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An Outrage in Search of an Alibi

    くもり

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    アン アウトレイジ イン サーチ オバン アリバイ

    秋元康がホリエモンに楽曲を作るとか、作ったとか、そんなネットの記事をちら見しました。爺さんが作った歌詞をおじさんが歌って、やっぱりそれを聴くのも爺さんとおじさんなのでしょうか。AKB的な熱狂しか知らないわたしにとっては、なかなかカオスな状況になりそうです。
     
    わたしとしては、わりとホットトピックスなのですが、SNSの注目は別のところにあるようです。
     
    ということで、世間では問題視されていない問題が、またネットで物議を醸しているらしいので、いつものように高みの見物をします。
     
    「みいちゃんと山田さん(以降、みい山)」という作品が、来年アニメ化されるというお話です。
     
    物語を端的にまとめてしまうと、知的障害や発達障害を想起させる女性が、まともな支援にありつけず、搾取されながら人生を終える物語といったところでしょうか。
     
    ジャンルで言えば、サスペンスともヒューマンドラマとも、あるいは社会派ドラマとも言える、わりと込み入った立ち位置の作品というのが、わたしの印象です。
     
    現在、SNSで騒いでいるのは、当該作品が単に知的障害者を扱った作品だから、というわけでもなさそうです。宣伝方法、作品の視点、当事者表象など、複数の批判が挙げられているところから、根深い問題があるのでしょう。
     
    ……と、もっともらしいことを並べてみましたが、わたしの感覚からすると、まったくそんなこともなく、いたってシンプルで単純な問題——「知的障害者を扱った作品だから炎上した」と確信しています。正確に言うなら、すべての批判はそこに帰結すると言うべきかもしれません。相変わらずの自分本意な潔癖観に虫唾が走ります。
     
    それがアニメ化する——つまり、より大きな影響を与えうる作品へと格上げされるのだから、批判の的になるのは、当然と言えば当然なのかもしれません。
     
    当初から作品自体に賛否はあったようですが、ここまでなら一般的に秀作や駄作と呼ばれる作品には、必ずついてまわる批判や感想といったところでしょう。騒ぎが苛烈になるほど、その作品の影響力を示すものだとわたしは解釈しているので、ある意味では、作家の才能が広く知られているということなんだと思っています。
     
    ただ、今回のちょっとした騒動の原因には、そうした作品のテーマや人物の扱いよりも、講談社側の宣伝が起爆剤になったような気がします。
     
    さくっと見た感じだと、広報的な動画内で、わりと不適切と捉えられる発言があった模様です。残念ながらわたしは動画を観ていないので、動画自体を検証するのは不可能だけど、ネットで調べたのでそれをもとにお話をします。経済的に苦しい出版社が、売り込みのために多少、道徳や倫理に反した発言をしたとしても、なにも不思議ではないと思うのですが……。
     
    と、そう意気込んではみたものの、そもそも、道徳や倫理すら持ち出す必要のない話っぽいので拍子抜けしました。

    ˗ˏˋ ★ ˎˊ˗

    まず、問題にあがっている講談社のアニメ化発表の動画です。公開日は2026年7月26日だそうですが、2016年7月26日に発生した「津久井やまゆり園事件」と同日だったそうです。
     
    この一致のなにが問題かは理解できませんが、事件を示唆する意図があったとでも言いたいのでしょうか。
     
    だとするなら、わりとどの日でも世界中でなにかしらの事件は発生しているし、知的障害者が殺害されるという凄惨な事件があった日と、たまたま一致した可能性を排除しうる証拠もないので、単なる妄想に過ぎないわけです。
     
    逆に、そう結びつけたがる人ほど、差別意識やシャーデンフロイデの傾向が強いのでしょう、と、なんの証拠も証明もなく言っておきます。本当に恥ずかしい方々です。
     
    実際、公開日を一日ずつずらしたところで、結局、似たような事件をこじつけるのは容易なのです。
     
    有名どころで言えば、津久井やまゆり園事件の翌日にあたる2018年7月27日には、ハチャトゥリアン姉妹事件。さらに、日付を一日ずらした7月28日には、2021年のゾーイ・チェイファー事件。その翌日の7月29日には、2002年のデイル・バルトロメ事件など、障害者や性的搾取に関わる事件は発生しています。こじつけようと思えば、いくらでも可能なわけです。
     
    こんなことを言うと、予想できる反発は、「津久井やまゆり園事件」から10年目で追悼が行われていたとか、日本で広く知られている事件だった、という実に短絡的な論法でしょう。
     
