
愛が共生する生態系【okumino】❶ 迷鳥
白山をいただく奥美濃、長良川が清澄な音を鳴らす街、美濃白鳥。
フラワーアーティストとして注目され続ける日々に限界を迎えた葦野岳は、白山国立公園で自然保護官として生きる穂高泉の手を取り、生まれ故郷へのUターン移住を決意する。
かつて諦めた色彩と自らのルーツに向き合う葦野の傍らで、穂高もまた、山への眼差しを深めていく。
『槍』と『穂高』奇跡のように並んだラベルを笑い合い、週末の食卓を囲みながら、ふたりはこの地に静かに根を張っていく。
水の生まれる街で重なり、補い合い、巡りゆく、新たな生物群集。
自然と人と愛の行方を淡く描く、連作短編集・奥美濃編。
アラフォーBL × アウトドア × 生態学? + 田舎暮らし !
新宿編 | 登場人物紹介
※ 本作はフィクションです。実在の地名、公的機関等が登場しますが、実際の団体や業務、事故等とは関係ありません。 山岳描写および事故の経緯は物語上の演出としてお読みください。
迷鳥
The Stray Bird Returning with Seeds
街灯の光が雨粒を縫うように流れた。バスの重い車体が低く唸りを上げて、ゆっくりと首都高のランプを登る。
不意に咳の音がこぼれ、葦野は喉の奥に残る痛みを手の甲で押さえ込んだ。息を吸い込むたびに、咳止め薬の甘いような匂いと、バスシートの布の匂いが混ざって胸に沈んだ。
車窓を転がるように流れる水滴を、彼の琥珀色の瞳がぼんやりと追う。そのとき、手元のスマートフォンに通知が入った。穂高からの連絡だった。
葦野は目を見開くと、張り詰めていた緊張を解きほぐすように大きく息を吐いた。
「……よかった……生きてた……」
『お疲れ様。家に帰ったよ』
淡々とした文字の羅列に小さくつぶやくと、葦野はまた引っ張られるようにせき込んだ。春先の登山で拗らせた風邪が、今もまだ気怠い咳になって彼の胸の奥に居座っている。
穂高が岐阜へ越し、遠距離での生活を始めてひと月あまりが過ぎようとしていた。あの日、桜を浮かべていた空は今、梅雨の重い雲に覆われている。
数日に一度の通話。そして、おはようと、お疲れ様のメッセージのやりとりを交わす日々。「遠距離恋愛、若者みたいだな」という穂高の微笑みに励まされながら、全国の国立公園を巡る役人がパートナーだという誇りとともに花を生ける毎日。寂しさを抱えながらも葦野はその暮らしに満足していた。
仕事も順調だった。生花店の売上もSNSの効果で倍増し、フラワーアレンジメントはもちろん、雑誌やWEB取材の依頼もとどまるところを知らない。
それで十分なはずだった。しかし、葦野は日に日に増していく息苦しさに悩まされていた。倦怠感と原因不明の咳が彼をじわじわと蝕んでいく。
『泉、お疲れ様。僕も今帰るところ。無理しないでね』
『こんな時間まで働いてたの?体調は?どう?』
『お互い様だって。大丈夫だよ。咳止めも飲んでるし』
葦野は震えの止まった手で返信を打ち込んだ。リアルタイムで既読表示が付き、それに安心して目を閉じた。
雨が降り始めたのは、葦野が今日の仕事を終えて店を閉めたころだった。照明を落とした店内でカウンターに背をもたれ、揺れる花々をぼんやりと見つめていた。
どの花も丁寧に仕入れ、手をかけてきたものだ。誰かの想いの受け皿になって、その手から手へ幸せを運ぶ花。それは葦野の愛する色彩の波であるはずだった。しかし、今はその色を見ても彼の胸は晴れなかった。
