
作品の壊れ方を読む 6|IMAWANOKIWAからドーナツ・クラックへ——繰り返される“見送る構図”
最初に『ドーナツ・クラック』を見たとき、
私はただその色の鮮烈さに圧倒されていた。
#F9D227――黄色というより、陽の名残のような色。
その光の中で、白いワンピースの少女が落ちていく。
何かが終わるようで、同時に始まるような映像だった。
だが、その「終わり」と「始まり」のあわいには、 もうひとつ、見過ごせない構造がある。
それがこの作品を貫く――“見送る構図”だ。
誰かが離れていき、誰かがその姿を見送る。
その一瞬の光景を、画面は驚くほど正確に捉えている。
“見送る構図”とは、 誰かが誰かを見つめながらも、届かない距離を保つ構図のことだ。
手を伸ばしても触れられないその瞬間に、
関係のすべて――愛、記憶、意志――が凝縮される。
ゆだの『ドーナツ・クラック』は、まさにその「距離」を描く作品だった。
Ⅰ. 陽の名残 #F9D227

#F9D227。
この色は単なる背景ではない。
まるで夕陽が世界の輪郭を溶かすように、 画面全体を包み込みながら、時の流れを止めてしまう。
少女は光の中で落ち続ける。重力ではなく記憶に引かれて。
――構造だ。ゆだはこの“落下”そのものを、記憶の運動として設計している。

最初の数秒間、私はただ“見ている”だけだった。
しかし次第に気づく。
この映像は「見る」という行為そのものを拒んでいる。
見ているはずなのに、視線がどこにも定まらない。
一つひとつのフレームがあまりにも緻密で、
偶然ではない。周到に構成されているのだ。
その瞬間、頭に浮かんだのが――
いよわ『IMAWANOKIWA』の考察記事だった。
30fpsでフレーム単位の演出を読み解くあの熱量。
映像を「見る」のではなく「読む」姿勢。
私は、あの視点の延長線上で『ドーナツ・クラック』を見つめていたのかもしれない。
Ⅱ. 1コマずつの記録

誰に頼まれたわけでもない。
ただ、気づけば私は数字と文字で画面を埋めていた。
フレームごとに分け、歌詞の変化や色の移ろいを書き留めていく。
やっているうちに、それは単なる記録ではなく、
“世界をもう一度見送るための行為”になっていた。
映像を止めるたびに、
時間が掌に残る。
言葉が揺らぎ、線が歪み、光が消える。
その過程を見つめながら、
私は「終わること」と「残すこと」の境界を探していた。
それこそが“見送る構図”の根源――
「離れていくものを観測する」という、静かな視線のあり方だった。
Ⅲ. 崩れる言葉、残る線
『ドーナツ・クラック』の映像を追っていると、
まず目に入るのは、文字が“安定して存在しない”ということだった。
歌詞は画面に現れては歪み、伸び、時に読めないほど揺れて消える。
手書き風フォントは何度も変わり、
縦書きと横書きが交差し、
言葉そのものが「書かれること」と「消えること」を同時に繰り返している。
それはまるで、誰かが必死に何かを残そうとして、
そのたびに手が震え、文字がほどけていくようにも見える。
世界がとけてなくなるという歌詞の一節を、
映像そのものが忠実に“実行している”のだ。

