
『まだ名前のない春を、君は笑わなかった』第四章 崩れた先に見える景色③
6.崩れゆくもの
少し前向きになれたのも束の間――
二次提案の方針が決まった瞬間、陽太は自分の中で、はっきりと何かが折れる音を聞いた。
ホワイトボードに引かれた、太い矢印。 「スピード」「外注」「コスト」。
そこには迷いも、揺らぎもない。あるのは、"前に進むことだけが正義"という無言の圧力だった。
岸田が言う。
「一次案で信用を落とした。二次案はスピード勝負だ。形を出す」
誰も反論しなかった。
理沙は資料に視線を落とし、まどかは小さく頷き、大石は沈黙した。陽太も黙っていた。
(……これが現実的な判断なんだ)
そう思い込もうとした。思い込まなければ、その場で崩れ落ちてしまいそうだった。
(俺が折れれば、チームは回る)
(理想を引っ込めるのも、大人の選択だ)
頭の中で同じ言葉を繰り返す。けれど腑に落ちることはなく、胸の奥に引っかかったままだった。
無理やり納得するたび、心のどこかが静かに削れていく。
ミーティングの終盤、岸田が言った。
「最後に。四月入社の新入社員を二人、このプロジェクトにアサインする。体制を強化して、スピードを上げよう」
会議室に、見たことのある二人が入ってきた。
「よろしくお願いします!」
背筋を伸ばした女性――西野朱音。
少し緊張した面持ちの男性――三上恒一。
岸田は淡々と割り振った。
「三上は小林について、クライアントとの連絡を担当してくれ。小林、OJTの担当も兼ねているから大変だが指導もしっかり頼むぞ。西野は俺のサポートで、外注との窓口をやってもらう」
(……新人を"体制強化"って言うか? しかも……こんな状態の俺が、新人のOJTなんてできないよ)
喉まで出かかったが、陽太は飲み込んだ。折れた心には、突っ込む力が残っていなかった。
7.「いつもの感じ」
スピード重視のために岸田が呼んだ外注パートナー――
佐久間と神崎の動きは、驚くほど早かった。
早い。とにかく早い。早すぎるくらい早い。
「岸田さん、これ"いつもの感じ"でまとめちゃいますか?」 佐久間が軽く言う。
神崎も慣れた調子で頷いた。
「前の案件もこれで問題なかったですし。悪くないと思います」
岸田は、その言葉に安心したように応じた。
「そうだな。そのやり方で行こう」
そのやり取りを聞いた瞬間、陽太の胸に違和感がじわりと広がった。
(……"いつもの感じ"って、誰の"いつも"だよ。佐原精密の"いつも"じゃない。こっちの"いつも"に向こうを当てはめてる)
だが、陽太は口に出さなかった。一度折れた心には、異を唱えるだけの力がもう残っていなかった。
佐久間と神崎は岸田に対して露骨に距離が近い。
「判断早いっすね」「さすがです」と持ち上げながら、冗談を交じえつつ談笑し、仕事を進めていく。
その"慣れ"が、現場の温度をさらに下げていった。
新入社員の西野は、岸田のアシスタントとして完璧に仕事をこなしていた。
議事録、契約書、請求書、スケジュール調整。どれも正確で、抜けがない。
外注の二人からも自然と信頼を得ていた。
ただ――西野自身は、言葉にできない違和感を覚え始めていた。
研修で叩き込まれた「コンサルティングフロー」と、目の前で行われているやり取りが噛み合わない。
―課題整理
―仮説提示
―合意形成
―提案
―検証
研修では必ず、「合意形成」が重視されていた。それなのに現場では、"合意"より先に"着手"が走る。
着手金。 スピード。 "いつもの感じ"。
(あれ?……何かおかしくない?)
