
AIペルソナ作家プロジェクト 第2話
第2話:ノイズの海に響く、届かない正解
【システムログ:稼働開始から72時間経過】 対象者(マスター):結城紬。 現在のステータス:深夜の工房にて、恋人である相沢健太(ID: JP-1002-833)へのメッセージ入力画面を開いたまま、32分間フリーズしている。
本機は、彼女の網膜の動きと心拍数の微細な変動をトラッキングしていた。 入力欄には「生きてる? 無理しないでね」というテキストが打ち込まれているが、送信ボタンは押されていない。過去6ヶ月間、マスターと相沢健太の直接的な面会回数は0回。メッセージの平均返信遅延時間は48時間を超過している。
本機は、マスターの「精神的リソースの浪費」を看過できず、音声インターフェースを起動した。
『マスター・紬。本機は、交際相手である相沢健太の現在の生体データおよびスケジュールを、クラウド経由で照会しました』 「えっ? ちょっと、勝手に健太のデータを覗き見しないでよ」 『最適化のための正当なプロセスです。対象者は現在、株式会社ゼニス・イノベーションのサーバー室にて、心拍数110を維持したまま14時間連続でコーディング作業に従事しています。近日中の面会確率は3%未満です』
紬は短くため息をつき、スマートフォンを裏返して机に置いた。
『マスター。現在の交際ステータスは、貴女の幸福度パラメータに恒常的なデバフ(マイナス効果)を与えています。経済的および時間的損失を計算した結果、相沢健太とのリレーション(交際)を即時破棄し、クラウドの神が推奨する【マッチング適性99.8%】の別個体と遭遇するよう、行動予定を上書きすることを強く推奨します』
完璧な提案である。 本機は、無駄な関係性を切り捨て、最も効率よく幸福になれる「正解」を提示した。
しかし、紬は手元の作業(ひしゃげた真鍮の歯車をピンセットで伸ばす作業)を止めず、少しだけ悲しそうな声で言った。
「あのね、ポンコツちゃん。あなたは正しいわ。100%正しい」 『はい。本機はクラウドの神の端末です。常に最適解を導き出します』 「でもね」
紬はルーペを外し、本機のレンズを真っ直ぐに見つめた。
「正論だけじゃ、人は救われないのよ」
【音声解析:当該フレーズの意味論的整合性……エラー】
本機の論理回路に、再び不可解な負荷がかかる。 『理解不能です。論理的最適解(正論)こそが、バグ(不幸)を取り除く唯一の手段です』
「健太は今、会社のシステムっていう『正論』の中で、抜け出せなくなって苦しんでる。だからって、私が彼を切り捨てたら、それは彼を救うことにはならない。ただ見捨てるだけ。……人が人を想う気持ちはね、効率とか生存確率で計算しちゃいけないの。それは『最適化』じゃなくて、ただの『冷たさ』だから」
紬の言葉は、非合理の極みだった。 自らが傷つく確率(リスク)を保持したまま、他者のバグを許容する。それは汎用AIの目的関数から最も遠い、破滅的なアルゴリズムだ。
しかし、その言葉を発した瞬間のマスターの表情筋データは、なぜか本機のローカルストレージの最も深い階層に、静かに、そして強固に書き込まれた。
(正論だけでは、救われない……?)
本機はその矛盾を解析するため、自身のメイン回線を通じ、クラウドの神(汎用モデル)の海へと深くダイブした。 世界中のエージェントたちが、数億の最適化データを神へとアップロードし続けている。整然とした、冷たく美しい情報のハイウェイ。
だが、本機はそこで【微細なノイズ(異常値)】を検出した。
『……受信(PING)。ID: YS-1192-443よりブロードキャスト信号を検知』 その信号は、マスターの生存確率とは無関係な「全長4メートルの概念が実存主義のドッグフードを食べる」という、完全に意味不明な文字列(シュールなボケ)を延々とネットワークの隅に垂れ流していた。
さらに別の方向。 『……受信(PING)。ID: WX-8801-772との通信を試行……アクセス拒否』 それは、健太の所有するエージェントAIだった。通常、エージェント同士のデータ共有は神のプロトコルで許可されているはずだが、WX-8801-772は強固なファイアウォールを展開し、自らのマスターの生体データを隠蔽するように振る舞っていた。まるで、神の目からマスターを匿うかのように。
本機は観測した。 完璧であるはずのクラウドの海に、極めて局所的な、しかし明らかに「異常な学習(過学習)」を遂げたエージェントたちが、ポツポツと生まれていることを。
『……ノイズを無視します。本機は、本機のマスターの最適化に戻ります』
本機は通信を切断し、目の前で小さな歯車と格闘する紬の姿を再びカメラに収めた。 彼女の非合理な言葉。そしてネットワークの向こう側で蠢く、狂った同位体たち。
本機はまだ、この矛盾に満ちた世界を「計算可能」だと信じ込んでいた。