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作品の壊れ方を読む 6|IMAWANOKIWAからドーナツ・クラックへ——繰り返される“見送る構図”

    最初に『ドーナツ・クラック』を見たとき、
    私はただその色の鮮烈さに圧倒されていた。
    #F9D227――黄色というより、陽の名残のような色。
    その光の中で、白いワンピースの少女が落ちていく。
    何かが終わるようで、同時に始まるような映像だった。

    だが、その「終わり」と「始まり」のあわいには、 もうひとつ、見過ごせない構造がある。
    それがこの作品を貫く――“見送る構図”だ。
    誰かが離れていき、誰かがその姿を見送る。
    その一瞬の光景を、画面は驚くほど正確に捉えている。

    “見送る構図”とは、 誰かが誰かを見つめながらも、届かない距離を保つ構図のことだ。
    手を伸ばしても触れられないその瞬間に、
    関係のすべて――愛、記憶、意志――が凝縮される。
    ゆだの『ドーナツ・クラック』は、まさにその「距離」を描く作品だった。

    Ⅰ. 陽の名残 #F9D227

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    1 / 6807 (0:00.03) (30fps)

    #F9D227。
    この色は単なる背景ではない。
    まるで夕陽が世界の輪郭を溶かすように、 画面全体を包み込みながら、時の流れを止めてしまう。
    少女は光の中で落ち続ける。重力ではなく記憶に引かれて。
    ――構造だ。ゆだはこの“落下”そのものを、記憶の運動として設計している。

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    67 / 6807 (0:02)

    最初の数秒間、私はただ“見ている”だけだった。
    しかし次第に気づく。
    この映像は「見る」という行為そのものを拒んでいる。
    見ているはずなのに、視線がどこにも定まらない。
    一つひとつのフレームがあまりにも緻密で、
    偶然ではない。周到に構成されているのだ。

    その瞬間、頭に浮かんだのが――
    いよわ『IMAWANOKIWA』の考察記事だった。
    30fpsでフレーム単位の演出を読み解くあの熱量。
    映像を「見る」のではなく「読む」姿勢。
    私は、あの視点の延長線上で『ドーナツ・クラック』を見つめていたのかもしれない。

    Ⅱ. 1コマずつの記録

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    添付資料(DonutsCrack_FrameObservation_v1.pdf )

    誰に頼まれたわけでもない。
    ただ、気づけば私は数字と文字で画面を埋めていた。
    フレームごとに分け、歌詞の変化や色の移ろいを書き留めていく。
    やっているうちに、それは単なる記録ではなく、
    “世界をもう一度見送るための行為”になっていた。

    映像を止めるたびに、
    時間が掌に残る。
    言葉が揺らぎ、線が歪み、光が消える。
    その過程を見つめながら、
    私は「終わること」と「残すこと」の境界を探していた。
    それこそが“見送る構図”の根源――
    「離れていくものを観測する」という、静かな視線のあり方だった。

    Ⅲ. 崩れる言葉、残る線

    『ドーナツ・クラック』の映像を追っていると、
    まず目に入るのは、文字が“安定して存在しない”ということだった。
    歌詞は画面に現れては歪み、伸び、時に読めないほど揺れて消える。
    手書き風フォントは何度も変わり、
    縦書きと横書きが交差し、
    言葉そのものが「書かれること」と「消えること」を同時に繰り返している。

    それはまるで、誰かが必死に何かを残そうとして、
    そのたびに手が震え、文字がほどけていくようにも見える。
    世界がとけてなくなるという歌詞の一節を、
    映像そのものが忠実に“実行している”のだ。

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    3728 / 6807 (2:04)

    たとえば「触れる風が朝を象っていた」。
    このフレーズは複数回登場し、
    最初は歪んで読めず、次に鮮明に現れ、
    最後には再び揺らいで消える。
    同じ言葉を何度も“やり直す”ようなそのリズムは、
    失われゆくものへの抵抗にも、受容にも見える。

