
愛が共生する生態系 ➑ 遊山
:遊山
Wandervogel
気がつけばまた、穂高は無意識にスマートフォンを手に取っていた。ほんのわずかな隙間時間に自然と手が伸びてしまうのだった。
目的は決まっている。葦野が営む小さな生花店のSNSアカウントに投稿されるお知らせを確認するため。けれど理由はそれだけではないことを、穂高自身もう薄々気づいていた。
このアカウントは、もともと常連客からの「臨時休業が多すぎる」という苦情に対応するためにやむを得ず始めたものだという。当の葦野はSNSは苦手と口では言いながらも、営業日のお知らせに加え、入荷したばかりの季節の花の情報、新作のミニブーケ、さらにはちょっとした花にまつわる豆知識まで、思いのほかマメに投稿を続けていた。
昼休みの習慣のようになりつつあるこの小さなルーティン。今日もまた、穂高は遅めの休憩に入り、御苑の中にあるカフェの片隅でスマートフォンをそっと開いていた。
数分前の投稿が目に飛び込んできた。深みのある赤黒い色をしたチョコレートコスモスの写真。背景には、柔らかく霞んだ秋の光が広がっている。そして、その写真に添えられていたのは、葦野らしい、どこか優しいリマインドメッセージだった。
【 今週の日曜日はお休みです。お気をつけください!】
ふっと、力の抜けるような笑みが、穂高の口元に浮かぶ。
日曜日。それは、葦野と出かける約束をしている日だ。あと二日。
チョコレートコスモスを淡く照らす日差しと同じ温もりを背の窓に感じ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
穂高は子どものように待ち遠しい気持ちが膨らんでいくのを止められなかった。
「山登りしてみたいな」
それは、いつもの蕎麦屋で、どちらともなく連れ立って暖簾をくぐった、そんな夜のことだった。ざらりとした木目のカウンターに並んで腰を下ろし、湯気の立ちのぼる湯呑みを手にしたとき、葦野はふいに、ぽつりとこぼした。
「……どうして急に?」
穂高が驚きとともに問い返すと、葦野は少し照れたように、けれど真剣な顔で、口を開いた。
「泉さんの、山の話をいろいろ聴いてたら……山のお花とか、景色とか。ぼくも、見てみたいなあって思ったんです」
「花かあ……」
穂高は小さく相槌を打ちながら考えた。山はこれから冬に向かう季節。花のシーズンはもう終わりに近い。これからは木の葉が色づく紅葉の季節だ。
そう答えると、葦野の顔がぱっと明るくなった。
「そっかあ、紅葉!いいですねえ」
待ちきれない、と弾む声。葦野は運ばれてきたうどんの上に乗った、艶やかな揚げを嬉しそうに頬張った。
「泉さん、最近はどこか登ってるんですか?」
向けられた問いに、穂高の手が止まった。湯呑みのふちを見つめ、少しだけ視線を泳がせる。
「……あー……最近は全然。色々、タイミングが合わなくて」
「そうなんですね……」
二年前の異動で、長野の山間から東京のビル群へと生活の場を移して以来、穂高は山から遠ざかっていた。そう答える穂高の左手が、無意識にアウターのストラップを強く握りしめる。
葦野は、どこか申し訳なさそうに目を伏せ、しばらく考え込むようにしてから、そっと言葉を置いた。
「……ねえ、よかったら、なんですけど。一緒に、山登りに行きませんか?」
「えっ」
言葉に詰まり、思わず素っ頓狂な声を上げた穂高に、葦野は慌てたように付け加えた。
「ご迷惑でなければ……」
迷惑だなんて、そんな風に思うはずもない。それどころか、胸の奥に、じわじわと喜びが広がっていく。それでも、うまく言葉にならず、穂高はかろうじて答えた。
「いや、迷惑だなんて……そんな。ぜひ、僕なんかでよければ」
