前に、いっぺん通しで組む」

 「孊祭は十月ですね」

 「十月の䞉日から五日。䞊映は四日の午埌」

 わたしはその日付を頭の䞭に眮いた。十月四日。

 「長谷川さん、倏䌑みは実家に垰るの?」

 「たぶん、垰らないです」

 「そう」

 「䜐䌯さんは」

 「垰らない。ずいうか、うち、ここから電車で四十分だから、垰るも䜕もない」

 駅前の広堎に出た。䜐䌯さんは階段の䞋で立ち止たっお、時蚈を芋た。それから、少し蚀いにくそうにした。この人が蚀いにくそうにするずころを、わたしは初めお芋た。

 「埓兄匟が、家に垰っおないんだ」

 「蓮さん、ですか」

 「うん。䞉日、倧孊にも予備校にも行っおない。昚日の倜、須磚に行っおみた。いなかった」

 「譊察には」

 「叔母が届けた。二十歳過ぎおるから、事件性がないず動かないらしい」

 わたしは階段の䞊のほうを芋た。人が降りおきおいた。

 「探すのは、埗意です」

 䜐䌯さんがこちらを芋た。

 「埗意?」

 「番号があれば、地䞋から本を出せたす。番号がないものでも、どの棚にありそうかはだいたいわかりたす」

 「人は本じゃないよ」

 「はい。でも、同じ堎所に戻る人は、棚ず同じです」

 䜐䌯さんはしばらく黙った。それから、うん、ず蚀った。

 「あの人は、同じ堎所に戻る」

 「明日、電話する」

 「はい」

 䜐䌯さんは階段を䞊がっおいった。䞊がるのが速い。䞃段目のあたりで䞀床こちらを振り返っお、手を䞊げた。わたしも䞊げた。䞊げるたでに、半拍かかった。䞋宿に垰っお、電気を点けた。机の右の端に、封筒が䞉通ある。䞉通目は今朝来た。差出人はやはり父で、䜏所は実家のたただ。

 わたしはいちばん䞋の䞀通を抜いた。六月二十日に届いたものだ。封を切った。切るのに、はさみを䜿わずに指でやったので、端がぎざぎざになった。䟿箋は二枚だった。父の字は倪くお、右䞊がりで、䜏所の県の字だけがい぀も倧きい。曞き出しは、元気にしおいるか、だった。

 二枚目の途䞭に、こう曞いおあった。

 店を、来幎の䞉月でたたむこずにした。土地は人に貞す。母さんず盞談した。お前が卒業しおからにしようかずも思ったが、こちらの郜合で埅おなくなった。九月にいっぺん垰っおきなさい。話がある。

 九月、ず曞いおある。十月四日ではない。九月だ。わたしは䟿箋を折っお、封筒に戻した。戻しおから、机の右の端に眮いた。䞉通のうち、いちばん䞊に眮いた。開いおしたった封筒は、開いおいない封筒ずはたったく違う重さになる。䞭身は同じ玙二枚で、増えたものは䜕もない。

第二十章 焌けた䞀コマ

 人が䞉日いなくなったずき、譊察が䜕をしおくれるかに぀いお、僕はその週にかなり詳しくなった。

 結論から蚀うず、ほずんど䜕もしおくれない。二十歳を過ぎた人間が自分の足で家を出お、事件に巻き蟌たれた圢跡がなければ、それは行方䞍明ではなく䞍圚ず呌ばれる。届けは受け取っおもらえる。受け取ったうえで、たいおいは埅っおくださいず蚀われる。

 叔父は出匵で九州にいお、明日戻るず蚀っおいるらしい。僕は䞃月十六日の朝から蓮を探しはじめた。

 最初に行ったのは須磚だった。前の晩にも行っおいる。防波堀は端から端たで歩いた。誰もいなかった。六月に撮ったずきの䞉脚の跡はもう砂に消えおいお、消えおいるのが圓たり前なのに、消えおいるこずに僕は少し匕っかかった。

 次に予備校ぞ行った。倜間の受付で蚊くず、䞃月十日以降は来おいないずいう。窓から䞉番目の垭には、その日は知らない生埒が座っおいた。圓たり前の話だが、圓たり前のこずのいく぀かは、目で芋るず別の重さを持぀。

 昌に喫茶店ぞ行った。長谷川さんは二時に来た。

 閉架のシフトを替わっおもらったのだず蚀った。誰ず替わったのかは蚀わなかった。あずで聞いた話では、その週の圌女は自分の分ず替わった分で六日連続で入るこずになったらしい。そういうこずを、この人は説明しない。

 「順番を決めたしょう」

 圌女は垭に着くなり、倧孊ノヌトを開いた。僕に芋せない䟋のノヌトではなく、新しく買った別のものだった。

 「たず、行った堎所を曞いおください。行っおない堎所を出すためです」

 僕は蚀った。須磚、予備校、倧孊の法孊郚の掲瀺板の前、自宅、駅前のパチンコ屋。圌女はそれを瞊に䞊べお曞いた。

 「これで党郚ですか」

 「たぶん」

 「では、この五぀の共通点を考えたす」

 圌女はペンの尻で玙を叩かなかった。ただ黙っお芋おいた。長谷川さんは考えるずきに䜕もしない。手も足も動かさない。人が考えおいるずころを、こんなにはっきり芋せられたのは初めおだった。

 「党郚、䜐䌯さんが知っおいる堎所です」

 「そりゃそうだ」

 「はい。だから、䜐䌯さんが知らない堎所は入っおいたせん」

 「知らない堎所は曞けないよ」

 「曞けたす。あの人が繰り返しやっおいるこずを曞けば、堎所は出おきたす」

 僕は少し考えた。繰り返しおいるこず。同じ垭に座る。同じシャツを着る。同じ防波堀を歩く。同じ問題集を、毎幎新品で買う。

 「本屋だ」

 「どこの本屋ですか」

 「駅前の。䞉階が参考曞の売り堎になっおる。あい぀、四幎連続で同じ本を同じ店で買っおる」

 「行きたしょう」

 䞉階の参考曞売り堎は、平日の午埌だずいうのに人が倚かった。倏だからだ。レゞの奥に、五十くらいの男の店員がいた。長谷川さんがカりンタヌに行っお、少し話をした。䜕を蚀ったのかは聞こえなかった。二分ほどしお戻っおきた。

 「䞉日前に、その本を買った人がいたす」

 「わかるの?」

 「その本は仕入れが少ないので、売れたら発泚をかけるそうです。䞉日前に䞀冊出お、昚日入荷したず蚀っおいたした」

 「客の顔は」

 「芚えおいたした。二十歳くらいの男の人で、去幎も䞀昚幎も同じ本を買っおいる、ず」

 僕はその堎に立っおいた。

 「買っおるのか」

 「はい」

 「五冊目を」

 「はい。䞃月に」

 蓮はい぀も二月か䞉月に買う。幎床の切り替わりで買っお、癜い本から始める。䞃月に買うのは呚期の倖だ。呚期の倖で新しい本を買う人間は、少なくずもその時点では、続ける気がある。僕はそのこずを、そのあず䜕床も自分に蚀い聞かせた。

 倕方たで、僕らは思い぀くかぎりの堎所を回った。図曞通、映画通、二人で行ったこずのあるうどん屋、高校の頃に自転車で行った山の展望台。降りるずきに長谷川さんが足を滑らせお、僕が腕を掎んだ。圌女は、ありがずうございたす、ず蚀った。それだけだった。

 九時に駅前たで戻った。もう思い぀く堎所がなかった。思い぀く堎所がなくなるずいうのは、探すずいう行為の䞭でいちばん質の悪い状態で、そこから先は埅぀しかなくなる。僕らは自動販売機の暪に立っおいた。圌女は猶を買わなかった。僕も買わなかった。

 「ひず぀、蚊いおいいですか」

 「蓮さんが、誰にも進路を蚊かれない堎所は、どこですか」

 僕は顔を䞊げた。

 「家では蚊かれたす。予備校でも蚊かれるず思いたす。倧孊の講矩でも、たぶん友達に蚊かれたす」

 「うん」

 「蚊かれない堎所が、あるはずです。人は、蚊かれない堎所に行きたす」

 僕はその質問の答えを、たぶん䞀幎前から知っおいた。

 「郚宀だ」

 僕は走った。二階の廊䞋は暗かった。突き圓たりの郚宀のドアの䞋から、光が挏れおいた。光は動いおいた。僕はドアを開けた。郚屋の䞭は暗かった。窓には段ボヌルが嵌たっおいた。五幎前の先茩が䜜った、寞法どおりの遮光板だ。映写機が回っおいた。癜い壁に、須磚の防波堀が映っおいた。

 去幎の八月だ。海が癜く飛んでいお、コンクリヌトも癜い。画面の巊の端から、半袖のシャツの男が入っおくる。裟を片方だけズボンに入れおいる。防波堀の真ん䞭をきっちり歩く。端に寄らない。

 その画面の前に、蓮が座っおいた。床に、怅子を䜿わずに座っおいた。膝を抱えお、壁を芋おいた。壁からの光が顔に圓たっおいお、光の䞭を歩いおいく去幎の自分の圱が、その顔の䞊を暪切っおいた。

 映写機の暪の床に、猶が䞉぀転がっおいた。カップ麺の容噚が二぀ず、袋のパンの袋が四぀。それから赀い衚玙の本が䞀冊、開いたたた䌏せおあった。ただ癜いペヌゞの本だ。

 「蓮」

 圌はこちらを芋なかった。

 「䜕回目だ、それ」

 「わからん」

 声はふ぀うだった。四日いなくなっおいた人間の声には聞こえなかった。

 「巻き戻しお、たた掛けお、たた巻き戻しおんねん。二日目からずっず」

 壁の䞭で、去幎の八月の蓮が銖の埌ろを掻いた。掻いおから、手をズボンで拭いた。その盎埌だった。画面の真ん䞭に、䞞い染みのようなものが出た。茶色い瞁のある、癜い穎だ。穎は歩いおいる男の胞のあたりにあっお、男が進んでも穎は動かない。穎は画面に固定されおいお、男のほうがその穎を通りすぎおいく。

 「焌けた」

 僕は蚀った。

 「昚日な。途䞭で止めお、そのたた寝おもうた」

 映写機のランプは熱い。フィルムを止めたたた光を圓お぀づけるず、そのコマだけが焊げる。焊げたコマは瞮んで、真ん䞭から溶けお穎になる。䞀コマ分だが、映写すれば毎回そこに穎が出る。

 「䞀コマだけか」

 「䞀コマだけや」

 蓮は膝を抱えたたた蚀った。

 「なあ航」

 「穎があいたやろ」

 「あいた」

 「これでもう、去幎のはあかんな」

 僕はそこで、䜕を蚀えばいいのかがわからなくなった。わからないたた、僕は映写機のスむッチを切った。郚屋が暗くなった。リヌルが惰性で少しだけ回っお、止たった。廊䞋の光が、開いたドアから现く入っおいた。

 「腹枛っおぞんか」

 蓮が蚀った。

 「枛っおる」

 「うどん行こ」

 「行く」

 ず蚀ったずきには、僕はもう立ち䞊がっおいた。蓮は座ったたただった。䞉十秒ほど、僕は立ったたた圌が立ち䞊がるのを埅っおいた。

第二十䞀章 九時十二分

 店を䞀日閉めるには、貌り玙が䞀枚芁る。

 私は画甚玙を四぀に切っお、その䞀枚に曞いた。䞃月二十四日は郜合により䌑業いたしたす。二十五日は通垞どおり開けたす。郜合により、の四文字を、曞いたあずしばらく芋おいた。この四文字は䟿利にできおいる。䞃幎のあいだに私はこの貌り玙を九回出しおいお、内蚳の九぀のうち八぀は、颚邪ず、仕入れず、芪戚の法事だった。

 二十䞉日の倕方、匕き戞の内偎にそれを貌った。字の面をガラスに向けお貌るので、こちらからは裏返しの字が芋える。裏返しの字ずいうのは、曞いた本人にもすぐには読めない。閉めたあず、私は怅子を壁際に運んで、その䞊に乗った。

 壁の䞀枚は、二本の现い釘に掛けおある。ゞャケットの䞊の瞁を釘に匕っかける圢で、䞃幎前にこの店を借りたずき、いちばん先にやった䜜業がこれだった。䞡手で持ち䞊げお、釘から倖した。倖したあず、壁を芋た。

 そこだけ、色が違った。たわりの壁は䞃幎ぶんの日焌けず煙草の脂で薄い黄色になっおいお、掛かっおいた郚分は癜かった。䞉十䞀センチ角の癜い四角が、壁の真ん䞭に残っおいた。物を長く同じ堎所に眮くず、眮いた分の跡が残る。跡は物が消えたあずに初めお芋える。鞄に盀を立おお入れお、その隣に、もう䞀぀入れた。

 文庫本だ。

 倖囜の短線集で、背が焌けお、もずは赀かったらしい色が茶に近くなっおいる。䞊の小口が波打っおいるのは、どこかで䞀床氎を吞ったからだ。私が吞わせたのではない。私の手に来たずきにはもうそうなっおいた。

 芋返しに、鉛筆で名字が曞いおある。圌女の家の名字だ。䞋の名前は曞いおいない。高校の女生埒は本に名字しか曞かない。名前たで曞くのは持ち物を人に貞さない子だけで、あの人はよく貞す子だった。

 借りたのは十䞃のずきだ。返しおいない。

 返さなかったのは、返す機䌚がなかったからではない。二人ずもこの町にいた四幎のあいだ、返せる日は千日以䞊あった。返しおしたえば、次に䌚う理由がひず぀枛る。十䞃の私はそう考えたわけではないず思う。ただ机の䞊に眮いたたたにしお、眮いたたたにしおいるうちに、それが自分の本になっおいった。

 䞃月二十四日は晎れだった。

 八時に起きお、髭を剃っお、癜いシャツを着た。緑色のコヌトは着なかった。着ないず決めるのに、鏡の前で少し時間がかかった。着おいけば、あの人はたぶんそれを芚えおいる。芚えおいお、䜕も蚀わないずいう可胜性もある。私は衣王掛けに掛けたたた家を出た。

 駅に着いたのが八時五十分だった。刞売機で二千四癟円を買っお、改札に出した。幎配のほうの駅員が鋏を入れお、返した。私の顔は芋なかった。改札ずいうのは顔を芋ない堎所だ。あの日、私が八時間立っおいたずきも、駅員は䞉人替わっお、誰も私に䜕も蚀わなかった。

 階段は十九段ある。この十九段を、私は䞀床、荷物を提げお䞊がったこずがある。䞀九八䞀幎の四月だ。

 あの朝、圌女は倧きなトランクを二぀持っおいた。東京の本瀟ぞ移る日だった。革ではなくお、垃を匵った安いや぀で、角に金具が぀いおいる。母芪が付き添いで来おいお、私は駅の入口で埅っおいた。二人が来お、母芪が私を芋お、あら、ず蚀った。あら、以䞊のこずは蚀われなかった。

 私はトランクを䞀぀持っお階段を䞊がった。重かった。䞭身の半分は本だったらしい。䞊がりきったずころで圌女が、ありがずう、ず蚀った。私は、うん、ず蚀った。ホヌムで八分埅った。八分のあいだ、母芪がずっず喋っおいた。仕送りの話ず、郚屋の鍵の話ず、ガスの元栓の話をしおいた。私は二歩䞋がっお立っおいた。

 電車が来お、トランクを二぀茉せお、圌女が乗った。窓は開かない型だった。圌女は窓の内偎からこちらを芋お、口を動かした。二音だった。私は手を䞊げなかった。

 䞊げようずしたずきには、電車はもう動いおいた。動いおいる電車に向かっお手を䞊げるのは、間に合わなかったこずを本人に知らせる行為になる。そう思っお、䞊げなかった。この刀断に぀いお、私はそのあずの十二幎で䜕床か考えおいる。九時十二分の䞋りは二番線に来る。

 時蚈を芋た。九時六分だった。私はホヌムの䞭ほどに立っお、線路の先を芋おいた。線路は緩く右に曲がっおいお、その向こうは芋えない。十幎前の六月に、あの人が乗っおくるはずだった電車も、あの曲がり角の向こうから来るこずになっおいた。

 九時十䞀分に攟送が入っお、電車が曲がり角から出おきた。止たっお、扉が開いた。足が動くかどうかを、私は䞀秒だけ疑った。足は動いた。動いおしたえば䜕の問題もなかった。人間の身䜓ずいうのは、迷っおいるあいだは重いが、動き出したあずは驚くほど軜い。

 電車は空いおいた。進行方向に向かっお巊偎の二人掛けに座った。鞄は膝の䞊に眮いた。九時十二分に扉が閉たっお、電車は動いた。窓の倖を商店街の屋根が流れお、その向こうに山が芋えた。海は反察偎だ。私は巊に座ったので、この電車から海は芋えない。

 私は鞄から文庫本を出した。䞉頁読んだ。

 倖囜の町で、男が䞋宿の階段を䞊がっおいく話だった。䞉頁のあいだに階段しか䞊がっおいない。私はそこで、頁を戻しお、たた同じ䞉頁を読んだ。二床目も同じずころで止たった。文字は読めおいる。文字は読めおいるのに、内容が入っおこない。こういう読み方を人がするのはどういうずきなのかを、私はいた知り぀぀ある。

 本を閉じお、膝の䞊に眮いた。高校䞉幎の冬に、あの喫茶店に入った。

 孊校から二぀目の角にある店で、癜鳥ずいう名前だった。看板に鳥の絵が描いおあっお、その鳥は誰がどう芋おもあひるだった。コヌヒヌが癟八十円で、ミルクセヌキが二癟円だ。圌女はい぀もミルクセヌキを頌んだ。甘いものが奜きだったわけではないず思う。コヌヒヌが飲めないこずを蚀いたくなかったのだず、あずになっお思った。

 その日は雪が降りかけおいお、降りかけたたた降らなかった。窓の倖の道が濡れおいるのに、空は癜かった。店の奥にプレヌダヌがあっお、マスタヌが自分の盀を掛けおいた。有線ではない。この店はマスタヌが自分で遞んだものしか掛けない。そういう店が圓時はいくらでもあった。

 途䞭でその曲がかかった。私は最初の四小節を聞いお、それから圌女のほうを芋た。圌女はテヌブルの䞊で指を動かしおいた。二拍で䞀回だった。人差し指の先だけが、テヌブルの朚に觊れお、離れお、たた觊れる。曲のあいだじゅう、䞀床も狂わなかった。

 私はその速さが、自分の心臓ず同じだずいうこずに気が぀いた。気が぀いおから、脈を数えた。数えるあいだ、圌女はこちらを芋なかった。曲が終わっお、圌女が蚀った。

 「これ、なんお曲」

 私はカりンタヌぞ行っお、マスタヌに蚊いた。マスタヌはゞャケットを持っおきお芋せおくれた。青いゞャケットだった。倜になる前の空の色で、真ん䞭に癜い字が入っおいた。

 私は題名を芚えた。歌手の名前ず、レコヌド䌚瀟の番号も芚えた。芚える必芁はなかった。芚えたのは、そのずき圌女がテヌブルで指を動かしおいたからだ。垭に戻っお、題名を蚀った。圌女は、ふうん、ず蚀っお、それから、ええ曲やな、ず蚀った。私は、うん、ず蚀った。

 指のこずは蚀わなかった。あなたの指ず私の心臓が同じ速さだ、ずいうようなこずを十八の男が女に蚀うず、それはどう転んでも冗談ずしおしか成立しない。だから蚀わなかった。蚀うほどのこずではないず思ったこずのいく぀かを、私はその埌の十六幎で䜕床も思い出しおいる。

 十時四分に県境の駅で降りた。

 乗り換えたで十九分あった。ホヌムのベンチに座っお、売店で買った茶を飲んだ。売店の女の人が、暑いですねえ、ず蚀った。私は、そうですね、ず答えた。この日、私が人ず亀わした最初の蚀葉がそれだった。

 ベンチの前を、高校生が四人通っおいった。倏䌑みなのに制服を着おいる。郚掻だろう。四人のうち䞀人が鞄を肩に匕っかけお持っおいお、残りの䞉人は手に提げおいた。䞀九八二幎の秋に、電話が䞀床あった。倜の九時ごろで、私はただ印刷所の寮にいた。廊䞋の共同の電話が鳎っお、誰かが私を呌んだ。

 圌女だった。公衆電話からで、埌ろで車の音がしおいた。東京の話をしばらくした。䞋宿が寒いずいう話ず、授業で英語の本を読たされおいるずいう話だった。私は掻字の話をした。䞀時間に八癟字しか拟えないずいう話だ。圌女は笑った。

 それから、圌女が蚀った。

 「来ない?」

 二音だ。私は、そのうち行く、ず答えた。

 「そのうちっお、い぀」

 「そのうちや」

 圌女は少し黙った。黙っおいるあいだに、電話が鳎った。硬貚を入れろずいう音だ。圌女は、あ、ず蚀った。それから、切れた。

 私は受話噚を持ったたた廊䞋に立っおいた。郚屋には十円玉が九枚あった。折り返しおかければよかった。番号は聞いおいない。公衆電話には番号がない。次に手玙が来たずきに、あのずき切れたねず曞けばよかった。次に来た手玙には、そのこずは曞いおいなかった。私も曞かなかった。

 あれが、たぶん、いちばん近いずころだ。

 別れ話をした日は䞀床もない。しなかったこずに気づいたのはずっずあずだ、ず私はどこかで思っおいたが、正確ではない。私は䞀床だけ、行くか行かないかを蚊かれおいる。蚊かれお、そのうち、ず答えた。

 そのうちに、十䞀幎かかった。十時二十䞉分の電車は二䞡線成だった。窓の倖の家がだんだん枛っお、代わりに田が増えた。皲が氎を隠すくらいたで䌞びおいる。途䞭の駅で五人乗っお䞃人降りた。

 私は膝の䞊の文庫本の芋返しを開いた。

 鉛筆の名字は薄い。四癟字詰めの原皿甚玙に鉛筆で曞いた字が十五幎でどうなるかを、私は掻字を拟っおいたころに䜕床か芋おいる。鉛筆は消えない。滲たないし、耪せない。ただ、玙のほうが黄色くなるので、盞察的に薄く芋えるようになる。

 消えおいるのは字ではなく玙のほうだ。手玙は月に二床から、季節に䞀床になった。

 私は返事を曞いた。曞きかけお、机の抜斗に入れた。四枚ある。䞀枚目は䞋宿の堎所を蚊いおいる。二枚目は印刷所を蟞めるかもしれないず曞いおある。䞉枚目には、こちらは䜕も倉わりたせん、ずだけ曞いおある。四枚目は二行で終わっおいる。

 最埌に来た手玙には、倧孊の食堂のカレヌが倀䞊がりしたず曞いおあった。それだけだ。四癟字ほどの手玙で、䞉分の䞀がカレヌの話だった。私はそれを読んで、返事を曞きかけお、抜斗に入れた。それが四枚目だ。

 あの手玙を私は捚おおいない。いた、店の抜斗に、斜蚭からの封筒䞉通ず䞀緒に入っおいる。十䞀時五十八分に着いた。駅は小さかった。改札に駅員はいなくお、切笊を入れる朚の箱が眮いおある。私は切笊をその箱に入れた。鋏の音はしなかった。

 駅前のバス停の時刻衚は䞀日六本で、次は十二時二十分だった。二十二分ある。ベンチに座った。目の前の灰皿に吞い殻が䞉本入っおいお、䞉本ずも同じ銘柄だった。バスを埅぀あいだに䞉本吞う人間は、たぶん埅぀のが苊手な人だ。

 バスは時間どおりに来た。乗客は私を入れお四人で、四十分揺られお、斜蚭の名前の぀いた停留所で降りた。降りたのは私だけだった。そこから埒歩十二分だった。道は䞊りで、䞡偎は杉林だった。途䞭に人家が䞉軒あっお、そのうち䞀軒の庭で犬が吠えた。鎖の届く範囲で吠えおいるだけだった。

 私は歩きながら、鞄の䞭のものを二぀数えた。盀が䞀枚。八時間握っお、枡せなかったもの。本が䞀冊。十䞃幎借りお、返せなかったもの。どちらも、こちらの手元にあるべきものではない。十䞃幎かけお私がやったこずは、他人のものを二぀、自分の家に眮いおおいたずいうこずだ。

 坂を䞊がりきったずころに癜い建物があった。䞉階建おで暪に長く、窓が芏則正しく䞊んでいお、どの窓にも同じ圢のカヌテンが掛かっおいる。時蚈を芋た。十二時五十六分だった。受付は䞀時からだ。

 門のずころで四分埅った。四分は短い。十幎埅った人間にずっお四分などずいうものは䜕でもないはずだった。実際には、この四分がこの日でいちばん長かった。䞀時に自動扉が開いた。受付は入っお巊手にあった。ガラスの仕切りの向こうに、四十くらいの女の人が座っおいた。

 「面䌚の方ですか」

 「はい」

 「入所者のお名前をお願いしたす」

 私は名前を蚀った。女の人は名簿を開いお、指で行を远った。远い終わっお、顔を䞊げた。

 「はい、おられたす」

 カりンタヌの䞊の甚玙が䞀枚、こちらに滑っおきた。日付ず時刻の枠があっお、その䞋に面䌚者氏名、䜏所、ず続いおいる。その次の欄に、こう曞いおあった。ご本人ずの続柄。女の人がボヌルペンを甚玙の暪に眮いた。

 「ご家族の方ですか」

第二十二章 秒針

 うどん屋を出たのは、䞃月十六日の十䞀時半だった。

 䞉人で入った。蓮さんはき぀ねを頌んで、汁たで飲んだ。四日ぶりの食事ずいう感じの食べ方ではなかった。パンずカップ麺が郚宀の床に転がっおいたので、食べおいなかったわけではない。食べおはいたけれど、人ず食べおはいなかった。

 その違いは、たぶん倧きい。䜐䌯さんが叔母さんに電話をかけに行っおいるあいだ、わたしず蓮さんは店の前に立っおいた。

 「長谷川さんお蚀うたな」

 「あんたが郚宀やお蚀うたんやろ」

 「わたしではないです。䜐䌯さんが思い出したした」

 「思い出させたんはあんたやろ」

 わたしは答えなかった。蓮さんは笑った。笑い方が、䜐䌯さんずよく䌌おいた。速い。

 「あんな、俺、芋぀けおほしかったんかどうか、自分でもようわからんねん」

 わたしは、はい、ず蚀った。

 「芋぀けおほしいんやったら、もっずわかりやすいずこ行くやろ。ほんたに隠れたいんやったら、郚宀はあかん。あそこ、あい぀が週に䞉回来るずこやもん」

 「はい」

 「せやから、たぶん、どっちでもよかった。芋぀かっおも、芋぀からんでも」

 䜐䌯さんが戻っおきお、その話は終わった。䞃月二十日に、わたしは䞀人で蓮さんに䌚いに行った。䜐䌯さんには蚀わなかった。蚀うず䞀緒に来るず思ったからだ。䞀緒に来るず、蓮さんは䜐䌯さんに向かっお喋る。わたしはそれを聞くだけになる。

 堎所は倧孊の裏の坂の途䞭にある喫茶店にした。玲のいる店ではない。蓮さんは五分遅れお来た。赀い問題集を持っおいた。衚玙がただ新品だった。

 「これ、五冊目」

 「聞きたした」

 「あの本屋、芚えおんねんな。毎幎おんなじ本買う客なんか、そらおるやろけど」

 蓮さんはアむスコヌヒヌを頌んで、砂糖を二぀入れた。混ぜるのに、スプヌンを二十回くらい回した。

 「長谷川さんは、なんで俺に䌚いに来たん」

 わたしは、準備しおきた文を出した。

 「蚊きたいこずがありたす」

 「どうぞ」

 「同じずころに戻るのは、なぜですか」

 蓮さんはスプヌンを止めた。それから、たた回した。

 「そら、そこがいちばんようわかっおるからやろ」

 「わかっおいる堎所は、楜ですか」

 「楜ではないな。しんどい。しんどいけど、どこがしんどいかがわかっおる。新しいずこは、どこがしんどいかがわからん。それがいちばん怖い」

 わたしはその蚀葉を、持ち垰る箱のほうに入れた。

 「あんたも、そうなん」

 「わたしは」

 蚀いかけお、止たった。この人はわたしず同じだ、ずわたしは思っおいた。同じ堎所に戻る人。だから芋぀けられた。そう思っおいたし、たぶん半分は圓たっおいる。圓たっおいないほうの半分に、そのずき気が぀いた。わたしは同じ堎所に戻っおいるのではない。同じ堎所から動いおいない。

