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因果の糸〈5. 零れた一粒〉

     夏。

     それは、死者が帰還し、生者が狂乱する季節。

     とりわけ大阪という街において、夏祭りは単なる年中行事を超越した、一種の「都市の排熱」のような意味合いを持っている。何十万人という人々の熱気が、淀んだ空気の中に蓄積され、それが祝祭という名の弁を通して一気に解放される。

     私の知人に、この大阪を代表する巨大な夏祭りの運営に、役員として深く携わっている男がいる。

     祭りの成功とは何か。それは華やかさや経済効果などではなく、一人の死者も出さず、一滴の不吉も残さず、平穏に幕を閉じること――すなわち「無事」であることに尽きる。

     だからこそ、彼は祭りを目前に控えたある日、運営関係者の面々と共に、神社の奥深くに鎮座する社殿へと足を運んだ。目的は一つ。「無事祈願」という名の、神との契約更新である。

     神社という場所は、平易な言葉で言えば「清浄の貯蔵庫」だ。

     外界の喧騒が鳥居というフィルターで濾過され、重厚な社殿の内部には、ひんやりとした、時間そのものが凝固したような空気が滞留している。彼らはその社殿の中に横一列に並び、厳かなお祓いの儀式が始まるのを待っていた。

     神職が祝詞を奏上し、静寂が最高潮に達した頃。

     一人の巫女が、音もなく板の間に現れた。

     彼女の手に握られていたのは、金色の輝きを放つ「神楽鈴」である。

     上から三段、五段、七段と、合計十五個の小さな鈴が、一本の持ち手に連なっている。それは宇宙の階層構造を模しているとも、五穀豊穣を象徴しているとも言われるが、私たちが知るべきは、その鈴が奏でる音が「神を呼び、穢れを払う」という一点において、極めて強力な指向性を持っているという事実だ。

     巫女が静かに一礼し、鈴を振る。

     ――しゃん。

     高く、澄んだ音が社殿の天井に吸い込まれていく。

     いくつもの鈴が微細に重なり合うことで生まれるその倍音は、人間の意識の表層を撫で、深層にある不安を鎮めていく。

     巫女は横に並んだ役員たちの前を、一人ずつゆっくりと巡っていく。

     一人に一度。

     その頭上で鈴を鳴らし、目に見えない「汚れ」を振り払っていく。

     そして、私の知人の前に巫女が立った、その瞬間だった。

     しゃん、と。

     一際大きく鈴が鳴り、その残響が消えぬうちに、場に不釣り合いな「音」が混じった。

     ――ころり。
     
     何かが板の間に落ち、跳ね、転がった。

     十五個あるはずの鈴のうちの一つが、まるで熟しすぎた果実が枝から離れるように、ぽろりと床に零れ落ちたのだ。

     巫女の顔に、微かな、けれど明白な困惑が走る。彼女は慌ててそれを拾い上げ、何事もなかったかのように儀式を続行したが、一度失われた静寂は、二度と元の形には戻らなかった。

     知人は、その光景を目の当たりにして、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

     祭りの無事を祈るための、その神聖な場において、鈴が壊れる。

     それは、不吉という言葉では片付けられない、何か「決定的な拒絶」のようにも思えたのだ。

     儀式が終わった後、役員たちは近くの料理屋へと移動した。

     直会の名目で行われるその会食は、本来であれば祝祭の成功を確信し、団結を深めるための場であるはずだった。しかし、並べられた豪華な料理を前にしても、一座の空気は重く沈んでいた。

     話題は自然と、祭りの運営に伴うリスク管理に集中する。

    「今年の警備体制は万全か?」

    「熱中症対策の備品は足りているか?」

    「事故が起きた時の避難経路は?」

     そんな実務的な会話の合間に、誰かが堰を切ったように本音を漏らした。

    「……なあ。さっきのお祓い、本当に大丈夫だったと思うか?」

     一座に、重苦しい沈黙が降りた。

     知人の目の前で鈴が落ちた。その事実は、その場にいた全員の共通認識として、澱のように心に溜まっていた。それは単なる器具の故障か、それとも「何か」を暗示する徴候なのか。