    けど、それで言うなら、「津久井やまゆり園事件」が指摘される以前から、どれだけの方が事件の年月日を正確に把握していたのでしょうか。凄惨な事件が10年前にあったことを、どれだけの方が記憶に留めていたのでしょうか。甚だ疑問です。
     
    そんなことをすべて記憶していたら、受験勉強なんてできなくなってしまいますよ。それとも、すべての事件をリマインダーにでもセットしているのでしょうか。わたしはしていませんが。
     
    それに、短絡論法を反転すれば、日本以外であれば問題ないと言っていることになるので、そんな国や立場、状況によって定義があやふやになる道徳心を他者に押し付ける方は、他人の道徳を批判できるほどの人間性を持ち合わせているとは、到底思えません。
     
    創作物で扱われる事件をすべて調べ上げていたら、どのタイミングでもリリースなんてできなくなることでしょう。
     
    なので、たとえ講談社が津久井やまゆり園事件とみい山を結びつけることに、何らかの妥当性があったとしても、事実認定は不可能ですし、配慮するべきだというのも過剰です。なぜなら、津久井やまゆり園事件の犯行目的と、みい山が扱っているテーマが客観的に異なるからです。
     
    さらに、作中に知的障害と明示されていない以上、共通点もなにもないはずなので、示唆しようにもありません。
     
    二万歩くらい譲って、みいちゃんが知的障害者だとして、知的障害者が殺害されるという一点に限ったとしても、なお講談社が示唆する理由としては、論理的に成立し得ないわけです。
     
    講談社サイドが公式に認めるか、内部告発的な証言でもない限り、SNSお得意の単なるこじつけ炎上。もっと正確に言うなら、典型的な確証バイアスによる非難と言えるでしょう。
     
    わたしはむしろ、いたずらにこじつける行為そのものが、遺族やその関係者を弄んでいるように感じてしまいます。心の底から軽蔑していますよ。

    ˗ˏˋ ★ ˎˊ˗

    次に、それ以降の動画の発言を順に追って検証しようと考えたけど、なんだかまじめに考えるのもばかばかしくなるくらい、質の悪い批判と擁護ばかりだったので、ざっくりまとめてお話しします。
     
    講談社サイドの動画などにおける発言で、批判対象になっているものは、概ね以下のとおりだと思います。
     
    1.人の不幸話は楽しい。
     
    2.みいちゃんが堕ちていくところを見たい(転落する才能があるからね)。
     
    3.かわいい絵柄なので、罪悪感なく人の不幸を見られる。
     
    4.幸せになってほしいとは特に思わない。
     
    他にも多々あるのでしょうけど、だいたいこんな感じです。ただ、わたしが見た限りでは、どれもごく一般的な編集者視点の会話や思考という感じでした。
     
    人の不幸を喜ぶ感情(シャーデンフロイデ)は、文字どおり、だれもが持ちうる感情のひとつとして心理学では扱われています。これを否定すること自体が嘘くさく、無理に正そうとするほど窮屈になりやすいです。
     
    いま、わたしの文章をここまで読めているあなたは大丈夫だと思いますけど、万が一、よくわからないというなら、もう少し想像力を働かせて考えてみましょう。
     
    そもそも、「人の不幸は蜜の味」というのは、不幸を指さしてげらげら笑う行為だけを指すわけではありません。むしろ、それはわりと異常な部類です。
     
    人は、多かれ少なかれ、嫉妬や自尊心、正義感を持ち合わせていることでしょう。その反転や回復行為などが、まさに「蜜の味」に変わるのです。
     
    わたしの知りうるラノベなんかは、ほぼすべてそれで、単純に正義側に与しているという条件があるだけで、異常なほどのカタルシスを体験させます。これが救いというものです。
     
    ただ、その種のカタルシスについて逆説的に考えると、対極にあるものが不幸になっているという証でもあるのです。すっきりすればするほど、あなたは不幸を蜜に変えていることになります。
     
    みい山の場合なのですが、物語の性質上、おそらく、作家・編集者サイドには、少なくともみっつの選択肢があったのではないでしょうか。
     
    ひとつめは、わかりやすい救いを描いて、安っぽいドラマに格下げする。
     
    ふたつめは、あくまで現実路線で世界を描き、社会の冷たさを表現する。
     
    最後は、前のふたつのいいところ取りをして、一定の救いはあるけど、結局、みいちゃん自身は救われない。もしくは、みいちゃんごと救っても、根本的な解決にはなっていない、というものです。
     
