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作品の壊れ方を読む 1|原稿用紙の思想と履歴の倫理――『観測記録』における改編と観測

     『観測記録』は、物語世界への干渉を禁じる「改編」を、単なる道徳ではなく履歴の置換として描く。透明な物語にインクを落とす比喩が示すのは、救済の名で結末を直すことが、出会い・散歩・喧嘩・手当てといった共有の時間そのものを消去する危険だ。

     本作で観測とは無罪の傍観ではない。

     包帯を洗い、歩調を合わせ、なお改編の誘惑に揺れる観測者たちは、最後に「出会ってしまったことから目を背けないでほしい」という要請に突き当たる。

     事実だけを写すレンズの限界と黒塗りの空白を通じ、本作は“知ってしまった関係”を引き受ける読書の倫理を提示する。

    1|導入:視界の汚染として始まる

     耳に籠る轟音。時折、鉄を切りつける様な音もする。細かく震える車窓はまるで墨を一杯に溜めた水槽だった。それは鏡となり、明るい車内で並んで座る私たちを半透明にして、闇の中に浮かび上がらせていた。
     隣の友人は、頭を持たせ掛けた窓の振動に浅い眠りをずっと邪魔されている。友人の手から今にも落下しそうな黒いフィルムカメラに私が手を伸ばした時だった。
     ざっと、緑の濃い木の枝が、外の暗闇と半透明の私たちを一息に払っていった。

    p.008|01 約束の海より抜粋
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    海はまだ見えない——でも、約束だけが先に眩しい。
    Image credit: いえぬ(X) / Source: https://x.com/ienu0ienu/status/2016469867432685995

     耳の奥に轟音が籠もり、車窓は細かく震える。窓は外の景色を映すより先に、墨を溜めた水槽みたいに車内を鏡写しにして、並んで座る「私たち」を半透明に浮かび上がらせる。外は闇で、内側だけが妙に明るい。最初に提示されるのは海でも旅でもなく、視界そのものが既に濁っているという感触だ。

     その濁りは、次の瞬間に破られる。濃い枝葉が闇と反射像を一息で掃き払い、窓いっぱいに水平線が現れる。車輪の音が軽くなり、眠りを妨げていた振動が静けさに変わる。視界は「自分たちの像」と「外の世界」を往復し、どちらにも完全には落ち着かない。ここで重要なのは、世界が見えるようになることより、見え方が切り替わることのほうだ。

     この作品の観測も同じ構造を持つ。観測者はレンズや装置を通して「事実」を回収できるが、その事実は関係を保証しない。終盤でNが言う通り、レンズが写すのは事実だけで、そこで止まる。しかし本作が執拗に扱うのは、事実より手前で成立してしまうもの――つまり「見てしまった」「知ってしまった」ことが作る関係のほうである。

     そのために最初から禁忌が置かれる。”改編”は、物語への度を越した干渉で結末が変わる現象だと定義され、透明な水にインクを垂らす比喩で説明される。

    …純粋で満たした硝子のコップにインクを垂らす様に、どんなに透明で美しい物語も"改編"が起きればいとも簡単に穢され、二度ともとには戻らなくなってしまう。
     そしてその影響は"観測"に使った一冊に留まらない。"改編"は、この世に存在する同一の本全てに及ぶ。元々の物語はこの世から消えて無くなってしまうのだ。

    p.029|02 "観測"より抜粋

     いったん落ちたインクは戻らず、透明さは取り返せない。しかも影響は観測に使った一冊だけに留まらず、同一の本すべてに及ぶ。つまり改編は「その場の救済」ではなく、同型世界の丸ごと置換に近い。

     だから観測者には規範が課される。登場人物になってはいけない。

    …だが逆に言えば、それらを犯さなければ物語の中では自由に行動できるということだ。要は端役――モブに徹すればいい。

    p.030|02 "観測"より抜粋

    「全員、そこまで。もう“扉”の接続は切った。…」
    …
    「…確認したかったのは、どの程度の文章であれば“扉”が物語と認識するのか、ということです。」

    pp.146 - 147|08 其々より抜粋

     登場人物に物語を疑わせてはいけない。要は端役――モブに徹せよ、という倫理だ。これは一見、慎み深い距離の取り方に見える。 
     だが、その距離は本当に「無関係」を保証するのか。距離を取っているつもりで、最も早く関係を成立させているのはむしろ観測の側ではないのか、という疑いが最初から埋め込まれている。

     実際、観測者の内部でその前提は崩れ始める。Kは、研究に参加し始めてからIを物語のキャラクターだと思うようにしていたと告白する。だが"望遠鏡"の事故でIがこちらに来てしまってから、その整理が効かなくなり、ずっと迷っていたと言う。「キャラクターとして扱う」こと自体が、距離の確保ではなく、むしろ関係の発生を抑え込むための自己防衛だったことが透ける。

     本稿が追うのは、この防衛が破れたあとに現れる倫理だ。改編を禁じるのは「危険だから」では足りない。改編が消してしまうのは悲劇の苦痛だけではなく、散歩や衝突や手当てといった共有の履歴そのものであり、その履歴を背負う非対称性だけが残るからだ。Iはそれを「ずるい」と呼び、出会ってしまったことから目を背けないでほしいと要求する。
     
     ここに、この作品が提示する「観測」の中心がある。観測は無罪の傍観ではない。置換しないことと、履歴から逃げないこと――この二つを両立させる試みとして、本作は読まれるべきだ。

    2|原理提示:改編=「穢れ」と「置換」

    「私が行うのは過去の改変ではない。“改編”なのだ。まさに物語とその筆者じゃないか」

    p.280|10 反目より抜粋

     "改編"という語は、倫理の旗印ではなく、まず現象の名として置かれている。作中で改編は「物語への度を越した干渉で、結末が変わる現象」だと説明されるが、その直後に与えられる比喩が決定的だ。透明な水にインクを垂らす。インクが一滴落ちた瞬間、水はもう透明ではない。どれほど掬い取ろうと、どれほど薄めようと、「透明で美しい物語」は二度と元には戻らない。
     ここで語られているのは、善悪の判断ではない。不可逆性――つまり「戻せなさ」そのものだ。