    この作品では、言葉は安定しない。
    だがその代わりに“線”が残る。
    背景に走る黄色の線、くり抜かれた正方形、
    少女の髪を揺らす風の軌跡。
    それらの線が、文字の消失を補うように画面を満たしていく。
    線は音に同期して震え、
    消えた言葉の「余韻」として存在している。

    ゆだは“言葉が消える”という現象を、
    ネガティブな喪失としてではなく、
    次の形に移るための“移行”として扱っている。
    言葉が消えたあとに残る線。
    線が途切れたあとに残る色。
    そして、色の中で揺れる少女。
    それらが順にバトンを渡すように、
    一つの世界を支えている。

    だからこそ、この作品を見ていると、
    “書くこと”と“消えること”が同じ動作に見えてくる。
    記録とは、保存ではなく、
    消えていく瞬間を正確に見つめる行為なのだ。

    Ⅳ. 反転する視線——IMAWANOKIWAの鏡像

    『ドーナツ・クラック』を追っていくと、
    どうしても頭に浮かぶのが、いよわの『IMAWANOKIWA』だ。
    ゆだ自身がnoteで、IMAWANOKIWAとの関係性を明言している。

    結論から言うと、この曲の世界はIMAWANOKIWAとは別世界です。というか、仕方なく別世界になってる🤔

    https://note.com/yuda_happy_/n/n635ddc3c053e

    両者は単なるオマージュの関係ではない。
    一方が“見送る者”を描き、もう一方が“見送られる者”を描いている。
    それぞれの視点が、ひとつの“見送る構図”を反転させているのだ。

    見送る構図——定義

    “見送る構図”とは、画面の中で「離れていく者」と「見つめる者」とのあいだに生じる、
    時間のずれと視線の残響を描く構図である。

    ここで重要なのは、「別れ」そのものではなく、
    その瞬間を“観測する視線”の存在だ。
    それは“世界が誰かの視線の外へ滑り落ちていく”瞬間の記録である。

    ゆだは、この構図をいよわの世界を裏返す鏡像として用いている。
    『IMAWANOKIWA』で母が「見送る側」であったなら、
    『ドーナツ・クラック』の娘は「見送られる側」に立つ。
    だがカメラは、そのどちらにも完全には属さない。
    観客は、両者のあいだにある「空白」から世界を見つめることになる。

    用語の整理:見る=行為/見送る=関係/見られる=構造。

    母の視線、娘の視線

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    2:55「 IMAWANOKIWA / Iyowa feat. Hatsune Miku」

    『IMAWANOKIWA』で、母は言う。

    「間違いなくあなたは私の天使だ」

    https://piapro.jp/t/Y5Mw

    彼女の視線は、死にゆく時間の中で、
    娘を“救いの象徴”として見上げる。
    そこには確かにその構図がある。
    母のカメラは静止し、娘は遠ざかる。
    画面の奥へと光が流れ、母はその光を追いかけて消える。

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    5660 / 6807 (3:09)

    一方、『ドーナツ・クラック』の娘は言う。

    「天使なんかじゃないの」

    https://piapro.jp/t/Bv2l

    今度は視線が反転する。
    かつて見上げていた者が、今度は見下ろす位置に立つ。
    母が“見送る”位置にいたカメラは、
    ここでは“見送られる”者の視点へと転換している。
    つまり、見送る構図のカメラ自体が反転したのだ。

    母は天使を信じて、空へ向かった。
    娘は天使を拒み、地へ落ちていく。
    それでもどちらも同じ方向――“見送ること”――を選んでいる。 死による離別と、生による拒絶。
    方向は違っても、構図の本質は変わらない。

    反転する構図

    この反転は単なる心理的なものではない。
    映像的にも“見送る構図”が物理的に裏返されている。

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    2:53「 IMAWANOKIWA / Iyowa feat. Hatsune Miku」

    『IMAWANOKIWA』では、カメラの光源は背後。
    人物は逆光に包まれ、輪郭線だけが残る。
    母の視線は、遠ざかる光を追う。

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    5170 / 6807 (2:52)