    おそらく、作家・編集者サイドは、この物語に救いはいらないと考え、発言への批判の多くは、救いが必要だと考えたのでしょう。単なる創作論の不一致な気がします。
     
    救いを選択しないのは、暗に嘘っぽくしたくないというクリエイターのプライドなのかもしれないし、実務的な編集眼なのかもしれません。編集者として作品を評価し、その世界観から話をすれば、まあ、ありうる発言だと思います。
     
    そこに販売戦略的な視点を混ぜて語っていたことで、あたかも編集者自身が、普段からそう願っているかのように聞こえたのかもしれません。
     
    正直、編集者としての実務的な姿勢という意味では、わりと健全な力学と視点を持っているように、わたしは感じました。
     
    ただ、落ち度がないわけでもないと思います。それを一般視聴者へ前置きなしに語ってしまえば、当然、今回のようなリスクを背負うことになるでしょうし、そもそも、思っていても口に出していいとは限りません。
     
    なぜなら、知的理解の及ばない層や、認知的に理解の及ばない層は一定数います。さらに現実に被害者やその関係者も実在しているからです。まして、講談社と製作委員会という所属が明確な立場なら、見え方には慎重に留意すべきだったのだろうとは思います。
     
    その落ち度が軽いかどうかは講談社サイドの問題なので知りませんが、落ち度としてはそのくらいでしょう。
     
    正直な感想としては、こういうところで配慮と戦略性に欠けているというのは、いかに出版社が浮世離れしているか、という指標だと思っています。
     
    講談社は知りませんが、小学館などとお仕事したときに、むちゃむちゃ偉そうだったので、なんとなく、この隙が生まれる理由がわかる気がします。

    ˗ˏˋ ★ ˎˊ˗

    残すところ、アニメ・漫画そのものを否定したい意見は、概ね三点に絞られると考えられます。
     
    ひとつめは、「読み書きが困難」「性的な無防備さ」「衝動性」、それにまつわるトラブルという展開が、知的・発達障害のステレオタイプとして消費されかねないという点。
     
    ふたつめは、現実の女性や子どもを「あの人はみいちゃん」と呼ぶ、蔑称・ラベリングのような使われ方が確認されているという点。
     
    みっつめは、売春、性被害、暴力、薬物、殺害という性質のものを、ポップな絵柄で「見世物」にしているのではないかという点。
     
    この三点です。
     
    この手の批判は、批判する側がすでにステレオタイプなので、出版社も「おまえに言われたくないよ」ということなのでしょう。
     
    常にこうした批判に疑問なのですが、なんで作品が人を生むという考え方しかできないのだろうと、わたしは思うわけです。
     
    悪い方を見て、「ああなりたくない」と思う方もいれば、「ああなりたい」と思う方もいます。これは受け手の倫理的境界線の話だと、わたしは考えています。
     
    映画やゲームに影響を受けて犯罪行為をする方は、その映画やゲームに出会っていなくても、また別のものから影響を受けたかもしれません。
     
    もちろん、何時間も強制的に見せ続けられたというなら話は変わってくるけど、日常の範囲内での消費過程において、影響の受け方はまちまちなのです。
     
    だからといって、「みいちゃん」という蔑称が、今の論法に完全に当てはまるかといえば、おそらく半分程度でしょう。
     
    残りの半分については、みい山がミーム化しやすい固有名詞を市場に投下した責任が、作品側にもあることは疑いようがないということです。つまり、作品側の責任範囲の問題が残ります。
     
    なら、アニメ化は中止だね。漫画は廃版だね。
     
    という話には直結しません。要するに、作品側の責任は、作家や出版社が負えばいいんです。
     
    たとえば、作中で現実と同じ状況を作って、いまみい山を批判する正義の使者が、同じように作中でも非難する、というのもありだと思うし、蔑称を使う人物が、いかに恥ずかしい人間であるかを表現する、というのもいいでしょう。
     
    また、出版社が警鐘を強く鳴らすのもひとつです。これは、作品が誘導していることを認めるのではなく、一部のモラハラ人口に対する警告と挑戦です。
     
    作中で救いがなかったとしても、現実で救ってはいけないという理屈はないのだから。
     
    わたしはマーケ戦略の専門家ではないので、もっといい案があるのかもしれませんが、こうした作品を扱うときは、時代を考慮しながら進めていかないといけないのでしょう。

    ˗ˏˋ ★ ˎˊ˗

    そして、みっつめは、もう語る必要がないほどくだらないお話です。
     
    ガールズ&パンツァーや艦これ、ガンダム、わたしの大好きなリゼロ、もう、エロアニメやエロゲーム全般を批判してきなさい。きっと、ポストする指が腱鞘炎になることでしょう。
     
