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連載⑥|日本書紀に「邪馬台国」が書かれなかった理由

    第6回:書かれなかったことが語る

    ここまで、文献史料と考古学的物証を辿りながら、5世紀から7世紀初頭にかけて倭国に起きた構造変動を見てきました。

    そして7世紀末から8世紀初頭にかけて、日本では新しい段階が始まります。

    『日本書紀』の編纂です。

    養老四年(720年)に完成したこの書物は、日本最古の正史として、現代まで伝えられています。神代から持統天皇までを、漢文・編年体で記録した全30巻の大著です。

    ここで一つ、立ち止まって考えたいことがあります。

    正史とは、何のために書かれるのでしょうか。

    それは「過去の事実を客観的に記録する」ためだけではありません。正史には、その時代の政治秩序を正当化するために編纂されるという性質もあります。中国の歴代王朝もまた、前王朝の歴史を書き直すことで、自らの正統性を確立してきました。新王朝にとって不都合な前王朝の記述は削られ、組み替えられ、新しい意味を与えられます。

    このことを念頭に置いて、もう一度、日本書紀を見てみましょう。


    📝三つの不在

    日本書紀には、日本の歴史において重要な三つの「不在」がある。

    第一に、邪馬台国の不在。

    中国の『三国志』に明確に記録されている邪馬台国の名は、日本書紀のどこにも登場しない。卑弥呼の名も、一度も出てこない。中国側ではこれだけ詳細に記録されている存在が、日本最古の正史には一切書かれていない。

    第二に、倭の五王の不在。

    『宋書』に名を残す讃・珍・済・興・武の五人の王たちもまた、日本書紀には具体的に登場しない。彼らは中国皇帝に朝貢を行い、軍事的称号を授けられ、東アジアの国際舞台で活動していた人物である。にもかかわらず、その活動の痕跡が見られない。

    第三に、秦王国の不在。

    第5回で見たように、608年に隋使・裴世清が立ち寄って目撃した「華夏に同じ」と言われた秦王国は、日本書紀には登場しない。裴世清の来日そのものは記紀にも記録されているにもかかわらず、彼が見た風景の中の最も重要な部分だけが、日本側の正史から消えている。

    これらは果たして、偶然の欠落だろうか。

    中国側にここまで明確に記録されている事象が、日本最古の正史からこれほど一貫して欠けている。これを「うっかり書き落とした」と説明することは、どう考えても無理がある。これらは全て、「書かれなかった理由」が共通していると考えている。

    📝一人の宮司の言葉

    では、これらの不在をどう読み解くか。

    ここで、一つの言葉を紹介したい。

    「元伊勢」とも呼ばれる丹後一宮・籠神社の宮司を務めた海部穀定氏は、著書の中でこう述べている。

    あまりにも神秘化された過去をそのままに歴史事実と考えることも、又、それを全くの神話伝説とし、歴史には縁の遠いものとして顧みようともしないことは、そのいずれもが、大いなる間違いなのである。

    『元初の最高神と大和朝廷』海部穀定・著

    代々、籠神社の宮司を務めてきた海部氏は、原初より彦火明命の血脈一系で奉仕しており、大化の改新以前は丹後や若狭の海人族を統率、中国との交易を行っていた有力豪族とされる。その立場からの言葉は重い。史料・文献絶対主義ではあってはならない、という示唆だ。神話を神話のまま史実と見なさず、鵜呑みにせず、しかし神話の中に埋め込まれた歴史的記憶を読み捨てない。

    この姿勢で日本書紀に向き合うと、不在は不在ではなくなる。意図的な編集の痕跡として、読み解けるようになる。海部氏は、大変に大きな示唆を与えてくれた。

    私が知る限り、この海部氏の言葉を軸に日本の古代史に『国家形成』の観点から核心まで迫った人はいないと考えている。

    📝「捏造」とは違う、政治的編集

    ここで、よくある誤解を解いておきたい。

    日本書紀の編集を語ると、すぐに「捏造」「隠蔽」という言葉が出てくる。しかし、これは制作者側の意図を無視した、至極現代的な評価である。

    正史の編纂とは、本来そういうものだった。

    中国の歴代王朝でも、新王朝が成立すれば前王朝の歴史を書き直し、自らの正統性を強調する。それは捏造ではなく、政治的合理性に基づく編集である。当時の人々は、それが正史の役割だと理解していた。

    日本書紀が編纂された8世紀初頭、日本という国家は、東アジアの国際秩序の中で新しい立ち位置を獲得しつつあった。冊封体制から離脱し、独自の天皇号を名乗り、律令制度を整備する――そういう国家にとって必要なのは、新しい正統性を語る歴史だった。

    中国皇帝から称号を授かることで王であった時代の歴史。それは、新しい国家にとって都合が悪い。

    だから、その歴史は表の正史から退けられた。

    代わりに、天照大神から神武天皇へと続く神話的系譜が、日本国家の起源として提示された。中国の権威とは無関係に、最初から独自の王統が存在していた――そういう物語が、新しい正統性として語られるようになった。

