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【短編小説】共鳴 第三部 冬の終わり

    第三部 冬の終わり


     

    目次


     第一章 小椋
     第二章 櫻
     第三章 小椋
     第四章 櫻
     第五章 小椋
     第六章 櫻
     最終章 櫻と小椋

     

    第一章 小椋


     二月も下旬になったのに、寒さがしつこく居座っている。
     さすがに三月になればましになるだろうか。
     仕事で少し遅くなった帰り道だった。
     いつもの交差点まで来ると、ギターの音が聞こえた。
     冬の空気の中で、細く長く伸びる音。
     小椋は足を止めた。
     足を止めて、音を確認した。
     聴き覚えのある音色。
     音には誰しもクセがあるものだ。
     今日はいるんだな。
     それから、来た道を少し戻って、コンビニでカフェラテを二つ買った。
     手のひらから、熱がじわりと肘のあたりにまで伝わってくる。
     少し早歩きで噴水の近くに戻ると、まだギターの音が聞こえた。
     その音に乗っている、低いけれど、まっすぐに届いてくる声。
     人の流れの中で、その声だけが静かに際立っていた。
     歌が終わるのを待ちながら、カフェラテを一口飲んだ。
     温かい。
     もう一つのカップからも、湯気が出ている。
     この曲が終わるまで、冷めないでくれと願う。
     最後の音が消えた。
     小椋は近づいた。
    「あの」
     声をかけると、彼女が顔を上げた。
     ライブハウスで見た顔だった。
     変な人だと思われないかなと思いながら、言いたいことがあった。
    「ライブ、観ました」
     それだけ言った。
     我ながら、気の利いた言葉ではないと思った。
     彼女は少し目を丸くしてから、
     笑った。
    「え、本当ですか」
    「チラシの言葉が気になって」
    「あの言葉、自分で書いたんです」
    「知ってます」
     言ってから、知っているわけがないと気づいた。
     彼女がまた笑った。
     今度は少し大きく。
    「これ、よかったら」
     カフェラテを一つ、差し出した。
     我ながら、唐突だと思った。
     でも、彼女は迷わず受け取った。
    「ありがとうございます」
     両手で包むように持って、湯気を少し吸い込んだ。
     温かい。
    「寒いですね」
     彼女が言った。
    「寒いですね」
     小椋も言った。
     それだけで、少し笑えた。
     お互いに。
    「ここ、よく来るんですか」
    「帰り道なんです。よく通る」
    「じゃあ、聴いてもらってたかもしれない」
    「一度だけ、少し離れたところからは聴いたことがあって」
     彼女が少し首を傾けた。
    「冬の最初の頃」
    「そう」
     彼女は小さく頷いた。
     それ以上は聞かなかった。
    「出身は岡崎なんです」
     唐突に、彼女が言った。
    「岡崎」
    「名古屋に来て、三年になります」
    「岡崎か」
     小椋は繰り返した。
     懐かしいなと、思った。
    「歌、いつからやってるんですか」
    「小学生の頃から好きで、高校でも、大学でも、ずっと歌っていました。それで今も。
     なんだか、ずっとやめられなくて」
    「やめられない理由でも」
    「理由というか」
     彼女は少し考えてから言った。
    「昔、人に言われた一言があって。それがずっと残ってるんです」
    「どんな言葉ですか」
    「好きなことがあるなら、続けた方がいいよって」
     小椋は少し黙った。
     どこかで聞いたことがある気がした。
     今の自分にも、言いたい言葉かもしれない。
    「いい言葉ですね」
     それだけ言った。
     櫻は軽く微笑み、しばらく、二人で噴水を見ていた。
     特に何も言わなくていい時間だった。
     カフェラテを一口飲む。
     もう少し冷めていた。
     それでも、まだ温かかった。
    「また、ここで歌うんですか」
    「歌います。ここ何か月かは毎週来てるので」
    「夜に、女の子一人だと危なくないですか」
    「ずっと人通りは多いので。大声出すの得意ですし」
     櫻は無邪気に微笑んだ。
    「そうですか」
     小椋は頷いた。
    「ライブ、また告知出たら教えてもらえますか」
     我ながら、唐突だと思った。
     でも、言葉が先に出ていた。
     彼女は少し間を置いてから、
    「インスタ、やってるんですけど…」
     少し声が小さくなった。
    「そこで告知してるので…、もしよかったら」
     小椋はすぐに頷いた。
     その場でフォローした。
     彼女は小さく頷いた。
     彼女がギターケースを肩にかけた。
    「それでは」
     そう言って、歩き出した。
    「じゃあ」
     小椋はしばらく、その背中を見ていた。
     噴水の音だけが残った。
     帰り道、栄の夜を歩いた。
     いつもの道だけど、少し違って見えた。
     岡崎。
     好きなことがあるなら、続けた方がいいよ。
     コートのポケットに手を入れる。
     チラシはもうなかった。
     かわりに、スマートフォンがあった。
     看板の光も、人の流れも変わらず多い。
     でも今日は、冬の音が少し遠くなった気がした。
     また来てみよう。
     そう思いながら、歩き続けた。