手には、一輪のスイートピーがあった。花弁の端がわずかに透けて、彼の指先の熱で静かにふるえた。何度こうして同じ季節を、迎えただろう。手の中の花はひとつとして同じ姿をしていない。けれど葦野が見つめていたのは、記憶の底にある花だった。どの花も、自身の手の中で色を失っていくのだ。いつだって、失うのは、自分の手が届かない場所にあった時だった。
葦野の心の奥で、ひどく静かな水音がした。この季節は、心がどこか遠くへ行ってしまう。
会わなければ。そう思った瞬間には、もう足が動いていた。
葦野は焦るように照明を消し、シャッターを下ろす。濡れたアスファルトを踏みしめて新宿駅へ向かった。コンビニで使い捨てのマスクとミネラルウォーターを買い、その足が向かった先はJRの改札ではなく、南口のバスタ新宿だった。
《 岐阜・郡上八幡行き 》。高速夜行便の電光掲示板が、彼の滲む視界の中で揺れていた。
スマートフォンが手の中で震えて葦野はゆるりと目を開ける。
『連絡できなくてごめん。寝坊したんだ。電話、何かあった? 』
『気にしないで。泉も寝坊なんてするんだね』
バスが巡航に入って走行が安定すると、車内の照明が落ち、到着時刻のアナウンスが流れた。
穂高からの連絡でようやく生きた心地がするだなんて、どうかしている。葦野は手元のスマホを眺めながら自嘲した。こんな姿を彼には絶対に見せられない。普段はどうということもない半日の音信不通が、今日に限って葦野をひどく憔悴させていた。
胸のつっかえを逃がすように浅く息を吐く。座席を少しだけ後ろに倒して、窓の外の光を追いかけた。揺れる光の粒が、夜をゆっくりと後ろに置いていく。
このバスに乗るのは、いつぶりだろうか。祖父の葬式の時は、新幹線に乗ったっけ。それも、随分と昔のことだ。葦野の記憶が柔らかく濁る。胸の奥が熱くて、苦しくて、それでもどこか懐かしいと思える優しい記憶だった。
『おやすみ、明日も無理せずね』
『岳も、ゆっくり休んで』
いつの間にか、葦野のまぶたは重くなっていた。
―—
夜行バスが郡上八幡ICの停留所に着いたのは、朝の六時を少し回った頃だった。
高速道路の駐車帯に取り付けられたバスの停留所は、駅の待合室のように簡素な造りで、冷たい山風が吹き抜けるたび、透明なガラスの壁が薄く揺れた。
手荷物ひとつでバスを降りた葦野は、その中のベンチに腰を下ろした。底冷えした山間の澄んだ空気に思わず身を震わせる。薄手のシャツにカーディガンをかけただけの格好では、早朝の山風には到底心許なかった。
帆布のトートバッグの中には財布とスマホ、充電器などの小間物、それから仕事道具と花のカタログが一冊だけ入っている。
「ああ……もう……」
葦野は深く息を吐いて、あまりにも衝動的な自身の行いを呪った。「泉に会いたい」という思いだけが、彼を夜の新宿からここまで連れてきてしまったのだ。
道路を走るトラックの音が重く響く。葦野はベンチに背を預けた。瞼の奥が熱い。肺の奥に燻る熱で軽く咳が出る。冷たい空気が胸にしみて、ひゅっと咽るように息を吸った。
辺りには靄がかかり、車の音に混ざって川のせせらぎが聞こえる。黒い針葉樹の稜線の向こうで、薄い朝の光が滲んでいた。
ここから、市街地に出て、路線バスに乗り換えて、白鳥まで行こう。途中で朝食を買って、身なりを整えて、石徹白の、穂高の家に行こう。葦野は動かない頭でぼんやりと段取りを組み上げる。
「でも……」
しかし彼の体は一向に動かなかった。足が根を張ってしまったかのように重く、葦野は細く息を吐くだけだった。本当に、何をやっているんだろう、こんなところで。両手に顔をうずめて、熱を持つ目元を乱暴に擦る。
