
因果の糸〈4. 螺旋の溜息〉
大阪、梅田。
そこは巨大な鉄と硝子の結晶体が、地下迷宮のように入り組んだ、欲望と情報の集積地である。絶え間なく流れる人の波は、それ自体が一つの巨大な意思を持っているかのようで、個人の微かな呟きなど、瞬時にして摩耗し、消え去ってしまう。
ある知人の紹介で、私はその地の天空の秘境にあるカフェに座っていた。
私の向かい側に座っているのは、年齢に相応しい落ち着きを纏った一人の男である。差し出された名刺を確認すれば、その界隈――すなわち整体やカイロプラクティックといった徒手療法の世界では、それなりに名の知れた実力者であるらしい。
およそ、占い師のもとを訪れる客が抱える悩みなど、その大半は決まりきっている。
仕事が立ち行かないか。
恋愛が袋小路に入ったか。
あるいは、その両方か。
しかし、初対面からいきなり深淵を曝け出す客は稀だ。誰もが最初は、世間話という名の防波堤を築き、こちらの出方を窺うものである。
依頼人が、重い口を開いた。
「……実は、先日から、胸が痛くてですね」
「胸、ですか」
私は、彼の胸元に視線を落とした。高級そうなシャツの奥で、彼の心臓が刻んでいるであろうリズムを想像してみる。
「ええ。どうにも苦しくて。何か重い石でも載せられているような、あるいは、内側から万力で締め上げられているような……そんな感覚なんです」
言葉はさっぱりとしていたが、その声には、逃げ場のない焦燥が滲んでいた。
「大病などは、されておられるのですか?」
「いえ。いたって健康です」
「なにかの疾患であれば、然るべき病院へ行かれるのが最善かと存じますが」
「たしかに。その通りです。だから私は、まずは科学の門を叩きました」
依頼人は、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「精密検査。心電図。レントゲン。MRI。現代医学が誇るあらゆる『義眼』で私の体内を透視してもらいましたが、結果は白。どこにも異常はない。私の心臓は、数値上は模範的なほどに健やかに拍動しているのだそうです」
なるほど。
病院では「異常なし」と診断され、けれど痛みだけが厳然としてそこに存在する。
そうなれば、次に叩くべき門は決まっている。
「それで、霊障の類を疑われたわけですね」
私が問うと、男は僅かに眉を寄せ、縋るような視線を私に向けた。
「ええ。それ以外に考えられなかった。しかし、困ったことに、私の知り合いの霊能者たちは皆、私に手を貸そうとしないのです」
「なぜです? 彼らは不可視の脅威を退けるプロフェッショナルでしょう?」
「それが……『いろいろ事情がありまして』と、言葉を濁されるばかりで。先生なら、あるいは、何とかしていただけるのではないかと聞きまして」
ずいぶん疲弊した顔だ。
医者に見放され、霊能者に拒絶され、行き場を失った挙句に辿り着いた、ここが彼の「最後の藁」なのだろう。
占いで導けることがあるなら――私は静かに頷き、テーブルの上に一つの儀式を準備することにした。
私は、使い古されたタロットカードの束を取り出した。
胸元のポケットから携帯電話を取り出し、現在時刻を確認する。時間は、因果を固定するための楔だ。
深呼吸を一つ。
私の周囲を漂う梅田の雑音が、急速に遠ざかっていく。
食器の触れ合う音も、隣の席の他愛のない会話も、空調の唸りも。すべてが水中に沈んだかのように、くぐもった響きへと変容していく。
ライダーウェイトのカードを一枚、引き抜く。
そこに現れたのは――『世界』の逆位置。
完成の否定。調和の崩壊。終わるべきものが終わらず、停滞の中で腐敗していく予兆。
私は瞼を開いたまま、意識の焦点を男の内面へと、深く、深く潜行させていった。
視野が急速に狭まる。
外界からの刺激を一切遮断した、純粋なる認識の暗闇。
