【過去話まとめ】ちょっと不思議な森の3話
今日の気分で歩く3つの物語
今日ご紹介するのは、
ちょっと不思議な森の3話。
黒猫キキとハヤトの出会いのお話です。

□ 1. ハヤトと黒猫

森の中でハヤトはふと足を止めた。
風でもない、木の軋みでもない。もっと軽い、小さな音。枯れ葉がふわりと押しのけられるような、──生き物の気配。
「……誰か、いるの?」
森は答えない。けれど、何かがこちらを見ているような感覚だけが残った。
ゆっくり顔を上げると、倒木の上に小さな影があった。黒い毛並みが光を吸い込むように暗く、その中心だけが金色に光る瞳。
猫だった。

ただ座っているだけの黒猫。それだけのはずなのに、ハヤトの胸には言葉にならないざわめきが広がる。
怖さではない。ただ、森のどこにも属していない何かが、そこにいるような感覚。
ハヤトは拾った小枝の束を地面に置き、そっと一歩近づいた。
そのとき、黒猫はするりと倒木から地面へ降りた。足音はない。影が落ち葉の上を滑るように動く。
猫は逃げない。ただ尾をゆっくり揺らしながら、木漏れ日の中でこちらを見ている。
「……迷子?」
猫は答えない。けれど、ほんの少し首をかしげる仕草が、まるで「違うよ」と言っているみたいだった。
ハヤトはもう一歩近づく。
「森の子……じゃないよね」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。森の湿った匂いの中に、ほんの一瞬だけ知らない場所の気配が混じる。
ハヤトがその違和感を掴もうとしたとき、黒猫はふいっと背を向けた。足音もなく、影が森の奥へ滑っていく。
呼び止めようとして、ハヤトは息を呑む。
「……変だな」
一瞬、目を離しただけなのに、黒猫の姿はもうどこにもなかった。
ハヤトは枝の束を抱え直し、深呼吸した。穏やかな森の午後に、ひとつだけ説明のつかない記憶が残る。
後になって思い返しても、あの黒猫は森とは少しだけ違う匂いがした。
──これが、ハヤトと黒猫との最初の出会いだった。
□ 2. 名を残した黒猫
森の中でハヤトはふと足を止めた。
歩き慣れたはずの道なのに、今日は少しだけ足取りが遅い。
「……こないだの、猫って……」
森で出会った、不思議な黒い猫。
見間違いだったのかもしれない。
そう思いながらも、気づけばあの日と同じ方角に足が向いていた。
しばらく進むと、例の倒木が見えてくる。
前に、黒い影が乗っていた場所。
今日はもう、いないだろう。
そう思ったとき、視界の奥に黒い輪郭が浮かび上がった。
「……いた!」
黒猫が、そこにいた。
同じ黒。
けれど前より、輪郭が少し曖昧だった。
光は当たっているのに、
どこか遠くにいるみたいに見える。

猫はじっとこちらを見ている。
警戒しているわけでもない。
近づいてくるわけでもない。
ただそこに「いる」だけなのに、
森の空気がほんの少し重くなる。
ハヤトは前と同じ距離で立ち止まった。
近付きすぎると、何かが変わってしまいそうだったから。
「……また、会ったね」
猫は答えない。
ただゆっくり尾を揺らす。
やがて倒木からするりと降り、森の奥へ歩き出す。その動きに合わせて首元の毛がわずかにずれ、何かがキラリと光る。
「……首輪?」
ハヤトは思わず一歩踏み出した。
枯れ葉が、ぱり、と小さく鳴る。
その音を聞いたのか、猫はふいっと背を向ける。
ハヤトは黒猫をじっと見る。
首輪の少し下。
毛に隠れた場所に、小さな文字が光っているのを見つけた。
『KIKI』
「……キキ」

声に出した途端、胸の奥が少し落ち着いた。
理由はわからない。
けれど名前があると、それだけで少し近くなる。
「キキ!
きみ、キキって言うんだね!」
猫は何も答えない。
それからくるりと背を向けると、森の奥へと歩いていく。
「待って!」
「行かないで!」
伸ばしかけた手が、空を掴む。
黒猫はほんの一瞬、
ちらりとこちらを振り返った。
それから気配だけを残して森のどこかへと消えていった。

倒木の上には、最初から何もなかったみたいに苔の緑だけが残る。
ハヤトはその場に立ち尽くしたまま、胸に残った感覚を確かめた。
(名前……あったんだ)

□ 3. 黒猫の帰る場所
夕暮れが森を薄い金色に染めるころ、
黒猫はひとりで森を歩いていた。

毛並みは光を帯び、その輪郭は、影に溶けるように曖昧になっていく。
森の住人たちは誰も気づかないが、
この時間帯だけ、森には境界が現れる。
昼と夜のあいだ。
音や風の気配が、ほんの少し遅れて届く場所。
黒猫は歩幅を変え、一度だけ足取りを緩める。
夕暮れの光が、足元で揺れた。
黒猫は立ち止まらない。
ただ静かに、その線を越えた。
──瞬間、
空気がずっしりと沈んだ。
穏やかな森の音が遠のく。
視界が歪み、辺りが一瞬ぼやける。
代わりに、遠くから金属が擦れるような、
聞き慣れないざわめきが入り込んできた。
黒猫はしばらく歩いた。
ようやく空気の違いに身体が慣れてくる。
──その時、窓が音もなく開いた。
黒猫は軽く跳び、
その内側へと身を滑り込ませる。

背に、温かい手が触れる。
指先ではなく、面で包まれるような感触。
黒猫は目を細め、小さく息を吐く。

外と内のあいだで、
今日も境界は無事に閉じられた。
🐾
キキが、久しぶりに帰ってきました。
それだけのことなのに、森の空気が少し緩み、輪郭を取り戻したように感じられます。
──さて。
ここから先は、この森の歩き方を少しだけ。
この森には、いくつかの読み方があります。
ひとつは、森の住人たちの日常を辿る道。
もうひとつは、一人の人物を長く追う道。
暮らしのヒントを持ち帰る道や、
3話ずつまとまった時短コースもあります。
それぞれは独立しながら、森の中でゆるやかに繋がっています。順番に辿っても、気になる物語から読み進めても、構いません。
この森は、どこからでも歩き始められるように作られています。気になる道から自由に歩いてみてください。
それから──
最近、気になることが一つ。
森のどこかで、“何か”を見かけた、
という話を耳にしました。
金色に光っていたとも。
それは特別な場所ではなく、
普段通っている道のどこかかもしれません。
──🌳森の管理人・こより
この森をもう少し散歩する🐾