緊張の中にも、どこか人懐こさを滲ませた葦野の笑顔に、穂高の頬も自然と緩んだ。
「やった、嬉しいです」
「あは……そんなに?」
子どものように素直に喜ぶその姿に、つられて穂高も笑いがこぼれる。
「……ちなみに、どこに登りたいんです?」
「……えっ?……どこに登れるんだろう?」
葦野のぽかんとした顔に思わず小さく吹き出した。
穂高は葦野へ柔らかな視線を向けた。ふんわりとした萌黄色のカーディガンが揺れた。軽やかなブラウス、コーデュロイのズボン。ゆったりとした秋の町の雰囲気ごと纏った彼の姿。そうだ、彼は、山に登ったことがないと言っていたのだった。山の知識も、装備も、なにもかも、これからだ。
「ふふ、岳って」
「名前負けは自覚してます」
穂高が呼びかけると、葦野はふくれっ面で言い返した。
「そこまでは言ってないって」
笑いながらそう返して、穂高はふと思う。
彼と一緒に山を選んで、装備を揃えて、準備をして。
その過程すら、きっと楽しいに違いない。
「今度、一緒に装備揃えに行きましょう。山も、調べましょう」
「! ありがとうございます!楽しみ~」
満面の笑みで頷く葦野を見つめながら、穂高は心の奥で、そっと決意した。
彼に、できるだけ楽しい、最初の登山を贈ろうと。
ただの登山以上に、大切な一日になる予感がしていた。
――
急に冷え込んだ朝だった。駅のホームに立っていると、足元からじんわりと冷気が上がってくる。上着の裾を押し上げるほどの風ではないが、頬に当たる空気の冷たさが、季節の移ろいをしっかりと知らせてくる。
中央線の車内はまだまばらな乗客しか居なかった。窓の外の空はうすぼんやりと明るくなりかけている。まるで布越しに差し込む朝の光のように柔らかく頼りない。日が随分と低くなったことに気づく。段々と冬に近づいているのだなと、穂高は思った。
ドアにもたれるようにして立ちながら車内の広告を見つめる。彼が乗ってくるのは一つ隣の駅だ。スマートフォンには、葦野からのメッセージが届いている。車両番号だけの短いテキストのあとに、いつもの小さな野鳥のスタンプがぴょこんと跳ねていた。
電車が駅に近づく。速度が緩まり、レールと車輪が奏でる音のリズムも変わっていく。足元からブレーキの圧が伝わり、微かに体が揺れた。
「泉さん、おはよ~」
くぐもった車内アナウンスと同時に、明るい声が聞こえてきた。
「おはよう」
葦野が手を小さく振って、車両に乗り込んできた。駅の風に吹かれて少しだけ髪を乱したまま、柔らかく笑っている。今日は普段の自然な風合いのこざっぱりとした服装ではなく、先週ふたりで買ったアウトドアウェアに身を包んでいた。少し恥ずかしそうに眉を下げた表情が、どこか無垢な学生のようだった。
「似合ってますね」
思わずそう言うと、葦野ははにかんで首をすくめる。こっくりとしたオレンジ色のマウンテンパーカーに、アースカラーのハーフパンツ。黒っぽいタイツとカラフルな靴下が程よく崩しを加えて、まるでファッション誌から抜け出してきたかのようだ。こうして改めて見ると、葦野の顔立ちは本当に整っている。背が高く、すらりとした体型は、モデルや俳優だと言われて誰も疑わないだろう、などと場違いな感心を抱いていると、「ありがとうございます」と葦野がはにかんだ。
「泉さんもすっごくいいね」
「そうかな」
「似合ってる」
「ありがと……」
そのペールブルーのマウンテンパーカーは、葦野が選んだ物だった。普段は黒や紺色などの落ち着いた色を身につけることが多い穂高にとって、その淡い青は少し気恥ずかしくもあった。袖口の色が視界に入るたびに、どこか落ち着かない気持ちになるが、それもまた悪くなかった。