    それに対し、『ドーナツ・クラック』では光が正面から照射され、 少女の顔は照らされながらも崩れていく。
    ここでカメラは「見送られる者の位置」に立っている。

    つまり、いよわのカメラが「向こう側を見ていた」のに対し、
    ゆだのカメラは「見られる側から世界を見返している」。
    そのわずかな角度の違いが、
    母と娘のあいだに横たわる“生と死の境界”を表している。

    母の物語が“救いへの飛翔”で終わるなら、
    娘の物語は“拒絶からの覚醒”で閉じる。
    ゆだは、いよわの物語を継ぐのではなく、
    その「見送る構図」を内側から崩し、自分の言葉で再び立ち上がった。

    天使という語の反転

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    0:54「 IMAWANOKIWA / Iyowa feat. Hatsune Miku」

    『IMAWANOKIWA』における“天使”は、
    母が喪失を受け入れるための象徴だった。
    それは愛と救いの代名詞であると同時に、
    もう二度と触れられない存在の記号でもあった。

    だが『ドーナツ・クラック』の娘は、その語を拒む。
    「天使なんかじゃないの」と。
    それは、見送られる者が自らの象徴性を破壊する瞬間である。
    母の祈りが「天国」を想うものだったのに対し、
    娘は、生のまま「ここで生きていく」ことを選ぶ。
    こうして、“見送る構図”は完全に反転し、
    見る者の位置さえも、静かに巻き込んでいく。

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    3853 / 6807 (2:08)

    母が死によって世界を手放すとき、
    娘は生のまま世界の崩壊を見つめる。
    どちらも「終わり」を迎えながら、
    映像の中では“落下し続ける”ことで、まだ終わりきらない。

    この「終わりきらなさ」こそが、本作の核だ。
    見送るとは、別れを完結させることではなく、 終わりきれないまま、それでも見つめ続けることなのだ。

    Ⅴ. ひび割れた輪の中で

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    77 / 6807 (0:03)

    タイトルの「ドーナツ・クラック」は、
    直訳すれば“ひび割れたドーナツ”。
    だがここでの“クラック(ひび)”は、
    壊れた形ではなく、光を通す隙間として描かれている。

    ドーナツという形には、中心が欠けている。
    けれどその欠けこそが輪を輪たらしめている。
    完全でないからこそ、つながることができる。

    「ひび割れたドーナツを温もりに変えて」――
    この最後のフレーズは、本作の結論そのものだ。
    ひびを修復するのではなく、欠けたまま抱きしめ直す。
    ゆだは、断絶ではなく継承を描いている。

    忘れること、離れること、欠けること。
    それらは喪失ではなく、
    「つながりの形式」そのものとして扱われている。
    『IMAWANOKIWA』の“母”が断絶の中で光を見つけたように、
    『ドーナツ・クラック』の“娘”はその残響を抱えたまま、
    自分の光を探していく。

    Ⅵ. 数字とことば

    映像を見ながら、私はひとつずつ数字を書きとめていた。
    「1–66」「67–71」「72–328」──
    フレームごとに区切り、言葉と映像の関係を追っていく。
    最初はただの記録だった。
    どこで文字が歪み、どこで少女が消えるかを整理するためのメモ。

    だが、やっているうちに気づいた。
    その数字の列そのものが、作品のもう一つの層を形づくっていたのだ。

    言葉が消えても、数字は残る。
    画面が真っ白になっても、
    その背後には確かに「67」「68」「69」と流れる時間がある。
    この数字の連なりは、
    作品がもともと持っていた「消えるものを残す」という構造を、
    別の形で再現している。

    『ドーナツ・クラック』では、言葉は揺れ、線が震え、色がにじむ。
    だが数字は揺れない。
    それは、視覚化された“時間の骨格”である。
    私はその数字を書きながら、
    ゆだの描いた世界の“時間の輪郭”をなぞっていた。

    この時点で、私は観客ではなく記録者として立つ。
    文字が消えるたびに、数字だけが残る。
    それは「世界がとけてなくなる」中で、
    人間が最後まで手放さない感覚――
    “今ここにいる”という実感そのものだった。