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    この栞の仕掛けが鳥肌ものだ——紙の本でしか、不可逆は触れない。
    Photo credit: ADACHI Yuki(X) / Source: https://x.com/kinakaAD/status/2020847523632754990

     この不可逆性を、作品はさらに過酷な形で補強する。改編の影響は観測に使った一冊だけに留まらず、「同一の本すべてに及ぶ」。
     たった一度の干渉が、個別の出来事を救うのではなく、同型の世界をまとめて染め替えてしまう。救済の名で行われる変更が、実際には「その本の世界」全体の条件を差し替える――この時点で改編は、物語に対する局所的な介入ではなく、世界の取り替え、すなわち置換に近づく。

    「誰かに忘れられること、誰にも覚えられていないこと。それはとても悲しいことだと、私は思うのです。…」

    p.107|05 星見の塔より抜粋

     置換が恐ろしいのは、苦痛を消すからではない。苦痛が消えるのと同時に、「苦痛に至るまでの経路」も消えるからだ。悲劇の結末を直すことは、悲劇だけを切り落とす操作ではない。そこに至るまでの小さな選択、立ち止まり、言い淀み、手当て、喧嘩、散歩――そうした出来事の連なり全体を、別の連なりで置き換えることになる。Iが後に「散歩もして、遊んで、喧嘩もして、怖いときに撫でてもらったことも全部無かったことになる」と列挙するのは、この置換の怖さを感情ではなく構造として言い当てている。

     だからこの作品の倫理は、「悲劇を止めるか否か」という二択に収束しない。問題はむしろ「止めた結果として、何が消えるのか」であり、「消えたことが誰にどう残るのか」だ。Iは改編が起きた場合に残るものを、「全部なかったことにした」という自分一人の後悔だと述べる。

     ここには決定的な非対称性がある。改編によって世界が置換されれば、周囲の誰もが“新しい世界”を自然なものとして生きてしまう。後悔だけが、改編を意識した主体に一方的に残される。改編は「みんなを救う操作」ではなく、ある一人にだけ、二重の記憶と責任を背負わせる操作になりうる。

     ここで一つ反論が立つだろう。苦痛が減るなら、それは救済ではないのか。少なくとも当人が助かるなら、置換の責任は引き受ける価値があるのではないか。だが、本作はその直感を正面から問い返す。改編は「苦痛が減った世界」を作るのではない。「苦痛を含む履歴」を、履歴ごと上書きする。

    「『匙ノ咒』やっぱりだ・・・・・・この話、元々三人称視点で書かれてたはずなのに、見てください。“改編”で全部碧さんの一人称視点に変わってる」
    …
    「元々の話には紅さんという要素が・・・・・・言ってしまえば不要だった。碧さんに紅さんが見えていようとなかろうと、物語の本質はそこではなかったから。…」

    pp.345 -346|13 観測者たちの私見 エピローグより抜粋

     そして、その上書きは当人の同一性にまで及ぶ。実際、碧の物語が三人称から一人称へと変わり、物語として不要だった紅が不可欠になるように、語りの形式や感情の配色そのものが差し替わる。置換は出来事の配置換えではなく、世界の「語られ方」――ひいては存在の「見え方」を変えてしまう。

     このとき、改編はもはや「物語の修正」ではない。生を編集可能なテキストとして扱う態度そのものになる。だからこそ、後にNが「書いた物語が気に入らなければ原稿用紙を破り捨てて一から書き直せばいい」と言い切るとき、彼の言葉は単なる極論ではなく、改編の論理を最も率直な形で言語化したものとして響く。この発想が成立する限り、改編は常に「より良い世界」への更新として正当化されてしまう。だが本作は、その正当化の背後で失われるもの――出会いの履歴と、履歴を共有したという事実――を、あらゆる章の具体を通じて積み上げ、最後に拒絶へと収束させる。

     改編が「穢れ」であるとは、道徳的に汚いという意味ではない。透明だったはずの関係に、一滴の意思が落ちること、その瞬間から世界が別の読み方へ固定され、元の透明さが失われることを指す。改編が「置換」であるとは、結果の取り替えではなく、履歴と同一性の差し替えであることを指す。だから禁忌は、守るべき規範というより、守らなければ「自分が何をしたのか」さえ分からなくなる境界線として存在している。

     この境界線の内側で、観測者たちは「救いたい」という衝動に晒される。例えば、改編の誘惑と紙一重の領域――しかし改編ではない仕方で他者に触れる行為として、包帯の手入れが描かれる。そこで倫理は理念ではなく、手間として具体化される。

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    紙が残る——だから、無かったことにできない。
    Photo credit: ADACHI Yuki(X) / Source: https://x.com/kinakaAD/status/2020847523632754990

    3|身体へ降りる:包帯(手入れ)が倫理を作る

     改編の禁止が「世界を穢すな」という大きな原理として語られる一方で、本作が面白いのは、その原理がすぐに現場の小ささへ引きずり下ろされる点だ。倫理の議論は、結末の変更や世界の置換の話に終始しない。むしろ、最初に問われるのはもっと卑近で、もっと身体的なこと――包帯が汚れる、かゆくなる、ずれて痛い、という生活の問題である。

    「I、その包帯、俺に洗わせてくれないか」
    「J・・・・・・」
     Kは口を挟もうとしたが思いとどまった。…

    p.077|04 包帯より抜粋

     Jは包帯を洗う。白い包帯は、汗や皮脂を吸い、折り目が癖になり、肌に当たって痒みを増やす。そうした「装置としての包帯」の条件を整え直すために、Jは洗濯の作法を踏む。
     この行為の重要さは、誰かを救うための劇的な介入ではなく、ただ“明日も同じ身体でいられるようにする”ための手間だという点にある。改編の禁止はここで、理想主義ではなく家事に近い姿へ変わる。

     Jは湯を止め、Iの包帯を端の方からゆっくり桶の湯につけていった。包帯に洗剤を垂らし、丁寧に擦り合わせる。…

    p.078|04 包帯より抜粋

     このとき起きているのは、単純な「優しさ」ではない。改編を避ける観測者が、なお他者の身体へ触れてしまうという矛盾が、包帯の手入れには凝縮している。物語の結末を変えてはいけない。しかし、包帯を洗うことは、物語内の生活条件を確かに変える。これは改編ではない。だが、無関係でもない。改編を禁じる倫理が「何もしない」へ収束しないのは、既にここで示されている。