いそいそと車内を移動して、並んで座る。視線を移すと、近くにも登山スタイルのカップルがいるのが見えた。少し年配の男性グループも。みんな同じ目的地へ向かっているのかもしれない。
「急に冷えましたよね」
葦野がそう言って、首元を少しすくめる。
「うん。これで紅葉が一気に進みそうだ。寒くないですか?」
「大丈夫。インナーがすごくあったかいんです」
ふふん、と声を弾ませて、胸元を押さえながら葦野は得意げに笑った。
車窓の景色は住宅街を映しつづけている。その西側に遠くの山並みがうっすらと見えてくる。
ふと、穂高は自分に向けられる葦野の真っ直ぐな視線に気がついた。
「? どうしたの?」
「ううん。そのパーカー、本当にいいなあって」
「……君が選んでくれたんでしょ」
「なんか、いつも黒っぽい服着てるから薄い色が新鮮っていうか、ねえ、買う時に水色って教えてくれたけど、風景で言うとどんな色?」
「そうだなあ……」
穂高は左手を持ち上げて、袖の色をしげしげと見つめる。思い出の風景を視界に映すように記憶を思い返す。
「んー……あ、流氷……?」
「りゅうひょう?」
「大学、北海道のキャンパスに通ったことがあって、その時に見たんです。うん、流氷の色に似てるかも。光が当たると、影の部分が淡く青くなって、すごい綺麗だったな。海なんだけど、どこまでも広がる雪原みたいなかんじで、あれは別世界だった」
「へえ……いいな……」
「マイナス二十度くらいだったかな。寒かったなぁ」
どこまでも続く白い氷の大地。その上に立つ、今より幼い穂高。分厚く着込んで、首元をすぼめながら鼻の頭を赤くして、それでも楽しそうに瞳を輝かせている姿。そんな妄想を始めた葦野を穂高がじっとりとにらみつけた。
「うふふ…」
「岳くん、何想像してるんですか……」
「ん? 若かりし頃の泉さん」
「……そっちはいいよ……!」
呆れたように言いながらも、穂高はまんざらでもない顔で頷き、左手の裾を引っ張った。
その手には、引き攣ったような傷痕があった。小指から手首にかけて、何かで強く引っかいたような古傷。二人が出会ったときからそれはあったが、まじまじと見たのは初めてかもしれない。意外と深そうな痕跡に、葦野の目が思わず止まる。
「寒い? 大丈夫ですか?」
「ううん。大丈夫。グローブも持ってるし」
穂高はザックを抱き直し、そこから薄手のグローブを取り出した。
「ぼく、札幌は仕事で何度か行ったことあるけど、他は行ったことないです。行ってみたいなぁ」
「機会があったら一緒に行きましょう」
「え~! 行きましょう行きましょう!」
会話が弾む中、窓の外には連なる多摩の山並みが近づいてきた。
「あ、富士山が見える」
「え! どこどこ?」
葦野が目をこらして遠くの空を探す。穂高は小さく笑い合いながら、その先にある山の空気を感じていた。
――
「一に水分補給、二に栄養補給。すぐに食べられる行動食持ってきたから、歩きながらでもいいから口にいれて」
穂高が差し出したジップバッグの中には、小ぶりに刻まれたドライフルーツと素焼きのナッツが彩りよく詰められていた。どこか体に良さそうな甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「わ!おいしそう」
葦野が嬉しそうに声を上げると、穂高は人差し指と中指を順にピッと立てた。
「次。植物を採ったり、生き物に触らないこと。とって良いのは写真だけだ。ごみは持ち帰ること」
「はいっ」
葦野はこくこくと首を縦に振る。少年のような真っ直ぐで気持ちの良い反応に、穂高は思わず笑みを深くした。
「最後に。無理をしない。異変を感じたらすぐに言う、……異変っていうのは、疲れたとか、どこか痛いとか、何か体が変だってこと。それは結果的に仲間を守ることにつながるから」
