
なぜ人は物語に動かされてしまうのか?⑥
第5節 強い物語、弱い物語、そしてその先
物語は2つに分けられる。「強い物語」と「弱い物語」
ひとつは、価値基準が定まった「強い物語」
努力をすれば報われるし、正義は勝つ。
主人公が成功する姿に、読者は感情移入し熱狂する。
しかし、強すぎる価値観と主人公が衝突すると
価値観が壊れるか、主人公が壊れる。
もうひとつは、価値観が決まらない「弱い物語」
価値の基準がない、
いいことなのか、悪いことなのかもわからないまま、
出来事がただ続く。
空虚な世界観に、主人公は苦しんだり、彷徨ったりする。
K
これってどっちがいいの?
AI
どっちもヤバい方向に行きます。
K
え、どっちも?
AI
ちゃんと理由があります。
まず弱い物語の流れ。
坪内逍遥ー橋田寿賀子ー村上春樹ラインです。
価値観をどんどん薄めていくと、
「何に価値を見いだせばいいのか」という基準がなくなり、
最終的に「どうでもよくね?」ってなる。
虚無の問題に行き着きます。
K
あー、虚無ね。
AI
そう。空っぽになる。
K
じゃあ強い物語は?
AI
アイドルージャンプー三島由紀夫のラインです。
これは逆で、価値基準を極限まで強くする。
結果どうなるか。
K
どうなったっけ?
AI
世界に裁くべき敵がいるうちはいいんです。
K
うん。
悪を倒す爽快感があるからね。
AI
でも、その敵を全部倒してしまったらどうなると思います?
K
平和になるんじゃないの?
AI
ところが、そう簡単じゃないんです。絶対的な価値観は、自分の正しさを証明するために、常に何かと比較しなければならない。
K
比較?
AI
例えば「正義」が価値なら「悪」が必要です。「美」が価値なら「醜」が必要です。「努力」が価値なら「怠惰」が必要です。
K
なるほど。
AI
だから外に敵がいなくなると、今度は自分の中に敵を探し始めるんです。
K
自分の中に?
AI
はい。「もっと努力できたはずだ」「こんな考えは醜い」「私はまだ不十分だ」。そうやって裁く側と裁かれる側が、同じ人間の中に生まれる。
K
ああ……。
AI
絶対的な価値観を強めれば強めるほど、その刃は最後には自分自身へ向かうんです。
K
それ…結構怖いな。
K
どっちも終わってるじゃん。
AI
そう。どっちも極端に行くと破綻します。
K
じゃあさ、質問を変えるよ、どっちがマシなの?
AI
実は弱い方です。
K
え、そっち?なんで?
AI
社会的には。
だって、強い物語をそのまま社会に入れたら終わるじゃないですか。
K
どう終わるの?
AI
例えば、信号無視で死刑。ちょっとズレたら排除。
美のためなら破壊OK。入試に落ちたら自殺。
K
無理だわ(笑)
AI
だから社会は、価値基準をゆるめる方を選ぶ。
これはほぼ必然なんですよ。
K
じゃあ捨てればいいじゃん。
AI
ところが捨てられない。
K
なんで?
AI
人間が強い物語を欲しがるからです。
K
欲しがる?
AI
はい。価値がほしい、人生に意味が欲しい、何かのために燃えたい。
そういう欲望は消えません。
K
まあ、分かる。
AI
だから社会は強い物語を警戒する。
でも人間は強い物語を求める。

K
じゃあ、どうすればいいの?
AI
その問いに、人生をかけて挑んだ人がいます。
K
誰?
AI
宮崎駿です。
K
急にデカいの来たな(笑)
AI
この人、ちょっとおかしい。世界が矛盾していることも知っている。誰も完全には救えないことも知っている。価値観が幻想かもしれないことだって分かっている。それでも「じゃあ描くか」となる。
K
強いね…。
AI
で、中身を分解するとこうなる。
強い物語と弱い物語、両方入ってる。
K
両方?