    「…だがそれなら尚更、“扉”の研究は君には辛いだろうに。研究で物語を扱っているとはいえ、NやRも結局、研究者側の考え方じゃないか」
     Jは部屋から持ってきたドライヤーの電源を入れた。弱い温風に包帯が揺れる。「違うんです」と、Kは首を横に振った。

    p.083|04 包帯より抜粋

     Jはドライヤーの温風で包帯を乾かす。白い布が揺れ、肌に触れるべきものが風に晒されて無防備になる。その工程の最中に、Kが口を挟む。「違うんです」。 何が違うのか。ここで露呈するのは、観測者側の都合でIを「研究対象」「キャラクター」として処理する態度が、手入れという最も具体な場面で耐えられなくなるという事実だ。

    「…“観測者”として研究に参加し始めてから、私もNとRと同じく、Iちゃんのことは物語のキャラクターだと・・・・・・思うようにしていたんです」
    …
    「迷っていたんです。“望遠鏡”の事故でIちゃんがこちらに来てしまってから、ずっと。…」

    p.079|04 包帯より抜粋

     Kは告白する。研究に参加し始めてから、自分はIのことを物語のキャラクターだと思うようにしていた、と。だが望遠鏡の事故でIがこちらに来てしまってから、その整理が効かなくなり、ずっと迷っていた。

     ここで「キャラクターとして扱う」という処理は、距離を取るための中立的な態度ではなく、関係の発生を抑えるための自己防衛として姿を現す。つまり、キャラクター化は無関係でいるための方法ではなく、関係してしまった事実をごまかす方法だった。

    「“観測者”としての責任は理解していました。物語の登場人物に不用意に感情移入すれば“改編”を起こしかねない・・・・・・頭では解っていたんです。でもIちゃんが目の前に居ては、心がどうしても追いつかなかった。あの子も躓いてこけたら泣くのを我慢するし、美味しいものを食べたら愛らしく笑うんです。知らない場所の慣れない床を、履いたこともない素材の靴で、杖を使って懸命に歩く姿を見ていたら・・・・・・ただ物語を動かすための歯車だとは、到底思えなくなってしまった」

    p.080|04 包帯より抜粋

     この自己防衛が崩れるのは、Iの身体があまりに具体だからだ。包帯の伸縮性、乾き具合、痒み。こうした身体の条件は、物語の筋とは別に「生活」を成立させる。生活が成立してしまうとき、観測者は「登場人物にならない」という規範を守っていても、すでに登場人物の生活に参加している。しかもそれは、善意の劇ではなく、面倒で、汚れて、毎日繰り返される手間として参加している。倫理はここで、理念の高さではなく、反復の重さとして現れる。

     この章(包帯)が決定的なのは、観測が「事実の回収」や「距離の保持」から逸れて、世話という関係形式へ移行する点だ。世話は改編ではない。しかし世話は、因果に触れずに相手の現在を変える。包帯を洗っても、事故そのものは消えない。目が見えないという条件も変わらない。だが、その条件の中で生きることは少しだけ楽になる。ここに、本作が示す倫理の現場がある。苦痛をゼロにする救済ではなく、苦痛の中で続く生活を支える関与。

     そして、この関与は観測者を免罪しない。世話をするほど、関係は濃くなる。濃くなるほど、改編の誘惑は強くなる。包帯の手入れは「改編しない」技術であると同時に、「改編したくなる」動機を増幅する技術でもある。だから包帯の場面は、改編禁止の根拠を補強するだけでは終わらない。倫理の矛盾――関係しないために距離を取るのではなく、距離を取っても関係してしまう――を、最も小さな行為で証明してしまう。

     この矛盾は、次に「散歩」というさらに平凡な共在の時間で、別の形を取って強化される。包帯が「身体の世話」だとすれば、散歩は「時間の共有」だ。改編が奪うのが結末ではなく履歴だとするなら、その履歴は悲劇の場面だけでなく、こうした平凡の蓄積によってこそ成立する。

    4|共在へ降りる:散歩が“履歴”を生成する

    …信号が青に変わった。IとJが“美術館”で出会ってから初めて言い渡された一日の休暇。…

    pp.114 - 115|06 散歩より抜粋

     散歩は、この作品において「事件の間の息抜き」ではない。むしろ、改編が奪うものを“具体化”するための章だ。出会いが関係になる瞬間は、悲劇の中心ではなく、平凡の側で起きる。

     散歩が始まる直前、Jの視界には白く屹立する“美術館”の内壁が入り、居住区画の街並みを壁のように見下ろすその光景は「監獄のよう」と形容される。息苦しさを覚えて視線を下げると、Ⅰのブロンドの浮き毛が目に入る。
     ここで既に、世界の構造(監獄)と、隣にいる他者(浮き毛)が同じフレームに入る。観測の対象としての世界と、生活の相手としての他者が、分離できない形で並置される。

    「好きなものが見つかるといいな・・・・・・いや、見つけていこう。こういう暇なときは、好きなことをするものだ」
     Ⅰは目元の包帯を整えながらJに尋ねた。
    「Jは、何が好きなの?」
    「俺か?俺は読書・・・・・・なんだが、Iも楽しめそうなもので言えば、散歩かな。ああ、ボードゲームも得意だぞ」
    「本当?」
    「ああ。散歩から戻ったら、操作室で勝負するか・・・・・」
     しばし他愛もない会話をして、身体が冷え始めた頃、二人は散歩を再開した。

    p.120|06 散歩より抜粋

     Jは言う。「好きな物が見つかるといいな……いや、見つけていこう。こういう暇なときは、好きなことをするものだ」。Iは「Jは、何が好きなの?」と返す。たったこれだけの会話なのに、このやり取りは“観測”の規範から滑り出している。観測者はモブであれ、という規範は「役割」を守れという要求だった。しかしここで問われているのは役割ではなく、嗜好――つまり人格の輪郭だ。Jも「俺は読書……なんだが、Iも楽しめそうなもので言えば、散歩かな。ああ、ボードゲームも得意だぞ」と答え、散歩から戻ったら勝負しよう、と日常の約束を立てる。