「無理しない……」
その言葉を、葦野は自分の中に落とし込むように呟いた。小さく、でも確かにその声が空気に溶けていく。
「そう。ピーク……山頂を目指すのだけが登山じゃない。山道を歩いて、普段と違う風景を味わったり、野の花を愛でたり、そういう楽しみ方だってあるんです。特に岳くんは登山初めてだから、ゆっくりめに登りましょう」
「はい、穂高先生」
にっこりと見上げてくる葦野の笑顔に、穂高は一瞬息を飲んだ。秋の日差しを浴びたその表情が、眩しくて、つい目を反らしてしまう。
「もう」
高尾山。東京都八王子市にある、都心からのアクセスも良い人気の登山スポットだ。紅葉のピークにはまだ早いものの、日曜の朝とあって登山客の姿もちらほらと見える。今日は事前に相談して、人気のメインルートではなく、緑の深い脇道から登ることにしていた。
「はい、屈伸~」
穂高が軽やかに声をかけると、葦野が笑いながら太ももを押さえた
「わ~こんなの中学生ぶりかも」
「そういえば部活でスポーツとかしてたんですか?」
「ううん。華道部でした。スポーツは……小学校で陸上やってたけど……今は見る専門です」
「へえ……!」
意外なような、そのままのような。制服姿で花と向き合う葦野を想像し、穂高の笑みが自然と深まった。
「…泉さんは?」「ん?……軽音」「えっ!?バンド……? めっちゃ意外。な、なんの楽器弾いてたんですか?」「普通にギター。あとボーカル」「え~~!」
素直な驚きの声に、穂高は少しだけ頬を赤らめる。
「そんなに意外?」
「うんうん」
葦野はこくこくと頷いた。目が嬉しそうに細められていて、穂高は思わず吹き出しそうになる。
「……じゃ、行こうか」
「え、ちょっと、もっとその話聞きたいんですけどっ」
「登りながらね」
「まって、全然、話が、出来、ないん、だ、けど……!」と、葦野は心の中で絶叫した。開始からまだ十分も経っていないはずだが、すでに息が上がっている。目の前を軽快に登っていく穂高の背中が、どんどん遠くなっていく。筋肉が熱を帯び、心臓がばくばくと跳ね回っていた。買ったばかりの登山靴は想像以上に重く、足が地面に吸い付く心地がする。穂高が足を緩め、振り返った。
「ペース、どうですか?早い?」
「……はあ、はやい……はあ……ちょっとまってくださいい……」
「よし、じゃあ、ここでちょっと休憩しましょうか」
穂高は慣れた足取りで道の脇にある小さな稲荷神社の境内へと入った。小さな鳥居と、苔むした石の狐像。木々に囲まれた静かな空間が、どこか神聖な空気をまとっていた。
「あ~~しんどいっ」
葦野は水筒を開け、ごくごくと喉を潤す。
「登る時は歩幅は小さく。目線は足元じゃなくて上を。呼吸はゆっくり」
「ん……はい……」
乱れた呼吸の中に、少しだけ安堵が混じる。前を歩いていても、気にかけてくれている。そんな優しさが、胸の奥でポツ、と灯る。
「大丈夫…?」
「………ギターききたい……」
「! ……ふはっ、わかりました。今度弾くから」
「……っふ……やった……約束ですよ……!」
「息整えたら行きましょう」
穂高はふうと深呼吸して爽やかな山の空気を味わっている。
もう行くの?意外とスパルタ…?葦野は眉を下げて穂高を見つめた。風が木々の間をすり抜けて、紅葉したモミジが一枚、足元に舞い落ちた。葦野は賽銭箱の前に立ち、小銭を取り出す。
「もうすこしペースがゆっくりになりますように。あと無事に下山できますように」
穂高が隣に立ち、小さく手を合わせる。小さな石のキツネが柔らかく微笑んでいる。
「ごめんって、ゆっくり歩くから」
「楽しい登山になりますように」