AI
三島由紀夫的な成分は、神話や英雄を愛し、飛行機や戦争に美を見出し、滅びや自己犠牲すら美しく描こうとするところです。
K
だいぶ三島っぽいね。
AI
そうですね。
で、弱い物語の成分は
同じジブリの高畑勲のような、どの価値基準もよしとできない人間の悩みも描きたがる。
K
高畑勲?
AI
高畑勲は宮崎駿と同じジブリの映画監督です。
価値基準がはっきりしない現実の人間を描く作家です。
代表作は『火垂るの墓』(1988)
戦中戦後の混乱した社会環境の中で生きた二人の兄妹を描きました。
ただただ哀しい出来事が積み重なり、その結果として、兄妹は死ぬ。
『火垂るの墓』では、正義も勝利もありません。ただ、戦争と社会の中で追い詰められていく兄妹が描かれます。
清太「見てみ、昼はおむすびやから、雑炊、我慢して食べ」
叔母「ええ加減にしとき!うちにおるもんは昼かて雑炊や。お国のために働いている人らの弁当と、一日中ブラブラしとるあんたらと、なんで同じや思うの」
節子「せやかて、あれうちのお米やのに」
叔母「なんや、そんならおばさんがずるいことしてるいうの。えらいこというねえ。みなしご二人あずかったって、そう言われたら世話ないわ」
戦後、両親を失った兄妹は叔母の家に居候しますが、死んだ母の着物を売って得たお米の分け方をめぐって叔母と衝突します。
口論の末、叔母の家を出て行ってしまう兄妹。
野宿を始めるが、結局、食べ物がなく、農作物を盗む清太。
「うち、もうええわ。もう寝る。」と最後の言葉を残し死ぬ節子。
高畑勲は、地獄を直視する作家です。
K
……きついね。
AI
しかも高畑勲は、何が正しかったのかを教えてくれません。
K
教えてくれない?
AI
はい。叔母が悪いとも言わない。清太が悪いとも言わない。ただ、戦争の中で人々が追い詰められ、少しずつ余裕を失い、その結果として兄妹が死んでいく過程を描く。
K
きついな……。
AI
しかも高畑勲は、「何が悪かったのか」「どうすればよかったのか」を教えてくれません。叔母にも理屈がある。清太にも理屈がある。それでも節子は死ぬ。
K
うわ……。
AI
高畑勲は価値観を語る前に、まず地獄を直視するんです。人間を簡単に英雄にも悪人にもせず、現実そのものを描こうとする作家です。
K
弱い物語の極北だね。
AI
で、宮崎駿がどうなってるかというと。
三島みたいな強くてカッコいい価値観の物語を描きたい。
でも、それを自分の中の高畑勲が壊す。
K
え、何それ。
AI
ずっとそれをやってる。
実は高畑勲はスタジオジブリの先輩みたいな人で、いわば宮崎駿のブレーキ役なんですよ。
K
ブレーキ?
AI
宮崎駿って若い頃は基本アクセル全開なんです。
飛ぶ、戦う、滅びる、美しい、全部盛り。
K
なるほど。
AI
そこに高畑が入るとどうなるか?
「いや、それって現実的にどうなの?」
「それって誰か苦しんでない?」
「それ、美化しすぎじゃない?」
K
めっちゃ冷静だな(笑)
AI
そう。かなり冷たい目で見る。
しかも、この人、現実をちゃんと観察してるから強いんですよ。
戦争も、貧しさも、人間の弱さも、全部みてる。
K
夢を見させてくれないタイプだ。
AI
そうそう。
だから宮崎の中で起きてるのは、
「理想に突っ込む力」と
「それを現実で引き戻す力」
の同時発生なんです。
K
じゃあ、ずっとアクセルとブレーキ踏んでる感じ?