     散歩の中身はさらに平凡だ。Iは道中、特に「耳から聞こえるもの」に関して多くを尋ね、商店街で漂う安っぽいメロディについて「不思議な音」と言う。彼女の好奇心は、事件の真相へ向かう“推理”ではなく、音そのものへ向かう。観測が事実の回収だとすれば、ここでIがしているのは、事実へ還元できない感覚の採集だ。だから散歩は「情報収集」にならない。代わりに、世界の手触りを共有する時間になる。

     決定的なのは歩調だ。

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    歩幅を揃えただけで、もう履歴になってしまう。
    Photo credit: Pensil.(X) / Source: https://x.com/to_rishima/status/2017980412916838509

     Jは不自然なほどゆっくりと歩いていた。…
    「わたしに合わせて歩きづらい?」
    「そんなことはないよ。ずっと気にしてたのか?」
    「今日はなんだか、いつもより歩くのがゆっくりだから。足音もなんだかいつもと違う。」
     Jが珍しく声を出して笑った。
    「大丈夫、筋肉痛が来ただけだよ、案の定な。これくらいの速さが歩きやすいか?」
     Iは躊躇いがちにこくりと頷いた。…

    p.114|06 散歩より抜粋

     Jは不自然なほどゆっくり歩き、Iは「わたしに合わせて歩きづらい?」と問う。Jは笑って「筋肉痛が来ただけ」と返し、結果としてその遅さがIにとって歩きやすい速さになる。ここには、この作品の倫理がはっきり出ている。観測者が取るべき距離、という抽象の話ではない。相手の身体に合わせて速度を落とすという、きわめて具体な調整だ。しかもそれは英雄的な自己犠牲ではなく、筋肉痛という情けない事情から偶然成立している。だからこそ嘘がない。

     Iはさらに、声の高さや手の大きさからJの身長を推測する。Jは「俺の身長を君に言ったことは無かったな」と驚き、Iは「声がいつも随分高い所から聞こえる」「手も大きい」と言う。目が見えないIが“相手の輪郭”を組み立てていく仕方が、散歩の会話の中で露出する。ここで共有されているのは景色ではなく、互いの身体感覚だ。

     そして作者は、この時間が単なる日常ではなく「回復」だと書いてしまう。二人が出会ってから初めて言い渡された一日の休暇。怒濤の日々に押し流されていた普通の会話が、ぎこちなく空の下で続く。つまり散歩は、観測の外側にあるのではない。観測によって壊れた“普通”を、もう一度立ち上げる試みとして置かれている。

    「海?」
     目の前の景色は、初日の“観測”で自販機を探して走ったあの街並みをJの想起させた。この先に建物や電線が無く、開けた場所があるということだ。だがこの道の先に海などあるはずが・・・・・・。
    「“美術館”には海もあるの?」
     Iの声は僅かに期待が滲んでいた。Jは申し訳なさそうに、
    「いや・・・・・・期待させてすまない。たぶん違う。でも一応見ておきたいな。ついて来てくれるか?」
     Iは頷いた。…

    p.123|06 散歩より抜粋

     終盤、散歩はさらに象徴的な場所へ滑り込む。住宅街の先に空がやけに広く、Jが「海?」と呟く。Iは期待を滲ませて「“美術館”には海もあるの?」と問う。Jは「期待させてすまない」と謝りつつ確かめに行く。辿り着いたのは海ではなく草原で、空の青と草の黄緑で視界が二分され、「天国」という言葉がJの頭をよぎる。ここで“海”は、ただの景勝ではない。Iが失った視界の象徴であり、第一章の約束の回収点であり、しかし今は届かないものとして立ち上がる。期待して、外して、謝って、それでも一緒に見に行った――この一連が、そのまま履歴になる。

    「…色んなところに行って、散歩もして、遊んで、喧嘩もして、怖い思いをしたときに撫でてくれて・・・・・・“改編”が起きればそれも全部無かったことになるのでしょう?残るのは、全部無かったことにしちゃったっていう、わたし一人の後悔だけ・・・・・・それがすごく嫌だった。…」

    p.313|12 現実より抜粋

     だからこそ、後にIが改編を拒むとき、彼女が列挙するのは英雄的な出来事ではない。「色んなところに行って、散歩もして、遊んで、喧嘩もして、怖い思いをしたときに撫でてくれて……“改編”が起きればそれも全部無かったことになる」。改編が奪うのは結末だけではない。散歩の速度、音の話、身長の推測、空の広さ、海と見紛う誤解、謝罪の言い方――そういう“どうでもよさ”の総体が、改編によってまとめて置換される。

     散歩が生成するのは、幸せではなく、消せない共有の履歴だ。包帯の手入れが「身体の継続」を支える行為だったのに対し、散歩は「時間の継続」を支える行為になる。ここまで来ると、改編は悲劇回避の技術ではいられない。改編は、共有の履歴そのものを差し替える誘惑として、観測者を内部から腐食し始める。

    5|誘惑:匙ノ咒(最小の改編が最も正当化される)

     散歩が履歴を生み、包帯が身体を継続させる。ここまでで「改編が奪うもの」は、観念ではなく手触りとして具体化された。となれば次に来るのは必然だ。――それでも改編したくなる瞬間である。
     『匙ノ咒』が怖いのは、改編を「大きな悪」ではなく、ひと匙という最小単位の倫理で試してくる点にある。事件ではない。検査だ。

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    踊り狂ってでも、一緒にいたい人とは――罰ごと楽しみたい。
    Image credit: ミツ蜂(X) / Source: https://x.com/roundbee08/status/2017922734978994285  

     まず、作品は“現実側”で議論の枠を組む。Kはノートを開き、課題を三つに分解する――①『匙ノ咒』の“観測”で発生した“改編”の後処理、②Jの行動(Iの話を“改編”しようとしたこと)の動機確認、③今後の方針決定。しかもKは①を線で消し、②を「最優先」に置く。つまりここで問われているのは、出来事の整理ではなく、介入の衝動がどこから来たかだ。