モズの高鳴きが秋晴れの空に響き渡る。登山道は木立の中に延びる長い階段だった。整備された階段や石段が続き、土の匂いが靴の底から染み込んでくる。空気はひんやりとしているが、雲ひとつない空から降り注ぐ陽射しが、登るほどにじんわりと体を温めてくる。穂高は、少し後ろを歩く葦野の気配にさりげなく耳を傾けながら、ペースを微調整していた。
「あ、ほら、オトギリソウがまだ咲いてる」
「へ……」
穂高がぱっと声を上げた。足を止め、道の脇を指差す。葦野が視線を落とすと、そこに小さく、凛と咲いた黄色い花が、秋の陽を浴びて揺れていた。
「あのね、葉に赤い点々がついてるでしょう? これが特徴なんです。ほら、見て」
しゃがみ込んで花に触れながら話す穂高の声がどこか弾んでいる。葦野はその姿を見ながら、ふっと肩の力が抜けるような心地になった。自分を気遣ってくれているのが、しっかりと伝わっている。そう思うと、彼の胸の内がほんのりと温かくなった。
道の両側には、色づきはじめた低木がちらほらと並んでいる。ふいに葦野がまた声を上げた。
「あ、これ、ニシキギ……? 店にも置いてたことあります」
指さす先には、小さな赤い実をつけた枝。葦野の頭上に釣られたようにぶら下がっている。
「そう。ニシキギの仲間の、マユミですね。可愛い」
穂高はうなずきながら答えた。枝の先で揺れる実が陽の光を受け、透明感を帯びて葦野の髪を彩っているようだ。秋の山は派手ではないけれど、目を凝らせばいくらでも季節の宝石が見つかる。
「もう十月も半ばだけど、けっこうお花ありますね」
「この前まで気温高かったからなあ……」
何気ない会話も、緑の中ではよく響いた。風の通り道に入ったのか、葉がわずかに揺れて、木漏れ日がきらきらと葦野の髪を照らす。彼は振り返り、頬をほんのり赤く染めて笑った。
「山登り、たのしいな」
その笑顔に、穂高も自然と微笑み返していた。息は上がっていたが、それすらも心地よく思えるほどだった。
小一時間ほど登ると、道はやがて傾斜をゆるめ、空がちらちらと覗きはじめる。木々の隙間が広がり、目の前にぽっかりと青空が開けた。展望台だ。
「わあ……!」
葦野が小さく息を呑み、駆け出すように木道を進んでいった。木の手すりに両手をかけ、眼下に広がる町を見下ろしている。光の海のように、建物の屋根や川の流れがきらきらと輝いていた。日当たりの良い林縁の木立ではエナガの群れがにぎやかに採餌している。
「泉さん、スカイツリーが見える!」
穂高も、数歩遅れて足を踏み出した。その時だった。
(……あれ?)
胸の奥が、ぎゅっと縮こまるような感覚。足元の地面が、ふと頼りなくなった。葦野の指差す先、広がる空の青さが、穂高には逃げ場のない空白のように見えた。
慌てて手すりをつかむ。息が浅くなる。その背中に冷や汗が伝う。
「……泉さん? どうしたの?」
振り返った葦野が、すぐに異変に気づいた。
「……いや、大丈夫、」
穂高は笑おうとしたが、声は微かに震えていた。
「……ちょっと、休憩しましょう」
葦野は何も言わず、そっと穂高の手を引いた。展望台の隅、風を避けられる場所にある木のベンチに、二人は腰を下ろす。
吹き抜ける風が、さらりと髪を揺らす。
穂高の呼吸はどんどん浅くなっていく。心臓の鼓動が、耳の奥で高鳴っていた。理屈ではわかっている。ここは安全だ。高所でもないし、足元もしっかりしている。しかしそう言い聞かせても、身体は勝手に恐怖を覚えていた。
ベンチの上で、穂高は両手を握りしめた。汗ばむ掌に、指先が冷たく沈んでいく。
「泉さん、顔色悪くなってる……どこか痛い?苦しい?」
「大丈夫……すぐ……」
葦野の声が穂高を安心させるように降ってくる。しかし穂高は力なく首を横に振った。その目の奥がじわりと滲んでくる。