     

    第二章 櫻

     
     バイトが終わったのは夜の八時だった。
     エプロンを外して、バッグを肩にかける。
     お疲れ様でした、と声をかけて店を出た。
     外に出ると、空気が冷たかった。
     白い息が出る。
     冬だな、と思う。
     今日も、そう思う。
     スマートフォンを見ると、インスタに通知が入っていた。
     ライブに来てくれた子からのコメントだった。
     先日のライブ、よかったです。遠鳴りの歌詞、変わってましたよね? 届いたなら、の方がしっくりきました。
     うわ。
     気づいていた人がいた。
     あの夜、変わったことに。
     返信を打とうとして、やめた。
     なんと返せばいいか、分からなかった。
     スマートフォンをポケットに入れて、歩き出した。
     ギターを背負って、栄の方へ向かう。
     噴水の近くに来て、ギターケースを下ろした。
     バッグから卓上鏡を取り出す。
     鏡を開く。
     いつもと同じ顔が映る。
     今日は、少し長く見つめた。
     それから、閉じた。
     ギターを構えて、最初のコードを鳴らす。
     振動が指先から腕に伝わる。
     歌い出したとき、言葉が自然に出てきた。
     ——誰かひとりにでも、届いたなら。
     もう、迷わなかった。
     何曲か歌った。
     サビに差し掛かるたびに、あのコメントが頭をよぎった。
     気づいていた人がいた。
     それだけで、少し温かかった。
     
