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《連載》「新しい風は吹く」  #2 父の解雇


     平成30年「西日本豪雨」の爪痕は、街の至るところに残っていた。トワの友達のひとりの家は床上浸水に見舞われ、転居を強いられた。少しずつ暮らしが戻りつつある広島の土曜の夕方の太陽は、家々の軒先に影を作っている。

     トワは居間の畳に腰を下ろし、サチが見ているテレビの画面に目をやった。広島東洋カープと読売ジャイアンツの野球中継だった。終盤、広島の攻撃中、打者が右中間を抜くヒットを打ったようで、観客の歓声にふたりは目をやった。トワもサチも野球のルールを知ってはいたが、熱狂的なファンというわけではなかった。地元のテレビ局の広島訛りがある実況には、安心感があった。

     トワの仕事は交通整理員。酷暑は身体に堪える。
    昨年、22歳のとき、OLから転職をした。広島市内が主な仕事場である。週末のたびに、次の週の勤務地が知らされる。警備会社から1枚の紙を受け取る。その紙に必要なことはすべて書き記されている。着替えのこと、制服のこと、食事のこと、交通費のこと。トワはそれに目を通し、仕事の準備をする。来週からの勤務地は、本川と元安川の分岐点にかかる相生橋だ。広島に原子爆弾が落とされたとき、もっとも被害が大きかった場所らしい。

     トワは畳に立膝をつき、ぼーっと野球を見ている。京和紙のうちわが左右に動く。瑠璃色のそれは夏らしい。卓袱台のポットの麦茶をコップに注ぎ、一気に飲み干した。ごくんと喉の音を立ててから、呟いた。

     「サチは来年から、専門学校やな。理学療法士になりたいって、ええ仕事選んだもんじゃ」
     「なんやいきなり。なんでそんなこと言うねん」
     「ふと、思ったからや」
     トワは2杯目の麦茶を注いだ。
     「サチも飲むんか」
     サチは黙ってコップを差し出した。

     蝉が庭のコブシの葉に隠れて鳴いている。耳鳴りのような鳴き声だ。 蟬の声は、8月の声だ。この街の市民にって、そういう音だ。

     「交通整理の仕事、キツくないん」
     とサチは聞いた。
     「んー、まぁ。キツくないことはあらへん。一緒に働いている人ら、男やろ。荒々しいわ。ワテらニンジンって言っているやけど、誘導灯の振り方なんかも、ちゃんとせなあかんし。ちゃんとせな、かえって渋滞おこしてしまうしな、事故起こしてしまうかもしれん」
     トワは少し笑った。口もとが少し上がった。
     「これからも続けるん?」
     「たぶんな、会社勤めはわしにはあわん」

     帳が降りるにつれて、蝉は3匹、2匹、1匹とその音を減らしていった。

     「オカンが帰ったら、夕飯の用意やな。食材はオカンが買ってきてくれるから、今夜はうちが作る。いつものような感じになると思うけど」
     サチは飾り気のない短い髪を指で弄った。
     たいてい夕食は質素であった。トワと美津子は時おり、缶ビールを開ける時もあるが、ほとんどは麦茶だ。

     美津子が玄関の引き戸を開けた。
     外の熱気と、遠くの花火の微かな匂いも一緒に入って気がした。昼間はパートをしている。サチやトワに手がかからないようになって始めたスーパーマーケットでのレジ仕事だ。今は新しい従業員が入ってくると、研修係をする立場である。すでに8年が経ち、美津子も43歳をこえて、立ち仕事は身体に堪えるようにもなってきた。

     時折り、トワとサチは美津子を親しみをこめて、こぶたちゃんと呼んだりした。
     「今日は、豚のロース肉が安んったんよ。とんかつにしよ」
     靴を脱ぎ、廊下を歩きながら、美津子はそう言った。
     「トワは、もう帰ってたんやな。もっと遅いかと思ってたわ」
     「今日の現場は、観音町の小さい交差点やったし、楽やったわ。ただ、暑いな。あかんくらいに暑い」

     「オカン、麦茶。どうぞ!」  
     サチは麦茶を差し出した。美津子は、コップに口をつけるとおもむろに、買い物袋から、パックに入った豚のロース肉を取り出し、ほれとふたりに差し出した。パックに3枚のピンク色の肉が並んでいた。
     「じゃぁ、作るね。オカンは休んでいて。トワとテレビでも見とって」
     サチは、当たり前のようにその肉と買い物を持って台所に行った。
     共用のエプロンをきゅっと絞め、手を洗い、鍋を探した。