     知人はその夜、居ても立ってもいられなくなり、私に連絡をよこした。

    「専門的なことはわからないが、あまりにも縁起が悪い。何か、最悪の事態が起きる前触れなんじゃないだろうか」

     彼の声は、電話越しにもわかるほど震えていた。

     私は、自分が占術の徒でありながらも、神道の儀式そのものについては門外漢であることを伝え、その代わりとして、京都に住む例の霊能者もやっている友人に意見を求めることにした。

     京都の友人は、私の話を聞き終えると、電話の向こうで小さく、けれど意味深な笑い声を漏らした。

    「神楽鈴、ねえ。私も仕事で使うことがあるけれど、あれはそんなに簡単に落ちるような代物じゃないわよ。針金や紐で、何重にも、それこそ執拗に固定されているものだもの」

    「では、やはり何かの予兆なのか?」

    「んー。可能性は二つね」

     彼女は、まるでパズルを解くように事象を解体し始めた。

    「第一の可能性は、祭りのトラブル。何十万人という人々の負の感情や、土地に溜まった熱気が、祭りの実行責任者であるあなたの友人に集中した結果、鈴がその『圧』に耐えきれず弾け飛んだ。つまり、これから起きる大惨事のデモンストレーション」

    「……不吉だな。第二の可能性は?」

    「そっちの方が、面白いわよ」

     彼女の声が、少しだけ弾んだ。

    「それはね、逆説的な『厄払い』。鈴が落ちたのではなく、鈴が『身代わり』になったという解釈」

    「身代わり?」

    「そう。彼の体の中に、あまりに強固で、お祓い程度では剥がれないような大きな『厄』が巣食っていた。鈴の音はその厄を追い出そうとしたけれど、あまりに抵抗が強かったから、鈴の方が自分を犠牲にして、その厄の一部を道連れにして床に落ちた。……つまり、彼個人への致命的な災厄は、その瞬間に回避されたという話よ」

     私は、彼女の言葉を反芻した。

    「そういえば」と思い当たる節があった。

    「彼は最近、自分の仕事場で大きな事故があったと言っていた。本来なら彼もその場所にいるはずだったんだが、たまたま外回りをしていて難を逃れたらしい」

    「それよ」

     友人は断定するように言った。

    「鈴は、未来の祭りの事故を予言したんじゃない。彼の身に起きるはずだった『死』の余韻を、その場で食い止めたのよ。神様はね、時にそういう暴力的な方法で慈悲を見せるものなの」

     後日。私はこの話を、知人の役員にそのまま伝えた。

     彼は私の言葉を黙って聞いていたが、その表情から恐怖が消え、代わりに深い思索の影が宿るのを私は見た。

    「厄払い、ですか。……鈴が、俺の代わりに」

     彼はしばらくの間、自分の手のひらを見つめていた。

     神楽鈴の一粒。

     それが落ちたことで、自分は生かされた。

     ならば、その「生かされた命」を、自分はどう使うべきなのか。

    「不吉だと思って逃げ回るんじゃなく、もう一度、今度はお礼を言いに神社へ行ってくるよ。お祓いも、もう一回やり直してもらうつもりだ」

     彼の言葉には、以前のような怯えはなかった。

     夏祭りは、その後、何事もなく執り行われた。

     例年以上の猛暑ではあったが、事故もなく、人々は狂乱の後に穏やかな夜を迎えた。

     祭りの最終日の夜。私は知人から、短いメッセージを受け取った。

    『神楽鈴の音を聞いた。今度は一粒も落ちなかった。……これで、ようやく夏が終わるよ』

     誰かの身代わりになった一粒の鈴が、今もどこかの板の間で、見えない因果の糸を繋ぎ止めているのかもしれない。

     しゃん、という音と共に。


    次の話
    反響の夏


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