
愛が共生する生態系 ❺ 花園巡り
:花園巡り
Wandering the Flower Gardens
新宿の喧騒から少し離れた裏通りに、ぽつんと佇む小さな生花店「花屋」。その店主、葦野は店内に呆然と立ち尽くし、途方に暮れたように宙を見つめていた。
店の定番のガーベラやスイートピー、アイリス、アネモネ。
可愛らしいカスミソウ、美しいバラたち。
個性を引き立て合うように作り上げたミニブーケも。
天井を彩っていた無数のドライフラワーも。
店頭のオリーブの木も、
パキラもアンスリウムも。
山葡萄も
ツルウメモドキも……!
全部。
開店一番に訪れた客が、店の商品をすべて買い上げてしまったのだった。
完売御礼。商売人としては夢のような出来事だ。だが、それが現実になってみると、彼の目の前にぽっかりと空いた空間は妙に虚ろだった。まるで嵐が花を全てさらっていってしまったかのように空しい。
換気扇に巣を作ったスズメの声だけが、空の店内にのどかに響いていた。
「……あのお客さん、ホストか何かかな……」
葦野は手に持たされたままの、無造作に封筒へ詰め込まれた大量の現金に視線を落とした。ずっしりとした重さ。封筒の隙間をこわごわと覗き込んで、首筋に走った嫌な緊張に口元を引き締める。ひと目見ただけで、定価以上の金額が詰め込まれていることが理解できる。指先でそっと袋の口を閉じながら、スーツ姿の男の顔を思い出す。漆黒で固めた全身。金色の指輪がギラギラと光る手から渡された現金。
葦野は眉間に皺を寄せて小さく呟いた。
「ヤクザ………じゃないといいな……」
外では照り付ける日差しの中、アブラゼミの声が重たく響いている。梅雨が明けたことを改めて実感させられる夏の空気だった。
今日の花市はもう終わっている。生花の入荷も明日までない。伝票整理もすでに終えてしまった。歴代最短時間で、最高売上額を記録した今日。
「新宿って……こわ」
葦野はどこか感心しながらも、圧倒的に恐怖心が勝っていた。土地柄、高額の買い物をする客も多くいることは確かだが、この街に店を構えた自分の選択を、少しだけ見つめ直す。
棚を軽く拭き、がらんどうの店内を掃く。レジを締め、シャッターを下ろした。オープンの札をくるりと裏返すと、ほんの少し寂しさが胸を掠める。売れた嬉しさはあるはずなのに、心の奥が空虚だった。
不意に、ある人の顔が浮かぶ。このすぐ近くで働いている、親しい友人。その場所に行けば、この気分が落ち着く気がした。
「……穂高さんとこ、行ってみようかな」
……暇だし。明日のことは今は考えたくない。葦野は横断歩道のカッコウの声を聞きながら、思いつきに近い足取りで、新宿御苑の正門を目指した。考えてみれば、苑内に入るのはこれが初めてだった。
——
「穂高さんは出勤されていますか?」
新宿御苑の入り口に置かれたインフォメーションセンターで尋ねると、スタッフの表情が固まるのを葦野は見逃さなかった。妙な気まずさを感じて、慌てて補足する。
「あっ、友人です。葦野といいます」
スタッフは少し頷いて、にこりと笑うと「確認しますので、少しお待ちください」と言って奥の部屋へと向かった。木調で落ち着いた佇まいの建物。小ぢんまりしているが、カフェも併設されているようで、居心地がいい。カウンター横の御苑マップに目をやると、その広さに圧倒される。日本庭園、温室、芝生広場、バラ園……。
「いい職場だなあ」
そうつぶやいたとき、事務所からどよめきが聞こえた。
「穂高さん、定例会議終わってるよね?」
「センちゃん? さっき事務所ですれ違ったけど」
「セン先生のお友達?」
「穂高君、無線置いてってるじゃん」
「センちゃん……」
思わず葦野は口の端をほころばせた。あの人は、職場であんな風に呼ばれているのか。少し意外で、でも、妙に納得もできた。
そこへ、バタバタと走り出てきた女性職員が声をかけてくる。
「あ、穂高のお友達の方ですよね……! お花屋さんの!」
「え、は、はい……そうです」
「いつも先輩から聞いてて、花屋の友達がいるんだって」
「……いつも?」
「はい。お花屋さんでもらったっていうナデシコのドライフラワー、先輩の机に飾ってありますよ!」
「あっ、あ! 君かあ」
葦野は弾んだ声を上げる。あの夜、穂高に手渡したナデシコの花。彼は「ドライフラワーにしている」と言っていた。しっかりと残っていたのだと、彼の胸が暖かくなった。