     さて、と独り言を言い、手慣れた手つきで豚肉を捌き始めた。 美津子はコップに口をつけ、麦茶を喉に通した。冷たい麦茶は一気に、美津子の熱を冷やした。

      日曜日の夕方から夜にかけての時の流れは、憂うつをともなうことがある。テレビは野球中継からアニメに切り替わっている。もう家族でアニメを見ることもなくなったが、ただ流れている。
     畳の部屋に木の廊下、引き戸の玄関に瓦葺きの屋根。廊下の木の感触、障子を開ける時の音、船底天井から舞い降りる匂いなど、美津子はこの家をとても気に入っていた。前の生活の面影が、あちこちに残っている。

     春にはコブシが花を咲かせた。舞い落ちる花びらが、縁側に並ぶ。
     空に浮かんでいるような乳白色の花びらをみると、トワは父を思い出した。仏壇の遺影はトワが選んだものだった。長押の上にきちんと飾られていた。


     トワたちの父、良雄が亡くなる前の仕事は交通整理員だった。

     東京に本社がある保険会社の広島支店に勤務をしていたが、40歳でリストラに遭った。保険会社では朝から夜更けまで働いていた。良雄が突然この世を去ったのは、3年前。その3年間、交通整理員の仕事をした。
     ある日、良雄から、たまたま早く帰れると連絡があった。家族は喜び勇んで料理を拵えた。

     トワとサチは夕飯の買い出しに出かけた。
     平成24年、12月。高須駅近くのスーパーは買い物客で賑わっていた。ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」が店内に流れ、街の人々は足取り軽く、買い物をしていた。

     トワは、「ハッピー・クリスマス」を小さな声で口ずさんだ。
     歌詞の「ウォー・イズ・オーヴァー」の部分を何度も口ずさんだ。
     釣られるようにサチもトワの真似をした。

     War is Over

     War is Over

     人混みに溶け込み、鍋の材料を買い込んだ。牡蠣、カニ、牛肉、持ち合わせの軍資金で、ありったけの食材を買い込んだ。レジで支払い済ませ、買ったものをレジ袋に詰めると、かなりの量になった。1袋では足りず、2袋に分けて詰めた。

     「トワはこっちを持って。うちはこっちを持つから」
     サチはトワのことをおねえちゃんとか、アネとか呼ばなかった。
     いつのころからか、トワはトワだった。
     それは美津子も良雄も祖母もそうで、トワはトワだった。

     小さい方のレジ袋を差し出されたトワは思わず躊躇い、
     「おっ、おう…」
     と声を出した。
     そして短い髪を掻き上げ、先を歩くサチに追いつこうとした。
     夕陽が横断歩道の白線に銀色の光沢を与えていた。夕陽に向かって、揚々と歩き、門戸にたどり着いた。門戸を開けるといつもの木の乾いた音がした。

     トワは乱雑に靴を脱ぎ、台所に向かった。少し遅れて玄関についたサチは何気なくトワの靴を揃えてから、家に上がった。
     「おかえりー」
     美津子の声もなんとなく浮き足立っている。なにせ、久しぶりに家族が揃う夕食だ。

     「これが肉。これが牡蠣!じゃじゃーん!そして、これがカニー!」
     トワは買った品物をレジ袋から一つ一つだして、美津子に見せた。サチがとなりで微笑んでいた。
     「では、さっそく作り始めます」
     トワは敬礼のポーズをして戯けて見せた。 
     「うちも!」
     とサチが言った。
     ふたりは衣紋掛けから、エプロンを取り、同時にきゅっと絞めた。
     手際良く、下拵えが始まった。

     フ~、フフ、ラ~ララ、

     と鼻歌まじりに肉を切り、野菜を切り、その他の食材を調理も進めた。サチは率先して食器の準備をした。食器棚から、家族がそれぞれ愛用している茶碗や取皿を取り出して、並べた。幼い頃サチが手が届かなかった、棚の上の方の食器も容易に取り出せるようになっていた。ニスが光沢を発していた棚は、年の経過とともに所々のニスがハゲていた。
     食卓の真ん中に鍋が置かれた。
     そしてほとんどの準備が整った。