(怖い。……こんなはずじゃなかったのに)
先程まで木々に守られていた世界が、ふいに空に晒される。その開放感は、穂高にとっては、まるで地面が消えてしまったような、そんな孤独を連れてきた。
ベンチに座ったまま、穂高は顔を伏せる。深く息を吸おうとしても、胸が締めつけられてうまく吸えない。喉の奥が痛くなる。
隣で、葦野が小さく唇を噛んだ。
異変を感じたら、すぐ言う。山に登る前に、穂高が真剣な表情で伝えてくれた言葉。大事な約束だ。
葦野はそっと手を伸ばし、穂高の手に重ねた。決して無理に包もうとせず、ただそこにいるという優しさだけを添えるように。
「……今日は、もう、下りよう?」
穂高が顔を上げる。その目はわずかに潤んで、血の気が引いた唇で言葉を探していた。
「大丈夫じゃないよ、たぶん、僕に合わせてペースがいつもと違ったから、体がびっくりしちゃったんだと思う」
葦野の言葉は、優しさと同時に、友としての毅然とした強さがあった。
「無理しないで。異変は、すぐ言うんだったよね? それが、仲間を守ることだって」
穂高は、一瞬、何も言えなかった。けれど、次第に口元がゆるんで、小さく、ふっと息をついた。
「……うん……。そうしよう……ありがとう」
二人はベンチからゆっくり立ち上がった。
展望台に広がる大空に背を向けて、再び、森の中へと歩みを進める。木々のざわめきが、そっと彼らを迎えて包み込む。
風の音も、鳥の声も、森の中ではすべて柔らかい。まるで、優しく抱きとめられているようだった。 しばらく歩いていると、先を歩く葦野がふっと振り返った。
「……また登りましょう。今度は、ぼくもバテないようにするから」
いつもより少しだけ慎重な、でも笑みを含んだその声に、穂高も目を細めた。
「……うん、」
穂高が小さく笑ったその瞬間、不意に左の手首にじわりと鈍い痛みが走った。驚くほど淡く、けれど確かに。長袖の下の古傷が、ひととき疼いた。
葦野の声はいつもあたたかい。その優しさに触れるたび、少しずつ凍った胸の奥が、ひどく痛む。
話さなければいけないことがある。
あの山でのことを葦野が知れば、君は悪くないと、彼はきっと言うだろう。 それが何よりも怖かった。 あの事故も、この腕も、いまだに許せない自分さえも、その無垢な優しさでまるごと抱きしめられてしまいそうで。
甘えたら、きっと戻れない。
穂高は、右手でそっと左の袖口を押さえた。落ち葉が風に舞い、また静かに地面へ戻っていく。
山はまだ、何も語らなかった。けれどその沈黙の向こう、胸の奥では小さな波紋が広がっていた。
穂高は、そっと息を吐いた。
心の奥の扉に、手をかける準備だけが、ほんのわずかに始まっていた。
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閑話:山支度
the Mountain's Call
「これはトレッキング用で、こっちは山岳向け……。足首が高い靴の方が足元固定できるでしょう?」
登山靴のコーナーで、穂高は手にした靴を並べながら説明を続けた。隣では、葦野が少し困ったような笑顔で「うん」「へえ」と曖昧な相槌を打っている。聞いているのかいないのか分からない、曖昧な表情。そんな彼に目をやって、穂高は小さくため息をついた。
「もう、ちゃんと選ばないと足、痛めますよ」
そう言って、穂高は一足のトレッキングシューズを手に取り、試し履き用のベンチを指さした。幸い、祝日だが午前ということもあり、店内はまだそれほど混んでいない。広々とした空間に、テントやカヌー、色とりどりのギアがずらりと並ぶ。葦野はというと、興味がないというより、まるで別世界に迷い込んだように、目を泳がせていた。
