
連載⑦|日本書紀に「邪馬台国」が書かれなかった理由
第7回:ある政治家の選択――天皇にならなかった男
7世紀末から8世紀初頭にかけての日本では、二つの大きな作業が同時に進んでいました。
一つは、律令国家としての制度整備。
もう一つは、日本書紀の編纂。
大宝律令(701年)、日本書紀完成(720年)。わずか二十年足らずの間に、国家の制度と国家の理念が、ほぼ同時に作られているのです。
これは偶然でしょうか。
当たり前すぎて、誰も疑問に思いませんでした。
国家を運営するためには、二つの要素が必要です。「何を信じるか」を定める理念と、「どう動くか」を定める制度。前者がなければ国家は求心力を失い、後者がなければ国家は機能しません。両者は国家というヴィークル(乗り物)を走らせるための両輪のようなものです。
この両輪をほぼ同時に設計した時代が、8世紀初頭の日本でした。
そしてその設計の中枢にいたと考えられる人物が、藤原不比等です。今回はこの藤原不比等にスポットを当ててみます。
📝不比等という人
藤原不比等は、藤原鎌足の子として生まれた。
鎌足は、中大兄皇子と協力して蘇我氏の政治体制を打倒した「乙巳の変」(645年)で知られる人物である。日本の政治史を、豪族連合的な体制から中央集権的な国家体制へと転換させる契機を作った。
その鎌足の子・不比等は、父の世代が始めた政治改革をさらに発展させた。
彼の業績を簡単に列挙すると、以下のようになる。
✅️大宝律令の制定に関与:中央官僚機構の整備、税制・軍事制度の体系化に深く関わった。
✅️皇室との独自の外戚関係を構築:長女・宮子を文武天皇に嫁がせ、生まれた子・首皇子(後の聖武天皇)を天皇位に就けた。さらに三女・光明子を聖武天皇の皇后に立てた。皇族以外から皇后を出した最初の例である。
✅️藤原氏の基盤を築いた:藤原氏が後に摂関政治を担う制度的基盤を、彼が作った。
そして、忘れてはならない事実がある。
不比等は、日本書紀の編纂が進められていた時期の、政治の中心人物だった。
日本書紀の編纂責任者として史料に登場するのは舎人親王であって、不比等ではない。だから「不比等が日本書紀を書いた」と断定することはできない。しかし、当時の政治状況を見れば、彼がその思想的背景に深く関わっていた可能性は否定できない。
理念の構築と制度の構築。両方の中心に、彼がいた。
📝中国という教科書
不比等の世代の日本の政治家たちは、中国の政治思想を深く学んでいた。
7世紀から8世紀の東アジアにおいて、中国文明は圧倒的な知的中心だった。政治制度、法律、軍事、外交、歴史編纂――国家を運営するためのあらゆる知識体系で、中国は群を抜いていた。
日本の律令も、中国(唐)の制度を参照して整備された。
しかし、不比等たちは中国の制度をそのまま導入したわけではない。
ここが重要なポイントである。
中国には、国家設計に関わった偉大な政治家たちがいた。彼らの成功と失敗を、不比等は知っていた。そして、その教訓から、独自の選択をした。
具体的に、二人の中国人政治家を見てみたい。
📝呂不韋――政治設計者の運命
一人目は、呂不韋である。
戦国時代末期、秦国の制度と思想を体系的に整備した政治家として知られている。もともと商人であった呂不韋は、政治の世界に深く関わり、後の秦始皇帝となる秦王政の即位を支えて宰相となった。
彼の名とともに語られる『呂氏春秋』は、政治思想や統治原理を体系的にまとめた書物として知られる。君主、官僚、軍事、経済――国家を構成するさまざまな要素を整理した、いわば国家の総合設計書だった。
秦王政が幼少の時期、呂不韋は事実上の摂政として政務を代行し、同時に国家の制度設計を進めた。彼の業績は、後の秦帝国の基盤になった。
ところが、秦王政が成長すると、呂不韋の政治的影響力は次第に弱まる。やがて失脚し、最終的には命を絶つことになる。
そして秦王政の死後、秦帝国そのものも短期間で崩壊した。
国家の制度や思想は発展しても、王朝そのものは長く続かない。政治設計者と王朝の運命が、共倒れする。
これが、中国における国家設計者のプロトタイプ的な末路だった。
📝呂雉――外戚政治の悲劇
二人目は、呂雉である。
前漢の初代皇帝・劉邦の皇后であり、劉邦の死後は皇太后として政権の実権を握った人物として知られる。