たとえば「触れる風が朝を象っていた」。
このフレーズは複数回登場し、
最初は歪んで読めず、次に鮮明に現れ、
最後には再び揺らいで消える。
同じ言葉を何度も“やり直す”ようなそのリズムは、
失われゆくものへの抵抗にも、受容にも見える。
この作品では、言葉は安定しない。
だがその代わりに“線”が残る。
背景に走る黄色の線、くり抜かれた正方形、
少女の髪を揺らす風の軌跡。
それらの線が、文字の消失を補うように画面を満たしていく。
線は音に同期して震え、
消えた言葉の「余韻」として存在している。
ゆだは“言葉が消える”という現象を、
ネガティブな喪失としてではなく、
次の形に移るための“移行”として扱っている。
言葉が消えたあとに残る線。
線が途切れたあとに残る色。
そして、色の中で揺れる少女。
それらが順にバトンを渡すように、
一つの世界を支えている。
だからこそ、この作品を見ていると、
“書くこと”と“消えること”が同じ動作に見えてくる。
記録とは、保存ではなく、
消えていく瞬間を正確に見つめる行為なのだ。
Ⅳ. 反転する視線——IMAWANOKIWAの鏡像
『ドーナツ・クラック』を追っていくと、
どうしても頭に浮かぶのが、いよわの『IMAWANOKIWA』だ。
ゆだ自身がnoteで、IMAWANOKIWAとの関係性を明言している。
結論から言うと、この曲の世界はIMAWANOKIWAとは別世界です。というか、仕方なく別世界になってる🤔
両者は単なるオマージュの関係ではない。
一方が“見送る者”を描き、もう一方が“見送られる者”を描いている。
それぞれの視点が、ひとつの“見送る構図”を反転させているのだ。
見送る構図——定義
“見送る構図”とは、画面の中で「離れていく者」と「見つめる者」とのあいだに生じる、
時間のずれと視線の残響を描く構図である。
ここで重要なのは、「別れ」そのものではなく、
その瞬間を“観測する視線”の存在だ。
それは“世界が誰かの視線の外へ滑り落ちていく”瞬間の記録である。
ゆだは、この構図をいよわの世界を裏返す鏡像として用いている。
『IMAWANOKIWA』で母が「見送る側」であったなら、
『ドーナツ・クラック』の娘は「見送られる側」に立つ。
だがカメラは、そのどちらにも完全には属さない。
観客は、両者のあいだにある「空白」から世界を見つめることになる。
用語の整理:見る=行為/見送る=関係/見られる=構造。
母の視線、娘の視線

『IMAWANOKIWA』で、母は言う。
「間違いなくあなたは私の天使だ」
彼女の視線は、死にゆく時間の中で、
娘を“救いの象徴”として見上げる。
そこには確かにその構図がある。
母のカメラは静止し、娘は遠ざかる。
画面の奥へと光が流れ、母はその光を追いかけて消える。

一方、『ドーナツ・クラック』の娘は言う。
「天使なんかじゃないの」
今度は視線が反転する。
かつて見上げていた者が、今度は見下ろす位置に立つ。
母が“見送る”位置にいたカメラは、
ここでは“見送られる”者の視点へと転換している。
つまり、見送る構図のカメラ自体が反転したのだ。
母は天使を信じて、空へ向かった。
娘は天使を拒み、地へ落ちていく。
それでもどちらも同じ方向――“見送ること”――を選んでいる。 死による離別と、生による拒絶。
方向は違っても、構図の本質は変わらない。
反転する構図
この反転は単なる心理的なものではない。
映像的にも“見送る構図”が物理的に裏返されている。

『IMAWANOKIWA』では、カメラの光源は背後。
人物は逆光に包まれ、輪郭線だけが残る。
母の視線は、遠ざかる光を追う。

それに対し、『ドーナツ・クラック』では光が正面から照射され、 少女の顔は照らされながらも崩れていく。
ここでカメラは「見送られる者の位置」に立っている。
つまり、いよわのカメラが「向こう側を見ていた」のに対し、
ゆだのカメラは「見られる側から世界を見返している」。
そのわずかな角度の違いが、
母と娘のあいだに横たわる“生と死の境界”を表している。
母の物語が“救いへの飛翔”で終わるなら、
娘の物語は“拒絶からの覚醒”で閉じる。
ゆだは、いよわの物語を継ぐのではなく、
その「見送る構図」を内側から崩し、自分の言葉で再び立ち上がった。
天使という語の反転

『IMAWANOKIWA』における“天使”は、
母が喪失を受け入れるための象徴だった。
それは愛と救いの代名詞であると同時に、
もう二度と触れられない存在の記号でもあった。
だが『ドーナツ・クラック』の娘は、その語を拒む。
「天使なんかじゃないの」と。
それは、見送られる者が自らの象徴性を破壊する瞬間である。
母の祈りが「天国」を想うものだったのに対し、
娘は、生のまま「ここで生きていく」ことを選ぶ。
こうして、“見送る構図”は完全に反転し、
見る者の位置さえも、静かに巻き込んでいく。

母が死によって世界を手放すとき、
娘は生のまま世界の崩壊を見つめる。
どちらも「終わり」を迎えながら、
映像の中では“落下し続ける”ことで、まだ終わりきらない。
この「終わりきらなさ」こそが、本作の核だ。
見送るとは、別れを完結させることではなく、 終わりきれないまま、それでも見つめ続けることなのだ。
Ⅴ. ひび割れた輪の中で