そう思ったが、西野はすぐ自分の考えを打ち消した。
(研修は研修。現場は現場だよね……新入社員の自分がズレているのかもしれない)
そう思い、違和感を心の奥にしまい込んだ。
ただ、請求書の数字と日付だけは、なぜかメモに残していた。
自分でも理由は分からないまま。
一方、三上も真面目でしっかりしていた。だがクライアントに「何を、どこまで」伝えるべきかの判断基準は、当然まだなかった。
「小林さん、クライアントにどこまで報告すればいいですか?」
その質問に、陽太は言葉を探した末、曖昧な答えを返した。
「……一次案と二次案の違いを説明して、細かいところは"検討中"って伝えてくれればいい」
数日後、佐原精密の人事部長・佐山から陽太にメールが届いた。
「先ほどのご説明について、当社の理解と少し異なる点がありましたので、確認させてください」
画面を見た瞬間、陽太の背中を冷たい汗が伝った。
確認すると、三上はメールできちんと場を繋ごうとしていた。
「この点は、おそらくこうなります」
「今後、その方向で進む可能性が高いです」
悪意はない。むしろ誠実だ。
だがその誠実さが、クライアント側をさらに混乱させ、ズレを生んでいた。
陽太は三上を会議室に呼んだ。
「三上……決まってないことは、決まってないって言ってほしかったんだけど……」
三上はきょとんとした顔で答えた。
「え? いや……聞いてなかったので」
責められている自覚すらない様子だった。
「"検討中"って言うと不安にさせるかと思って……あの言い方にしました」
陽太は言葉を失った。
(そうだ……三上は何も悪くない…悪いのは、曖昧な返事しかできなかった俺だ)
その瞬間、陽太は気づいてしまった。
自分が三上に、何も教えていなかったことに。
育てる責任を、どこかに置き忘れていたことに。
(俺は……本当に何をやってるんだ……)
8.崩壊の日
二次提案の作業が進むにつれ、陽太は自分に言い聞かせる言葉を増やしていった。
(今回は割り切ろう)
(制度は運用で育てればいい)
(全部を守れる状況じゃない)
そう思うたび、胸の奥で小さな悲鳴が上がる。
夜、資料を見返すと、削られたサンクスポイント、簡略化された評価コメント欄が目に入る。
(……対話の材料じゃなくなってる)
でも次の瞬間、思考を打ち消す。
(今は仕方ない)
(俺が我慢すればいい)
納得している"ふり"をするたび、心は確実に摩耗していった。
生活も崩れ始めていた。 朝、目覚ましが鳴っても体が動かない。
天井を見つめる時間が増え、気づけば出社時間を過ぎていることもあった。
遅刻した朝、プロジェクトの部屋で「おはようございます。遅れてすみません」と声をかけると、まどかの心配そうな一瞬の視線、理沙の無言、大石の寂しそうな表情が胸に刺さる。
苦しくなり、陽太は持ってきた缶コーヒーを一気に飲み干した。
夜は酒の量が増えた。眠るための酒が、考えないための酒に変わっていく。規則正しかった生活は、どんどん崩れていった。
そして―陽太は自分から佐原精密への詳細な報告をせず、ほとんどの連絡を三上に任せるようになっていた。
(二次提案でまとめて説明すればいい……)
(途中経過は、まだ固まっていない……)
そう自分に言い聞かせていた。
だが本当は、信念を曲げた仕事を自分の言葉で説明する勇気がなかっただけだった。
二次提案当日の朝。陽太は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。 体は重く、胸の奥に鈍い圧迫感がある。
ネクタイを締める。鏡に映る自分の顔は、どこか他人のように見えた。
(……大丈夫だ)
資料は整っている。スケジュールも、コストも、システム概要も。"形"としては申し分ない。
(そうだ……大丈夫だ)
岐阜までの新幹線の中、陽太はずっと祈るようにつぶやいていた。
佐原精密の大会議室は、一次提案のときより明らかに空気が重かった。
人事部長の佐山、製造部長、経営企画課長。各部門の管理職に加え、現場のリーダー格の社員が数名。壁際には腕を組んだまま黙って立つ人物もいる。
(……本気で見られている)
陽太は喉がひりつくのを感じた。
今回、理沙とまどかと大石は参加せず、かわりに外注パートナーの佐久間と神崎、勉強のためという名目で三上と西野が同行した。
会議室の端に佐久間と神崎。入り口付近に西野と三上と陽太。
佐久間が岸田に小声で言う。
「じゃあ、いつもの流れで行きましょう」
岸田は短く頷いた。
(……"いつもの流れ"じゃないだろ?)
