
自分の「怒り」は、母の「怒り」だと気づいた日
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#思考の学校
前回、母に言いたいことを言ってから数日後、母が私の家に、いつものようにお裾分けを持って来てくれた。
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その時、1枚の紙を私に手渡して帰って言った。
その紙には、母の手書きでこう書いてあった。
斎藤一人氏の
しあわせになりたかったら
「幸せだなぁ」の口ぐせ
「日本に生まれて幸せだなあ」
「ご飯を食べて幸せだなあ」
「今日は目が覚めて幸せだなあ」
何も望んじゃいけないの
出している波動と同じものを呼び寄せる
「幸せだなあ」とか「感謝してるよ」とか生きてると 今日から明日 明日から明後日 1年たち 2年たつといいことがだんだん大きくなる
「わくわく」したらやる
しなければやらない
助け合いのほうがいいよ
どうも、斎藤一人さんの言葉らしい。
今思えば、きっとお母さんなりの優しさだったのだろう。
ただ、その時の私は、そこに書いてあった「何も望んではいけないの」という言葉に、ものすごく腹が立ってしまった。
「今あるもので満足しろ、これ以上望むな」と、私の気持ちを否定され、押し付けられたように感じたのだ。
そこで、思考の学校で学んだ「怒りの取り扱い方」を実践してみることにした。
①まず、怒りをスマホのメモに書き出してみた。
「自分の考えを押しつけてくるな!」
「何も望んじゃいけないってどういうこと!」
「幸せでいたいって望んじゃいけないの!? 意味分からんやん!」
「じゃあ、毎日、我慢して生きなきゃいけないの!? それじゃ今までと何も変わらんやん!」
「私を押さえつけるな!自由にして!しばりつけるな!ほんとムカつくわ!」
「私だって願望はあるよ! 望んだらダメなのか!」
……だいぶ怒っていた(笑)
だけど、スマホの画面に怒りを書き殴りながら、ふと「私は一体、何にこんなに怒っているんだろう?」と考え込んでしまった。
その時、ずっと心に引っかかっていた、ある「ストレス」を思い出した。
私は昔から、何か良いことがあるたびに、母から「神様のおかげ」と言われることが、どうしてもストレスだったのだ。
自分が必死に頑張ったことも、辛くて苦しかった気持ちも、すべて「神様のおかげ」という言葉で片付けられてしまう。
それはまるで、私の感情を無視され、正論でねじ伏せられているような、言い知れぬ息苦しさだった。
そしてそれは、子供の頃にお母さんから言われたあの言葉とも、完全に重なっていた。
「『だって』じゃない!言い訳しない!」
そうか。私はあの時も、今も、自分の気持ちをただ言いたかっただけ、分かってほしかっただけなんだ。
私は、この「自分の気持ちを抑えつけられるような扱い」に対して、ずーーっと長い間、お母さんに怒っていたんだ。
②次に問いかける。
「これを誰かに思わせていなかったか?」
もしや、私、これを娘達に思わせていたのだろうか?……でも、そうなのかもしれない。
自分の言い分だけを押し付けて、「だってじゃない!」とお母さんと同じように娘たちの口を塞いでいたのかもしれない。
そうだとしたら、ごめんなさい、とまずは心の中で謝った。
いや待てよ。
もしかしたらこれ、お母さんに思わせてたのではないか?
私が子供の頃、お母さんは自由にしてほしかったのかもしれない。
お母さんを抑えつけて、縛りつけて、我慢ばっかりさせていたのは、私の方だったのではないか。
確かにそうだ。お母さんはいつも我慢ばかりしていた。
それなのに私は、お母さんがやりたいことを叶えてあげようなんて、ちっとも思ったことがなかった。 お母さんにひとりの人間としての「願望」があるなんて、考えたことすら知ろうとしたことすらなかった。
押さえつけていたのは私だ。
お母さんを縛りつけてたのは私だ。
我慢させていたのは私だ。
お母さんが私の望みを叶えるのが当たり前だと思っていた。
「お母さんは私の気持ちを聞いてくれない」って、人のせいにしていたけれど、
本当に傲慢で、相手を見下していたのは私の方だった。
そのことに気づいた瞬間、人のせいにしていた自分が、たまらなく恥ずかしくなった。
「お母さん、ごめんなさい」
心の中で、心から謝った。
今まで母が私に怒ることはあまりなかった。
いつも私を大切に思ってくれていた。
それなのに、私はその愛情に気づかないふりをしていた。
母は口には出さないけれど、自分でも気づかないうちに怒りを抑えていたのかもしれない。
祖父が厳しい人だったから、「あんなふうに怒ってはいけない」という気持ちでいると聞いたことがある。
母もまた、私と同じように、自分の本当の気持ちを誰にも言えず、ずっと「怒り」を抑えて生きてきたのだろう。
だからこそ、「神様のおかげ」「何も望んじゃいけない」と自分に言い聞かせることで、必死に心を保ってきたのかもしれない。
激しい「怒り」は、一見すると相手が100%悪いように思える。
けれど、その怒りを一歩引いて見直してみると、実は「人のせいにしていた自分」や「悪かった自分」に気づくための、大切なサインなのだ。
人のせいにすることをやめ、自分の傲慢さを認められたとき、私たちは初めて、本当に大切な人の心に寄り添うことができるのかもしれない。