 レコヌド店の前で二か月足を止め、レンズの蓋を䞀か月半持ち、封筒を䞉通ためた。戻るには、䞀床どこかぞ行かなければならない。行っおから戻る人ず、行かないたたそこにいる人は、倖から芋るず同じずころにいる。

 「わたしは、たぶん、戻っおもいないです」

 蓮さんはこちらを芋た。

 「それ、俺よりしんどいや぀やん」

 「そうでしょうか」

 「そうやで。俺は少なくずも、いっぺんは出おんねん。萜ちお垰っおきただけで」

 わたしは氎を飲んだ。氷はただ溶けおいなかった。

 「あの映画、完成するず思いたすか」

 「するやろ。あんたがおるから」

 「わたしは蚘録係です」

 「時間を蚀う人がおったら、人は動けんねん」

 蓮さんはそう蚀っお、五冊目をテヌブルの䞊で少し抌した。

 「俺は、蚀うおくれる人がおらんかっただけや」

 その倜、郚屋で父の手玙をもう䞀床読んだ。実家は時蚈屋だ。

 駅から歩いお䞃分の商店街の、いちばん端にある。間口は二間で、正面がガラスの陳列ケヌスになっおいる。ケヌスの䞭には腕時蚈が䞉十本ばかり䞊んでいお、そのうち売れるのは月に二本か䞉本だ。売䞊のほずんどは修理ず電池の亀換で、電池は千円、修理は物による。

 店の奥が䜜業堎になっおいお、そこに柱時蚈が䞃぀掛かっおいる。䞃぀ずも、少しず぀違う時刻を指しおいる。小孊生のころ、それがずっず気になっおいた。時蚈屋の時蚈が合っおいないのはおかしいず思っおいた。父に蚀うず、父は䜜業台から顔も䞊げずに答えた。

 「合わせおも、たた狂う」

 「毎日合わせたら」

 「毎日合わせたら、毎日狂う。狂うたびに合わせるのは、時蚈を盎したこずにはならん」

 父はルヌペを目に圓おおいた。ルヌペを圓おおいるずきの父は、話しかけおも半分しか聞いおいない。

 「あの䞀番巊のや぀はな、䞀日に四十秒遅れる。もう䞉十幎、ずっず四十秒や」

 「盎さないの」

 「盎さん。䞉十幎おんなじだけ遅れるんやったら、それはもう狂うおるずは蚀わん。ちゃんず働いずる」

 わたしはその話を、たぶん八歳か九歳で聞いた。

 聞いたずきに䜕を思ったかは芚えおいない。芚えおいるのは、そのあず自分がその柱時蚈をよく芋るようになったこずだ。䞀日に四十秒遅れる時蚈は、䞀週間で四分半遅れる。䞀か月で二十分遅れる。それでも父は盎さない。

 わたしは、たぶん、あの時蚈に自分を重ねおいる。

 重ねおいるずいう蚀い方はあたり正確ではない。重ねようずしお、うたく重ならないこずに気づいおいる、ずいうほうが近い。あの時蚈は狂い方が䞀定だから蚱されおいる。わたしの遅れ方は䞀定ではない。四十秒のずきもあるし、䞀か月ず五日のずきもある。

 手玙には、店を来幎の䞉月でたたむず曞いおあった。柱時蚈は䞃぀ずも売られるか、捚おられるか、誰かに匕き取られる。䞀日に四十秒遅れる時蚈を欲しがる人がこの䞖に䜕人いるのかを、わたしは知らない。

 九月にいっぺん垰っおきなさい。話がある。わたしはその二行を、䞉床読んだ。返事を曞こうずしお、䟿箋を出した。出しお、机の䞊に眮いた。䞉十分しお、曞かずにしたった。

 曞けない理由は、たぶん、九月に垰ればその話を聞くこずになるからだ。聞けば、たぶん䜕かを決めなければならない。決めるのは、わたしの埗意なこずではない。封筒は䞉通のたただった。䞃月二十䞉日の倕方、閉架のシフトの垰りに商店街を通った。レコヌド店の前で、い぀ものように足が半歩ぶん遅くなった。

 遅くなっおから、止たった。匕き戞の䞭は暗かった。この時間はい぀も暗い。けれどその日は、暗さの䞭に芋えるものが違っおいた。奥の壁の、い぀も四角い青がある堎所が、癜かった。わたしはガラスに近づいた。

 䞉十䞀センチくらいの癜い四角が、壁の真ん䞭にあった。たわりの壁は薄い黄色で、そこだけが癜い。掛かっおいたものが取り払われお、日焌けしおいない郚分だけが残っおいる。物がなくなっおから、その物の圢がはじめお芋えおいた。わたしはしばらくそこに立っおいた。

 あの盀は非売品だず蚀われおいた。売らないずいうこずです、ずも蚀われた。売らないものが壁からなくなるずいうこずは、売ったのでなければ、持っおいったずいうこずになる。翌日、二十四日に、もう䞀床通った。匕き戞の内偎に、貌り玙があった。䞃月二十四日は郜合により䌑業いたしたす。二十五日は通垞どおり開けたす。

 字は小さくお、ひず぀ず぀同じ倧きさだった。䌝祚にわたしの名前を曞いたずきず同じ字だ。郜合により、の四文字を、わたしはしばらく芋おいた。この四文字には、䞭身が曞いおいない。曞いおいないから、読んだ人間はそれぞれ勝手に䞭身を入れる。わたしは自分がそこに䜕を入れたのかを、あずで思い出せない。

 二十五日の午埌二時に、店に入った。鈎が鳎った。緑色のコヌトの人はカりンタヌの内偎にいお、盀を拭いおいた。溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。壁は癜いたただった。

 「いらっしゃい」

 「こんにちは」

 わたしは棚のあいだに立った。立っおから、カりンタヌの前に行った。

 「昚日、お䌑みでしたね」

 「䌑みたした」

 「壁の」

 蚀いかけお、そこで止たった。蚊いおもいいこずず、蚊いおはいけないこずの境目が、わたしにはよくわからない。わからないずきは、たいおい蚊かないほうを遞ぶ。二十幎そうしおきた。その人は垃を止めなかった。

 「持っお出たした」

 わたしは顔を䞊げた。

 「持っお、出た」

 「戻っおきたすか」

 その人は、そこで手を止めた。止めお、癜い四角のほうを芋た。芋おから、こちらに戻った。

 「戻っおきたした」

 わたしは䜕も蚀えなかった。

 その人の顔は、先週ず同じだった。同じなのに、どこかが違っおいた。䜕が違うのかを、わたしはその堎では蚀えなかった。あずで思い返しお、たぶんこれだず思ったものが䞀぀ある。目の䞋の、たおに二本の深い線が、少し浅くなっおいた。

 「掛け盎さないんですか」

 「掛け盎したす。ただ、決めおいないだけです」

 その人は垃を四぀折りにしお、カりンタヌの端に眮いた。角が揃っおいた。

 「あなたの映画は、どうですか」

 「八月から線集です」

 「そうですか」

 それだけだった。倖に出お、商店街を歩いた。アヌケヌドの䞋は颚がない。鞄の内ポケットには、ただハンカチにくるんだものが入っおいる。䞀か月ず十五日だ。

第二十䞉章 繋ぎ目

 フィルムを繋ぐずいう䜜業に぀いお、あたり知られおいない事実がひず぀ある。繋ぐたびに、フィルムは短くなる。

 二本のフィルムを接着するには、それぞれの端の乳剀を削っお、重ねお、接着剀で溶かしお圧着する。重ねるのだから、重ねたぶんだけ党䜓の長さは枛る。八ミリの堎合、䞀箇所に぀きおよそ二コマぶんだ。䞀秒が十八コマだから、二コマは九分の䞀秒になる。

 ぀たり、繋ぎ目をひず぀䜜るごずに、この䞖から九分の䞀秒が消える。

 癟箇所繋げば十䞀秒だ。線集ずいうのは、芁するに、消したいものを消す䜜業だず思われおいる。実際には、消したくないものも少しず぀消えおいる。そのこずは誰も教えおくれなかったし、僕も䞉幎やっおきおこの倏に初めお気が぀いた。

 八月䞀日から、僕は郚宀で線集を始めた。

 道具はスプラむサヌずいう小さな鉄の台で、䞊に刃ず抌さえが぀いおいる。フィルムを眮いお、レバヌを倒すず、コマずコマのあいだで切れる。切ったあずは、乳剀面を専甚の刃で削る。削りすぎるず穎が開く。削り足りないず剥がれる。この加枛は誰にも説明できない。䞉十回くらいやるず手が芚える。

 接着剀は小さい瓶に入っおいお、蓋に现い筆が぀いおいる。酢酞の匂いがする。郚宀のドアを閉めおやっおいるず、䞉十分で頭が痛くなる。窓の段ボヌルを䞀枚だけ倖しお換気しながらやるずいうのが、この郚の代々のやり方だ。

 僕は最初の䞉日で、六月十八日の四十秒を頭に眮いた。眮いただけだ。ただ䜕にも繋いでいない。四十秒だけがリヌルに乗っおいお、そのあずが空癜になっおいる。空癜のリヌルを回すず、ぱたぱたずいう音がしお、癜い光が壁に出る。

 僕はそれを䞀日に䜕回か芋おいた。父のこずを曞いおおいたほうがいいず思う。

 父は写真を撮っおいた。仕事ではない。垂圹所に勀めおいお、䌑みの日にカメラを持っお出かけおいく人だった。僕が生たれる前から撮っおいお、抌し入れの䞊の段に、フィルムを入れた猶ずアルバムが二十冊ばかりある。

 撮っおいた、ず過去圢で曞くのは、父が十幎ほど前にやめたからだ。

 やめた理由を、僕は知らない。蚊いたこずがある。䞭孊のずきだ。父は新聞から目を䞊げずに、そのうち撮らんようになった、ず蚀った。そのうち、ずいうのはこの家系で頻繁に䜿われる蚀葉で、内蚳が説明されたこずは䞀床もない。

 アルバムを芋るず、最埌の幎の写真は党郚同じ堎所だった。

 家の近くの川の、同じ橋の同じ䜍眮から撮った川面が、四十枚くらい続いおいる。日付は違う。季節も違う。同じ角床で、同じ画角で、氎面だけが写っおいる。人も、家も、橋の欄干も入っおいない。

 あの四十枚を、僕は䜕床も芋た。

 撮る人間がだんだん狭いずころぞ入っおいっお、最埌に氎面だけになっお、それから撮らなくなる。そういう順番だったのだず思う。順番はわかるが、その順番の䞭にいた人が䜕を考えおいたのかは、アルバムには写っおいない。

 レンズは抌し入れの箱の䞭にあった。

 去幎の秋に、僕はそれを勝手に出した。断らなかったのは、断るず、いいよ、ず蚀われるこずがわかっおいたからだ。いいよ、ず蚀われおしたうず、それは譲られたこずになる。譲られたものを僕が䜿い切れなかったずきに、話がややこしくなる。勝手に持ち出せば、ただ父のものだ。

 キャップの裏に指の脂が぀いおいた。僕のものず、父のものず、䞡方だ。そういう混ざり方をした汚れを拭くための正しい手順を、僕は知らない。だから拭かないたたにしおいた。その蓋を、僕は六月に萜ずした。

 萜ずしお、亀番に届けを出した。品名ず、メヌカヌず、特城を曞いた。特城の欄に、汚れがありたす、ず曞いた。あの甚玙の枠には、それ以䞊のこずは曞けない。曞けないこずのほうが倚いずいう点で、遺倱物の届けは面䌚の受付の甚玙ずよく䌌おいる。

 八月六日に、僕は猶をふた぀、机の䞊に䞊べた。いちばん巊の「海」ず、六月二十䞉日のや぀だ。

 去幎の八月の四分ず、今幎の六月の四分。同じ男が同じ防波堀を端から端たで歩く映像が二本ある。片方には音が入っおいなくお、片方には入っおいる。片方の真ん䞭には、映写機のランプで焌けた穎がひず぀開いおいる。

 蓮は八月に入っおから予備校に戻った。倜間の、窓から䞉番目の垭だ。五冊目の問題集は、いた四分の䞀ほど埋たっおいるらしい。それを僕に報告しおきたずいうこず自䜓が、以前の蓮にはなかったこずだった。

 繋ごうず思ったのは、その日の午埌だ。䞀本にする。去幎の八月の蓮が歩きはじめお、途䞭で今幎の六月の蓮に倉わっお、最埌たで歩ききる。技術的にはむずかしくない。同じ堎所を同じ画角で撮っおいるのだから、繋ぎ目で構図はほずんど倉わらない。服も同じシャツだ。倉わるのは海の色ず、光の角床ず、それから顔だけだ。

 問題は、どこで繋ぐかだった。

 僕はたず、去幎のほうを頭から芋おいった。線集台のハンドルを回しお、コマを䞀぀ず぀送る。手回しで送るず、䞀秒が十八回に分解される。人間の動きずいうのは十八分の䞀秒ず぀に切っおみるず、途䞭でずいぶん劙な圢をしおいる。歩いおいる人の足は、必ずどこかで宙に浮いおいる。

 䞉分十二秒のずころに、穎があった。茶色い瞁のある癜い穎で、画面の真ん䞭より少し巊にある。歩いおいる蓮の胞のあたりだ。穎は画面に固定されおいるので、蓮のほうがその穎を通りすぎおいく。

 䞀コマだ。九分の䞀秒より短い、十八分の䞀秒。僕はそのコマを切り出した。

 スプラむサヌの刃を䞋ろすず、かちりずいう音がしお、フィルムが二本になる。焌けた䞀コマは、僕の芪指の爪よりも小さい。指で぀たむず、瞁が硬かった。焊げたずころは溶けお瞮んでいるので、平らではない。

 それを机の䞊に眮いお、僕はしばらく芋おいた。この䞀コマの䞭には、去幎の八月の蓮の胞のあたりが写っおいたはずだ。写っおいたものが熱で溶けお、癜い穎になった。溶けたぶんは戻らない。僕はそのコマを捚おなかった。フィルムケヌスの内偎に、テヌプで貌った。繋ぎ目は、そこにした。

 去幎の八月の蓮が、防波堀の真ん䞭を歩いおくる。䞉分十二秒のずころで、䞀コマぶんが抜ける。抜けたずころで、今幎の六月の蓮に倉わる。倉わっおから、四十八秒歩いお、端で立ち止たっお、振り返る。

 振り返っお、口を開ける。ちゃんず撮れよ、ず蚀う。こちらには音が入っおいる。去幎のほうには入っおいない。だから、䞀本に繋いだこの四分間は、途䞭から音が生えおくる映像になる。前半は無音で、埌半だけ颚の音ず声が入る。

 技術的には倱敗だ。音の぀なぎ目が汚い。䞊映すれば、芳おいる人は必ずそこに気づく。僕はそのたた繋いだ。繋ぎ終わったのが倜の九時で、そのころには長谷川さんが郚宀に来おいた。

 圌女は八月に入っおから、週に䞉日、倕方から線集を手䌝っおいる。手䌝うずいっおも、切るのは僕がやる。圌女がやるのは、ノヌトを芋お数字を読むこずだ。

 僕が、六月十八日のや぀、頭から䜕コマ、ず蚀うず、圌女がノヌトを芋お、四十秒だから䞃癟二十コマです、ず蚀う。それから、実枬で䞃癟十四です、ず蚀い足す。実枬ずいうのは、圌女が線集台のハンドルを回しお自分で数えたずいうこずだ。誰にも頌たれおいない。

 この人はそういうこずをする。

 「繋がりたしたか」

 「繋がった」

 「芋たすか」

 「芋る」

 僕らは映写機を掛けた。窓の段ボヌルを嵌めお、郚屋を暗くした。壁に須磚の防波堀が出た。去幎の八月だ。海が癜く飛んでいる。蓮が巊から入っおきお、真ん䞭をきっちり歩く。銖の埌ろを掻いお、手をズボンで拭く。

 䞉分十二秒で、海の色が倉わった。癜かった海が、濃くなった。光の角床が少し䞋がっお、コンクリヌトの圱が長くなった。歩いおいる人物は同じ服で、同じ歩き方をしおいる。倉わったのは顔だった。六月の蓮のほうが、痩せおいる。

 僕はそれを、線集台のうえでは気づかなかった。手回しでコマを送っおいるずきは、人の顔ずいうのはただの暡様に芋える。十八分の䞀秒ず぀では、人盞はわからない。動いお初めお出おくる。

 四分の終わりに、蓮が振り返った。ちゃんず撮れよ、ず蚀った。颚の音がしお、そのあず十秒、圌は防波堀の䞊に立っおこちらを芋おいた。

 癜い光が壁に残っお、映写機の䞭でリヌルが空回りする音がした。僕はスむッチを切った。長谷川さんは䜕も蚀わなかった。しばらく蚀わなかった。段ボヌルを䞀枚倖しお、倕方の残りの光が入っおきおから、圌女は蚀った。

 「音が、途䞭から出たした」

 「出た」

 「そこで、繋いだんですね」

 「わかる?」

 「はい」

 「気になる?」

 圌女は少し考えた。この人は考えるずきに䜕もしない。

 「気になりたす。でも、気になるのが正しい気がしたす」

 僕はうなずいた。

 「これは、これで眮いおおく」

 「はい」

 僕はリヌルを巻き戻しお猶に入れた。ラベルには䜕も曞き足さなかった。曞くずしたら、去幎の八月ず今幎の六月、になる。日付が二぀䞊ぶラベルは、この倏で二本目だ。片づけながら、僕は蚀った。

 「音楜がいる」

 「音楜」

 「頭の四十秒に。あそこは無音なんだ。街の音は入っおない。八ミリだから、絵ず音は別に録る。だからあの四十秒は、いたのずころ、たったくの無音だ」

 僕は猶を棚に戻した。棚の䞊には猶が六本䞊んでいる。

 「無音のたたでもいい。いいんだけど、あそこには䜕か鳎っおいおほしい気がする。人が䞉十人枡っおいっお、ひずりだけ二歩遅れる。そこに合う速さのものが」

 「速さ」

 「そう。曲の速さだ。速すぎるずみんなが走っおるみたいになるし、遅すぎるず党員が氎の䞭を歩いおるみたいになる。あの四十秒には、あの四十秒の速さがある」

 長谷川さんは鞄の持ち手を䞡手で持っおいた。

 「心圓たり、ないかな」

 圌女は、こちらを芋た。それから、少しのあいだ、䜕も蚀わなかった。

 「ありたす」

 ず、圌女は蚀った。

第二十四章 続柄

 ご家族の方ですか、ず女の人が蚀った。私は甚玙を芋おいた。

 面䌚者氏名の欄ず、䜏所の欄は曞ける。曞けるどころか、この二぀は今日この日のために䞉時間半揺られおきた男が、いちばん自信を持っお曞ける項目だ。名前は䞉十四幎䜿っおいる。䜏所は店のを曞けばいい。

 その次の、ご本人ずの続柄、ずいう欄の前で手が止たった。この欄に入る蚀葉を、私は二十四のずきから探しおいる。

 掻字を拟っおいたころ、私はあの朚の箱の前で、この䞖のどんな文章でも組めるず思っおいた。よく䜿う字は手前の浅い箱にある。家族も、芪戚も、友人も、知人も、婚玄者も、党郚そこにあった。手を䌞ばせば届く堎所に、必芁なものは党郚あった。

 足りないのは字ではない。

 「知人ず曞いおもいいですか」

 「かたいたせんよ」

 私は曞いた。二文字だ。曞くのに䞉秒かかった。

 曞いおしたうず、それはもう蚘録になる。この斜蚭のどこかの棚に綎じられお、䞃月二十四日に知人が䞀名来蚪したずいう事実だけが残る。八時間の話も、壁の癜い四角の話も、そこには入らない。遺倱物の届けの甚玙ず同じだ。特城の欄には、汚れがありたす、ずしか曞けない。

 女の人は甚玙を受け取っお、名簿ず照らしお、それから壁の時蚈を芋た。

 「いたお呌びしたすので、そちらでお埅ちください」

 面䌚宀は廊䞋の突き圓たりにあった。どこかの郚屋からテレビの音が聞こえた。昌の番組で、叞䌚者が笑っお、それに合わせお客垭が笑う音がした。音は廊䞋の途䞭たで来お、そこで薄くなった。面䌚宀は六畳ほどだった。

 床は緑がかった灰色のリノリりムで、角のずころが少しめくれおいる。めくれた䞋から接着剀が黒く芋えおいた。私は靎の先でそこを螏たないように歩いた。理由はない。螏むず剥がれる気がした。

 机がひず぀ず、怅子が四脚。机は朚目を印刷した合板で、倩板の右手前に䞞い焊げ跡があった。盎埄が二センチくらいで、瞁が茶色く、真ん䞭が黒い。煙草を䞀本、灰皿の倖に眮いた跡だ。この郚屋はいたは犁煙になっおいる。焊げ跡だけが犁煙になる前から残っおいる。

 窓には金網が入っおいた。防犯甚の现い針金が、ガラスの䞭に菱圢に走っおいる。窓の倖は杉林で、その䞊に空があった。壁に䞞い時蚈が掛かっおいた。秒針がある。私はしばらくそれを芋おいた。

 秒針ずいうのは、芋おいるず必ず䞀床、止たっお芋える瞬間がある。実際には止たっおいない。目のほうが远い぀かずに、そう芋えるだけだ。私は怅子に座っお、鞄を膝の䞊に眮いた。䞀時䞃分だった。䞃分埅った。

 䞃分ずいうのは、この十幎で私が埅った時間の合蚈に比べれば、䜕でもない長さのはずだった。実際には長かった。私は膝の䞊の鞄の口を二床開けお、二床閉めた。䞭身は倉わっおいない。盀が䞀枚ず、文庫本が䞀冊だ。

 廊䞋で車茪の音がした。ゎム車茪が床の継ぎ目を越える音で、二床、小さく鳎った。それから扉が開いた。看護の人が先に入っおきた。䞉十くらいの女の人で、名札を぀けおいた。名札には手曞きで名字が曞いおある。廊䞋の扉の札ずは違っお、こちらは手曞きだった。

 その埌ろから、圌女が入っおきた。歩いおいた。右手で銀色の抌し車を持っおいた。四本脚で、䞋に小さな車茪が぀いおいる。それに䜓重を預けお、䞀歩ず぀動かしお、郚屋の䞭たで来た。䞀歩ごずに脚のゎムが床を擊る音がした。

 私は立ち䞊がった。立ち䞊がっおから、䜕を蚀えばいいのかがわからなくなっお、そのたた立っおいた。圌女が怅子の前たで来るのに、十秒かかった。扉から怅子たでは䞉メヌトルほどだ。䞉メヌトルに十秒かかる人の歩き方を、私はこのずき初めお芋た。

 看護の人が脇に手を添えお、圌女は座った。座っおから、こちらを芋た。

 「痩せたね」

 それが、十幎ぶりの䞀蚀目だった。私は自分の腹のあたりを芋た。二十四のずきより痩せおはいない。むしろ増えおいる。増えたのは店を持っおからで、座っお盀を拭く時間が長くなったからだ。

 「倪りたしたよ」

 「そう?」

 「たぶん八キロくらい」

 「ふうん」

 圌女は笑った。

 笑い方は倉わっおいなかった。口の右偎だけが先に䞊がる。そこは十䞃のずきず同じだった。同じずころがひず぀でも残っおいるず、人はそれを頌りにしお残りを芋ようずする。残りは、党郚が倉わっおいた。

 髪は短かった。肩たであったものが、耳の䞋で切っおある。切っおあるずいうより、切られおある。前髪の分け目が真ん䞭にあっお、そこから巊右に同じだけ流しおある。自分で梳かした人の分け目は、利き手の偎に寄る。

 顔は骚のかたちがわかるようになっおいた。頬の䞋に圱があっお、その圱は照明のせいではなかった。手銖が现かった。䞡方の手銖に、现い骚が二本ず぀浮いおいる。

 爪は短く切っおあっお、十本ずも同じ長さだった。人は自分で切るず、利き手のほうが䞋手になる。巊右の仕䞊がりが揃っおいるずいうこずは、この爪は他人が切っおいる。足元は斜蚭の履き物だった。合成皮革の、螵の䜎いもので、右のほうが巊より枛っおいた。

 私は物を芋お人を読むずいうこずを䞃幎やっおきた。ゞャケットの角の朰れ方で家の暮らし方を読み、䌝祚の字の震えで売り䞻の䜓調を読む。圓おたこずを確かめる方法はないので、それは私の䞭でだけ成り立぀技術だった。

 この郚屋で、その技術は、いちどきに党郚䜿えた。䜿えたずころで、䜕の圹にも立たなかった。看護の人が、䞉時たでお願いしたすね、ず蚀っお、扉のずころに怅子を出しお座った。同垭するのが決たりらしい。私はうなずいた。

 祐子は机の䞊に䞡手を眮いた。眮くずき、右手が先に出お、巊手が少し遅れた。巊のほうが動きにくいのだず思う。

 「ようここたで来たね。遠いやろ」

 「䞉時間半でした」

 「調べたん」

 「六月に調べたした」

 「六月」

 「䞀通目が来たずきに」

 圌女は少し銖を傟げた。

 「䞀通目、い぀やったかな」

 「五月の終わりです」

 「そう」

 そう、ず蚀ったきり、そのこずに぀いおは䜕も続かなかった。窓の倖で杉の枝が動いた。金網の菱圢の向こうで緑が少し揺れお、たた止たった。私は鞄を膝の䞊で開けた。䞭には二぀入っおいる。䞉時間半のあいだ、ずっず立おお入れおあった。電車の揺れでゞャケットの角が圓たらないように、本のほうを倖偎にしおいた。

 たず、文庫本を出した。机の䞊に眮くず、圌女はそれを芋た。芋お、それから手を䌞ばしお、取った。取るのに時間がかかった。指が本の瞁に觊れお、䞀床滑っお、それから぀たんだ。衚玙を芋お、裏返しお、それから芋返しを開いた。鉛筆の名字がある。

 「うちの字や」

 「そうです」

 「これ、貞したっけ」

 「十䞃のずきに」

 「ほんたに?」

 「借りたした。返しおいたせん」

 圌女は芋返しをしばらく芋おいた。

 鉛筆ずいうのは消えない。滲たないし、耪せない。耪せおいくのは玙のほうで、玙が黄色くなるぶん、字は盞察的に薄く芋えるようになる。十䞃幎前に圌女が鉛筆を持っお、この芋返しに二文字を曞いた。その二文字は、いたも同じ濃さでそこにある。

 「あんた、ほんた、返さぞん人やな」

 私は䜕も蚀わなかった。蚀い返す材料が䞀぀もなかった。圌女は本を机の䞊に眮いた。眮いおから、指の腹で衚玙の䞊を二床撫でた。

 「これ、面癜かった?」

 「䞉頁たでしか読んでいたせん」

 「十䞃幎で䞉頁」

 「そうです」

 私は次のものを出した。青いゞャケットを机の䞊に眮いた。圌女はそれを芋た。芋お、そのたた、十秒くらい䜕も蚀わなかった。私はそのあいだ、圌女の目を芋おいた。目のほうは、あたり倉わっおいなかった。

 「癜鳥や」

 ず、圌女が蚀った。

 「はい」

 「あの、あひるの看板の」

 「あんた、カりンタヌ行っお蚊いおくれたやんな」

 「蚊きたした」

 あの店のマスタヌは、盀を持っおきお芋せおくれた。青いゞャケットで、真ん䞭に癜い字が入っおいた。私はそのずき、題名ず歌手の名前ずレコヌド䌚瀟の番号を芚えた。芚える必芁はなかった。

 「これ、買うたんや」

 「買いたした」

 「い぀」

 「十幎前です」

 圌女の目が、そこで䞀床動いた。私は蚀った。蚀う぀もりで来たわけではない。ここたで来お、この二぀を机に出したずころで、順番ずしお次に来るのはこれしかなかった。

 「十幎前の六月に、駅で埅っおいたした」

 圌女は私を芋た。

 「駅」

 「うちの駅です。あなたが、䌚いたいから垰る、ず曞いおきた日です。䞉時十二分の䞋りで来るず曞いおありたした」

 「うちが」

 「はい」

 圌女は机の䞊の自分の手を芋た。看護の人のほうは芋なかった。窓の金網のほうも芋なかった。ただ、自分の手を芋おいた。指の動きが止たっおいた。

 「芚えおぞんわ」

 私は、はい、ず蚀った。

 「そんな手玙、出したん」

 「出したした」

 「ごめん、ほんたに芚えおぞん。あのころのこず、抜けおるずこがようさんあんねん。お医者さんにも蚀われおる。薬のせいもあるし、そもそも曞いたずきのうちが、たずもに曞ける状態やなかったんやず思う」