タイトルの「ドーナツ・クラック」は、
直訳すれば“ひび割れたドーナツ”。
だがここでの“クラック(ひび)”は、
壊れた形ではなく、光を通す隙間として描かれている。
ドーナツという形には、中心が欠けている。
けれどその欠けこそが輪を輪たらしめている。
完全でないからこそ、つながることができる。
「ひび割れたドーナツを温もりに変えて」――
この最後のフレーズは、本作の結論そのものだ。
ひびを修復するのではなく、欠けたまま抱きしめ直す。
ゆだは、断絶ではなく継承を描いている。
忘れること、離れること、欠けること。
それらは喪失ではなく、
「つながりの形式」そのものとして扱われている。
『IMAWANOKIWA』の“母”が断絶の中で光を見つけたように、
『ドーナツ・クラック』の“娘”はその残響を抱えたまま、
自分の光を探していく。
Ⅵ. 数字とことば
映像を見ながら、私はひとつずつ数字を書きとめていた。
「1–66」「67–71」「72–328」──
フレームごとに区切り、言葉と映像の関係を追っていく。
最初はただの記録だった。
どこで文字が歪み、どこで少女が消えるかを整理するためのメモ。
だが、やっているうちに気づいた。
その数字の列そのものが、作品のもう一つの層を形づくっていたのだ。
言葉が消えても、数字は残る。
画面が真っ白になっても、
その背後には確かに「67」「68」「69」と流れる時間がある。
この数字の連なりは、
作品がもともと持っていた「消えるものを残す」という構造を、
別の形で再現している。
『ドーナツ・クラック』では、言葉は揺れ、線が震え、色がにじむ。
だが数字は揺れない。
それは、視覚化された“時間の骨格”である。
私はその数字を書きながら、
ゆだの描いた世界の“時間の輪郭”をなぞっていた。
この時点で、私は観客ではなく記録者として立つ。
文字が消えるたびに、数字だけが残る。
それは「世界がとけてなくなる」中で、
人間が最後まで手放さない感覚――
“今ここにいる”という実感そのものだった。
記録とは、保存のためではなく、
消えゆくものに「触れようとする」ための行為だ。
誰かの痛みや残響や、消えかけた声を完全に残すことはできない。
だがそこに手を伸ばし、
「見ていた」という痕跡を残すことはできる。
数字を刻むたびに、
私は自分の存在を確認していた。
あの世界を見ている誰かとして、
ほんの一瞬でも“同じ時間”に触れようとしていたのだ。
それは、ゆだの設計を追体験する行為でもあった。
世界を見送る。 見ている私は、すでに見送られている。 視線が反転し、観測と被観測がひとつになる――それが、この作品の形式だ。
それでも、つながっていく
『ドーナツ・クラック』を何度も見返しているうちに、
私はこの作品を「悲しみの歌」だとは思わなくなった。
そこにあるのは、喪失よりも「つながりの記録」だったからだ。

「世界はまるであわのようにとけてなくなるから」
この一行は、消えることを恐れているようでいて、
むしろ“あわのように存在したい”という願いだ。
形を保つことではない。光に触れて揺らぐことだ。――それが、この作品における“生”のかたちだ。
物語の最後、少女は「天使なんかじゃないの」と言う。
それは、誰かの理想に合わせて生きることをやめ、
自分として“ここにいる”と語り直す言葉だ。
彼女は空へ落ちていくのではなく、
自分の場所を見つけようとする。
その過程で流した涙も、震える声も、
どれも“生きた証”として確かに残っている。
私はこの映像を、一コマずつ見ていった。
数字を数えながら、画面の中に残された人たちの時間を追いかけた。
その作業は、誰かを理解するためではなく、
“誰かが確かにここにいた”という事実を感じるためのものだった。
過去にどんな人が、どんなふうに生き、感じていたのか。
それを見つめ、受け取り、少しでも次へつなぐ。
それだけで、世界はまだ続いていける気がする。