胸に走った憤りを、陽太は押し込めた。
岸田が立ち上がり、二次提案の概要を説明する。
「一次案でいただいたご指摘を踏まえ、今回はスピードと実行性を重視した制度設計としています」
その言葉に、製造部長の眉がわずかに動いた。
外注チームの説明は整然としていて、論理的で、上手い。 ――だが、説明が進むほど空気は冷えていった。
佐山が静かに手を挙げる。
「前回ご提案いただいた"サンクスポイント"についてですが、今回はどのように反映されていますか?」
神崎が迷いなく答えた。
「運用負荷を考慮し、今回は削除しています。代替として、上司との定期面談を強化する設計にしています」
製造部長の椅子が、きしりと音を立てた。 経営企画課長が続けて尋ねる。
「現場の納得感を担保する仕組みは、どこに組み込まれていますか?」
佐久間が落ち着いた口調で答える。
「評価項目を明確にし、評価者研修を徹底します。制度はシンプルに、運用で育てる形が最適です」
(……まただ)
陽太の胸がぎゅっと締めつけられる。"運用で育てる"――空虚な言葉が、今日だけは重く響いた。
製造部長が低い声で言った。
「……修正箇所が、こちらの要望と違う」
そして、まっすぐ岸田を見る。
「我々が求めていたのは、部下を裁くための評価制度じゃない」
「次の成長を、一緒に考えるための"対話の材料"になる制度だ」
言葉がひとつひとつ、重く落ちていく。
「だが、この案からは――そのコンセプトが、まったく感じられない」
(……言われてしまった)
言われる前から分かっていた。無理やり納得してきたこと。削ってきたもの。見ないふりをしてきた違和感。全部が、この一言に集約されていた。
製造部長の声が強くなる。
「サンクスポイントを削った理由は"運用負荷"だそうだが、その負荷を誰に聞いた? 現場に直接聞いたのか?」
誰も答えられない。 岸田が口を開く。
「現場の意見に寄り添うように、人事部長を通して――」
「経由で、だろ!!」
机を叩く、乾いた音。
「現場の声は、現場で聞け!! それをせずに"寄り添う"なんて言葉を使うな!」
佐山が止めに入る。
「製造部長、落ち着いてください。彼らも短期間で――」
「短期間なら、短期間なりのやり方がある!聞くべきところを聞かず、削るべきでないものを削り、分かりやすさだけを優先した結果が、これだ!」
会議室は沈黙に包まれた。
陽太は視界が狭くなるのを感じていた。
折れたこと。無理に納得したこと。三上への報連相を任せきりにしたこと。
"対話の材料"という言葉を守らなかったこと。 全部が一本の槍となって、胸を貫いた。
製造部長が最後に言った。
「正直に言う。このプロジェクトは――中止も含めて検討する」
その言葉が落ちた瞬間、陽太の中で、何かが完全に崩れた。
会議後、廊下で佐久間が岸田に言った。
「まあ……今回は仕方ないっすね。こういうの、よくありますし」
(……よくある、のか)
その慣れた口調が、陽太の胸を深く抉った。 岸田は何も言わず、スマホを見ていた。
その無表情が、製造部長の言葉を裏付けているように見えた。
東京に戻ったその夜、陽太は一人で酒を飲んでいた。 グラスの中で、氷が溶ける音だけが響く。
正しさを貫けなかった。だが、折れても救えなかった。 主張する勇気も、関係性をつくる力も、どちらも足りなかった。
悔しくて、情けなくて、苦しくて。涙が流れた。 胸の奥で、微熱が完全に痛みへ変わる。
プロジェクトは崩壊し、信頼は失われた。 そして陽太は、はっきりと思い知る。
―自分の"正しさ"を貫くには、あまりにも力が足りなかったと。
第四章④に続く…
【本日の学び】
覚悟とは、折れないことじゃない。折れても、背負い続けることだ。
第四章④へ
※本作品は一部の文章表現にAIツールを活用しています。
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