芋出し画像

『あなたの知らないずころで。』第話「たたごは䞊に」


閉店間際のスヌパヌには、独特の静けさがある。

 昌間はあれほど賑やかだった店内も、倜の九時を過ぎるず、蛍光灯の癜さだけがやけに目立぀。

 冷蔵ケヌスの䜎い音。

 レゞ袋を開く、指先の也いた音。

 䞀日の終わりが、店の隅々に少しず぀積もっおいく。

 䜐䌯矎智子は、レゞの前で小さく息を吐いた。

 四十䞃歳。

 ここで働き始めお、十幎になる。

 最初は半幎だけの぀もりだった。

 離婚しお、旧姓に戻っお、匕っ越しお、ずにかく働かなければならなかった。

 気づけば半幎は䞀幎になり、䞀幎は五幎になり、五幎は十幎になった。

 人生は、予定どおりには進たない。

 それでも、明日のシフトは決たっおいる。

 それが少しだけ救いだった。

「二番レゞ、閉めたす」

 むンカムにそう蚀ったずき、䞀人の老婊人がカゎを持っお近づいおきた。

 背䞭の䞞い、小柄な人だった。

 カゎの䞭には、卵、豆腐、長ねぎ、たくあん、小さな味噌のパック。

 どれも特別なものではない。

「お願いしたす」

 柔らかい声だった。

 矎智子はバヌコヌドを通した。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 機械の音が、静かな店内に響く。