呂雉は皇帝の母という立場を利用して、政治の実権を掌握した。皇帝そのものは存在していたが、実際の政治判断は皇太后とその一族(呂氏)が行う。皇帝の権威は維持されつつ、政治の実務は別の主体が担う――これは、ある意味で巧妙な仕組みだった。
しかし、この体制は長く続かなかった。
呂雉の死後、漢王朝の内部では、呂氏が王朝を乗っ取ろうとしているという警戒が強まる。最終的には「呂氏の乱」によって呂氏一族は滅ぼされ、政権の実権は皇族の手に戻された。
呂雉の失敗の本質は、彼女が権威と権力の両方を握ろうとしたことにある。皇帝の権威に挑戦しているように見えれば、王朝の構造そのものが不安定になる。中国では皇帝そのものが政治権力の中心であるため、外戚が過度に権力を握ると、必ず反発が起きるのである。
呂雉は権威と権力の両方を握ろうとして、結果的に両方を失った。
📝不比等の選択
呂不韋と呂雉。
二人の中国人政治家の物語は、不比等にとって貴重な教訓だった。
国家を設計しても、王朝とともに消える運命を辿った呂不韋。皇帝の権威を奪おうとして滅ぼされた呂雉。中国式の政治構造の中では、有能な政治家ほど、最終的に潰されるか、巻き込まれて消える。
不比等は、別の道を選んだ。
彼は天皇にならなかった。
皇位を狙わなかった。
権力の頂点に立つことを目的としなかった。
しかし同時に、政治から退いたわけでもなかった。律令制度を整備し、皇室と婚姻関係を結び、藤原氏の基盤を築いた。彼は確実に政治の中枢にいた。
彼が握ったのは「権力」であって、「権威」ではなかった。
天皇の権威には決して触れず、その権威を支える側に立ち続けた。
これが、呂不韋とも呂雉とも違う、不比等が導き出したスタンスだった。
📝太公望に擬えられた男
不比等の没後40年、天平宝字四年(760年)、朝廷は不比等にある称号を贈った。
「淡海公」
この称号には、明確な由来が記されている。太公望呂尚が斉に封じられた故事に因む――そう、当時の朝廷が公式に説明している。
太公望といえば、周王朝の成立を支えた稀代の軍事戦略家である。『六韜』『三略』という兵法書の作者として伝えられ、中国における国家設計者の代表的な存在として記憶されている。
奈良時代の朝廷は、不比等を太公望呂尚――周王朝の成立を支えた国家設計者――の日本における対応者として位置づけたのである。
これは後世の評価であり、不比等本人の意図を直接証明するものではない。しかし、当時の朝廷が彼の業績をそのように理解していたことを示す、重要な傍証である。
そして偶然ではないが、不比等の父・鎌足は、伝承によれば『六韜』『三略』を愛読していたとされる。前者は太公望の指南書として有名であり、後者は太公望が書いたと言われている。
父子二代にわたって、太公望と接続しているのである。
📝設計の本質
不比等が設計したのは、特定の人物が政権を握り続ける仕組みではなかった。
それは、誰が政権を担っても国家が続く仕組みだった。
天皇は権威として存在し、政治の実務には直接関与しない。政治の責任は政権が担い、政権が失敗すれば交代する。しかし天皇の王統は続いていく――。
このような仕組みのもとでは、政治家個人は失脚しても、国家そのものは揺らがない。中国では皇帝が政治権力の中心だったために、皇帝の権威が揺らげば王朝そのものが交代した。日本では、政権の失敗は政権の交代であって、王朝の交代ではない。
藤原氏の摂関政治、院政、武家政権、明治以降の近代国家、戦後の象徴天皇制――政治の実務を担う主体は何度も交代した。しかし天皇の王統は維持された。天皇制は揺るがないのだ。
不比等が設計した仕組みは、1300年を経た今も機能している。
彼は天皇にならなかった。それどころか、自分の名を歴史の表舞台に大きく刻むことさえしなかった。
しかし、彼が設計した仕組みは、彼自身よりもはるかに長く生き続けている。
それが、一人の政治家の選択が辿り着いた、最も静かで最も深い結末である。
👉️次回予告✊️
最終回となる第8回では、ここまで見てきた問いに、最終的な答えを提示したいと思います。
なぜ日本が王朝交代を経験しなかったのか。
その答えは、地理でも民族性でもありません。英雄の存在でも、武力の強さでもなかったのです。
400年の構造転換と、ある政治家の選択。それらが組み合わさって、日本という国家の長期安定をもたらしたのです。
そしてこの「設計」の全貌は、書籍として近日刊行予定です。