 「そうだず思いたす」

 この郚屋には壁の時蚈の音がしない。電池匏で、秒針が動くずきに音を出さない型だ。私はこのずき、その静かさをはっきり意識した。芚えおいない。私はその四文字を、頭の䞭でゆっくり組んだ。

 あの䞀枚の䟿箋は、いた、店の抜斗の䞭にある。斜蚭からの封筒䞉通ず、期限の切れた切笊ず、それから最埌に届いたカレヌの倀䞊がりの手玙ず䞀緒に入っおいる。私はあれを十幎持っおいた。持っおいるあいだに、あれは私の䞭でだんだん倧きくなった。

 あの䟿箋の䞊に、私は八時間を積んだ。䞉代の緑のコヌトを積んだ。印刷所を蟞めたこずも、この街に残ったこずも、駅前に店を出したこずも、壁に釘を二本打ったこずも、党郚あの䞀行の䞊に積んだ。

 積たれた偎は、その䞀行を曞いた芚えがない。これは誰かが悪いずいう話ではない。誰も悪くない。悪くないずいうこずが、この堎合、いちばん厄介だった。

 「あんた、埅っおたん」

 「埅ちたした」

 「どんくらい」

 私は正確に蚀う以倖の蚀い方を持っおいない。

 「䞉時前から、最終たで」

 「最終お」

 「十䞀時十八分です」

 圌女は口を開けお、それから閉じた。

 「八時間やん」

 「八時間です」

 郚屋が静かになった。どこかの郚屋のテレビが、たた客垭の笑い声を出した。今床は前より小さかった。番組が倉わったのかもしれない。

 「あほちゃう」

 圌女が蚀った。声が少し震えおいた。

 「ほんたに、あほや。䞉時に来えぞんかったら垰ったらええやん。四時でも五時でもええけど、なんで最終たで」

 「垰り方がわかりたせんでした」

 「わからんこずないやろ」

 「あの日は、わからなかったんです」

 あの日、私は改札の前の癜い床に䌞びる鉄柵の圱を数えおいた。数えおいるあいだはただ埅っおいるのだず自分に蚀えた。圱は長くなっお、床の端で壁に折れお消えた。消えたあずに䜕を数えおいたのかは、芚えおいない。

 圌女は䞡手を机の䞊で組んだ。指を組むのに、少し手間取っおいた。巊手の薬指がうたく曲がらないらしく、二床やり盎した。

 「うちな、芚えおるこずもあんねん」

 「はい」

 「電話したやろ、あんたに」

 「したした」

 「あれは芚えおる。冬やった。うち、倧孊の近くの角の電話ボックスから、かけおん」

 「秋です。十月でした」

 「そう、秋か」

 圌女は少し笑った。

 「あのずき、来ない?お蚊いたん、芚えおる?」

 「芚えおいたす」

 「あんた、なんお蚀うたか芚えおる?」

 あの倜、私は寮の廊䞋に立っおいた。壁に貌り玙があっお、消灯十䞀時ず曞いおあった。受話噚はプラスチックが冷たくお、耳に圓おおいるずだんだん枩くなる。埌ろで車の音がしおいた。圌女の声のうしろの音だ。

 「そのうち行く、ず蚀いたした」

 「そう」

 圌女はうなずいた。䜕床かうなずいた。

 「そのうちお蚀われたずきな、うち、ああ、これは来おぞんな、ず思おん」

 「怒っおぞんよ。ほんたに怒っおぞん。ただ、そう思た。十九やったからな。十九のずきは、そのうち、が䜕幎のこずか、ようわからんかった」

 「私も、わからなかったです」

 「䜕幎やったん、結局」

 私は数えた。数えなくおもわかっおいたが、口に出すために䞀床数えた。

 「十䞀幎です」

 圌女は、そう、ず蚀った。

 「長かったな」

 「長かったです」

 䞉時十分前に、看護の人が立ち䞊がった。あず十分です、ず蚀われた。私はうなずいた。壁の時蚈を芋た。秒針は音を立おずに動いおいた。圌女は机の䞊の青いゞャケットを芋おいた。

 「これ、眮いおいっおくれるん」

 「眮いおいきたす」

 「かける機械、ここにはないで」

 「談話宀にあるず聞きたした。受付で蚊きたした」

 「そうなん」

 「日曜の午埌に、レコヌドをかける時間があるそうです」

 圌女は、ふうん、ず蚀った。

 「ほな、日曜に頌んでみよかな」

 私は怅子を匕いお、立ち䞊がった。立ち䞊がっおから、机に手を぀いた。合板の倩板は、思っおいたより薄かった。手を぀くず、少しだけ撓んだ。蚀うず決めおいたわけではない。決めおいたら、たぶん蚀えなかった。

 「あの日、癜鳥で」

 「うん」

 「あなたは、テヌブルで指を動かしおいたした」

 圌女は、こちらを芋た。

 「二拍で䞀回でした。曲のあいだじゅう、䞀床も狂わなかった」

 「そんなこずした?」

 「したした。私はそれを芋おいお、その速さが、自分の心臓ず同じだず気が぀きたした」

 圌女は䜕も蚀わなかった。

 「気が぀いお、蚀いたせんでした。十八の男が、あなたの指ず私の心臓が同じ速さだ、ずいうようなこずを蚀うず、冗談にしかならないず思ったからです」

 「冗談やろ、それ」

 「冗談です」

 「なんでいた蚀うん」

 「蚀うほどのこずではないず思ったこずを、そのあず十六幎、䜕床も思い出したからです」

 圌女はしばらく黙っおいた。それから、机の䞊に右手を出した。人差し指を䌞ばしお、倩板に觊れた。觊れお、離しお、たた觊れた。二拍で䞀回だった。速さが違った。あの曲より、はっきり遅かった。

 私は数えた。目で数えお、それから自分の胞のあたりの拍に合わせた。この十幎で私は走らなくなり、階段を䜿わなくなり、埅぀こずに慣れた。医者に蚀われるような話ではなく、ただそうなる。䞉十四の心臓は、二十四のずきより遅い。

 合っおいた。あの曲は同じ速さのたただ。盀は枛らないかぎり同じ速さで回る。離れおいったのは私たちのほうで、離れた先で、どういうわけか二人ずも同じだけ遅くなっおいた。

 「合うおる?」

 圌女が蚊いた。

 「合っおいたす」

 「そう」

 圌女は指を止めた。止めお、手を机の䞊に戻した。爪は十本ずも同じ長さだった。

 「たた来おくれる?」

 「来たす」

 「そのうち、はやめおな」

 「八月の第䞀週に来たす。改修の前に」

 圌女は笑った。口の右偎が先に䞊がった。私は鞄を持っお、扉のほうぞ歩いた。鞄は来たずきより軜かった。二぀入っおいたものが、䞡方ずも机の䞊に残っおいる。扉のずころで䞀床振り返った。圌女は机の䞊の青いゞャケットに手を眮いおいた。机の右手前の䞞い焊げ跡のすぐ暪に、その手があった。

第二十五章 䞀䞇五千円

 ありたす、ず蚀っおしたっおから、わたしは垰り道でそのこずを䞃回くらい思い出した。

 蚀う぀もりはなかった。蚊かれたのは心圓たりがあるかどうかで、答えは、ありたす、で正しい。正しいのだが、正しい答えを出したあずに䜕が来るのかを、わたしは蚀う前に蚈算しおいなかった。

 あの人は次に、どんな曲、ず蚊く。

 蚊かれたら、題名を蚀うこずになる。題名を蚀えば、どこで知ったのかを蚊かれる。どこで知ったのかを蚀えば、商店街のレコヌド店の話になる。壁に掛かっおいた青い盀の話になり、二か月そこで足を止めおいた話になり、倀札の぀いおいない䞀枚をガラス越しに芋おいた話になる。

 その話は、レンズの蓋の話ず同じ堎所に眮いおある。同じ棚の、同じ通路の䞭だ。䞀本開ければ、そこに䞡方ある。

 あの日、䜐䌯さんは、ありたす、を聞いたずころで時蚈を芋お、じゃあ今床聞かせお、ず蚀った。今床、ず蚀われた。今床がい぀なのかは決たっおいない。決たっおいない期限ずいうのは、わたしにずっおはいちばん扱いやすい。

 郚屋に垰っお、机の䞊の青いゞャケットを立おた。䞃月に千八癟円で買っお、䞀床も鳎らしおいない。鳎らす道具がないからだ。商店街のレコヌド店の、緑色のコヌトの人は、この盀を十幎壁に掛けお、䞀床も鳎らさなかった。道具は店にある。毎日䜿っおいる。それでも鳎らさなかった。

 わたしのは、道具がない。同じ壁に立おかけられた二枚の板が、片方は道具があっお鳎らされず、片方は道具がなくお鳎らせない。䌌おいるようで、たったく違うず思う。䌌おいるず思いたいだけだず思う。

 八月八日の閉架のシフトのあずで、わたしは通垳を出した。五䞇䞀千円あった。䞀䞇二千円のプレヌダヌず䞉千円の針で、残りは䞉千四癟円になる。蚈算を䞉床やり盎しお、䞉床ずも同じ数字になった。

 刀断の材料はもう出そろっおいる。出そろっおいるのに決められないずきは、材料の問題ではない。八月九日の午埌、商店街のレコヌド店に入った。鈎が鳎った。緑色のコヌトの人はカりンタヌの内偎にいた。壁は癜いたただった。䞉十䞀センチの四角は、二週間前ず同じ䜍眮にある。

 「機械を、芋せおください」

 その人は垃を眮いた。

 「かける機械ですね」

 「秋ず蚀っおいたしたね」

 「八月になりたした」

 その人は少しだけ口の圢を倉えた。笑ったのだず思う。この人が笑うずころを、わたしは初めお芋た。二台あった。奥の棚の䞋に眮いおあっお、䞡方ずも埃よけの垃が掛かっおいた。

 䞀台目は朚の箱に入った倧きいもので、蓋を開けるず䞭にタヌンテヌブルずスピヌカヌが䞡方入っおいる。倀段は䞀䞇二千円。二台目は薄くお平たくお、スピヌカヌが別に芁る。こちらは八千円だった。

 「䞋宿ですか」

 「はい」

 「壁は薄いですか」

 「薄いです」

 「では、こちらのほうがいいです」

 その人は䞀台目を指した。

 「音が䞋向きに出たす。箱の䞭で鳎るので、隣に届きにくい。それに、これは別売りのものを揃えなくおいい」

 「䞀䞇二千円ですね」

 「針が芁りたす。この型はただ手に入りたす。䞉千円です」

 「合わせお䞀䞇五千円です」

 「そうなりたす」

 わたしは財垃を出した。出しおから、䞀床、手が止たった。

 䞀䞇五千円ずいうのは、わたしがこれたで䞀床に払ったこずのある金額のなかで、いちばん倧きい。教科曞は二千円くらいだ。アむロンは母が買っおくれた。この郚屋にあるもので䞀䞇五千円を超えおいるものは、たぶんひず぀もない。

 止たったのは、金額のせいだった。金額のせいだず思っおおくほうが、たぶん簡単だ。わたしは䞀䞇五千円を出した。その人はレゞを打っお、それから、針を箱から出しお、その堎で぀けおくれた。现いドラむバヌを䜿っお、二十秒くらいで終わった。手の動きは速くなかった。速くないのに、迷いがなかった。

 「重いですよ」

 「持おたすか」

 「持おたす」

 箱は思っおいたより重かった。䞡手で抱えお、店の倖に出た。商店街を抜けお、坂を䞊っお、䞋宿の階段を䞊がった。䞉回、途䞭で䞋ろした。䞉回ずも、䞋ろしおから、たた持ち䞊げた。郚屋に眮いたのが、四時四十分だった。コンセントに差した。

 説明曞はなかった。䞭叀なので、そういうものは぀いおこない。回転数の切り替えは前の面に䞞い摘みがあっお、䞉十䞉ず四十五ず曞いおある。䞉十䞉に合わせた。ゞャケットから内袋を抜いお、内袋から盀を出した。指は瞁ずレヌベルにしか觊れない。あの店で緑色のコヌトの人がそうしおいたので、そうした。

 茉せた。䞭心の穎が軞に萜ちお、小さい音がした。アヌムを持ち䞊げた。持ち䞊げたずころで、わたしは䞀床、手を止めた。止めた理由は、自分でもよくわからなかった。

 あの店で䞀床聎いおいる。二分四十秒の、ふ぀うの曲だった。䞭身は知っおいる。知っおいるものを、自分の郚屋で、自分の機械で、自分の手で鳎らす。それだけのこずだ。それだけのこずが、この二十幎、ほずんどなかったのだず思う。

 人に出しおもらったものを受け取るこずはあった。人が鳎らしたものを聎くこずもあった。自分で買っお、自分で運んで、自分で針を぀けお、自分の手で萜ずすずいうのは、たぶん初めおだ。わたしは針を萜ずした。じり、ずいう音がしお、それから溝の音になった。

 ギタヌが䞀本入っお、ベヌスが遅れお入っお、䞉小節目でドラムが来る。歌が入る。女の声で、䜎くはなくお、うたくもない。たっすぐ出しおいるだけの声で、䌞ばすずころで少し揺れる。わたしは机の前に座っお、それを最埌たで聎いた。二分四十秒だった。針が内呚に入っお、アヌムが䞊がっお、機械の䞭でかちりず音がした。

 郚屋には、䞋の道を通る自転車の音が残った。わたしはもう䞀床、針を萜ずした。二床目は、机の䞊に右手を眮いおいた。人差し指の先が動いおいた。動かそうず思っお動かしたのではない。気が぀いたずきには動いおいた。二拍で䞀回だった。

 わたしはそれを、しばらく芋おいた。自分の指が自分の意思ず関係なく動いおいるのを芋るずいうのは、あたり気持ちのいいものではない。ないのだが、そのずきは、そうでもなかった。八月十䞀日に、郚宀ぞ持っおいった。

 プレヌダヌは重い。持っお坂を䞋りるのは無理なので、盀だけを鞄に入れお、機械は北原さんが自転車で運んでくれた。喫茶店の裏に眮いおある業務甚の自転車で、前の籠が倧きい。

 郚宀で映写機を掛けた。窓に段ボヌルを嵌めお、郚屋を暗くした。壁に四角い光が出た。六月十八日の亀差点が出おきた。西日が暪から来おいお、癜い瞞の䞊を光が走っおいる。人が䞉十人ばかり枡っおいく。いちばん手前にひずり、動かない人がいる。

 䜐䌯さんが、いた、ず蚀った。わたしは針を萜ずした。じり、ずいう音が鳎っお、それからギタヌが入った。壁の䞭で、人が枡っおいた。わたしは腕時蚈を芋おいた。倧家さんに借りた、文字盀の黄色くなった時蚈だ。秒針が動いおいる。

 数えた。

 曲の䞀小節は四拍で、四拍がだいたい二秒だった。人が暪断歩道を枡りきるのに、十䞀秒かかっおいた。五小節半だ。いちばん手前の人が動き出すたでが、二拍だった。わたしは、そこでもう䞀床、数え盎した。

 青になっおから、その人の足が動くたで。曲でいうず、䞀小節の前半の二拍ぶん。時間でいうず、䞀秒ず少し。合っおいた。わたしは合っおいる、ずいう蚀葉を、頭の䞭でいったん止めた。

 合っおいるずいうのは、曲の速さず、あの四十秒の䞭の人の動きの速さが、同じ物差しに乗るずいうこずだ。速すぎれば党員が走っおいるように芋え、遅すぎれば氎の䞭を歩いおいるように芋える。䜐䌯さんはそう蚀った。

 この曲は、どちらでもなかった。人が枡りきるのに五小節半かかる。歌が入るのは、いちばん手前の人が歩き出したあずだ。曲が終わるのは、四十秒が終わったあずになる。二分四十秒のほうが長いので、映像だけが先に終わる。

 「合っおる」

 䜐䌯さんが蚀った。

 「はい」

 「なんでこれなの」

 わたしは針を䞊げた。郚屋が静かになった。壁には四角い癜い光が出おいた。

 「商店街のレコヌド店に、掛かっおたした」

 「壁の?」

 「はい。倀札が぀いおいなくお、非売品ですず蚀われたした」

 「じゃあ、これは」

 「同じものを、泚文しお取り寄せたした」

 䜐䌯さんはしばらく䜕も蚀わなかった。段ボヌルを䞀枚倖しお、倕方の光が入っおきた。郚屋の䞭のものの茪郭が戻った。

 「なんで取り寄せたの」

 「わからないです」

 「わからない」

 「はい。蚊かれたずきに、あの店の人にも、わからないですず答えたした」

 䜐䌯さんは笑わなかった。

 「䜿わせおもらえるかな」

 「はい」

 「じゃあ、頭の四十秒はこれでいく」

 その倜、郚屋に垰っお、䟿箋を出した。父ぞの返事だ。䞃月に䞀床出しお、曞かずにしたった。わたしは䞉行曞いた。九月に垰りたす。日はたた連絡したす。元気にしおいたす。

 䞉行目を曞くのに、䞀行目ず二行目の倍の時間がかかった。元気にしおいたす、ずいうのは、事実ずしお正しいのかどうかがよくわからない。ただ、この䞉文字を曞かない手玙を父に出すず、父はたぶん心配する。心配させないために事実でないこずを曞くのは、嘘の䞀皮だず思う。

 嘘は速い。盞倉わらず、そこだけは半拍も遅れない。封をしお、切手を貌った。机の右の端に眮いた。巊の端には、レンズの蓋がある。真ん䞭には、いた、プレヌダヌの䞊に茉ったたたの青い盀がある。

 明日の朝、郵䟿局に持っおいく。持っおいけば、九月に垰るこずになる。垰れば、話を聞くこずになる。聞けば、䜕かを決めるこずになる。十月四日には、ただ間がある。

第二十六章 終わりがない

 八月の郚宀ずいうのは、映画を䜜るのにいちばん向いおいない堎所だ。僕は八月のあいだ、その郚屋でだいたい二癟時間を過ごした。組み䞊がっおいく順番は、こうだった。頭に六月十八日の亀差点の四十秒。人が䞉十人ばかり癜い瞞の䞊を流れお、いちばん手前のひずりだけが二歩遅れお動きはじめる。

 そのあずにタむトル。

 それから、街のいろいろな四十秒が続く。レコヌド屋の棚の札ず床の板目ず、緑色のコヌトの男の手。駅の階段を䞊がる人の脚。倉庫街の壁のひびの圱。喫茶店の鉄の階段の䞉段目ず䞃段目。北原がビヌルケヌスの䞊に立っお動かない十八秒。

 真ん䞭に、須磚の四分が入る。防波堀を端から端たで歩く男が、䞉分十二秒のずころで別の日の同じ男に倉わる。海の色が倉わっお、光の角床が䞋がっお、そこから音が生えおくる。そのあずが、ただない。

 僕はそのこずを、八月のあいだじゅう、郚宀の壁の癜い光を芋ながら考えおいた。空のリヌルを回すず、ぱたぱたずいう音がしお、四角い光が壁に出る。あれは䜕も写っおいない光ではない。䜕も写さないず決めた人間がいないずいうだけの光だ。

 蓮に芋せたのは、八月十九日だった。

 倜の八時に来るず蚀っお、八時二分に来た。予備校の倜間が終わっおからだ。赀い問題集を鞄に入れたたた来お、郚宀の窓際の怅子ではなく、郚屋の真ん䞭の怅子に座った。あの窓際の怅子に蓮が座らなかったのは、僕の蚘憶にあるかぎり初めおだった。

 僕は段ボヌルを嵌めお、映写機を掛けた。亀差点の四十秒が出た。蓮は䜕も蚀わなかった。街の四十秒がいく぀か続いお、北原の十八秒が出お、それから須磚が出た。去幎の八月の海は癜く飛んでいる。半袖のシャツの男が巊から入っおきお、防波堀の真ん䞭をきっちり歩く。䞉分十二秒のずころで、海の色が濃くなる。

 蓮は座ったたた、少し前に身䜓を倒した。

 「倉わった」

 「倉わった」

 「いた、倉わったな」

 「うん」

 圌は画面を芋おいた。壁の光が顔に圓たっおいお、その顔の䞊を、歩いおいく自分の圱が暪切っおいた。六月の蓮のほうが痩せおいる。これは線集台では芋えない。手回しでコマを送っおいるずき、人の顔はただの暡様に芋える。動いお初めお出おくる。

 四分の終わりで、圌は振り返っお、ちゃんず撮れよ、ず蚀った。颚の音がしお、そのあず十秒、防波堀の䞊に立っおこちらを芋おいた。僕はスむッチを切った。段ボヌルを䞀枚倖した。郚屋の䞭のものの茪郭が戻った。蓮はしばらく黙っおいた。

 「穎、どこ行った」

 「繋ぎ目にした」

 「切ったんか」

 「切った。切ったや぀は、ケヌスの内偎に貌っおある」

 僕はフィルムケヌスを取っお、蓋の裏を芋せた。透明のテヌプの䞋に、爪の先より小さい䞀コマが貌っおある。茶色い瞁のある癜い穎が、その真ん䞭にある。蓮はそれを、しばらく芋おいた。

 「なあ航」

 「これ、俺、消えおぞんな」

 「消えおない」

 「去幎のや぀、消しおくれお蚀うたやんか。捚おおええでっお」

 「蚀った」

 「消えおぞんやんけ」

 「消しおない」

 「消しおほしかったんやず思おた」

 「うん」

 「ちゃうかったんやな」

 「たぶん」

 「䞊曞きしたら消えるず思おたんやけど、䞊曞きおな、䞋のや぀が残っおるから䞊曞きっお蚀うねんな」

 僕は䜕も蚀わなかった。この埓兄匟は、ずきどきこういうこずを、こちらが䜕かを蚀う前に自分で蚀っおしたう。筋が通りすぎおいるせいで、どこで曲がるべきだったのかが誰にもわからなくなる男だが、今回に関しおは、通った先が悪い堎所ではなかった。

 「あの穎な」

 「あれ、俺があけたんやろ」

 「ランプが焌いた。きみは寝おた」

 「同じこずやろ」

 圌は笑った。笑い方は速かった。

 「たあええわ。繋いだんやったら、それでええ」

 北原に芋せたのは、その䞉日あずだ。圌女は喫茶店の遅番のあずに来た。゚プロンを鞄に抌し蟌んで、髪をうしろで結んだたたで、郚屋に入るなり暑いず蚀った。実際に暑かった。僕は同じものを回した。圌女は最埌たで䞀床も口をきかなかった。終わっお、僕が段ボヌルを倖すず、圌女はしばらく怅子に座ったたただった。

 「うち、二本目や」

 「二本目?」

 「完成品。六぀のずきの十五秒から数えお、二本目」

 「ただ完成しおない。終わりがないんだ」

 「そんなん知らんよ。うちは、芋た」

 圌女は怅子から立っお、鞄を持った。

 「あんな、うちの十五秒はな、うちが決めたもんちゃうねん。六぀のずきに、倧人が卵持たせお走らせただけや。あれが十䞉幎間流れおお、いたでもたたに近所のおばちゃんに、あんたあの子やろ、お蚀われる」

 「うん」

 「今日のは、うちが立っおた。動くな蚀われお、立っおた。あれは、うちが決めた」

 圌女はドアのずころで䞀床止たった。

 「終わり、ただないんやろ」

 「ない」

 「十月四日やで」

 「わかっおる」

 「わかっおぞんやろ」

 この䞀週間で、僕は二人の人間から同じ台詞を蚀われたこずになる。血の぀ながっおいる人間ず぀ながっおいない人間の䞡方から同じこずを蚀われるずいうのは、たぶん、そこそこ客芳的な指摘だずいうこずだ。

 終わりがない、ずいうのは、比喩ではなくお技術的な事実だった。

 映画には最埌のカットが芁る。そこで終わる、ず芳おいる人にわかるカットだ。誰かが去っおいくずか、扉が閉たるずか、光が消えるずか、方法はいくらでもある。いくらでもあるので、逆に遞べない。

 僕は八月の終わりに、実家ぞ垰った。倜に抌し入れの䞊の段を開けた。アルバムが二十冊ある。いちばん右の䞀冊を出した。父が撮るのをやめた幎のものだ。同じ堎所の川面が四十枚䞊んでいる。

 家の近くの橋の、同じ䜍眮から撮った氎面だ。日付は違う。季節も違う。同じ角床で、同じ画角で、氎だけが写っおいる。人も家も欄干も入っおいない。僕は䞀枚ず぀めくった。䞉十六枚目あたりで、光の入り方が少し倉わった。䞉十九枚目で、氎面に䜕か写り蟌んでいた。橋の欄干の圱だ。四十枚目には、それがない。

 四十䞀枚目は、なかった。台玙は二十頁ぶん残っおいお、党郚空だった。

 撮る人間がだんだん狭いずころに入っおいっお、最埌に氎面だけになっお、それから撮らなくなる。そう思っお、僕はこの四十枚を䜕床も芋おきた。順番はわかるが、その順番の䞭にいた人が䜕を考えおいたのかは、写っおいない。

 その倜、僕は初めお、四十䞀枚目のこずを考えた。

 父はあの日、四十枚目を撮っお垰っおきお、その次の䌑みの日に、撮りに行かなかった。行かないず決めた日があったはずだ。決めた日には䜕も残らない。決めなかったこずのほうが蚘録に残らないずいう点で、写真は䞍䟿にできおいる。

 あのアルバムに足りないのは、最埌の䞀枚ではない。やめるず決めた日の䞀枚だ。朝の電車で街に戻りながら、僕は自分の映画のこずを考えおいた。あれには終わりがない。終わりがないのは、僕が終わりを撮っおいないからだ。撮っおいないのは、撮るべきものがただ起きおいないからで、起きおいないものは撮れない。

 九月䞀日に、長谷川さんが蚀った。郚宀で、圌女は線集台のハンドルを回しおコマを数えおいた。誰にも頌たれおいないのに、圌女は党郚のカットの実枬をやっおいる。ノヌトの数字は、僕の蚘憶よりい぀も正確だ。

 「九月の半ばに、実家に垰りたす」

 僕は接着剀の瓶の蓋を閉めた。

 「どのくらい」

 「䞉日か、四日です」

 「そうか」

 「父の店が、来幎の䞉月でなくなるので」

 僕はその情報を受け取っお、しばらくどこに眮けばいいのかわからなかった。人が自分の家の話をするずいうのは、この人の堎合、かなり倧きなこずだ。八月のあいだ、僕はこの人ず二癟時間近く同じ郚屋にいお、家の話は䞀床も出なかった。

 「䜕屋さん」

 「時蚈屋です」

 僕は線集台の䞊の圌女の手を芋た。ハンドルを回しおいる手だ。回す速さが䞀定で、その速さは僕が回すずきよりずっず安定しおいる。

 「秒針のある時蚈を借りおるっお蚀っおたね」

 「倧家さんのです。うちのではないです」

 「そうか」

 圌女はコマを数え終えお、数字をノヌトに曞いた。曞き終えお、顔を䞊げた。

 「終わりは、決たりたしたか」

 「決たっおない」

 「そうですか」

 僕はそこで、蚀おうずした。最埌にきみを撮らせおほしい、ず。あの四十秒が頭にあっお、真ん䞭に須磚があっお、最埌にもう䞀床きみがいれば、この映画は閉じる。閉じるこずが正しいのかどうかはわからない。ただ、圢ずしおはそこで閉じる。

 圌女は䞃月に、写るのがいやですず蚀った。理由はうたく蚀えないず蚀った。そのあずで、六月に撮ったものは䜿っおくださいず蚀った。切らないでください、ずも蚀った。

 この二぀は矛盟しおいない。矛盟しおいないこずは僕にもわかる。わかるからこそ、いた同じこずをもう䞀床頌むのが、どういう性質の頌み方になるのかもわかる。僕は接着剀の瓶を棚に戻した。

 「気を぀けお垰っおきお」

 ず、僕は蚀った。蚀っおから、これはいた蚀う぀もりだった台詞ではない、ず思った。圌女は、はい、ず蚀っお、ノヌトを閉じた。

第二十䞃章 癜い四角

 八月䞉日にもう䞀床行った。

 二床目は勝手が違う。切笊の買い方も、乗り換えの階段の䜍眮も、バス停の灰皿の堎所も知っおいる。知っおいるず、道䞭に考えるこずが枛る。枛ったぶん、私は車内でずっず窓の倖を芋おいた。田の色は䞃月より濃くなっおいた。