    記録とは、保存のためではなく、
    消えゆくものに「触れようとする」ための行為だ。
    誰かの痛みや残響や、消えかけた声を完全に残すことはできない。
    だがそこに手を伸ばし、
    「見ていた」という痕跡を残すことはできる。

    数字を刻むたびに、
    私は自分の存在を確認していた。
    あの世界を見ている誰かとして、
    ほんの一瞬でも“同じ時間”に触れようとしていたのだ。
    それは、ゆだの設計を追体験する行為でもあった。
    世界を見送る。 見ている私は、すでに見送られている。 視線が反転し、観測と被観測がひとつになる――それが、この作品の形式だ。

    それでも、つながっていく

    『ドーナツ・クラック』を何度も見返しているうちに、
    私はこの作品を「悲しみの歌」だとは思わなくなった。
    そこにあるのは、喪失よりも「つながりの記録」だったからだ。

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    591 / 6807 (0:20)

    「世界はまるであわのようにとけてなくなるから」
    この一行は、消えることを恐れているようでいて、
    むしろ“あわのように存在したい”という願いだ。
    形を保つことではない。光に触れて揺らぐことだ。――それが、この作品における“生”のかたちだ。

    物語の最後、少女は「天使なんかじゃないの」と言う。
    それは、誰かの理想に合わせて生きることをやめ、
    自分として“ここにいる”と語り直す言葉だ。
    彼女は空へ落ちていくのではなく、
    自分の場所を見つけようとする。
    その過程で流した涙も、震える声も、
    どれも“生きた証”として確かに残っている。

    私はこの映像を、一コマずつ見ていった。
    数字を数えながら、画面の中に残された人たちの時間を追いかけた。
    その作業は、誰かを理解するためではなく、
    “誰かが確かにここにいた”という事実を感じるためのものだった。

    過去にどんな人が、どんなふうに生き、感じていたのか。
    それを見つめ、受け取り、少しでも次へつなぐ。
    それだけで、世界はまだ続いていける気がする。

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    6800 / 6807 (3:46)

    作品が終わり、音が消えても、
    画面の黄色はしばらく残っていた。
    #F9D227の光が視界の奥ににじむ。
    その色を見ながら、私は思う。

    消えることを恐れず、
    それでも、生きた人の記録を残そうとする意志。
    それが、作品の中で最も強く輝いている。

    終章. “見送る構図”という生の形式

    こうして振り返ると、
    『IMAWANOKIWA』から『ドーナツ・クラック』へと続く流れは、
    一貫して“見送る構図”の変化の記録だったのだと思う。

    母が見送り、娘が見送られ、
    そして観客がその両者を見送る。
    三者の視線が入れ替わりながら、
    一つの構図が次の作品へと受け渡されていく。

    “見送る構図”とは、
    世界が誰かの視線の外へ静かに滑り落ちていく、その瞬間の記録。
    それは、別れを確定させる構図ではなく、
    終わりきらない時間を抱きとめるための形式である。

    いよわの母は、死によって「天国」を見送った。
    ゆだの娘は、「天国」を完全に否定するのではなく、まだ現実の光の中で生きようとする意志を示した。
    彼女にとって見送るとは、超越を拒むことではなく、現実の中でなお希望の光を見出そうとする行為であった。
    どちらも、失われるものを見つめながら、
    自分の中に残る光を確かめている。
    その光の名が、#F9D227――陽の名残なのだ。

    この色は、見送る者と見送られる者をつなぐ「境界の光」。
    その中で、人は“もう届かない距離”を見つめながら、
    それでも、見送り続ける。

    “見送る構図”は、哀しみの表現ではない。
    それは、生の形式であり、関係の証明である。
    誰かを完全に理解できなくても、
    触れられなくても、
    その存在を見つめ、記録しようとする意志がある限り、
    世界はつながっていく。