     歌い終わったとき、声をかけられた。
     振り向くと、男の人が立っていた。
     長身。
     スーツ姿。
     胸の奥がざわついた。
     この人だ。
     確信はなかった。
     でも、そう思った。
    「ライブ、観ました」
     その一言だけで、少し心拍が上がった。
     やっぱり、この人だ。
     目を丸くしないように、しようとして、できなかった。
    「本当ですか」
     本当だと知っているのに。
    「チラシの言葉が気になって」
     チラシ。
     あの一文を、この人が読んでいた。
     この人の手に渡っていた。
    「あの言葉、自分で書いたんです」
    「知ってます」
     え、と思った。
     知っているわけがない。
     でも、この人はそう言った。
     少し慌てた顔をしていた。
     思わず笑った。
     今度は止められなかった。
    「これ、よかったら」
     カップを差し出された。
     両手で受け取ると、温かくて少しホッとする。
     湯気を少し吸い込んだ。
     この人、最初から二つ持っていた。
     そう気づいた瞬間、胸の奥が静かに鳴った。
     でも、顔には出さなかった。
    「ありがとうございます」
    「寒いですね」
     言ってから、当たり前すぎることを言ってしまったと思った。
    「寒いですね」
     でも、この人も同じことを言った。
     それだけで、少し笑えた。
    「ここ、よく来るんですか」
    「帰り道なんです。よく通る」
     帰り道。
     ということは、ずっと通っていたかもしれない。
     聴いていたかもしれない。
    「じゃあ、聴いてもらってたかもしれない」
    「一度だけ、少し離れたところからは聴いたことがあって」
     信号の前。
     冬の最初の頃。
     あの夜のことが、頭をよぎった。
    「冬の最初の頃」
     確かめるように言った。
    「そう」
     この人は小さく頷いた。
     それ以上は聞いてこなかった。
     この人は、詮索しない人なんだと思った。
    「出身は岡崎なんです」
     唐突すぎると思う。
     でも、言葉が先に出ていた。
    「岡崎」
     この人が繰り返した。
     少し間があった。
     何かを探しているような顔に見えた。
     でも、すぐに戻った。
    「名古屋に来て、三年になります」
    「岡崎か」
     もう一度、繰り返した。
     やっぱり、何かが引っかかっているように見えた。
     でも、聞いてこなかった。
     この人は、本当に詮索しない人なんだ。
    「歌、いつからやってるんですか」
     いつからだろう。
     誰もが物心ついたときには歌っていると思う。
     だから、私はこれからもずっと歌う。
     でも、歌の世界と言われる場所で生きていくことは、また別の話。
    「なんだか、ずっとやめられなくて」
    「やめられない理由でも」
     理由。
     うまく言えるか分からなかった。
     でも、言ってみようと思った。
    「昔、人に言われた一言があって。それがずっと残ってるんです」
    「どんな言葉ですか」
    「好きなことがあるなら、続けた方がいいよって」
     この人の顔が、少し変わった。
     固まった、というより、
     遠くを見るような顔になった。
     一瞬だけ。
     気づいているのか、気づいていないのか。
     でも、聞いたら、何かが終わってしまう気がした。
    「いい言葉ですね」
     この人はそれだけ言った。
     静かな声だった。
     嘘のない声だった。
     しばらく、二人で噴水を見ていた。
     何も言わなくていい時間だった。
     不思議と、沈黙が苦しくなかった。
     一口飲む。
     カフェラテだ。
     思ったより、まだ温かかった。
    「また、ここで歌うんですか」
    「歌います。毎週来てるので」
    「夜に、女の子一人だと危なくないですか」
     大人だな。
     気遣いが、少しうれしい。
    「ずっと人通りは多いので。大声出すの得意ですし」 
    「そうですか」
     この人は頷いた。
     その頷き方が、ただの相槌には聞こえなかった。
    「ライブ、また告知出たら教えてもらえますか」
     少し間があった。
     この人は、今、少し緊張している。
     そう思った。
     でも、自分も緊張していた。
     ライブを観てくれた、チラシを読んでくれた。
     それだけしか知らない、”知らない人”だ。
    「インスタ、やってるんですけど…」
     声が少し小さくなった。
    「そこで告知してるので…、もしよかったら」
     この人はすぐに頷いた。
     嫌な顔ひとつしなかった。
     その顔が、少し懐かしい気がした。
     あの時と同じ。
     ギターケースを肩にかけた。
     この人の顔を、もう一度見た。
     岡崎で見た顔に、似ている。
     でも、確かめなかった。
     確かめなくていいと思った。
    「それでは」
     それだけ言って、歩き出した。
     背中に、冬の風が当たった。
     白い息が出る。
     冬だな、と思う。
     でも今日は、そう思って、少し笑えた。