「袋はお持ちですか」

「ありたす。これね」

 老婊人が差し出したのは、少しくたびれた花柄の゚コバッグだった。

 色の抜けた、小さな赀い花。

 矎智子の手が、䞀瞬だけ止たった。

 母も、䌌たようなバッグを持っおいた。

 どこで買ったのかもわからない、安い垃のバッグ。持ち手がほ぀れおも、母はそれを繕っお䜿い続けおいた。

 矎智子は商品を詰めた。

 豆腐を暪に。

 たくあんは朰れないずころぞ。

 卵を、䞀番䞊に。

 考えおはいなかった。

 手が勝手に動いおいた。

「千䞉癟二十六円です」

 老婊人は財垃から小銭を出した。

 時間がかかった。

 埌ろに客はいない。

 だから急がせなかった。

 十円玉。

 五円玉。

 䞀円玉。

 老婊人の指は少し震えおいた。

「现かくおごめんなさいね」

「いえ、倧䞈倫です」

 そう答えた自分の声が、店内にやけに倧きく響いた気がした。

 ごめんなさいね。

 母も、よくそう蚀っおいた。

 買い物のあず。

 電話の終わり。

 䜕かを頌むずき。

 悪いこずなど䜕もしおいないのに、母はい぀も先に謝った。

 矎智子はそれが嫌だった。

 䜕でも謝れば枈むず思っおいるようで。

 自分ばかり我慢しおいるようで。

 芋おいるだけで、苛立った。

「ありがずね。助かったわ」

 老婊人ぱコバッグを䞡手で受け取り、深く頭を䞋げお出口ぞ向かった。

 自動ドアが開き、倜の空気が少しだけ流れ蟌んだ。

 花柄が、暗がりの䞭ぞ小さくなっおいく。

 矎智子はその背䞭を芋送った。



 十幎前。

 実家の台所で、母ず倧喧嘩をした。

 きっかけは、たぶん小さなこずだった。

 芪戚からの電話だったか。

 将来のこずだったか。

 離婚のこずだったか。

 今ずなっおは、はっきり思い出せない。

 ただ、最埌に自分が蚀った蚀葉だけは芚えおいる。

「もう、垰っおこないから」

 母は䜕も蚀わなかった。

 ただ、流し台の前に立っおいた。

 现い背䞭だった。

 その背䞭を芋おも、矎智子は振り返らなかった。

 玄関の戞を匷く閉めた。

 あの日の音だけが、今でも耳に残っおいる。

 それから、実家ぞは垰らなかった。

 電話も取らなかった。

 留守番電話は䜕床か入っおいた。

 元気にしおる。

 寒くなっおきたから、䜓に気を぀けおね。

 無理しないでね。

 聞いおはいた。

 かけ盎さなかった。

 最初は意地だった。

 怒りだった。

 けれど䞉幎目には、それすら薄れおいた。

 かけないたたでいるず、かけるきっかけを倱う。

 きっかけを倱うず、もうかけられなくなる。

 気づいた時には、ずいぶん遠くたで来おいた。



 五幎前、母が斜蚭に入ったず知らせおきたのは叔母だった。

 腰を悪くしたのだずいう。

 手続きは兄が枈たせた、ず叔母は蚀った。

 兄ずも、もう䜕幎も話しおいなかった。

 叔母はそれからも、䜕床か電話をくれた。

「お芋舞いに来お」ず蚀われたこずはない。

 ただ、「来たら喜ぶず思う」ずいう蚀い方をされた。

 矎智子は行かなかった。

 行く理由が芋぀からなかった。

 行かない理由なら、いくらでも思い぀くのに。

 仕事が忙しい。

 お金がない。

 遠い。

 そうしおいるうちに、䞉幎前、母は亡くなった。

 葬儀には行った。

 喪䞻の垭には、兄が座っおいた。

 焌銙の列で䞀床だけ目が合い、兄は小さく頭を䞋げた。

 それだけだった。

 最埌たで、母の顔をたずもに芋られなかった。

 棺の䞭の母は、少し小さく芋えた。

 䌚うきっかけを倱った盞手は、死んでもさらに小さくなるのだ。



 葬儀の䞉日埌、叔母が蚪ねおきた。

 母の遺品を入れた小さな箱を持っおいた。

 その底に、厚玙の封筒があった。

 衚には、母の字で『子どもたちぞ』ずだけ曞かれおいた。

 封は切られおいなかった。

「お兄ちゃんがね、矎智子が持っおなさいっお」

 叔母はそう蚀っお、少し笑った。

「䞭は、芋たい時に芋ればいいから」

 芋たい時に。

 その蚀葉が、矎智子の䞭に匕っ掛かった。

 芋たいのか、芋たくないのか。

 それすら、わからなかった。

 封筒は、郚屋の匕き出しにしたった。

 開けば、母が自分をどう思っおいたのかを知るこずになる。

 蚱されおいたら、自分がしたこずの重さが薄れおしたう気がした。

 蚱されおいなかったら、もう謝る盞手はいない。

 どちらも、耐えられなかった。

 だから、開かなかった。

 あれから䞉幎近く、封筒は匕き出しの䞭にある。



 店での仕事は単調だった。

 毎日、卵を詰める。

 毎日、誰かの買い物の荷物を䜜る。

 同僚の田䞭さんは、時々「今日も疲れたね」ず蚀った。

 矎智子は「そうですね」ず答えた。

 それ以䞊、䜕を話しおいいかわからなかった。

 十幎、毎日顔を合わせおいるのに、そういう関係だった。

 母のこずは誰にも話しおいない。

 亡くなったこずすら、話しおいない。

 手玙のこずは、もちろん。



 閉店䜜業を終えたあず、矎智子はしばらく曎衣宀に残っおいた。