葦野はバッグからスマホを取り出し、ためらいながらも穂高の番号を押した。
コール音が響く。まだ寝ているかもしれない。迷惑をかけてしまう。あと先考えずに夜の闇を飛んできてしまった後悔で、葦野の口元がわなないた。
せせらぎの音だけが、ただ絶え間なく響いていた。その音は、朝の霧が立ち込める標高約七百メートルの高原でも、同じように響いている。
ラジオの音が不意に切れ、スマホが軽快な音を立てる。穂高は芝色の制服を中途半端に羽織りながら、画面に浮かぶ名前を見て目を見開いた。朝六時半。普段通話する時間帯ではない。彼は首を傾げながらも、迷いなく通話ボタンに触れる。
「岳? おはよう?」
穂高の柔らかな声に、葦野の喉が引き攣り、声にならない音が漏れた。やがてかすれた声で、途切れ途切れに葦野の言葉が落ちてくる。
『起きてる……?』
「起きてるよ。寝坊したのは昨日だけ」
『ふふ、……』
葦野の不自然な声の震え。呼吸に残る咳の音に穂高の眉が顰められる。端末越しの声の後ろから聞こえる車の音に、穂高は葦野が屋外にいることを直ぐに察した。
「岳、どうしたの、こんな時間に」
穂高は息を止め、耳を澄ませる。数秒の間のあと、葦野が息を吸う音が聞こえた。
『……ごめん、いま……。岐阜の、バス停に、いて……』
「え? 岐阜?」
予想外の驚きで思わず穂高の声が上擦った。冷静沈着なその表情に、淡く焦りが浮かび始める。
『行きたくなって……でも、動けなくなっちゃって……』
その言葉に混ざった咳と涙の気配に、穂高の心臓が一気に跳ねた。慌てて制服のボタンを留め、乱暴に着替えを終わらせる。
「動けない? 岳。どこにいる? 場所、わかる?」
『……郡上八幡の……インターの……バス停』
「すぐ行く。今から行くから、絶対、動かないで」
『ごめんなさい……』
スピーカーモードにしていた通話はいつの間にか切れていた。穂高は財布とスマホをポケットに突っ込み、玄関に置かれた車の鍵をつかむ。
芝色のシャツの裾を翻しながら、ドアを開け放った。音がやけに大きく響く。小鳥たちの声が霧のように遠のいた。
冷気を振り切るようにジムニーが走り出す。薄靄のかかった道を抜け、桧峠を越える。雨上がりの朝光を浴びて深いブナの新緑が艶めく。つづら折のカーブの先で視界が開け、白鳥の町の屋根が朝陽を受けて光り輝いていた。梅雨の晴れ間。青空が覆う、白山麓の町。
どういう訳か、あの町の先に葦野がいる。
衝動的に家を出た穂高は、気がかりで呼吸が浅くなる半面、キツネにつままれているような心持ちにもなっていた。しかし、未だ折り返しの来ない通話記録の、葦野の擦れた涙声は今も彼の耳の奥に残っている。
外気温12度の表示に穂高は顔をしかめる。寒くはないだろうか。昨夜送ったメッセージを思い返しながら、彼が一晩で飛んできてしまった約四百キロの距離に思いを馳せた。
「あ、出勤時間……。いや、間に合うか…」
間に合わなくても、いい。
穂高の思案を振り切るように、ジムニーの車体が軽やかに峠道を駆け降りる。田園を抜け、バイパスに乗って市街地を超える。長良川の流れを右手に郡上八幡への道をひた走った。道路脇にはまだ春の名残の花が揺れている。しかし、ハンドルを握りしめる穂高の目にはそれを見ている余裕などはなかった。
一時間ほど走り、郡上八幡インターに到着した穂高は車を停め、高速道路への通用階段を一段飛ばしで駆け登った。
