
【ほどく時間 #57】光を当てるより、光源でありたい
「仏になりたい」と思った理由を、
昨日あらためて言葉にした。
正解を示す人ではなく、
相手が自分で見えるように
そっと光を注げる存在。
その感覚は、
いまの自分にとても近かった。
でも、
一晩たって
少し違う感覚が出てきた。
光を当てる、という言い方にも
どこか“こちら側からの意図”が
残っている気がした。
照らそうとする。
見えるようにしようとする。
その意識がある限り、
まだ少しだけ
「やる」が残っている。
もちろん、
何かをしたい気持ちは今もある。
少しでも楽になってほしい。
気づきが生まれてほしい。
その願いは、
これからもなくならないと思う。
でも最近は、
少しずつ感覚が変わってきた。
光を当てるというより、
自分自身が光源でありたい。
何かをしようとしなくても、
どう在るかによって
場の見え方が変わることがある。
言葉より、
姿勢のほうが残ることがある。
そう考えると、
照らすことは
行為ではなく在り方に近い。
以前の僕は、
届けようとしていた。
でも今は、
ただそこに在ることで
見え方が変わるなら、
そのほうが自然だと思っている。
光を当てるより、
光源でありたい。
それは、
何かを教えることではなく、
自分の在り方そのものが
場の静けさや安心を
つくっていくことなのかもしれない。