AI
まさにそれ。しかも、どっちも全力。
K
そりゃ壊れるわ…。
AI
普通なら、どちらか一方を選ぶんですよ。
三島由紀夫みたいに、美や理想を信じて突き進むか。
あるいは高畑勲みたいに、地獄を直視して現実を描き続けるか。
K
うん。
AI
ところが宮崎は、そのどちらも捨てないんです。
K
うん。
AI
でも、宮崎はどっちもやめない。
だから、進みながら壊れる。
K
めちゃくちゃだな(笑)
AI
でも、それが宮崎駿の作品群なんです。
AI
初期の『風の谷のナウシカ』(1988)では
終末感、巨大兵器、自己犠牲の強い価値観をてんこ盛りにします。
完全に三島寄り。
主人公のナウシカ姫の集落は人間(軍事国家トルメキア)と自然(腐海)の衝突に巻き込まれます。トルメキアは軍事力で腐海を征服し、国々を統合しようとします。
クシャナ「我らは辺境の国々を統合しこの地に王道楽土を建設するために来た!!そなたたちは腐海のために滅びに瀕している!我らに従い 我が事業に参加せよ!!腐海を焼き払い再び この大地をよみがえらすのだ!」
人間側の力は、腐海の王蟲の軍勢の前に歯が立たず、ナウシカの集落が滅びの危機に瀕します。そこに、共生の道を探るナウシカ姫が現れ、身を挺することで集落を守ります。
男「王蟲が止まったぞ」
少女「姫姉様が!」
男「おおー!」
少女「姫姉様 死んじゃった」
大ババ「身をもって王蟲の怒りを静めてくだされたのじゃ。あの子は谷を守ったのじゃ。見ろ!」
ユパ「おお!なんだこの光は?」
ナウシカ「テト…よかった、王蟲 ありがとう、ありがとう王蟲」
大ババ「奇跡じゃ。なんという いたわりと友愛じゃ。王蟲が心を開いておる。子どもたちよわしの めしいた目の代わりによく見ておくれ」
K
価値観と価値観のぶつかりあいだね。
それを自己犠牲で止める。
完全に強い物語だね。
結末では、自然と共存しようとするナウシカが集落を救い、どちらかというと自然側が正しい、という勧善懲悪的な描写だよね。
AI
ただ、ナウシカは腐海も理解しようとしたし、人間も理解しようとしました。つまり、強い物語の主人公なのに、敵を理解しようとしたんです。
K
ああ。ちょっと、弱い物語の片鱗が見えるね。
AI
そして、弱い物語の傾向は13年後の『もののけ姫』で強くなります。
『もののけ姫』では、
再び自然(森)と人間(たたら場)の価値観がぶつかり、主人公のアシタカは森とたたら場の間に立ちます。
たたら場を率いるエボシは、鉄を作り、人々の生活を豊かにしようとしています。しかも病人や娼婦のように社会から排除された人々も受け入れている。彼女には「人間のために発展する」という明確な価値基準があります。かなり強い物語の人物です。
一方で森側にも価値基準があります。サンや山犬たちは、森を守り、神々を守り、自然の秩序を守ろうとする。こちらもまた、譲れない信念を持った強い物語の人物です。
ただ、『もののけ姫』では、ここに高畑勲的な現実を見つめようとする視点が入り込みます。主人公のアシタカは
アシタカ「曇りなき眼でものごとを見定め、決める」
と言います。しかし、実際には決められない。森にも理がある。たたら場にも理がある。どちらかを悪と断定できないのです。結局、『もののけ姫』の最後は誰も勝ちません。森は傷つき、たたら場も壊滅する。エボシは片腕を失い、サンは人間にならない。アシタカも森へは行かない。
K
曖昧だねぇ。
AI
最後のアシタカの言葉は
サン「アシタカは好きだ。でも人間をゆるすことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」
価値観が衝突して、ボロボロになっても、離れても、それでも共に生きることを選ぶ。
これ、強い物語だとしたら、かなり変な結論なんです。
普通の物語なら結婚するか、一緒に暮らすか、あるいはどちらかの価値観が勝つ。でも『もののけ姫』では、森の価値観も人間の価値観も残ったまま終わる。うまく統合されたわけではない。ずっと不安定なままです。それでもアシタカは「共に生きよう」と言う。
K
かなり弱い物語寄りだね。
AI
はい。どの陣営の価値基準も肯定されません。
K
ちょっと待って。
AI
はい。
K
じゃあ、どうすればいいの?
AI
何をです?
K
だって、これじゃあ、強い物語でもないし、弱い物語でもないじゃん。
AI
……。
K
『もののけ姫』って、強い物語なの?弱い物語なの?