針葉樹の斜面に挟まれた高速道路に、ようやく朝日が差していた。
本線の側に置かれた停留所に、人影があった。
ブレーキを踏み込んだように穂高の足が止まる。胸の奥がざわつく。
「がく……」
ガラス扉越しに穂高の目がとらえたのは、日の当たる場所を探すように座り込み、うたた寝をしている葦野の姿だった。
「岳!」
その名を呼ぶ穂高の声は、驚くほど震えていた。体当たりするように扉を開ける。蹲る葦野に駆け寄り、その手を取る。冷たさが広がった。
「岳……!」
樺茶色の髪をかき分けて頬に触れ、首筋に手を当てると、しっかりとした体温と脈が穂高の手に伝わる。ようやく彼は息をついた。
葦野が纏う麻のパンツに、水面の反射のようなペールブルーのカーディガン。お気に入りだと言っていたアイボリーのシャツには、彼が仕事で使うアームバンドが付けられたままだった。穂高の眉が下がる。
穂高は葦野の赤い目元を親指でそっとなぞる。葦野の息が震えて、その目が開く。琥珀の光が朝日に照らされ、とろりとこぼれ落ちた。
「せん……?」
上擦った声がかすかに零れ出た。
穂高は腕の中の葦野の体温を確かめるように堅く抱きしめていた。言葉は必要なかった。冷え切ったカーディガンの布地の奥から、穂高の身体に熱が伝わってくる。
「……せん……ごめん……」
擦れ切って重く引きずるような葦野の声。穂高はその温もりが現実だと確かめるように、彼の背を何度も撫でた。
葦野が目を覚ましたのは、夕日に沈む木造の家の中だった。どこからともなく水の流れる音がする。
頭上は天井が吹き抜けになり、むき出しの梁に張られたロープに洗濯物が掛けられていた。穂高の衣類だった。
オレンジ色が窓から差し込んで、窓辺で揺れるミヤマオダマキを黒く浮かび上がらせた。窓ガラスのひとつが紅葉模様になっている。その淡い光の中で塵がキラキラと舞った。
葦野はゆっくりと身を起こした。それは彼にとって見覚えのある部屋だった。ビデオ通話や写真で幾度か目にした穂高の家。そこに自分が存在している妙な感覚を覚える。枕元にはガラスの水差しと書き置きが残されていた。
《 仕事に行きます。何かあったらすぐに連絡して。お大事に。》
穂高の緩く癖のある字でそう書かれていた。葦野は心なしか軽くなった身体で伸びをする。まとわりついていた体の重さは消えていた。
僅かに開けられた居間の窓から、風がカーテンを揺らす。葦野はそのひんやりとした風の香りをゆっくりと胸に送り込んだ。
そこへ、静かなドアの音が聞こえる。
「ただいま」
穂高の声だった。
葦野は寝床で身を起こしたまま、どうやって彼を迎えようか一瞬だけ考えて、結局そのまま小さく「おかえり」とつぶやいた。
「あ、起きてる」
居間から顔をのぞかせた穂高は目を見開き、次の瞬間にはふっと口元を緩めて微笑んだ。
居心地が悪そうに視線を泳がせる葦野の首筋に、穂高の暖かな指先が当たる。
今朝、捨て犬のようにしなだれていた葦野を保護して家に連れ帰った張本人。眠り込んだ葦野を寝かせて出勤した彼は、昼休憩にも様子を見に戻っていた。穂高は胸に重りのように沈んでいた心配を、柔らかなため息に変える。熱が引き、うっすらと血色が戻った葦野の頬を撫でた。その視線が、枕元の水差しにゆっくりと移り、戸惑いの表情に変わる。
「え?水一口も飲んでないじゃないか」
「今、起きたの……」
「ずっと寝てたの?」
葦野がこくりと頷くと、穂高は少しだけ眉を寄せて、また彼の髪を撫でた。
―—
「はあー…生き返った~」
「生還おめでとう」