 持っおいったものは䜕もなかった。

 持っおいくものがないずいうのは、䞃月に二぀ずも眮いおきたからだ。手ぶらで人を蚪ねるのが正しいのかどうかを、私は駅の売店の前で䞉分ほど考えた。菓子の箱がいく぀も積んであった。結局買わなかった。買えば、次は䜕を買うかを毎回考えるこずになる。

 受付の女の人は、前ず同じ人だった。甚玙を出されお、続柄の欄に知人ず曞いた。二床目は䞀秒で曞けた。面䌚宀は同じ郚屋だった。机の右手前の䞞い焊げ跡も、造花も、金網も同じだ。壁の時蚈の秒針は音を立おずに動いおいた。

 圌女は前より少し早く入っおきた。抌し車の進み方が、䞃月より速かった。

 「暑いのに、ようここたで来るな」

 「電車は涌しいです」

 「バス、あれ冷房぀いおぞんやろ」

 「぀いおないです」

 「ほら芋い」

 圌女は笑っお、怅子に座った。座り方は前ず同じで、右手が先に机に着いお、巊手が少し遅れた。

 「日曜な、かけおもろた」

 私は顔を䞊げた。

 「談話宀ですか」

 「そう。あそこ、日曜の二時からレコヌドの時間があんねん。幎寄りが十人くらい来お、みんな挔歌かかるず思お座っおんねん」

 「そこに」

 「うちのを出しおん。看護婊さんに頌んで」

 圌女は机の䞊で䞡手を組んだ。組むのに、前より手間取っおいなかった。日によっお違うのだず思う。

 「どうでしたか」

 「ふ぀うやったわ」

 私は、はい、ず蚀った。

 「ふ぀うの曲やった。二分四十秒くらいやろ。前奏があっお、歌が入っお、ちょっず䌞ばすずこがあっお、終わり」

 「そうです」

 「あんた、あれ、聎いたこずあったん」

 「䞃月に、店で聎きたした」

 「十幎、聎いおぞんかったん」

 「聎いおいたせん」

 圌女は少し銖を傟げた。

 「なんで」

 「枡すためのものだったので、自分で鳎らすのは、順番が違う気がしおいたした」

 「あんた、そういうずこあるよな」

 「そうかもしれたせん」

 「あんな、聎いおみたらな、なんちゅうこずない曲やねん。ええ曲やけど、なんちゅうこずない。うちらが聎いたずきも、たぶん、なんちゅうこずなかったず思う」

 「たぶん」

 「癜鳥のミルクセヌキのほうが、よう芚えおる」

 圌女は右手で机の䞊を軜く撫でた。撫でたのは意味のある動䜜ではなくお、倩板の質を確かめるような動きだった。

 「幎寄りらは、ぜかんずしおたわ。挔歌ちゃうからな」

 「怒られたしたか」

 「怒られぞん。誰も䜕も蚀わぞん。ここの人らは、人のもんに文句蚀わぞんねん。蚀うだけの元気があったら、たぶんここにおらんし」

 䞉時十分前に、看護の人が立ち䞊がった。圌女は、次はい぀、ず蚊いた。

 「改修が終わっおからになりたす」

 「そうやったな。九月いっぱいお聞いた」

 「十月の頭に来たす」

 「十月」

 圌女は少し考えるような顔をした。

 「十月お、遠いな」

 私は䜕も蚀えなかった。二か月ずいうのは、十幎埅った人間が蚀葉にするには短すぎる長さだった。短すぎるのに、この郚屋で蚀うず、長かった。

 「そのうち、はやめおっお蚀うたやろ」

 「日を決めたす。十月の第䞀週の土曜に来たす」

 「日を決めたな」

 「決めたした」

 圌女は笑った。口の右偎が先に䞊がった。私は立ち䞊がっお、扉のほうぞ歩いた。振り返るず、圌女は机の䞊で右手の人差し指を動かしおいた。二拍で䞀回だ。合わせお数えた。前より、たた少し遅かった。八月の半ばから、面䌚はできなくなった。

 斜蚭の東偎の棟を改修しお、面䌚宀も䜿えなくなる。九月いっぱいかかるずいう話だった。手玙は届くず蚀われたので、私は月に二床曞いた。曞くこずがなかった。

 曞くこずがないずいうのは、この十幎、私の生掻に出来事がなかったからだ。盀を掗い、也かし、倀札を貌り、棚に入れる。買い取りに行き、角を芋る。それを䞀日に䜕回か繰り返す。手玙にするず䞉行で終わる。

 䞉行で終わる手玙を、私は四行にしお出した。四行目には、こちらは倉わりありたせん、ず曞いた。曞いおから、十䞀幎前に机の抜斗に入れた䞉枚目の䟿箋のこずを思い出した。あれにも同じこずが曞いおあった。こちらは䜕も倉わりたせん、ず。

 同じ文を、私は十䞀幎ぶりに曞いた。違うのは、今床は出したずいうこずだけだ。壁の癜い四角は、そのたたにしおあった。客はずきどきそれを芋る。芋お、䜕も蚀わない人が倚い。二人だけ、あれは䜕ですかず蚊いた。私は、前に䜕か掛けおいたんです、ず答えた。それ以䞊は蚊かれなかった。

 䞉十䞀センチの四角ずいうのは、店の壁ずしおは䞭途半端な倧きさだ。ポスタヌを貌れば隠れる。カレンダヌでも隠れる。棚をひず぀増やしお正面をふさぐこずもできる。私は䜕もしなかった。

 隠せば、そこに䜕かがあったこずがわからなくなる。䜕かがあったこずがわかるたたにしおおきたいのかずいうず、そういう気持ちでもない。ただ、決めおいないだけだ。決めおいないこずを、私は䞃幎も十幎も攟っおおける。それは自分の埗意な皮類の䜜業だった。

 九月十䞀日に、斜蚭から封筒が来た。開けるず、䟿箋が䞀枚だった。党郚が同じ字だった。たっすぐ立っおいる字で、右に倒れおいない。䞃月の䟿箋で四行目の途䞭から曞いおいた人の字だ。今床は䞀行目からその字だった。

 曞いおあったのは、改修の進み具合ず、面䌚の再開が十月䞀日になるこず。それから、ご本人はお倉わりなくお過ごしです、ずいうこず。最埌に䞀行あった。ご本人よりお䌝えするようにず申し぀かりたした。日曜のレコヌドの時間は、来週から堎所が倉わるそうです、ず。

 私はその䞀行を、䞉床読んだ。䌝蚀だ。

 䌝蚀ずいうのは、本人が曞けないずきに䜿う方法だ。曞ける人は曞く。曞ける人が䌝蚀を頌むずいうこずは、たずない。䟿箋の䞋のほうに、名前の眲名があった。䞃月ず同じ名前だった。この人が、いた、あの人の手の代わりをしおいる。

 私は封筒を抜斗に入れた。抜斗の䞭には、五月ず六月ず䞃月の封筒ず、期限の切れた切笊が䞀枚ず、十䞀幎前のカレヌの手玙が入っおいる。九月十四日の倕方に、あの男の子が店に来た。

 鈎が鳎っお、速い足で入っおきお、棚のあいだで䞀床止たっお、それからカりンタヌの前に来た。この子はい぀も店の䞭でいちばん短い経路を歩く。

 「こんにちは」

 「いらっしゃい」

 「あの」

 圌は壁のほうを芋た。

 「壁の、あれ」

 「なくなっおたすね」

 「なくなりたした」

 私は垃を畳んだ。四぀折りにしお、角を揃えお、カりンタヌの端に眮いた。

 「売ったんですか」

 「売っおいたせん」

 「じゃあ」

 「枡しおきたした」

 圌は少しのあいだ黙った。それから、そうですか、ず蚀った。

 この子は速い。蚊きたいこずを蚊くたでの時間がずにかく短い。六月に初めお入っおきたずきも、䞉分で、なぜ持っおいるんですかず蚊いた。あれは私が䞃幎のあいだ誰にも蚊かれなかった質問だった。

 「枡すのに、どのくらいかかったんですか」

 やはり蚊いた。私はカりンタヌの䞊を芋た。䜕もなかった。垳面ず、ボヌルペンず、四぀折りの垃があった。

 「十䞀幎です」

 「十䞀幎」

 「十幎ではないんです。八時間埅った日から数えれば十幎ですが、行くか行かないかを蚊かれた日から数えるず、十䞀幎になりたす」

 圌は䜕も蚀わなかった。私はそのずき、この子に䜕かを教える぀もりはたったくなかった。教える立堎にない。十䞀幎かけお䞉時間半の堎所ぞ行った人間が、二十歳の人間に蚀えるこずは䜕もない。

 ただ、六月に蚊かれお答えなかったこずが、ただこちらに残っおいた。残っおいるものは、盞手が同じ人間であるうちに枡しおおくのがいい。盀でも、本でも、それは同じだず思う。

 「六月に、なぜ持っおいるんですかず蚊かれたした」

 「蚊きたした」

 「いい質問ですね、ず答えお、それきりにしたした」

 「芚えおたす」

 「答えは、枡す盞手が芋぀からなかったからではないんです」

 圌はこちらを芋おいた。

 「盞手はずっず同じ人でした。䜏所がわからなかった時期もありたすが、それは五幎ほどです。あずの八幎は、探そうず思えば探せたした。探したせんでした」

 「なんでですか」

 「枡しおしたうず、埅぀理由がなくなるからです」

 私は自分でその文を蚀っお、少し驚いた。声に出すのは初めおだった。頭の䞭では䜕床も出おきおいた文だが、頭の䞭の文ずいうのは、声に出すず長さが倉わる。思っおいたより短かった。

 「埅っおいるあいだは、ただ途䞭です。途䞭のものは、倱敗ではない」

 圌は棚のほうを䞀床芋お、それからたた壁を芋た。

 「終わらせないず、倱敗にならないですね」

 「そうです」

 「僕、いたそれをやっおたす」

 「映画ですか」

 「終わりが撮れないんです。十月四日に䞊映するのに」

 私は垳面を閉じた。

 「どこが足りないんですか」

 「最埌の䞀カットです。撮れば終わりたす。撮れないんじゃなくお、撮っおいいのかがわからない」

 「撮る盞手がいるんですね」

 圌は答えなかった。答えなかったのは、たぶん、答えになるからだ。私はカりンタヌの䞋から玙の袋を出した。出したのは癖で、この子は今日は䜕も買っおいない。袋を戻しお、私は蚀った。

 「蚊けばいいず思いたす」

 「断られたら」

 「断られたす」

 圌は少し笑った。

 「はっきり蚀いたすね」

 「私は八時間埅っお、そのあず十幎、䞀床も蚊きたせんでした。蚊かなければ断られたせん。断られない代わりに、こちらの壁には十幎、四角い跡が残りたす」

 私は癜い四角のほうを指した。

 「跡は、物がなくなっおから芋えるようになりたす」

 圌は壁を芋おいた。鈎が鳎っお、別の客が入っおきた。若い倫婊で、挔歌の棚のほうぞ行った。圌は、ありがずうございたした、ず蚀っお、出おいった。速い足で出おいった。匕き戞が閉たっお、倖の音が切れた。

 私は垃を取っお、たた盀を拭きはじめた。溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。

第二十八章 四十秒遅れる

 九月十五日の朝、六時二十分の電車に乗った。実家たでは乗り継ぎが二回ある。ここから二時間、乗り換えお特急で二時間半、そこから単線に乗り換えお䞀時間。党郚で五時間半かかる。着くのは昌を過ぎる。

 日垰りはできない。

 できないこずを、わたしは受隓のずきに調べた。調べたうえで、この街の倧孊を遞んだ。理由を人に説明したこずはない。父にも母にも蚀っおいない。合栌したずきに母が、遠いなあ、ず蚀った。わたしは、うん、ず蚀った。

 二泊する。䞉日目の朝に出お、倜に䞋宿ぞ戻る。

 窓の倖を芋おいた。海が芋えお、それから芋えなくなった。田が増えた。九月の田は色が倉わりはじめおいる。倏の緑が黄色に寄っおいく途䞭の色だ。あの色に名前があるのかどうかをわたしは知らない。

 商店街は駅から歩いお䞃分だ。アヌケヌドはない。䞡偎に店が䞊んでいお、そのうち䞉軒はシャッタヌが䞋りおいる。䞉軒ずも、わたしが高校のずきにはただ開いおいた。米屋ず、掋品店ず、写真屋だ。

 写真屋のシャッタヌには、ただ看板が残っおいる。フィルムの珟像、ず曞いおある。いちばん端が、うちだ。匕き戞を開けた。鈎はない。うちの店には鈎がない。

 「ただいた」

 「おう」

 父は奥の䜜業台にいた。背䞭を向けたたた、返事だけした。䜜業堎には柱時蚈が䞃぀掛かっおいる。䞃぀ずも、少しず぀違う時刻を指しおいる。

 いちばん巊のが、䞀日に四十秒遅れる時蚈だ。八角圢の朚の枠で、䞋のガラス扉の䞭を振り子が動いおいる。振り子の䞋の䞞い郚分は真鍮で、磚いおあるずころず磚いおいないずころの色が違う。

 わたしは荷物を眮いお、その前に立った。柱の時蚈ず、自分の腕の時蚈を芋比べた。腕のは倧家さんに借りたや぀で、これは毎朝ラゞオで合わせおいる。柱のほうは、四分二十秒遅れおいた。六日ず半分ぶんだ。

 「合わせおぞんやろ」

 父が背䞭で蚀った。

 「合わせおないね」

 「先月合わせた。それでそんだけや」

 「䞉十幎、倉わらないの」

 「倉わらん」

 父はルヌペを目に圓おおいた。ルヌペずいうのは片目に挟んで固定するもので、぀けるず顔の巊半分だけが劙に倧きく芋える。䜜業台の䞊に、癜い玙が敷いおある。その䞊に、现かい郚品が䞊んでいた。

 歯車が䞉぀ずぜんたいず、名前のわからないものがいく぀か。党郚で二十くらいある。父はピンセットでそのうちの䞀぀を぀たんで、時蚈の䞭に入れようずしおいた。入らなかった。二床やっお、二床ずも䜍眮が合わなかった。䞉床目でようやく入った。わたしはそれを、埌ろから芋おいた。

 倕方に、店を閉めおから話をした。

 「䞉月でたたむ」

 「手玙に曞いおあった」

 「そうか」

 父は湯呑みを持っお、飲たずに眮いた。

 「土地は貞す。盞手はもう決たっずる。うどん屋になるらしい」

 「うどん屋」

 「この商店街に、うどん屋がないからな」

 わたしは、そう、ず蚀った。

 「なんで、たたむの」

 父はしばらく黙っおいた。それから、右手を出しお、指の先を芋た。

 「芋えん」

 「目」

 「ルヌペ入れおも、芋えんようになった。二幎前からや」

 わたしは䜕も蚀わなかった。

 「テンプの穎石な。あれが盎埄で〇・䞀ミリない。あれを入れるのに、去幎たでは䞀発やった。いたは䞉回か四回かかる。四回かかるようになったら、それはもう仕事ずちがう」

 「病気じゃないの」

 「病気ずちゃう。幎や」

 父は湯呑みを持ち盎した。

 「病気やったら治す。幎は治らん。治らんもんは、たたむ」

 襖の向こうで、氎を止める音がした。

 「お前、来幎で卒業か」

 「再来幎」

 「そうか」

 「うん」

 「垰っおこいずは蚀わん」

 わたしは父の顔を芋た。父はこちらを芋おいなかった。䜜業台のほうを芋おいた。

 「うちは、時蚈屋や。時蚈屋を継げず蚀うおも、店がないんやから継ぐもんがない。せやから、それは蚀わん」

 「そのかわり、ひず぀持っお垰れ」

 「䜕を」

 「店のもんや。どれでもええ。売れるもんは売る。売れんもんは捚おる。捚おる前に、お前がひず぀遞べ」

 わたしは、はい、ず蚀った。その倜、店に降りおいった。わたしは䜜業堎に立った。柱時蚈が䞃぀、少しず぀違う時刻を指しおいる。いちばん巊の前に立った。

 振り子が動いおいた。巊に行っお右に行っお、たた巊に行く。䞀埀埩の音が、この郚屋の䞭でいちばん倧きい音だった。この時蚈は、䞉十幎前からずっず、䞀日に四十秒遅れる。

 䞀日に四十秒なら、䞀週間で四分四十秒だ。䞀か月で二十分になる。䞀幎で四時間になる。䞉十幎で五日ぶん遅れる。合わせなければ、五日ぶんうしろにいる。合わせおも、たた同じだけ遅れおいく。

 わたしはこの時蚈を、八歳か九歳のずきからずっず芋おいる。芋おいるあいだ、自分のこずだず思っおいた。思っおいお、二十歳になっお、ちがうず気づいた。この時蚈の遅れ方は䞀定で、わたしの遅れ方は䞀定ではない。四十秒のずきもあるし、䞀か月ず五日のずきもある。

 翌朝、父に蚀った。

 「あれがいい」

 父は䜜業台にいた。振り返っお、わたしが指したほうを芋た。

 「あの八角のか」

 「うん」

 「あれは売れんぞ」

 「知っおる」

 「持っお垰れるか」

 わたしは柱時蚈を芋た。八角圢の枠は、䞡手を広げたくらいの幅がある。特急の網棚に茉る倧きさではないし、乗り換えが二回ある。

 「無理やな」

 「無理」

 「送ったる」

 父は䜜業台の䞋から叀い毛垃を出した。䜕かを包むためにそこに眮いおあるものだ。

 「朚箱に入れお、綿ず新聞詰める。振り子は倖しお別に包む。着いたら、お前が掛けお、振り子を戻しお、ぜんたい巻け」

 「できるかな」

 「できる。掛けお、䞋の穎に匕っかけるだけや」

 父はぜんたいを巻く真鍮の小さい鍵を、わたしの手のひらに茉せた。茉せおから、手を離すのに䞀拍あった。

 「巻くのを忘れたら止たる。止たったらたた合わせお、たた巻け」

 「うん」

 父はその鍵を眮いおから、しばらく手を動かさなかった。

 「お前な」

 「なに」

 「小さいずきから遅かったな」

 わたしは父を芋た。

 「返事も遅い。歩くのも遅い。孊校でも、なんべんも蚀われたやろ」

 「蚀われた」

 「あれな、俺は気にしおぞんかった」

 父は䜜業台の䞊の玙を、指で䞀床平らにした。

 「遅い時蚈は、盎さんでええねん。狂う時蚈は盎す。遅い時蚈ず狂う時蚈はちがう」

 それだけ蚀っお、父はルヌペをたた目に圓おた。

 「ほら、行き。電車に乗り遅れるで」

 母は駅たで送っおきた。歩きながら、母は近所の話をした。䞉軒隣の子が結婚した話ず、写真屋がやめた理由ず、米屋の跡地に自動販売機が䞉台䞊んだ話だ。改札の前で、母が蚀った。

 「お父さん、あんたが遞んだや぀な」

 「あれ、お母さんが嫁に来たずきにもう掛かっおたわ」

 「そうなん」

 「そう。あのころからもう遅れずった」

 母は笑っお、それから、気ぃ぀けお、ず蚀った。垰りの電車は空いおいた。わたしは窓際に座った。五時間半かけお戻る。行きず同じ道を、逆にたどるだけだ。窓の倖を、田が流れおいった。わたしは鞄の内ポケットに手を入れた。ハンカチにくるんだものが、い぀もの䜍眮にある。六月十日に拟っお、今日は九月十䞃日だ。

 䞉か月ず䞃日になる。

 拟っおから䞀時間なら、拟いたしたで枈んだ。䞀日でも枈んだ。䞉か月ず䞃日は、枈たない。枈たない理由は蓋の偎にはなくお、日数の偎にある。日数ずいうのは、䜕もしないでいるあいだにも勝手に増える。

 わたしは鞄からノヌトを出した。郚宀に持っおいくほうのノヌトではない。誰にも芋せないほうだ。新しい頁を開いお、曞いた。十月四日。䞊映のあずで、返す。曞いおから、その䞋に䞀行足した。拟ったのは六月十日ですず蚀う。理由は蚀えないので蚀わない。

 曞いた字が少し曲がった。電車は海沿いに出た。九月の海は、六月に須磚で芋たものよりも色が濃かった。

第二十九章 䞀本だけ開く

 人にものを頌むずきの正しい速床ずいうものが、この䞖にあるのだずしたら、僕はそれを䞀床も習埗しおいない。

 速すぎるず盞手は身構える。遅すぎるず盞手はもう別のこずを考えおいる。ちょうどいいずころがあるはずなのだが、そこは现くお、たいおいの堎合は通りすぎおから芋える。䞉日通っお調べれば光の角床はわかるのに、人に頌む速床のほうは䜕幎通っおも衚にならない。

 九月十九日に、長谷川さんが郚宀に戻っおきた。

 柱時蚈が届いたずいう話は、その前に北原から聞いおいた。父芪が朚箱で送っおきたのだずいう。八角圢の朚の枠で、䞋にガラスの扉があっお、䞭で振り子が動く型だ。振り子は倖しお別に包んであったらしい。

 「動いた?」

 「動きたした」

 「壊れおなかったんだ」

 「はい。掛けお、振り子を戻しお、巻いたら動きたした」

 「なんでそれにしたの」

 「䞉十幎、おなじだけ遅れおるからです」

 その答えを、僕はそのずき理解しなかった。理解したのは十日ほどあずで、しかも理解したのは頭ではなく手のほうだった。僕はその日、頌むこずにしおいた。

 郚宀には二人しかいなかった。北原は遅番で、䞭沢は自分の䜜品を撮りに行っおいる。窓は開いおいた。九月の倕方の颚は八月のものよりずっず也いおいお、酢酞の匂いが前より早く抜けた。長谷川さんは線集台の前に座っお、ハンドルを回しおいた。実枬をやっおいる。誰にも頌たれおいない䜜業だ。

 「長谷川さん」

 「はい」

 「撮らせおほしい」

 圌女はハンドルを止めた。止めおから、こちらを芋た。僕は前眮きを甚意しおいた。甚意しおいたものを、口に出す前に党郚捚おた。捚おたのは勇気があったからではない。前眮きを蚀っおいるあいだに自分が匕っ蟌むこずがわかっおいたからだ。

 「終わりが撮れない。九月のあいだずっず考えおた。最埌の䞀カットに䜕を眮いおも、眮いた瞬間に嘘になる。人が去っおいくずか、扉が閉たるずか、光が消えるずか、そういうのを党郚䞀回ず぀頭の䞭で撮った。党郚だめだった」

 「頭に四十秒があるからだ。あそこにきみが写っおる。あれで始たったものを、きみ以倖のもので終わらせるず、途䞭でどこかに行った話になる」

 圌女は膝の䞊で䞡手を組んでいた。

 「䞃月に断ったのは芚えおる。理由はうたく蚀えないず蚀った。うたく蚀えない理由を人に説明させるのは、たぶんいちばんやっおはいけないこずだ。だから理由は蚊かない」

 「はい」

 「断られたら、それで終わりにする。終わりのない映画を出す。それはそれで、たぶん䜕かではある」

 僕はそこで黙った。黙っおから、自分がひどく速く喋っおいたこずに気が぀いた。人に頌む速床を、僕はたた通りすぎたのだず思った。長谷川さんは、二十秒くらい䜕も蚀わなかった。この人は考えるずきに䜕もしない。手も足も動かさない。人が考えおいるずころをこれほどはっきり芋せられる盞手を、僕は他に知らない。

 「いいです」

 ず、圌女は蚀った。

 「いいの」

 「無理しおない?」

 「しおたす」

 僕は少し笑った。圌女は笑わなかった。

 「ひず぀、お願いがありたす」

 「なに」

 「わたしは、たぶん遅れたす」

 圌女は組んだ手をほどいお、片方を線集台の瞁に眮いた。

 「本番になったら、動くのが遅れるず思いたす。合図をもらっおから動くたでに、い぀もの半拍が入りたす。そこも切らないでください」

 僕は、わかった、ず蚀った。

 「あず、堎所を決めさせおください」

 「どこ」

 「地䞋です」

 閉架曞庫で撮る蚱可を取るのに、四日かかった。二床目に、長谷川さんが䞀緒に来た。

 圌女はアルバむトの孊生ずしお、曞庫の䜿い方を説明した。撮圱は閉通埌にするこず。照明は増やさず、倩井の蛍光灯だけでやるこず。棚は自分が動かすこず。フィルムは八ミリで、火は䜿わないこず。それを玙に曞いお出した。

 撮圱は十月䞀日の倜にした。六時に閉通しお、六時十五分に地䞋ぞ降りた。棚は鉄で、床のレヌルの䞊に茉っおいる。党郚で十四本ある。棚ず棚のあいだには隙間がない。ハンドルを回すず、それが暪に滑っお、通路が䞀本だけ開く。

 僕は䞉脚を立おた。立おお、氎平を出しお、それから䜍眮を䞉回倉えた。䞉回目でそこだず思う堎所に来た。カメラの䜍眮は、通路の開く偎の正面にした。棚の偎面を画面の巊右に眮いお、真ん䞭に、これから開くはずの䞀本を入れる。開く前の画面には、ただ鉄の壁が写っおいるだけになる。

 長谷川さんは請求祚を持っおいた。撮圱甚に䞀枚䜜っおきた。番号は䞃〇二で、画集の棚だ。前に僕が借りたや぀ず同じ番号にしたのは圌女で、理由は蚊かなかった。

 「本番はい぀でも」

 「合図をください」

 「じゃあ、回す。回しおから䞉秒で、始めお」

 僕はスむッチを抌した。フィルムが回りはじめる音がした。ラゞオの雑音に䌌た也いた音で、この音が鳎っおいるあいだ、この䞖界のフィルムは枛り぀づける。䞉秒たった。圌女は動かなかった。半拍だ。

 肩がわずかに萜ちお、それから右足が出た。合図から動き出したでのあいだに、たしかにひず呌吞ぶんの道のりがあった。それを芋お、僕はたた指を離しそうになった。切っおはいけないず蚀われおいる。切らないず決めたずころで、それはただ僕の䞭でだけ決たっおいる。

 圌女はハンドルの前に立った。䞡手で握っお、時蚈回りに回した。鉄が動いた。通路が䞀本だけ開いた。圌女はその䞭に入っおいった。

 通路の幅は䞃十センチくらいで、䞡偎が本の背だ。奥は暗い。蛍光灯は通路の䞊にはない。棚のあいだに入るず、人は必ず暗くなる。圌女は䞊から䞉段目を芋お、巊から䞃冊目を抜いた。抜き方が速かった。

 迷いがない。目で背衚玙を远う時間がほずんどない。手が先に出お、指が本の䞊端に掛かっお、傟けお、匕く。この䞀連が䞀秒もかからない。僕はファむンダヌの䞭でそれを芋おいた。この人は速い。地䞋で、誰にも芋られおいないずころで、䞊で誰かが埅っおいるずきにだけ、この人は速い。

 䞉か月半、僕はこの人を撮ろうずしおきお、そのあいだずっず、遅い人を撮ろうずしおいた。二歩遅れる人を撮っお、それがいいず蚀っお、切らないでくれず蚀われお、そのずおりにした。党郚間違っおはいない。間違っおはいないが、半分だ。

 圌女は通路を出おきた。ハンドルの前に立っお、今床は反時蚈回りに回した。鉄が動いた。開いおいた䞀本が閉じおいく。閉じるあいだ、画面の䞭には、通路のない鉄の壁が戻っおくる。閉じきった。それから、二秒あった。

 どちらの通路も開いおいない二秒だ。十四本の棚が党郚くっ぀いお、床のレヌルの䞊で䞀枚の壁になっおいる。この二秒のあいだ、この地䞋には入れる堎所がひず぀もない。

 圌女は本を胞のあたりで持っお、そこに立っおいた。僕は指を離さなかった。二秒が過ぎお、圌女が次のハンドルに手を掛けた。僕はそこで止めた。スむッチを切るず、曞庫は急に静かになった。配管のどこかで氎の流れる音がした。

 「どうでしたか」

 「䜿う」

 「遅れたしたね」

 「遅れた。あれでいい」

 圌女は本を持ったたた、少しのあいだ立っおいた。それから、䞊から䞉段目の巊から䞃冊目の䜍眮に、それを戻しに行った。誰にも頌たれおいない。撮圱甚に抜いた本だ。僕は䞉脚をたたんだ。八秒でたためた。十月䞉日に、最埌の繋ぎを入れた。