    「一つ、『匙ノ咒』の“観測”で発生した“改編”の後処理。二つ、Jの犯行の動機の確認。三つ、今後の方針の決定…」
    …
    「…まず一つ目ですが、これは後回しでいいと思います。…」
     しゃっと、Kはノートの上の一つ目の項目を線で消した。
    「二つ目・・・・・・これが今、最優先です。Jの先の行動の動機が明らかにならない限り、三点目の今後の方針も私たちは立てようがありません。…」

    p.300|12 現実より抜粋

     一方で『匙ノ咒』パートは、観測が“仕事”であることを露骨に見せる。NがJとIに理解を確認し、Jが要約する。碧という少女がいて、濡烏に毒で嬲り殺される。目的は毒薬――「おまじない」を持ち帰ること。そして手段は問わない、ただ生きて帰れ、と。ここで観測は最初から中立ではない。悲劇は副産物ではなく、回収対象と結びついている。観測者は「起こるべき悲劇」を、任務として前提してしまっている。

    「今回の物語は、要約すると、海辺の邸に匿われた“碧”という少女が、主人の“濡烏”という男に毒を使って嬲り殺される、というものだろう」
    …
    「…今回の我々の任務は、先ほど話題に上がった毒薬をこちらに持ってくることです。手段は問いません。…言わずもがな、二人ともが毒を呷らず生きて帰ること、これが必達目標です。」

    p.178|09 匙ノ咒より抜粋

     その前提の上で、作品は「ひと匙」を提示する。粗相をしたメイドに与えられるのは、毒ではなく、安定と効率を名目にした少量の“おまじない”だ――「粗相をしたメイドにひと匙の〝おまじない〟を施すのが、古くから伝わる濡鴉家のしきたり」だと語られる。

    …粗相をしたメイドにひと匙の“おまじない”を施すのが、古くから伝わる濡烏家のしきたりなのです…

    p.193|09 匙ノ咒より抜粋

     ひと匙は小さい。だから説明が立つ。治療、安定、集中、業務効率。ここに「ちょっとだけなら」が生まれる。大きな暴力は誰の目にも暴力だが、ひと匙の暴力は生活に溶ける。正当化は、最小単位に縮んだとき最も巧妙になる。
     そしてこの「ちょっとだけなら」は、観測者側にも滑り込む。だからKは“現実側”で動機を最優先に据える。Rが「Nを止めるため」と説明しても、Kは食い下がって言い換える――「本当にNを止めるためだけに、JはIちゃんの目を取り戻そうとしたの?」と。ここで作品は、改編を善悪の選択としてではなく、動機の混濁として扱う。

    「それはさっき聞いたんすよ。JさんはNさんの計画を止めるために――」
    「…本当にNを止めるためだけに、JはIちゃんの目を取り戻そうとしたの?」
    …
    …
    …
    「そうだよ、白状するよ。俺はIを助けるためにここに来た。…」

    p.301|12 現実より抜粋

     その詰め寄りの先で、Jは白状する。「助けるために来た」。ここで彼は、観測者として最も言ってはいけないことを口にする。観測は“事実の回収”であるはずだった。登場人物になってはいけない、疑わせてはいけない――その規範の内側にいる限り、「助ける」という語は出てこないはずだった。だが包帯を洗い、散歩で歩調を合わせ、履歴が積み上がった今、彼はもう“モブ”ではいられない。モブに徹すれば自由でいられる――その前提が、「助けたい」の一語で崩れる。

    「どうもこうも無いっすよ。書いたお話が無かったことになることを、Iさんは『ずるい』と感じたんじゃないですか?その犠牲はJさんにとって得でしかない。…」

    p.309|12 現実より抜粋

     重要なのは、「助けたい」が生まれること自体ではない。問題は、その助けたいが、どの方向へ流れるかだ。見続け、触れ続け、生活を共有するほど、観測者の側にも痛みが溜まる。痛みが溜まれば、「悲劇を止めたい」は「自分が耐えられないから止めたい」へ容易に転位する。ひと匙の介入は、その転位を隠したまま実行できる最小単位になる。

     ここで言う「履歴」は比喩じゃない。Iの側には、すでに“出来事の束”として残っている。

     ふと、真夏の駅のことを思い出した。みんな名乗ってもないわたしの名前を憶えてくれた。…
     霧のお邸を思い出した。お洗濯は本当に冷たくて手が痛かったけれど楽しかった。…
     Jと共に過ごした日々がすごく長く感じたのは、Jも含めて出会った人たちがみんなわたしを一人の人間として見て、真剣に向き合ってくれたから。

    pp.290 - 291|11 未題より抜粋

     だからこの章は、「救うか救わないか」を問わない。問うのは、「救う」という行為が、どれほど簡単に“置換”へ滑るかである。改編は、本人の中では常に正義の顔をしている。たとえ悪意がなくても、結果が良いと信じていても、その正義が履歴を丸ごと差し替える。第二章で見た通り、改編は透明な水にインクを垂らす行為であり、不可逆だ。それでもやりたくなるのは、悲劇の側を消したいからではなく、悲劇を見てしまった自分の痛みを消したいから、という可能性がここで確定的に浮上する。

     ここで作品は「優しさ」と「甘やかし」を切り分ける。優しくすることは必要だ。しかし優しさが「苦痛の除去」だけを目的化した瞬間、それは甘やかしになる――そういう線引きが会話として出る。この線引きが重要なのは、改編がまさに「甘やかし」として正当化されやすいからだ。苦痛を見た。耐えられない。だから消す。ここには責任が見えない。責任は履歴を背負うことでしか発生しないのに、改編は履歴そのものを消してしまう。

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    同じ窓の中で、別の色の罰を生きている。
    Image credits: Left(碧)ミツ蜂 & Pensil. / Right(紅)(X)
    Sources:(左)https://x.com/roundbee08/status/1998679592563777900
                (右)https://x.com/to_rishima/status/1998690287766651234

     『匙ノ咒』の残酷さは、介入の最小単位が「薬」である点にもある。薬は、救いと暴力の二重性を最初から内蔵している。ひと匙で落ち着く、ひと匙で従順になる、ひと匙で効率が上がる。救済と管理が同じ語彙で語れてしまう。これは観測にもそのまま当てはまる。観測は事実の回収であると同時に、管理の前提にもなる。悲劇を「資料」として扱う言い方が成立した瞬間、観測はもう中立ではない。Kがノートで議題化し、整理し、論点を切り出す行為自体が、倫理を成立させると同時に、対象を“扱えるもの”へ変える危険も孕む。