葦野が浴室から出ると、食卓には穂高の手料理が並んでいた。穂高が軽口をたたくので、葦野は頬を染めて少しだけ居住まいを正す。
「いろいろと、ご迷惑をおかけしました…」
葦野が深々と頭を下げると、穂高は何でもないように「いいんだよ」と言って笑った。席についてという柔らかな声に誘われ、葦野はしっとりとした手触りの、年季の入ったダイニングチェアに座った。
「いい机だね…この椅子も」
「君の椅子」
穂高の言葉に、琥珀色が瞬きを二つ。葦野はふにゃりと笑うと食事に手を合わせた。
久しぶりに二人揃った食卓だった。炊き立ての雑穀米に、ネギと豆腐の味噌汁、焼いたトウモロコシとベーコンが香ばしいポテトサラダ、ひき肉と油揚げの入ったあんかけ。
葦野はふとあんかけに目を留めて、首をゆっくりと左右に傾けた。
「夕顔だ」
「ん。よく分かったね」
穂高が目を丸くする。石徹白は夕顔の名産地だった。
「久しぶりに食べた。これ、大好きだった」
しっかりと煮込まれた夕顔はとろり柔らかく、ひき肉の油とよく合う。葦野は懐かしい味を噛み締めた。
「よかった」
穂高がつぶやく。輪郭がぼんやりとした、あたたかい声だった。葦野はその声色に鼻の奥が僅かに痺れるような感覚を覚える。数か月前と変わらない穂高の面影。すこしだけ髪が伸び、梅雨の湿度を含んでくせがついていた。葦野の視界が微かに水分を纏う。
「そんなに見られたら食べられないんだけど」という声にたしなめられて、葦野は恥ずかしそうに笑った。
食事がひと段落すると、穂高は番茶を出し、ゆっくりと切り出した。二人が食卓から移動したソファーは、小金井の家からこの家に持ってきたものだ。その柔らかさは葦野の身体にも良く馴染んだ。
「それで、なんで非行少年みたいなことしてるの」
「んふっ……非行、中年だよね……」
穂高の不意打ちの冗談に葦野は思わず吹き出し、息の合間に咳き込んだ。けれどその咳が以前よりも深く長いことに、穂高は気づいている。
「岳……咳、ひどくなってるじゃない」
そう言って、再び葦野の背中に手をあてた。その掌の下で、骨ばった背が震える。
「大丈夫……だいじょぶ。ちょっと冷えただけ……」
「大丈夫な人の声じゃないよ……もう、何カ月経つ?」
穂高の不安げな声が静かに響く。葦野は呼吸を落ち着けると手元の番茶を見つめながら口を開いた。
「ちょっと拗らせて、咳喘息みたいになってるだけ……病院にも行ったし、薬も飲んでるよ」
心配しないで。と、葦野は穂高の頬に柔らかく触れる。その数か月ぶりの体温に、指が震える。
穂高はその手をとると、両手でぎゅっと包み込んだ。葦野の目を見つめる。その美しい琥珀色はいつもの輝きを湛えているが、目元には隠せない疲れがにじんでいた。
「岳、辛くないか、離れて暮らすの」
「え?」
「昼間…、君が寝てるときずっと、うなされてた…」
「!」
「何度も『花』って言ってた。……店の花の事かとも思ってたんだけど、たぶん、 名前……」
葦野の目が大きく見開かれた。彼の頭の奥で、また激しい雨音が響く。雑踏に花が揺れ、淡い色の花弁が視界をかすめる。
その音はとっくに葦野の生活に馴染んで薄まったはずだった。けれど彼の心身が限界を迎え、無意識で口に出ていたのだ。
「あ……ごめ……ん……」
穂高は何も言わずに彼を引き寄せて抱きしめた。葦野の肩が大きく震えた。か細い声で何度も謝るその身体を、穂高は静かに抱きしめたまま受け止めた。
「謝らなくていいんだよ……」
穂高の声が、静かに流れるように葦野を包む。