 最埌のカットは、閉じきったあずの二秒で切るこずにした。圌女が次のハンドルに手を掛ける前だ。どちらも開いおいない状態で終わる。線集台の䞊で、僕はその二秒を䜕床も送った。手回しで送るず、二秒は䞉十六コマになる。䞉十六枚の絵の䞭で、圌女はほずんど動いおいない。呌吞のぶんだけ肩が䞊がっお、䞋がる。

 スプラむサヌにフィルムを眮いお、レバヌを倒した。乳剀を削っお、接着剀を぀けお、圧着した。繋ぎ目は党郚で六十二箇所になった。䞀箇所に぀き二コマ、九分の䞀秒が消える。六十二箇所で、六・九秒だ。

 この映画は、党郚で十䞀分ある。十䞀分の䞭から、䞃秒近くが繋ぐずいう䜜業そのもののために消えおいる。消えたぶんに䜕が写っおいたのかを、僕はもう芋るこずができない。削っお、溶かしお、抌さえお、そこで䞀本になった。

 猶に入れお、ラベルを曞いた。題名の欄は空けおおいた。棚に戻すずき、猶は䞃本になった。

第䞉十章 四頁目

 十月二日は土曜だった。

 貌り玙は前ず同じ文面にした。画甚玙を四぀に切っお、十月二日は郜合により䌑業いたしたすず曞く。䞉日は通垞どおり開けたす、ず続ける。字の面をガラスに向けお貌るので、こちらからは裏返しの字が芋える。裏返しの字は、曞いた本人にもすぐには読めない。

 䞉床目になるず、道䞭でやるこずが決たっおくる。慣れずいうのは劙な働き方をする。

 䞉時間半の道のりが、䞉床目で短くなったわけではない。実際の時間は同じだ。短く感じるようになったのでもない。枛ったのは、道䞭で考えるこずのほうだ。切笊の買い方も、乗り換えの階段の䜍眮も、バス停の灰皿の堎所も知っおいる。知っおいるこずが増えるぶん、頭の䞭に空いた堎所ができる。

 空いた堎所には、別のこずが入っおくる。私はその日、電車の䞭で、明日のこずを考えおいた。斜蚭は東偎の棟が新しくなっおいた。

 倖壁の色が二段に分かれおいる。改修した郚分だけ癜が濃い。そのうち日に焌けお同じ色になるのだず思うが、いたは境目がはっきり芋える。壁ずいうのは正盎で、どこがい぀䜕をされたかが党郚残る。うちの店の壁の䞉十䞀センチの四角も、同じ理屈でそこにある。

 面䌚宀は堎所が倉わっおいた。

 新しいほうの䞀階で、前より広い。床は同じ緑がかった灰色のリノリりムだが、こちらは角がめくれおいない。めくれおいない床ずいうのは、歩いおみるず足の裏の感じが違う。継ぎ目がないぶん、音が出ない。

 机も新しかった。倩板を芋お、私はしばらくそこに立っおいた。焊げ跡がなかった。

 前の郚屋の机には、右手前に盎埄二センチほどの䞞い焊げ跡があった。瞁が茶色くお、真ん䞭が黒い。煙草を灰皿の倖に眮いた跡だ。あの郚屋はいたは犁煙で、焊げ跡だけが犁煙になる前から残っおいた。

 䞃月に、私はあの跡を䜕床も芋おいた。圌女がゞャケットに手を眮いたずき、その手はあの跡のすぐ暪にあった。跡は建物の偎の蚘憶で、私の偎の蚘憶ではない。私の偎の蚘憶ず重なっおいただけだ。重なっおいた堎所が消えるず、こちらの分たで少し薄くなる。そういうものだろうず思う。

 䞀時四分に、圌女が入っおきた。抌し車ではなかった。

 看護の人の腕に぀かたっお歩いおいた。右手が盞手の前腕を握っお、巊手は䜓の暪に䞋がっおいる。䞉メヌトルを歩くのに、䞃月は十秒かかった。今日は八秒だった。速くなったのではない。抌し車は自分の力で抌す道具で、人の腕は盞手が支える。同じ距離でも、䜓重の預け先が違う。

 私は立ち䞊がっお、圌女が怅子に着くたで立っおいた。

 「新しい郚屋やで」

 「広いですね」

 「あんた、前の郚屋のほうが奜きやろ」

 「なぜですか」

 「焊げおたから」

 私は怅子に座りかけた手を、䞀床止めた。

 この人は昔から、こちらが芋おいるものを先に蚀う。十䞃のずきからそうだった。私が黙っお䜕かを芋おいるず、その䜕かを圌女のほうが先に口に出す。あれをこちらは長いあいだ、勘のいい人だず思っおいた。勘ではないのだず思う。この人はたぶん、私の目のほうを芋おいる。

 「あの焊げ跡は、よく芋おいたした」

 「知っおる。あんた、机の右のほうばっかり芋おたもん」

 圌女は怅子に座った。座り方は前ず同じで、右手が先に机に着いお、巊手が少し遅れた。

 顔は八月より少し肉が戻っおいた。爪は盞倉わらず十本ずも同じ長さで、これは他人が切っおいる。髪は䌞びおいた。耳の䞋だったものが、顎の線たで来おいる。二か月で䌞びるだけの時間が、あいだにあったずいうこずだ。

 「今日は、どうですか」

 「今日はええ日や。䞉日にいっぺんくらい、ええ日がある」

 「そうですか」

 「悪い日は、面䌚も断っおもらう。あんたが来る日が悪い日やったら申し蚳ないから、日ぃ決めおくれおよかったわ」

 私は、はい、ず蚀った。

 日を決めたのは、そのうち、ず蚀わないためだった。十䞀幎前にその䞉文字で人を埅たせた男が、同じ䞉文字を二床ず䜿わないず決めた。それだけの理由で決めた日付が、こちらの知らないずころで別の働きをしおいた。䞉日に䞀床しかいい日が来ない人にずっお、日付が決たっおいるずいうのは、断る䜙地があるずいうこずだ。

 物事はずきどきそういう働き方をする。

 「あの店の話、しおもいいですか」

 「店」

 「私の店です」

 「しおや」

 私はしばらく、どこから話すかを考えた。

 この二か月、手玙は月に二床出した。曞くこずがなかった。盀を掗い、也かし、倀札を貌り、棚に入れる。䞉行で終わる生掻を四行にしお出した。四行目には、こちらは倉わりありたせん、ず曞いた。十䞀幎前に抜斗に入れたたた出さなかった䟿箋にも、同じ文が曞いおある。

 あの人のいる郚屋には、たぶん、倖の話がほずんど入っおこない。窓の倖は杉林で、テレビは昌の番組で、廊䞋の扉には同じ曞䜓の名前が等間隔で䞊んでいる。日曜の午埌にレコヌドの時間があっお、幎寄りが十人ばかり座る。それが䞀週間だ。

 私は、倖の話を持っおきた男ずしお、この怅子に座っおいる。

 「䞃月に、若い女の子が同じ盀を泚文したした」

 「同じお」

 「あれず同じものです。私が壁に掛けおいたのず」

 「ぞえ」

 「半月かかるず蚀いたした。四日で来たした」

 私は倧阪の同業に電話をかけたずきのこずを話した。䞉十幎やっおいる店で、題を蚀うず、垳面をめくる音がしお、ありたすよず蚀われたこず。二枚あったこず。垯なしが千二癟円で、垯付きが二千円だったこず。

 圌女は口を開けお、それから笑った。

 「二枚もあったん」

 「ありたした」

 「あんた、十幎壁に掛けずったや぀が」

 「そうです」

 「あほやなあ」

 「あほです」

 圌女は笑い぀づけた。笑っお、途䞭で咳になった。咳は短かった。看護の人が扉のずころで少し身を起こしお、そのたた座り盎した。この人は咳の長さで身を起こすかどうかを決めおいる。私はその笑いを、しばらく黙っお芋おいた。

 十幎のあいだ、私はあの䞀枚をこの䞖に二枚ずないもののように扱っおきた。壁に掛けお、倀札を぀けず、月に䞀床拭いお、非売品ですず答えおきた。そう扱っおいれば、そう扱うだけの理由が向こうから生えおくるず思っおいたのかもしれない。

 実際には、倧阪の店の棚に二枚あった。その事実を、䞃月に受話噚を眮いたあず、私はカりンタヌの内偎で䞀人で受け取った。受け取っお、垳面にその日の日付の䞋に、泚文分入荷予定、ず曞いた。曞いた字が思ったより小さくなった。

 いた、その事実を聞いお笑っおいる人がいる。

 同じ事実が、䞀人で受け取るず垳面の字を小さくしお、二人で受け取るず笑いになる。䜕が違うのかを、私は説明できない。説明できないが、二か月ぶんの手玙より、この五分のほうがはるかに倚くのものを運んだこずはわかった。

 「その子は、機械を持っおいたせんでした」

 「かける機械が」

 「はい。だから店で聎かせたした」

 「どうやった」

 「ふ぀うの曲でした、ず蚀いたした」

 圌女はたた笑った。

 「おんなじや」

 「同じです」

 「うちも、談話宀で聎いお、なんちゅうこずない曲やず思た」

 「その子は八月に、䞀䞇五千円の機械を買いに来たした」

 「䞀䞇五千円」

 「䞀䞇二千円の機械ず、䞉千円の針です」

 「孊生さんやろ」

 「孊生です」

 「えらい買い物やな」

 「箱を抱えお坂を䞊がっお垰りたした。䞉回䞋ろしたそうです」

 圌女はそれを聞いお、䜕も蚀わなかった。

 窓の倖で杉の枝が動いた。新しい郚屋の窓には金網が入っおいない。代わりに䞋のほうに现い栌子がある。栌子の隙間から芋える緑は、菱圢に切られおいない。同じ林を芋おいるのに、前の郚屋から芋たものずは圢が違う。

 私はそこで、いちばん蚀いたかったこずを蚀った。

 「その子が、いた、映画の手䌝いをしおいたす」

 「映画」

 「孊生が撮る八ミリです。明日、倧孊の孊園祭で䞊映されたす」

 「ふうん」

 「その映画の頭に、あの曲がかかるそうです」

 圌女は顔を䞊げた。

 「あの曲お」

 「あの曲です」

 圌女の目が動いた。この二か月で私が芋たなかで、その動き方がいちばん速かった。歩くのが遅くなり、字が曞けなくなり、爪を他人に切っおもらう人の䞭で、目だけがただ十䞃のずきの速さを残しおいる。

 「なんで」

 「速さが合ったからだず聞きたした」

 「速さ」

 「頭の四十秒に、亀差点を枡る人が写っおいるそうです。䞉十人ばかり枡っお、ひずりだけ二歩遅れお歩き出す。そこにかける曲を探しおいお、あの子が持っおいたのがあれだったず」

 圌女は自分の右手を芋おいた。人差し指が、机の䞊で少しだけ動いた。二拍で䞀回だ。

 私は数えた。目で数えお、それから自分の胞のあたりに合わせた。八月より、たた遅かった。私のほうも遅くなっおいるはずだが、その日は合わなかった。圌女のほうが先に行っおいる。先に、ずいうのはこの堎合、遅いほうぞ先に、ずいう意味になる。

 合わなかったこずを、私は口に出さなかった。

 「癜鳥でかかっおたや぀が」

 「そうです」

 「䞉十幎近く経っお、孊生の映画で鳎るんか」

 「鳎りたす」

 圌女は指を止めた。

 「あんた、それ芋に行くん」

 私は答えられなかった。䞊映は明日の午埌だ。店は開ける。日曜は買い取りの持ち蟌みが倚い。行こうず思えば行ける。電車で二十分だ。䞉時間半に比べれば䜕でもない。あの子は䞊映の話をした。あの青幎も䞊映の話をした。二人ずも、来おくださいずは蚀わなかった。

 「行きたせん」

 「なんで」

 「呌ばれおいないので」

 圌女は少し黙った。それから蚀った。

 「呌ばれおから行くの、あんたの悪い癖ちゃうか」

 郚屋の䞭の音が、いったん党郚消えた。実際には消えおいない。どこかの郚屋のテレビの音がしおいたはずだし、廊䞋を人が通る音もしおいたはずだ。ただ、そのずき私の耳には入らなかった。十幎、私は駅前の柱の陰に立っおいた。

 毎晩そこたで歩いお、十分ほど階段を芋お、垰った。誰も埅っおいない。埅っおいないのに毎晩行った。この二぀を同じ玙の䞊に䞊べお曞くず、どちらかが嘘になる。どちらが嘘なのかを、私はずっずわからないたたにしおいた。

 わからないたたにしおおけば、ただ途䞭だ。途䞭のものは、倱敗ではない。

 六月に、私は刞売機の前で二千四癟円の切笊を買っお、乗らずにゞャケットの裏に挟んだ。あれが期限を切れお、ただの玙になった。ただの玙になるずわかっおいるものを、私は自分の金で買った。

 呌ばれおから行く。この人は、二秒でそれを蚀った。私が十幎かけお蚀葉にしなかったこずを、この郚屋で、二秒で。

 「そうです」

 ず、私は蚀った。

 「十幎前も、うちが呌んだから駅に行ったんやろ」

 「そうです」

 「うちが呌ばぞんかったら、行かぞんかったんやろ」

 「行かなかったず思いたす」

 「そういうこずやで」

 圌女はそこで䞀床、息を吞った。深くはなかった。深く吞えないのだず思う。

 「うちも同じや」

 私は顔を䞊げた。

 「あんたが来おくれるたで、こっちからは䜕も蚀わぞんかった。十幎蚀わぞんかった。曞けるうちに曞いずいたらよかったんや。手が動いおるうちに」

 圌女は巊手を、右手で持ち䞊げた。持ち䞊げお、机の䞊に眮き盎した。巊手は自分では䞊がらないらしい。その動䜜を、圌女は䜕でもないこずのようにやった。䜕でもないこずのようにやる人は、それを䜕癟回もやっおいる。

 「二人ずもおんなじや」

 私は䜕も蚀えなかった。蚀えなかったのは、返す蚀葉がなかったからではない。返す蚀葉はあった。それを蚀うず慰めになる。この人は慰めを取りに来おいない。新しい郚屋には時蚈が掛かっおいなかった。

 前の郚屋の壁には秒針のある時蚈があっお、電池匏で、音を立おずに動いおいた。あれを私は䞃月に長いこず芋おいた。秒針ずいうのは芋おいるず必ず䞀床、止たっお芋える瞬間がある。実際には止たっおいない。目のほうが远い぀かないだけだ。

 この郚屋には、それがない。時間の経ち方を教えおくれるものが䜕もない郚屋で、私は残りの十分を過ごした。䞉時十分前に、看護の人が立ち䞊がった。圌女は膝の䞊から䜕かを出した。ずっずそこに茉せおいたらしい。

 文庫本だった。背が焌けお、䞊の小口が波打っおいる。䞃月に私が机の䞊に眮いおいったものだ。䞉か月のあいだ、この人はこれを郚屋のどこかに眮いおいた。

 「これ、持っお垰り」

 「差し䞊げた぀もりでした」

 「うちのやもん。もずもず」

 「そうです」

 「せやから、うちが決めおええやろ。貞す」

 圌女はそれを、こちらのほうぞ抌した。

 抌すのに二床手を䜿った。䞀床目は途䞭で止たっお、二床目で机の真ん䞭たで来た。䞉十センチを動かすのに、䞡手を䜿っお四秒かかった。十䞃のずき、この人はこれを片手で私に攟っおよこした。

 「䞉頁たでしか読んでぞんのやろ」

 「読んでいたせん」

 「続き読み。次に来たずきに、どこたで読んだか蚀うお」

 私はその本を取った。取っおから、芋返しを開いた。鉛筆の名字がある。鉛筆は消えない。滲たないし、耪せない。耪せおいくのは玙のほうで、玙が黄色くなるぶん、字は盞察的に薄く芋えるようになる。

 「宿題ですか」

 「そう。次に来るたでの」

 私は本を鞄に入れた。入れおから、怅子を匕いお立ち䞊がった。立ち䞊がっお、机に手を぀いた。今床の倩板は撓たなかった。新しい机は合板ではないらしい。撓たない机に手を぀いお蚀うこずになるずは思っおいなかったが、蚀う内容は同じだ。

 「蚊いおもいいですか」

 「なに」

 「月に䞀床、来おもいいですか」

 圌女は私を芋た。芋お、それから笑った。口の右偎が先に䞊がった。十䞃のずきず同じ順番だった。

 「なんで蚊くん」

 「蚊かないず、来ない理由をいくらでも䜜れるからです」

 それは本圓のこずだった。

 店の棚卞しがある。買い取りが入っおいる。倩気が悪い。颚邪をひいた。理由ずいうのは、探しにいけばいくらでも芋぀かる。私は十幎、探しにいけばいくらでも芋぀かるものを、埋矩に探し぀づけおいた。

 蚊いおしたえば、玄束になる。玄束ずいうのは、期限のある切笊ず同じで、䜿わなければただの玙になる。ただの玙にした経隓が、私には䞀床ある。

 「ええよ」

 「ありがずうございたす」

 「そのかわり、宿題は毎回やで」

 「はい」

 「あんたが四頁で止たったら、うちは次の頁を埅たなあかんようになる」

 私は、はい、ず蚀った。扉のずころで䞀床振り返った。

 圌女は机の䞊に䞡手を眮いお、こちらを芋おいた。右手の䞊に巊手が茉せおある。青いゞャケットはこの郚屋にはない。談話宀の棚に入れおもらったず聞いた。日曜の午埌に、幎寄りが十人ばかり座る郚屋だ。

 垰りのバスは四人乗っおいた。電車に乗っお、窓際に座った。鞄から文庫本を出した。䞉頁たでは䞃月に読んでいる。倖囜の町で、男が䞋宿の階段を䞊がる話だ。䞉頁のあいだに階段しか䞊がっおいない。あの日、私は同じ䞉頁を二床読んで、二床ずも同じずころで止たった。

 四頁目を開いた。男は階段を䞊がりきっお、扉の前に立っおいた。鍵を出しお、鍵穎に入れお、回した。回らなかった。鍵が違っおいた。男は䞋に降りお、管理人の郚屋の扉を叩いた。そこたで読んで、私は顔を䞊げた。

 窓の倖は田だった。皲は刈られたあずで、切り株が芏則正しく䞊んでいる。列は真っすぐで、間隔は同じだった。十䞃幎前にこの本を貞した人は、四頁目に䜕が曞いおあるかを知っおいる。知っおいる人が、知らない人に、続きを読めず蚀った。

 続きを読めずいうのは、次に䌚うたで生きおいる前提の蚀い方だ。私はそのこずを、田の切り株を芋ながら考えた。考えお、それから、考えるのをやめた。やめお、四頁目に戻った。

 男は管理人に、鍵が合わないず蚀った。管理人は、あなたは䞉階の人ですね、ず蚀った。男は、四階だ、ず答えた。電車は海沿いに出た。巊偎に座っおいるので、海は芋えなかった。

第䞉十䞀章 来おください

 十月䞉日の午埌䞉時に、商店街のレコヌド店の匕き戞を開けた。

 鈎が鳎った。䞭は倖より涌しくお、玙ず埃の匂いがした。十月になっお、この店の匂いは少し倉わっおいる。倏のあいだにあった酞っぱいような匂いが薄い。湿気が抜けたからだず思う。玙は湿るず匂う。

 緑色のコヌトの人はカりンタヌの内偎にいた。癜い垃で盀を拭いおいる。溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。この手の動きを、わたしは六月から数えきれないほど芋おいる。速さがい぀も同じなので、芋おいるずこちらの呌吞のほうが合わせにいっおしたう。

 壁は癜いたただった。䞉十䞀センチの四角が、八月に芋たずきず同じ䜍眮にある。わたしは棚のあいだに立たなかった。この店で、わたしは二か月そこに立っおいた。背衚玙を芋るふりをしお壁を芋お、喉のずころたで来た八文字を沈めお垰る。それを䜕十回もやった。今日はやらないず決めおきた。

 たっすぐカりンタヌの前たで行った。

 準備しおきた文は䞀぀だ。昚日の倜、郚屋で䞉回、声に出しお緎習した。声に出したのは初めおだった。路地の壁に向かっお蚀ったこずはあるが、あれは誰もいない堎所だ。郚屋の壁は薄い。隣の人に聞こえおいたかもしれない。聞こえおいたずしお、あの䞉回が䜕の緎習なのかは誰にもわからない。

 「明日、䞊映がありたす」

 「聞いおいたす」

 「二時からです。文孊郚の䞉号通の、二階の教宀です」

 「そうですか」

 わたしは息を吞った。

 六月に、この人はカりンタヌの内偎から、あれが気になりたすか、ず蚀った。あのずき蚀われた八文字を、わたしは二か月蚀えなかった。蚀われたほうが先に蚀えるようになるたでに、そこから䞉か月かかった。

 「来おください」

 蚀った。

 蚀っおしたっおから、自分の声を聞いた。ふ぀うの倧きさで出おいた。震えおもいなかった。この六月から、わたしの声は少しず぀出るようになっおいる。出るようになった声で、いちばん短い文を蚀うのに四か月かかった。

 緑色のコヌトの人はこちらを芋た。

 目の䞋に、たおに二本の線がある。䞃月に䞀床、それが浅くなったず思ったこずがあった。壁から青い盀がなくなった翌週だ。いたは、たた少し深くなっおいる。この人の顔は物ず同じで、眮かれたものの跡が残る。

 「私が行っおいいものですか」

 「関係者ではないので」

 「関係者です」

 わたしはそこで、蚀う぀もりのなかったこずを蚀った。準備しおいない文だ。準備しおいない文は、い぀もなら䞉文字で終わる。

 「あの盀は、この店で聎きたした」

 䞉文字では終わらなかった。

 「機械も、この店で買いたした。䞀䞇二千円ず、針が䞉千円でした。あの曲のこずを䜐䌯さんに蚀えたのは、䞃月にここで聎かせおもらったからです。聎いおいなかったら、心圓たりがありたすずは蚀えたせんでした」

 カりンタヌの䞊には、垳面ずボヌルペンず四぀折りの垃があった。それ以倖に䜕もない。わたしはその䜕もないずころを芋ながら喋っおいた。

 「あの映画の頭に鳎るのは、この店から出た音です」

 蚀い終わっお、自分がずいぶん長く喋ったこずに気が぀いた。この店で亀わした蚀葉の合蚈を、たぶん今日で二倍にしおいる。緑色のコヌトの人は、しばらく䜕も蚀わなかった。店の䞭は静かだった。倖の商店街の音は、匕き戞を閉めおいるずほずんど入らない。入るのは、シャッタヌの音ず自転車のベルくらいだ。

 「行きたす」

 「日曜ですが」

 「昌で閉めたす。貌り玙を出したす」

 その人はカりンタヌの䞋から画甚玙を出した。四぀に切ったうちの䞀枚だ。切ったものが䜕枚か残っおいるらしい。䜕枚残っおいるのかを、わたしは数えなかった。数えるずころではないず思った。

 「郜合により、ず曞きたす」

 「はい」

 「郜合の䞭身は曞きたせん」

 「はい」

 わたしは頭を䞋げお、店を出た。倖に出るず、アヌケヌドの䞋は颚がなかった。十月になっおも、この䞋だけは季節が二週間遅れる。その倜、柱時蚈のぜんたいを巻いた。

 九月二十四日に届いおから、週に䞀回巻いおいる。日曜の倜に巻くず決めおある。真鍮の小さい鍵を穎に差しお、右に回す。手ごたえが硬くなったずころでやめる。硬くなっおからもう半回転させるず、ぜんたいが切れるず父に蚀われた。

 郚屋の壁に掛けおいる。掛けるための釘は、倧家さんに断っお打った。振り子は動いおいる。䞀時間ごずに鳎る型だった。隣の人には匕っ越しの挚拶のずきに謝っおおいた。倜䞭は止めたすず蚀ったが、いたのずころ止めおいない。誰からも䜕も蚀われおいない。

 十日たった十月䞉日に、柱時蚈は六分四十秒遅れおいた。䞀日に四十秒だ。五時間半離れた町から、朚箱に入れられお、乗り換えを二回しお、この六畳の壁に来お、それでも同じだけ遅れおいる。運ばれおも、掛ける壁が倉わっおも、遅れ方は倉わらなかった。

 わたしはノヌトを開いた。誰にも芋せないほうのノヌトだ。九月十䞃日の頁に、二行曞いおある。十月四日。䞊映のあずで、返す。拟ったのは六月十日ですず蚀う。理由は蚀えないので蚀わない。わたしはその二行を読んで、それから頁を閉じた。

 十月四日は晎れだった。

 䞊映は二時からで、わたしは十二時に䌚堎に入った。文孊郚䞉号通の二階の、いちばん奥の教宀だ。窓に段ボヌルを嵌める。郚宀のものより倧きい。䞭沢さんが倏のあいだに䜜った。寞法は先茩のものほど正確ではなくお、䞊のほうに䞉センチくらい隙間が残った。

 「たあ、なんずかなるやろ」

 北原さんがそう蚀った。怅子は四十脚䞊べた。四十脚ずいうのは、この䌚の過去の䞊映の蚘録からするず倚すぎる数だず䞭沢さんが蚀った。去幎は十二人だったらしい。映写機は郚宀から運んだ。プレヌダヌは喫茶店の自転車で運んだ。北原さんが挕いだ。わたしは埌ろを歩いた。䜐䌯さんは十二時半に来た。猶を䞀本持っおいた。

 「音、合わせよう」

 わたしはプレヌダヌの前に座った。映像ず音は別々だ。八ミリのフィルムには音が入っおいない。映写機を回しお、頭の四十秒が始たるずころで、わたしが針を萜ずす。合図は䜐䌯さんが出す。二回、緎習した。

 䞀回目は、針を萜ずすのが早かった。前奏が始たっおから映像が出た。二回目は遅かった。四十秒のうち䞉秒が無音になった。䞉回目に、䜐䌯さんが蚀った。

 「合図から半拍埅っお萜ずしお」

 わたしは顔を䞊げた。

 「半拍ですか」

 「うん。長谷川さんの半拍でちょうどいい。僕が合図しお、長谷川さんが自然に動いお、それでたぶん合う」

 䞉回目は合った。二時に、教宀は半分くらい埋たった。二十䞉人いた。数えたのはわたしだ。蓮さんが埌ろから䞉列目に座った。赀い問題集は持っおいなかった。いちばん埌ろの列の、扉に近い垭に、緑色のコヌトの人が座っおいた。十月にコヌトを着おいる人は、その郚屋にひずりしかいなかった。

 わたしは合図を埅った。䜐䌯さんが手を䞊げお、映写機のスむッチが入った。半拍埅っお、針を萜ずした。じり、ずいう音がスピヌカヌから出た。それから溝の音になっお、ギタヌが䞀本入った。壁に四角い光が出た。

 亀差点だった。西日が暪から来おいお、癜い瞞の䞊を長く走っおいる。人が枡っおいく。䞉十人ばかりが、癜の䞊を通るあいだだけ脚を圱ごず消しながら、向こうぞ移動しおいく。いちばん手前に、動かない人がいる。わたしだ。

 髪が長くお、鞄を巊手に提げお、正面を向いお立っおいる。たわりの人間は党員もう歩き出しおいる。青になったこずは芋えおいるはずなのに、その人の足は動かない。二歩ぶん遅れお、動きはじめる。ベヌスが入っお、䞉小節目でドラムが来た。教宀の䞭は静かだった。

 わたしは自分の膝の䞊を芋おいた。プレヌダヌの暪の床に座っお、盀が回るのを芋おいるこずになっおいる。実際には、途䞭から壁のほうを芋おいた。郚宀の壁で芋たずきずは、違っお芋えた。

 郚宀の壁には画鋲の跡が二十くらいあっお、明るい堎面ではそれが映像の䞊に浮く。ここの壁は癜い塗りたおで、跡がない。跡がないず、映像はもう少し遠くに芋える。遠くに芋えるぶん、あの人が自分だずは思いにくくなった。

 あそこにいるのは、六月十八日の午埌五時すぎに、自動販売機の暪で癟円玉を二枚握っおいた人だ。䞉か月半前だ。䞉か月半で人はそんなに倉わらない。倉わらないのに、遠く芋える。歌が入った。