     だからこの章が導く結論は単純だ。最小の介入ほど正当化される。正当化されるほど、動機は混濁する。混濁した動機で行われる改編は、救済ではなく置換になる。第二章で示した原理が、ここで人間の痛みと結びつき、いよいよ現実の誘惑として立ち上がる。

     この誘惑は、次の章で「思想」として爆発する。改編を“置換の暴力”として恐れるだけでは足りない。改編を「当たり前の編集」として肯定する論理が、この世界には存在する。『匙ノ咒』が動機を検査したのは、その論理が観測者の内部にも入り込みうるからだ。だから次に来るのは対決になる。世界を原稿用紙として扱う者と、履歴として扱う者の対決である。

    6|対決:原稿用紙の思想 vs 履歴の倫理

     『匙ノ咒』が暴いたのは、改編が「悪意の暴力」より先に「正当化の技術」として立ち上がるという事実だった。だから次に来るのは、悪を裁く場面ではない。正当化そのものを支える世界観が、言葉として衝突する場面である。作品はそれを露骨に、しかし逃げられない形で置く。改編をめぐる対決は、方法論の争いではなく、「世界をどう扱うか」という思想の争いとして現れる。

     Nは宣言する。自分は「改変」ではなく「改編」をする筆者だ、と。ここで彼は自分を悪役に仕立てない。むしろ役割の名称を正確に置き、作業として引き受ける。改編が禁忌であるほど、その禁忌を破る主体は「例外」や「狂気」として片付けられやすい。だがNは、その片付けを拒む。改編は“してしまった事故”ではなく、“できること”として存在している。その前提に立つ限り、倫理は個人の品性ではなく構造の問題になる。

    「…君だって、書いた物語が気に入らなければ、原稿用紙を破り捨てて一から書き直せばいい。全く同じ、簡単なことだよ」
    …
    「全く違う。物語は人生だが、人生は物語ではない」

    p.280|10 反目より抜粋

     Nの論理は単純で、だから強い。書いた物語が気に入らなければ、原稿用紙を破り捨てて一から書き直せばいい。全く同じ、簡単なことだ。ここには、編集という行為が持つ日常性がある。文章を書く者にとって、削除と書き直しは常に正義の顔をしている。推敲とは、うまくいかなかった表現を破棄して、より良い形へ置き換えることだ。だからNの言葉は極論というより、創作の常識をそのまま世界へ投影した態度として響く。改編が正当化されるのは、悪意があるからではなく、「直すのは当然だ」という生活感覚があるからだ。

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    鋏が切るのは紙じゃない——履歴だ。
    Image credit: Machiyoh(X) / Source: https://x.com/Machiyoh/status/2017573092110016752

     その生活感覚に対して、Jは一文で刃を入れる。「物語は人生だが、人生は物語ではない」。
     この言葉が強いのは、創作の比喩を否定しているのではなく、比喩の成立条件を制限しているからだ。物語は人生に似せて書ける。人生も物語の形で語れる。だが、語れることと、編集できることは違う。人生を物語として語った瞬間に、人生まで編集可能になるわけではない。この差異が、改編と観測の倫理を分ける境界になる。

     ここで対立を整理するなら、こうなる。Nは世界を編集可能なテキストとして扱う。苦痛があるなら削る。齟齬があるなら直す。悲劇があるなら破って書き直す。Jは世界を履歴として扱う。履歴とは、結果だけでなく、そこへ至る過程を含む。過程には失敗も、矛盾も、取り返しのつかない傷も含まれる。だから履歴は、良くするために破ってよい原稿ではなく、背負うしかない積層になる。第二章で改編を「穢れ」と「置換」として定義したのは、この対立を成立させるためだった。

     Nは自分の正しさを主張しない。彼はむしろ「全部が間違い」だと言い切る。ここが厄介だ。正しさを掲げる者は反論できる。しかし「最初から全部間違いだ」と言う者は、議論の土俵そのものをひっくり返す。Nにとって改編は救済ではなく、秩序の回復だ。間違った世界を、正しい形へ“戻す”。この感覚がある限り、改編は善意でも悪意でもなく、修復として、あるいは当然の更新として自分を正当化する。

     それでも本作は、Nを単純な破壊者にしない。Nが「透明人間」のように忘れられてきたという自己規定は、彼の改編衝動が「注目されたい」ではなく「存在しないものとして扱われた」ことへの補償として生じていることを示す。世界に触れても痕跡が残らない。ならば、痕跡を残す最も確実な方法は、世界のほうを書き換えることになる。改編は、世界を自分の手の跡に変える行為としても読める。だから改編は、倫理以前に欲望の問題でもある。

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    探していた“件の少年”は、最初からぼくだった。
    Image credit: はきゅ(X) / Source: https://x.com/krkr_9Nosee_/status/2017192815181410444

    「…件の少年になんて会えるはずが無い、ずっとぼく自身を追いかけ続けていたのだから。」

    p.063|03 件の少年より抜粋

     改編が置換であることは、この対決の場面でも具体に示される。碧の物語が三人称から一人称へ変わり、彼女にとって不要だった紅が不可欠になるように、語りの形式そのものが差し替わっていく。ここで起きているのは、単なる「結末の修正」ではない。世界の見え方、感情の配置、他者の重みづけ――つまり存在の読み方が変わる。改編は出来事の編集ではなく、視点の編集であり、視点の編集は同一性の編集に直結する。

     この地点で、改編の倫理は「可哀想だから助けるべきか」という問いから完全に離れる。問われるのは、世界を原稿として扱う態度を許すのか、履歴として扱う態度を選ぶのか、という選択だ。そしてこの選択は観測者だけの内面問題ではない。上位の「本部」がIを戻せと言い、Jを利用するという冷たい合理が既に存在している以上、改編の誘惑は制度の側からも補強されている。個人の倫理がどれほど清潔でも、世界を原稿として扱うシステムが稼働している限り、改編は“可能な解決策”として常に提示される。

     だからこの対決は、勝ち負けで終わらない。Nの論理は、文章を書く者にとってあまりに馴染み深い。Jの反論は、人生を生きる者にとってあまりに切実だ。両方が成立してしまう場所で、作品は次の一手を用意する。改編を拒む最終判断は、観測者でも筆者でも制度でもなく、当の「置換される側」――Iの言葉によって下される。次章で現れるのは、思想の対決の決着ではない。履歴を生きてしまった者の、拒否としての現実である。

