
因果の糸〈3. 視界を塞ぐ指先〉
「霊障という現象が、物理的に視界を奪うなんて話、君は信じるかい?」
京都。千年の都という名の、美しき停滞が支配する街。
その南端に位置する、古びた、けれど丁寧に手入れされた喫茶店で、彼女――京都で芸術活動をしながら、時折霊能者をしている友人は、琥珀色の紅茶に角砂糖を沈めながら、唐突にそんな問いを投げかけてきた。
「信じるか、と聞かれれば、保留と答えざるを得ないね」
私は、手にしていたタロットカードをまとめながら、彼女の視線を受け止めた。
「そもそも霊障というものは、精神の深層、あるいは認識の揺らぎに作用する形而上の事象だ。網膜という物理デバイスを物理的に破壊するなんて、それはもはやオカルトではなく、単なる傷害事件の範疇だろう?」
「そう。論理的に考えればそうなる。誰もがそう思うはずだし、私もそうであってほしいと願っているわ」
彼女は、まるでいたずらを見つけた子供のような、それでいてどこか遠い場所を見つめるような、複雑な表情を浮かべて微笑んだ。
「けれどね。事実として、存在するのよ。理屈が通じないからこそ、私たちはそれを『障り』と呼ぶのだから」
彼女が語り始めたのは、ある依頼者を巡る、あまりに京都的な――つまりは、表層の美しさと深層の怨恨が複雑に絡み合った、一幕の悲劇についてだった。
依頼者は、京都の某所に住む、ごく普通のOLだという。
霊能者である彼女とは以前からの知己であり、時折、お茶を飲みながら他愛のない世間話をする仲だった。京都という土地柄だろうか。この街では、昨日の献立の話と、誰それの霊感が強いといった物騒な話が、同じトーンで語られることが珍しくないらしい。
ある日、その依頼者が「肩が異常に重く、呼吸が苦しい」という、典型的な、あまりに典型的すぎて退屈でさえある不調を訴えてきた。
最初は、季節の変わり目による疲れだろうと聞き流していた彼女だったが、依頼者の瞳の奥に沈殿した「澱」のようなものが気になり、彼女の住むワンルームへと足を運ぶことに決めた。
部屋に入った瞬間、彼女が受けた印象は「清潔」の一言に尽きた。
物は最小限に抑えられ、床には塵ひとつ落ちていない。さっぱりとした、規律正しい生活を感じさせる部屋。けれど、その清潔さこそが、かえって異様な違和感を際立たせていた。
霊能者である彼女の視界が、部屋の隅々に向けられる。
そして、ふとした拍子に、その「おかしなもの」を捉えた。
「これ、何?」
彼女は、白い壁紙の一部を指差した。
「え? 何って、何のこと? 何も無いけれど」
依頼者は、心底不思議そうに首を傾げた。
けれど、彼女の目にははっきりと見えていた。
清潔なはずの部屋の、至る所に。壁に。床に。あるいは窓枠に。
まるで猛獣が狂乱の中で爪を立てたような、無数の、執拗な「ひっかき傷」の痕跡が刻まれていたのだ。
「部屋、侵入されていたわね」
「侵入……? 泥棒ってこと? でも鍵はかかっていたし、何も盗まれていないと思うけど」
「どっちに侵入されたか、という話。物理的な侵入者じゃないわ。……生霊」
彼女は、美しい部屋を汚すことを躊躇いながらも、速やかに御札による結界を施したそうだ。こんなこともあろうかと御札を準備していたのだから、会う前からなにか感じていたのだろう。
生霊。それは、死者の呪いよりも質が悪い。生きている人間の、制御不能な想念が形を成し、特定の座標を侵食する現象。それは論理という名の防波堤を、感情という名の濁流で押し流してしまう。
しばらくの間、結界の効果か、依頼者の「肩の重み」は霧散したかのように見えた。
壁の爪痕も、それ以上増えることはなかった。
霊能者である彼女も、山積する他の依頼に追われる中で、その件を日常の端っこへと追いやってしまった。……そう、彼女が「大怪我をした」という連絡を受けるまでは。
連絡を受けて駆けつけた病院の、消毒液の匂いが満ちる病室。
そこで彼女が目にしたのは、点滴のチューブを幾本も刺され、石膏のような痛々しいギプスに包まれた友人の姿だった。
事故からは数日が経過しており、命に別状はなかった。意識もはっきりしており、会話も可能。あちこち骨折はしているものの、一見すれば「不運な事故からの回復」という物語で完結するはずの光景だった。