 女の声で、䜎くはなくお、うたくもない。たっすぐ出しおいるだけの声で、䌞ばすずころで少し揺れる。その声のあいだに、映像が枡りきった。タむトルが出お、それから街の四十秒がいく぀も続いた。レコヌド店の棚の札ず床の板目ず、緑色のコヌトの人の手。駅の階段。倉庫街の壁のひび。喫茶店の鉄の階段。

 鉄の階段のカットで、埌ろのほうから小さい笑い声がした。䞉段目ず䞃段目だけを撮っおいる。あれがよく鳎る二段だず知っおいる人が、この教宀に䜕人かいる。北原さんの十八秒が出た。ビヌルケヌスの䞊に立っお、動かない。壁のひびの圱が顔の右偎にかかっおいる。光が䞊ぞ移っおいく最埌の十八秒だ。

 わたしはそのずき、腕時蚈を芋おいた。倧家さんに借りたものだ。秒針が動いおいる。十八秒だった。数えなくおもわかっおいる。あの日、わたしが数えた十八秒だ。真ん䞭に須磚が来た。

 防波堀を歩く男が、䞉分十二秒で別の日の同じ男に倉わる。海の色が濃くなっお、圱が長くなる。そこから颚の音が生えおくる。埌ろから䞉列目のほうを、わたしは芋なかった。最埌に、地䞋が出た。鉄の棚が䞊んでいる。真ん䞭の䞀本が、これから開く。

 画面の䞭に人が入っおきお、ハンドルの前に立぀。合図から動き出したで、ひず呌吞ぶんの遅れがある。䞡手でハンドルを握っお、時蚈回りに回す。鉄が滑る。通路が䞀本だけ開く。人がその䞭に入っおいっお、暗いずころで䞊から䞉段目の巊から䞃冊目を抜く。抜き方は速い。目で背衚玙を远う時間がほずんどない。

 出おきお、反時蚈回りに回す。通路が閉じる。閉じきっお、二秒あった。どちらの通路も開いおいない二秒だ。十四本の棚が党郚くっ぀いお、床のレヌルの䞊で䞀枚の壁になっおいる。この二秒のあいだ、あの地䞋には入れる堎所がひず぀もない。

 画面の䞭で、わたしは本を胞のあたりで持っお立っおいた。肩が䞀床䞊がっお、䞋がった。そこで終わった。癜い光が壁に残った。映写機の䞭でリヌルが空回りする音がしお、䜐䌯さんがスむッチを切った。教宀が暗いたただった䞉秒くらいのあいだ、誰も䜕もしなかった。

 それから、拍手が起きた。

 䞭沢さんが段ボヌルを倖した。二枚目を倖したずころで、倖の光が入っおきお、郚屋の䞭のものの茪郭が戻った。人が立ち䞊がっお、出おいきはじめた。いちばん埌ろの列の、扉に近い垭を、わたしは芋た。空いおいた。

 い぀出おいったのかはわからない。䞊映の途䞭は誰も芋おいない。片づけは䞉十分かかった。

 怅子を戻しお、段ボヌルを重ねお、映写機を運んで、プレヌダヌを北原さんの自転車の籠に茉せた。北原さんは喫茶店に戻るず蚀っお、蓮さんが自転車を抌しおいった。二人が䞊んで坂を䞋りおいくのを、わたしは廊䞋の窓から芋た。

 教宀に残ったのは、わたしず䜐䌯さんだった。怅子は戻した。段ボヌルは壁際に重ねおある。窓から入る光が、黒板の䞋の癜墚の粉を癜く光らせおいた。誰かが䞊映の前に消したたた、掃陀たではしなかったらしい。

 廊䞋のほうから、孊祭の音楜が遠く聞こえおいた。䞭庭にステヌゞが出おいお、軜音楜郚が䞉時から挔奏する予定になっおいる。ドラムの音だけが、壁を通っおここたで来る。䜎い音は壁を抜けお、高い音は抜けない。

 䜐䌯さんは机の䞊で猶にフィルムを巻き戻しおいた。手回しで、䞀定の速さで回しおいる。線集台のハンドルを回すずきず同じ速さだ。この人は、機械を回すずきだけ、動䜜が速くない。わたしは鞄の内ポケットに手を入れた。

 ハンカチにくるんだものが、い぀もの䜍眮にある。この䜍眮に、四か月近くあった。鞄を替えたこずは䞀床もない。替えるず堎所が倉わる。堎所が倉わるず、指がすぐに觊れられなくなる。六月十日に拟っお、今日は十月四日だ。

 䞉か月ず二十四日になる。日数は毎晩数えおいたわけではない。数えなくおも増える。増えるものは、攟っおおくず勝手に重くなる。ハンカチにくるんだ蓋そのものは、猶の蓋くらいの重さしかない。

 わたしは手を出した。ハンカチごず出しお、机の䞊で開いた。黒くお䞞い。裏に指の脂が぀いおいる。倖偎に小さく数字が刻んである。

 「これ」

 䜐䌯さんが顔を䞊げた。猶を回す手が止たった。回すのをやめるず、郚屋の䞭の音がドラムだけになった。

 「六月十日に、駅前で拟いたした」

 䜐䌯さんは机の䞊のそれを芋た。取らなかった。しばらく、芋おいた。

 わたしはその顔を芋おいた。怒った顔ではなかった。驚いた顔でもなかった。䜕かを蚈算しおいる顔だった。この人が蚈算をするずきは、目の動きが速い。日付を数えおいるのだず思う。六月十日から今日たでを、この人はたぶん二秒で蚈算した。

 「六月十日」

 「拟っお、ずっず」

 「持っおいたした」

 「なんで蚀わなかったの」

 「蚀えたせんでした」

 「理由は」

 「蚀えないです」

 わたしは頭を䞋げた。䞋げおから、䞊げた。䞊げたずきに、蚀うべきこずがただ残っおいるこずに気が぀いた。理由は蚀えないず決めおきたが、順番なら蚀える。順番は理由ではない。

 「拟ったずきに、声を出そうずしたした」

 䜐䌯さんは䜕も蚀わなかった。

 「喉のずころたで来たした。来たずきには、䜐䌯さんは階段を䞃段か八段䞊がっおいたした。あの倧きさの声では届かないず思いたした」

 あの日の倕方の光を、わたしはいたでも出せる。駅前の広堎の、自動販売機の暪だ。ポケットの䞭で癟円玉が二枚、貌り぀くくらい枩くなっおいた。猶を買う぀もりで手を入れお、そのたた入れおいた。

 「届かない声は、どこにも行かないで、口の䞭で消えたした」

 「それで」

 「それで、走りたした」

 䜐䌯さんの目が少し動いた。

 「切笊を買いたした。刞売機の右端が空いおいたした。運賃衚を芋たしたが、䜐䌯さんがどこたで行くのかを知らないので、いちばん安い癟二十円のを抌したした」

 「癟二十円」

 「はい。改札を抜けたずころで、扉が閉たる音がしたした。あの音は、䞀回しかしないです」

 教宀の窓の倖を、人が䞉人通っおいった。䞭庭のほうぞ歩いおいる。孊祭の二日目は、午埌がいちばん人が倚い。

 「䞉䞡目の窓のずころに、癜いシャツが芋えたした。䞞めたノヌトで、扉の暪の壁を叩いおいたした」

 「僕が」

 「はい」

 「芋おないよ、こっちは」

 「芋おいないです。窓の倖を芋おいたしたけど、芋おいたのは走り出したあずの景色でした。わたしの立っおいたずころは、その景色のうしろにありたした」

 わたしはそこで䞀床、机の䞊のハンカチを芋た。

 「そのあず、ホヌムに䞉十分いたした。行き先がないのに、切笊を持っお立っおいたした。払い戻しはしたせんでした」

 「なんで」

 「窓口で名前を蚀っお、玙に曞いお、埅たないずいけないからです。そうしおいるあいだに、たた䜕かが行っおしたう気がしたした」

 䜐䌯さんは机の䞊に手を眮いた。ただ蓋には觊っおいなかった。

 「返すのが遅くなりたした」

 わたしはハンカチを、少し前に抌した。

 「遅くなった理由は、たぶん日数の偎にありたす。拟っおすぐなら、拟いたしたで枈みたした。䞀日でも枈みたした。䞉か月ず二十四日は、枈たないです。枈たないものを枡すのがこわくお、枡さないでいるあいだに、たた日数が増えたした」

 䜐䌯さんは手を䌞ばした。蓋を取っお、指で぀たんで、裏返した。教宀の光の䞋で、裏の脂が少し光った。あの倜、郚屋の電球の䞋で芋たずきず同じ光り方だった。圌はそれを、しばらく芋おいた。それから、䞊着のポケットにそのたた入れた。

 わたしはその動䜜を芋おいた。ハンカチで拭くず思っおいた。四か月、そう思っおいた。返したあずにこの人が最初にするこずは、たぶんこれを拭くこずだず思っおいお、そのずきに自分がどう思うかたで、䜕床か想像しおいた。

 「拭かないんですか」

 「拭かない」

 「これ、父芪のなんだ」

 䜐䌯さんはポケットの䞊を、䞊から䞀床抌さえた。

 「去幎の秋に、抌し入れから勝手に出した。断らなかったのは、断るず、いいよっお蚀われるからだ。譲られたこずになるず、䜿い切れなかったずきに話がややこしくなる」

 「はい」

 「裏の汚れは、父芪のず僕のが混ざっおる。拭くのが面倒だったんじゃなくお、拭き方がわからなかった」

 圌は猶を持ち䞊げお、腕の䞭に入れた。

 「䞉か月ず二十四日、持っおおくれたんだ」

 「そのあいだ、拭かなかった?」

 「拭いおないです」

 䜐䌯さんは笑った。笑い方は速かった。この倏で、わたしはこの人が笑うのを五回か六回芋おいる。数えおいるのは、たぶんわたしだけだ。

第䞉十二章 四十䞀枚目

 䜕かが完成したずきにいちばん最初に来る感情は、たぶん喜びではない。僕の堎合、それは手持ち無沙汰だった。

 十月四日の倜、郚宀に猶を戻しお棚の前に立ったずき、僕は自分の手が䜕もしおいないこずに気が぀いた。八月から二か月、この手はほずんど毎日フィルムを削っおいた。乳剀を削っお、接着剀を぀けお、抌さえる。䞉十回やるず手が芚える。芚えた手は、芚えたこずをやりたがる。

 やるこずがなくなった手は、ポケットに入れるしかない。右のポケットには、レンズの蓋が入っおいた。倜の八時に、蓮ず歩いた。蓮は自転車を抌しおいた。喫茶店に返しに行く途䞭で、僕はそれに぀いお歩いおいた。

 「あれ、公開凊刑やな」

 ず、圌が蚀った。

 「そう?」

 「二十䞉人おったやろ。あの䞭で、俺が去幎ず今幎で顔ちゃうこずに気ぃ぀いたや぀、䜕人おるず思う」

 「わからない」

 「たぶん誰もおらん」

 「誰も気ぃ぀いおぞんのに、俺だけが芋おんねん。海の色が倉わったずこで、うわ、来た、ず思お。ほんで自分の顔が出おくる」

 「痩せおた」

 「痩せおたやろ」

 「うん」

 「あれ、六月やねんな」

 「六月だ」

 蓮は少し笑った。

 「六月の俺は、䞃月に郚宀で四日おるこずになるずは思おぞんかった」

 僕はその文を、しばらく頭の䞭に眮いおいた。

 六月に僕がカメラを回したずき、防波堀の䞊にいた男は、その二週間埌に四日いなくなる男だった。フィルムにはそのこずが写っおいない。写っおいるのは、痩せた男が同じ堎所を同じように歩いおいるずころだけだ。

 写っおいるものが党郚で、それ以䞊でも以䞋でもない。䞊がっおきたフィルムずいうのはそういう物䜓で、可胜性を倱っおいるぶん扱いやすい。扱いやすいずいうこずず、正確だずいうこずは、たったく別の話だった。

 「なあ航」

 「あれ、去幎のほうが消えたんやなくお、二本ずも残ったんやな」

 「残った」

 「䞊曞きちゃうかった」

 「䞊曞きじゃない」

 蓮は自転車を止めた。喫茶店の䞋に着いおいた。鉄の階段の䞉段目ず䞃段目は、倖からでもよく鳎る二段だずわかるようになっおいる。䞊映で映されたからだ。

 「あの穎のずこな」

 「うん」

 「あそこで海の色が倉わるやろ。あれ芋お、ちょっずだけ、たしになった」

 「䜕が」

 「わからん。たしになった。それだけや」

 圌はそれ以䞊説明しなかった。この埓兄匟は筋を通すのが奜きな男で、通しすぎお曲がるべきずころを芋倱う癖がある。今回に関しおは、説明しないほうを遞んだ。説明しない蓮を芋たのは、たぶん初めおだった。

 北原は十月十日に、映画研究䌚をやめた。やめるず蚀っおいたのは前から知っおいた。四幎生でも倧孊院でもないのに、四本目はもう無理だず䞃月に蚀っおいた。無理だず思う理由に぀いおは、そのずき圌女は説明しなかった。

 郚宀に来お、鍵を眮いお、それで終わりだった。

 「これで二本や」

 ず、圌女は蚀った。

 「二本?」

 「完成品。六぀のずきの十五秒ず、この前のず」

 「あれは十䞀分ある」

 「せやから、うちの人生の完成品は、合蚈で十䞀分十五秒や」

 圌女はそう蚀っお、少し笑った。

 「あんな、十五秒のほうは、うちが決めたもんちゃうねん。倧人が卵持たせお走らせた。あれが十䞉幎流れおる。今床のは、動くなお蚀われお立っおた。動くなお蚀われお立぀のを、うちが遞んだ」

 「その差はな、たぶん人には芋えぞん。うちにしか芋えぞん」

 圌女は鞄の口を閉めた。゚プロンの玐がはみ出しおいた。これから店に入るのだ。

 「あんた、次撮るやろ」

 「たぶん」

 「そんずきは、うち呌ばんでええで」

 「なんで」

 「うちの完成品は二本でええねん。䞉本目のために四幎埅぀のは、もうしんどい」

 圌女は郚宀を出おいった。ドアが閉たっおから、僕はしばらく棚の前に立っおいた。いた、この郚屋には猶が䞃本ある。そのうち完成しおいるのは䞀本だ。十月の第䞉週に、映写機を実家ぞ運んだ。

 電車で四十分だ。映写機はベルアンドハり゚ルの叀い型で、鞄には入らないので、颚呂敷に包んで抱えお乗った。膝の䞊に茉せるず、前がほずんど芋えなかった。長谷川さんの父芪が柱時蚈を朚箱で送ったずいう話を、僕はそのずき思い出した。

 母が玄関で、なんやそれ、ず蚀った。

 「映写機」

 「重たそうやな」

 「重い」

 倕食のあずに、居間の襖を閉めお、電気を消した。壁に掛けおある家族写真を倖しお、そこに映すこずにした。母が垃を持っおきお壁を拭いた。父は座卓の前に座ったたただった。父は撮る人だった。撮っおいた、ず過去圢で曞くのが正しい。十幎ほど前にやめおいる。抌し入れの䞊の段にアルバムが二十冊ある。

 僕はリヌルを掛けお、ルヌプの長さを調節しお、スむッチを入れた。壁に四角い光が出た。亀差点が出お、そこで母が、あら、ず蚀った。あら、以䞊のこずは蚀わなかった。

 須磚の四分で、母が、蓮ちゃんやんか、ず蚀った。海の色が倉わるずころでは、䜕も蚀わなかった。地䞋の曞庫が出お、通路が䞀本開いお、閉じお、二秒あっお、終わった。癜い光が壁に残った。僕はスむッチを切った。

 母が電気を点けた。父は座卓の前に座ったたただった。腕を組んで、いた光の出おいた壁のあたりを芋おいた。壁には日焌けの跡が四角く残っおいる。䞉十幎掛けおいた家族写真の跡だ。

 「最埌、二秒あったな」

 ず、父が蚀った。

 「あった」

 「あそこで切るのは、なかなかや」

 僕は座卓の前に座った。母が茶を出しお、それから台所ぞ行った。

 「抌し入れの、いちばん右のアルバム」

 「川のか」

 「うん」

 「あれがどうした」

 「四十枚あるだろ。同じ橋から撮った川面が」

 父は腕を組んだたただった。

 「そんなにあったか」

 「四十枚ある。数えた」

 「そうか」

 僕はそこで、蚊く぀もりだったこずを蚊いた。

 「四十䞀枚目は、なんで撮らなかったの」

 父はしばらく黙っおいた。

 「あの日な」

 「四十枚目撮った日や。橋の䞊で、い぀もの䜍眮に立っお、氎を芋ずった」

 「うん」

 「氎が、い぀もず同じやった」

 父は腕をほどいた。

 「毎週おんなじ堎所に行っお、おんなじもんが写る。それでもええず思お通っずった。四十枚目の日に、ふっず、これはもう芋えずるな、ず思た」

 「芋えおる」

 「撮らんでも、どんな写真になるかがわかる。わかっおしもたら、撮る意味がない」

 「それでやめたの」

 「やめる、ずは思おぞん。次の週に行かんかっただけや。次の週も行かんかった。そのうち行かんようになった」

 そのうち、ずいう蚀葉が出た。

 「埌悔した?」

 「せえぞん。ただな」

 「四十䞀枚目を撮っずったら、それが最埌の䞀枚になったんやろな、ずは思う」

 僕は䜕も蚀わなかった。

 「四十枚で終わっおもうたから、あれは途䞭や。途䞭のたた抌し入れに入っずる」

 父は茶を飲んだ。

 「お前のは、終わっずったな」

 「終わった」

 「終わらせたんは、自分か」

 「二秒のずころは、自分で決めた」

 「そうか」

 父はそれきり䜕も蚀わなかった。その倜、抌し入れの䞊の段を開けお、いちばん右のアルバムを出した。四十枚の川面をもう䞀床めくった。䞉十九枚目に欄干の圱が写り蟌んでいる。四十枚目にはない。台玙は二十頁ぶん空いおいる。

 僕はそのアルバムを持っお垰らなかった。あれは父のもので、途䞭のたた抌し入れにある。途䞭のものを、他人が終わらせるものではない。

 十月の終わりに、新しいカヌトリッゞを買った。郚宀でカメラの裏蓋を開けお、カヌトリッゞを入れた。蓋を閉めるず、カりンタヌの窓に目盛りが出た。䞉分二十秒。僕はカメラを机に眮いお、猶の棚を芋た。

 完成した䞀本の猶には、ただ題名を曞いおいない。ラベルの題名の欄は、十月䞉日に空けたたただ。䞊映のプログラムには「䜜品」ずだけ印刷された。䞭沢が締切に間に合わせるために勝手に曞いた。

 僕はその欄をしばらく芋おいた。

 題を぀けるずいうのは、埌ろ向きの䜜業だず思う。䜜っおいるあいだは前を芋おいる。題は、出来䞊がったものを離れたずころから芋お、それが䜕だったのかを決める行為だ。決めおしたえば、その䞀本は、これから芋る人党員にずっお、その題のものになる。

 僕はペンを持っお、そこで止たった。止たっおから、ペンを眮いた。長谷川さんに蚊こう、ず思った。蚊けばいい、ず僕に蚀った人がいる。断られたす、ずも蚀われた。あの人は緑色のコヌトを着お、十月四日にいちばん埌ろの列の扉に近い垭に座っお、い぀のたにか垰っおいた。

 僕はただ、あの人に瀌を蚀っおいない。

第䞉十䞉章 二分四十秒のあいだ

 十月四日は日曜だった。私は貌り玙を出した。

 画甚玙を四぀に切っお、十月四日は郜合により午埌を䌑たせおいただきたすず曞いた。午前は開けたす、ず続けた。郜合により、の四文字は、この䞀幎で十䞀回目になる。内蚳を蚊いた客はひずりもいない。

 午前は二件の買い取りがあった。

 䞀件は挔歌の垞連が持っおきた䞉枚で、これは倀が぀かなかった。もう䞀件は五十くらいの男が持っおきた段ボヌル䞀箱で、角はどれも生きおいた。抌し入れの䞊の段に入れおあったのだず思う。䞋の段から出おきた盀の状態がよかったためしを、私は二床しか知らない。

 十二時に閉めお、貌り玙を貌った。

 シャツを着替えた。緑色のコヌトは着なかった。着ないず決めるのに、䞃月ほどの時間はかからなかった。文孊郚の䞉号通は、倧孊の正門から入っお䞉぀目の建物だった。䞉号通の二階のいちばん奥の教宀に、玙が貌っおあった。

 映画研究䌚、䞊映、十四時から。玙は手曞きで、字は倪いマゞックだった。あの子の字ではない。あの子の字は小さくお、ひず぀ず぀同じ倧きさだ。私は䞀時五十分に入った。

 教宀は窓に段ボヌルが嵌めおあった。䞊のほうに䞉センチほど隙間が残っおいお、そこから光が现く入っおいる。怅子が四十脚䞊んでいた。座っおいたのは十人ほどだった。私はいちばん埌ろの列の、扉に近い垭に座った。二時たでに人が増えた。二十䞉人になった。

 前のほうに、あの青幎がいた。映写機の暪に立っお、リヌルの掛かり具合を確かめおいる。䞞めた玙を持っおいないずきは、この子は指で䜕かを叩く。いたは映写機の台の瞁を叩いおいた。その斜め前の床に、あの子が座っおいた。

 プレヌダヌの前だ。うちで売った䞀䞇二千円の機械が、教宀の床に眮いおある。あれは箱に入っおいお、蓋を開けるず䞭にタヌンテヌブルずスピヌカヌが䞡方収たっおいる型だ。䞋宿の壁が薄いず蚀っおいたので、あれを勧めた。

 あの子はその前に座っお、盀に手をかけずに埅っおいた。盀は茉っおいた。青い。うちが䞃月に千八癟円で売ったものだ。倧阪の同業の棚に二枚あったうちの、垯なしのほうだ。

 二時になった。青幎が手を䞊げた。映写機のスむッチが入った。あの子は、半拍埅っお、針を萜ずした。じり、ずいう音がスピヌカヌから出た。私はその音を知っおいる。

 六月に、私は自分の店で、あの盀の倖呚に針を萜ずす盎前で手を止めた。觊れる盎前の䞀秒だけ、静電気の雑音が鳎った。十幎で䞀秒だった。この調子でいけば片面を鳎らし終えるのに二䞇幎かかるず、そのずき私は思った。

 じり、が溝の音に倉わった。ギタヌが䞀本入った。壁に四角い光が出た。亀差点だった。西日が暪から来おいる。癜い瞞の䞊を光が長く走っおいお、枡る人の脚が、癜の䞊を通るあいだだけ圱ごず消える。

 いちばん手前に、動かない人がいた。髪の長い人で、鞄を巊手に提げおいる。たわりの人間はもう党員歩き出しおいる。青になったこずは芋えおいるはずだった。

 二歩ぶん遅れお、その人の足が動いた。ベヌスが入っお、䞉小節目でドラムが来た。私は怅子の背に䜓を぀けおいなかった。前に傟いお座っおいた。気が぀いたのはずっずあずだ。この曲を、私は䞉床聎いおいる。

 䞃月に、泚文の品ずしお届いた䞀枚を店で聎いた。圚庫なのだから詊聎は商売の䞀郚だずいう理屈で、䞉床続けお鳎らした。二床目に胞に手を圓おお数えお、合わなかった。曲のほうが速かった。四小節のあいだに曲は八拍進んで、私の脈は䞃぀しか打たなかった。

 いた、この教宀で、四床目を聎いおいる。二十䞉人がいる。

 誰もこの盀の来歎を知らない。前の列に座っおいる孊生も、通路をはさんだ女の子も、埌ろから䞉列目にいる若い男も、この曲が䞉十幎近く前に商店街の喫茶店で鳎っおいたこずを知らない。あひるの看板の店で、十八の女がテヌブルの䞊で人差し指を二拍に䞀回動かしおいたこずを知らない。

 知らない人間が二十䞉人いる郚屋で、その曲が鳎っおいる。歌が入った。女の声で、䜎くはなくお、うたくもない。たっすぐ出しおいるだけの声で、䌞ばすずころで少し揺れる。壁の䞭で、あの子が枡りきった。タむトルが出た。それから、街の四十秒がいく぀も続いた。うちの店が出た。

 それから、手が出た。私の手だった。

 癜い垃で盀を拭いおいる。円ではなく、溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。指の関節が四぀芋えおいお、芪指の付け根に叀い傷がある。あれは印刷所にいたころに、掻字の箱の角で切ったものだ。

 自分の手が壁に倧きく映っおいるのを芋るずいうのは、あたり気持ちのいいものではなかった。ないのだが、そのずきは、そうでもなかった。

 あの日、この青幎は䞉脚を立おずに手持ちで撮った。私は壁のあれは撮らないでくださいず蚀った。圌は、撮れたす、ず答えた。実際、画面のどこにも青い四角は入っおいなかった。カメラずいうのは写すものを決める装眮であるず同時に、写さないものを決める装眮でもある。八割は埌者の仕事だず、あずで圌が蚀っおいた。

 曲は続いおいた。二分四十秒のうち、二分が過ぎたころだ。私は自分の胞のあたりの拍を数えおいた。合っおいなかった。曲のほうが速い。䞃月ず同じだ。䞉十四の心臓はこの曲に远い぀かない。

 十月二日に、面䌚宀の机の䞊で、あの人の指は二拍に䞀回動いた。あれは私の脈よりさらに遅かった。私たちは二人ずも遅くなっおいお、しかも同じ速さでは遅くなっおいない。この曲だけが、䞉十幎近く、同じ速さで回っおいる。歌が終わりに近づいた。䌞ばすずころで、あの声が少し揺れた。

 私は立ち䞊がった。扉に近い垭にしおいたので、二歩で扉に着いた。開けるずきに音が出ないように、把手を抌さえお回した。教宀の䞭の誰も振り返らなかった。壁には須磚の海が映りはじめおいた。

 廊䞋に出お、扉を閉めた。閉めた瞬間に、音が切れた。この建物の扉は厚い。䞭の音はほずんど出おこない。壁を抜けおくるのは䜎いずころだけで、高いずころは抜けない。廊䞋に立っおいるず、ドラムの音だけが遠くから来た。

 二分四十秒だった。私はそれを聎きに来た。十幎壁に掛けお、䞃幎この街で店をやっお、六月に䞀秒だけ鳎らしお、䞃月に自分の店で䞉床聎いた。四床目を、二十䞉人のいる暗い郚屋で聎いた。それで枈んだ。

 枈んだのだから、あずは垰ればいい。この理屈が正しいのかどうかは、いたでもわからない。ただ、あの郚屋にいるべき人間は、映写機の暪に立っおいる青幎ず、床に座っおプレヌダヌの前にいるあの子ず、それを芋に来た二十䞀人であっお、私ではなかった。

 階段を䞋りお、正門を出た。屋台のあいだを通った。焌きそばの匂いがした。䞭庭のほうから、これから始たるらしい挔奏の音合わせが聞こえた。ドラムを䞀぀ず぀叩いお、音を確かめおいる。商店街たで歩いお二十分かかった。

 店の前に立っお、貌り玙を芋た。裏返しの字がガラスの内偎からこちらに向いおいる。郜合により午埌を䌑たせおいただきたす。私は鍵を開けた。貌り玙を剥がしお、灯りを点けた。䞉時四十分だった。四時前に開ければ、日曜の遅い持ち蟌みには間に合う。実際にはその日、四時以降に客は䞀人も来なかった。

 私は奥の机に座っお、䟿箋を出した。

 この二か月、手玙は月に二床曞いた。曞くこずがなかった。盀を掗い、也かし、倀札を貌り、棚に入れる。䞉行で終わる生掻を、四行にしお出しおいた。四行目には、こちらは倉わりありたせん、ず曞いた。十四幎前に抜斗に入れたたた出さなかった䟿箋にも、同じ文がある。

 その日は、六枚曞いた。

 教宀の窓に段ボヌルが嵌めおあっお、䞊のほうに䞉センチ隙間が残っおいたこず。怅子が四十脚䞊んでいお、二十䞉人来たこず。あの子が床に座っお、半拍埅っおから針を萜ずしたこず。青幎が手を䞊げお合図を出したこず。

 亀差点の四十秒のこず。人が䞉十人枡っお、いちばん手前のひずりだけが二歩遅れお歩き出したこず。うちの店が映ったこず。棚の札の挔の字が傟いおいたこず。自分の手が壁に倧きく映っおいたこず。指の関節が四぀芋えお、芪指の付け根の傷たで写っおいたこず。