     「ただいまー」
     良雄の声が聞こえた。
     トワとサチは勇んで玄関に走った。
     「おかえりーっ」
     トワは一刻も早く、乾杯をしたいらしく良雄の背中を両手で押した。
     まてまて、と良雄が恥ずかしそうに言うが、トワはその手を止めない。 
     「オトン、早く。早く。着替えたらすぐに下に降りて来てね」
     良雄は小走りに2階に登って行った。

     久しぶりに食卓にビールが並んだ。
     「かんぱーい!」
     とりわけトワの声が高かった。

     鍋に肉、牡蠣、カニが入れられ、豪華な夕食が始まった。
     美津子も珍しく2本目の缶ビールを飲んだ。鍋に次々と箸が伸び、みんなが好きなものを口に放り込んだ。
     トワは、「オトン、どんどん食べ、オカンも!」
     と取り分けることで嬉しさを表していた。

     宴は和やかに進んでいた。缶ビールの空き缶も並び、鍋の中も空になった。
     「肉、牡蠣、カニ、美味しかったねー」
     サチは言う。
     「美味しかったわー、パンパンやわ」
     トワはお腹をさする。

     サチは冷蔵庫に行って、扉を開けた。
     中から出て来たのは、スイーツだった。

     駅前の洋菓子店のおいしいと評判のモンブランだった。
     「じゃーん!モンブラン!」
     とサチがと美津子は思わず拍手をした。
     鍋などを片付け、モンブランと紅茶がテーブルに置かれた。 良雄はそれほど甘党ではないが、トワたちの心遣いが嬉しく、モンブランを口に運んだ。
     「おっ、うめー」
       と高い声を出して、大げさに戯けて見せた。
     しかし良雄はどこか元気がない。

     良雄は派手な容姿ではない、もの大人しい人物である。細長い顔、少し突き出た顎、細長い目。頭髪は薄めである。服装にはほとんど興味がなく、美津子が買って来たものや、たまに一緒に買い物に出掛けたとき、美津子が勧めたものを嫌がらず着る。

     モンブランを口に含み、紅茶で胃に流し込んだ良雄は静かに話し始めた。
     「あのー、ほんでな…」
     その雰囲気は良雄の決意を感じさせた。

     トワは髪を整えた。
     サチは左の頬を触った。良雄は静かに話し始めた。
     「明日から、俺、交通整理の仕事をやるんや」
     伏し目がちにそう言った。

     家族は呆気にとられた。みんな息を飲んだ。
     良雄は声のトーンを上げて続けた。

     「あーっ…。解雇されてもた。クビになった。言われたのは先月やった。俺は抵抗した。お前らも分かるよに、いま不況やろ。俺はクビ切りのうちの何人かや。わしの営業も…、最近はホンマよくなかった…」

     チャトラはテーブルの下で、それぞれの足もとに頭を擦り付けていた。
     夜のしじまに沈黙が聞こえる。
     良雄は続きを絞り出すように、

     「わしには家族が、お前らがいるから。わしは部長から、支店長まで掛け合った。でも、ダメやった。営業成績が落ちていたことは確かだったからなる…」
     と言った。

     「じゃあ、あなたは今日までどうしていたの?」
     美津子は聞いた。その瞳の涙は今にもこぼれそうだった。
     「仕事を探しておった。朝、いつも通りトワツを着て、いつもの時間に家を出て。家にいてもなぁ…。ハローワークちゅーところに通っていたよ、毎日。この歳でなかなか仕事がなくてな。縁あって見つけたのが、交通整理員やった。ありがたいことや」
     テーブルに置かれた紅茶はすっかり冷めている。テャトラは必死にテーブルの上に乗ろうとしていた。サチが膝の上の置き、それを止めていた。

     トワはうつむきカップを見つめている。動揺し、視点は定まっていないようだ。サチは、小さなタオルで顔を覆っている。すすり泣いている。

     「応援するわよ」
    美津子はそう言うと、食器をていねいに片付け始めた。布巾でテーブルを拭き、サチの頭をさすり、トワを後ろから抱きしめた。キッチンから、急須と茶碗を運び、4人分のお茶を淹れた。湯気を立てたお茶が急須の口から、それぞれの茶碗に注がれた。美津子が椅子に座り、落ち着きとともに、また少しの沈黙が訪れた。