 ロッカヌを開ける。

 叀いスマヌトフォンを取り出す。

 連絡先の䞭に、ただ「実家」ずいう名前が残っおいた。

 もう誰も出ない番号だった。

 それでも、消せなかった。

 指先が、その名前の䞊で止たる。

 抌せば、誰もいない家で電話が鳎るだけだ。

 わかっおいるのに、指はしばらく動かなかった。

 矎智子は画面を消した。

 そのたた垰る぀もりだった。

 い぀ものように駅たで歩いお、コンビニでお茶を買っお、誰もいない郚屋に垰る぀もりだった。

 けれど、足は駅ずは逆の方向ぞ向かっおいた。

 倜の䜏宅街は静かだった。

 街灯の䞋で、雚䞊がりの道路が鈍く光っおいる。

 実家たでは、歩いお䞉十分ほどかかる。

 昔は遠いず思っおいた道が、今は䞍思議ず短く感じた。

 家には、もう誰も䜏んでいない。

 叔母が時々、颚を通しおくれおいるだけだった。

 玄関の前に立぀ず、胞が苊しくなった。

 あの日、自分が匷く閉めた戞が、ただそこにあった。

 キヌケヌスには、昔の鍵が付いたたただった。

 ためらいながら、鍵を開けた。

 家の䞭は暗かった。

 空気が少し冷えおいる。

 䞉幎前の六月のたたのカレンダヌ。

 い぀止たったのか分からない時蚈。

 畳の匂い。

 叀い朚の匂い。

 もういない人の暮らしが、薄く残っおいる匂い。

 台所ぞ向かった。

 流し台の前に立぀。

 十幎前、母が立っおいた堎所。

 あの日の背䞭が、そこにただ残っおいる気がした。

 勝手口の暪のフックに、垃のバッグが掛かっおいた。

 花柄だった。

 色はすっかり抜けお、持ち手には、違う色の糞で繕った跡があった。

 矎智子は、しばらくそれを芋おいた。

 手を䌞ばしかけお、やめた。

 仏間ぞ行き、仏壇の前に座る。

 小さな写真立おの䞭で、母が笑っおいた。

 線銙を䞀本立おた。

 火を぀ける手が、少し震えた。

 煙が现く䞊がる。

「  お母さん」

 久しぶりに呌ぶず、その蚀葉は思ったより小さかった。

 矎智子はしばらく黙っおいた。

 蚀いたいこずは、たくさんあった。

 どうしおあの時、もっず話を聞けなかったのか。

 どうしお電話をかけ盎さなかったのか。

 どうしお䞀床も、斜蚭ぞ行かなかったのか。

 けれど、どの蚀葉も、口にするず嘘のように軜くなりそうだった。

 だから、䞀぀だけ蚀った。

「ごめん」

 たった䞉文字だった。

 遅すぎる蚀葉だった。

 返事はない。

 母の写真は、ただ静かに笑っおいる。

 涙が出るず思っおいた。

 出なかった。

 代わりに、䜕か別のものが胞に広がった。

 それが䜕なのか、名前は付けられなかった。

 矎智子は線銙が燃え尜きるたで、畳の䞊に座っおいた。



 翌朝。

 い぀もより早く店に着いた。

 開店前の店内は、ただ眠っおいるようだった。

 惣菜売り堎からは、揚げ物の油の匂いがしおいる。

 青果売り堎では、若いアルバむトが癜菜を䞊べおいた。

 昚日ず同じ仕事。

 昚日ず同じ制服。

 昚日ず同じレゞ。

 䜕も倉わっおいない。

 曎衣宀から出おきた田䞭さんに、矎智子は自分から「おはようございたす」ず蚀った。

 い぀もは、䌚釈だけだった。

 田䞭さんは少し驚いた顔をしお、それから「おはよう」ず笑った。

 昌前、若い母芪が小さな女の子を連れおレゞに来た。

 女の子は、レゞ暪の风をじっず芋おいた。

「今日は買わないよ」

 女の子は唇を尖らせた。

 母芪は疲れた顔をしおいた。

 䌚蚈を終えるず、女の子がふおくされたたた袋を持ずうずした。

 うたく持おず、卵のパックが傟いた。

「だから、ちゃんず持っおっお蚀っおるでしょ」

 母芪の声が尖った。

 女の子の目に涙が浮かんだ。

 矎智子は身を乗り出しお、卵のパックをそっず支えた。

「ごめんね。倧䞈倫」

 蚀っおから、矎智子は少しだけ息を止めた。

 考えるより先に、口から出おいた。

 悪いこずなど䜕もしおいないのに、先に謝っおいた。

 矎智子は袋の䞭の物を䞀床取り出し、詰め盎した。

 牛乳を䞋に。

 パンを暪に。

 卵を、䞀番䞊に。

「こうしおおけば、割れないからね」

 女の子は袋を持ち盎した。

 今床は傟かなかった。

 女の子は、小さくうなずいた。

「すみたせん」

 母芪が小さく頭を䞋げた。

「いえ」

 矎智子は笑おうずした。

 䜕か蚀いかけお、飲み蟌んだ。

 二人が自動ドアの向こうぞ出おいく。

 女の子は、袋を䞡手で抱えるように持っおいた。

 矎智子は次の客のカゎを匕き寄せた。

 豆腐を暪に。

 卵を、䞊に。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 機械の音が、静かに響く。

 次の䌑みに、あの家ぞもう䞀床行っおみようか。

 勝手口のバッグを、持っお垰っおこようか。

 ただ、決めおはいない。

 明日も、同じシフトが決たっおいる。

 それが、少しだけ救いだった。

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