けれど。
霊能者である彼女の瞳には、それ以上に深刻で、生理的な嫌悪を催す「実体」が見えていた。
「ねえ、私があの時、何を見たと思う?」
喫茶店の彼女は、冷めた紅茶に視線を落としながら、声を潜めた。
「想像もつかないな。骨を砕くような、巨大な重圧だろうか」
「いいえ。もっと小さくて、もっと執拗なもの」
彼女は、自分の指を広げて見せた。
「彼女の頭から、目元にかけて。べったりと張り付いた、何本もの『手』よ。最初、頭に巨大なヒトデでも張り付いているのかと思ったけれど、違った。それは、執念で形を成した、人間の手だったの」
その白く、血の通わない指先が。
依頼者の目を塞ぎ。
耳を塞ぎ。
五感という名の、外部世界と繋がるためのインターフェースを完全にシャットアウトしていた。
彼女は、真っ昼間の交差点で、目隠しをされた状態で放置されていたのだ。
トラックが近づく轟音も。
周囲の叫び声も。
迫りくる鉄塊の威圧感も。
すべては、その「手」によって遮断され、彼女の認識から消去されていた。
事故が起きたのは、運命のいたずらではない。その手が、物理的に彼女を「あちら側」へと引きずり込んだ結果だったのだ。
「正体がわかってしまえば、対処は簡単。……いえ、簡単というのは語弊があるけれど、やり方はあるわ」
彼女の口調に、一瞬だけ、刃物のような冷徹さが宿った。
「生霊の主は、予想通り、彼女の知人だった。私はね、金輪際、彼女にちょっかいを出そうなんて気が起きなくなるくらいの『お仕置き』を、その主にお見舞いしてあげたの」
「お仕置き、か。それは穏やかじゃないね」
「穏やかじゃないのは相手の方よ。人の視界を簒奪し、大怪我をさせたのだから。等価交換、あるいはそれ以上の報いを。……呪いという名のエネルギーを、そのまま鏡合わせにして送り返してあげたわ」
彼女は、ようやく冷え切った紅茶を一口飲み、小さくため息をついた。
「人を呪わば、穴二つ。……有名な言葉よね」
およそ、この言葉を「自業自得」という道徳的な訓戒として受け取る人は多いだろう。
他人に害をなせば、自分にも同じ害が返ってくる。だから人を呪ってはいけない、という善意の解釈。
けれど、私たちが生きるこの虚実皮膜の世界において、その意味はもっと物理的で、もっと救いがない。
穴が二つ必要なのは、道徳のためではない。
呪いというエネルギーを起動させた瞬間に、術者と対象者の間には、不可逆的な「回路」が形成されてしまうからだ。
相手を葬るための穴を掘るということは、その掘削作業によって自分自身の足元も等しく削り取っていることに他ならない。
相手に災いをもたらすための穴。
そして、自分が入るための穴。
それは対になったセット商品であり、決して切り離すことはできないのだ。
「お仕置きの結果、その生霊の主はどうなったの?」
私が尋ねると、彼女はふいと目を逸らした。
「……さあ。ただ、これだけは言えるわ。彼女の目と耳を塞いでいた『手』は、今はもう、主自身の視界を塞いでいるはずよ。自らが作り出した闇の中で、彼女は何を見ているのかしらね」
喫茶店を出ると、京都の街は夕刻の藍色に包まれていた。
家路を急ぐ人々の背中。
街灯が灯り始め、物理的な世界は明瞭に照らし出されているように見える。
けれど、私の隣を歩く彼女の瞳には、まだ「手」に塞がれた誰かの悲鳴が映っているのかもしれない。
霊障でものが見えなくなる。
それは、目に見えない「意志」が、物理的な「現象」へと転換される瞬間の、最も残酷な形だ。
私たちは、自分が見たいものを見ているのではない。
誰かに見せられているもの、あるいは、誰かに隠されているものの中で、危うい均衡を保ちながら歩いているに過ぎない。
私は、自分の肩を軽く叩いてみた。
幸い、そこには何の重みもない。
けれど。
もしも、視界がふと暗くなったとき。
あるいは、大切な音だけが聞こえなくなったとき。
それは単なる疲れのせいではなく――誰かの「指」が、あなたのまつ毛を優しく撫でているせいではないと、誰が断言できるだろうか。
人を呪わば、穴二つ。
その穴の底で、私たちは皆、誰かの視線を、あるいは誰かの指先を、じっと待ち続けているのかもしれない。
次の話
螺旋の溜息