    📝比較してみる

    これは、東アジアの他の国々と比較すると、際立って異例である。

    朝鮮半島の新羅・百済・高句麗もまた、それぞれ独自の正史を持っていた。しかしそれらの史書は、中国皇帝との冊封関係を前提として書かれており、王統の正統性の根拠を中国の権威に求める構造を持っていた。

    新羅の『三国史記』は、中国史書の体裁を模範としている。百済・高句麗もまた、中国皇帝からの冊封を受けた王朝として自らを位置づけていた。ベトナムも、中国との冊封関係から独立しようとした歴史を持つが、その場合も「中国から独立した」という歴史的事実の記述として独自性を表現した。

    これに対して日本書紀は、中国皇帝への言及をほぼ持たない。

    天照大神という独自の最高神から王統が始まるという構造は、中国の権威体系とは無関係に日本の正統性を成立させるための、意図的な設計である。

    「最初から中国とは無関係な神話的王統が存在していた」という構造を正史として提示した事例は、東アジアにおいて極めて異例である。

    日本が冊封体制下にあったという事実は、日本の正史に書かれなかった。

    これは、編纂者たちの選択だった。

    📝神功皇后という再構成

    日本書紀の編集の妙を、一つ具体例で見てみたい。

    日本書紀には、神功皇后という女性が登場する。彼女は朝鮮半島の新羅・百済・高句麗を征服したという「三韓征伐」の物語の主人公として描かれる。

    ところが、この神功皇后の治世とされる時代は、奇妙なことに、卑弥呼の活動時期とほぼ重なる。

    ここから一つの仮説が浮かぶ。

    日本書紀は、卑弥呼の時代の歴史を「神功皇后の物語」として再構築したのではないか。

    卑弥呼という、中国皇帝から「親魏倭王」の称号を授けられた存在は、新しい国家理念には都合が悪い。中国皇帝の権威に依存して正統性を得た存在を、独自の王統を語る正史に書き込むわけにはいかない。

    そこで、卑弥呼の時代の歴史的実態は表から退けられ、代わりに神功皇后という独自の英雄的人物の物語として再構築された。

    これは、史実を消去するのではなく、別の物語構造へと転換することで政治的意味を変質させる――高度な編集技法である。(但し、卑弥呼と神功皇后を同一人物だ、と断定することはしないし、神功皇后が架空の人物であったということも断定はしない)

    📝1300年続く「読みにくさ」

    この編集の技法は、極めて精巧である。

    中国史書という反証可能な一次資料が存在する中で、それと矛盾しない範囲で、しかし中国の権威体系とは切り離された形で、日本の王統の歴史を再構築する。これは、編纂者たちが高度な歴史的意識と知識を持っていたことを示している。

    その結果として、現代まで続く「ある状態」が生まれた。

    倭の五王を歴代天皇の誰かに比定するという「もっともらしい」歴史解釈も、実はこの編集の上に成立している。だから比定はいつまでも辻褄が合わない。卑弥呼の正体探しも、邪馬台国の所在地論争も、編集された歴史枠組みの中で議論しているうちは、決着しない構造になっている。

    1300年後の現在に至るまで、この編集効果は続いている。

    書かれなかった歴史は消えない。形を変えて残る。その「消え方の構造」を読み解くことが、古代日本史の謎に近づく一つの道筋である。

    📝誰が設計したのか

    ここまで来て、当然の問いが浮かぶ。

    これだけ精巧な編集を、誰が、どうやって設計したのか。

    8世紀初頭、日本では律令国家の制度整備が進んでいた。中央集権的な官僚制度が整えられ、税制・軍事制度が体系化されていく。日本書紀の編纂は、この制度整備とほぼ同時並行で進められていた。

    理念と制度が、同じ時期に同時に作られている。

    この同時並行性は、偶然ではない。理念は制度として定着して初めて長く生き残る。制度は理念によって支えられて初めて正統性を持つ。両者は同じ一つの設計の二つの側面だった。

    その設計の中心にいたと考えられる人物がいる。

    藤原不比等である。

    (連載 第6回おわり)


    👉️次回予告✊️

    第7回では、藤原不比等という人物に正面から向き合いたいと思います。残すは第7回、第8回の2回となりました。

    不比等は天皇にはなりませんでした。権力の頂点に立つことを目的としなかったのです。中国の歴史には、呂不韋という政治設計者がいました。呂雉という外戚政治の典型もいました。彼らがどのように国家に関わり、どのような結末を迎えたのか――ご存じの方も多いと思います。

    不比等は、彼らの歴史を知っていたのでしょう。そしてそこから、まったく異なる道を選んだのです。

    その選択が、1300年続く国家の鍵を握っているのです。




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