    第三章 小椋

     
     翌日、仕事の合間にインスタを開いた。
     彼女のアカウントだった。
     ライブの告知、路上の写真、ギターの写真。
     飾らない投稿が並んでいた。
     一番新しい投稿はライブの写真だった。
     コメントが一件入っていた。
     先日のライブ、よかったです。遠鳴りの歌詞、変わってましたよね? 届いたなら、の方がしっくりきました。
     やはり。
     歌詞、変わっていた。
     あれ、と思ったのは気のせいじゃなかった。
     気づけたことが、妙にうれしかったし、インスタを見てよかったと思った。
     スマートフォンをポケットに入れた。
     午後の会議が始まった。
     部長が話している。
     若手が資料を広げている。
     会議はいつもどおり淡々と進んだ。
     会議中も小椋の頭の隅に、昨夜の噴水の場面が残っていた。
     岡崎。
     好きなことがあるなら、続けた方がいいよ。
     自分も、そういうことを言っていたな。
     夜、家に帰って、もう一度インスタを開いた。
     彼女の投稿を、最初から見ていった。
     路上で歌っている写真。
     ギターケースを背負った後ろ姿。
     ライブハウスの楽屋らしい場所で、小さな卓上鏡を持っている写真。
     飾らない写真ばかりだった。
     でも、どれも嘘がなかった。
     一番古い投稿まで遡った。
     三年前だった。
     大学生くらいだろうか。
     最初の投稿には一言だけ書いてあった。
     続けます。
     小椋はしばらく、その文字を見ていた。
     何を、という説明はなく、ただ、続けますだけ。
     スマートフォンを置いて、天井を見た。
     岡崎。
     好きなことがあるなら、続けた方がいいよ。
     そういえば。
     岡崎のショッピングモールで、小学生の女の子に声をかけられたことがある。
     プリクラを一緒に撮ってほしいと言われた。
     仕事中だったけど、断る理由もなかった。
     女の子は三人いて、みんな少し緊張した顔をしていた。
     愛想がいいというわけではないが、礼儀正しい感じ。
     ふざけた様子は全くなかった。
     撮り終えて、仕事に戻っていたら、
     しばらくして、さっき声をかけてきた子が戻ってきた。
     大きくてくっきりとした、意思の強さを感じさせる目が印象的だった。
     歳のわりにクールな面持ちで、こちらをじっと見てきた。
     一枚、差し出してくれた。
     どうぞ、と言って、また走って行った。
     急なことで驚いたが、少し、うれしかった。
     あの一枚、大切にしていたけれど、
     たぶん、引っ越しのどさくさでどこかにいってしまった。
     あの子たちも、もういい年齢になっているだろう。
     懐かしくて、かわいい思い出だ。
     

    第四章 櫻

     
     次の週も、栄に来た。
     ギターを背負って、いつもの場所に立つ。
     噴水の横。
     交差点の見える場所。
     指先が冷えていた。
     カイロを取り出して、両手で包む。
     白い息が出る。
     冬だな、と思う。
     今日も、そう思う。
     バッグから卓上鏡を取り出して、開く。
     端のプリクラに、目をやる。
     色褪せた写真の中で、あの人は笑っている。
     やっぱり、あの人に似ている。
     栄で声をかけてきた人に。
     ライブ会場にいた人に。
     岡崎出身だと言ってみたら、予想以上に少しだけ間があった。
     ただの思い込みかもしれないけれど、何かを探しているような顔に見えた。
     でも、聞いてこなかった。
     だから、それ以上は何も言わなかった。
     それでよかったと思っている。
     あのときの言葉は、ずっとあのときの言葉のままでいてほしい。
     誰かの言葉になってしまうよりも。
     鏡を閉じた。
     ギターを構えた。
     遠鳴り。
     歌い出したとき、言葉が自然に出てきた。
     ——誰かひとりにでも、届いたなら。
     もう迷わなかった。
     ずっと前からこうだった気がする。
     交差点の方を見た。
     信号待ちの人は多い。
     スマートフォンを見ている人。
     誰かと話している人。
     誰も歌を聴いていない。
     それでいい。
     そう思った。
     でも今日は、それでいいと思いながら、少しだけ違う気持ちもあった。
     誰かに聴いてほしい、という気持ち。
     ずっとあったはずなのに、今日は少し、はっきりしていた。
     冬の空気の中で、声が遠くまで伸びていく気がした。
     ふと、タワーが目に入った。
     こちらをじっと、見つめているようにも見える。
     青く、冷たい光。
     きれいだと思った。
     寒そうだとも思った。
     どこまで届くか、分からない。
     でも、届いたことがある。
     それだけで、また弾けると思った。