    障害者を描いたイラストはポップだとだめだけど、戦争や動物の交配、人の命を扱ったマイノリティが主体の創作物は、ポップなイラストは許容される。わたしはこれが理解できないのです。
     
    もちろん、艦娘などのモデルは物言わぬ死者だし、みいちゃんのモデルは物言う生者だ、という反論はあるとは思います。けど、「物言う生者かどうか」で線引きするなら、当事者本人が抗議していない実在被害者・実在事件をモチーフにした作品も同様に許容されている以上、「生者か死者か」は実際に運用されている基準じゃなくなります。ならさ、結局、後付けの正当化にすぎないんじゃないの。

    ……いや、もっとクリティカルにPOPなイラストで描いた作品という意味なら、「初恋、ざらり」「だいすき!! ゆずの子育て日記」このあたりは明確にみい山と対比に値する作品だと思います。
     
    結局、見世物にしているというのは、受け手側の心理を利用した商業的戦略です。つまり、消費者が気付かないあいだに身につけている受け取り方を、逆手に取った戦略と言えるんです。
     
    見世物にしていると批判しているあなたの心理の、鏡写しとも言えるでしょう。
     
    仮に書き手が見世物にしようとするなら、障害者を嘲笑する意図が含まれていてもおかしくありません。だって、そう見てほしいんだから。
     
    かつて、明らかなジェンダー差別や職業差別のように、蔑視的に機能していた作品はたくさん存在します。では、みい山は果たしてどうでしょうか。
     
    わたしには、蔑視的に扱っているようには見えませんでした。
     
    この程度のことは考えるまでもないと思いますが、ひとたび言語化されると非難へ移る節操のなさは、「恥を知れ、恥を」と、安芸高田市のどなたかに言われてしまいますよ。
     
    結局、いろいろな理屈を並べてみたところで、知的障害者を扱うことへの不快感や拒絶感が先立って、批判せずにはいられないんでしょう。
     
    もし、これがジョーカーなら問題なかったのだろうし、出現して瞬殺されるゴブリンあたりの物語だったら、誰も文句を言わなかったと思います。
     
    そして、擁護派も、こんなものにまともに付き合って、必死に真っ向から反論するのは間が抜けていて、可愛らしさまであります。
     
    自分の尻尾を追うわんちゃんのように、わたしには見えています。もはや、表現の自由か否かを論じるレベルにさえ値していないのだから。

    ˗ˏˋ ★ ˎˊ˗

    わたしのスタンスとしては、マイノリティの現実を知らないので、みい山が社会問題と言えるほどのものを可視化した作品と言えるのか、そのうえで社会的構造に脚色を加えたフィクションなのかは、判別のしようもありません。
     
    また、作品としておもしろいのかと言われると、扱っているテーマへの拒否感が強いだけで、「砂の王国」や「ボヴァリー夫人」ほどの嫌悪や衝撃、不快感は覚えない作品でした。
     
    つまり、読むのが億劫になるような作品ではなかったという感想です。
     
    みい山がどういう経緯で漫画化されたのかは、興味がないので知りませんが、おそらく、編集の段階で出版社も、いろいろ問題が起きそうな予感はあったのではないかと思います。
     
    明示していないとはいえ、知的障害者であろうことは、作中表現から見て取れると思うからです。
     
    たったこれだけでも、創作物を単なる消費物として無自覚に読み解く、昨今の薄っぺらい読者には刺激的な作品と言えるのだから、もっと慎重に扱わなければならなかったのかもしれません。
     
    炎上に加担する、ネット利用者の1%にも満たない人々の声を世論だと勘違いして、気持ちが大きくなるのもわかりますが、もう少し思考力を鍛えて、脳を大きくしてみてはどうかなぁと、余計なお世話を言っておきます。あと、わたしは作家がどんな人間であれ、それが作品の評価を左右しないので、ダイアナだかなんだかの話はくそしょうもないと思っています。
     
    そして、わたしは爺さんの書くAKBの歌詞には、卒倒するという矛盾を抱えながら、今後の爺さんとおじさんの活動に注視してみたいと思います。こんなつまらない話題よりも、遥かにおもしろそうだからです。


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    論考とエッセイに分けています。 結論を急がない書き方をするので、途中で降りてもらって構いません。

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