     サチのスマートフォンに着信があったのだろうか、バイブレーションが振動を続けていた。
     「明日から?いきなり?大丈夫?」
     とサチが沈黙を破った。美津子はちらっと良雄を見た。トワは茶碗を口に当てている。

     「大丈夫だ、大丈夫じゃけん、俺は不死身じゃ。明日は早いけん。身支度があるから。寝るけん」
     と良雄は立ち上がって、テーブルにいる3人に背を向け風呂場に向かった。

     午後11時。トワは部屋で音楽を流した。海の向こうのロックンロール。トワは昔の、トワが生まれるずっと前のロックンロールが好きだった。流行りの歌はなぜか好きになれなかった。小さなステレオコンポにCDを挿入して、再生ボタンを押した。

     ローリング・ストーンズのサティティスファクション。

    満足って感じじゃないけど、と思いながらもトワは、自分を鼓舞した。夜のしじまに、トワは寂寥感に襲われ毛布の端を咥え、涙を流して朝を待った。いつの間にか眠りに落ちたトワの横にチャトラが寄り添った。

     チャトラが鳴らすゴロゴロという音は、トワの眠りを深くするためのものであったようだ。
     その日ほど朝が来るのを望まないことはなかった。

     しかし太陽は少しずつ、街に温度を与えてた。トワの部屋にも明かりが入ってきた。眠りに落ちたか、トワには分からなかった。このまま毛布にくるまっていたかったが、トワは毛布を剥ぎ取った。
     チャトラは丸くなってまだ眠っていたが、トワと一緒にベッドから飛び降り、トワを先導するかのように長く細い尻尾をまっすぐ立てて一階に向かった。
     トワは良雄の新しい門出を見送りたかった。チャトラの後を追って階段を降り、リビングに行くと、美津子がすでに朝食の用意をしていた。トーストを焼き、ハムエッグとコーヒー、いつも通りの朝食だった。
     サチもリビングに入ってきた。
     眠れなかったのか、瞼が重そうだ。
     「おはよう」の声が小さく覇気がない感じがしたトワはサチの頭をポンっと優しく叩いた。そうすると、サチは両手でパンパンと両方の頬を叩いた。

     しばらくして良雄がリビングにやってきた。
    ガチャとドアのノブを回す音が聞こえた。

     あっ! えっ! おっ!

     いつもと違う服装に、3人はそれぞれの声を上げた。
     なにその格好、と思わずトワは言ってしまった。

     保険会社に勤めていたとき、良雄が仕事に行くときは、必ずスーツを着て出かけた。真夏のどんなに暑い日でも、上着を持って出かけた。トワたちは、幼いころからその姿をみて、それが同級生へのある種の自慢でもあった。その朝の良雄は、ジーンズにTシャツ、そしてリュックサックを携えていた。その違和感は、悲壮感を打ち消したようだった。

     そのTシャツは特別なものだった。黒地に黄色いバナナが大きくプリントされただけのものだった。
     「そのバナナのTシャツ、そんなの持っていたの」
     と美津子が言うとすかさず、
     「これか。これはトワがプレゼントしてくれたやつだよな」
     と良雄が言う。

     「そうそう、アンディ・ウォーホルがデザインしたやつ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのアルバムジャケットになったやつや」
     とトワが言った。
     そのバナナTシャツを着た良雄は、どこか誇らしげだった。
     「そう、ヴェルヴェット…っ…、なんとかだ、なあ、トワ」

     良雄はロックには興味がない。

     淡々と朝食が進み、良雄がコーヒーカップをテーブルに置いた。トンと音がした。良雄は少しテレビに目を配った。情報番組のコメンテーターの発言に一瞬、目を閉じた。

     「そろそろ、出かける。行ってきます」
     と言い、リュックサックを背負った。

     それから自然と、良雄は出かけた。家族も自然に送り出すことができた。



    つづく。
    お読みいただいてありがとうございます。
    来週、3話を投稿する予定です。
    ぜひご覧ください!



     
     
    tatsukiと申します。趣味は音楽です。ライブに行ったり、ギターやベースを弾いたりしています。 書き溜めていた小説を少しずつ発表していきます。音楽についての描写を小説に書き入れることが好きです。 https://www.instagram.com/tatsuki.pics/

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