     

    第五章 小椋

     
     いつもの帰り道。
     大通り公園の交差点に立つと、ギターの音がした。
     ずいぶん久しぶりな気がする。
     今日はいるんだな。
     よく見ると、寒空の中、二、三人が立ち止まって聴いていた。
     ライブハウスで歌うくらいだから、そういうこともあるだろう。
     小椋は、信号を渡らずに、角のコンビニでカフェラテを二つ買った。
     交差点を渡り、少し離れたベンチに腰掛け、温かいカフェラテを飲みながら歌を聴く。
     ライブでは、三曲しか聞いていないので、初めて聴く曲もある。
     彼女は歌の合間にも、ギャラリーと親しそうに会話をしている。
     二十分ほど経っただろうか。
     外気の冷たさで、もう一つのカフェラテがすっかり冷めてしまった。
     小椋はそれを、バッグの中に押し込んだ。
     あの夜から、ここを通ることはあったが、会うことはなかった。
     歌が終わり、彼女が顔を上げた。
     いつもの、大きくてくっきりとした目でこちらを見る。
     小椋と目が合った。
     少し間があった。
     彼女が無表情のまま、小さく手を振った。
     小椋も小さく手を上げた。
     ギャラリーが一人減って、残るは女の子の二人組。
     そろそろみんな帰る頃かも。
     小椋は立ち上がり、先ほどのコンビニに戻ってカフェラテをもう一つ買った。
     急いで噴水の近くに戻ったけれど もう彼女の姿はなかった。
     しばらくその場に立って、タワーの青い光を見上げていた。
     淹れたての、温かいカフェラテを飲みながら。
     いっぱい歌ったし、寒いもんな。
     噴水の音だけが残っていた。
     帰り道、スマートフォンを取り出して、インスタを開く。
     彼女の最新の投稿に、いいねを押した。
     岡崎のショッピングモールで、プリクラを撮った女の子。
     いつも静かで落ち着いている感じなのに、そこでは眩しい笑顔を見せていた。
     

    第六章 櫻


     その夜、家に帰ってからギターを手に取った。
     部屋で弾くのは久しぶりだった。
     カーテン越しの光が、今日も同じ時間に落ちてくる。
     特別なことは何もない。
     でも今日は、少しだけ違う気がした。
     弦を鳴らす。
     言葉が出てきた。
     するすると、出てきた。
     冷たい風が頬をなでていく。
     今日もいつもの場所に立つ。
     特別なことは何もないけど。
     今日は少し、違う気がした。
     三番だ、と思った。
     遠鳴りの、三番。
     サビまで歌った。
     ——誰かひとりに、届いていた。
     部屋に、その言葉が残った。
     しばらく、ギターを抱えたまま動かなかった。
     先週、大通り公園であの人を見かけた。
     遠くから目が合って、お互いに手を振った。
     ギャラリーが散ったあと、見るとあの人の姿も見えなくなっていた。
     そんなに長くはいないよね。
     寒かったし、すぐにそのまま片付けて帰った。
     でも、歩き出してから、少しだけ振り返った。
     まあ、いないよね。
     バッグから卓上鏡を取り出して、開く。
     端のプリクラ。
     色褪せた写真の中で、あの人は笑っている。
    「また、続けられたよ」
     声に出すつもりはなかった。
     でも、小さく漏れた。
     鏡を閉じた。
     窓の外、冬の夜が静かだった。
     また、栄に行こう。


