
残ったのは、私 #15
#15 エピローグ
ーー数年後。
編集室の空調は、相変わらず少しだけ効きすぎている。
「寒くないですか?」
隣の席の同僚が、肩をすくめながら言う。
「このフロア、温度設定おかしいですよね」
「前からだよ」
澪は画面から目を離さずに答える。
「昔からこんな感じ」
「へぇ」
同僚は少し驚いたように笑う。
「その頃って、まだ今みたいに当たり前じゃなかったですよね、バックアップって」
手が、一瞬だけ止まる。
「……そうだね」
「今じゃ普通ですもんね」
「むしろ、ない方が不安っていうか」
別の席から声が飛んでくる。
「保険みたいなもんでしょ?」
「だよね。事故とかあったら終わりだし」
軽い調子の会話。
当たり前の前提。
澪は、モニターに視線を戻す。
表示されているのは、ログデータ。
思考の流れ、選択の履歴、言葉の傾向。
“その人らしさ”を数値化したもの。
「一致率どう?」
上司が後ろから覗き込む。
「問題ありません」
「逸脱は?」
「特にありません」
「OK。そのまま進めて」
上司は軽く頷いて離れていく。
“本人と一致しているか”
それが、この仕事の基準だった。
澪はスクロールを続ける。
どこにも違和感はない。
まるで、本当にそこにいるみたいに。
仕事終わりに、美咲と食事をする。
「なんかさ」
美咲がグラスを傾けながら言う。
「完全に当たり前になったよね」
「バックアップ?」
「うん」
「昔はもっと特別だったのに」
澪は少し考える。
「そうかもね」
「今ってさ」
美咲は続ける。
「どっちでもいい感じしない?」
「どっち?」
「本体とか、バックアップとか」
軽い口調。
でも、その奥は変わっていない。
「同じなら、同じでしょ」
あの頃と同じ言葉に、澪は曖昧に笑う。
否定も、肯定もできないまま。
ーー週末。
航平と並んで歩く帰り道。
「最近さ」
航平が言う。
「周り、増えてきてるよな」
「何が?」
「バックアップ前提のやつ」
「ああ」
「正直、まだ慣れない」
はっきりした口調。
航平は、あの頃とまったく変わらない。
「でも」
少しだけ間を置く。
「澪だけは別」
その言葉に、ほんの少しだけ引っかかる。
「……どういう意味?」
「そのままの意味」
航平はそれ以上言わない。
でも、その“そのまま”が少しだけ曖昧に感じた。
日々は穏やかに過ぎていく。
仕事も、プライベートも、特別なことはない。
特にこれといった不満もなく、満たされていると言っていい。
ーー休日。
雲ひとつない青空。
少しだけ風があって、歩くにはちょうどいい。
「いい天気だね」
澪が言う。
「だな」
航平が笑う。
何気ない会話。
同じ速度で、同じ方向へ並んで歩く。
何も変わらない。
美咲が言うように、私が私である理由なんてどうでもいいのかもしれない。
私は私のまま、ここに…航平の隣で笑っていたい。
そのまま、航平と並んで歩いていく。
青空の下、何も変わらない日常の中へ。
どこか遠く。
誰もいないサーバールーム。
規則的に並ぶラック。
低く響く、機械音。
無数のモニターに、ログが流れている。
その中のひとつのモニターに、メッセージが表示された。