その暗闇の奥底から、一人の女性の姿がぼんやりと浮かび上がってきた。
四十代前後だろうか。少し疲れた、けれど端正な面立ち。
特筆すべきは、その瞳だった。
そこには、人間が抱き得る最も純度の高い「殺気」が、結晶のように凝固して宿っている。
次いで、彼女の背後から、何かの「縄」のようなものが這い出してきた。
否、それは縄ではない。
滑らかな鱗を持ち、冷徹な温度を感じさせる、生命の形。
蛇だ。
その蛇は、執念を形にしたような螺旋を描きながら、一つの「どくどくと脈打つ塊」に絡みついていた。
塊は、男の心臓だ。
蛇は執拗に、ゆっくりと、けれど確実にその筋肉を締め上げている。逃がさない、決して終わらせないという、狂気にも似た愛情の裏返し。
普段はしない当て物の類だが、これほどまでに鮮明なイメージが立ち上がることは稀だ。
これだけはっきりと見えるということは、その思念の主が、命を削るほどの「執着」を注ぎ込んでいる証左に他ならない。
意識を現実へと引き戻す。
肺に酸素が流れ込み、喫茶店の喧騒が再び私の耳を打ち据えた。
私は、今見た光景を、ありのままに彼に告げた。
「あなたの胸を締め上げているのは、一人の女性の執念です。蛇の姿をした、ちょうどこのカードのように」
世界のカードの中央の人物に、巻き付いているのが蛇のようにも見える。
依頼人の表情から、血の気が引いていくのがわかった。
彼は震える手で、自分の胸元を強く押さえた。
「……やっぱり、そうなんですか。ええ、わかっていました。本当は、最初から」
彼は絞り出すような声で、自身の「業」を語り始めた。
「女性は……私の妻です。そして、蛇が絡みついていたのは、間違いなく私のこの場所だ」
彼には数年前から、愛人がいた。
最初は、退屈な日常への小さな反逆のつもりだったのかもしれない。けれど、情動はいつしか形を変え、彼は愛人との新しい人生を望むようになった。
そして先日。彼はついに妻に対し、離婚を宣告した。
その瞬間から、この「胸の痛み」は始まったのだという。
「妻は霊感が強い。それも、ただの主婦の勘といったレベルではない。実は、彼女自身、かつては霊能者として看板を掲げていた時期がありました。つまり、私を拒絶した霊能者たちの『同業者』なんです」
私は沈黙した。
なるほど。霊能者たちがこの依頼を断った理由は、そこにあったのだ。
彼らは視ていたのだ。男の背後に立つ女性の、あまりに正当で、あまりに強力な「呪術的権利」を行使している。
不義を働き、契約を一方的に破棄しようとする男を、妻がその霊性をもって繋ぎ止める。それは理屈の上では「正当防衛」あるいは「等価交換」の範疇に属するものであり、部外者が安易に介入して解いていい「結び目」ではなかったのだ。
「先生、私はどうすればいいのでしょうか。この蛇を……この苦しみを、取り除く方法は無いのですか?」
依頼人の問いに、私は首を横に振った。
「占いで出たのは、現状という名の『鏡』です。その蛇を解けるのは、締め上げている本人か、あるいはあなたが彼女に対して払うべき、莫大な代償だけでしょう」
依頼人は力なく項垂れた。
霊能者が手を貸さない理由。それは「手に負えない」からではない。「手を貸すことが理にかなわない」からだ。
因果応報。
彼が愛を選び、平穏を捨てた瞬間に、蛇という名の「未完成の愛」が彼の心臓を棲家と定めた。
依頼人は、静かに席を立った。
会計を済ませ、一度だけ深く礼をした彼の背中は、どこか小さく見えた。
痛む胸を片手で押さえ、彼は再び梅田の迷宮へと消えていく。
その背後で。
私の目には、彼に寄り添うようにして歩く、あの女性の幻影が見えた気がした。
彼女は、今も静かに、けれど誇らしげに、彼に絡みついている。
それは呪いだろうか。
あるいは、この世界で最も強固で、最も残酷な「愛」の形だろうか。
次の話
零れた一粒