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日本武尊の征西の故地はあった(鹿児島の名前の由来と播磨)

    某新書によれば、日本武尊の征西は創作性が高く、日本武尊のモデルとなる人物はいても征西は行ってなかった等と書かれていたように記憶しているのですが(というか、これはまだマシな方で、日本武尊伝承自体、創作だと考える学説が多いようですが)、そんなことはないと私は思います。ただ私も具体的な故地は探せず、肥前国風土記から肥前の土蜘蛛討伐伝承が気になっていたのですが(建部大社と神崎郡(滋賀と佐賀)、出雲と飛鳥|古墳時代史解題)、南九州の歴史・伝承に詳しいふひとべのべさんのブログを検索していて、ふと面白い記事を見つけました。高千穂の西、ヤバイです(さすがの古事記)。

    ふひとべのべさんの記事(国分の祓戸神社(守公神社)、大隅国衙のあったところか? - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。)によれば、守公神社が鹿児島神社(正八幡宮)以前に勢力があったらしいとのこと。延喜式は927年完成。これ日本武尊の征西(熊襲征伐)の(美濃の)弟彦王(押黑弟日子王か)の後裔(牟義公同氏/大碓命之後也)の守公じゃないですか?また剱神社(鹿児島県霧島市国分敷根)に熊襲征伐の伝承があるようです(敷根の剱神社、もとは宇豆峯の剱巌を祀る、熊襲征伐の伝説も - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。)。

    つまり、延喜式の鹿児島(神社)の由来は応神天皇紀の播磨鹿子水門の逸話(諸県君が高千穂の西南にもいたということです)で、日本武尊の征西の舞台だったからこそ、播磨系氏族(や(吉備)品遅部)が当地に定着し(鹿児島神社が創建され)、(吉備)品遅部/日下部がいたから、垂仁天皇(日子穗穗手見命)を祀る(日本武尊が重視された応神朝~仁徳朝の時点で)ということなのでしょう。参考:開化天皇記「次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。」景行天皇記「娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命」仁徳天皇紀「卽遣吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡」注:息長日子王は神功皇后の弟で、神功皇后は山城国綴喜郡で隼人と関係が深く、品遅部(狭穂姫系)は神功皇后と同父系の日下部(狭穂彦王系)と関係が深いと見られ、日下部は日向国児湯郡で繁栄したと見られます。

    また、上宮記によれば、垂仁天皇(記:日子穗穗手見命)の子に位置づけられる誉津別命が応神天皇と同一視された形跡もあり(仲哀天皇の母が垂仁天皇皇女)(応神天皇が山部と海部(阿曇連)を設置、山幸彦の海幸彦に対する優位を説くのが日向神話)、日子穗穗手見命(記:御陵者、卽在其高千穗山之西也)は高千穂宮(霧島神宮古宮址/正八幡宮系か)にいて、神倭伊波禮毘古命(神武天皇。日本書紀では山幸彦と同じ名前)が高千穂宮から出発するとも読める)。

    日本武尊と縁の深い地ということは、高千穂宮が神武天皇と関係が深いということにも繋がってきます。日本武尊が神武天皇のモデルだからです。応神朝から仁徳朝にかけて、皇室のルーツを設定するにあたって、筑紫日向を北部九州にすることは出来ませんでした。その地は神功朝にようやく屈服させたところだったからです。

    日本武尊が神武天皇のモデルで、応神天皇が神武天皇の祭祀を始め、弟彦王が守公神社に祀られ、日本武尊の母を意識した鹿児島神社が諸県君(吉備氏か/応神天皇紀の播磨鹿子水門の逸話)によって創建され、応神朝或いは仁徳朝に至って、応神天皇の御名代部となった品遅部が(日下部と繋がりのある)諸県君を頼って鹿児島神社に進出し、垂仁天皇を祀って日子穗穗手見命とし、後に応神天皇祭祀が併せて行われていくと(日向国宮崎郡跡江の生目古墳群は生目村に由来する名前で、古墳群を築造した土師氏が垂仁天皇を記念したか→江首氏の本拠の河内国交野郡でも初期古墳を築いた土師氏が大きな勢力を持ったと考えられる地名があります。大阪城の鬼門守護になって大きくなった交野郡の片埜神社(陰陽道の源流が仁徳朝の可能性)|古墳時代史解題)。

    延喜式の囎唹郡三社(大穴持神社・宮浦神社・韓国宇豆峯神社)の内、大穴持神社に関して言えば、元は山王社の可能性も考えられ、斉明朝の江南路の遣唐使と隼人の内属が中大兄皇子と南九州の結びつきを生じさせ、後に山王信仰が定着して、(特に薩摩国で)天智天皇伝承を生じさせた可能性があると思います。児湯郡(西都市)でも高屋神社(山王社)が大名牟遅命を祀り(景行天皇も祭神ですが、高屋宮は児湯郡ではないと思います。日向国造が景行天皇を祀った可能性はあると思いますが)、童子丸神社も山王権現だったようです。

    韓国宇豆峯神社に関して言えば、神功皇后(息長)と関係が深いと見られますが、そもそも神功皇后と隼人の関係は密接だと思います(山城国綴喜郡に内臣と大住郷、月読神社)。韓国宇豆峯とは素戔嗚尊が追放されて最初に降り立った山を指すと思われ、だから御祭神を五十猛命とするのでしょう。紀氏は武内宿禰と関係が深いですね。

    宮浦神社は日南市の宮浦神社を参照すると、神武天皇の母神(玉依姫)伝承と関りが深いかもしれません。天智天皇伝承(山王信仰)もそうですが、霧島市一帯と頴娃郡の信仰の近さが引っ掛かります。

    古事記の山幸彦と神武天皇伝承のモデル(恐らく日向神話誕生当初の原型)が理解できてきました(日本書紀はまた違う話かもしれませんが)。

    ウィキペディア「鹿児島神社 (鹿児島市)」拝殿(Jerry fish tkc)

     
     
    在野ですが(在野だからこそ)、記紀研究の最先端を自負しています。記紀批判の戦後日本古代歴史学会に喝!古墳時代史は日本の史料が解題します。主にXで活動(文明の研究も始めてます)。飛鳥・藤原マガジンで、記紀や新撰姓氏録を元にした日本古代史を発信中。愛媛県宇和島市在住。

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