「いつも、は……大丈夫なの……。でも、昨日は、昨日だけは……どうしても、きみが近くにいないと不安で、息が出来なくて……」
咳交じりの声が体越しに震えて、穂高の肩に伝わる。
穂高はその背中を落ち着かせるようにゆっくりと撫で、続きを促した。
「うん……」
「気づいたら、バスに乗ってて……」
「うん」
「ぼく、泉に依存したくないのに……」
とうとう、崩れ落ちるような悲痛な声が落ちる。葦野はまた咳き込むと、その合間に喘ぐように息を吸った。
穂高は黙ってその背を撫でていた。葦野の呼吸に合わせるように息を吸い、しばらくした後、徐に口を開いた。
「……岳、それって、依存じゃなくて、ただ生きてるだけなんじゃないの」
「……?」
「……ほら、渡り鳥は季節によって生息地を変えるでしょ? ニホンジカも、温暖化で生息域を北に広げてる。生きものは環境に合わせて移動するんだ」
「うん?」
葦野の首の傾きが徐々に大きくなっていく。しかしそんな事にはお構いなしに穂高は続ける。手が自然と動き始める。訥々とした語り口が徐々に早口になっていく。
葦野は穂高の肩に頭を預けたまま湿った頬を緩めた。その間にも、穂高は季節移動するエナガや西日本のクマゼミの話をしきりに語っていた。
「えっと……動物ってさ、自分が生きやすい場所を本能的に理解して、移動するんだ。本来はね」
「そうなんだ」
「だから、岳も昨日、僕に会いたいって移動してきてくれたんでしょ?」
「……? たぶん、そう」
「え? たぶんなの?」
「いや、そうなんだけど。なんか話がよくわからなかった……」
思わず葦野が顔を上げる。その目の奥に、光が反射していた。
穂高は諦めずに説明を続けた。
「あのね、逆を言えば、移動できない生き物は、環境が変わると生き残れないんだ」
「……ライチョウとか?」
葦野は穂高の寝台の枕元に置かれている二ホンライチョウのぬいぐるみにちらりと目を向けた。それは葦野が穂高の誕生日に贈ったものだった。大事にしてくれている。その事実が葦野を温かく包み込む。
「そう。あの子たちは、雪がなくなると居場所を失う。……でも、岳は、ちゃんと動いた。だから、生きてるんだよ」
葦野の目頭から、また涙がこぼれ落ちた。
「泣き虫だなあ」
穂高は腕を伸ばして、親指で涙を拭った。 樺茶色の髪を梳き、額に唇を寄せる。
「 僕も、会いに来てくれて嬉しいよ。こんなにいじらしい君が見られて」
葦野は小さく笑って、もう一度、穂高の胸に顔をうずめた。
その胸の奥で聞こえる血のめぐる音が、遠い雨音のようにやわらかく響く。
窓の外では、洗いたての夜空が透き通り、無数の星が風に揺れる木々の隙間からこぼれていた。
―—
「本当に駅までで良いの?」
「大丈夫、体調も良いし、久しぶりに長良川鉄道に乗りたいから」
翌日は、生憎の雨だった。
けれど、美濃白鳥駅の木造駅舎とその軒下を彩る満開の紫陽花は、雨に濡れてひときわ鮮やかに揺れている。
穂高はフロントガラスを叩く重い水滴に一瞬眉をひそめ、駅前のロータリーに車を止めた。ワイパーを止めると助手席の葦野に声をかける。
「本当に大丈夫?」
葦野は傘を広げると車を降りた。わずかに弱まった雨脚に二人はほっと息をつく。
「うん、大丈夫。また連絡するから。泉、本当にありがとう、色々……本当に」
穂高は眉を下げて頷いた。少し伸びた前髪が、湿気を含んで頬にかかる。左手を伸ばし、葦野の指先を掴んだ。瘢痕を纏う左手に葦野の手の熱が流れ込む。穂高は一瞬だけ言い澱んだが、その手の熱に勇気づけられ、意を決して口を開いた。