作品が終わり、音が消えても、
画面の黄色はしばらく残っていた。
#F9D227の光が視界の奥ににじむ。
その色を見ながら、私は思う。
消えることを恐れず、
それでも、生きた人の記録を残そうとする意志。
それが、作品の中で最も強く輝いている。
終章. “見送る構図”という生の形式
こうして振り返ると、
『IMAWANOKIWA』から『ドーナツ・クラック』へと続く流れは、
一貫して“見送る構図”の変化の記録だったのだと思う。
母が見送り、娘が見送られ、
そして観客がその両者を見送る。
三者の視線が入れ替わりながら、
一つの構図が次の作品へと受け渡されていく。
“見送る構図”とは、
世界が誰かの視線の外へ静かに滑り落ちていく、その瞬間の記録。
それは、別れを確定させる構図ではなく、
終わりきらない時間を抱きとめるための形式である。
いよわの母は、死によって「天国」を見送った。
ゆだの娘は、「天国」を完全に否定するのではなく、まだ現実の光の中で生きようとする意志を示した。
彼女にとって見送るとは、超越を拒むことではなく、現実の中でなお希望の光を見出そうとする行為であった。
どちらも、失われるものを見つめながら、
自分の中に残る光を確かめている。
その光の名が、#F9D227――陽の名残なのだ。
この色は、見送る者と見送られる者をつなぐ「境界の光」。
その中で、人は“もう届かない距離”を見つめながら、
それでも、見送り続ける。
“見送る構図”は、哀しみの表現ではない。
それは、生の形式であり、関係の証明である。
誰かを完全に理解できなくても、
触れられなくても、
その存在を見つめ、記録しようとする意志がある限り、
世界はつながっていく。
『ドーナツ・クラック』は、その意志の映像化だ。
そして、フレームを数え続ける私自身の行為もまた、
その構図の一部に含まれている。
見送ること。
それは、断絶を受け入れながらも、なお世界にとどまろうとする行為だ。
見送るとは、関係を失うことではない。距離を保ったまま関係を続ける技法だ。
あとがき
映像を一コマずつ追っていくうちに、
数フレームにだけ、どうしても目が止まった。
黄色の背景がゆっくりと残り、
その直前に、窓枠と親子の描写が挟まっている。

母親と思われる人物が窓の外に手を伸ばし、
少女が落ちていく。
ほんの一瞬の動きで、
止めようとしたのか、触れようとしたのか、判断がつかない。
だが、確かにその腕の動きには「間に合わなかった」時間があった。
その後、落ちる少女と、窓だけが残る。

白い羽が散るカットでは、
映像の流れが一瞬だけ止まるように見える。
何かが終わったことを知らせるためではなく、
“まだ終わりきっていない”という印象を残す。
それがこの作品らしい。

窓枠の描写は、内と外、
生と死、残る者と消える者の境を示している。
けれど、それは明確な線ではなく、
色や光の中でにじんでいる。
だからこそ、この作品には「断絶」よりも「継続」を感じた。
ラストで背景だけが残るのは、
物語が終わったのではなく、
“見ていた時間”が終わったということだ。
その静かな終わり方が、
この作品のすべてを象徴している気がする。
参考
記事執筆時点では、noteでニコニコ動画の時間指定埋め込みができなかったため、YouTube版を掲載している。
YouTubeでは音楽にDRC(ダイナミックレンジ圧縮)があると明記されており、音のダイナミクスが変化している可能性がある。
同じ仕組みがあるかは不明だが、今のところはニコニコ動画での視聴を推奨する。
ゆださんの音作りの細部がより伝わるはずだ。
また、映像を一コマずつ確認したい場合は、YouTubeで見る方が適している。
コマ送りで細部の動きを追えるため、構図や演出の設計がわかりやすい。
・ゆだ feat.初音ミク・歌愛ユキ『ドーナツ・クラック』ニコニコ動画, 2024年公開.
https://www.nicovideo.jp/watch/sm43836362
・YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=idBF_b9Hr7U
・公式歌詞
https://piapro.jp/t/Bv2l
・作者note『ドーナツ・クラックについて』
https://note.com/yuda_happy_/n/n635ddc3c053e
・Iyowa feat. Hatsune Miku『IMAWANOKIWA』ニコニコ動画, 2020年公開.
https://www.nicovideo.jp/watch/sm35933131
・YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OVwCr2MESfo
・公式歌詞
https://piapro.jp/t/Y5Mw
・純セメス氏による『IMAWANOKIWA』考察
https://jyunreaistdoudoudou.hatenablog.com/entry/ar1851048
・筆者による映像書き起こし記録:
DonutsCrack_FrameObservation_v1.pdf(Frame Observation Record / © Kei Shibayama, 2025)
※本記事は、創作大賞2026 オールカテゴリ部門 応募シリーズ
「作品の壊れ方を読む」 の一篇です。
次の記事:
シリーズ目次
0|壊れたものを、壊れたまま読むために
1|『観測記録』における改編と観測
2|『合わせ鏡のウワサ』で「ぼく」が「ぼくら」になるとき
3|『リーパー』における死の処理構造
4|『寂句』で語る座標が削れていくとき
5|『遷移一区画』はなぜ「抜け落ちる」のか
6|『ドーナツ・クラック』における見送る構図の反転
終|断定せずに読むということ