「お会いできて嬉しいです!『お花屋さんが〜』って楽しそうに話すので、どんな人なんだろうって。ねー」
「ね。あの、穂高ですが、おそらく日本庭園の方だと思います。午前中はそこで打ち合わせだと言っていたので」
そこへもう一人の職員が現れ、ガイドマップを葦野に差し出した。
「バラ園もまだ見ごろなので、良かったらぜひ足を運んでくださいね」
促されるままに、葦野は重なり合う緑のグラデーションの中へと足を踏み入れた。
「……広い……」
大都会・新宿の真ん中に、こんなにも静かで広大な場所があったとは。
思わず、彼の口から低く声が漏れる。どこまでも続く芝生広場。その奥には、スギにも似た巨大なストローブマツが天を衝いていた。この国には自生していない、まるでクリスマスツリーのお化けのような木。そのハリボテのような雰囲気に気分が落ち着かない。白く飛んだ強い日差しの中にセミの声が遠く、近く、重なって耳をくすぐる。
早く、穂高に会わなければ。
朝から葦野が抱えている、なんとも言えない虚しさと寂しさ。気づけば、その理由すらよく分からなくなっていた。ただ一つだけ、確かなのは。あの人の顔を見れば、少しは心が癒える。そんな自覚があった。
案内された日本庭園に穂高の姿はなかった。作業員に声をかけると、彼は数分前に南側の桜園の方に向かったとのことだった。葦野は少しだけ落胆しながらも、整然と手入れされた松の庭を歩く。平日の庭園は訪れる人も少なく、静けさが辺りを包んでいる。
夏真っ盛りの松に雪除けの縄がかけられているのが妙に絵になっていた。柳の木をくぐると驚いたコサギが白い翼をばたつかせながら飛び立つ。騒がしくなった水面に、彼自身の心情が映し出されたような気持ちになりため息をついた。
そういえば、あの純白の羽のような色のブーケは自信作だった。
「……あっつい」
つい、声が漏れる。
梅雨が明け、いよいよ夏が本格化しようとしている。もっとも、最近は温暖化の影響で、梅雨前から三十度を超える日が当たり前になってきたけれど。
穂高と出会ったのは、まだ春の肌寒さが残る頃だった。始めは、よくすれ違う知り合いとして。いつの間にか気の置けない友人として。半年も経たないうちに、こんなにも気軽に会うようになるなんて。
池に沿って歩いていくと、やがて桜園の入り口が見えてきた。辺りに植えられたソメイヨシノはすっかり葉桜になっていたが、その幹や枝には上品な艶が残っている。
店でも桜の枝は春の定番の商品だ。日なたに置いておくと、時々虫が湧いてきて、切り枝でも命のよりどころになるのだと感心したのは葦野の記憶に新しい。そんなことを考えながら穂高を探していると、職員らしき黄緑色の制服が目に入る。
「……違う」
しかし、穂高ではなかった。足音に気づいたのか、職員が顔を上げ、葦野を見て目を見開いた。思わず葦野の歩みも止まる。
「あっ!穂高保護官のお友達の方ですよね?」
「……保護官? あっ、はい。そう、ですけど?」
「さっき無線で、『穂高を探してる人がいる』って連絡が来てて」
「え……?」
そんな私的なことで仕事の無線使っていいの?公務員って意外と自由だな、と他人事のように思いながら、葦野は曖昧に相槌を打った。
「保護官、今日無線持ってなくて。二十分くらい前かな、呼ばれてバラ園に向かいましたよ」
「はあ、そうですか……ありがとうございます」
葦野は軽く頭を下げて踵を返した。見張られているような気分で居心地が悪かった。
それにしても、普段は少し影のある雰囲気をまとっている穂高も、職場ではどうやら違うらしい。「穂高君」「センちゃん」「保護官」。まるでノラ猫が名前をいくつも持っているように、彼は色々なひとから色々な名で呼ばれているのだ。面白くない。と、葦野はガイドマップを開きながら小さく重いため息をついた。
当たり前だ。いくら親しいからと言っても、葦野が知る穂高が彼の全てなわけがない。しかし他人からもその事実を突きつけられているようで、彼の胸の奥はざわざわとうるさかった。いい大人がなんて子供じみた気持ちになっているのだろう。
ふとスマートフォンで時間を確認すると、いつの間にか正午を過ぎていた。
「っていうか……」
手の中の画面にメールの通知が入り葦野は天を仰いだ。事前にスマホで連絡すればよかった。