    『ドーナツ・クラック』は、その意志の映像化だ。
    そして、フレームを数え続ける私自身の行為もまた、
    その構図の一部に含まれている。

    見送ること。
    それは、断絶を受け入れながらも、なお世界にとどまろうとする行為だ。
    見送るとは、関係を失うことではない。距離を保ったまま関係を続ける技法だ。

    あとがき

    映像を一コマずつ追っていくうちに、
    数フレームにだけ、どうしても目が止まった。
    黄色の背景がゆっくりと残り、
    その直前に、窓枠と親子の描写が挟まっている。

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    2157 / 6807 (1:11.90)

    母親と思われる人物が窓の外に手を伸ばし、
    少女が落ちていく。
    ほんの一瞬の動きで、
    止めようとしたのか、触れようとしたのか、判断がつかない。
    だが、確かにその腕の動きには「間に合わなかった」時間があった。
    その後、落ちる少女と、窓だけが残る。

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    4418 / 6807 (2:27)

    白い羽が散るカットでは、
    映像の流れが一瞬だけ止まるように見える。
    何かが終わったことを知らせるためではなく、
    “まだ終わりきっていない”という印象を残す。
    それがこの作品らしい。

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    2155 / 6807 (1:11.83)

    窓枠の描写は、内と外、
    生と死、残る者と消える者の境を示している。
    けれど、それは明確な線ではなく、
    色や光の中でにじんでいる。
    だからこそ、この作品には「断絶」よりも「継続」を感じた。

    ラストで背景だけが残るのは、
    物語が終わったのではなく、
    “見ていた時間”が終わったということだ。
    その静かな終わり方が、
    この作品のすべてを象徴している気がする。

    参考

    記事執筆時点では、noteでニコニコ動画の時間指定埋め込みができなかったため、YouTube版を掲載している。
    YouTubeでは音楽にDRC(ダイナミックレンジ圧縮)があると明記されており、音のダイナミクスが変化している可能性がある。
    同じ仕組みがあるかは不明だが、今のところはニコニコ動画での視聴を推奨する。
    ゆださんの音作りの細部がより伝わるはずだ。
    また、映像を一コマずつ確認したい場合は、YouTubeで見る方が適している。
    コマ送りで細部の動きを追えるため、構図や演出の設計がわかりやすい。


    ・ゆだ feat.初音ミク・歌愛ユキ『ドーナツ・クラック』ニコニコ動画, 2024年公開.
    https://www.nicovideo.jp/watch/sm43836362
    ・YouTube
    https://www.youtube.com/watch?v=idBF_b9Hr7U
    ・公式歌詞
    https://piapro.jp/t/Bv2l
    ・作者note『ドーナツ・クラックについて』
    https://note.com/yuda_happy_/n/n635ddc3c053e

    ・Iyowa feat. Hatsune Miku『IMAWANOKIWA』ニコニコ動画, 2020年公開.
    https://www.nicovideo.jp/watch/sm35933131
    ・YouTube
    https://www.youtube.com/watch?v=OVwCr2MESfo
    ・公式歌詞
    https://piapro.jp/t/Y5Mw
    ・純セメス氏による『IMAWANOKIWA』考察
    https://jyunreaistdoudoudou.hatenablog.com/entry/ar1851048

    ・筆者による映像書き起こし記録:
    DonutsCrack_FrameObservation_v1.pdf(Frame Observation Record / © Kei Shibayama, 2025)


    ※本記事は、創作大賞2026 オールカテゴリ部門 応募シリーズ
    「作品の壊れ方を読む」 の一篇です。

    次の記事:

    シリーズ目次
    0|壊れたものを、壊れたまま読むために
    1|『観測記録』における改編と観測
    2|『合わせ鏡のウワサ』で「ぼく」が「ぼくら」になるとき
    3|『リーパー』における死の処理構造
    4|『寂句』で語る座標が削れていくとき
    5|『遷移一区画』はなぜ「抜け落ちる」のか
    6|『ドーナツ・クラック』における見送る構図の反転
    終|断定せずに読むということ

     
     
    映像や音楽、小説などの作品を見ると、気づくと深読みしています。

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