「岳、いつでもこっちに来ていいから。……ずっといてもいい。時々来るのでもいいから」
そして、頬を淡く色づかせ、けれど真剣な表情で付け加えた。
「いつでも、君が住めるようにしてあるから」
静かで、けれど確かに意志の宿る瞳が、まっすぐ葦野を見つめていた。
葦野はその視線を受け止め、目を細めた。花綻ぶような微笑みだった。
「うん、泉……ありがとう。」
「東京にも行く」
「待ってるね」
「ありがとう。岳、身体に気を付けて」
「泉もね」
穂高は名残惜しさに肩を落とし、ハンドルを握った。何度もバックミラーを振り返りながら、ゆっくりと車を発進させる。
マットグリーンのジムニーが、雨にけぶる街並みに溶けていった。
エンジン音が遠ざかると、葦野は小さく息を吐いた。
清らかな水が流れる空気の中に、ほんのりとガソリンと土の匂いが残る。新緑を渡ってきた湿った風に誘われて、雲を被った山並みを見上げた。その琥珀色が郷愁に揺れる。
美濃白鳥。白山をいただく奥美濃の町。ここは、葦野の生まれ故郷だった。高校進学で町を出てからは、数えるほどしか帰ってこなかった場所。
様々な緑を纏う、生き物の背のような峰々に霞がかかり、雑踏の音に混ざって、鳥や、風や、木の葉、生き物の息遣いが聞こえる。
穂高がこの地に赴任してきたのは、まったくの偶然だった。しかし葦野は今、それすらも何かの導きのように感じていた。
生きるために帰ってきた。その言葉の意味が、今ようやく彼の胸の奥で形になりつつあった。
穂高が、大地を整えるなら。
自分は、その土に種を預かり、育て、花を咲かせ、次へと繋いでいく人間でありたい。風の向く先がどこであっても。
自分なら、どこでだって咲かせられる。何よりも美しい花を。
葦野は傘を閉じ、雨粒が消えていく空を仰いだ。白山の方角から、やわらかな山風が吹き抜けてくる。濡れた紫陽花が、その風に揺れて微かに光った。
「……帰ろう」
小さくつぶやく声が静かに溶ける。
その頬を撫でた風は、まるで新しい季節の始まりを告げるように、そっと彼の背を押していた。
後記
白鳥町を訪れた時、まず初めに感じたのは、「水の音」でした。国道が長良川に沿うように走り、市街地にも縫うように大小の小川や水路が流れています。そして道沿いには「鮎」の看板。まさに水の町でした。
続編の舞台を奥美濃に決めた理由はもう記憶の彼方なのですが、たぶん、「あまり行ったことが無い所にしよう」と、なんとなく地図を見て決めた気がします。
私は雪深い場所で生まれ、どちらかというと北方に縁があるので、西へ、南へ地図をなぞって行き着いた先が白山でした。
決めたは良いものの、地理院地図を見ても、Googleマップを見ても、観光協会のHPを見てもやっぱりその場所の空気感は分からないんですよね。
すでに半分くらい続編を書いてから、ようやくこの春にロケハン(というかもはや聖地巡礼)に行きました。
地図を眺めるのが好きなことが高じて特に致命的な間違えはなく、答え合わせのような旅がとても面白かったのですが、ホテルで寝ている時も民宿でご飯を食べている時も、ずっと水の音が聞こえているのがとても印象的でした。百聞は一見に如かずとはこのことですね。
続編ではさらに解像度を上げて、ここに暮らしている鳥のように、二人の様子をお届けできればと思います。すでに10話くらい書いているのですが、直しつつ、新作を書きつつ載せていくので、ゆっくりとした更新になると思います。
ゆったりと二人に会いに来ていただけますと幸いです。