「……ばかだなあ」
大きなため息をついて、画面をロックし、端末をポケットに戻す。
しかし今さら連絡するのもなんだか悔しい。もうこうなったら、意地でも自分の足で見つけてやる。と、よくわからない執念に火がついた。
ーー
「あー、だめだ……つかれた……」
しかしその執念も、照り付ける初夏の太陽には太刀打ちできず、早々に風景式庭園の側にあるカフェで一息つくことにした。
キンと冷えたアイスコーヒーが喉を潤し、体に染み渡っていく。サーモンとクリームチーズのベーグルサンドで簡単に腹を満たしながら、インフォメーションセンターで受け取った地図を広げる。目の前には水辺のサルスベリの木が美しく風に揺れる。その奥に高く伸びた針葉樹の木立。さらに遠くには、新宿の高層ビル群がそびえ立つ。
この庭園は、まさに都会のオアシスだ。そして、穂高が自然保護官として毎日働いている場所。
「いいところだなあ」
まあ、自分の店も負けてない……。今は空っぽだけれど。と葦野は内心で肩をすくめた。
カフェに立ち寄った職員が、穂高が中央休憩所に居たと葦野に伝えた。この感じだと望み薄だろうと思いつつ葦野は律儀に足を運ぶ。案の定、穂高は足跡だけを残していなくなっていた。
バラ園でも、穂高は既に立ち去った後だった。
だが、色とりどりのバラたちが見送ってくれるようで、不思議と気持ちが折れなかった。
「ああ……いいなあ……」
花屋を営んでいるだけあって、バラの美しさには心を打たれる。地植えのバラはやはり迫力が全く違う。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、柔らかく気が緩む。それと同時に空虚な自分自身の店を思い出してまた彼の思考が下を向きそうになる。アヴァランチェ、ライラック、プリティカレン……。大切に世話したバラたちは、今どこにいるだろうか。せめて美しく生けられているといい。
葦野がバラ園で作業中の職員に聞くと、どうやら穂高は温室に向かったらしい。空には群れになったカラスたちが、ゆっくりと街を横切っていく。
まだ日は高いが、時計の針は午後四時を回っていた。
ーー
温室の入り口に職員が一人立っていた。制服のボタンを襟もとまでしっかりととめ、黒いカーゴパンツにトレッキングシューズ姿。遠目にも、それが穂高であると葦野はすぐに気づいた。
扉に寄りかかり、どこかで待ち人を待つような、気の抜けたような穂高の立ち姿。顔色はやや疲れて見える。
「……すれ違う職員全員に、君が探しまわってるって言われたんだけど」
「探してたので」
「……。……彼氏になった覚えはないんだけど?」
「え……どうして? なんでそんなことに……?」
穂高の微妙な表情は、その噂のせいだろうか。申し訳ないような、けれど少しだけ可笑しくなって葦野はクスクスと笑い声を漏らす。
「えっと……センちゃん」
「葦野さん、その呼び方はやめてください」
「ごめんなさい、穂高さん。……でも、スタッフの皆さんと仲良しなんですね。すんごい話しかけられました」
「まあ、いい人たちですけど……からかいがすぎるんですよ、本当に。何がしたいんだか」
穂高は困ったように手ぬぐいで首元の汗を拭いた。
「……ねえ、ぼくも名前で呼んでもいいですか?」
「……いいですけど。じゃあ、僕も、岳って呼びますから」
「はい。ぜひ」
——
職員用通用口の外で待っていると、制服の上からジャケットを羽織った穂高が出てきた。
「お待たせしました、無事定時で出られました」
「待ちくたびれました。いや、探しくたびれました」
少しだけ拗ねたように言うと、穂高が驚いたように葦野を見る。その視線に応えるように、葦野は笑った。
「それは……すみません」
「ふふ、冗談です。ねえ、泉さん。夕飯一緒に食べましょう。今日は僕の奢りで、なんでも好きな物、言ってください!」
「……? なんです、急に。そんなに嬉しそうにして」
「もうね、今日、朝からずっと話したかったんです」
葦野の妙なテンションの高さに、穂高は困ったように、しかし優しく首を傾げて彼の次の言葉を促す。
朝から本当に、ずっと、穂高に会いたかったのだ。葦野は思いを漏らすようにゆっくりと息を吐いた。