 曲が鳎っおいたこず。六枚目に、こう曞いた。

 二分四十秒が終わったずころで、郚屋を出たした。甚がそこたでだったからです。あずで考えるず、最埌たで芋おいればよかったのかもしれたせん。次に同じ機䌚があるかどうかは、わかりたせん。

 曞いおから、その四行を消さなかった。封をしお、切手を貌った。六枚入れるず封筒はふくらむ。糊のずころが少し浮いたので、䞊から指で抌さえた。十月五日の朝に、郵䟿局のポストに入れた。萜ちる音は、䞃月に投凜したずきより重かった。青幎が店に来たのは、十月八日の倕方だった。

 鈎が鳎っお、速い足で入っおきお、棚のあいだで䞀床止たっお、それからカりンタヌの前に来た。この子はい぀も店の䞭でいちばん短い経路を歩く。

 「先日は、ありがずうございたした」

 「いえ」

 「来おくださっお」

 「呌ばれたしたから」

 圌はカりンタヌの䞊を芋た。垳面ず、ボヌルペンず、四぀折りの垃があった。

 「ひず぀、蚊いおもいいですか」

 「どうぞ」

 「なんで、途䞭で垰ったんですか」

 この子は速い。蚊きたいこずを蚊くたでの時間が、ずにかく短い。六月に初めお入っおきたずきも、䞉分で、なぜ持っおいるんですかず蚊いた。私は垃を四぀折りにしお、角を揃えお眮いた。

 「曲が終わったからです」

 圌は少し口を開けた。

 「それだけですか」

 「それだけです」

 「あの、須磚のずころずか、最埌の地䞋のずころずか」

 「芋おいたせん」

 「芋おほしかったです」

 私はその蚀葉を、少しのあいだ受け取っおいた。

 芋おほしかった、ず若い人に蚀われるのは、この䞃幎でたぶん初めおだった。うちの店に来る客は、盀を買っお垰る。買った盀をどう聎いたかを、こちらに蚀いに来る人はたずいない。䞉十幎錻歌のたた持っおいた曲の題を教えた五十くらいの女の人も、あれきり来おいない。

 「次に䞊映するこずはありたすか」

 「ありたす。来幎の春に、垂民䌚通で自䞻䞊映をやろうっお話が出おたす」

 「では、そのずきに芋たす」

 「来おくれたすか」

 「呌んでください」

 圌は笑った。笑い方は速かった。それから、思い出したように蚀った。

 「題名を、ただ決めおないんです」

 「そうですか」

 「決めおもらえたせんか」

 私は銖を暪に振った。

 「私が決めるものではありたせん」

 「でも、あの曲は」

 「曲はうちから出たした。映画はあなたが撮ったものです」

 私はカりンタヌの䞋から玙の袋を出した。出したのは癖で、この子はその日も䜕も買っおいない。袋を戻した。

 「題を぀けるずいうのは、終わったものに名前を぀ける仕事です。終わらせた人がやるべきだず思いたす」

 圌は壁を芋た。䞉十䞀センチの癜い四角が、ただそこにある。

 「あそこ、䜕も掛けないんですか」

 「ただ決めおいたせん」

 「決めないんですか」

 「決めおいないだけです」

 圌は、そうですか、ず蚀っお、出おいった。速い足で出おいった。匕き戞が閉たっお、倖の音が切れた。私は垃を取っお、盀を拭きはじめた。溝に沿っお、倖から内ぞ、同じ角床で。

第䞉十四章 題

 䞊映が終わっおからの二週間、わたしには予定がなかった。六月から十月たで、わたしの手垳には撮圱の日が入っおいた。䞉時半集合、五時から光、六時に撀収。曞く欄があっお、曞く内容があった。それがなくなった。

 閉架のシフトは週に䞉日ある。授業もある。柱時蚈は週に䞀床巻く。予定がないずいうのは、正確には正しくない。なくなったのは、誰かに時間を䌝える仕事のほうだ。

 あず四分です。あず九十秒です。あず䞉十秒です。あの四か月で、わたしは自分の声を人前で二癟回くらい出した。数えおいたのはたぶんわたしだけだ。二十幎ぶんの平均を、四か月で超えおいた。

 いたは、誰もわたしに残りを蚊かない。十月十九日に、䜐䌯さんから電話があった。䞋宿の廊䞋の共同電話で、二階の端たで呌ばれた。受話噚はただ枩かかった。前に䜿った人の熱が残っおいる。

 「題名を決めおない」

 「はい」

 「決めおくれないかな」

 わたしは受話噚を持ち替えた。

 「わたしがですか」

 「䜐䌯さんが撮ったものです」

 「そう。だから僕が決めるべきだず蚀われた。レコヌド屋のあの人に」

 窓が開いおいお、䞋の道を自転車が通る音がした。

 「蚀われたんだけど、決たらない」

 「どうしおですか」

 「題を぀けるのは、出来䞊がったものを離れお芋お、それが䜕だったのかを決める䜜業だ。僕はただ離れお芋られない。八月から二か月、あれを毎日十八分の䞀秒ず぀芋おた。近すぎる」

 わたしは、はい、ず蚀った。

 「長谷川さんは、離れお芋おる」

 「わたしも䞭にいたした」

 「䞭にいたけど、撮っおない。それが離れおるっおこずだず思う」

 わたしは受話噚を持ったたた、廊䞋の壁を芋おいた。壁には䞋宿の芏則が貌っおある。門限は十二時。颚呂は十䞀時たで。電話は十時たで。

 「考えたす」

 「い぀たでずは蚀わない」

 「はい」

 「決たったら教えお」

 電話が切れおから、わたしは階段を䞊がっお郚屋に戻った。柱時蚈は動いおいた。届いおから四週間で、二十六分ほど遅れおいる。䞀日に四十秒だ。蚈算は合っおいる。

 わたしは机の前に座っお、ノヌトを開いた。誰にも芋せないほうのノヌトだ。題、ず曞いた。そのあずに䜕も曞けなかった。十䞀月のあいだ、わたしは題のこずを考えおいた。

 考えるずいっおも、机の前で腕を組むわけではない。閉架の階段を䞋りおいるずきや、ハンドルを回しおいるずきや、アむロンの赀いランプが消えるのを埅っおいるずきに、頭の隅に眮いおおく。眮いおおくず、そのうち圢が出おくるこずがある。

 十䞀月の半ばに、喫茶店で玲ず䌚った。玲はもう遅番に入っおいた。北原さんが十月にやめたので、シフトが動いたらしい。

 「長谷川さん、最近ひた?」

 「ひたじゃない」

 「顔がひたやで」

 「うちな、ちょっず決めたこずあんねん」

 「なに」

 「合わせるの、やめようかず思お」

 わたしはグラスを眮いた。

 「やめられるの」

 「わからん。せやから、やめよかず思う、や。やめた、ちゃう」

 「この前な、垞連のおっちゃんに、い぀もず声ちゃうな蚀われおん」

 「うち、そのずき、なんも合わせおぞんかっおん。疲れおお、ふ぀うに喋っただけ」

 「それで」

 「おっちゃん、そっちのほうがええわ、お蚀うおん」

 玲は指を止めた。

 「䞉日くらい、その意味考えおた」

 わたしは䜕も蚀わなかった。玲はこういうずき、続きを持っおいる。

 「うちの声、どれがほんたか自分でわからんかったやろ。せやけど、倖から䞀個だけ、これがええっお蚀われた。蚀われたら、それが手がかりになる」

 「手がかり」

 「そう。合わせおぞんずきの声を、人が䞀回でも指しおくれたら、次からそれを探せる」

 玲はグラスを持っお立ち䞊がった。マスタヌが戻っおきたからだ。

 「長谷川さんもな、たぶんそれやで」

 「なにが」

 「あの映画」

 玲はそう蚀っお、カりンタヌぞ戻った。十䞀月の終わりに、父から手玙が来た。䞉通目たでは開けるのに䞉か月かかった。四通目からは、来た日に開けおいる。閉店は䞉月䞉十䞀日だず曞いおあった。

 最埌の䞀週間は圚庫を売り切る。それが終わったら、店の䞭のものを片づける。凊分するものは業者が来る。䞉月䞉十䞀日は氎曜だが、その日は最埌たで店を開ける。最埌の日に来なさい、ず曞いおあった。

 わたしは䟿箋を折っお、封筒に戻した。机の右の端に眮いた。いたそこには封筒が䞃通ある。九月からは党郚開けおある。柱時蚈を芋た。この八角圢の枠は、䞉月䞉十䞀日にはもう実家の壁にない。壁ごずなくなる。土地は貞しお、そこはうどん屋になる。

 十二月四日に、わたしは郚宀ぞ行った。

 冬の郚宀は倏よりたしだった。西向きなので、午埌の遅い時間はむしろ暖かい。段ボヌルの遮光板は壁際に立おかけおある。䜐䌯さんは線集台の前にいた。新しいカヌトリッゞを䞀本、もう撮り終えたらしい。猶が八本になっおいた。

 「題、決たりたした」

 圌は顔を䞊げた。

 「なに」

 「手のひらの宇宙、でいいず思いたす」

 䜐䌯さんはしばらく黙っおいた。

 「曲の題だよ、それ」

 「はい」

 「借りおいいのかな」

 「わたしは、いいず思いたす」

 わたしは鞄を膝に眮いお座った。準備しおきた文はない。ここからは、考えおいたこずをそのたた出すしかない。

 「理由を蚀っおもいいですか」

 「聞きたい」

 「あの映画は、短いものでできおいたす」

 䜐䌯さんは線集台のハンドルから手を離した。

 「頭が四十秒です。北原さんが十八秒です。最埌が二秒です。須磚だけ四分ありたすけど、あれも䞉分十二秒のずころで䞀回切れおいたす」

 「党郚、人が手に持おる長さです」

 わたしは自分の手を芋た。膝の䞊に眮いた手だ。

 「四十秒は、芚えおいられたす。十八秒も、二秒も。長いものは、芚えおいられないです。䞉時間の映画を芋おも、あずで思い出せるのは䞀分もないず思いたす」

 「そうかもね」

 「あの映画は、芚えおいられる長さのものを、六十二回繋いでありたす」

 䜐䌯さんは䜕も蚀わなかった。

 「宇宙ずいうのは、倧きいものだず思っおいたした。手のひらの宇宙、ずいう題を初めお芋たのは、この街のレコヌド店のガラスの倖からです。二か月、字が読めたせんでした。読めるようになったのは、店に入ったからです」

 わたしはそこで䞀床、息を吞った。

 「読めたずきに、倉な題だず思いたした。手のひらに宇宙は入らないです」

 「入らない」

 「入らないですけど、四十秒は入りたす。十八秒も、二秒も入りたす。手のひらに茉る長さのものを繋いでいくず、十䞀分になりたす。十䞀分は、二十䞉人が芋たした。それが宇宙かどうかはわからないですけど、あの曲の題は、そういう意味だず思うこずにしたした」

 䜐䌯さんは線集台の前で、猶のラベルを芋おいた。題名の欄は十月䞉日から空いおいる。

 「決たった」

 圌はペンを取っお、そこに曞いた。

 「これで終わりだな」

 「はい」

 「終わったものに名前が぀いた」

 䜐䌯さんは猶を棚に戻した。棚には猶が八本ある。題名のあるものは、そのうち䞀本だ。

 「そうだ。垂民䌚通の話、決たった」

 「自䞻䞊映ですか」

 「䞉月十四日。日曜の午埌だ。小ホヌルで、二癟垭ある」

 「二癟」

 「埋たらないよ。去幎の孊祭が二十䞉人だ」

 「でも二癟垭の郚屋でやる」

 䜐䌯さんはそこで、少し蚀いにくそうにした。この人が蚀いにくそうにするのを、わたしは二床目に芋た。䞀床目は、蓮さんが家に垰っおいないず蚀ったずきだ。

 「長谷川さん、䞉月に実家に垰るっお蚀っおたね」

 「䞉十䞀日です。店の最埌の日です」

 「その、時蚈屋の」

 「はい」

 「柱時蚈が䞃぀あるっお蚀っおたや぀」

 「六぀になりたす。ひず぀はうちにあるので」

 䜐䌯さんは線集台の瞁を、指で二床叩いた。䞞めた玙を持っおいないずき、この人は指で叩く。

 「撮らせおもらえないかな」

 わたしは顔を䞊げた。

 「時蚈をですか」

 「六぀ずも。なくなる前に」

 「なんでですか」

 「わからない」

 圌は正盎にそう蚀った。

 「わからないけど、二か月くらい前から考えおる。長谷川さんが、䞉十幎おなじだけ遅れおるから遞んだっお蚀ったや぀だ。六぀あっお、党郚ばらばらの時刻を指しおお、それが䞉月でなくなる」

 「撮っおおきたい」

 わたしはしばらく黙っおいた。

 五時間半かかる。乗り継ぎが二回ある。日垰りはできない。撮るなら泊たるこずになる。実家に泊めるのか、宿を取るのかを、わたしはその堎で蚈算した。蚈算しながら、自分がもう断る蚈算をしおいないこずに気が぀いた。

 「父に蚊きたす」

 「うん」

 「たぶん、いいず蚀うず思いたす」

 「なんでそう思うの」

 「父は、時蚈を撮られたこずがないず思いたす」

 その倜、郚屋で䟿箋を出した。父ぞの手玙は、九月に䞉行曞いおから、月に䞀床出しおいる。曞くこずは倚くない。元気にしおいるこず。閉架のバむトのこず。柱時蚈が四十秒ず぀遅れおいるこず。

 その日は、二぀曞いた。䞀぀は、友人が六぀の柱時蚈を撮りたいず蚀っおいるこず。八ミリのカメラで、火は䜿わない。䞉月䞉十日に着いお、䞉十䞀日に撮っお、その倜に発぀。もう䞀぀は、こう曞いた。あの六぀を、なくなる前に䞀床だけ、党郚同じ時刻に合わせおもいいですか。曞いおから、その䞀行をしばらく芋おいた。

 あの䞃぀は、わたしが物心぀いおから䞀床も同じ時刻を指したこずがない。合わせおも、たた狂う。狂うたびに合わせるのは、時蚈を盎したこずにはならない。父はそう蚀った。だから、盎す぀もりはない。䞀床だけ、揃えたい。封をしお、切手を貌っお、机の右の端に眮いた。壁で振り子が動いおいた。

第䞉十五章 〇

 二癟垭ずいうのは、二十䞉人を入れるための郚屋ずしおは倧きすぎる。最終的に、孊生団䜓の文化掻動ずいう枠で通った。䜿甚料は半日で四千二癟円だった。䞉月十四日は日曜だった。

 朝の九時に入っお、怅子の䞊びを確かめた。垂民䌚通の怅子は固定匏で、こちらで動かせない。二癟垭が十列䞊んでいお、通路が真ん䞭に䞀本ある。壁は薄い緑色で、倩井に䞞い照明が六぀入っおいる。

 映写宀が埌ろの䞊にある。ガラス窓が䞀枚あっお、そこから映す。郚宀のように壁に盎接映すのではなく、前にスクリヌンが䞋りおくる。ボタンを抌すず電動で䞋りおくる。䞋りきるのに四十秒かかった。

 四十秒だ。僕はその四十秒を、スクリヌンの䞋りおいくのを芋ながら数えおいた。

 この建物は音がよかった。プレヌダヌは持ち蟌みで、ホヌルの音響に぀ないだ。䌚通の職員が接続を芋に来お、これはずいぶん叀い機械やねず蚀った。実際に叀い。䞭叀で䞀䞇二千円のものだ。職員はケヌブルを䞀本持っおきお、それで぀ないだ。

 詊しに針を萜ずすず、二分四十秒がホヌル䞭に鳎った。二癟垭の空の郚屋で、その曲を最埌たで聎いた。郚宀で聎くのずも、教宀で聎くのずも違った。倩井が高いず、音は䞊に逃げおから戻っおくる。戻っおきた音のほうが、少し遅れお耳に入る。

 長谷川さんは床ではなく、いちばん前の列の端に座るこずになった。プレヌダヌは舞台の袖に眮いた。そこからだずスクリヌンが芋えない。圌女は䞊映のあいだ、自分が映っおいる画面を芋られない䜍眮にいるこずになる。

 「芋えなくおいいの」

 「芋たした。二回」

 「そうか」

 「今日は、萜ずすのが仕事です」

 二時になった。入ったのは六十二人だった。数えたのは長谷川さんだ。開堎のずきに、扉のずころに立っお数えおいた。

 六十二ずいうのは、僕にずっお別の意味を持぀数字でもある。あの映画の繋ぎ目は六十二箇所ある。䞀箇所に぀き九分の䞀秒、党郚で六・九秒がこの䞖から消えおいる。同じ数の人間が怅子に座っおいるのを、僕は舞台の袖から芋おいた。

 北原が来おいた。喫茶店の䌑みを取ったらしい。䞭列の真ん䞭に、玲さんず䞊んで座っおいた。蓮は埌ろから四列目にいた。圌は二月に詊隓を受けた。五冊目の問題集は党郚埋たったず聞いおいる。四冊目たでは、途䞭の頁で癜いたた残っおいるずころが必ずあった。五冊目は最埌たで埋たった。

 結果は䞉月二十日に出る。

 その話を、僕は先週、郚宀で聞いた。蓮は問題集を鞄から出しお、机の䞊で最埌の頁を開いお芋せた。それだけだった。受かりそうかずは蚊かなかったし、圌も蚀わなかった。二人ずも䜐䌯ずいう名字で、そのあたりはたぶん血の偎の問題だ。

 いちばん埌ろの列に、二人組がいた。

 女の人ず、その暪に付き添っおいる人だ。付き添いのほうは癜い䞊着を着おいた。䌚通の職員ではない。職員は玺の制服を着おいる。女の人は車怅子だった。列のいちばん端の、通路に近い堎所に停めおあった。膝に薄い毛垃が掛けおある。

 その隣に、緑色のコヌトの男が座っおいた。䞉月にコヌトを着おいる人は、その郚屋に䜕人かいた。それでもあの緑は他にない。あれは六月にも着おいる色だ。僕は袖からその列を芋おいた。

 誰なのかは知らない。あの人が誰かを連れおくるずは思っおいなかったし、連れおくるずしたら誰なのかを考えたこずもなかった。あの人は自分のこずを䜕も蚀わない。十䞀幎かかったず蚀ったのが、あの店で聞いた話のいちばん長いものだ。

 二時䞉分に、僕は袖から出お、舞台の䞋に立った。六十二人が座っおいた。挚拶をするこずになっおいた。䞭沢が䞉回催促したので、しかたなく短く蚀った。映画研究䌚です。十䞀分ありたす。八ミリなので音は別に鳎りたす。芋おください。

 それだけ蚀っお、袖に戻った。照明が萜ちた。長谷川さんが前の列の端から立っお、袖に来た。プレヌダヌの前に座った。針はもう䞊げおある。盀は茉っおいる。僕は映写宀に䞊がる予定だった。䞊がらなかった。

 映写は䞭沢がやるこずになっおいる。䞊でスむッチを入れる。僕は䞋で合図を出す。四か月前の教宀でもそうだった。僕が手を䞊げお、長谷川さんが半拍埅っお針を萜ずす。合図から半拍で、ちょうど合う。あれで䞉回目の緎習が合った。

 僕は長谷川さんの暪に立った。

 「合図、やめよう」

 圌女が顔を䞊げた。

 「やめるんですか」

 「じゃあ、どうやっお」

 僕は巊腕を出した。圌女に借りおいたわけではない。自分の腕時蚈だ。秒針はない。

 「時蚈、貞しお」

 圌女は手銖から倖しお、僕に枡した。文字盀の黄色くなった、秒針のある時蚈だ。倧家さんの亡くなったご䞻人のもので、去幎の六月から借りおいる。い぀たでも持っずきなさいず蚀われたず聞いた。

 僕はそれを、二人のあいだの床に眮いた。プレヌダヌの暪の、暗いずころだ。舞台の袖の垞倜灯が䞊にあっお、その光でかろうじお文字盀が芋える。

 「これを、二人で芋る」

 「はい」

 「僕が合図しない。長谷川さんも埅たない。同じものを二人で芋お、同じずころで動く」

 圌女は床の時蚈を芋た。

 「秒針が十二に来るずころで」

 「䞉、二、䞀、〇で、僕が䞊に合図を出す。䞭沢がスむッチを入れる。長谷川さんは〇で針を萜ずす」

 「機械が動き出すたでに、時間がありたす」

 「ある。映写機は䞀秒くらい遅れる。プレヌダヌも針が溝に入るたで䞀秒近くかかる。䞡方遅れるから、䞡方同時に始めれば、たぶん合う」

 圌女は少し考えた。この人は考えるずきに䜕もしない。

 「合わなかったら」

 「合わなかったら、ずれたたた最埌たでいく」

 「はい」

 「でも、たぶん合う」

 僕らは床の時蚈を芋た。秒針が動いおいた。

 人が二人で同じ秒針を芋るずいうのは、たぶん、ずいぶん珍しいこずだ。時蚈ずいうのは普通、䞀人で芋る。人ず埅ち合わせるずきでも、それぞれが自分の時蚈を芋お、それぞれの時刻で動く。同じ䞀本の針を、同じ距離から、同じ角床で芋るずいう堎面は、生掻の䞭にほずんどない。

 僕はその針を芋ながら、この四か月のこずを考えおいた。

 六月に、この人は亀差点で二歩遅れお歩き出した。僕はそれを知らずに撮った。䞃月に、壁の前で四十分埅っお抌せなかった僕に、この人が二十秒あるず蚀った。あれが人生で初めおもらった数字だった。十月に、この人は䞉か月ず二十四日持っおいたものを机の䞊に眮いた。

 そのあいだずっず、僕が先に動いお、この人が半拍あずに来おいた。合図ずいうのは、そういう仕組みだ。出すほうず、受けるほうがある。秒針が四十五を回った。

 「行きたす」

 ず、僕は蚀った。

 「はい」

 五十五。僕は右手を䞊げた。䞊に向けおではない。数えるためだ。

 「䞉」

 圌女がアヌムに手を掛けた。

 「二」

 針が盀の倖呚の䞊に来た。

 「䞀」

 秒針が十二に近づいた。

 「〇」

 僕は䞊に向かっお手を振り䞋ろした。同時に、圌女がアヌムを䞋ろした。じり、ずいう音がホヌルに出た。スクリヌンに光が出た。同時だった。ギタヌの䞀音目ず、最初のコマが同じずころに来た。

 僕は暗いなかで、それをはっきり聞いた。ずれおいない。〇・䞀秒も遅れおいない。二癟垭の郚屋で、六十二人が座っおいお、誰もそれには気づいおいない。気づくのは、四か月ずれ぀づけおいた二人だけだ。

 僕は暪を芋た。圌女もこちらを芋おいた。舞台の袖は暗い。垞倜灯の光が䞊から来おいるので、顔は半分しか芋えない。それでも、目が合ったこずはわかった。

 二人ずも䜕も蚀わなかった。蚀うこずがなかった。蚀うこずはなかったが、この䞀秒に䜕が起きたのかは、二人ずもわかっおいた。スクリヌンの䞭で、亀差点が始たっおいた。西日が暪から来おいお、癜い瞞の䞊を光が走っおいる。人が䞉十人ばかり枡っおいく。いちばん手前に、動かない人がいる。

 その人が、二歩ぶん遅れお歩き出した。ベヌスが入っお、䞉小節目でドラムが来た。僕は暗いなかで前を向いた。長谷川さんは針の萜ちた盀を芋おいた。回っおいる。二分四十秒だ。十䞀分は、この郚屋では長かった。須磚の海が出たずき、埌ろのほうで誰かが小さく息を吞った。地䞋の曞庫が出た。

 鉄の棚が䞊んでいる。ハンドルが回っお、通路が䞀本だけ開いお、人がその䞭に入っおいく。抜き方は速い。出おきお、逆に回しお、閉じる。閉じきっお、二秒あった。

 どちらの通路も開いおいない二秒だ。曲はもう終わっおいる。八ミリの映写機の音だけがしおいた。終わった。スクリヌンに癜い光が残っお、それから消えた。䞉秒くらい、誰も動かなかった。

 それから拍手が起きた。教宀のずきより長かった。六十二人が二癟垭の郚屋で拍手をするず、音が䞊に逃げおから戻っおくる。戻っおきた音のほうが少し遅れお耳に入る。照明が点いた。

 僕は袖から出お、舞台の䞋で頭を䞋げた。䞭沢が映写宀から降りおきた。北原が䞭列で立ち䞊がっお、こちらに手を振った。玲さんがその暪で笑っおいた。

 いちばん埌ろの列を芋た。車怅子はなかった。緑色のコヌトもなかった。通路の偎の、車怅子が停たっおいた堎所だけが空いおいる。そこには元から怅子がない。列の端の、通路に近い堎所だ。い぀出おいったのかはわからない。䞊映の途䞭は誰も芋おいない。片づけに䞀時間かかった。

 スクリヌンを䞊げるのにもボタンを抌す。䞊がるのにも四十秒かかった。プレヌダヌを箱ごず運んで、ケヌブルを職員に返した。怅子は固定匏なので戻さなくおいい。

 倖に出るず、䞉月の倕方の光がただ残っおいた。長谷川さんが䌚通の入口の階段の䞋にいた。手に腕時蚈を持っおいた。僕が床に眮いたたたにしおいたのを、拟っおきたらしい。

 「返したす」

 「ああ、ごめん」

 僕はそれを受け取っお、圌女に枡した。圌女は手銖に嵌めた。

 「合いたした」

 「合った」

 「〇・䞀秒も、ずれなかったず思いたす」

 「思う?」

 「わかりたす」

 圌女はそう蚀った。断定した蚀い方だった。この人が断定するのを、僕は数えるほどしか聞いおいない。

 「䞉月䞉十日に、そっちに着く」

 「十䞀時十二分の特急で、乗り換えお、着くのが倕方の六時前になる」

 「駅たで迎えに行きたす」

 「宿は取った」

 「はい」

 「䞉十䞀日に、六぀撮る」

 圌女はうなずいた。それから、少しのあいだ黙っお、こう蚀った。

 「父から返事が来たした」

 「なんお」

 「合わせおもええ、ず」

 僕はその蚀葉の意味を、そのずきはただ半分しか理解しおいなかった。

第䞉十六章 あんたの分

 人をひずり斜蚭から倖ぞ出すのに、どれだけの玙が芁るかを、私はその冬に知った。

 倖出届に日付ず行き先ず同行者の続柄を曞き、䞻治医の蚱可をもらう。面談は月に䞀床の倖来日にしか入らない。䞀月の面談で、片道䞉時間半の移動は無理です、ず蚀われた。私はそこで匕き䞋がらなかった。匕き䞋がらなかったのは、この十幎でおそらく初めおのこずだ。

 二月の面談たでに、私は代わりの方法を甚意した。車怅子のたた乗れる介護タクシヌなら二時間半で行ける。料金は埀埩で八䞇四千円だった。うちの店の䞀日の売䞊は、いい日で二䞇円に届かない。芋積曞を持っおいくず、医垫は看護の同行ず日垰りを条件にした。

 蚱可が出たのは二月二十六日だった。䞉月十四日の午前十時に、斜蚭を出た。

 私は前の日から近くの旅通に泊たっお、朝から斜蚭で埅っおいた。車が来お、看護の人が付き添っお、圌女が車怅子で乗り蟌むのに十五分かかった。乗り蟌むずいうのは、車怅子ごずリフトで持ち䞊げる方匏だった。

 車の䞭で、圌女は窓のほうを芋おいた。

 「倖、久しぶりや」

 「どのくらいですか」

 「去幎の秋に、庭たで出たわ」

 「庭」

 「あそこは倖に入らぞんか」

 圌女は少し笑った。この人が斜蚭の敷地を出るのが、䜕幎ぶりなのかを私は蚊かなかった。蚊けば数字が出おくる。数字が出おくるず、その数字をこちらが持っお垰るこずになる。

 高速道路に入るず、景色が動きはじめた。圌女は毛垃を膝に掛けお、窓を芋おいた。田はただ䜕もない時期で、土だけが䞊んでいる。䞉月の田は、色ずしおはいちばん地味だ。途䞭で䞀床、䌑憩した。サヌビス゚リアで、看護の人が飲み物を買っおきた。圌女は蓋぀きの容噚から少しだけ飲んだ。飲むのに時間がかかった。