「はい、足入れて。かかとトントンして」
しゃがみ込んだ穂高の声に促され、葦野がどっしりとした重みのある靴に足を通す。新しい革の匂いと、穂高が結び直す紐の摩擦音が、静かな店内に響いた。
「……先生みたい」
ぽつりと言われて、思わず笑ってしまいそうになる。
「そう? ほら、靴紐結ぶよ」
靴紐を結ぶ手元に視線を落としながら、穂高は少しだけ息を整える。葦野の声には、ときどき妙に距離の近い響きがあって、何でもない仕草のはずなのに胸の奥をくすぐられる。
「…慣れてるんですね」
「まあ。本業だし……」
葦野がぽつりと零す。穂高は視線を上げると、きゅっと結び目を固めた。
「足どう? つま先当たってない?」
「……うん、大丈夫。たぶん、いいかんじ」
ふと顔を上げた穂高と、葦野の視線がぴたりとぶつかった。絶妙に近い距離。どちらからともなく目をそらすと、穂高はいそいそと立ち上がり、膝についた埃を払う。葦野はわざとらしく靴の具合を確かめるように、ベンチの上で足を小刻みに動かした。ほんのりとした照れ笑いが二人の間にこぼれた。
来週の登山に向けて、葦野の装備を一から揃えることになっていた。
「ひとまず、靴と、ザックとウエアを買いましょう。他は追々で」
「はあい。たのしみ~」
吉祥寺駅から徒歩数分、穂高が選んだアウトドアショップは品ぞろえも豊富で、どこかビンテージな雰囲気が漂っている。穂高は事前に、葦野に似合いそうなブランドやアイテムをいくつかリストアップしていた。普段の自分なら、黒やネイビーのシンプルな色を選ぶところだが、葦野には、もう少し柔らかくて、温かみのあるものを着てほしかった。
「わ~なんか、ちょっとレトロでいいですね!雰囲気好きかも」
「そうですね」
そうだろう、そうだろう。そんなふうに思っていたから、葦野がそう言ってくれるのが嬉しかった。内心くすぐったくなる気持ちを抑えつつ、穂高は淡々と装備の説明をする。二人で店内を見て回りながら服を選んでいく。こっくりとしたビンテージ調のオレンジのマウンテンパーカー。ベージュのフリース。こげ茶のハーフパンツ。動きやすい黒のトレッキングパンツに、カラフルな柄の靴下。そして、茶色い革の登山靴。
「うん。良い気がする……着てみます?」
「う~ん!我ながら組み合わせ可愛いかも。試着してみますね!」
着替えた葦野が試着室から姿を現すと、穂高は口元が緩むのを止められなかった。
「……うん、やっぱり、似合いますね」
「ほんと? でも、…これも気になるなあ」
そう言って、葦野が手にしたのは、ペールブルーと緑の切り替えが鮮やかなマウンテンパーカーだった。
「ねえ、泉さんもこういうのどうですか?」
「えっ、僕が?」
思わず声が裏返る。普段の自分なら絶対に選ばない、少しだけ派手めの色味。戸惑いを隠しきれず、穂高は苦笑いを浮かべた。
「いや……こういうのは、君の方が似合いますよ」
「そんなことないって。意外といけるかもよ?」
次、泉さんの番。試着してみてください!と笑う葦野のじゃれ合うような声色に、自分に向けられた柔らかい好意を感じる。それが分かってしまうと、嬉しさと同時に、どうしていいのか分からなくなる。
押し込まれた試着室のカーテンを閉めてため息をつく。その足元の隙間から、葦野の影が楽しげに揺れた。
胸の奥が、静かにざわめいて、けれども今はまだ、賑やかな山支度の中で気づかないふりをしていたいと思った。
生き物メモ
マユミ
( Euonymus hamiltonianus 真弓 )

淡紅色の果実は熟すと4つに裂けて、中から赤い種子が現れる。
秋に果実と種子、紅葉を楽しむ庭木としても親しまれている。
花言葉は「真心」「心に潜んだ」「あなたの魅力を心に刻む」など。