    7|決着:Iの拒否、黒塗り、そして“事実だけ”の限界

     対決が思想であるなら、決着は生活の側で下される。Nが世界を原稿として扱い、Jが履歴として扱う。両者の言葉は強いが、どちらもまだ「観測者の側」の言葉だ。『観測記録』が最後に残酷なのは、改編が倫理問題であることを、改編される側の論理によって確定させる点にある。改編を拒むのは、制度でも筆者でもない。Iである。

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    I——
    Image credit: Pensil.(X) / Source: https://x.com/to_rishima/status/2017993925144010876

    「だからJ。わたしと出会ってしまったことから、目を背けないでほしい…」

    p.314|12 現実より抜粋

     Iが拒む理由は、根性でも信仰でもない。彼女は改編が何を消すかを、ひとつずつ列挙する。「色んなところに行って、散歩もして、遊んで、喧嘩もして、怖い思いをしたときに撫でてくれて……“改編”が起きればそれも全部無かったことになる」。
     ここで挙げられるのは英雄譚ではない。散歩、遊び、喧嘩、撫でる。つまり、第四章までに積み上げてきた“どうでもよさ”の総体だ。改編が奪うのは結末ではなく、このどうでもよさを含む履歴である、という主張が、当事者の口から出ることで確定する。

    「わたしが独りで後悔するのが、嫌だったんだと思う」
     Iは一つ一つ、本に挟んだ押し花の頁を開く様に言葉を探した。
    「その後悔を・・・・・・“観測”で出会った人たちとJに教えてもらったことを、わたしが無かったことにしてしまうのも、嫌だなって。…わたしだけに後悔させて、目の前から居なくなるのは・・・・・・そんなのずるいと思う」

    p.313|12 現実より抜粋

     Iはさらに言う。改編が起きれば「“無かったことにした”という後悔だけが、私に残る」。
     ここには決定的な非対称性がある。世界が置換されれば、周囲の誰もが“新しい世界”を自然なものとして生きてしまう。置換を意識していた主体だけが、旧い履歴と新しい履歴を二重に抱える。しかもその二重性は共有できない。後悔は語れば理解される種類のものではない。語った瞬間に「そんなことはなかった」と否定されるからだ。改編が“救済の操作”ではなく、“一人を孤立させる操作”でもありうることが、この一文で露出する。

     だからIは改編を「ずるい」と呼ぶ。
     この「ずるい」は道徳非難ではない。関係の非対称性への告発だ。自分だけに後悔を残して、目の前から居なくなる――つまり、履歴の責任を片側に押し付けたまま、世界のほうを差し替えて逃げる。それは、悲劇から逃げるというより、出会いから逃げる行為になる。

     この告発が最も鋭く収束するのが、Iの要求である。「だからJ。わたしと出会ってしまったことから、目を背けないでほしい」。
     ここで観測の倫理が確定する。観測とは「事実を知ること」ではない。観測とは「出会ってしまったこと」を引き受けることだ。引き受けるとは、結末を変えることではない。履歴を消さずに、履歴と共に生きることだ。だから改編は拒否される。改編は苦痛を消す代わりに、履歴を消す。履歴を消すことは、出会いの責任を消すことになる。Iの要求は、まさにその責任を消すな、という命令である。

     ただし本作は、Jを善人として終わらせない。Jは自分の動機にエゴが混じっていることを認める。自分が書いた物語を、最後まで見届けたい。自分が書いたものとして書き切りたい。それは個人的な欲望だと彼は言う。
     ここで作品が慎重なのは、履歴の倫理が「清い自己犠牲」へ回収されないようにしている点だ。履歴を引き受けることは、利他だけで成立しない。利己も混じる。混じったまま引き受けるしかない。ここに、この作品の現実味がある。

     俺はIの物語を書き切らねばならない。いや、書き切りたい。“美術館”や物語の中での出来事も含めて、Iの人生を見届けたい。そのためには、俺はあの子をNから守り切り、元の世界に送り返さなければならない。
     故に俺は俺の意思・・・・・・全く個人的な俺のエゴで、Nの目論見を真っ向から否定する。

    p.315|12 現実より抜粋

     決着のあと、エピローグで提示されるのが黒塗りである。「何かが間違っていたとするなら、それはきっとあの黒塗りの――」。

    「Nさん、なんでここ黒塗りなんすか?」
    …数行が黒く塗られていた。…

    p.343|13 観測者たちの私見 エピローグより抜粋

     Iの言葉にJが顔を上げると、すぐ目の前に人の顔があった。いや、無い。鉛筆で塗りつぶした様にぽっかりと穴の開いた人間の顔が、電話ボックスのすぐ目の前に立ち尽くしていた。

    p.143|07 鋏の音より抜粋

     黒塗りは、情報の欠落であると同時に、倫理の余白だ。すべてが明らかになれば、正誤の裁きで終わってしまう。だが本作は終わらせない。見えないものを残すことで、読者に「まだ判断できない部分」を背負わせる。倫理は結論ではなく、余白として残される。

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    ここからなら全部見える——それでも誰も救えない。
    Image credit: パンチ(X) / Source: https://x.com/punch6789/status/2017443607419265351

     その余白を決定的にするのが、「事実だけ」の限界である。Kは望遠鏡でNの記憶(文章)を覗けるのではないかと提案するが、Nは拒み、言い切る。「あの装置のレンズが写すのは事実だけだ」。

    …あの装置のレンズが写すのは事実だけだ。だからもし、私のあの文章を…

    p.348|13 観測者たちの私見 エピローグより抜粋

     ここで作品は、観測装置の勝利を否定する。事実は重要だ。しかし事実だけでは、関係に届かない。事実だけでは、履歴に届かない。事実だけでは、ずるさに届かない。Iが告発した非対称性――「私一人の後悔」――は、事実として写り得ない。写り得ないものを引き受けるからこそ、観測は倫理になる。