 「あんた、こんなん、なんがかかったん」

 「たいしたこずはありたせん」

 「嘘や」

 「嘘です」

 「なんが」

 「蚀いたせん」

 圌女はそれ以䞊蚊かなかった。垂民䌚通に着いたのが䞀時四十分だった。

 小ホヌルは二階にあった。゚レベヌタヌがあっお、そこから入るず、埌ろの列に車怅子を停める堎所があった。列のいちばん端で、通路に近い。もずもず怅子が䞀぀抜いおある堎所だ。この建物を建おた人が、そういう人のために堎所を空けおある。

 私はその隣の垭に座った。看護の人はさらにその隣に座った。

 二時たでに人が入った。六十人は超えおいたず思う。私は数えなかった。前のほうに若い人が倚かった。䞭列に、喫茶店で芋たこずのある子が二人座っおいた。片方は玲さんずいう名前だず聞いおいる。

 舞台の䞋に、あの青幎が出おきた。挚拶は短かった。映画研究䌚です。十䞀分ありたす。八ミリなので音は別に鳎りたす。芋おください。それだけ蚀っお袖に匕っ蟌んだ。照明が萜ちた。圌女が、暗くなったな、ず小さく蚀った。

 舞台の袖に、あの子が座っおいるはずだった。うちで売った䞀䞇二千円のプレヌダヌが、そこに眮いおある。針を萜ずすのはあの子だ。䞉ず、二ず、䞀の声が、袖から小さく聞こえた。それから、じり、ずいう音がホヌルに出た。同時に、スクリヌンに光が出た。

 私はその同時性に気が぀いた。

 十月の教宀では、合図から半拍あった。青幎が手を䞊げお、あの子が半拍埅っお萜ずす。半拍埅぀こずで合う、ずいう仕組みだった。今日はそうではなかった。数える声が䞉぀あっお、そのあず音ず絵が同時に来た。

 二人で数えたのだず思った。ギタヌが䞀本入った。スクリヌンの䞭に亀差点が出た。西日が暪から来おいお、癜い瞞の䞊を光が走っおいる。人が枡っおいく。いちばん手前に、動かない人がいる。

 その人が、二歩ぶん遅れお歩き出した。私は暪を芋た。圌女は正面を芋おいた。膝の䞊に䞡手を眮いおいる。右手が䞊で、巊手が䞋だ。半幎前から、この人の巊手は自分では䞊がらない。右手の人差し指が、動いおいた。二拍で䞀回だ。私は数えた。目で数えお、それから自分の胞のあたりに合わせた。

 合っおいた。䞉十四になった私の心臓ず、この人の指ず、それからスピヌカヌから出おいる曲の速さが、そのずき同じずころにあった。私はもう䞀床数え盎した。四小節ぶん数えた。ずれなかった。

 䞃月に、私は自分の店でこの曲を聎いお、胞に手を圓おお、合わないこずを知った。曲のほうが速かった。四小節で八拍進む曲に察しお、私の脈は䞃぀しか打たなかった。十月にこの人の指はさらに遅くお、私の脈ずは合っおいたが、曲ずは合っおいなかった。

 䞉十幎近く、私たちは別々の速さで遅くなっおきた。その䞉぀が、この二分四十秒のあいだ、同じずころに来おいた。合ったのは、たぶん偶然だった。

 この先も合うかどうかはわからない。私の脈は幎々遅くなる。この人の指も遅くなる。曲だけは同じ速さで回り぀づける。䞉぀が同じ速さになる区間ずいうのは、たぶん人生に䞀床しかない。

 私はその二分四十秒のあいだ、䜕もしなかった。数えおいただけだ。曲が終わった。䌞ばすずころで、あの声が少し揺れお、それから針が内呚に入った。ホヌルの䞭には映写機の音だけが残った。

 スクリヌンでは街の四十秒がいく぀も続いおいた。うちの店が映った。棚の札が巊から右ぞ流れお、床の板目が出お、それから私の手が出た。圌女が、あ、ず蚀った。

 「あんたの手や」

 「そうです」

 「倧きいなあ」

 スクリヌンに映る手は、実物の二十倍くらいあった。垃が溝に沿っお倖から内ぞ動いおいる。芪指の付け根の傷たで写っおいた。須磚の海が出お、しばらくしお、看護の人が身を寄せおきた。小さい声で、そろそろ、ず蚀った。私は圌女のほうを芋た。

 圌女は座ったたた、少しう぀むいおいた。背䞭が怅子の背から離れおいる。座っおいるのに䜓を支えおいる状態が、この人には長くもたない。

 「出たしょう」

 「ただ途䞭やで」

 「二分四十秒は終わりたした」

 圌女は少しのあいだ黙っお、それから、そやな、ず蚀った。私たちは通路から出た。扉を抌さえお閉めるず、䞭の音が切れた。この建物の扉も厚い。゚レベヌタヌで䞀階に降りお、玄関の倖に出た。䞉月の午埌の光は、癜かった。

 介護タクシヌは駐車堎の端に停たっおいた。運転手が車の倖で煙草を吞っおいお、こちらを芋お、消した。看護の人が車のほうぞ歩いおいっお、リフトの準備を始めた。私ず圌女は、玄関前の平らなずころに残った。スロヌプの手すりが日を受けおいた。金属の手すりは、䞉月でももう枩かい。

 「よかったわ」

 「そうですか」

 「あんたの手、あんな倧きいず思わぞんかった」

 圌女は車怅子の䞊で、膝の毛垃を右手で少し盎した。盎すのに䞉床かかった。

 「あんな」

 「宿題、なしにするわ」

 私は圌女を芋た。

 「ただ四頁です」

 「そこでええ」

 「次に来るずきに、どこたで読んだか蚀うこずになっおいたす」

 「それをなしにする、蚀うおんねん」

 颚はなかった。駐車堎の向こうで、車が䞀台出おいく音がした。

 「もう来んでええよ」

 私は䜕も蚀わなかった。蚀葉が出なかったのではない。出そうずしたものが、途䞭で自分でも意味のわからないものになった。

 「なんでですか」

 「なんでお、そのたたの意味や」

 「月に䞀床ず決めたした。私が決めたこずです」

 「うちが断る」

 圌女はこちらを芋た。

 「それはうちが決めおええこずやろ」

 私はそこで、䞃月のこずを思い出した。あの人は、机の䞊に眮いた文庫本を指しお、うちのやもん、もずもず、ず蚀った。せやから、うちが決めおええやろ、ず蚀っお、貞す、ず蚀った。同じ圢だった。

 「あんた、うちのために十䞀幎䜿たやろ」

 「䜿ったずは思っおいたせん」

 「思おぞんのが、いちばんあかんねん」

 圌女は手すりのほうを芋た。

 「うち、あの手玙のこず芚えおぞん。曞いた芚えがない。あんたは八時間立っおた。それを聞いたずき、うち、正盎、しんどかった」

 「すみたせん」

 「謝らんでええ。あんたは䜕も悪いこずしおぞん。誰も悪いこずしおぞんのが、いちばん厄介やねん」

 それは、䞃月に私が面䌚宀で考えたこずず、同じ文だった。私はそれを声に出しおいない。手玙にも曞いおいない。

 「あず䜕幎、うちのために䜿う気や」

 「決めおいたせん」

 「決めんずきや」

 圌女は蚀った。

 「決めたら、たた埅぀こずになる。あんたは埅぀のが䞊手すぎるねん。䞊手いこずは、やらんほうがええこずもある」

 運転手がリフトの音を立おた。看護の人がこちらを芋お、それから芋ないこずにした。

 「あんたはあんたの分を歩き」

 私は動かなかった。この十幎で、私は自分から誰かに䜕かを頌んだこずが二床ある。䞀床目は、月に䞀床来おもいいですかず蚊いたずきだ。二床目は、倖出の蚱可をもらうために医垫に食い䞋がったずきだ。

 どちらも、この人に䌚うためだった。

 䞉床目に頌むずしたら、いた蚀うこずになる。頌めば、この人はたぶん䞀床は考える。考えたうえで、同じこずを蚀う。この人は、繰り返し蚀うのが苊手な人だ。だから最初に䞀床だけ、いちばん短い圢で蚀う。

 「わかりたした」

 ず、私は蚀った。圌女は、うん、ず蚀った。それだけだった。看護の人が来お、車怅子の埌ろに手を掛けた。動き出す前に、圌女がもう䞀床こちらを向いた。

 「あの本な」

 「はい」

 「最埌たで読んでも、あの男は自分の郚屋に入られぞんねん」

 私は少し口を開けた。

 「蚀っおいいんですか」

 「ええねん。もう宿題ちゃうから」

 圌女は笑った。口の右偎が先に䞊がった。十䞃のずきず同じ順番だった。車怅子が動いた。リフトに乗っお、䞊がっお、車の䞭に入った。看護の人が乗り蟌んで、扉が閉たった。窓には色が入っおいお、倖からは䞭が芋えなかった。

 車は駐車堎を出おいった。私は玄関の前に立っおいた。どのくらい立っおいたのかはわからない。䞭でただ映画が続いおいるはずだった。地䞋の曞庫が出お、通路が䞀本開いお、閉じお、二秒あっお、終わる。あの二秒を、私はただ芋おいない。

 垰りは電車だった。乗り換えを二床した。窓の倖の田は土だけで、ただ䜕もなかった。私は鞄から文庫本を出さなかった。入れおきおはいた。手玙が来たのは、䞉月十九日だった。封を切るず、䟿箋が䞀枚だった。党郚が同じ字だった。たっすぐ立っおいる字で、右に倒れおいない。

 先日は遠いずころをありがずうございたしたず曞いおあった。圓日はお䜓の負担も倧きかったので、しばらくは静かに過ごしおいただきたすず曞いおあった。その䞋に、こうあった。ご本人よりお䌝えするようにず申し぀かりたした。先日申し䞊げたこずは、あの日の気分ではありたせん、ず。

 私はその䞀行を、䞉床読んだ。䟿箋を折っお、封筒に戻しお、店の奥の抜斗に入れた。抜斗の䞭には、去幎の五月からの封筒が党郚入っおいる。期限の切れた切笊ず、十䞀幎前のカレヌの手玙も䞀緒だ。

 䞉月二十日の朝に、私は棚の䞋から䞀枚を出した。

 去幎の䞃月に倧阪の同業から届いた段ボヌルの、いちばん䞋に入っおいた䞀枚ではない。あれはあの子に売った。同じ箱の䞊のほうに入っおいた返品もののうち、私が仕入れずしお受け取ったものの䞭に、もう䞀枚あった。垯付きのほうだ。

 二千円で仕入れお、そのたたにしおあった。私は倀札を曞いた。千八癟円ず曞いた。仕入れより安い。理由は、この店の垳面にはうたく曞けない。

 倀札を貌っお、壁に掛けた。䞉十䞀センチの癜い四角の䞊に、ちょうど収たった。八か月ぶりに、そこに䜕かが掛かった。倀札は衚に向けお貌った。ガラス越しにも芋えるように貌った。その日は日曜で、午埌に客が四人来た。誰もそれを芋なかった。

 六時に灯りを消しお、鍵をかけた。商店街を抜けお、駅前の広堎ぞ出た。柱の陰には行かなかった。

終章 䞀秒

 䞉月䞉十日の朝、䞋宿を出る前に、柱時蚈のぜんたいを巻いた。䞉日留守にする。ぜんたいは八日も぀ので、巻かなくおもいい。それでも巻いた。巻くず決めた日に巻かないず、次に巻く日がわからなくなる。

 郚屋を出るずきに、壁の時蚈を芋た。届いおから六か月ず六日だ。合わせたのは九月二十四日の䞀床きりで、そのあずは合わせおいない。蚈算するず、いた䞉時間ほど遅れおいる。䞉時間遅れた時蚈が、壁で動いおいた。商店街を通った。

 駅たでの道はこれしかないので、通らないずいう遞択はない。魚屋の前は濡れおいお、也物屋の笊には怎茞が䞊んでいる。パン屋の前は通りすぎた。商店街の端のレコヌド店の前で、い぀ものように足が半歩ぶん遅くなった。遅くなっおから、止たった。ガラスの向こうの奥の壁に、青い四角があった。

 八か月、そこは癜かった。䞉十䞀センチの、日焌けしおいない郚分だけが残っおいた。いたはそこに、ゞャケットが䞀枚掛かっおいる。わたしはガラスに近づいた。倀札が぀いおいた。

 右䞋の角に、小さい玙が貌っおある。数字たでは読めない。ガラスの倖からは、あの店の倀札の数字は読めない。読めないこずは去幎の六月から知っおいる。

 わたしは知っおいるこずを、もう䞀床確かめた。あの人はあの盀を非売品ず蚀った。売らないずいうこずです、ず蚀った。倀札が぀いおいるずいうこずは、売るずいうこずだ。匕き戞を開けなかった。

 開ければ、鈎が鳎っお、緑色のコヌトの人が顔を䞊げる。䜕か蚀うこずになる。䜕を蚀えばいいのかを、わたしは持っおいなかった。持っおいないずきに開ける戞ではない。電車の時間があった。わたしは歩き出した。実家に着いたのが、その日の午埌二時だった。

 五時間半かかった。乗り継ぎが二回ある。特急の窓から芋た田は、九月に芋たずきず同じ堎所にあっお、色だけが違っおいた。九月は黄色に寄っおいく途䞭で、䞉月は土だけだった。商店街の端の店は、ただ開いおいた。

 陳列ケヌスの䞭が枛っおいた。腕時蚈は䞉十本䞊んでいたのが、䞃本になっおいる。䞊の段の男物が四本ず、䞋の段の女物が䞉本だ。残っおいるのは、たぶん売れなかったものだ。ケヌスの䞭の電球は、ただ二぀ずも点いおいた。

 父は䜜業台にいた。

 「早かったな」

 「六時二十分の」

 「そうか」

 背䞭を向けたたた、返事だけした。䜜業堎の壁に、柱時蚈が六぀掛かっおいる。六぀ずも、少しず぀違う時刻を指しおいた。いちばん巊の八角圢は、もうそこにない。わたしの䞋宿の壁にある。倕方の六時前に、駅ぞ迎えに行った。

 改札に駅員が䞀人いお、切笊を受け取っお鋏を入れた。この駅の駅員は、切笊を受け取るずきに必ずこちらの顔を芋る。䜐䌯さんは五時五十四分の電車で来た。䞉脚ずカメラの鞄ず、着替えの入った袋を持っおいた。十䞀時十二分に出お、乗り換えを二回しお、六時前に着いた。

 「遠かったですか」

 「遠かった」

 「日垰りはできないです」

 「無理だね」

 「長谷川さんは、これに五時間半かけお倧孊に行ったんだ」

 「䞀幎に䜕回垰っおた?」

 「䞀幎に䞀回です。去幎は二回でした」

 䜐䌯さんはそれ以䞊蚊かなかった。蚊かないでくれたこずに、わたしは少し助けられた。宿は商店街の途䞭の旅通にした。うちには泊められない。郚屋が二぀しかないからだ。父はそのこずを気にしお、母に䜕床も蚀っおいたらしい。

 倜に、店に来おもらった。父は䜜業台にいた。ルヌペを倖しお、䜐䌯さんのほうを芋た。

 「時蚈を撮りたいお」

 「はい」

 「なんで」

 䜐䌯さんは、そこで少し黙った。

 「わからないです」

 父は、ふん、ず蚀った。

 「わからんもんを撮るんか」

 「たあ、そのほうがええんちゃうか」

 父は䜜業台の匕き出しを閉めた。

 「うちの嚘も、なんであの八角のがええんか、蚀えぞんかった」

 䞉月䞉十䞀日は氎曜だった。店は九時に開けた。最埌の日は、朝から人が来た。昌過ぎに、米屋の跡地の自動販売機の暪に䜏んでいるずいう幎配の女の人が来た。腕時蚈をひず぀持っおきた。

 「これ、もう動かんのやけど」

 父はそれを受け取っお、ルヌペを目に圓おた。圓おお、しばらく芋お、それから倖した。

 「これは、うちではもう無理やわ」

 「そうか」

 「隣の町に、若いのがおるから、そっち行き」

 女の人は、そう、ず蚀っお、時蚈をハンカチに包んで垰っおいった。父はそのあず、しばらく䜜業台の前に座っおいた。䜐䌯さんは午前䞭、店の䞭を撮っおいた。

 䞉脚を立おずに、手持ちで撮っおいた。陳列ケヌスのガラスず、䞭に残った䞃本の腕時蚈ず、電球の光。䜜業台の䞊の癜い玙ず、その䞊に䞊んだ现かい郚品。父の手は撮らなかった。

 「手は撮らないんですか」

 「蚊いおない」

 「蚊けばいいず思いたす」

 䜐䌯さんは少し笑った。それから父のずころぞ行っお、手を撮っおもいいですかず蚊いた。父は、勝手にせえ、ず蚀った。䜐䌯さんは父の手を四十秒くらい撮った。ピンセットで郚品を぀たんで、時蚈の䞭に入れる手だ。䞀床で入らなかった。二床目も入らなかった。䞉床目で入った。

 その䞉床を、党郚撮っおいた。六時に、店を閉めた。最埌の客は五時四十分に来た。也電池を二本買っおいった。腕時蚈のものではなく、目芚たし時蚈のものだった。父はシャッタヌを半分だけ䞋ろした。党郚は䞋ろさなかった。

 「ただ䞭におるからな」

 母が奥から茶を持っおきた。四人で飲んだ。誰も䜕も蚀わなかった。䞃時に、䜜業堎の電気を点けた。柱時蚈が六぀、壁に掛かっおいる。いちばん右が、いちばん倧きい。䞞い枠の、ロヌマ数字の文字盀だ。その巊が四角い枠で、その巊が现長い型で、あずの䞉぀は䌌た圢をしおいる。

 六぀ずも、少しず぀違う時刻を指しおいた。いちばん進んでいるのが四角い枠で、いちばん遅れおいるのが右から䞉番目だった。差は、たぶん二十分近くある。䜐䌯さんは䞉脚を立おた。

 六぀が党郚画面に入る䜍眮を探すのに、十五分かかった。䜜業堎は狭い。壁いっぱいに掛かっおいるものを䞀枚に収めるには、反察偎の壁たで䞋がる必芁がある。反察偎の壁には䜜業台がある。圌は䜜業台の䞊に䞉脚を茉せた。

 「これでいい」

 「入りたすか」

 「六぀ずも入る。端の二぀は少し切れるけど、文字盀は入る」

 父は怅子に座っおいた。

 「ほな、やり」

 わたしは脚立を出した。柱時蚈を合わせる手順を、父から聞いおある。倕食のあずに教わった。

 たず、振り子を止める。ガラスの扉を開けお、振り子の棒を指で抌さえる。抌さえるず時蚈は止たる。止めおから、文字盀のガラスを開けお、長針を回す。回すずきは必ず時蚈回りに回す。逆に回すず、打぀機構が狂う。

 合わせる時刻は、そのずき決めた。八時ちょうどにした。いたは䞃時二十分だ。六぀を党郚止めお、党郚を八時に合わせお、そのたた抌さえおおく。八時になったら、同時に攟す。

 「同時に攟されぞんやろ、六぀も」

 ず、父が蚀った。

 「抌さえるのは指です。片手で䞉぀抌さえられたす」

 「䞡手で六぀か」

 「はい」

 「届くか」

 「脚立を動かしたす」

 父は䜕も蚀わなかった。わたしは脚立に䞊がっお、右端から順に止めおいった。ガラスの扉を開けお、振り子の棒を指で抌さえる。抌さえるず、その時蚈だけ音が消える。六぀のうち䞀぀が消えるず、郚屋の音が倉わる。二぀消えるず、たた倉わる。

 六぀目を止めたずき、䜜業堎は静かになった。四十幎、この郚屋でこの六぀が同時に止たったこずは、たぶん䞀床もない。わたしは長針を回した。六぀目を合わせ終わったのが、䞃時四十六分だった。十四分ある。

 「抌さえおたす」

 「ええぞ」

 䜐䌯さんはカメラの埌ろに立っおいた。

 「回すのは、䜕秒前?」

 「フィルムは䞉分二十秒ある。今は十䞉分前だから、五十䞃分に回す」

 「䞉分ですか」

 「䞉分回しお、八時ちょうどが真ん䞭に来る」

 わたしは脚立の䞊で、䞡手を広げおいた。

 右手の指䞉本が、右の䞉぀の振り子に觊れおいる。巊手の指䞉本が、巊の䞉぀に觊れおいる。振り子は止たっおいる。止たっおいるものを指で抌さえおいるだけなので、力はいらない。いらないのに、腕が疲れた。

 十䞉分は長かった。父は怅子に座っお、壁を芋おいた。ルヌペは倖しおある。わたしはそのずき、父が䜕を芋おいるのかを考えた。父の目では、この壁の六぀の文字盀の針は芋えない。〇・䞀ミリの穎石が芋えない目だ。六メヌトル離れた壁の、盎埄二十センチの文字盀の針が、八時を指しおいるかどうかはわからない。

 父は芋おいない。聞いおいる。六぀の振り子の音が党郚止たっおいる郚屋を、四十幎ここにいた人が聞いおいる。䞃時五十䞃分に、䜐䌯さんがスむッチを抌した。フィルムが回りはじめる音がした。ラゞオの雑音に䌌た、也いた音だ。この音が鳎っおいるあいだ、この䞖界のフィルムは枛り぀づける。

 わたしは腕時蚈を芋た。文字盀の黄色くなった、秒針のある時蚈だ。倧家さんの亡くなったご䞻人のもので、去幎の六月から借りおいる。い぀たでも持っずきなさいず蚀われた。秒針が動いおいた。五十八分。五十九分。

 「十秒前」

 ず、䜐䌯さんが蚀った。わたしは指の力を抜く準備をした。抌さえおいるものを攟すずいうのは、力を入れる動䜜ではない。抜く動䜜だ。抜くほうが、たぶんむずかしい。

 「五」

 わたしは秒針を芋た。

 「四」

 「䞉」

 「二」

 「䞀」

 秒針が十二に来た。わたしは䞡手の指を、同時に離した。六぀の振り子が、動きはじめた。最初の䞀埀埩は、六぀ずもばらばらだった。振り子の長さが違うので、速さが違う。長いものはゆっくりで、短いものは速い。四十幎前からそうだった。

 でも、針は揃っおいた。六぀の文字盀の長針が、党郚たっすぐ䞊を指しおいた。短針も党郚八のずころにある。八時ちょうどだ。打぀音が鳎った。

 六぀のうち、四぀が時報を打぀型だった。八時なので八回打぀。四぀が同時に打ちはじめお、少しず぀ずれおいった。ずれるのは、打぀間隔が時蚈ごずに違うからだ。䞀぀目が八回打ち終わるころに、四぀目はただ六回目だった。

 鐘の音が䜜業堎に重なった。わたしは脚立の䞊に立っおいた。揃っおいるのは、たぶん、この䞀秒だけだ。

 いちばん巊のは䞀日に十二秒進む。右から二番目は䞀日に二十秒遅れる。现長いのは五十秒遅れる。明日の朝には、六぀はもうばらばらになっおいる。䞉日もすれば、誰の目にも違いがわかるようになる。

 合わせおも、たた狂う。狂うたびに合わせるのは、時蚈を盎したこずにはならない。父はそう蚀った。これは盎したのではない。䞀秒だけ、同じにした。鐘が鳎り終わった。郚屋には、六぀の振り子の音が残った。長さの違う六぀が、それぞれの速さで埀埩しおいる。音は重ならない。重ならないたた、党郚が鳎っおいる。

 䜐䌯さんは指を離さなかった。䞉分回すず蚀っおいた。八時ちょうどは真ん䞭だ。あず䞀分半ある。わたしは脚立の䞊から、六぀を芋おいた。

 揃っおいるうちに、もう芋えなくなった。長針の䜍眮は、十秒では動かない。䞉十秒でも、ほずんど動かない。䞀分たおば、遅い時蚈ず速い時蚈のあいだに、髪の毛䞀本ぶんの差が出る。差は肉県では芋えない。

 芋えないずころで、もうずれはじめおいる。それでいいのだず思った。䞉十幎おなじだけ遅れる時蚈は、盎さなくおいい。動いおいるからだ。動いおいるものは必ずずれる。ずれないのは止たっおいるものだけだ。

 わたしは父のほうを芋た。父は怅子に座っお、目を閉じおいた。䜐䌯さんが指を離した。フィルムの音が止たった。カりンタヌの窓を芋お、圌は、終わった、ず蚀った。カヌトリッゞはそれで䜿い切りだった。

 「入りたしたか」

 「入った」

 「揃っおたしたか」

 「揃っおた」

 圌はカメラから顔を䞊げた。

 「䞀秒だけ」

 「䞀秒でも、写っおればずっずある」

 わたしは脚立から降りた。降りるずきに、腕がしびれおいた。十䞉分抌さえおいたからだ。母が茶を淹れ盎しお持っおきた。父は目を開けお、それから壁を芋た。芋えおいないはずの壁を芋お、こう蚀った。

 「よう鳎ったな」

 その倜、䜐䌯さんは十時の電車で宿ぞ垰った。商店街のシャッタヌは党郚䞋りおいた。うちの店のシャッタヌも、そのずきには党郚䞋りおいた。駅たでの道を、わたしは途䞭たで䞀緒に歩いた。

 「䞉月二十日、蓮さんは」

 「だめだった」

 「そうですか」

 「今床は消えなかった」

 䜐䌯さんは鞄を持ち盎した。

 「六冊目、もう買っおる。䞉月の頭に買っおた。結果を芋る前に買っおた」

 わたしは、そうですか、ずもう䞀床蚀った。

 商店街の入口たで来たずころで、わたしは足を止めた。止たったのは自分でも予定しおいなかった。止たるず、䜐䌯さんも二歩先で止たっお、振り返った。この人は止たるのが速い。

 「ひず぀、蚀っおいいですか」

 「うん」

 「あの四十秒は、䜐䌯さんが速いから撮れたした」

 䜐䌯さんは䜕も蚀わなかった。

 「䞉日通っお光を調べる人には、撮れないです。あの日、レコヌド店から出おきお、光がいいず思っお、鞄からカメラを出しお、赀のあいだに構えお、青で抌した。党郚でたぶん䞀分もかかっおいないです」

 「考えおなかった」

 「はい。考えおいたら、枡り終わっおいたす」

 わたしは自分の手を芋た。鞄の持ち手を握っおいる手だ。

 「䜐䌯さんは、速いのを自分の悪いずころだず思っおいたす」

 「思っおる」

 「九十秒であきらめたこずも、䞉脚を八秒でたたむこずも、人に頌む速床を通りすぎるこずも、党郚そうだず思っおいたす。でも、それは同じ手です。四十分埅っお抌せない指ず、青になった瞬間に動く指は、切り離せないです」

 「切り離せない」

 「はい。片方だけ盎すこずは、たぶんできないです」

 䜐䌯さんはしばらく立っおいた。シャッタヌの䞋りた商店街に、街灯が䞉぀点いおいる。この町の街灯は十䞀時に消える。

 「長谷川さんは」

 「はい」

 「自分の遅いのは、どうなの」

 わたしは少し考えた。考えるあいだ、この人は急がせなかった。

 「盎らないです」

 「うん」

 「盎らないですけど、盎すものだずは、もう思っおいないです」

 わたしは腕時蚈を芋た。秒針が動いおいる。

 「わたしの時蚈は、いた䞉時間遅れおいたす。合わせおいないからです。合わせおも、たた同じだけ遅れたす」

 「ちゃんず動いおる」

 「はい」

 䜐䌯さんは、そうか、ず蚀った。蚀い方が短かった。この人の返事はい぀も短い。短いのは考えおいないからではなくお、考える前に届いおいるからだず、わたしはこの半幎で知った。

 旅通の前で別れた。

 「明日、䜕時の」

 「十時二十分の」

 「駅たで行きたす」

 「うん」

 䜐䌯さんは玄関に入りかけお、それから振り返った。

 「あの猶、次で九本目になる」

 「はい」

 「今日のは、ただ題がない」

 「決たったら教えお」

 わたしは、はい、ず蚀った。旅通の玄関の灯りが消えお、わたしは商店街を戻った。シャッタヌの䞊びを歩いた。米屋ず、掋品店ず、写真屋ず、それからうちの店だ。四軒ずも閉たっおいる。四月からは、そのうち䞀軒がうどん屋になる。

 うちの前で立ち止たった。シャッタヌの向こうで、六぀の柱時蚈が動いおいる。音は倖たで聞こえない。わたしは腕時蚈を芋た。十時四十六分だった。秒針が動いおいる。六぀のうち、いく぀がもう八時からずれおいるのかを、わたしは蚈算しなかった。

 蚈算しなくおも、ずれおいる。ずれおいお、動いおいる。


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