あの日、彼が手に取ったブルースターを、懐かしさに息を漏らしたナデシコを、ぼんやりと見つめていたツルウメモドキを思い出した。行き先も、飾られる場所も分からないまま、ただ金という暴力的な記号と引き換えに奪い去られた花たち。そのことが、たまらなく寂しかったのだ。
そうだ。手放したくなかったのだ。
生花店を営む者として矛盾する思いを自覚して葦野はふわりと口元を緩めた。花を売る先は選べない。けれど彼のように花を愛して大切に生けてくれる人がひとりでもいるのなら、その人に自分が手をかけた愛情ごと花を手渡したかった。
「朝から?」
「そう!だから、ほら、早く行きましょう!」
「ちょ、葦……岳くん、ちょっと待って、引っ張らないで。というか、その封筒……何が入ってるんです?」
葦野は待っていましたと言わんばかりに、にこっと目を細めた。穂高の右腕をつかんでいた手を離すと片手に握りしめていた封筒を掲げる。
「今日の売り上げです。スーツのお客さんがお店の花を全部買ってくれて。おかげ様でうちの店、今空っぽなんです」
穂高が不思議そうに瞬きをする。かたく閉じた封筒の口を開いてこっそりと中身を穂高に見せてみた。分厚い紙の束。いや、紙じゃない、大量の一万円札だ。穂高の体が硬く緊張したのが分かった。
「!? そんな物騒な物早くしまってください!!え……こわ……」
「こっわいですよね……」
めったに聞くことのない穂高の大声に、朝から続いていた寂しさが霧のように消えていく。
葦野は、コンクリートの割れ目に咲く小さなタンポポを見つけた時のように、少し驚いて、それからこぼれるように笑った。
・
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閑話 画伯 The Artist
新宿御苑のインフォメーションカウンターに、背の高い男がふらりと現れた。洗いざらしのリネンシャツをゆったりとした麻のパンツに入れ、斜め掛けのサコッシュを肩にかけている。
スタッフのひとりが目ざとく彼を見つけ、「あー!こんにちは。穂高をお訪ねですよね?確認しますので、少々お待ちくださいね」とにこやかに声をかけ、奥へ引っ込む。
「え、あ……お願いします……」
困ったように眉を寄せ、そっと目を伏せた葦野は、ほどなく出てきた別の女性スタッフに声をかけた。
「なんか、覚えられてます?」
彼女はくすりと笑いながら答える。
「はい。穂高先輩のお友達、ですよね?」
先日、御苑で繰り広げられた「壮大な(?)すれ違い劇」のおかげで、すっかり顔パスが定着しているらしい。気恥ずかしさに頬を緩ませながら、葦野は視線をカウンター上の掲示へと移した。その片隅に、小さなバスケットに収められた見慣れないステッカーが、ひらりと目に留まる。直径五センチほどのサイズに「三百円」と書かれた札が揺れていた。
葦野はそっと取ってみる。
「なにこれ、……かわいい。お花?前からあったっけ?」
首をかしげると、スタッフが得意げに近づいてきた。
「それ、新商品のステッカーなんです。原画は穂高先輩なんですよ!」
「え、そうなんだ?デザインも配色も素敵だね」
「でしょう!先輩、絵はへ……独特、なんですけど……広報とデザイン担当が『これだ!』って選んで色をつけて、ステッカーに仕上げたんです」
「独特って……」
葦野は心の中で苦笑しつつ、一枚手に取る。そこには、高山植物のチングルマが描かれていた。
歪だが味のある形をした五枚の花びらが、濁りのない明るい黄色と深い緑で表現され、中央のめしべだけが鮮やかなオレンジに染まっている。その強烈な色のコントラストは、葦野の瞳に迷いなく飛び込んできた。下には花の名前と学名が細くレタリングされ、小さなこだわりが感じられる。
思わず頬がほころぶ。
「なに見てるんですか?」
背後からかけられた声に振り返ると、そこに穂高が立っていた。
「これ……すごくいいですね。泉さんが描いたの?」
「描いたっていうか、描かされたっていうか……」
彼は照れくさそうに笑い、肩をすくめる。
「でも、本当に素敵だよ」
葦野はありのままの感想を口にする。
「……そうかな……?」
穂高は少しだけうつむいて、しかし、瞳は嬉しそうにきらめいていた。
生き物メモ
サルスベリ
( Lagerstroemia indica 百日紅 )

夏から秋と長く紅色の花を咲かせることから「ヒャクジツコウ」とも呼ばれる。
花言葉は「愛嬌」「雄弁」「不用意」など。