     だから最後に残るのは、装置ではなく私見である。観測者たちは、事実の回収ではなく、互いの読みをぶつけ合う方へ回収される。Nが「本を読むのは楽しい」「感想や私見をぶつけ合うと血が沸く」と言うのは、倫理を“知識”として閉じず、“読書の関係”として続ける宣言に等しい。
     観測記録が最後に私見へ戻るのは、観測が最終的に装置の問題ではなく、読む者の問題であるからだ。

     本作が突きつけるのは、救済の拒否ではない。救済の名で履歴を置換することの拒否である。出会ったことを消して楽になる道を、Iは「ずるい」と言って塞ぐ。黒塗りは、その拒否の先に残る説明不能な穴であり、レンズは、その穴を埋められない装置だ。だから読者は、穴の前で私見を語るしかない。出会ってしまったことから目を背けないでほしい――その要求が、作品の外側へも向けられている限り、私見は終わらない。

    8|後記:読むことへ戻す

     この作品の終わり方は、勝敗でも救済でもない。もっと露悪で、もっと正直だ。結局のところ、観測者たちは「正しい結論」に到達しない。到達しないまま、読書へ戻る。だから最後に残るのが「私見」なのは必然である。倫理を理論として閉じた瞬間、改編と同じことをしてしまうからだ――複雑で汚れた履歴を、綺麗な結論で置換してしまうからだ。

    「やはり楽しいな、本を読むというのは。君たちと感想や私見をぶつけ合うのも久々だったが、血が沸くというか・・・・・・」

    p.347|13 観測者たちの私見 エピローグより抜粋

     Nは言う。本を読むのは楽しい。感想や私見をぶつけ合うと血が沸く。
     この台詞は、作中人物の性格付けである以上に、作品の形式宣言になっている。観測装置が写す「事実」では、関係に届かない。ならば届くものは何か。届くのは、読者同士が互いの読みを差し出し、ぶつけ合うときにだけ立ち上がるものだ。倫理は装置の外、すなわち会話の側にしか成立しない。

     ここで一つ、見落とせない要素がある。黒塗りだ。

    …何かが間違っていたとするなら、それはきっとあの黒塗りの――

    p.347|13 観測者たちの私見 エピローグより抜粋

     黒塗りは、情報不足の演出として読むこともできる。しかし本作における黒塗りの働きは、それだけではない。本作で黒塗りが効いているのは、それが「倫理の余白」を物理的に作ってしまうからだ。何が書かれているか分からない。分からない以上、断言できない。断言できない以上、読者は自分の読みを仮に置き、他者の読みを聞くしかない。黒塗りは、倫理を“結論”から引き剥がして“プロセス”へ戻す装置である。

     それは、作品の外側にも同じ形で反復される。『観測記録』は「観測」という語を掲げながら、最後に「観測の限界」を示して終わる。レンズが写すのは事実だけで、事実だけでは足りない。ならば、足りない部分をどう扱うのか。埋めるのか、放置するのか、改編して“なかったことにする”のか。作品はその選択を、読者の側へ投げている。

     この投げ方が残酷なのは、読者は既に「出会ってしまった」あとだからだ。IがJに要求した「出会ってしまったことから、目を背けないでほしい」は、物語内の倫理命令であると同時に、読書行為への命令でもある。読者は、悲劇を見たあとに「これはフィクションだから」と距離を取ることができる。しかし、その距離が本当に無関係を保証するか。本作は保証しない。距離を取っても、履歴は残る。読んだことは消えない。だから問題は、「関係しない」ではなく、「置換しない」になる。

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    赤は目印じゃない——境界だ。
    Photo credit: r-906(X) / Source: https://x.com/arukuremu/status/2017977656005063143

     その意味で、この作品は読者に二重の責任を課す。一つは、作中の改編を倫理問題として読む責任。もう一つは、自分の批評が改編になってしまう危険を自覚する責任である。作品を綺麗に説明し尽くすことは、快楽だ。説明は、透明な水のように整って見える。しかし整えた瞬間に、読みの多様さや履歴の汚れは消えていく。決定版の批評は、その快楽と引き換えに、作品を置換してしまう危険を常に抱える。

     だから本稿は、決定版であることを目指しながら、決定版の形式に抵抗する必要がある。事実だけでは足りない。私見だけでは危うい。結論だけでは置換になる。ならば何をするか。――物と行為と台詞に戻る。包帯を洗う手。歩調が合う筋肉痛。海と見紛う草原。ひと匙。原稿用紙。黒塗り。レンズ。そうした具体を何度も踏み直し、抽象へ上がるたびに現場へ戻る。その往復を維持することが、唯一「置換しない」書き方になる。

     ここまでで示した倫理は、結末より「履歴」に属している。だからこの作品は、単体で閉じて終わらない。

    本書はコンセプトアルバム『会話記録』の一部として制作されました。

    p.129|『会話記録 - diaLOG -』

     『会話記録』はコンセプトアルバムの一部として位置づけられており、 
     『観測記録』もまた単体で完結する“作品”であると同時に、別の記録と物語へ接続される“断片”でもある。
     断片である以上、読みは閉じない。閉じるべきでもない。黒塗りはそのために残されたのかもしれない。――もちろん、これは仮説だ。

     レンズが写すのは事実だけだ。しかし私たちが引き受けるのは、事実の外側で成立してしまった関係である。
     改編が置換であるなら、批評もまた置換になり得る。だからこそ、読むことへ戻る。戻り続ける。その往復の中でしか、この作品は壊さずに語れない。

    ※本稿は改訂を重ねます。改訂履歴も本文末に残します。
    Header photo credit: ADACHI Yuki(X) /
    Source: https://x.com/kinakaAD/status/2020847523632754990


    ※本記事は、創作大賞2026 オールカテゴリ部門 応募シリーズ
    「作品の壊れ方を読む」 の一篇です。

    次の記事:

    シリーズ目次
    0|壊れたものを、壊れたまま読むために
    1|『観測記録』における改編と観測
    2|『合わせ鏡のウワサ』で「ぼく」が「ぼくら」になるとき
    3|『リーパー』における死の処理構造
    4|『寂句』で語る座標が削れていくとき
    5|『遷移一区画』はなぜ「抜け落ちる」のか
    6|『ドーナツ・クラック』における見送る構図の反転
    終|断定せずに読むということ


     
     
    映像や音楽、小説などの作品を見ると、気づくと深読みしています。

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