    最終章 櫻と小椋

     
     噴水の前に、小椋は立っていた。
     今日はカフェラテを二つ、手に持っていた。
     三月になるのに、まだまだ夜は冷える。
     でも、今日は少し空気が柔らかい気がした。
     冬の終わりの匂いが混じっていた。
     背後のタワーは、いつものように青色の光で、人々の帰り道を照らしていた。
     しばらくして、ギターを背負った人影が近づいてきた。
     櫻は小椋を見つけると、少し目を丸くした。
    「え、どうしたんですか」
    「まあ、たまたま通りかかった感じです」
     櫻はまた笑った。
    「これ、よかったら」
     カップを差し出した。
    「たまたま、なんですね」
     櫻は受け取って、また笑った。
     湯気を少し吸い込んだ。
     温かい。
    「ありがとうございます」
    「まだ、寒いですね」
    「まだ、寒いですね」
     また、同じことを言った。
     また、同じように笑えた。
     二人で噴水を見た。
    「最近、新しい曲できたんです」
     櫻が言った。
    「遠鳴りの、続きみたいな曲」
    「続き」
    「続きというか、三番、みたいな感じです」
     小椋は少し頷いた。
    「あのライブでは、二番まで歌ってましたよね」
    「え、よく覚えてますね」
    「しっかりと聴いていましたから」
    「すごいです」
    「もうここで歌ったんですか」
    「まだです。作ったばかりで」
    「そうですか」
     また、静かな時間があった。
     小椋はタワーを見上げた。
     青い光が、もうすぐ終わる冬の、澄んだ夜に滲んでいる。
    「岡崎、懐かしいな」
     気づいたら、声に出ていた。
     櫻が少し振り向いた。
    「仕事でよく行ってたんです。若い頃」
    「そうなんですか」
    「ショッピングモールで、イベントの仕事をしてて、何度か」
     櫻の顔が、一瞬だけ動いた。
     小椋は気づかなかった。
    「好きなことって、続けた方がいいですよね」
     小椋が言った。
     櫻はしばらく、噴水を見ていた。
     それから、静かに言った。
    「続けてます」
     その言葉が、冬の空気の中に残った。
     そのとき、背後のタワーの色が変わった。
     青色から、桜色へ。
     柔らかい光が、噴水の水面に落ちた。
     二人とも、少し驚いたものの、しばらく黙ってその色を見ていた。
    「きれいですね」
     櫻が言った。
    「きれいですね」
     小椋も言った。
     また、同じことを言った。
     でも今度は、笑わなかった。
     ただ、その色を見ていた。
     しばらくして、彼女がギターケースを肩にかけた。
     小椋は彼女を見た。
    「じゃあ、また」
     櫻が言った。
     大きなくっきりとした目で、眩しいような笑顔で。
    「じゃあ、また」
     小椋も言った。
     櫻が歩き出した。
     その背中が、桜色の光の中に消えていく。
     小椋はしばらく、その場に立っていた。
     タワーはずっと、桜色に光っていた。
     好きなことがあるなら、続けた方がいいよ。
     あの日、言った言葉だった。
     ずっと、続いていた。


    エピローグ

     遠鳴り(三番)

     冷たい風が、少しだけ柔らかい
     気づけば、季節が流れている
     特別なことは何もないけど
     今日は少し、違う気がした

     言葉にならないことが
     誰かの中で鳴っていた
     それだけで十分だと思った
     それだけで、また弾けると思った

     夢だとか未来だとか
     うまく言えないけど本当のこと
     誰かひとりに
     届いていた
     それだけでいい それだけでいい

     完


    あとがき

     夢とか未来とか、そんな言葉をこの三部作の中に何度も書いてきました。夢を追っている人は諦めが悪い人なのか。夢の強さが人によって違うのか。年齢を重ねると諦めてしまうものなのか。
     櫻は続けました。小椋は手放しました。
     でも、どちらが正しかったのかはわかりません。そもそも、正しいとか、正しくないとかでもありませんし。ただ、続けている人の声は、どこかに届くことがあります。届いた声が、誰かの中で鳴り続けることもあります。それだけは、書きながら確かだと思いました。
     この物語は、実際にあった小さな出来事がもとになっています。一緒にプリクラを撮ったあの子たちも、もういい年齢になっていると思います。
     人は思っているよりも、知らないところで、誰かに触れている。
     私にとっても、かわいい思い出です。

    #創作大賞2026

     
     
    日向坂46を知り、小説を書き始めました。 一度読んでいただけるとうれしいです。

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